江戸時代その8 目次 年表 1716年〜1749年 | |
1716年 | 家継死去!次の将軍は? |
8代(暴れん坊)将軍 吉宗 | |
将軍になれなかった尾張藩主 継友 | |
新将軍ビックリ!?幕府ってこんなにやばいの??? | |
吉宗 大奥美女を大リストラ | |
享保の改革スタート | |
1717年 | スーパー裁判官 大岡忠相 町奉行となる |
1720年 | 江戸町火消し「いろは四十七組」を設置 |
1721年 | 目安箱設置 小石川薬園を設置 |
1722年 | 吉宗 もう誰にも遠慮しないぜ! |
吉宗 上げ米制度を作る | |
1723年 | 心中処罰令が出る |
1727年 | 天一坊事件!吉宗の御落胤か!? |
吉宗の女性関係 | |
1730年 | 徳川御三卿 田安家・一ツ橋家ができる |
1732年 | 江戸三大飢饉 享保の大飢饉 |
1735年 | 青木昆陽 サツマイモを作る |
この頃の天皇家は? | |
1739年 | 吉宗ライバル 尾張宗春 隠居させられる |
1745年 | 9代将軍家重 |
家重の優秀すぎた息子 家治 | |
超ヤキモチ焼 家治の母 お幸の方 | |
江戸時代その8 1716年〜1749年 |
1716年 家継死去!次の将軍は? |
家継8歳になった時、風邪をこじらせ容態は悪化。 月光院と間部詮房は大慌て。とうとう危篤状態になってしまったのです。 家宣の正室だった天英院(照子)は、月光院の専権に対抗すべく家継継嗣問題にガンガン入ることになりました。 後継ぎとして有力だったのが尾張の吉通でしたが死んでしまい、吉通の子五郎太も死んでしまったため天英院は上野館林藩主である松平清武をプッシュしてきました。 清武は綱重の三男として生まれ、家宣の実の弟だったんですが清武は養子に出された後、その家の家督を相続したため将軍家の「家臣」の家を継いだのです。 そのため月光院は「一度臣下に下った者を後継ぎにはできない!」と大反対。 また家宣の弟なので年齢が54歳。子供もいないため、もし将軍になったとしてもまた継嗣問題が浮上する!ていうので、天英院は諦めました。 次に天英院が目をつけたのは、紀伊の徳川吉宗でした。 吉宗は紀州藩主になってから財政建て直しに大成功していたのでおメガネにかなったのでした。 吉宗の対抗馬は尾張の徳川継友。吉通の弟でまだ24歳でした。 が、「将軍家は古くから尾張を避ける習慣があるので、尾張から将軍を受け入れるのはいかがなもんか?」とケチがつきはじめた。 これは家光の時に、家康9男の直義が将軍の座を狙おうとしてたため「尾張は隙あらば天下をとろうとしている」ということとなり将軍家は尾張をなんとなく嫌っていたのでした。 とうとう家継が死去しました。 |
1716年 8代(暴れん坊)将軍 吉宗 |
家継死去後、城内には御三家である継友らも呼ばれていました。 そして天英院から「次の将軍は吉宗である」と発表されたのです。 32歳の新将軍の誕生でした。ちなみに吉宗は身長が180センチあり、色黒のアバタ面であまりかっこよくなかったらしい。 吉宗は「私よりもふさわしいお方がおります」と継友らを押したんだけど、天英院がそれを却下しました。 紀州では吉宗が将軍になったことを知りビックリ。 吉宗が江戸にとどまることになったと聞いた家臣らは、何がなんだかさっぱりわからなかった。皆まさか吉宗が将軍になるとは思ってもみなかったのです。 領民らは嬉しいよりもこれから紀州藩はどうなるんじゃ?と心配しまくった。 新将軍となった吉宗は、まず間部詮房と新井白石をクビにしました。 そして紀州で行った改革を全国規模に拡大し「享保の改革」と呼ばれることとなるのです。 |
将軍になれなかった尾張藩主 継友 |
