平安時代 794年〜1192年 | ||||
でてきた源氏!源頼朝 | ||||
平氏に不満を持つ人々が続々出てきてるが、強大な権力をもつ平氏はかなり手強い。 そんな中、あの源頼朝はというと・・・。 北条時政は、政子が頼朝と結婚したことから頑張って頼朝を保護していました。 頼朝は政子と大姫とともに、静かで平穏な暮らしをしていました。 ですが、各地では平氏に対する不満が高まりまくり。 都から目代(もくだい)というお代官さんみたいなのが東国に派遣され、土地の権力者達とことごとく対立していました。 彼ら目代は、厳しい年貢の取立てを容赦なく行っていました。 目代を派遣しているのは京都の貴族ら。平氏なんかもです。 彼らは東国の武士を田舎者とバカにし、年貢だけはがっつり取っていました。 東国の武士らが反発を覚えるのは当然のこと。 が、反旗を翻すのには勇気が必要だった。 自分の国の目代を討ったとしても、そのあと反逆者の汚名をきさせられるし、逆徒討伐として周囲の豪族から攻撃を受けるだろうし・・・。 かといって、他の豪族らに「平氏やっつけようよ?」と相談し、それがバレたら大変なことになっちゃうし・・・。 東国の武士達は「ムカツク目代をやっつけて、平氏の政権を辞めさせたい。武士の国を作りたい」と心の中で思っていても、自分達にそれだけの「カリスマ」がないこともわかっていたのです。 そんな中、武士達は「源氏の嫡流」である頼朝に期待をするように。 平氏と同じレベルくらい「武士としての正統な血筋」を持っており、「源氏」というだけで、武士の棟梁としての資格があるのです。 この頃は「血」がめちゃくちゃ大事。現代では想像できないくらい「血」は大事だったのです。 頼朝は「源氏の嫡流」ということで、東国の武士達にとって大変魅力のある男なのでした。 |
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1180年4月 平氏をやっつけろ!以仁王の命令書 | ||||
平和な生活を送っていた頼朝の所に、1180年4月「平氏をやっつけろ!」という以仁王からの命令書が届きました。 頼朝は、平氏に逆らうなんてそんな大それたコト・・・と取り合いませんでした。 ところが8月、今度は平氏が源氏の直系を生かしておくのは危険と、「頼朝を殺せ!」という命令を出したのです。 困ったのは頼朝。 京都にいる乳母の妹の子供からも「頼朝さん!危ないから奥州に逃げた方がいいよ!」という手紙まできて逃げるかそれとも戦うか悩みまくり。 頼朝を討て!という話は相模の有力豪族である平氏側の大庭景親(おおばしげちか)のもとに。 大庭景親は平氏より頼朝ををとっ捕まえろ!という命令を受けてたので、当然、頼朝をやっつけるぜ!と行動開始し始めたのです。 頼朝は戦うか、逃げるかで悩みましたが、もはや命まで狙われている。 悩んだ末、頼朝は戦うことを決意したのです!! そして、味方になってくれそうな関東の豪族に挙兵のお願いを始めました。 関東の有力者である三浦氏や千葉氏が協力してくれることが決まり、頼朝ホッと一安心。 |
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1180年8月17日 山木の襲撃 | ||||
頼朝は、まず伊豆の目代である山木兼隆を襲うことを決意。 山木兼隆は伊豆の豪族に嫌われていて、伊豆辺りのみんなはすんなり協力してくれました。 が、関東の大部分はまだ様子見とこ・・・という感じ。 で、山木の襲撃は大成功。 ちなみに、この襲撃の軍事責任者は北条時政。 頼朝は、北条の家にいて成功したかどうかの連絡を待ってただけです。 |
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1180年8月23日 石橋山の戦い 梶原景時 頼朝を見逃す | ||||
頼朝の協力者である三浦氏は援軍を送り込み、頼朝は三浦軍と合流しようとしました。 ですが小田原にある石橋山(みかん畑)で、頼朝をやっつけようとしてた大庭景親軍3000人と遭遇しちゃったのです。 対する頼朝軍は300人 しかも、頼朝軍を追っかけに後ろから伊東祐親(いとうすけちか)軍300人がやってきた。 頼朝大ピンチ!!! ちなみに、この時追っかけてきた伊東祐親は頼朝が大嫌いでした。 平安時代その3で書いたように、祐親が京都に行ってる間に頼朝と祐親の娘との間に子供ができちゃったから で、深夜から明け方にかけて両軍入り乱れての大激突となりました。 ですが多勢に無勢。頼朝軍はメッタメタに負けちゃったのです。 頼朝や北条時政らは石橋山の背後にある山中に逃げ込み、木のほこらに隠れました。 これを大庭軍の梶原景時が見つけてしまったのです。 (うわ!こんなトコに隠れてるよ!こんなトコで殺されるなんて気の毒だよな。あまりにも無残だろ・・・)と思った景時は「梶原景時でございます。心配しないでくだされ」と声をかけました。 そして「ここにはおらんぞ!」と大声を出したのです。 景時は頼朝らを見逃してくれたのでした。 その心は「あなたが出世した時は、わしのことヨロシク」の意味もありました。 なんとか助かった頼朝らは、真鶴から千葉の安房へ逃げました。 安房は三浦氏の影響が強く、千葉には千葉介常胤(ちばのすけつねたね)や上総介広常(かずさのすけひろつね)ら、頼朝のお父さん(義朝)の家臣だった豪族がいるとこです。 |
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1180年9月 木曽義仲 立ち上がる! | ||||
この頃、頼朝と同じく幼少だってことで助けられた源氏の源義仲も木曽で反乱を起こしました。 やはり以仁王からの命令書を受け取ったからです。 義仲の配下には「木曽四天王」という、幼馴染の樋口兼光(かねみつ)・今井兼平・根井行親(ねいゆきちか・楯親忠(たてちかただ)ら。 そして忘れちゃいけない、愛妾巴御前(ともえごぜん)が、一緒になってやってきました。 ちなみに、木曽出身なので木曽義仲(きそよしなか)と呼ばれてます。 また、義仲はとても美男子だったそうです。 義仲の母は「小枝」という遊女と言われており、義仲の身分は源氏だったけど低かった。 そして信濃地方で平氏軍と戦いをおっぱじめたのです。 |
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頼朝 関東の武士に集合かける | ||||
安房に逃げ込んだ頼朝のモトに豪族らが集まってきました。 この時、関東最大の豪族上総介広常が17000人の大軍を率いてやってきましたが、頼朝は「来るのが遅い!」と広常を怒鳴ったのです。 広常は、これに感嘆。 「さすが源氏の棟梁(とうりょう・親分ってこと)じゃ!」と正式に頼朝の家臣になることを決めたのです。 実は・・・広常を怒鳴って怒れというアドバイスをしたのは千葉介常胤。 常胤は最初から頼朝の下につくことを決めてたんだけど、広常はまだ悩んでた。 広常は、この時頼朝が頼りないお坊ちゃんだったら頼朝を殺して恩賞をもらおうと密かに企んでいたのです。 この2人は親戚なので、常胤は広常の性格をよーくわかってたからこそ成功したんですねー。 関東最大級の上総介広常が頼朝の正式な家来になったというニュースはあっという間に広がり、上総が家来になったんなら大丈夫だろ!と、関東の豪族らはガンガン集結。 その中には、石橋山で敵だった人たちもいました・・ |
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何故こんなに頼朝の兵が集まったのか? | ||||
ちなみに、なんでこんなに味方が集まったかというと、先ほど↑で書いたように、東国武士は都の貴族のやり方にムカつきまくっていたから。 他にも、頼朝のひいひいじーちゃんの義家のおかげというのもあります。 義家は、後三年の役で源氏の味方を一杯作っといてくれたから。 それに父の義朝も東国で武士のために頑張ってたから。 それと以仁王の命令書。 天皇家からの命令書が来たという「大義名分」が得られたからです。 まぁ、この命令書も「源氏の棟梁」である頼朝が掲げたことにより意味があるんですけどね。 また、伊豆で山木を襲撃した時に、頼朝はその土地を没収し、自分に従った者に分け与えたのです。 今まで命がけで自分の土地を守っているのに、貴族らに年貢を渡すというそのやり方に納得いかなかった武士達は、この革命的なやり方にビックリ。 死ぬ気で一所懸命やれば、自分達の土地を確保してくれるという頼朝のやり方(働く=褒美(土地)がもらえる)に、従うのは当然のことでした。 |
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10月6日 頼朝 鎌倉入り | ||||
で、三浦義澄・千葉介常胤・上総介広常・畠山重忠ら4万人らの軍とともに鎌倉入りすることに。 なぜ鎌倉かというと、頼朝の先祖が東北征伐の時に京都の岩清水八幡宮を移してたてまつったという源氏ゆかりの地だから。 また、三方を海に囲まれ南は海という天然の要塞だったので、本拠地と決めました。 ちなみに、この鎌倉入りの総指揮をとってたのは千葉介常胤・上総介広常。 実はここでも頼朝は直接指揮をとってなくって、まだ東国の武将達の神輿に乗ってるって感じでした。 ほんの2ヶ月前までは、流人として伊豆で政子と静かな生活をしていたので、頼朝本人が「何でこんなことになっちゃってんだ!?」と、一番ビックリしていたことでしょう。 で、せっかく鎌倉入りして久々に政子と会ったというのに、またすぐ出陣しなければなりませんでした。 平維盛を総大将とした平氏が、頼朝を倒すべく兵を挙げ、駿河までやってきたからです。 |
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1180年10月21日 富士川の合戦 | ||||
頼朝は甲斐の武田軍と合流。 富士川を挟んで源氏VS平氏の対陣となりました。 この時の平氏の総大将が平清盛の孫の平維盛(これもり) 維盛は清盛の長男・重盛の長男で、美形ぞろいの平氏の中でも特に美男子だった。 笛を愛し、優雅に踊る姿は「光源氏の再来」と言われたほど。 ほんとは武士になんてなりたくなかった。 そんな維盛が総大将ってことで、平氏側も「戦いなんて全然わからんお坊ちゃまを総大将にするなんて、いくら石橋山で頼朝を破ってるとはいえナメとんのか?」と言われるほど。 さらに維盛坊ちゃんが総大将なんて危なっかしくて戦う気になれんわい!と平氏を離れていく武士がどんどん増え、逆に頼朝の味方が増えちゃったのです。 で、甲斐の武田源氏が抜け駆けして手柄をたてようと、夜中にこっそりと平氏のトコに攻め込もうとしました。 が、水鳥が人の気配を感じてびっくりして飛び立ってしまったのです! その水鳥の音にビックリした平氏は、奇襲と勘違いしビビって福原まで逃げて帰っちゃったのです。 頼朝は、戦いもせず勝ってしまった。 この富士川の合戦で、平氏の評判はガタ落ちに! 頼朝はこの勢いで京まで攻めようとしたけど、三浦・千葉・上総らが「まず関東の地固めをしてからのほうがいい」というアドバイスに素直に従っいました。 で、鎌倉に帰る途中奥州から駆けつけたある男と対面するのです。 これが源義経(牛若丸)22歳でした。 |
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兄と初対面! 義経見参 | ||||
