日本の合戦



日本では、数多くの戦いが繰り広げられてきました
あの有名な戦いは一体ナゼ起こったのか!?をハガクレ流ミーハー解説で紹介
※合戦データは(人数など)その時に参考にした資料をもとに作成してます

672年 壬申の乱 天智天皇の死後、皇位を争う古代最大の戦い
940年 平将門の乱 平将門が関東のために立ち上がった!北山の合戦
1156年 保元の乱 皇位をかけた皇族の戦い!ちなみに発端は女がらみ
1159年 平治の乱 最初の源氏VS平氏のバトル!!
1180年 石橋山の戦い ラッキーマン源頼朝が命拾いした戦い
1180年 富士川の合戦 水鳥の音でビビって逃げ、戦わずして終わった合戦
1183年 倶利伽羅峠の合戦 源氏の木曽義仲が立ち上がった!
1184年 一ノ谷の合戦 源義経の「鵯越の逆落とし」が成功した戦い
1185年 屋島の合戦 一ノ谷で逃げた平氏を追う源氏VS平氏の合戦
1185年 壇ノ浦の合戦 平氏と源氏の最後の戦い
1189年 阿津賀志山の合戦 奥州藤原氏滅亡した戦い
1221年 承久の乱 いざ鎌倉!武士の権利を守るための武士の戦い
1325年 正中の変 後醍醐天皇の討幕クーデター!合戦じゃないケド、ポイントなんで一応ね
1331年 赤坂千早城攻防戦 楠木正成のゲリラ戦!
1333年 鎌倉討ち入り 幕府滅亡の戦い
1335年 中先代の乱 混乱する世の中 そんな時北条高時の息子が立ち上がった
1336年 湊川の合戦 足利尊氏VS新田義貞・楠木正成チームの戦い
1338年 藤島の合戦 新田義貞のあっけない最後・・・
1467年 応仁の乱 何も得ることのなかっただらだらした戦い。これにて戦国時代へ突入!!
1495年 小田原城攻略戦 出てきました!戦国大名第一号北条早雲
1536年 花倉の乱 今川家のお家騒動!太源雪斎が大活躍
1540年 郡山城攻防戦 毛利元就が尼子家衰退の原因を作った攻防戦
1546年 川越夜戦 戦国の三大奇襲戦の一つ!北条氏康の名が轟いた戦い
1548年 上田原の合戦 あの武田信玄が負けた戦い!相手は信濃の村上義晴!!
1550年 戸石城攻防戦 信玄リベンジなるか!?またも村上義清にバトルを挑む
1550年 大友二階崩れ 九州の大友家のお家騒動!宗麟が立つ!
1555年 厳島の合戦 毛利元就の知略で勝利した奇襲戦
1556年 長良川の合戦 斎藤道三VS息子のお家合戦!!
1556年 稲生ヶ原の合戦 柴田勝家らが信長を殺そうとした織田家内のクーデター
1560年 桶狭間の合戦 織田信長デビュー!天下に名を知らしめた奇襲作戦
1561年 川中島の合戦 信玄VS謙信!日本史上に残る両雄の戦い
1565年 月山富田城攻防戦 毛利元就による尼子家滅亡の攻防戦
1570年 野洲川の戦い 柴田勝家が粘る!亀割り柴田の異名を残した戦い
1570年 姉川の合戦 復讐に燃える織田信長が浅井長政へ挑む!
1570年 今山の合戦 備前の熊が戦国時代へ突入してきました
1572年 三方ヶ原の合戦 生意気な信長をやっつけるため風林火山が動く!
1573年 刀根坂の合戦 朝倉義景が滅亡した戦い
1575年 長篠の合戦 名門・武田が滅びゆくきっかけとなった戦い
1576年 七尾城攻防戦 上杉謙信が上洛へ向け立ち上がった!
1577年 手取川の合戦 織田信長、上杉謙信の前になすすべなし!!
1578年 三木城攻防戦 秀吉得意の兵糧攻め
1578年 耳川の合戦 九州の覇者・大友宗麟が衰えていく戦いとなります
1578年 御館の乱 謙信亡き後、跡継ぎを巡る上杉家お家騒動
1578年 木津川口海戦 戦国最大の海戦!最強毛利水軍に信長が挑む
1581年 鳥取城の合戦 秀吉が行った鳥取城包囲戦 200日間の餓鬼地獄
1581年 天正伊賀の乱 信長の息子が挑んだ伊賀への挑戦!
1582年 本能寺の変 敵は本能寺にあり!明智光秀の謀反
1582年 高松城攻防戦 秀吉が知略で落とした高松城 清水宗治の見事な切腹が有名
1582年 山崎の合戦 光秀VS秀吉 主君信長の仇!
1582年 中冨川の合戦 四国統一を目指した長宗我部元親の合戦
1582年 高遠城攻防戦 武田最後の意地!若武者仁科盛信が最後まで戦う!
1583年 賤ヶ岳の合戦 信長の後継者を巡る家臣たちの戦い
1584年 小牧・長久手の合戦 秀吉VS家康 家康が秀吉に実力を見せつけた戦い
1584年 末森城攻防戦 前田利家VS佐々成政 因縁のライバル対決
1584年 沖田畷の合戦 九州の覇者を巡る戦い
1585年 人取橋の合戦 遅れてきた男・伊達政宗のデビュー戦
1585年 第一次上田城攻防戦 家康、真田の知略に翻弄される
1586年 戸次川の合戦 秀吉勢、九州を攻める!
1587年 高城攻防戦 秀吉 島津を攻め九州を統一!
1589年 摺上原の合戦 伊達政宗・メジャー進出を目指すも・・・
1590年 小田原の陣 豊臣秀吉 天下統一の戦い




672年 壬申の乱
勝者 大海人皇子 42歳?
敗者 大友皇子 25歳?

古代史での大きな戦い「壬申の乱」は、天智天皇の弟・大海人皇子と、天智天皇の息子・大友皇子とのバトルであります

天智天皇は、天皇になる前「中大兄皇子」として、権力をメチャクチャ持ってる人でした
そんな天智天皇は自分の息子を次の天皇にしたかった

が、弟の大海人皇子も天皇になりたかった

そこがこの戦いの発端であります

まず天智天皇時代ですが、これが結構いろんなことしでかしちゃってた
日本の軍事力を見せつめるために「白村江の戦い」という唐との戦いでぼろ負け
民衆は不満を募らせまくっていた

さらに天智天皇は女性好き
なーんと弟の大海人皇子の奥さんの「額田王」を奪っちゃったのです
大海人皇子は兄に逆らえず、ムラムラしてました

そんな天智天皇は、自分の息子・大友皇子を次の天皇にするべく必死
が、弟の大海人皇子のことが気になる
ってことで、大海人皇子を呼び出して「お前、天皇になりたい?」と聞いちゃった

すると大海人皇子は「いえいえ。私より大友皇子の方が天皇になるほうがいいですよ。私は吉野で隠居生活をしますヨ」と言って吉野へ行った
実はこのとき、大海人皇子が「うん!僕、天皇になりたい」って言ったら殺すつもりだった天智天皇
ですが、弟の大海人皇子は吉野へ隠居しちゃったので、そのまま見過ごすことに

こうして天智天皇が死去しました

ここでがばっと立ちあがった大海人皇子
「もう遠慮はいらねぇぜ!」とばかり、大友皇子に襲い掛かったのです
正直、ほとんどが大海人皇子の味方をしてた
やっぱり天智天皇の早すぎる改革への不満が、豪族達の間で溜まっていたのでしょう

こうして大友皇子はやっつけられ、大海人皇子が新しい天皇へ
天武天皇となり、壬申の乱は大海人皇子の勝利となったのでした


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940年 北山の合戦
(平将門の乱)
勝者 藤原秀郷
兵力3000人?
敗者 平将門 38歳
兵力 400人?