継友はこの継嗣問題の時尾張藩主になってまだ3年でした。 そのため実績があまりなく、借金だらけの紀州を立て直した吉宗が将軍となれたのです。 尾張では絶対に将軍になれると思っていたので、一同ビックリしました。 だけど継友、将軍にならなくて良かったかも・・・。 というのも、尾張の藩財政は以後もぼろぼろとなり、とうとう名古屋城のシンボルである金の鯱(シャチホコ)にまで手をつけてしまったのです。 金の鯱は価格にすると30億円以上。 財政難を立て直すことのできなかった継友はとうとう1726年に「金の鯱を純度の低い金で作りなおせ!」と命令したのです。 このことが庶民にバレたら恥ずかしいってんで、職人らは口止めされコッソリと行われました。 以後尾張藩では1826年と1846年にも財政が苦しくなった時に取り替えられ、だんだんと質の悪いものとなっていくのです。 |
新将軍ビックリ!?幕府ってこんなにやばいの??? |
吉宗は早速老中らを呼び会議を開きました。 この時の老中は筆頭に井上。そして土屋・阿部・久世・戸田・の5人でした。 吉宗は現在の様子を筆頭老中の井上に尋ねた。 すると井上の代わりに土屋が答えた。 「この頃の武士は華やかな元禄バブルによって堕落し、贅沢な暮らしに慣れてしまいました。みな自分の務め以外のことは、何が起こってもそ知らぬふり致すのが武士の常識となっております。また家名を守るのに必死で、自分達を向上させるという志は全くございません。上役の顔色を伺う者ばかりでございます。」と延べました。 さらに吉宗が「幕府の一年間の収支と支出はどれほどか?」と訪ねると、全員「存じておりません」と答えたのです。 ・・・これはヤバイ・・・吉宗はあまりの無能さに驚いた。 自分が将軍になるのを協力してくれた老中らであるが、政治についてはこいつらの力を借りることはできない。そう思った吉宗でありました。 そして紀州から優秀な家臣を江戸へ呼び寄せるのですが、この時も江戸の老中らに失礼がないようにしろ!と厳重注意してました。 そしてこの5人の老中が死んだりして自然消滅するのを待ったのです。 |
吉宗 大奥美女を大リストラ |
まず吉宗は金のかかりまくる大奥に目をつけました。 この頃大奥にかかる人件費・服飾費などは莫大な額に上っていたからです。 一応天英院に事情を話し、許可をもらい一斉取り締まりにかかったのです。 吉宗は「大奥の中の美女50人をリストアップしてくれ」と言いました。 これには大奥大変なことに! 「もしかしたら将軍様の側室になれるのかもしれない!」ということになり、お年寄りらも自分の配下にいる女性をなんとか側室にしなきゃ!と大奮起! 中傷・ヤッカミ・ヒガミが入り乱れ、なんとか50人をリストアップ。 そして吉宗に提出しました。 すると吉宗「この者らを首にしろ。美人なら大奥を出ても結婚できるだろ?不美人はなかなか縁がないので、これからも大奥においておく」と言ったのです。 これには正面きって反抗できる人はいませんでした。美人の虚栄心をくすぐるという大リストラ作戦に出たのでした。 |
1716年 享保の改革スタート |
元禄バブルがはじけ、貧乏になった幕府を助けるべく吉宗は30年に及ぶ「享保の改革」をスタートさせました。 そして「享保の改革」によって幕府中興の祖と言われるようになります。 享保の改革でやったことを簡単に説明すると・・・ ・吉宗は有能であれば、家柄の格にこだわらない人事を行いました。有名なのが大岡忠助です。 ・小石川養成所を設立 ・目安箱を設置 ・いろは47組を設立 ・公事方御定書を定めた ・足高の制を定めた→身分が低くて家のことが心配な人が重要なポジションに抜擢されても安心して仕事ができるように給料を増やした。 ・上米の制を定めた→諸大名に米を上納させる代わりに参勤交代の期間を短縮するというもの ・青木昆陽(こんよう)に命令しサツマイモや朝鮮人参の栽培に力を入れた とまぁ色々チャレンジしましたが、全て成功したわけではありません。 せっかく吉宗がガンバってお金を貯めたんだけど、享保の大飢饉が始まったりとトラブルが色々と発生してしまうのです。 |