義経は平氏と戦っている頼朝を助けようと奥州からやってきました。 「私は頼朝兄さんの腹違いの弟です。(父親同じ・母親違う)」と名乗り出たのです。 対応した頼朝家臣の土肥実平(といさねひら)は「なんじゃこいつ!胡散臭いヤツめ!」と取り次ごうともしませんでした。 2人の間で押し問答が続き、騒ぎを聞いた頼朝が駆けつけました。 頼朝は「話しを聞くと、間違いなく弟の九郎である。」と、涙を流して懐かしみ、義経の訪問をとても喜びました。 ですが、この2人「兄弟愛」の感覚がまったく違いました。 義経は頼朝のことを「兄」として見ないうちから慕っていましたが、頼朝のほうは「兄弟でもヤツは妾の産んだ弟」という感覚。 再開に涙したといっても、頼朝と義経では感激の度合いが違ったのです。 そしてここから悲劇の英雄としての義経伝説が始まることとなるのです。 |
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1180年11月 頼朝 関東の大半を勢力に入れる | ||||
兄弟のご対面が終わった翌々日の23日、頼朝は論考賞を行いました。 その時、石橋山の合戦で平氏方の総大将だった大庭景親が降参してきましたが、頼朝はこれを許さずに斬首したのです。 次に頼朝は常陸(茨城県)の佐竹氏を攻撃。 佐竹氏はボロ負けし、頼朝は佐竹氏の所領をゲットし、家臣らに与えました。 そして11月17日に鎌倉に戻り、関東の大半を勢力下に入れたのです。 |
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1181年2月4日 平氏のゴッドファーザー 平清盛死去 | ||||
2月 平氏の大ボスである平清盛が63歳で死去しました。 平清盛の体は火のように熱く、比叡山から千手井(せんじゅい)の水を汲み体につからせたら、その水が湧き上がってしまったという伝説があります。 平家一門の栄華を作ってきた清盛の病態に、みんな大パニックに。 清盛は「ワシは何度も朝敵を倒し、身に余る恩賞を受けてきた。その栄華は子孫にまで及ぶはずである。が、一つだけ思い残すことがある。頼朝の首を見ることが出来なかったことである!ワシが死んだら頼朝の首を墓前にかけよ!」と言いました。 平治の乱の時に、頼朝を殺そうとしたものの池禅尼の命乞いを聞き入れたのが間違いであった!ワシが死んだ後、わが一族は源氏に対抗できるのであろうか・・・・。そう思いつつ、清盛はとうとう死んでしまったのです。 優秀な指導者を失ってしまった平氏。 都は天皇が死んだ時よりも大騒ぎになりました。 清盛の後は、子の平宗盛(むねもり)が棟梁に。 宗盛は、頼朝・木曽義仲の首を父の墓前に飾ってやる!!と、手始めに義仲討伐の軍をあげることを決意したのです。 |
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清盛の後を継いだ平宗盛 | ||||
宗盛は清盛の三男として生まれました。 嫡男重盛が早死にしたため、平氏の棟梁に。 性格は臆病なところがあり、この臆病さがのち平家の士気を下げることとなってしまいます。 早死にした重盛がすごく評判が良かったため、宗盛は面白くなかった。 さらに弟の知盛や重衡も優秀な武士だったため、宗盛の凡庸さがよけい目立っていました。 こんな時に棟梁になってしまうなんて、不運としか言いようがないですね。 また、実は宗盛は徳子(建礼門院)と近親相姦の仲だったと言われています。 ですが、優しい面もありました。 以仁王が破れた時、その子供が捕らえられました。 この時棟梁だったのは平清盛。 清盛はこの子供を殺そうとしましたが、宗盛は可哀相に思い助けてあげたそうです。 臆病者と言われていますが、根はとても優しい人だったそうです。 |
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1181年7月20日 大工の馬事件 | ||||
鎌倉では鶴岡八幡宮で若宮の棟上げ式というイベントが行われました。 鶴岡若宮の造営は頼朝にとって、とても重要な事業計画で、東国武士の団結をはかる上でも大事なイベントでした。 イベントは順調に進み、工事してくれた大工さんたちに馬を与えることになりました。 この時、頼朝が義経に「馬を引け」と命令したのです。 義経は「は?なんでオレが?」といった感じでした。 ですが頼朝は「早くしろ!」とさらに命令したのです。 義経からしてみれば「えーー!オレ、頼朝の弟だよ!?そのオレがなんで他の家臣と一緒になって馬を引かなきゃいけないのさ!そんなの家臣達にやらせればいいじゃん」という気持ちでいっぱいでした。 ですが頼朝の考えは「自分以外は肉親であろうともオレに従わせねばならない。棟梁(ボス)は絶対なんだぞということを、武士達に示さねばならない。それが武士としての団結力をより深めるのだ」というものでした。 棟梁として「けじめ」をつけとかねばならない。そう思っていたのです。 この時義経は、頼朝の命令に従い、渋々他の家臣たちと一緒に馬を引きました。 義経は肉親として頼朝から特別扱いしてほしかった。 だけど頼朝はそうではなかったのです。 また頼朝は「弟といえども義経は藤原秀衡のトコにずっといた奴だ。オレはいずれ奥州平泉をも制覇したいと思ってる。義経はもしかしたら藤原秀衡に通じてるかもしれない・・・」という疑いもありました。 そして「弟の義経であろうとも、他の家臣ら同様である」ということが、人々の間に知れ渡ったのです。 |
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北条政子 頼朝愛人 亀の前の家を焼き打ち! | ||||
頼朝が挙兵している間、政子は安全なトコに隠れてました。 頼朝が鎌倉入りすると、政子も一緒に鎌倉へ。 こっから頼朝の浮気がスタート。 もともと京都で育った頼朝は、京の乱れた性関係を子供の頃から見てきたので妻がいながら他の女性に手を出すのは普通だった。 が、政子のいた伊豆はある程度のケジメがあり、ケジメのない頼朝の浮気癖にはムカムカしてました。 一番豪快な嫉妬事件は亀の前家焼き討ち! 亀の前という女性は、頼朝のとってもお気に入りの女性。 伊豆にいた頃からの仲で、一時は途切れていたんだけど、政子が妊娠中なのをいいことに逗子の小坪に呼び寄せて、頼朝はしょっちゅう会いに行っていました。 それを父・時政の妻牧の方が政子にチクったもんだから政子激怒! 牧の方は、時政の後妻で政子と同じ年。 牧の方と政子はめちゃくちゃ仲が悪く、この情報は牧の方が「これで政子と頼朝が仲悪くなればいいのよ。フフ」といった意地悪心からの忠告でした。 で、激怒した政子は牧の方の父である牧宗親に命じて、亀の前の小坪の家を焼き払い、亀の前は慌てて逃げていくという事件勃発したのです。 鎌倉に本拠地をおいて以来のスキャンダルになりました。 頼朝は体裁が悪く、家を焼き払った牧宗親を呼び「オマエは忠臣だな。だがちょっとやりすぎだゾ」と髻(もとどり・髪の毛)を切ってしまったのです。 髻を切られるというのは、武士にとって屈辱的なことでした。 「父が恥ずかしいめにあった!」と激怒したのは牧の方。 夫の時政に泣きつき、時政は兵をまとめて伊豆に戻ってしまいました。 それを聞いた政子も負けずに、亀の前に屋敷を提供した伏見広綱(ふしみひろつな)を静岡県に流しちゃいました。 お互い一歩も譲らぬ壮絶な夫婦ゲンカとなったのでした。 |
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1183年5月11日 木曽義仲 倶梨伽羅峠の合戦 | ||||
義仲は信濃方面でバトルしてましたが、平維盛率いる平氏軍10万がやってくると聞き、富山県の倶梨伽羅峠で待ち構えました。 味方は5万か・・・まともにぶつかったら負けるなぁ・・・と考えた義仲は「火牛の計」を決行することに。 牛の角にたいまつをつけて平氏の陣中に突っ込ませたというヤツです。 義仲は夜を待ちました。 そしてあたりが暗くなってきた時に、火牛の計作戦を決行したのです。 火をつけられた牛ははやり立ち、平氏の陣向かって乱入していきました。 平氏は大混乱に陥り、逃げ場もなく谷底に落ちる人続出。転落死体は18000人以上となる惨敗となったのです。 ※でも、この火牛の計は創作性が高いそうです。 |
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1183年7月28日 義仲軍入京 が、京都で嫌われる | ||||
勢いにのった義仲はそのまま京都へ攻めて行きました。 負けてボロボロになっていた平氏は、「木曽義仲が京都を襲いにやってくるぞー!」と、京を捨てて瀬戸内海の方へ5歳の安徳天皇を連れて逃げちゃったのです。 木曽義仲は戦わずして京都に入ることができて「朝日(旭)将軍」と呼ばれました。 が、この義仲の軍が柄がめちゃくちゃ悪く、金目の物を盗みまくったり京都で悪事を働きまくったのです。 ちょうどこの頃、飢饉だったので余計乱暴狼藉を働いたのです。 京都の人々は、平氏よりも木曽義仲軍を嫌うように。 特に嫌ったのが、後白河法皇。 早く品のない木曽義仲軍に出て行ってもらいたかった。 この頃「京都出身」という肩書きがめちゃくちゃ重要でした。 なので田舎者の義仲は京都の貴族達からイジメにあうのです。 田舎のほうは「方言」がすごくって、筆談しないとダメだったとも言われているくらい。 だから義仲軍はバカにされまくり。 それにむかついて義仲軍は乱暴狼藉を働いたのかもしれません。 木曽義仲は、後白河法皇に「安徳天皇がいなくなったんで、以仁王の息子を新しい天皇にしたらどう?」とアドバイスをしました。 が、後白河法皇は、安徳天皇の弟(4歳)を立てる!と義仲の意見を拒否。 これがのちの後鳥羽天皇。 自分の親交のある北陸宮を天皇にして、やりやすくしようとした義仲の策は失敗。 さらに後白河は「政治に口出しする前に、平氏を追って瀬戸内海へ行け!」と命令。 義仲はせっかく平氏を追っ払ってやったのにエラソーに!とブーブー不満。 仕方なく平氏討伐に向うんだけど、義仲軍はもともと柄の悪い軍だから、京都で盗むもん盗んだらさっさと帰っちゃった人もたくさんいて、義仲は平氏に少ない兵で戦いを挑み苦戦しまくることに。 |
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日本一の大天狗 後白河法皇 | ||||
後白河は保元の乱で勝利した後、在位3年で二条天皇に譲位しました。 後白河が目指したのは、おじいちゃんである白河天皇時代の絶対権力でした。 時代の流れとともに武士が台頭して来たことを苦々しく思っており、平治の乱の時や、鹿ケ谷の陰謀の時など軟禁されたり幽閉されたりと、武士による武力によって翻弄されることをムカついていました。 だけど、武力がないため対抗する術を持たずにいたのです。 そのため、策略により武士の力を何とかしようと、以後頭を使いまくるのです。 |
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これが公家のイジメだ! | ||||