この時代、「武士」が各地で続々と誕生していました
平将門もその一人であります

さて、武士といえば「土地」が命!
が、将門は自分の一族に土地を奪われたりとひどい目にあってきました
で、朝廷に「どうにかしてよ!」と言っても、朝廷は知らんぷり
「こんなバカバカしいのやってられっか!オレは新しい国を関東に作るぜ!」と、関東を独立させる!ってことになったのです

将門の関東での人望は厚く、まさに関東のヒーローになってきました
さらに京都の「天皇」に対抗して「新皇」になっちゃいました

朝廷は「そんなこと許さん!」と、藤原秀郷を向かわせ、今の茨城県坂東市(・・・と、言われている)で合戦が始まるのです

人数は多い朝廷軍ですが、将門率いる400人は怒涛の勢いで襲い掛かってきました
朝廷軍はこの勢いに怖くなって逃げちゃう人が続出

が、なんと誰だかもわからない一本の矢が、将門のおでこにちょーど当たってしまったのです
これにて将門は死去してしまいました

さて、余談ですが無念の死を遂げた将門の首は、「今一度合戦を!!」と叫びながら、現在の東京都大手町に落ちたそうです
そこに「将門の首塚」が建てられました
現在、かなりのミステリースポットとなっておりますゾ・・・



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1156年 保元の乱
勝者 後白河天皇 30歳
兵 1700人
敗者 崇徳天皇 38歳
兵 1000人

保元の乱ってのは、根がふかーーーーいスキャンダルが絡んでいるのであります

そもそもの発端は女好きで好き勝手していた白河上皇が藤原璋子(しょうし)という15歳の美少女を可愛がっちゃったのが始まり

で、その璋子ちゃんを自分の孫である鳥羽天皇(17歳)のお嫁さんにしちゃった
そんでもって、白河上皇と璋子ちゃんは、鳥羽天皇をそっちのけでラブラブ
とうとう璋子ちゃんは妊娠し、子供を産んじゃった
これが後の崇徳天皇

おもしろくないのは鳥羽天皇「なんでオレの妻が、おれのじーさんの子供を産むわけ!?」と、崇徳天皇を可愛がらなかった

白河上皇はというと、この崇徳天皇を可愛がり、鳥羽天皇に「おまえ、早く崇徳に天皇の位譲ったれや」と、無理やり鳥羽は上皇にされ、「天皇」の座は崇徳へ

「なんなんだよ!くそー!」とムカムカの鳥羽

そしてやっとこさ目の上のたんこぶである白河上皇が死んでくれたのであります

「やっとオレ様の時代だぜ!」と鳥羽上皇は羽伸ばしまくり
若くてぴちぴちの得子という妻をゲット
そして得子が男の子を生んでくれました

そしてもちろん、鳥羽上皇は得子が産んだ男児を天皇にしたかった
けど、崇徳天皇にも男児がいるので、こっちを天皇にしたい

すったもんだの末、得子の生んだ子が次期天皇になることに決定しました
そして近衛天皇となったのです
が、なんと近衛天皇が死んでしまったのです
崇徳はラッキー♪とばかり喜びましたが、なんと得子が「あたしの子が死んだのは崇徳が呪い殺したのよ!」とイチャモンをつけてきたのです

ってことで、飛び出してきたの忘れられていた崇徳天皇の弟でした
そして無理やりこの弟を天皇にしちゃったのです
これが後白河天皇です

崇徳天皇は「オレにも息子がいんのに、なんでわざわざオレの弟を天皇にすんだよ!陰謀だ陰謀!」とキレてしまい、とうとう天皇家にケンカをふっかけるべく準備を始めました

そうこうしてるうちに、ラッキーなことに鳥羽が死んでしまった。

崇徳大チャーンス!!

早速崇徳は左大臣になった藤原頼長に相談

「オレさぁ、鳥羽がうるさいから天皇の座を近衛に譲ってやったじゃん?近衛が死んだらフツー俺の息子を次の天皇にするだろぉ?だけどワケわかんない後白河が出てきちゃってさぁ。あいつナニよ?今までどこにいたのよ?29歳でデビューしやがってよー。まぁうるさいオヤジの鳥羽も死んだから今度こそオレが権力奪取してもいいよな?な?」とぶっちゃけ話をしました

というわけで、崇徳は後白河天皇にケンカをふっかけたのです。

この時ケンカに参加したのは主に「源氏」と「平氏」

崇徳チームには、源為義・源為朝・平忠正(清盛の叔父さん)藤原頼長(弟)

ここに出てくる「源氏」は、白河上皇が引き立てた源義家の孫とひ孫

後白河チームには、藤原忠通(兄)・源義朝(源頼朝のおとーさん)、平清盛・平重盛(清盛の長男)

で、崇徳側の源為朝が「夜中のうちに後白河んとこに行って奇襲してやっつけちゃおう!」と提案。

が、おエライさんの藤原頼長が「皇位をかけた戦いは白昼堂々とやるもんだぁ!」と却下

そしたらなんと、後白河天皇側が7月11日早朝、崇徳の家に不意打ち!
準備の整ってない崇徳側はあれよあれよと3時間ほどでボロ負け

この時、崇徳側が源為朝の提案を受けていれば勝てたのにね

ちなみに崇徳天皇は、この後島流しにあいます
そして「オレは魔王になって天皇家を呪ってやる!天皇家以外の民をのし上がらせるようにしてやる!」といった内容の呪いの手紙を書き続け、ボロ布を身にまとい、髪の毛も伸ばしっぱなしのまま(天狗になったとか)その手紙に血を滴らせ瀬戸の海に沈めたのです

そして崇徳の呪いはこののち的中(?)することとなり、武士の世となっていくのであります


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1159年 平治の乱
勝者 平清盛 42歳
兵 3000人
敗者 源義朝 37歳
兵 2000人

上に書いた保元の乱で後白河天皇の味方をした源義朝(源頼朝のおとーさん)と平清盛・平重盛(清盛の長男)

が、後白河がたくさんご褒美をあげたのは平清盛ばっか

これにムカついてたのは源義朝
「なんでアイツばっか?オレだって頑張ったのによ!」と不満タラタラ

おもしろくない源義朝はとうとう清盛が参詣に行ってる隙を狙ってクーデターを起こしたのです

後白河を拉致し、二条天皇を監禁してしまったのです。

そして無理やり褒美の貰いなおし

この知らせを受けた清盛は密かに京都に戻ってきました

そして義朝の仲間である2人の公家を裏切らせ味方にさせた

で、後白河&二条を無事救出

この時二条天皇は女装させられたそうです
無断転載禁止です ハガクレ★カフェより
上皇&天皇を取り戻した清盛は、京都のど真ん中で義朝と大喧嘩

ここで義朝の仲間である源頼政の裏切りがあり、義朝ボロ負けしてしまったのです

義朝は戦い終わって逃げる途中、お風呂に入ってるとこを部下に殺されてしまいました
義朝38歳でした

以後、平清盛は「平氏政権」を作っていくこととなります

そんな清盛最大の誤算は、義朝の子供達の命を助けてしまったこと

嫡男の源頼朝を伊豆へ流し、そして義経にいたってはおかーさんの常盤がめちゃくちゃ美人だったため「妾になれば子供の命をたすけてあげよう」なんて言っちゃって、義朝の子供達をみーんな殺さなかったのです


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1180年 石橋山の戦い
勝者 大庭景親
兵 3000人
敗者 源頼朝 34歳
兵 300人

源氏の嫡男として平家を倒すべく立ち上がった頼朝
手始めに伊豆の目代である山木兼隆を襲い勝利

そして頼朝の協力者である三浦氏は援軍を送り込み、頼朝は三浦軍と合流しようとしました

ですが小田原にある石橋山で、頼朝をやっつけようとしてた大庭景親軍3000人と遭遇しちゃったのです

対する頼朝軍は300人

しかも、頼朝軍を追っかけに後ろから伊東裕親(いとうすけちか)軍300人がやってきていた

挟み撃ちになった頼朝大ピンチ!!!