1717年 スーパー裁判官 大岡忠相 町奉行となる |
吉宗は将軍の権威を高め政治を立て直していくには、自分の手足となり働いてくれる有能な部下が必要と考えました。 そこで大岡忠相を江戸南町奉行に抜擢したのです。この時忠相41歳でした。 1677年に旗本の家の四男として生まれた忠相は10歳の時に養子に出されました。 そして評定所の一員となります。かなりの出世コースだったそうです。 で、今度は伊勢の山田奉行に任命されました。 そして優秀な忠相の名は吉宗にも伝わって言ったのです。 吉宗は忠相を江戸へ呼び寄せ、南町奉行に任命したのでした。 大岡忠相は江戸末期に書かれた「大岡政談」という本によって、胸のすくような名裁判ぶりを書かれました。 ですが殆どが作り話で、他の奉行が名裁判をしたとしても全て大岡忠相のお手柄となってしまっているのです。 といっても、大岡忠相が優れた奉行(裁判官)であったことは間違いなく、20年の間に裁いた件数は25万6200件。1日平均36件裁いてたことになります。働きすぎだねー。 |
1720年 江戸町火消し「いろは四十七組」を設置 |
「火事と喧嘩は江戸の花」といわれるほど、江戸では火事がめちゃくちゃ多かった。 10年に1度は大火事が起き、江戸中大パニックになってるというのに消火制度は全く整っていませんでした。 大名と旗本がそれぞれ自分達専用に火消しを雇ってるだけで、町家の火事は町人達がそれぞれ力を合わせて消防するしかなかったのです。 そこで大岡忠相は自分の屋敷に町の代表を呼び寄せ「その方たちの所に町火消しを置きたい。元気のいい町の若者を選りすぐって選んできてくれ」とお願い。 そして設立されたのが「い」組から「す」組までの「いろは四十七組」 ちなみに「へ」「ひ」「ら」はなぜか嫌われて「百組」「千組」「万組」に変えられました。 最初は商家の店員などで組織されていたんだけど、だんだんと町ごとに雇われたとび職など専門の火消しに変わっていき、火消しは江戸のヒーローとなってお相撲さんと並ぶ「女の子が結婚したい職業」となっていくのです。 |
1721年 目安箱設置 小石川薬園を設置 |
吉宗は紀州時代に行っていた「訴訟箱」を「目安箱」と改名し評定所の前に設置しました。 江戸の庶民からの声を広く聞こうとしたのです。 ある浪人が「吉宗の政治は紀州時代の気質が抜けておらん。ここは江戸である!」という意見を書いたところ吉宗はその堂々たる手紙を褒め、役人らにその手紙を見せたりしました。 また江戸・小石川の医師 小川笙船(しょうせん)の「ビンボー人のための病院を作ってくれ!」という投書によって「小石川養成所」を設立。 内科・外科・眼科などを設置しました。 最初はみんな不審がって行かなかったんだけど、そのうちだんだんと行くようになり部屋数が足りなくなるほど繁盛(?)していきます。 |
1722年 吉宗 もう誰にも遠慮しないぜ! |
1717年に老中の阿部が辞任。 すぐ後に土屋も辞任し、井上・久世は死亡。 残ってるのは戸田だけど、もう72歳になってたので権力は殆どなし。吉宗にとって遠慮する相手はいなくなりました。 そして水野忠之を老中に任命。 水野は細かいところにも気がつく優れた人物で、吉宗は財政専門の役職に水野忠之をつけました。 1723年には松平乗邑(のりさと)を老中に任命。38歳の若さで老中になり、人々は大騒ぎとなった。 |
1722年 吉宗 上げ米制度を作る |
幕府の逼迫した財政を立て直すため、諸大名に対して上げ米制度を出しました。 上げ米制度とは一万石につき、その百分の一の米を幕府に上納するようにというもの。 その代わり参勤交代による江戸在住を半年に短縮するというものです。 一年間江戸にいなければならないとこを半年にしてもらえるならと、諸大名はOKしました。 江戸は物価も高いし、すべて現金払いなのでこの方が負担が軽かったのです。 |