京都の公家たちは義仲が「田舎者」なのでいじめまくっていました。 義仲が後白河法皇に会うために牛車に乗った時のコト。 牛車というのは後ろから乗って前から降りるものなのに、義仲はそんな礼儀作法を知らないので逆から乗ってしまったのです。 それを見ていた公家軍団はクスクスと笑い出したました。 さらに牛飼いが牛にムチをあてたところ、牛が走り出し、義仲は牛車の中でひっくり返って起き上がれなくなってしまったのです。 公家連中は大爆笑。 そしてこのことが噂となり、皆で義仲を小馬鹿にするようになったのです。 朝廷に有益な意見を出しても誰も取り合わなくなり、義仲はだんだんイライラしてきました。 「オレが平氏をやっつけてやったのに!」と、義仲は悶々とした日々。 公家たちは義仲との交渉役に選ばれちゃったら「田舎者の悪い癖が移ってしまうのぅ」と笑った。 そうなると義仲もおもしろくない。 そして嫌々やってきた猫間光高(ねこま)のことをわざと「猫殿(ねこどの)」と言ってみたり、鼓の名手である鼓判官智康(つづみほうがんともやす)に「そなたを鼓判官と呼ぶのは沢山の人からぶたれまくったからかい?」と挑発したり。 自分を馬鹿にするヤツラに対しての精一杯の皮肉だったのですが、ますます公家から「なんだあいつ!田舎者のくせに生意気な!気に入らない!」と言われるようになるのです。 そして実際、鼓判官は後白河に「あいつ絶対謀反企んでるよ!」と嘘の告げ口をしたりして、だんだんと義仲と後白河は仲が悪くなっていくのでした。 |
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頼朝ちゃんお願い!義仲をどうにかしてぇー by後白河 | ||||
後白河法皇は、あんな品のない奴らにいつまでも京にいられたら困る!と、頼朝に「木曽義仲を追っ払ってくれー」とお願いしたのです。 京都の貴族達の間からも、「義仲軍は乱暴だからイヤでおじゃる!」と、頼朝上洛を望む声が高まりました。 頼朝も源氏の正当な嫡流である自分を差し置いて、木曽義仲が京都に入っているのが気になってたのでOKしました。 そして、義仲を追っ払う代わりに「東国沙汰権」という、関東をおまかせするという権利をゲットしたのです。 頼朝は木曽義仲を追っ払うために、義経を行かせる事にしました。 |
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1183年11月7日 義経 近江に到着 | ||||
頼朝から「木曽義仲討伐」を命令された義経は、10月にわずかな兵を率いて鎌倉を出発しました。 11月7日には近江に到着し、京都の様子を見ることに。 この頃京都では「頼朝の弟九郎が大将軍となり、数万の兵を引き連れ京都にやってくる」というニュースで持ちきりに。 まだ義経の名前は知られておらず「頼朝の弟九郎とは何者だ?」と人々は噂しあいました。 |
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1183年11月19日 木曽義仲 クーデターを起こす | ||||
これを聞いた木曽義仲は超激怒! 平氏追討のため西国へ向かっていたので慌てて戻ってきました。 そして「せっかくオレが平氏を追い出してやったのに、今度は俺をやっつけるとはなんだ!!」と激怒し、クーデターが起こすことを決めたのです。 義仲は後白河法皇の家に火をつけ、法皇と天皇を監禁したのです。 後白河法皇の使者は、慌てて義経のもとに。 義経は「兄の頼朝に飛脚を出し、兄の命令に従い京都へ向かいます。」と返事をし、鎌倉に飛脚を飛ばしました。 義経からの連絡を受けた頼朝は、木曽義仲を討つべく弟の範頼に大軍を率いさせ上洛させることに。 |
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1184年1月11日 木曽義仲征夷大将軍になる | ||||
義仲はクーデター後 、むりやり「俺を征夷大将軍に任命しろ!」と脅し、後白河は殺されたら大変だーとほんとに征夷大将軍にしちゃいました。 さらに義仲は「頼朝追討の命令を出せ!」と脅し、追討令を命じさせたのです。 |
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宇治川合戦 佐々木高綱と梶原景季の先陣争い | ||||
その頃、義仲討伐に向ってた義経達は、宇治にいました。 義経軍には佐々木高綱(たかつな)・梶原景季(かげすえ・梶原景時の長男)ら関東の有力武士らが加わっていました。 そして義経軍は京都に攻め入るために宇治川から入るルートを選んだのです。 迎え撃つ義仲軍は今井兼平(かねひら)らを派遣しました。 宇治川は、琵琶湖西岸にある山々の雪解け水のため増水しており、とても危険な状態になっていました。 義経は川岸に進み出て、「誰か先陣をきろうという者はおらぬか?」と聞いたのです。 実はこの戦いの前に、頼朝から馬を貰った者がいました。 佐々木と梶原です。 佐々木は「生食(いけづき)」という癪が強く、人だろうが物だろうが喰らいつくという馬を貰い、梶原は「磨墨(するすみ)」という毛並みの黒い逞しい馬を貰っていました。 この2人は密かに「オレが先陣をきるぞ!」と考えていたのです。 梶原が佐々木より10メートルばかり前を進みました。 すると佐々木が「梶原殿!馬の帯がゆるんでおりまするぞ!」と叫んだのです。 梶原は慌てて帯を締めなおしました。 その隙をついて佐々木がざぶんと川に入りました。 負けてたまるか!と梶原は「佐々木殿、手柄を立てようと焦って失敗なさるなよ。川の底に深い綱が張ってあるから気をつけなされよ」と忠告。 佐々木は太刀を抜き、宇治川の急流を真一文字にきりながらとうとう向こう岸へ乗り上げました。 梶原は佐々木に一歩遅れて到着。 佐々木は「近江国の佐々木三郎秀義の四男、佐々木四郎高綱、宇治川の先陣でござる!!」と大声で名乗り上げました。 そして義経軍は続々と宇治川を渡り、義仲軍を打ち負かしたのです。 監禁されれた後白河法皇も無事救出となりました |
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義経 ポニーに乗る! | ||||
言いたくないですが、この時代の馬は「ポニー」レベルです。 ちなみに戦国時代もポニーレベル。 イメージを壊したくないので、知りたくなかったんですが(笑) 当時の馬は140センチ前後でした・・・ 「名馬」といわれる馬が140センチあるかないかなので、フツーの人たちが乗ってたのはもっと小さいです。 |
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木曽義仲死す!家臣 今井兼平壮絶な最期 | ||||
宇田川の合戦でボロ負けした義仲。 少ない兵を連れ京都から逃げましたが、途中で義経の追っ手に遮られ、近江国に入った時はわずか7騎しかいませんでした。 それでも何とかバラバラになっていた軍をかき集め、今井兼平とも合流し300騎ほど集めました。 が、多勢に無勢。いくら頑張っても義経軍の勢いにはかないませんでした。 とうとう残ったのは5騎。 この中に、義仲の愛妾巴御前も残っていましたが、自害を覚悟した義仲は巴を逃がしたのです。 「もうダメだ・・・。いつもは何とも思わない鎧が、今日は非常に重く感じる・・・」と弱気になった義仲。 家臣の今井兼平は「わしが敵を喰い止めまする!その間に自害しなされ!」と言いました。 が、義仲は「そなた1人を残しはせぬ!一緒に討死しようぞ!」と言いましたが、兼平は「最後に不覚を取られてしまえば、後世まで義仲殿は笑い者として傷が残ります!」と、自害を進言したのです。 義仲は泣く泣く兼平と別れましたが、なんと深い溝にハマッてしまったのです! 必死でもがいで出ようとしたところを弓で射られ、討ち取られてるという情けない死に方をしてしまいました。 義仲31歳でした。 兼平は必死で敵を食い止めていましたが、義仲が討ち取られたことを知ると、「これが日本一の剛の者の自害のやり方じゃ!よく見ておけ!」と言って太刀を口に入れ、そのまま馬から真っさかさまに飛び降り、太刀に貫かれ死んだのです。 義仲が平清盛に捕らえられ、木曽に流されてからずーっと幼馴染として一緒に育った今井兼平の壮絶な最期でした。 江戸時代の松尾芭蕉は、義仲にかなり同情していたそうです。 |
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木曽義仲の愛妾 巴御前 | ||||
木曽義仲と最後まで頑張ったのが愛妾である巴御前。 実際は炊事のために従軍した「飯炊き女」で「御前」という身分ではないそうです。 色白で髪が長く美人でした。 美人な上に武芸にも優れており、義仲に従軍し数々の武功を立て「一騎当千(いっきとうせん・一騎で1000人くらいの強さがあるということ)」と言われていました。 が、いよいよ自害を覚悟した義仲は「義仲最後の戦いに女を連れていたと言われたくない!お前は帰れ」と言いましたが、巴は最後までお供すると突っぱねました。 そこへ強くて有名な御田八郎が30騎でやってきたのです。 すると巴はその集団にガンガン入って行き、御田の首をむんずと掴むと、首をねじ切ったのです。 大の男を力で倒すという技をやってのけた女武将・巴。 敵・味方とも驚いてあんぐり。 すると義仲が「お前がその辺の男より勇ましいことはわかっておる。が、お前はオレの木曽にいる家族に、オレの最後の様子を伝え、弔ってくれ。その方が一緒に戦死するより嬉しい。」と諌めました。 巴は納得し、木曽に落ちのびたのです。 その後巴は捕まり、斬首されるというところを和田義盛という武将が「巴は容姿が美しい上に心は武士以上である」とベタボレで、巴を側室にしました。 子供ももうけましたが、和田もその子供も戦死。 以後は尼になり90歳過ぎまで生きたといわれています。 |
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義経 京都へ入る | ||||
義仲が死んで、京都に入った範頼と義経。 品がよかったので京都の人々から好感度抜群。 京都を追い出された平氏はというと、一の谷(神戸)ってトコにいました。 「源氏が内輪もめしてるぜー!今のうちに・・・」と、平氏は力を蓄え始め戦闘モードに入ってきたのです。 |
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1184年2月 源氏 平氏追討へ向かう 一の谷の合戦 | ||||
後白河はというと、平氏が安徳天皇を連れてっちゃってるので、ちょっと心配でした。 「一度仲直りしようよー」と、平氏に話しを持ちかける反面、平氏が都落ちした時に裏切ったため平氏からの復讐もちょっと恐れていました。 そのため、平氏と仲直りする話しを持ちかけてるくせに、頼朝には「平氏やっつけてきてよ」と、命令したのです。 源氏チームは京都を出発し二手に分かれました。 頼朝が派遣したのは弟の載頼を大将とした千葉常胤(つねたね)梶原景時・小山朝政ら56000騎。 そして義経を大将とした土肥実平(といさねひら)三浦義連(みうらよしつら)熊谷直実(くまがいなおざね)ら20000騎でした。 平氏のいる一の谷は海と断崖絶壁に囲まれた場所にある天然の要塞で、攻めるのは大変なトコでした。 |
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頼朝の弟 載頼(のりより) | ||||