ちなみに、この時追っかけてきた伊東裕親は頼朝が大嫌いでした
というのは、伊東裕親が京都に行ってる間に頼朝は裕親の娘に手を出し子供ができちゃったから

で、深夜から明け方にかけて両軍入り乱れての大激突となりました

ですが多勢に無勢。頼朝軍はメッタメタに負けちゃったのです

頼朝や北条時政らは石橋山の背後にある山中に逃げ込み、木のほこらに隠れました

大庭軍は必死で頼朝を見つけようとしてました

そして、大庭軍の梶原景時が隠れている見つけてしまったのです

「うわ!こんなトコに隠れてるよ!こんなトコで殺されるなんて気の毒だよな。あまりにも無残だろ・・・」と思った景時は「梶原景時でございます。心配しないでくだされ」と声をかけました

そして「ここにはおらんぞ!」と大声を出したのです
景時は頼朝らを見逃してくれたのでした。

その心は「あなたが出世した時は、わしのことヨロシク」の意味もありました
梶原景時はなーんとなく平氏がやばくなってきたことを予想してたのかもしれませんね

なんとか助かった頼朝らは、真鶴から千葉の安房へ逃げました。

安房は三浦氏の影響が強く、千葉には千葉介常胤(ちばのすけつねたね)や上総介広常(かずさのすけひろつね)ら、頼朝のお父さん(義朝)の家臣だった豪族がいるとこです

そこで再度立て直しをはかるのでした


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1180年 富士川の合戦
勝者 源頼朝 34歳  
兵 20万
敗者 平維盛 24歳
兵 5万

勢いづいてきた源氏を倒すべく、平清盛は維盛を総大将とし、源氏追討を命じました
維盛は平家のゴッドファーザー清盛の長男・重盛の長男であります
ちなみに「光源氏の再来」といわれたほどの美男子なお坊ちゃまでした

こーして静岡県の富士川を挟んで源氏VS平氏の対陣となりました

が、維盛が総大将ってことで、平氏側も「戦いなんて全然わからんお坊ちゃまを総大将にするなんて、いくら石橋山で頼朝を破ってるとはいえナメとんのか?」と言われるほど

さらに維盛坊ちゃんが総大将なんて危なっかしくて戦う気になれんわい!と平氏を離れていく武士がどんどん増え、逆に頼朝の味方が増えちゃったのです。

で、甲斐の武田源氏が抜け駆けして手柄をたてようと、夜中にこっそりと平氏のトコに攻め込もうとしました

が、水鳥が人の気配を感じてびっくりして飛び立ってしまったのです!

その水鳥の音にビックリした平氏は、奇襲と勘違いしビビって大パニックに陥り、みんな逃げちゃいました

頼朝は、戦いもせず勝ってしまったのです

この富士川の合戦で、平氏の評判はガタ落ちに!

頼朝はこの勢いで京まで攻めようとしたけど、三浦・千葉・上総らが「まず関東の地固めをしてからのほうがいい」というアドバイスに素直に従いました

で、鎌倉に帰る途中奥州から駆けつけたある男と対面するのです

これが源義経(牛若丸)22歳でした



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1183年 倶利伽羅峠の合戦
勝者 木曽義仲 30歳  
兵 5万
敗者 平維盛 27歳
兵 10万

木曽義仲は源頼朝のお父さんの弟の息子であります

頼朝が平家をやっつける為に立ち上がったと聞くと「なにぃ!それならオレだって!」と、兵を挙げました

義仲は信濃方面でこちょこちょバトルしてましたが、平維盛率いる平氏軍10万がやってくると聞き、富山県の倶梨伽羅峠で待ち構えました

味方は5万か・・・まともにぶつかったら負けるなぁ・・・と考えた義仲は「火牛の計」を決行することに
牛の角にたいまつをつけて平氏の陣中に突っ込ませたというヤツです。

義仲は夜を待ちました
そしてあたりが暗くなってきた時に、火牛の計作戦を決行したのです

火をつけられた牛ははやり立ち、平氏の陣向かって乱入していきました
平氏は大混乱に陥り、逃げ場もなく谷底に落ちる人続出。転落死体は18000人以上となる惨敗となったのです

※でも、この火牛の計は創作性が高いそうですよ〜

ってことで、倶利伽羅峠で見事平家を破った義仲

意気揚々と京都へ行き、平家を追い出したのです


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1184年 一ノ谷の合戦
勝者 源義経 26歳
兵力 6万
敗者 平宗盛 38歳
兵力 10万

義経は源頼朝の弟で、戦の天才といわれた人であります

さてさて、時は源平合戦がスタートしておりました
平家は京を捨て、現在の兵庫県神戸市に陣を構えていました
そこへやってきたがの義経率いる源氏であります

一ノ谷は山と海に囲まれた天然の要塞
ここを真正面から攻めるとなると、かなりきつい戦いになるはずだった

さて、義経たちは70騎は、平家の陣を見下ろす崖の上に立っていた
そしてその辺を歩いている領民に声をかけた

義経「この崖は馬は下りれるか?」
領民「いやぁ〜無理でしょう。でもたまに鹿が駆け下りてますけどね」
義経「なに!?鹿が!鹿が降りれるなら馬も下りれるであろう!」
家臣「えぇっ・・・マジですか?」

そして義経はこの崖を馬で降りて、平家の陣を急襲することにしたのです
これが「鵯越の逆落とし」と呼ばれる奇襲であります

驚いたのはのほほーんとくつろいでいた平家の人たち
まさかあんな断崖絶壁から奇襲されるとは思っても見なかったからです

こうして平家は海へ逃げ、義経は見事勝利をおさめたのでした


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1185年 屋島の合戦
勝者 源義経 27歳 
兵 150人
敗者 平宗盛 39歳
兵 ?

上の一ノ谷の合戦で海に逃げた平氏は香川県高松市の屋島に逃げておりました

この頃、義経はお兄ちゃんの頼朝から「お前、ちょっと調子乗りすぎ」と、謹慎処分を受けており、変わって頼朝のもう一人の弟である載頼に任せていました

ですが、載頼はやられっぱなし

さらに、平氏に軍の食料補給ルートを絶たれてしまい、兵糧不足となってしまいました
苦しんだ兵は国へ戻っていく始末

載頼は頼朝に「助けてー」と手紙を出したのです

頼朝は仕方なく義経を出陣させることにしました

河越重頼女と結婚し、静と愛人生活を送っていた義経ですが、やっとこさ平氏追討の参加許可が降りて大喜び
早速平氏をやっつけるために屋島へ

が、お天気が最悪
海は荒れてまくりでした
それでも義経は「今がチャンスだ」と暴風雨の中、海を渡ることにしたのです
これに反対したのが梶原景時
こーして義経と景時はすったもんだしましたが、とうとう景時が折れ、屋島へ行くことに

暴風雨の中、何とか屋島に到着した義経軍

平氏のいる陣の背後を密かに進みました
そして背後からの奇襲を行ったのです

こんな嵐の中、やってくるとは思っていなかった平氏はビックリ!!

くつろぎまくっていた所を奇襲されたもんだから、またも逃げることになってしまったのです。

こうして平氏は安徳天皇を連れて、西へ逃げていきました

平氏にとって屋島から逃げるということは、瀬戸内海の制海権を喪失してしまったということとなり、かなりの痛手

そして平氏側の兵からも、「平氏はもうダメだな」と源氏側につく者が増えてきたのです



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1185年 壇ノ浦の合戦
勝者 源義経 27歳 
船 800?
平家物語では源氏の船 3000
敗者 平宗盛 39歳
船 500?
平家物語では平氏の船 1000

正直、この頃の平氏は源氏に負けてボロボロ
それでも最後に山口県下関の壇ノ浦へ平氏全軍を集結させました

対する義経は、熊野水軍・伊予水軍を味方につけ何とか合戦準備完了

ちなみに、この時間違えないように平氏の船には赤旗。源氏は白旗をつけました

これが運動会とかで、紅白に分かれて戦うモトになります

この戦いは、海戦慣れした平氏有利と思われました。
こうして、朝の6時に戦闘スタート!!

最初は、平氏が優勢
なんといってもここで負けたら後のない平氏
ガンガン攻めまくりました

が、午後になると潮の流れが変わり、平氏の船はこいでも逆さに流されちゃうように
さらに平氏にとって決定的な出来事が!
平氏側の重臣である阿波重能が平氏を裏切り、源氏に寝返ったのです
阿波重能は息子が義経に捕まったため寝返ったのでした
そして阿波は平氏側の作戦を全てバラしたのです

平知盛は阿波の心変わりに薄々感ずいており「こんなことならさっさと重能を殺しとくべきだった!」と後悔しました

この寝返りにより、平氏の士気は一気にダウンしました

これはチャンスと義経

船を接近させ、次々と飛び乗り源氏優勢に

さらに源氏側は平氏の漕ぎ手と舵取りを殺しまくりました

当時の合戦ではタブーとされていた「戦うことの出来ない非戦闘員である舵取り・漕ぎ手は殺さないこと」というのを破ったのです

こうなると船は機動力ゼロとなり大混乱になったのです

すると、平氏側からも源氏側へ寝返る人が相次いで出てきてしまったのです

こうなるt平氏の負けは確定
女性達は敵に捕まるくらいなら・・・・と、海に身を沈めていきました

平氏の船が次々と沈んでいくのを見て、呆然と立ち尽くしていたのが総大将宗盛とその息子清宗

その情けない姿を見た平氏の武士が「あなた方も死になさい!」と、2人を海に落としたのです
ですが2人は泳ぎ上手で浮かび上がってしまいました
そこを義経軍に見つけられてしまい、捕虜となってしまったのです

最後まで奮闘したのは教経(のりつね・清盛の弟の息子)

「今日が最後じゃ!」と、手にある弓矢を全て射り、源氏の船に次々と乗り移って死に物狂いで戦いました

が、義経が見つからないとわかると、知盛が「あまり無駄な殺生はするな。もはや我らに勝機はない」と言いました

教経は、もはやこれまで!と、源氏側の武士を2人両脇に挟んで海に沈んでいったのです

そして最後まで船に残っていた知盛

平氏一門の人々の最期を見届け、鎧二つを身にまとい、乳母の子である伊賀家長とともに手をつなぎ沈んでいきました

ここに日本国中に数々の平氏落ち武者伝説を残して、30年栄華を極めた平氏は滅亡したのです

戦いの最後を「海上は赤旗で真っ赤となり、紅葉の嵐のようであった。主のいない虚しい船は風に従いゆらゆらと揺られ、その様はとても哀れであった」とあります



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1189年 阿津賀志山の合戦
勝者 源頼朝
兵 25000?
敗者 藤原泰衡
兵 20000?