1723年 心中処罰令が出る |
1600年代後半から「心中」が大ブームになりました。 ブームのきっかけとなったのは1703年天満屋遊女お初と醤油屋徳兵衛が大阪曽根崎天神森で心中したのを、1ヵ月後近松門左衛門が人形浄瑠璃「曽根崎心中」として上演し、大当たりしたのがきっかけとなりました。 その後も1711年に質屋の16歳の娘お染と14歳の久松が心中。 これはお染が妊娠し、怒った父親が久松を土蔵に閉じ込めたことから起きてしまった悲劇の心中。 もー次々と心中がおき、それを上演しちゃったもんだから、困った幕府は「心中」を「相対死(あいたいじに)」と呼び方を変えてお触れを出しました。 ・心中した者の葬式は禁止 ・生き残ったら斬首 ・男女双方生き残ったら3日間日本橋で素っ裸でさらしもの(死体もさらしもの)そして以後は「非人」とする。 そして心中に関する本や芝居は禁止となり、エロ本の類も禁止となったのです。 |
1727年 天一坊事件!吉宗の御落胤か!? |
夏ごろ品川の常楽院という寺に住みついた修験者の天一坊が「私は8代将軍吉宗の御落胤である。近々城に呼ばれて大名になることになっている」と言いふらし、頼ってくる浪人を家来にしたり商人たちから金品をもらったりするという事件が。 近所の人達は野次馬となり見物に押しかけまくった。 浪人の本多儀左衛門もその噂を聞き、家来にしてもらおう!と会いに行ったがどうも胡散臭い。 関東郡代屋敷に行き、用人である遠山郡太夫に「天一坊という方が吉宗公の御落胤というのは本当でしょうか?」と問い合わせたのです。郡太夫はビックリ!もし天一坊が言ってることがウソならかなりの重罪。だけどもし本当なら大問題!将軍継承に大きな影響が出ちゃうからです。 うかつに手を出したらヤバイなぁ・・・と郡太夫は関東郡代の伊那半左衛門に相談。 が、半左衛門も郡太夫と同じくどうする・・??といった感じでとりあえず様子を見ようということに。 が、そうこうしている間に天一坊の周りはますます騒がしくなっていく。 プレゼント攻撃されまくりで、さらに徳川の家紋の葵の紋が描いてある道具なんかも置かれちゃうし、さらに浪人たちも家臣のように振舞ったり・・・。騒ぎがますます大きくなってしまったので半左衛門らは天一坊に直接話しを聴くことにしたのです。 調べてわかったことは天一坊は幼い頃に母と死別したが、母は以前紀州の屋敷に奉公していた時にあるお方の寵愛を受けて妊娠。里帰りして天一坊を産みました。 その母がいつも「お前は由緒あるお方の子供。世が世なら人の上にたつ人間になれたのに・・・」と言っていた。というのです。 さらに困ったことに将軍吉宗も「覚えがある」と言ったのです。 吉宗が16歳の時には和歌山にいたし、さらにその頃一休みしていた農家で気に入った女性に手をつけたというのです。 老中らもどうしたもんか・・・・と悩みまくり。 吉宗は結構自分の息子かも・・・と思い始め、対面しようとしました。 そこに「しばしお待ちを!」と出てきたのが大岡忠相でした。 忠相は「上様の気持ちはわかりますが、これは将軍家の後継ぎにも関わる重大事であります。私に調べさせてください」とお願いしたのでした。 そして忠相が調べていくと、天一坊は吉宗が手をつけた女性を殺し、お墨付きを盗みご落胤と名乗ったことがわかったのです。 天一坊は獄門の刑となり、のちに「天一坊事件」として歌舞伎に取り上げられるようになったのです。 |
吉宗の女性関係 |
吉宗は女性大好きでした。目の覚めるような美人よりも、健康で子供を産めそうな女性がタイプ。家康と似てますネー 正室は真宮理子(さなのみやまさこ)という京都の女性。 吉宗が23歳の時に結婚。理子は16歳でした。が、20歳の時に流産してそのまま死去。 側室はお須磨の方。紀伊藩の上級藩士である大久保家の娘です。 大奥に奉公にあがったところ、吉宗に召されて寵愛を受けました。 家重を出産しました。次男も出産したんだけど、すぐ死亡し、お須磨も体調を壊して26歳で死去 側室おこんの方も紀伊藩士の娘。田安宗武(むねたけ)を出産します。 側室お梅の方は京都浪人の娘。 16歳の時に吉宗に召されました。一ツ橋宗尹(むねただ)を出産。 側室お久免(くめ)の方も紀伊藩士の娘。81歳まで生きて側室の中で一番長生きしました。 その他にも3人ほどいたらしい。 |