載頼(のりより)は、義朝の六男で、母は遊女でした。 順番的には頼朝の弟で、義経の兄になります。 幼年時代はどのように暮らしていたのか詳しくわかっていません。 1180年に兄の頼朝か挙兵するというニュースを聞くと、すぐに頼朝のもとへ行き、以後は頼朝の下で働くように。 性格は温厚で、頼朝に逆らうようなことは一切しませんでした。 「石橋をたたいて渡る」タイプで、決断力にも欠けていましたが、とても優しい人だったそうです。 |
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鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし | ||||
攻めるとしたら細い道からか、海しかなかった。 義経は、敵陣を見下ろす断崖絶壁から攻めようかと考えはじめました。 地元の人に「この崖降りれるかな?」と聞くと「無理無理。時々鹿は駆け下りてるけど、馬じゃ無理だよ」という答え。 が、義経は「鹿が降りれるなら馬も下りれる!」と試しに馬を突き落とした。 そしたらちゃんと降りれる馬もいたので、これなら大丈夫だ!と義経は、馬に乗って断崖絶壁を駆け下りたのです。 これが「鵯越(ひよどりごえ) の逆落とし」です。 平氏は思っても見ないとこから義経軍がやってきたので大パニックに! 千人余りが戦死し、残った者は慌てて海へ逃げていっちゃいました。 総大将の宗盛(むねもり)は、安徳天皇を抱えて讃岐(香川県)の屋島に逃れました。 そして平氏はこの合戦で重要な人物が何人も討死してしまったのです。 |
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敦盛の最期 熊谷直実の武士の情け | ||||
平氏がことごとく逃げて行き、義経軍の熊谷直実は「平氏の大将クラスを討ち取って手柄を立てるぞ!」と海岸の方へ向かっていきました。 すると海岸に立派な鎧を着た若武者がいたのです。 「おっ!あの鎧は大将クラスだな!」と喜んだ直実。 そして「そこにいられるのは平氏の大将軍とお見受けいたす!敵に後ろを見せるのは卑怯でござるぞ!こちらへ戻れ!」と大声を張り上げました。 これを聞いて若武者が振り返りました。 直実はその若武者を取り押さえて首を斬ろうと兜を押し上げると、その中身は16・7歳で薄化粧をし、歯を黒く染めた美しい美少年だったのです。 「うわぁ。ワシの子である小次郎と同い年くらいではないか・・・」そう思った直実。 「ワシは我が子小次郎の軽傷でさえ辛い。おぬしの父は我が子が討たれたとなるとどんなに悲しむだろうか。ここで討たなくとも平氏には勝てるであろう。ここは助けてしんぜよう」と、その美少年を助けることにしたのです。 が、そう思って後ろを見ると、味方の土肥や梶原の軍がやってくるのが見えました。 「うわ!来ちゃったよ!ここで彼の命を助けたところで、逃げ切れないだろうな・・・。仕方ない。他の者の手にかかるくらいなら自分が・・・」と、直実は涙を流しながらその若武者の首を斬ったのでした。 そしてその若武者は敦盛という17才の少年だということがわかりました。 笛を愛しており、最期の時も腰に笛を差しておりました。その笛の名は「小枝(さえだ)」というそうです。 敦盛の生命のはかなさは「幸若舞」として、織田信長にも愛されました。 |
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義経 平氏の首を晒す | ||||
一の谷の戦勝の知らせは後白河法皇にもたらされました。 そして討ち取った平氏の首をさらすことに。 これには貴族が大反対。 「平氏は朝廷にずっと仕えていたし、帝の外戚であるぞ?木曽義仲とはワケが違う!」と反対したんですが、義経も載頼も自分の父である義朝の汚名を挽回させるためにも、首をさらすことは譲れない!ということに。 結局、主だった平氏の首を(敦盛も入ってるよ)さらしたのです。 |
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義経 京都でトップスターに | ||||
この時、範頼は木曽義仲をやっつけたことと、平氏を一の谷で破ったことを頼朝に報告しようと鎌倉へ戻った。 が、この報告が正確に頼朝に伝わらなかった。 一の谷の奇襲の作戦を考えたのが、梶原や畠山になっていたのでありました・・・。 義経はトップスターとなり京都でちやほやされまくり。 女の人なんてキャーキャーと義経に気に入られようと騒ぎまくった。 この時義経もきちんと頼朝のいる鎌倉に行き、きちんと報告していれば、のちの悲劇は起こらずにすんだのです。 |
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1184年8月 義経・頼朝 不穏な空気に・・・ | ||||
頼朝は、誰にこーゆーご褒美をあげますよーってのを書いた報告書を範頼に持たせ、範頼は後白河法皇にそれを見せました。 すると、あれだけ活躍した義経のご褒美が全然なかったのです。 後白河は「義経にご褒美何にもないじゃん。じゃぁワシがあげよう」ってことで、頼朝に内緒で「右衛門尉検非違使(さえもんのじょうけびいし)」という役職を義経にあげちゃったのです。 そして義経はその役職を、頼朝に断りもなく受けてしまったのです。 それを聞いた頼朝は、激怒! この頃頼朝は鎌倉にて「侍所(さむらいどころ)」を作ってて、ご褒美はココを通してあげるっていうシステムを作っていました。 頼朝が武士のために作ったシステムを、兄弟である義経が無視して勝手にご褒美をもらったことを頼朝はカンカンに怒ったのです。 義経はすぐに弁解の手紙を出しました。 「これは自ら望んだものではないです!度々後白河法皇に言われて断ることができずに、仕方なく受けたのです」というものでした。 だけど鎌倉にて武士のシステムを作ろうとしていた頼朝は、そんな弁明の手紙で怒りが収まらなかった。 で、義経を謹慎処分にしちゃったのです。 義経は、はっきりいって政治がちょっと疎かった。 この役職を貰ったときも「なんでそんなに怒ってるんだろ?源氏がこのような名誉ある職をもらえるなんて、むしろ光栄なことじゃないか!」という感覚だったのです。 頼朝の立場とか考えを全く理解していませんでした。 もう少し政治がわかってればこの役職を辞退してたはず。 また、後白河法皇も頼朝の力が強くなってきているのを牽制するために義経を可愛がり、二人の対立をあおるのです。 頼朝は、平氏制圧を範頼に命じ義経を排除しようとしました。 頑張って平氏を一ノ谷でやっつけたのに、謹慎をくらった義経は京でストレスたまりまくり。 そんな中、静御前と出会ったのです。 |
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義経の愛妾 日本一の白拍子 静御前 | ||||
静御前の出生は不明です。 1182年に都では日照り続きで、美人の舞いで竜神様の怒りをしずめようってことで、後白河は都中のグッドルッキン白拍子を100名集め、順番に舞わせて雨乞いをしました。 百人目の静が舞い始めたとたん、雨が降ってきたのです。 人々は「竜神が静の舞いを見て雨を降らせた」とささやき合い、後白河は「日本一の白拍子」と静を褒めたといわれています。 ちなみに白拍子とは院政時代に活躍してた女性芸能者で、踊りを舞う女性。今でいうとホステスです。 静はすっごい美人で、たちまち都一の美女と有名になりました。 義経は、平氏追討の戦勝祝いの宴で舞っている静にヒトメボレ。 当時24人くらいいる愛人の1人に静を選びました。 あまりにも美人なので、数ある愛人の中でNO1に。 義経27歳・静15歳でした。 |
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1184年9月18日 義経「判官」に就任する | ||||
頼朝の立場を全然考えていない政治オンチの義経は、とうとう大夫判官(だいふはんがん)という地位に就きました。 そして10月には昇殿を許されました。 昇殿に上がれるというのは、「官廷人」の仲間入りをしたことを意味するもので、さらにこの時華やかなイベントが行われました。 義経が乗ったのは「八葉(はちよう)の車」で、大臣などお偉いさんのみが乗れる車で、判官レベルでは乗れる代物ではありませんでした。 が、義経はこれに乗ることを許されたのです。 義経が判官という職にあったため、ここから「判官贔屓(はんがんびいき)」という言葉が生まれました。 不遇な人や弱い人に同情するという意味です。 日本人はこの気持ちがとても強く、悪人でも不幸な生い立ちだったことがわかると同情しちゃう。つまり「判官贔屓」しちゃってるワケです。 |
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頼朝 河越重頼女(かわごえしげよりのむすめ)と義経を結婚させる | ||||
義経が「八葉の車」に乗って盛大なイベントに出席したという話しを聞いた頼朝。 もー腹たって仕方ありませんでした。 この頃頼朝の耳には、京にいる義経の悪い噂がガンガン入ってきていました。 そこで信頼できる比企尼一族の娘と結婚させよう!ということで、頼朝は義経に河越重頼女を嫁がることにしたのです。 河越重頼女(かわごえしげよりのむすめ)は、頼朝の乳母である比企尼一族の娘です。 伊豆で生活してた頼朝が世話になった比企尼一族の娘で、頼朝が鎌倉生活を始める時一緒に呼ばれて信頼されてた一族でした。 で、のびのーびと暮らしていた河越重頼女に突然縁談話が。 正妻として京へ行かされるが、この頃兄弟仲は最悪だったので、義経の家臣なんかは河越重頼女が嫌いで冷たくしていました。 そのうち兄弟仲は完全に決裂し、義経は河越重頼女と離婚。無理やり追い返すことになります。 |
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平氏勢力挽回!載頼「オレ、ダメだよー」 | ||||
一の谷で敗れた平氏は讃岐の屋島(香川県)と、長門の彦島(山口県)に逃げ、再び勢力を戻しつつありました。 頼朝は義経を謹慎処分とし、全てを載頼に任せていました。 ですが、載頼はやられっぱなし。 全く進撃が進まずにいました。 さらに、平氏に軍の食料補給ルートを絶たれてしまい、兵糧不足となってしまいました。 苦しんだ兵は国へ戻っていく始末。 載頼は頼朝に「助けてー」と手紙を出したのです。 頼朝は仕方なく義経を出陣させることにしました。 河越重頼女と結婚し、静と愛人生活を送っていた義経ですが、やっとこさ平氏追討の参加許可が降りて大喜び。 |
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1185年2月 義経再び | ||||
頼朝の命令を受け総大将として出陣することとなった義経。 平氏をやっつけるまで都には帰りません!と後白河法皇に約束し、2月3日 平氏のいる讃岐の屋島を目指して京都を出ました。 2月18日には阿波国(徳島県)に到着しました。 この時、すごい暴風雨で船乗りが「こんな嵐では船を出せません」と言ったんだけど、義経は「この程度の嵐でガタガタ言うな!船を出せ!」と無理やり船を出し、なんとか阿波国に到着したのです。 |
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軍奉行 梶原景時 | ||||