見事平氏を滅亡させた義経
が、政治のコトがいまいちわかってなかったのと、後白河法皇にいいように使われまくったため、お兄ちゃんの頼朝に嫌われまくり

堪忍袋の緒が切れたお兄ちゃん頼朝は、とうとう義経を殺すことに
それを知った義経は、京都から逃げ、以前世話になった奥州の藤原秀衡の元へ逃げ込みます

さすがの頼朝も奥州の覇者秀衡には手が出せず、ムカムカしておりましたが、その秀衡が病気で死んでしまい、後を泰衡が継ぎました

頼朝は「秀衡が死んだ!?ラッキー!泰衡なんぞ屁でもねぇぜ!」と、泰衡に対し「義経を渡せ。渡さなければ奥州を攻めるぜ?」と執拗に手紙を出しました

とうとう泰衡はその圧力に耐えられず、義経を殺してしまったのでした

が、義経を引き渡したというのに、頼朝は「今こそ奥州藤原をやっつけるチャンスじゃ!」と、奥州へ向け出陣したのです

慌てたのは泰衡「なんで!?義経殺したじゃん!それなのにっ!」と大慌て

が、頼朝は「義経を匿った罪」として平泉を攻めるということになったのでした

泰衡は「義経さえ殺せば何とかなるだろう」と思っていた自分の読みの甘さに愕然。

頼朝からしてみれば、中央政権とも渡り合えるほどの勢力を持っている奥州平泉を倒すのは今しかない!と思っていたのです

泰衡のお兄ちゃんである藤原国衡がかなり奮闘しましたが、とうとう負けてしまい、頼朝軍はついに藤原の本拠地平泉へ入ったのです

泰衡はもはや平泉を守るのは無理か・・と、北海道へ逃亡しようとしました
ですがなんと家臣の裏切りにあい討たれてしまったのです

北の王者 奥州藤原の幕切れでした

奥州への大遠征は3ヶ月で終了しました

頼朝にとってこの大遠征は、これまでの源平合戦などで動員した全国の武士達を再集結させ、頼朝のもとで戦わせたことに大きな意義がありました

武士達は鎌倉幕府の棟梁である頼朝の絶対的な権力を見せつけられることとなったのです




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1221年 承久の乱
勝者 鎌倉幕府(裏ボス・北条政子)
兵 20万?
敗者 後鳥羽上皇
兵 ?

この頃の鎌倉幕府は大変なことになってました
初代将軍の頼朝が死に、次の将軍も死に(というか殺され)、三代将軍も暗殺されてしまい、幕府は混乱に陥っておりました

そこへ目をつけたのが後鳥羽天皇
後鳥羽天皇は偉そうにしている武士どもがだーい嫌いでした
ってことで、今こそ天皇家の威光を示し、幕府を倒そう!と張り切りだしたのです

そしてとうとう、幕府を倒すため兵を挙げました
このニュースを聞いた鎌倉幕府はますます大パニック
「俺たちもうだめだぁ〜」とみんなしょんぼり

そこへ飛び出したのが初代将軍頼朝の妻・政子

幕府の御家人達を呼びし演説を始めたのです

「みなのもの、これが私の最後の言葉です!幕府ができる前、武士はひどい扱いを受けてきた!頼朝がここまで頑張って武士のためにやったのを無にできようか!ここで朝廷に屈してしまえばまた元通りになってしまう。今こそ、頼朝の御恩に報い、上皇軍と戦うべきである!上皇軍につきたい者は今すぐ名乗り出よ!!!」

そしてさらに「幕府が上皇に背くのは愛人亀菊のわがままによって地頭職を解任することはできないからである!頼朝がみなのものの勲功によって与えた職を何の落ち度もなく愛人のわがままによって取り上げることができようか?昔は京都の守護は3年やらされた。三年も京都にいれば国に戻る時に裸足で帰らねばならぬほど関東の武士はつらい思いをしてきた!これを頼朝は半年にまで短縮した!これが関東の政治である!京都につくか、関東につくか、今しかと心を決めよ!」ととタンカをきったのであります。

この演説は関東の武士の心をがっちり掴んだ!!

「そうだ!頼朝以前の関東武士は悲惨な生活だった!また元に戻るなんてイヤだ!」と声があがり「鳥や獣も飼い主への恩は忘れません!都を枕に討死し屍を禁中にさらします!」と言い武士達は団結し朝廷と戦うことを決めたのです

そして、政子は「攻撃を待ってるだけじゃダメ!こちらから進軍し迎え撃て!」と提案

上皇軍を迎え撃つことに

京都から西は上皇側に味方し、朝廷VS幕府の天下分け目の戦いが始まることに

幕府軍の大将は北条泰時。副将に時房
泰時は義時の長男で、時房は時政の3男(政子&義時の弟ね)
泰時は鎌倉幕府を代表する平和主義者
義時は、自分が人気ないのを知ってたので、息子の泰時を大将にしたわけデス

そして宇田川で決戦

幕府側は全員討ち死に覚悟で鎌倉を出発

「いざ鎌倉!」を合言葉に、次々と幕府側の武士があつまりその数20万人

対する朝廷側は、結構のんびりしてたらしく「なんで幕府軍に、こんなに人があつまるんじゃ?」とびびってしまい、宇田川の合戦は幕府軍の圧勝

その後も幕府軍はガンガン進軍し、朝廷軍は完全に叩きのめされた。

幕府軍が京へ入ってきた時には、後鳥羽上皇うつ術なし

家に閉じこもり、討幕計画はオレじゃないよ!部下がやったんだよ!オレは関係ない!と苦し紛れに言ってきたのです

義時は、それを無視
この乱に関わった者は、厳しく処分し、後鳥羽上皇は讃岐に島流しとなりました

そして幕府は、朝廷を監視するために六波羅探題(ろくはらたんだい)という役所を設置

幕府の力が西国へも伸びることになったのです

さらに、朝廷方についていた公家や武士の領地を没収して、幕府軍で活躍した武士に恩賞として与えました

また、新補地頭(しんぽじとう)を置き、とりあげた土地に御家人を任命した

幕府の力は、承久の乱によりパワーアップしたのでした




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1325年 正中の変
勝者 鎌倉幕府
敗者 後醍醐天皇

この頃、鎌倉幕府は執権北条家に握られていた
頼朝が作った鎌倉幕府も、いつしか「執権」である北条家に仕切られるようになっていたのでした
そして、それに不満を持つ人々が増え始めていました

それに天皇家でも天皇レースが白熱しており、朝廷内も嫌な雰囲気が漂っていました

この時の天皇である後醍醐天皇はこのまま朝廷内の分裂が進んだら、天皇家の権威が薄れていくことを恐れていました

また自分で政治を行っていて、ありとあらゆるところに幕府の監視が光っているのがめちゃうざったかった

そして、「天皇家の権威を高めるために幕府を倒したい・・・。昔のように天皇中心とした世の中にしたい」と考えるようになったのです

幸いここんとこの幕府の評判は、徳政令や身内の争いでがた落ち

2度の蒙古襲来で幕府の経済状況はめちゃくちゃになっていて、幕府への不満は各地に広がっている

またこの頃は「悪党」とよばれる人たちが増え始めていた
幕府や荘園の領主に反抗している地方武士や農民のことで、「悪党」が、頻繁に出始め米や私財を奪った
地頭の中にも、悪党になる人が出て幕府の支配力は弱まっていた

さらに、世の中からあぶれて、変な格好をする悪党も出てきて、社会の秩序は乱れまくり
この不満は全て幕府へ向かっていった

人心を失っている今こそ、幕府を倒すチャンス!!