1730年 徳川御三卿 田安家・一ツ橋家ができる |
吉宗には三人の男児がいました。 長男の家重は体が弱くそのうえ酒とかが大好きなだらしない男でした。 その点次男の宗武は武術・学問に優れた子供で、吉宗は本当は宗武に跡を継がせたかった。 だけど家康以来徳川家は嫡男が継ぐと決まっていたので仕方なく家重に決めました。 また家重の息子 家治がとても優秀だったので、こっちに賭けていた吉宗。家重よりも家治に全てを教え込みました。 で、次男と四男はどうしたかというと、どこかの藩に養子には出さず、16歳になった宗武に江戸城田安門内に屋敷を与え「田安家」を作らせました。 そし1741年に21歳の四男宗尹に一ツ橋家を作らせました。 御三家のように大名ではなく「身内」の扱いでした。時代とともに御三家との縁は薄れていき、吉宗は代わりによりつながりの強い分家を作ったのです。 その後吉宗の嫡男で9代将軍となった家重が次男に「清水家」を作らせ、以後「御三卿」として御三家を凌ぐようになっていくのです。 |
1732年 江戸三大飢饉 享保の大飢饉 |
吉宗の享保の改革は成功しつつあるかに見えました。 ですがここで瀬戸内海の方からとんでもないニュースが入ってくるのです。それは「イナゴの大発生」でした。 コガネムシほどの大きなイナゴが大量に異常発生し、一夜のうちに数万石を食い尽くしてしまうのです。 そして次第にイナゴは近隣へ移動し、大阪のほうまで被害は及びました。 イナゴに食い荒らされた米は400万石以上に及び、そのため何万人もの人々が餓死してしまったのです。 米の値段は急騰しまくりました。 そして江戸では「米がこんなに手に入らないのは、商人の不正買占めのせいだ!」となってくるのです。そしてついに江戸の町人らが怒り狂って商人の家を襲い、帳簿類を破り捨てるという最初の「うちこわし」が始まってしまったのです。 米将軍と言われた吉宗の人気に翳りが見えはじめました。 |
1735年 青木昆陽 サツマイモを作る |
イナゴのおかげで日本中大飢饉に襲われ、何万人もの人々が死にました。 そんな中、薩摩だけは被害があまりなく、薩摩芋を作って米の代わりにしていたというのを聞きつけました。そして薩摩芋が注目されてきたのです。 そして吉宗は以前から「こいつは賢いから使えるだろう」とチェックしていた儒学者の青木昆陽に薩摩芋を作るように命じました。 そして薩摩芋は女性達に大人気となっていくのです。 |
この頃の天皇家は? |
はっきりいってこの頃の天皇家はナメられっぱなしでした。 でも一応は「天皇」なので、幕府は天皇家が力を持たないよう幕府も色々と対策を取っていました。 天皇が円熟期に入ろうとする前に辞めさせ、未成年またはちびっこ天皇を即位させまくっていたのです。ちびっこなら政治力もないし判断もできないだろうしってワケです。 吉宗の頃は霊元天皇というのが即位してたんだけど、この天皇がある時「ボク都鳥ってのがどんな鳥か見てみたぁーい!」と言ったところ、吉宗は自分で都鳥を射止めて霊元天皇にプレゼントしました。 箱を開けてビックリ!矢が突き刺さったまんまで腐りかけてた都鳥が出てきたのです。 いかに幕府が天皇家をナメきってるかというエピソードでした。 |
1739年 吉宗ライバル 尾張宗春 隠居させられる |