梶原景時は、石橋山の戦いの時に頼朝を見つけたが見逃したことにより、その後頼朝の重臣として活躍していました。 景時は東国武士の中ではずば抜けて教養があり、特に歌の道はプロ並み。 京都育ちのボンボンである頼朝は「東国武士の中にもこんな風流人がいるのんだなぁ」と、景時を気に入ったのです。 景時の歌の才能は子供達も引継いでおり、梶原一族は東国武士でNO1の京都文化通となっていくのです。 ※平家物語では義経の敵役とはなり、陰湿な悪いヤツのイメージがあります。 |
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義経VS梶原景時 逆櫓の争い | ||||
この時は、義経が総大将、景時が軍奉行(軍師みたいな感じ)として参戦していました。 船出の時に、景時は「船は馬と違いすぐ向きを変えれないので、船の舳先と艫の両方にあらかじめ逆櫓をつけたほうがいい」と、意見しました。 だけど義経は「最初から逆櫓をつけてれば逃げ支度をしてると思われ、兵の士気が下がるだろ」と大反対。 さらに「戦いというものは最初から逃げることを考えてやるもんじゃないであろう?景時殿の船には逆櫓でも何でもつければいい。義経の船はそんなものつけはせん」とあざ笑ったのです。 景時は「優れた大将というのは、戦況を見極め身の安全を確保しながら敵を倒すものです。突進するだけを考えてるのは猪武者と言います。それでは良い大将とは言えませんな」と嫌味。 怒った義経は「猪だかなんだか知らないが、戦いというのは勝てればいいのだ。ひたすら攻め、勝った方が気持ちがいいだろ!」と言い放ったのです。 両者とも譲らず、険悪なムードのままとなってしまいました。 義経からしてみれば、自分は総大将であり、今までの戦いは全て勝っている。 景時からしてみれば、自分は頼朝から派遣され任されているので、危ないことはしたくない。 両者の言い分もわかるけど、この頃の頼朝からしてみれば天才個人プレイをする義経より、みんなを統制していくリーダー的な景時の方が必要でした。 そしてここから、梶原景時と義経の対立が表面化したのです。 |
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1185年2月19日 屋島の合戦 | ||||
暴風雨の中、到着した義経軍。 平氏のいる屋島の背後を密かに進んでいました。 そして背後からの奇襲を行ったのです。 前面の海から攻めてくるだろうと思っていた平氏はビックリ。 くつろぎまくっていた所を奇襲されたもんだから、またも逃げることになってしまったのです。 安徳天皇を連れて、西へ逃げていきました。 平氏にとって屋島から逃げるということは、瀬戸内海の制海権を喪失してしまったということとなり、かなりの痛手。 そして平氏側の兵からも、「平氏はもうダメだな」と源氏側につく者が増えてきたのです。 |
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平氏 占いに頼る | ||||
あまりにも負け続きの平氏。 「何か悪いモンがとりついてるんじゃないか?」と思うように。 平氏の総大将平宗盛が、占いで平氏の運を占うことにしました。 日が暮れかけ、両軍船を引きかけたその時、小舟がゆらゆらとやってきました。 源氏側は「ナンダあれ?」と目を凝らすと、その船には18歳くらいの美女が乗っており、金色の日の丸が描いてある真っ赤な軍扇を竿にはさみ、手招きをしているのです。 義経は「どうやら扇を射よということのようだな。誰か腕に自信のある者はいないか?」と声を上げました。 すると兵らが「那須与一という者がおります。」と言い、与一が義経の前に呼ばれました。 |
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扇の的討ち 那須与一 | ||||
与一の弓の腕前は10歳くらいから有名でした。この時わずか17歳。 義経に「扇を射落とせ」と言われたもののホントはドッキドキ。 無理です!と、断ったんだけど義経の命令には逆らえなかった。 そして「南無八幡大菩薩」とつぶやき、見事扇を撃ち落したのです。 これには源平双方からどよめきが。 与一の的が当たったことによって感動し、平氏側の1人の老武者が舞を舞いました。 すると義経は与一に、「あの平家の老武者めがけて、もう一発討っちゃえ」と命令。 与一の弓矢は見事に命中して、その老武者は死んでしまったのです。 これには源氏方大フィーバー。 だけど平家は静まりかえり「情けなし・・・」と非難したそうです。 風流な人が多い平家と、無骨な源氏武者との違いでした。 その後、与一は鳥取城の初代城主となるんだけど、梶原景時とケンカをして越後に飛ばされちゃいます。 だけど17歳だった少年の心は病んでいました。 自分が殺した人々のことを考え、ノイローゼ状態となり西国を放浪し始めます。 そして64歳で没したのでした。 |
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源氏と平氏の違い | ||||
平氏は都での華やかな貴族文化に慣れており、風流な人がとても多かった。 そして源氏は、東国の武士の寄せ集めだったため野蛮な人が多かったのです。 食べ物も違いました。 平氏は各地の貢物を食べていたため、腐らないように塩分を多く含んだ食事が多かった。 塩分が多いし固いし、消化も悪かったため栄養面はめちゃくちゃ悪かったのです。 かたや源氏は狩などで新鮮な獣類を食べており、たまり味噌や握り飯を食べていました。 栄養面もよく、エネルギーもバッチリ。体力のつく食べ物を食べていたのです。 |
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平氏 壇ノ浦へ集結 | ||||
平氏は、屋島を捨ててさらに西へ西へと移動。 山口県の壇ノ浦に全軍を集結させることに。 義経らは、海戦を得意とする平氏を今度こそコテンパンにやっつけてやろうと、兵糧を調達したりと準備をしまくっていました。 こうして義経らは兵船を確保しながら、平氏の集結している壇ノ浦へ進んでいったのです。 |
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1185年3月24日 義経VS梶原景時 またも大喧嘩! | ||||
この日、壇ノ浦の合戦の火蓋が切れることとなりますが、決戦当日にまたも義経と景時が大喧嘩をしたのです。 景時が「先陣に出たい」と言ったことが原因でした。 武士にとって最高の名誉が「先陣」を遂げ、味方に勝利のチャンスを作ることでした。 二番手は意味がなく、真っ先に敵陣へ突入するという「先陣」は危険を伴っているがゆえに、最高の名誉だったのです。 で、景時が義経に「ワシを先陣に出させていただきたい」とお願い。 すると義経「え?だってオレがいるじゃん。オレが先陣として出るよ」といったのです。 「は?だって義経殿は総大将ではないか!総大将が先陣をきるなど聞いたことがない!」と景時ビックリ! 義経は「オレ、自分のこと大将と思ってないから。大将は兄の頼朝だろう?」と言い返したのです。 これには呆れた景時。 「はぁ・・・。義経殿は生まれつき武士の主にはなれないお方だな」と言ったのです。 これを聞いた義経は超激怒! 「お前こそ日本一の大バカだ!」と刀に手をかけました。 景時も負けちゃあいない。 「バカをバカと言って何が悪い!ワシだって自分の主人は頼朝殿以外おらぬわ!」と刀に手をかけたのです。 総大将と軍師が刀を手に取り睨み合っているもんだから、周りにいたみんなビックリ! 三浦義澄(よしずみ)と土肥実平(どいさねひら)が間に入り、「今日が決戦だというのに同士討ちなどしてはいけません!これを聞いた平氏が喜びますぞ?こんなことが頼朝殿の耳に入ったらどうなされる?」と、何とか2人をなだめたのです。 |
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1185年 3月 壇ノ浦の合戦 | ||||
壇ノ浦で平氏全軍を集結させている宗盛。 陸には降りずに海上にいました。 対する義経は、熊野水軍・伊予水軍を味方につけ何とか合戦準備完了。 壇ノ浦では船と船の戦いになります。 ちなみに、この時間違えないように平氏の船には赤旗。源氏は白旗。 これが運動会とかで、紅白に分かれて戦うモトになります。 この戦いは、海戦慣れした平氏有利と思われました。 源氏800平氏500の船で、朝の6時に戦闘スタート!! ちなみに平家物語によると源氏3000。平氏1000になっています。 最初は、平氏が優勢。 ここで負けたら後のない平氏がガンガン攻めまくりました。 が、午後になると潮の流れが変わり、平氏の船はこいでも逆さに流されちゃうように。 さらに平氏にとって決定的な出来事が! 平氏側の重臣である阿波重能が平氏を裏切り、源氏に寝返ったのです。 阿波重能は息子が義経に捕まったため寝返ったのでした。 そして阿波は平氏側の作戦を全てバラしたのです。 平知盛は阿波の心変わりに薄々感ずいており「こんなことならさっさと重能を殺しとくべきだった!」と後悔しました。 この寝返りにより、平氏の士気は一気にダウンしました。 これはチャンスと義経。 船を接近させ、次々と飛び乗り源氏優勢に。 さらに源氏側は平氏の漕ぎ手と舵取りを殺しまくりました。 当時の合戦ではタブーとされていた「戦うことの出来ない非戦闘員である舵取り・漕ぎ手は殺さないこと」というのを破ったのです。 こうなると船は機動力ゼロとなり大混乱になったのです。 すると、平氏側からも源氏側へ寝返る人が相次いで出てきてしまったのです。 |
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平氏の滅亡 「海の底の都へ遊びに行きましょう・・・」 | ||||
平氏の敗戦は決定的となってきました。 いよいよ最後の時が来たことを悟った平知盛(たいらのとももり)。 身の回りの掃除をはじめ、慌てている女房達に「最後の時」が来たことを告げました。 平氏は源氏に捕らえられ、辱めをうけるくらいなら!と死を選ぶ人が続出。 平氏の人々は手をつないで海へ身を投げたのです。 この時8歳だった平清盛の孫・安徳天皇も二位の尼(清盛の妻)に抱かれ三種の神器とともに海へ飛び込んでいきました。 安徳天皇は「おばあちゃん。どこに行くの?」と訪ねると、二位の尼は「海の底にある都に遊びに行きましょう」と言ったそうです。 安徳天皇の母(清盛の娘で、高倉天皇の妻)も海へ飛び込みましたが、衣服に矢が刺さり沈めずにいたところを源氏に助けられてしまいました。 平氏の女性でただ1人生き残ってしまい、29歳の若さで尼となりその後30年以上京都の「寂光院」というお寺で滅亡した平氏のために祈って過ごすことに。 ここには後白河法皇も気遣って訪問し、慰めました。 女達が続々と飛び込むと、次は平氏の男達。 教盛(清盛の弟)・経盛兄弟、資盛(清盛の長男重盛の長男)・有盛(重盛の四男)・行盛(清盛の次男の長男)らは、鎧の上に碇を背負って手をつなぎ海の底へ沈んでいったのです。 |
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平宗盛呆然・・・・ | ||||
平氏が次々と海へ沈んでいくのを見て、呆然と立ち尽くしていたのが平氏の総大将宗盛とその息子清宗。 |
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義経 平氏滅亡を報告 | ||||