後醍醐天皇の心は決まりました
こうして幕府を倒すべく、天皇の側近が色んな武士に声をかけ始めたのです
その中に、足利尊氏などがいるワケです

でもほとんどの武士は「武力のない天皇家が幕府を倒すのは無理だろ?」と言った感じ

また幕府のおかげで甘い汁を吸わしてもらってる貴族なんかもいて、この計画はすぐに幕府にバレてしまいました

六波羅も次々ともたらされる密告により「天皇謀反計画」は公然のものとなっていました

ですが、それがいつ行われるかだけがわからなかったのです

天皇側の決行は9月23日と決めていました
この日は北野天満宮のお祭りの最高潮の日だったのです

そのため六波羅はお祭りの警護にあたることになっており、人員がほとんど駆りだされることになっていました

天皇一味はこの日を狙ったのです
が、この計画は事前にバレてしまいました

天皇側についている美濃の土岐頼兼の一族である頼員(よりかず)からバレてしまったのです

頼員には惚れて惚れてやっと結婚できた女性がいました。
その妻に「おれ、9月23日に頼兼殿と一緒に天皇のために六波羅を攻撃するんだ」と言ってしまったのです

驚いた妻は「ふーん・・・」と言ったっきりでした

が、この女の父は六波羅の奉行である斉藤利行だったのです

妻からしれみれば「天皇が反乱起こしたって幕府に勝てるわけないじゃないの!それならいっそ密告してダンナだけでも助けなきゃ!」というものでした
そして闇の中、六波羅へ向かったのです

娘の通報を聞いた斉藤利行はビックリ!すぐさま六波羅探題にて緊急会議が開かれ、土岐頼兼・日野資朝・日野俊基・多治見国長らを襲いました

そして四条付近でバトルとなり、土岐・多治見らは戦死。日野俊基らは捕らえられたのです

朝廷に追及の手が入りました

日野資朝は拷問にかけられても「すべて私が計画したことで、天皇は全く関係ありません」と、一人罪をかぶり、資朝は佐渡へ島流しとなったのです

日野俊基は「資朝殿が気の毒だ」と涙し、後醍醐天皇も涙したのです

これが正中の変で、最初の倒幕計画は天皇側の大失敗となりました
血はほとんど流れていませんが、一応「合戦」に入れちゃいました




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1331年〜1332年 赤坂・千早城の攻防戦
勝者 楠木正成 39歳
兵500人
敗者 鎌倉幕府
兵2万

さてさて、上で書いた正中の変で失敗した後醍醐天皇ですが、またもクーデターを計画し、またまた幕府にバレて島流しされていました

そんな中、天皇のために!と飛び出してきたのが楠木正成
正成は河内出身の「悪党」と言われています
「悪党」とは当時の社会のあぶれ者で、強盗やバクチをして暮らしていました
正成がこの「悪党」かどうかははっきりとしていませんが、つながりはあったそうです

後醍醐天皇の命令を受けた楠木正成がまず入ったのは赤坂城でした
ここで正成は当時としては考えられないゲリラ戦を繰り広げるのです
幕府は2万の大軍を率いて赤坂城にやってきました

正成は150騎を城外に出して潜伏させ、残りの200人を城内に残しました

そこに2万の幕府軍が鬨の声をあげてやってきましたが、城からはうんともすんとも言わない
あれ?と思った幕府軍が近くまでやってくると一斉に頭上から弓を射たり石を投げたり

幕府軍はびっくりして「とりあえず軍議を開くか」と武具を外し始めると、そこへノラリクラリと潜伏していた兵がやってきた

幕府はあまりののんびりさに「味方かな?」と思っていると、近くまで来た正成の兵が突然襲い掛かってきたのでした
幕府軍はビックリ仰天!四方八方逃げ回り、幕府軍は敗走したのでした
対策を練り直した幕府軍がまたもやってきました

すると今度は煮えたぎる熱湯をひしゃくで浴びせまくって、耐えられなくなった幕府兵はまたも逃げちゃったのです

幕府軍は「下手に動くと、何を考えてるのかわかんないような奇策で襲い掛かってくる。」と、赤坂城のような小さな城も抜けないことをムカムカしていつつも、慎重になりまくっていました

この時、足利尊氏も参加していました
ここで楠木正成を知り、「敵ながらあっぱれだ!」と褒めていたそうです

対する正成はというと、今までは奇策で乗り越えてきたけど、さすがに幕府の大軍相手に限界がある

なんといっても加勢がないのです
ここで正成は考えた

信頼できる家臣を呼び「正成が討ち死にしたという噂を広めろ」といったのです

そして作ってあった抜け穴から皆を逃がし、20人ほどの兵の死骸を燃やし、赤坂城は落城したのです

「正成が死んだらしい」とういニュースは瞬く間に世間に広がりました

死んだらしいというニュースを聞いた六波羅は、もしかしたら生きてるのかもしれないと、徹底的に探索の軍を出しましたが、正成はどこにもいませんでした・・・

が!1332年の冬・正成が再び出現しました

正成率いる500騎が赤坂城を奪回したのです

死んでると思っていた正成がやってきたため、赤坂城の兵らはビックリして降参しちゃったのでした

勢いに乗った正成らは次々と近隣の制圧に乗り出しました
河内や和和泉一帯をゲットし、摂津へ進出!ということに

焦った幕府は六波羅を摂津に向かわせ、天王寺の合戦が始まりました
六波羅は兵の少ない正成勢をみくびって、敗走していく正成らを深追いしすぎたのがいけなかった
気がついた時にはすでに正成らの伏兵に包囲され五千騎の六波羅勢は半数を失ってしまったのです

幕府はさらに援軍を差し向けましたが、その頃には正成勢は姿を消していました

天王寺一帯をとりあえず占拠した幕府ですが、正成らのゲリラ部隊に悩まされ続け、ついに撤退したそうです
この頃正成とその主力らは赤坂城の南にある千早城に戻っていました

幕府は吉野山にいる後醍醐天皇の三子護良親王と、赤坂城を攻撃し、とうとうこの二つは幕府の手に
残るは千早城のみとなりました。

幕府の全軍が千早城攻めに加わったのです。
全軍相手に挑む千早城にはわずか1000人が立て籠もっているだけでした

天下の幕府軍を相手に孤立無援の戦いをすることとなったのです

正成は「藁人形」を作り、甲冑をつけて武者に見せかけました

そしてまだ薄暗い夜明けに城外に200名ほど兵を出し、城外・城内とも一斉に鬨の声を上げたのです

幕府軍は正成兵が外に出たな!と判断し、多数の幕府軍がやってきました

城外にいた200名ほどの兵は矢を飛ばしながら城内に戻り、幕府軍は薄暗いため勘違いし、藁人形めがけて突っ込んでいくのです

そこへ断崖の上から大きな石を落としたり、城から矢を射たり。幕府軍は大慌てとなるのです

「もう城には絶対近寄らないほうがいい!」兵らはそう決めました

が、天下の幕府軍がいつまでも千早城に手間取っていては情勢が悪くなる!幕府がだらしないと世間に思われちゃうだろ!と、幕閣に激を飛ばされやむなく攻略を開始しましたが、正成らのゲリラ戦法にことごとく負けまくってしまったのです。

そしてなんと千早城は5月まで持ちこたえたのでした




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1333年 鎌倉討ち入り
勝者 新田義貞 33歳
兵 20万
敗者 鎌倉幕府 北条高時 31歳
兵 ?