尾張家の藩主宗春は尾張三代当主の網誠の20男として生まれました。 20男なので吉宗と同様冷や飯食いで、不幸な少年時代を送っていました。 ところが上がバッタバッタと死んでしまい、宗春にお鉢が廻ってきたのです。 そして1731年に吉宗から「宗」の一字を貰って宗春となり尾張8代藩主となりました。 ちなみに7代藩主の継友(吉宗と将軍を争った人)は突然死んでしまい、将軍家に暗殺されたんじゃ!?という噂が出ました。 宗春は「庶民を縛る法律は少ないほうがいい!色欲や食欲を押さえつけることはよくないぜ?やりすぎた倹約はかえって逆効果じゃ!」と、遊女街を公認しました。 もー武士は大喜び。尾張の殿様は最高じゃーと嬉しがりました。 おもしろくないのは吉宗。 せっかく幕府財政立て直しのために江戸で倹約しまくってるのに、御三家が何やっとんじゃ!と言った感じだったんですが、あまり文句も言えなかったのです。 さらに宗春「一人の人間の命は地球よりも重いぜ」「いくら頭がいいヤツでも若いうちは間違いを起こさなきゃ」「人には好き嫌いがあって、それぞれ好きなものを欲しがるのは自由だろ」と言い出しました。 現代的だよネ。 宗春は遊郭を設置したり芝居を見れるようにしたりと、吉宗が最も嫌うことをやりまくりました。 ここまでくると、宗春はあえて吉宗の政治に服従しなかったことが確定となりました。 そして吉宗の享保の改革を面白く思っていなかった人々は密かな拍手を送るようになったのです。 宗春が江戸に在住する時のいでたちはとても奇抜で、着物・羽織など全て黒ずくめで、頭には浅黄の頭巾にべっこうの丸笠。そして馬ではなく牛に乗り150センチほどあるキセルを手に持ち、お供にキセルの先端を持たせて悠然と闊歩していました。 その格好で寺などを参詣するかと思えば、モグリの遊女街を覗き歩いたりと、どこまでが遊びでどこまでが本気かわからず、吉宗からしてみれば狂気の沙汰にしか見えませんでした。 そして江戸の屋敷に嫡男の端午の節句を祝うということで、旗やのぼりをきらびやかに飾り、町民らはみんな見に行きました。 あるイベントの時のこと。礼儀として将軍がまず「肩衣」という着物を脱ぎ、将軍が脱いだのを見てから諸大名らが「肩衣」をやっと脱げるという常識がありました。で、このイベントの時に吉宗が脱ぐより先に宗春が脱いでしまい、それを見て勘違いした諸大名らがそれぞれ肩衣を脱いでしまった。 吉宗は激怒!自尊心を傷つけられた吉宗は怒って席を立って退場してしまったのです。 そして使者を出し宗春に詰問しました。これが「三ヶ条の詰問」です。 一.国でやるなら別だけど、江戸においては勝手なことをするな! 二.端午のぼりの時にみだりに町人に見物させやがったな!しかも家康公の旗まで出しやがって! 三.江戸では節約しろという法令を出してるってのに、御三家であるお前が何で守らんのじゃ! というものでした。 これに対し宗春は「まず最初に言わせてもらうが、将軍家・尾張・紀伊は同格じゃ!さらに@についてだが国では遊びまくっていて、江戸に来てる時だけきちんとやるってのは、はっきり言ってずるくないか?それこそ調子がいいヤツって感じでダメだろ?Aについてだけど、旗のぼりを見物させちゃいけないって禁制は聞いたことがないぜ?家康公の旗を出したのだって子孫繁栄を願ってのことで悪気はないぜぃ?Bだけどさ、倹約ってそもそも何よ?オレが思うに倹約とはさ、君主がその身を倹約して下々を安らかにしてやるってことだと思うよ。だけど今の幕府の倹約は無理な理屈をつけて百姓とか町人とかビンボー人からしか倹約してないじゃん?その点オレは違うぜ?オレは百姓・町人らと一緒に世を楽しむことにしてるんだ!」というものでした。 それからも宗春はやりたい放題! が、宗春の政策が危なくなってきたのです。 というのも、遊びに慣れすぎた尾張の人々がだらけてきちゃったのです。 宗春の家臣らも賭博とかにハマっちゃってろくに仕事もしなくなってしまい、だんだんと国が乱れてきてしまいました。 それをチャンスとみた吉宗は宗春に対し「国を財政難とさせた上、国を乱した罰」として隠居謹慎をを命じたのです。 その後死ぬまで宗春は謹慎生活を送りました。 死んだ後もお墓は金網をかぶされ100年後の1839年にやっと金網が外されたのです。 |