義経は平家滅亡の使者を京都と鎌倉に出しました。 4月3日 最初に後白河法皇のもとに戦勝報告が届きました。 後白河は「大功の至りである!」とめちゃくちゃ褒めました。 数日後、鎌倉にいる頼朝のもとへ。 頼朝は報告書を手に取ると、鶴岡八幡宮の方にひれ伏し、しばらく座っていたそうです。 |
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1185年4月21日 梶原の書状に頼朝怒る! | ||||
報告書を受け取った数日後、頼朝のもとに梶原景時からの書状が届きました。 そこには「今回の合戦は本当に勝ててよかったです。ですが、申したいことがございます。判官殿(義経)は頼朝殿の代わりとして平氏と戦いましたが、この勝利を自分1人の手柄のように言っております。」 さらに「多くの御家人は頼朝殿の為に戦ったのであります。が、平氏を滅ぼした判官殿(義経)は、思い上がりはなはだしく、高慢になってきており、誰も心から判官殿に従いたくはない状況であります。私は頼朝殿の命令を受け、判官殿の勝手な振る舞いを見るたびに、諫言しましたが、諌めると逆ギレする有様。私はもう判官殿の側に仕えたくありません。早く鎌倉に帰らせていただきたくお願いいたします。」というものでした。 確かに義経は戦の天才としてヒラメキで勝っちゃうタイプでした。 そのためスタンドプレイが多かったのも事実です。 さらに、もう1人の弟である載頼はコマメに戦況報告をしていたのに、義経は事の次第を一切頼朝に報告せず、全て自分勝手に処置していました。 政治オンチ義経パワーが炸裂していたのです。 頼朝は義経が勝手に後白河から官位を貰ったことを、いまだ許せない状況でした。 そんな中、戦いには勝ったものの梶原からのこの手紙。 頼朝は義経に対して警戒心をさらに強め、4月29日にとうとう「今後、鎌倉に忠義を尽くそうと思うものは、一切義経の命令に従うな」という書状を出したのです。 つまりは義経を勘当する。源氏とはいっさい関係ないということになったのです。 |
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このハゲ!このネズミ!頼朝悪口書きまくり | ||||
さらに頼朝は、義経以外の者で、自分に無断で朝廷の官職を受けた御家人24人に対しても厳しい処罰を出しました。 その24人の名前を書き出し、名前の下に悪口を書きまくったのです。 例えば「こいつはハゲのくせに生意気」「こいつはいつもネズミのようにおどおどした目をしている」「こいつは色白で顔が不気味」「こいつは声が変」などなど。 よっぽど腹が立っていたのでしょう・・・。 |
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天皇家 三種の神器 | ||||
天皇家には代々天皇に引き継がれる三種の神器というものがありました。 八咫鏡(やたのかがみ) 草薙の剣(くさなぎのつるぎ) 八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま) この3つを持ってる人が本当の天皇というシンボルです。 木曽義仲が京を攻めた時に、平氏が安徳天皇と一緒に持って逃げて行ってしまったものです。 朝廷では、後白河法皇が安徳天皇の次の天皇に、安徳の弟を天皇にしたんだけど(1183年 後鳥羽天皇)三種の神器がないので、ちょっと体裁悪かった。 今回の壇ノ浦で鏡と勾玉は取り返すことができたんだけど、草薙の剣は海に沈んで行方不明になってしまったのです。 そして三種の神器だけは取り戻せよ!と、義経に散々言っていたのに、草薙の剣を取り戻せなかったことも、頼朝は怒っていたのでした。 |
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1185年4月24日 義経 京都へ凱旋入京 | ||||
壇ノ浦の合戦から一ヵ月後、義経らが京都に戻ってきました。 京都は大フィーバーに。 さらに26日。土肥実平らが平氏の捕虜を連れ入京。 あれほど美しかった平宗盛が、別人のようにやせ衰えている!と、京都では大騒ぎに。 さらに引き回しされることとなり、多くの人が京都に集まりました。 後白河法皇も、車の中から密かに見ていたそうです。 群衆の中には平氏に恩を受けた人が大勢いました。そして涙を流して見ていたのです。 |
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義経大慌て!頼朝は何でそんなに怒ってるの? | ||||
頼朝が自分のことを怒っているというのを聞いた義経。 はっきりいってワケがわかんなかった。 自分は兄・頼朝の為に、平氏を倒すべく必死で戦ってきた。なのにどうしてそんなに怒ってるんだ?どうしてオレを警戒しなきゃなんないんだ?と、ホント不思議でした。 さらに、義経を勘当するというニュースも入ってきて、義経さらにビックリ! 義経は頼朝に逆らう気など全くないんだから、驚くのも当然。 さっそく自分は頼朝に反抗する気なんて全くない!という手紙を書きました。 5月7日にその手紙は頼朝のもとへ。 が、頼朝は「さんざん勝手なことをしておいて今更なんだ!載頼はきちんと全てを報告し、勝手な振る舞いはしないといのに!義経は自分勝手に行動しておいて、今になってオレの機嫌が悪いからって手紙を書いてくるとは!あのバカめ!」 と、ますます怒り狂うの頼朝でした。 |
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義経 天皇の未亡人に手を出す! | ||||
安徳天皇の母である建礼門院(けんれいもんいん)は死にきれずに助かってしまい、義経の前に連れて行かれました。 高倉天皇の妻でしたが、この天皇が病弱で、安徳天皇が即位した翌年の1181年に21才の若さで死んでしまいました。 そのため徳子は建礼門院と名乗っていました。 で、義経の前につれてこられた建礼門院。 義経は手厚くおもてなしをしたんですが、なんと建礼門院が義経のことを好きになっちゃうのです。 この頃の義経は大人気でもー女性なんてよりどりみどり。 建礼門院が義経に告白しちゃうと、なんと義経、それを受け入れちゃったのです。 ちょっと奢っている部分もあった義経。 ※実際は戦いに負けた女性の常としてレイプされまくったらしいですが・・・(涙) ですが冷静に考えれば未亡人ではあっても「天皇の妻」 だけど勝利に酔いモテモテだった義経は、軽い気持ちで建礼門院とできちゃたのです。 平清盛が一番可愛がっていた娘・徳子は、あろうことか平氏の最大の敵・源氏の棟梁の弟と深い仲になってしまうという許されないスキャンダル。 頼朝もさすがに「天皇への冒涜だ!」と周りからクドクド言われ、義経をかばうことはできなくなってきました。 かばうどころか「あのバカ!ヤツはほんっとーに何にもわかってない」と、さらにむかつくことになっていくのです。 |
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1185年5月7日 義経鎌倉へ謝りに! 腰越状(こしごえじょう) | ||||
義経は頼朝が怒っていることを知り、手紙じゃいくら謝っても無理かも・・・と思い、鎌倉へ行くことにしました。 壇ノ浦で捕虜にした平宗盛(むねもり)・清宗(きよむね)親子を連れ、5月7日京都を出発したのです。 15日に神奈川県の酒匂(小田原)に到着し、使者を出し明日鎌倉に到着しますという連絡をしました。 が、頼朝は北条時政を酒匂へ向かわせ、「捕虜だけ受け取るからお前はそのへんで待ってろ」という伝言を言い渡したのです。 義経は鎌倉の入り口である腰越までやってきて、数日過ごしました。 が、まったく頼朝から連絡が来ない。 「そんなに怒ってるのかなぁ?これは絶対誤解を解かなくちゃヤバイかも」と憂鬱に。 そして義経は24日に、大江広元(おおえひろもと)宛てに手紙を書いたのです。 これが有名な「腰越状」です。 「恐れながら申し上げます。私は父の恥辱をすすぎ、本来なら褒章があってもいいところなのに、梶原の讒言により私の莫大な勲功は全てナシになってしまいました。そのため虚しく悲嘆の涙に暮れております。そして鎌倉に入ることも出来ず虚しく数日を送っています。ここでこのまま対面してくれないのであれば、兄弟の縁はきれたも同然です。なぜこのような事になってしまったのでしょうか?まだまだ申し上げたいことは沢山ありますが、紙に書ききれません。なにとぞ義経の心をわかってください」 というような内容で、手紙もすごく長い文章でした。 この腰越状の下書きが鎌倉の満福寺に残ってます。 |
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1185年6月9日 義経ショック・・・京都へ戻る | ||||
腰越状を受け取った大江広元。 が、広元はその手紙を頼朝に渡しませんでした。 結局義経は、鎌倉入りを許されなかったのです。 とりあえず鎌倉に行けば何とかなるだろうと思っていた義経は大ショック。 頼朝の仕打ちに恨みを持ちながら、平宗盛らを連れ京都へ戻っていったのです。 |
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義経捨てゼリフを吐く | ||||
虚しく京都に帰ってきた義経。 ショックは恨みに変わってきていました。 しかも京都に戻る時に「頼朝に恨みを持ってる者は義経の所に来い」と捨てゼリフを吐いたのです。 これを聞き、ますます怒った頼朝。 「義経の所領を全部没収しろ!」と命令しました。 京都に戻った義経は、戻ったとたん自分の所領が没収されているのを知りました。 ここまで2人の間がこじれてしまうと、頼朝はもう義経が邪魔者以外の何者でもなかった。 「自分は正妻の子・ヤツは愛人の子」とゆー差別もあった頼朝でした。 |
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1185年6月21日 平宗盛・清宗の処刑 | ||||
頼朝は鎌倉にて捕虜として連れてこられた宗盛らと面会。 この時、宗盛が頼朝に対し媚びへつらい、見苦しい様を見せたのです。 反対に弟の重衡は堂々としており、「さすがは常勝将軍(武芸にも優れ、常に勝っていたことから付いたあだ名)」と周りの者を感心させたそうです。 そしてこの場にいた人々は宗盛を「なんと情けない。媚びたところで命が助かるはずもないというのに・・・」とあざ笑いました。 頼朝は宗盛親子を義経に渡し処刑するように命じました。 義経は近江(滋賀県)で宗盛・清宗を引き離しました。 宗盛はここが自分の死に場所とわかると、最後の瞬間まで息子清宗のことばかり考え斬られました。 そして清宗も斬られたのです。 さんざん醜態をさらした宗盛ですが、人々は最後の最後まで我が子の事を心配する宗盛の姿をとても哀れみました。 また処刑人として宗盛を斬ったのは橘公長。 この人は元々平氏の家来でした。平氏が危なくなってくると真っ先に寝返った人です。 人々は「いくら世にへつらうと言っても、情けない奴だ・・・」と非難したそうです。 |
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1185年9月 頼朝 梶原景時を偵察に行かす | ||||