鎌倉幕府はもうボロボロになっていました
幕府のやり方に、不満が爆発していたのです
幕府の人間だった足利尊氏も裏切り、そして新田義貞も裏切りを決意
鎌倉幕府に向けて兵を出しました

が、鎌倉は四方を山に囲まれた天然の要塞

稲村ガ崎に着いた新田義貞は、竜神にお願いをするため黄金の剣を海へ投げました
すると潮が引き、義貞たちは鎌倉へと突入したのです

鎌倉入りした義貞軍は、稲村ガ崎から極楽寺坂・化粧坂とがんがん進軍
義貞軍は中心部へ行くべく家々に火をつけまくって鎌倉は火の海となりました

各所を守っていた幕府軍もこうなっては守るのも無意味となり、鎌倉中が炎に巻き込まれ混乱のるつぼとなりました

北条高時は小町の自宅にて敗戦が決定的とわかると、先祖の功績が灰になるのを絶望的な気持ちで見ながら、滑川を東にわたって東勝寺へ

そして東勝寺にて一族や家来870名と自害したのです

5月22日 鎌倉幕府は滅亡したのです。

ちなみにこの戦いには足利尊氏の子供が参加してました。4歳なんで、ホント参加しただけ
ですが世間では「尊氏の嫡子・千寿丸はわずか4歳でありながら、新田義貞を率いて鎌倉を滅ぼした」と言われるように

義貞が千寿丸の「オマケ」と周りからは見られてしまい、義貞は激怒!

ですが実際「新田義貞」の名前は売れていなかったので、義貞の名では何万という大軍を集めることができなかったのも事実

「尊氏の息子がいる」ということによって、多くの武士が戦いに参戦してきたのであります

これは義貞に屈辱感を与えまくりました

「なんでオレよりチビッコの千寿丸の方が人気あるんじゃ!足利ななんぼのもんじゃ!」と恨みまくり

指揮官は自分でも「総大将」は座ってるだけのチビッコ千寿丸ということになってしまっていたのです
お気の毒ですね〜





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1335年 中先代の乱
勝者 足利尊氏 31歳
兵 4万
敗者 北条時行 10歳?
兵 4万

鎌倉幕府が滅亡し、時代は天皇の政治へ
が、天皇は武士をバカにしてたので、天皇家の人や公家の人ばーーーっかえこひいきしてました
それにむかついてたのが武士の人たち
「こんななら、まだ幕府の方が良かったよ。幕府は武士中心だったしさ!」

そんな中、北条高時の息子、時行が「幕府再興」をはかって、「もう一度武士の世に戻そう!オレがもし天下を取ったら武士中心の政府を作る!」と、信濃で兵をあげました
でも、この時10歳と言われてるんで、まぁ周りの人たちが担ぎ上げたのでしょう

不満を持っていた武士達は喜びの声を上げました。

中先代の乱とは、先代は北条氏・後代は足利氏なので、中をとって中先代の乱といいます
時行のバックアップは長野の諏訪氏です

この挙兵計画は、まず後醍醐天皇を殺し、時行が信濃で挙兵
高時の弟である時興が近畿で挙兵
北条(名越)時兼が北陸で一斉に立ち上がるというものでした

が、この計画は漏れてしまったのです
京都にいた主だった一味が逮捕となり、逮捕を免れた者が信濃の時行のところへ行って慌てて時行が挙兵したのでした

武士達は「今の朝廷よりこっちの方がいいぜ!」と応援に駆けつけ、名越時兼の兵も挙兵し、一気に鎌倉まで迫ったのです

鎌倉にいた尊氏の弟の直義は、こりゃ勝ち目なさそうじゃと早々と逃げました。

そして時行の軍は鎌倉へ入り、鎌倉を奪うことに成功しました。

今まで潜伏していた北条の残党も集まり、一時的に幕府が再興されたのです

が、そこへ足利尊氏がやってきました
尊氏軍には歯が立たず、時行は逃げ出したのです
ちなみに時行は無事生き延び、この後も「打倒足利!」をポリシーに戦い続けます

さてさて、鎌倉にやってきた尊氏ですが、実はこの時、後醍醐天皇の許可を貰わないまま勝手に来ちゃったんですね〜
そしてそのまま鎌倉に残り、独自の政権を作り上げようとするのであります


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1333年 湊川の戦い
勝者 足利尊氏 32歳
兵 20万
敗者 新田義貞 36歳
兵 2万

後醍醐天皇による「建武の新政」は武士の間で大ブーイングでした
何といってもセレブにしかいいことのない政治で、武士は「犬みたいなもんだ」くらいの扱いだったからです
そこで武士達は足利尊氏に期待するようになりました
「尊氏なら血筋もいいし、尊氏にまた武士の国を作ってもらおう!」ってなムードに
その声にお応えして、尊氏は朝廷とバトルを始めるのです

朝廷側の武士には楠木正成や新田義貞がいました
正成は最初から後醍醐天皇に忠誠を誓ってましたが、新田義貞は尊氏が大嫌いなので、朝廷側についたのです

ですが尊氏率いる武士チームはかなりのパワー

尊氏は水軍を率いて水路を。弟の直義が陸路を攻めつつやってきました
陸からの直義軍は途中で参加者が続々と増え、莫大な人数となりました
この頃の朝廷は、もう皆ビクビクと震え上がっていました

「公家は政治をやるもんだ!戦いは武士である新田義貞にまかせよう!こうなったのも全て新田殿の責任であろう?」と公家連中は一目散に逃げてしまったのです

義貞は楠木正成しか頼る人物がいませんでした

義貞は正成に「どうすればいい?」と相談

正成は「こうなってしまった以上は尊氏の水軍を絶対に陸に上げてはなりません。そして直義率いる陸軍を一の谷付近で潰すしかありません。」と提案しました

義貞は「では私は水軍を上陸させないために湊川の和田岬に陣を起きます。義貞殿は陸を守ってください」

「承知しました。私は湊川に陣を張り陸軍を一の谷に追い込みます。ただし、絶対に水軍を上陸させないよう和田岬だけは必ず死守してください。そうしなければ我が軍は挟み撃ちにあってしまいますから」と、正成は念を押したのです

この頃になると朝廷軍の兵たちはどんどん尊氏に寝返っていました
もはや義貞と正成くらいしか朝廷のために戦う武将はいませんでした

義貞は「今はもう私とあなたしかおりません。絶対にあなたを見捨てません。和田岬は必ず守ります」と言ったのです

正成は湊川に陣を置きました。人数は数百人しかおりませんでした。

対する尊氏軍は数万人。はじめから勝負はついていました。

正成は死ぬ覚悟はできていたのです

義貞は数万人の兵がいました
そして和田岬に陣を置き、一斉に天皇家の旗である「菊水」の旗を立てたのです

尊氏のいる船の上から、義貞と正成の布陣が見えました
尊氏は正成を恐れていたので「正成を孤立させよう」と、作戦を立てたのです

そして「本軍に装った船を東に向かわせろ!さすれば義貞は東へ行くだろう。そして和田岬から上陸するのだ!」と言いました

尊氏の作戦通り本軍を装った細川の船が東に移動し始めたのです

東の浜に上陸してしまったら朝廷軍は挟み撃ちになってしまう!そして京に入ってしまう!そう思った義貞は「あの船を上陸させたらまずい!」と馬を東に飛ばし、全軍が義貞に続いたのです

和田岬は空っぽになってしまいました。尊氏のおとり作戦は成功したのです

義貞軍が東へ向かうのが見えた正成はビックリ!
「何をやっとんじゃ!死守しろと言っただろ!あれはおとりだ!和田岬を空けてはならぬ!!」と急いで使いを飛ばしました

が、義貞は「本軍が東の浜に上陸しようとしておるのだ!これは阻止しなければならぬ!」と正成の伝言を無視したのです

そして尊氏の本陣は和田岬に上陸したのです。正成の兵は完全に孤立してしまいました

だが正成は最後まで勇敢に戦い、数百人の兵で数万人の大軍相手に6時間以上の激闘を繰り広げました

前方は直義軍、背後は尊氏軍と16回もの激戦を繰り返しましたが、数にはさすがに勝てませんでした

夕方5時ごろになると、正成は一軒の民家へ入りました

そして弟の正季(まさすえ)と、自分の一族、家臣ら50人で一斉に自刃したのです

おとりに騙された義貞も、さすがに負けたら後がないためこの時は奮闘しまくりました
が、尊氏の大軍はどうにもできず、義貞軍も続々敗走し始め、とうとう義貞も逃げて行ったのです

京では、楠木正成が戦死!新田義貞も敗北!というニュースに後醍醐天皇は慌てて京を捨てて、ひとまず比叡山へ逃げちゃいました

ちなみに尊氏は楠木正成の首を見て「正成殿は真の忠臣であった。首は丁重に遺族のもとへ送り届けよ」と言ったのです

※楠木正成は「太平記」において大絶賛されています。そして戦前、天皇サマサマの頃「天皇のために忠義を尽くした真の武士」としてヒーローとされるのです



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1338年 藤島の合戦
勝者 細川考元
兵 300人
敗者 新田義貞 38歳
兵 50人