1745年 9代将軍 家重 |
この年吉宗は自らを「大御所」とし、将軍職を嫡男家重に譲りました。 家重は幼少の頃から言語障害があり、武道には全く興味を持たず酒や遊びが大好きという生活を送っていました。 それに対して優秀だったのは次男の宗武。 国学を学んだり文武両道のおりこうさんで、家重を廃嫡して宗武を後継ぎにしようという計画も出ました。 その計画の中心は松平乗邑でした。 乗邑は享保の改革の時に抜擢され、水野忠之とともに吉宗の有力なブレーンとして活躍しており、この頃は幕府NO1の実力者でした。 乗邑は宗武の母であるおこんの方や7代将軍家継の生母である月光院らとも仲が良く、宗武を次の将軍にしよう!と働きかけていました。 ですが吉宗は「長幼の序」という家康以来の大義名分を崩さず、家重に将軍を譲ることを決意したのです。 吉宗だって「なんで宗武が長男じゃなかったんだろう・・・」と常日頃思っていました。 だけど将軍家安泰のためには血筋と出生の順位は絶対だ!と決断したのです。 そして乗邑は罷免され、宗武は登城停止の処分となりました。 ちなみに一橋家もとばっちりを受けました。 3年後月光院らのとりなしによって何とか登城できるようになりましたが、宗武は二度と家重に会いたくない!と、生涯にわたり対面しなかったそうです。 そうして何とか将軍となった35歳の家重でしたが、病弱な上に遊び好きで、髪の毛はいつもボサボサ。 将軍の権威はまったくナシでした。 さらに言語障害もあり、家重の言葉を理解できたのは側用人の大岡忠光のみ。 吉宗は家重に鷹狩を勧めたり、室鳩巣(むろきゅうそう)に学問を学ばせたりと頑張ったんだけど、ダメでした。 「鷹公方」というあだ名がつくほど鷹狩がスキだった吉宗に対して、家重はお出かけするたんびにトイレばっか行ってたので「小便公方」というあだ名がつきました。 そして家重の小姓となったのが悪名高い「田沼意次」であります。 |
家重の優秀すぎた息子 家治 |
9代ダメ将軍家重の嫡男である家治。 この家治こそまさに吉宗が期待しまくった孫でした。 吉宗がバカな息子家重を将軍にしたのも、この家治がいたからこそ。 家治は幼い頃から聡明で優れた才能を持ち合わせていました。 吉宗は家治を寵愛し、全て自ら帝王学を教え込みました。 家治も吉宗の指導に良くこたえ、学問・武芸と驚くほどの上達ぶりを見せました。 ある日家治が手習いで「龍」という文字を書きました。 のびのびと紙いっぱいに書いたため、最後に打つ点の場所がなくなってしまいました。 吉宗はさて、どうするかな?と黙ってみていると、家治は堂々と紙の外の畳に点を打ったのです。 吉宗は大満足でした。 さらに吉宗は剣術の先生に柳生久寿(やぎゅうひさとし)、槍術は小南三十郎、鉄砲には中島内匠頭をつけ、鷹狩にも連れて行きました。 学問は成島道築(なるしまどうちく)をつけました。 そして将来のためにと家臣の少年達とも遊ばせました。 まさに吉宗の理想どおりの子に育っていったのです。 |
超ヤキモチ焼 家治の母 お幸の方 |
お幸の方は公家の娘で16歳の時に家重に目をかけられ寵愛を受けました。 念願の男児を出産し、御台所はすでに死んでいたため大奥権力NO1でした。 が、お幸の方はめちゃくちゃヤキモチ焼で、家重が全然あたしんとこにこない!許せない!と、とうとう新しい側室と一緒にいる家重のトコに怒鳴り込んだのです。 家重は若くてぴちぴちの側室と頑張ってたトコだっただけに、超ビックリ!「こやつを押し込めろー!」と怒鳴りました。 そしてお幸は二の丸に幽閉されてしまいましたが、困ったのは家臣たち。 まさか次期将軍の生母をこのままにはしておけないだろ・・・と、隠居している吉宗に伺いをたてて、なんとか幽閉をとくことができたのです。 |