この頃、頼朝の叔父である源行長(ゆきいえ)に怪しい動きが。 行長は以仁王が挙兵した時、全国の武士に令旨を与えたりした人です。 その後、頼朝の下に入ったんですが、「なんでオレがこの地位なの?」と不満ブーブーで、とうとう頼朝に追い出されました。 すると行長は頼朝のライバルである木曽義仲の所に行き、頼朝と義仲の関係をさらに悪化させました。 頼朝にとって「トラブルメーカー」だったのです。 そんな行長が今度は義経と何か企んでいるというニュースを聞いた頼朝。 「またあいつか・・・。景時、京都に行ってヤツラの様子を探ってきてくれ」と命令しました。 景時が京都に行き、わざと義経に「行長を追討しませんか?」と話しを持ちかけました。 すると義経は「オレ今病気だから。行長?あぁ、あいつは俺らと同じ源氏一族だよ?攻めるのはマズイでしょー?それにオレ病気!治ったらその話しをしようや」と曖昧な返事だったのです。 |
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1185年10月 義経暗殺計画 土佐房昌俊京都へ | ||||
鎌倉に戻った景時にその話しを聞いた頼朝 「義経は行長と何か企んでいるから仮病を使ったのだな。よし!こうなったらもう義経を殺すしかない!」と、とうとう心に決めたのです。 そして「誰か義経を殺す役目を申し出る者はいないか!」と聞きました。 すると皆、うつむき頼朝と目を合わせないのです。 頼朝は「景時、お前が行け」と命令しましたが、景時は「えっ!私は色々とやることが・・・しどろもどろ・・・」と、必死になってその役目を辞退する始末。 戦の天才である義経を殺す役なんて、おっそろしくて出来ないよー・・・・という空気が流れまくりました。 するとその時、土佐房昌俊という男が手を挙げたのです。 ※土佐房昌俊の出目やこれまでの半生は不明です。頼朝の父、義朝に最期まで従っていた金王丸が名前を変えたとも言われています。 そして10月9日。 土佐房昌俊は義経を討つべく京都に向かいました。 が、これはアッサリと義経にばれてしまい土佐房昌俊は首を斬られてしまったのです。 |
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義経激怒!頼朝をやっつけてやる!! | ||||
暗殺者までよこされた義経は、とうとうキレた。 「もう兄とも思わん!」と、後白河法皇のもとへ行き、「頼朝を討たせてくれ」という令旨を願い出たのです。 そうこなくっちゃ!とウッキウキなのは後白河。 武士の力が日に日に強くなっていることをムカムカしていた後白河は、待ってましたとばかりに義経に「頼朝追討」の令旨を与えました。 後白河は真っ向から頼朝と対立したら勝ち目のないこともわかっていました。 で、頼朝を牽制するために義経を利用したのです。 官位を授けたのも、義経をめちゃくちゃ可愛がったのも全て自分のため。 両者が争っていてくれれば、院政は安泰だからです。 この時も、義経に令旨を出し義経のご機嫌をとり(いまや朝廷の武力は義経しかないから)、後で頼朝には言い訳しとこ・・と考えていたのです。 そして今度という今度は覚悟を決めた義経。トラブルメーカー行長も義経軍に加わることになったのです。 |
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1185年10月29日 頼朝「ふーん・・・やる気なんだ?」 | ||||
暗殺計画の失敗、義経が追討の令旨を受けたことを聞いた頼朝。 が、「へぇー」って感じで、全く焦りませんでした。 頼朝は、父・義朝の菩提を弔うためのイベントで大忙しだったのです。 で、そのイベントが終了した10月24日に和田義盛と梶原景時を呼び、「明日、京都に行こうぜ」と言ったのです。 が、翌日頼朝はビックリ! 集まった兵らはわずか58人だったのです。 みんなこないだまで義経とともに平氏と戦っていました。 そして義経の戦いっぷりや、天才的な武略に恐れをなしていたのです。 ですが出発しないわけにもいかないので、とりあえず先陣が25日に鎌倉を出ました。 29日になると頼朝自らが鎌倉を出たのです。 すると「頼朝殿自らが出陣なされた」というニュースが東国に広まりました。 さすがに棟梁自らの出陣となれば行かないわけにはいかないよなぁーと、続々と武士達が集まり始めたのです。 |
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11月3日 義経 都落ち 西へ逃げる | ||||
対する義経は、頼朝追討の宣旨を受け、近国の武士達を味方につけようとしていました。 が、全然味方が集まらないのです。 いまや源氏の棟梁に勘当され、所領も没収された義経。 「義経の味方したって、メリットないじゃん?だったら頼朝の方がいいじゃん」という者が殆どだったのです。 義経の思惑は見事外れてしまいました。 ついに義経、これでは無理だと都を出て西へ向かうことにしたのです。 11月3日の早朝、義経は主従200騎で静かに都を出て行きました。 かつて平氏や木曽義仲が都落ちした時は、掠奪や放火がめちゃくちゃ多かったのに対し、義経は見事にきれいな引き際だったのです。 こうした引き際が、後々まで義経の評判を良くしたのです。 |
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11月6日 義経 行方不明に! | ||||
義経一行は大物浦(兵庫県)から船に乗りました。 すると、ものすごい暴風雨となり船が転覆してしまったのです。 従者は一目散に逃げ、義経のもとに残ったのは源有綱(ありつな)・堀景光(ほりかげみつ)武蔵房弁慶・静御前の4人だけとなってしまったのです。 そして義経は以後行方不明となりました。 |
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11月7日 頼朝「後白河は日本一の大天狗じゃぁ!」 | ||||
京都に向かっている頼朝に「義経都落ち!」のニュースが入り、さらに「後白河は義経が都落ちする前日に、山陽道などの全ての土地を義経にあげるっていう約束をした」というのを聞きました。 「はぁ!?こないだのオレ様追討命令といい、勝手に土地あげるとか言ったり、後白河は一体何なんだ!?」と、怒りの矛先は後白河へ向かっていきました。 頼朝が怒っているというニュースを聞いた後白河。 「こりゃマズイ!」と、その日のうちに義経の官職を剥奪。 さらに、義経と行長を探すよう国司達に命令したのです。 頼朝の怒りを恐れた後白河は、すぐさま使者を出し「義経のことは悪魔がワシの心にちょっと入ったのです。それに、頼朝追討の宣旨を出さないと、義経と行長はワシの目の前で自殺するって言うし・・・。だから出しちゃったけど、ワシの本心ではないのじゃ」と弁解しました。 その弁解に対し頼朝は「オレは多くの朝敵をやっつけ、法皇に対して忠義を尽くしてきたよね?だけどオレを追討しようとしたよね?いくら本心からじゃないって言ったって信じられないからな!そもそも義経らの謀反だって、仕向けたのは法皇だろぉ?よって日本一の大天狗は法皇である!!」と言ったのです。 この頼朝の発言に後白河や朝廷の人々は顔が真っ青。 やばいことになった・・・・朝廷全部がこう思ったのです。 |
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1185年11月28日 守護・地頭を設置する | ||||
頼朝の怒りはおさまりそうにありませんでした。 25日には北条時政が千騎の兵を率いて京都へ。 そして「義経・行長を探すために幕府より派遣した守護・地頭を日本各地に置きたい」と言って来たのです。 守護というのは、国内の御家人の監督や軍事・警察の仕事をするとこ。 地頭は、全国の荘園などに置かれ、年貢の取立てや警察の仕事をするとこ。 表向きは行方不明になった2人を探すためというものでしたが、頼朝の考えは「全国各地に幕府の支配下である部署を置く」というものでした。 もはや後白河は、その願いを拒否する力はありませんでした。 もう受け入れるしかなかったのです。 これにより全国に頼朝の支配下を置き、軍事・警察の権利を握り、鎌倉幕府は支配力を伸ばしていくこととなります。 鎌倉幕府が武家政権の足場を固めた瞬間でした。 ちなみに、この守護・地頭はのち「大名」に代わっていき、戦国に突入することとなるのです。 |
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11月17日 静御前捕まる | ||||
義経は追われる立場となり、あちこち逃げ回ることになってしまいました。 都では義経は○○にいる!などと、色んな噂が飛び交いました。 実際義経は吉野に潜伏していました。 義経は吉野にいるという噂も流れており、吉野山を探していると、義経の愛妾静を捕らえたのです。 静はここまで一緒に逃げてきましたが、吉野山は古来より女人禁制のためやむなく別れることに。 そして下山途中に捕まってしまったのでした。 |
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1186年4月8日 静御前 鎌倉八幡宮で舞う | ||||
捕らえられた静は3月1日、母とともに鎌倉に連行されました。 静は義経の行方を厳しく尋問されるが一切口を割らなかった。 4月8日 頼朝の妻北条政子が、日本一の白拍子と言われている静の舞いを是非見てみたい!と言いました。 義経の子を妊娠している(ちょーど5ヶ月)静は、舞うことを辞退するんだけど結局断りきれずに舞うことに。 頼朝が「八幡大菩薩の為に舞え」と命令しました。 が、静が舞ったのは義経への思いを込めた舞だった。 野山峰の白雪ふみわけて 入りにし人の跡ぞ恋しき しづやしづ賤のをだまき くり返し 昔を今になすよしもがな 内容は「吉野山の白雪を踏みながら、山へ入ってしまったあのお方。その跡が恋しくてたまりません。静、静と繰り返し私の名前を呼んでくれた懐かしい義経殿。もう一度、義経殿に会いたい」 静の美しい歌声と舞に人々は超感激! ですが頼朝激怒!!! 鎌倉万歳の舞をするべきなのに、反逆者である義経を慕う歌をうたうとは何事じゃ!!と、今にも静をぶっ殺しそうな勢い。 そこに政子が、「静の気持ちはよくわかります」と頼朝をなだめた。 「私だってあなたが戦いに行っている間は、心配で心配で魂が削られる思いでした。そのときの気持ちは今の静と同じです。」 頼朝は政子に弱い。仕方なく機嫌を直したのです。 |
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1186年5月12日 源行長死す!逃げる義経 | ||||
義経らは逃げまくっていました。 鎌倉では噂ばかりが先行し、捜査は困難を極めていました。 が、とうとう5月に行長が包囲網にひっかかりました。 和泉国の下級役人の家に匿われているということが明らかとなり、12日に北条時定らが向かいました。 これに気がついた行長は山中に逃げ込みましたが捕らえられ、首を切られたのです。 さらに6月、義経の母である常盤御前と、妹の廊の御方が京都で捕まりました。 常盤から義経の居場所を聞いたけど、すでに逃げた後でした。 7月には義経小舎人童(こどねりわらわ・雑用係りの少年)が捕らえられ、自白により比叡山にいることがわかりましたが、義経らはそこも逃げた後でした。 |