上の湊川の合戦でぼろ負けした義貞は、北陸に逃げてチャンスを伺ってました
が、たてこもっていた越前の金ヶ崎城で、義貞と倒すべくやってきた足利軍に包囲されたのです

義貞はこっそり城を脱出

金ヶ崎城は落城し、義貞を滅ぼしたと思った足利軍は引き上げていきました

が、まだ義貞は生きており、ひそかに兵を募っていました

ですが、平泉寺の僧侶達が「俺らの土地を荒らすな」と義貞に背いたのです

で、戦いで流れ矢に当たってあっけなく死んでしまったのです




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1467年 応仁の乱
引き分け 細川勝元 44歳
兵 16万?
引き分け 山名宗全 70歳
兵 9万

時代は室町時代八代将軍足利義政の時代となります
この義政がまたどーしょーもない将軍だったために世の中は戦国へと突入することになります

そしてこの応仁の乱が日本を大きく変える戦いとなっちゃうのです

そもそもの発端は義政が将軍をさっさかやめてわびさびワールドに入りたかったコトが原因
正妻は日野富子という女性ですが、産んだ男児が死んでしまいました
生まれた息子にさっさと将軍職を譲りたかった義政はがっかり

早く風流三昧の生活がしたくて仕方なかった義政

まだ30歳だというのに「いつまでたっても男児が生まれないし、この際、弟の義視に将軍譲っちゃおうかな・・・」と考え始めていました

この時、富子はまだ25才

これからでも男児を産むチャンスはいくらでもあるっていうのに、義政は「もし生まれたとしても、その子が成人するにはまだまだ時間がかかるよなぁ。ワシ、そんなに政治やりたくないよ」と思っていたのです

弟の義視は母親が違う2才年下の弟で、4歳の時にお寺に入れられていました
義政は富子に内緒で、弟の義視のもとに「将軍にならない?」と使者を出したのです

話しを聞いた義視はビックリ

「だって義政はまだ30歳じゃん!これは何かの罠か?」と疑いまくりでした

義視は「将軍職など、私には縁遠いものでございます。ご遠慮させていただきます」と返事をしました
ですが義政は諦めず、義視が驚くくらいしつこくお誘い

義視の方が面食らってしまい「だって義政殿には富子殿もおられるであろう?そのうち男児が産まれるであろうから、それまでお待ち下さい」と言ったんだけど義政は「大丈夫じゃ!ワシに男児が生まれても絶対将軍にしないから!寺に入れるから!」と言ったのです

ここまで言われた義視

義視が調べると、どうやら義政のバックには細川勝元がついてることがわかりました。
細川勝元は日野勝光が富子の力をバックに偉そうにしているのが気にいらなかったのです

「あの義政が気まぐれでやってることなら危ないけど、細川勝元がついてるなら大丈夫かな。それじゃあ・・・」ということで、義政の誘いにOKしたのです

「義政が将軍職を弟の義視に譲った」というニュースを事後報告された富子

「はぁ!?なんですってぇー!何の相談もせずにあのバカ!」状態でした

さらに万が一富子に男児が生まれたら、その子供を仏門に入れると約束した・・・ということまで聞いて、富子は大激怒!

そんな中、富子が妊娠したということがわかったのです。

富子は義政に「こんな大事な事を勝手に決めるなんて!何考えてんのよ!もし、今おなかの中にいる子が男だったら、悪いけどアンタの弟を将軍にさせないからねっ!」と義政にブーブー文句を言ったのでした

が、将軍を譲るって話はどんどん進み、次期将軍となるべく弟の義視が27歳にして元服式を行いました

そして義視の後見人として細川勝元が選ばれました。

その3日後、富子がとうとう男児を出産したのです!!

それを聞いた義政は大喜び♪
「やっと男の子が産まれたぁ!」と喜びの色を隠せませんでした
将軍と御台所(正室)との間に生まれた、由緒正しき血筋の男児である義尚(よしひさ)
ですが次期将軍は弟の義視に決まってしまっている

さらに産まれた由緒正しいその男児は、寺に入れると約束してしまっている・・・・
将軍家に怪しい空気が流れ出すのです

義視の後見人となった細川勝元ですが、もう一人の実力者・山名宗全とめちゃくちゃ仲が悪かった

ってことで富子が考えたのが「義視の後見人が細川勝元であれば、勝元に対抗できるほどの実力のある人は、山名宗全しかいないだろう!」と、宗全に義尚の後見人になってくれるよう頼んだのです

勝元が大嫌いな宗全は二つ返事でOKしました

こうして次期将軍義視には管領 細川勝元がなり、義尚には実力者 山名宗全が後見人となったのです

そして将軍家では、二大派閥は対立しまくることとなったのです

そこに頼りない将軍義政が適当で無責任な裁決をするもんだから、争いの種はますます広がっていくのでした

さらに義政は「やっぱ自分の子が一番可愛いよな」と、絶対息子を将軍にさせない!と誓って、義視を迎え入れたというのに、その約束をどうにか撤回できないもんか?と考え出したのです

そこに側近の伊勢貞親が「義視が早く将軍になりたいからって義政殿をどーにかしてやろうと考えてるそうですヨ」と諫言してきました。

これはラッキーとばかり、義政は義視を捕らえようとしました
危険を察知した義視は、後見人である細川勝元の所に逃げ込みました

が、勝元は「義政はすでに義視を将軍にさせるつもりはないのだなぁ。義視の味方をしてるとワシは損なんじゃないか?」と思うように
そう読んだ勝元は、後見人でありながら義視を追放させるべく動き出したのです

勝元が自分を追放しようとしている!と、感じた義視は、仕方なく伊勢へ逃げ込みました

無理やり寺から「将軍にしてやるから来い」と引っ張り出された義視は、義政と勝元に見捨てられてしまったのです

ところが!ここでまたもや飛び出してきたのが山名宗全

敵であったはずなのに、勝元憎さから義視に救いの手をさしのべたのです

「せっかく憎い勝元と将軍が不穏な感じになってたっつーのに、モトサヤに収まっちまったぜ!こうなったら何が何でも勝元に対抗したる!ワシの意地じゃ!」

と、宗全は義尚の後見人でありながら、義視を助け出したのです
もはや信じられない状況となっていました

かつての敵と味方が入れ替わってしまうという、とんでもない事態に発展していったのです

幕府内はあわただしくなってきました。

富子は「何か起こるんじゃないか」と義政に相談したんだけど、義政はノンキに「ダイジョブだろ?」くらいの感覚でした

が、なんと突然京都へ大量の軍が入ってきたのです
市民はビックリ!

そして勝元チームである赤松政則が、かつて自分の領地であり、現在は山名氏の領地である播磨を攻撃!

播磨の山名氏はビックリして負けてしまいました
すると今度は山名チームの大内政弘が「こしゃくなぁ!」と、京都へ軍を向かわせたのです
こうして京都は続々と兵が集まりだしたのです

宗全チームには斯波義廉・畠山義就・土岐成頼・六角高頼ら20カ国。兵の人数は9万人
勝元チームには斯波義敏・畠山政長・赤松政則・京極持清ら24カ国。兵は16万人

さらに将軍義政の弟義視も宗全チームに加わりました

宗全は西軍・勝元は東軍として京都を舞台に戦乱が始まろうとしていたのです
ちなみに、西軍の宗全が陣を構えた場所が、今の京都の西陣です

将軍義政は京都に兵が続々と集まるという異常な状況にドッキドキでした。

「先に戦を仕掛けた方を将軍の敵とするからな!」と掛け声を上げましたが、もはや宗全も勝元も将軍のことなど眼中にありませんでした

将軍や富子のいる御所は一応勝元の手に押さえられていました
宗全は将軍・富子・息子の義尚を自分側に取り込もうと、室町御所乗っ取り計画をたて始めたのです
その役として一色義直が選ばれました。
が、これは勝元に見破られ逆に一色義直は攻められてしまいました
一色義直は屋敷を焼かれ、逃げちゃいました

ここに戦国時代突入のきっかけとなった応仁の乱が幕を開けたのです

京都ではいたるところで戦乱が繰り広げられ、市内は焼き払われまくり

さらにどさくさに紛れて地方から一旗挙げようと続々と軍勢がやってきました
これらの地方武士は田舎っぷりを発揮し、強奪などをしまくったり、意味もなく火事を起こしたりと、京都はますます大変なことになっていったのです