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1186年7月29日 静御前出産 | ||||
その後静は、鎌倉にて出産することを強制されました。 そして7月に男児を出産したのです。 が、生まれた子が女児なら命は助けてもらえるが、男児の場合は殺すと頼朝から言われていたのです。 頼朝から命令を受けた安達新三郎は、泣き叫ぶ静の手から生まれたばかりの男児をもぎとりました。 静は泣き伏し、叫びました・・・。 そして、その子は由比ガ浜の海へ沈められてしまったのです。 この時は政子の助命願いも頼朝は却下。 自分が平清盛に助けられたことにより平氏は滅亡したということもあって、幼子でも男児を生かしておくことは危険ということがわかってたんでしょう。 9月、静は京へ帰ることを許される。 この時政子の娘大姫は静にとても同情し、たくさんの贈り物をしたらしい。 大姫も大好きだった婚約者を父頼朝に殺されているから同情したみたいです。 その後の静は行方不明。悲恋の恋をした伝説の女性となりました。 |
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頼朝・政子の娘 大姫 | ||||
↑で大姫は静御前に同情しまくったと書きましたが、大姫もかわいそうな女性なのです。 大姫は頼朝と政子が伊豆で暮らしていた頃い生まれた娘です。 6歳の時に木曽義仲の嫡男 義高(11歳)と婚約させられました。 小さな頃から「お前のダンナは義高だよ」と言われ続け、小さな少女は恋心を抱いていたのです。 ですが1183年に義仲が戦いに破れた時 息子の義高を生かしておいたらいつ反旗を翻されるかわからない・・・と12歳の義高は、父の頼朝に殺されてしまったのです。 その後頼朝と政子は一条高能という貴族との縁談を持ち掛けたり、後鳥羽天皇へ入内させようとしたり、なんとか傷ついた娘に幸せな結婚をさせようと頑張るのですが、大姫の心は閉ざされたまま。 「一条と結婚するくらいなら死ぬ!」と言い、義高への思いを貫き一生を終えたのでした。 |
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1186年9月22日 義経家臣 次々と捕まる | ||||
7月には義経の腹心伊勢三郎義盛も捕らえられ首を斬られました。 9月には堀景光が。 そして義経の腹心で、頼朝挙兵の時からの仲である佐藤忠信(ただのぶ)も捕らえられました。 忠信は京都に大好きな彼女(夫アリ)がいて、一通の手紙を渡したのです。 この手紙を夫が発見してしまい足がついてしまったのでした。 |
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1186年11月頼朝 朝廷に最後通牒! | ||||
「こんなに探してんのに、何故いつまでも捕まらないんじゃぁ!」とブチ切れた頼朝。 朝廷に向かって「義経が捕まらないのは、お前ら公卿が鎌倉を嫌いだから義経に味方してるからだろ?噂では後白河法皇の息子、仁和寺宮が匿ってるって話しも出てるぜ?そっちがその気ならこっちにも考えがある!すぐ3万の兵を派遣して、京都を片っ端から捜査してやるからな!」と言ったのです。 朝廷の一大事じゃぁー!と朝廷はパニックに。 確かに朝廷は武士を「田舎者」とバカにしていたけど、武力ではかないっこない。 プライドだけが高いだけだからね。 何万もの兵が京都に押し寄せて捜索されちゃったら、京都はめちゃくちゃになっちゃう!と大騒ぎに。 こうなったら一刻も早く義経を捕まえなければ大変なことになる!ということになり、ついに義経は法皇ら京都の公卿から見放されてしまったのです。 |
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1187年2月 弁慶の勧進帳 | ||||
畿内(関西方面)にいられなくなった義経一行。 東北の藤原秀衡の所へ逃げていくことに。 この頃の人数は12名。一行は山伏に姿を変えて安宅関(あたかのせき・石川県)の関所に差し掛かりました。 関守の富樫左衛門が一行を取り調べることに。 弁慶は「我々は東大寺を建立するために諸国に寄進(寄付のこと)を募るため旅をしております」 すると富樫は「お前が本物の山伏なら勧進帳を持っているはずだ。読んでみろ」と言ったのです。 義経らは冷や汗が出る思いでした。 ですが弁慶は全然慌てず巻物を取り出すと「それつらつらおもんみればぁー」と、すらすら読み上げたのです。 弁慶は比叡山の学僧でした。なんとなく覚えていることを、声高々に即席で読み上げたのです。 「こりゃ本物の山伏だ。お通りあれ」 一行はホッとして通ろうとすると、役人の1人が「おや、あの男、義経殿に似ておる・・・」と言いました。 それを聞いた富樫が「そこの男!待て!」と叫びました。 すると弁慶が金剛杖で義経をめっためたに打ったのです。 「まったく腹が立つ!!お前が似てるってだけでわしらまで疑われるのだ!」とボカスカ殴りまくるのです。 見かねた富樫が「い・・・いや・・何もそこまでしなくても。もうよい!早く通れ!」と言い、一行は無事関所を通ることができました。 そして姿が見えなくなると、弁慶は涙を流しながら「私を殺してください!義経殿を殴るなど・・・」と義経に言ったのです。 義経はもちろん許しました。 |
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義経「子供捨てろ」発言 | ||||
逃亡中、元・本妻である河越重頼娘も離婚された後、実家に帰らずに義経を追ってやってきていました。 一行は越後(新潟)に入り、次は出羽(山形)と歩き、ようやく奥州へ入ったのです。 が、ここで川越重頼娘が産気づいてしまいました。 亀割山(山形)にて女児を出産しましたが、義経は「オレが無事なら娘は生きのびることができるけど、オレはこれから生きれるかどうかアテがない。だから山に捨てろ」と言ったのです。 ですが弁慶が「そのようなことを・・」と悲しい顔をし、その赤子を布にくるみ運んだのです。 赤子は道中で一度も泣くことなく、一行は陸奥(宮城県)に入りました。 |
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義経 とうとう平泉入り | ||||
義経の頼るところは藤原秀衡しかいませんでした。 幼少の頃、鞍馬寺を逃げ出して藤原秀衡の世話になったこともあり、また藤原秀衡も義経をとても可愛がっていたので、喜んでかくまってくれたのです。 平泉での暮らしは河越重頼娘とっては幸せな日々でした。 他の女が誰もいない安らぐ日々だったのです。 藤原秀衡は仏教に帰依しており、争いを好みませんでした。 そのため世の中が源平合戦で明け暮れている時も、中立を保ち続けていたのです。 そこに義経が逃げ込んできました。 ということは奥州平泉は頼朝に狙われることとなる。 それがわかっていながらも、藤原秀衡は義経を喜んで迎えてくれたのです。 頼朝は義経が平泉に逃げたことを苦々しく思っていました。 東北地方で一番勢力のある藤原秀衡は、頼朝にとっても軽々しく攻撃できる相手ではなかったのです。 |
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奥州藤原三代 | ||||
以前にも書きましたが、奥州藤原は後三年の役により藤原清衡によって始まりました。 初代清衡は拠点を平泉にうつし、中尊寺を作るなど平泉文化の基礎を作ったのです。 清衡の死後、二代目となったのが基衡。 平泉は「金」が多く出たため、莫大な金を元に中央政権と渡り合うほど奥州を確実なものとしました。 基衡死後、三代目になったのが秀衡でした。 朝廷から「鎮守府将軍」を任命されるほど優秀で、奥州藤原100年の中で最も華やかな時代を築き上げたのです。 |
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1187年10月29日 藤原秀衡死去! | ||||
が、あろうとことか義経の一番の理解者である藤原秀衡が寿命のため危篤状態になってしまったのです。 秀衡は33歳の泰衡以下6人の息子達を呼びました。 「今後義経を大将とし、平泉を守れ」と遺言したのです。 そして秀衡は息を引き取ったのです。66歳でした。 おもしろくないのは泰衡。 泰衡は、父・秀衡が自分より義経を可愛がるのをおもしろく思っていなかったのです。 |
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悩む泰衡 兄弟でモメる | ||||
頼朝は何度も義経を引き渡せ!という命令を出していました。 泰衡は「父の時は何とか大丈夫だったけど、これからはヤバイんじゃないか・・・さっさと義経を引き渡したほうがいいんじゃないか??」と思うように。 反対に泰衡の弟の忠衡は、「戦の天才義経がいれば大丈夫だ!」と思っていて、家の中でも対立意見がでるように。 が、泰衡は「このままでは頼朝に攻め滅ぼされる!義経さえ殺せば頼朝は奥州を攻めてこないだろう!」と決意したのです。 |
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1189年4月30日 義経死す | ||||
泰衡は数百騎を従え、義経の隠れ家へ。 義経は十数人の家来達とともに防戦しましたが、もはや力は尽きはじめていました。 もはやこれまで・・・と、妻と幼い娘を泣く泣く殺したのです。 そして自らも腹を切り、家臣の十郎権守兼房に「火をかけろ」と命令し、炎の中息を引き取ったのです。 義経31歳でした。 |
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1189年6月13日 義経の首 | ||||
炎の中、義経の首は見つけられ泰衡の使者によって腰越へ運ばれました。 首は黒漆の箱に収められ、美酒に浸してありました。 首実検をしたのは和田義盛と梶原景時。 義経の変わり果てた姿を見た2人は、涙を流したそうです。 が、頼朝はやってきませんでした。 義経は死んでも鎌倉入りすることは許されなかったのです。 |
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1189年9月6日 奥州藤原氏の滅亡 | ||||
頼朝は「義経を匿った」として平泉を攻めることに。 7月19日 頼朝自らが平泉へ向かいました。 泰衡は「義経さえ殺せば何とかなるだろう」と思っていた自分の読みの甘さに愕然。 頼朝からしてみれば、中央政権とも渡り合えるほどの勢力を持っている奥州平泉を倒すのは今しかない!と思っていたのです。 藤原国衡がかなり奮闘しましたが、負けてしまい、8月22日 頼朝軍はついに藤原の本拠地平泉へ入ったのです。 が、 泰衡はもはや平泉を守るのは無理か・・と、前日逃亡していました。 9月6日 逃亡した泰衡ですが、なんと家臣の裏切りにあい討たれてしまったのです。 北の王者 奥州藤原の幕切れでした。 奥州への大遠征は3ヶ月で終了しました。 頼朝にとってこの大遠征は、これまでの源平合戦などで動員した全国の武士達を再集結させ、頼朝のもとで戦わせたことに大きな意義がありました。 武士達は鎌倉幕府の棟梁である頼朝の絶対的な権力を見せつけられることとなったのです。 |
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