戦はいつ終わるのかわからない状況になってきていました

この頃の京都は焼け野原となり、大事な文化財などもことごとく燃えまくってしまいました(もったいない〜)

将軍義政はそんな状況がイヤになっちゃって、お酒ばっかり飲むように
世の中に起こっている事を忘れようと、酒・女にますます溺れるようになってきたのです

そんな義政にほとほと呆れた富子

「世の中は大変なことになっているっていうのに、将軍のくせに何やってるのかしら!もともとはアンタが適当な政治をやってたからこんなことになったんじゃないの!」と、2人の間は冷えまくってきたのです

この戦いはおよそ11年続きました。

いつまでたっても勝敗がつかず、田舎から出てきた守護達もだんだん自分の家が心配になってきました

というのも、戦乱は都から地方へも飛び火し、だらしない政治っぷりに農民らが立ち上がり一揆が起こるようになってきたのです

さらに守護達の家臣らが「主君がいない間に・・・」と、家を乗っ取ろうとしたりと、国元も騒がしくなってきたりしました

そのため、守護達は徐所に国へ帰りはじめたのです

また宗全&勝元もはっきりいって戦いをやめたくなってきていました

だけど、周りの人たちが納得いかーん!と休戦を反対していたため、この戦いはいつまでもダラダラと続いていくこととなったのです

そうこうしているうちに、なんと西軍総大将の山名宗全が70才の高齢だったため死んでしまいました

こうなれば細川勝元の時代じゃー!と思いきや、なんと2ヵ月後の5月11日に、勝元も44歳の若さで死んでしまったのです

世の中は蒼然としました

両軍大将が立て続けに死んでしまったのです

こうして2人の死をきっかけに、乱はうやむやとなり、地方で守護たちが着々と力を伸ばし始め、戦国時代へ突入していくこととなったのでした


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1495年 小田原城攻略戦
勝者 北条早雲 54歳
兵 ?
敗者 大森藤頼
兵 ?

応仁の乱により、世の中はごちゃごちゃ
そこに飛び出してきたのが伊勢新九郎長氏こと北条早雲です

早雲は妹の家のお家騒動をうまいことまとめたため、その功績を認められ、興国寺城とその周りの領地をもらっていました

早雲は、以前京都で僧の修行をやっていた時に京都で応仁の乱を目の当たりにしてしました

腐敗した政治等をみてきたことから、「民衆を安定させないといい国にはならない!」ということで、早速領内の年貢を今までよりずーーーっと安くしてあげました

不作の時は資金の貸し出しをしたりと、銀行みたいなこともやりました
また、病人に対して無料で薬を分け与えたりして民衆に大人気!
他の国の人たちがうらやむほどでした

実は早雲、目の前にある豊かな「伊豆」を狙っていたのです
そして人気も手伝い、見事伊豆をゲット!
お次のターゲットは大森氏が支配していた小田原城

小田原城は、当時名君と評判の高かった大森氏頼から息子藤頼に家督を継いだばかりでした

早雲は藤頼に近づき、プレゼント攻撃をしまくりました

そうして藤頼に気を許させてから、「鹿狩りをやってるんだけど、鹿が小田原城の裏に逃げちゃったから、うちの兵を小田原城の裏に行かせますけどいいかな?」と聞いたのです

すっかり気をゆるしている藤頼は「うん。どうぞご自由に!」と、それを許可

そして早雲は小田原城の裏にまわり、角にたいまつをつけた牛を数千匹小田原城に向かわせたのです

これは「火牛の計(かぎゅう)」という戦法で、以前木曾義仲が倶梨伽羅峠の戦いに用いたもの

大軍が押し寄せてきたのか!?と、ビックリした大森藤頼は慌てて逃げちゃったので、早雲はいとも簡単に小田原城をゲットできちゃいました

こうして戦国大名第一号となった早雲は、北条五代の基盤を作るべく関東で権力を増していくのです




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1536年 花倉の乱
勝者 今川義元
敗者 玄広恵探

戦国初期、今川家はかなり強い家でした
花倉の乱は今川家のお家騒動です

当主・今川氏親が死に、その後すぐに長男氏輝が死んでしまいました

氏輝に子供がいなかったために三男の玄広恵探(げんこうえたん)と五男方菊丸(義元)の家督争いがスタートすることとなったのです

さてさて、義元にはメチャクチャ頭のいいガードマンがいました
それが太源雪斎です
雪斎は今川家の重臣の子で、14歳の時に建仁寺の僧になりました
ゆくゆくは高僧に・・・と思っていた雪斎だけど、転機がやってくるのです
今川家の4歳の五男(義元)が寺に入り、その養育係として雪斎が指名されたのでした

雪斎は、自分が育てた義元が家督を継ぐチャンス!と考えました

まず雪斎は、氏親の正室で「女戦国大名」と言われている寿桂尼(じゅけいに)と手を組んだのです
寿桂尼も、もちろん自分の産んだ義元に家督を継がせたかった

さらに、重臣らに「恵探が家督を継いだら、恵探の母の父親方の福島一族が口出ししてきますヨ・・」と根回し

これは効き目ばっちりで、重臣の殆どが義元側につきました

そして恵探と福島一族は花倉城に立てこもり、そこを重臣らが攻撃
結果、義元側が勝利し恵探は自害したのです

以後、雪斎は義元の軍師として大活躍することに

義元は「海道一の弓取り」と呼ばれ東北地方に一大勢力を築いていきます

また、駿河の街は義元好みの京風文化となり華やかになっていきました



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1540年 郡山城攻防戦
勝者 毛利元就 45歳
兵 2500
敗者 尼子晴久 38歳
兵 30000

当時の中国地方の権力がある家といえば、尼子家と大内家
その真ん中にいる毛利家は超弱小で、尼子家と大内家のご機嫌をとってばかりいました

そんな中、尼子家についていた元就が大内家へ寝返ったのです
怒った尼子晴久は30000の兵を連れて毛利家の本拠地である郡山城を包囲したのです

元就は「大内家の援軍がくるまで」と、知略を尽くし、ゲリラ戦をしかけ、時間稼ぎをしました

やっとこさ大内家の援軍が1万人やってくると、元就は尼子本陣に奇襲をしかけ、尼子家は敗走していったのです

これにて毛利元就の武名はあがったのでした



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1546年 川越夜戦
勝者 北条氏康 32歳
兵 8000人
敗者 足利晴氏 39歳
兵 8万

戦国初期の関東では、「関東管領」や「関東公方」といった室町幕府の将軍とは別なお偉いさんがいました
が、この時代になるとこの関東管領は一族で争いしまくっていました

「上杉氏」が関東管領なんだけど、ここに扇谷と山内という二つの流れがあって、さらに古河公方っていう足利市の一族がいて、とにかくこの三つの家で関東NO1になるべくいっつもケンカしていたのです

そこに飛び出てきたのが北条早雲
小田原をゲットし、次々と関東を制圧していきました

こうなってくると、旧勢力の三つの家はバトルしてる場合じゃなくなってきちゃいました
「新参者が生意気な!」ってコトで、この三つは連合軍を結成し、北条氏の一族がいる埼玉県川越市にある川越城を取り囲んだのであります

川越城は頑張って籠城していました
そこへやってきたのが8000人の兵を引き連れた北条氏康

氏康は「8万の兵にまともにやったら勝ち目ないなぁ」と、わざとビビってるフリをし、降参するフリをしたりして相手を油断させました

「なんだ。たいしたことねぇな」と油断していた連合軍

まったりと夜を過ごしていた時、氏康が夜襲をしかけたのです
暗闇の中で連合軍は大パニック
みんな逃げ出したり、同士討ちしちゃったりとメチャクチャ
瞬く間に壊滅しちゃったのです

これを聞いた川越城を取り囲んでいた連合軍は、怒って城に襲い掛かった!
が、籠城していた兵たちが一斉に襲い掛かってきて、連合軍はパニックに
こうして北条氏康は関東で超有名人となり、関東管領・そして公方の影は薄くなり、関東は北条の支配下となってしまったのでした

余談ですが、この関東管領の上杉憲政は、越後の長尾景虎に「あんたを関東管領にする!後はお願い!」と言います。それが上杉謙信です

こーして新たに関東管領になった上杉謙信は、北条氏康とバトルを繰り広げることとなるんですね〜



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1548年 上田原の戦い
勝者 村上義清 48歳
兵 7000人
敗者 武田信玄 28歳
兵 8000人

武田信玄は、生涯72回合戦をしました
が、二度おんなじ男に負けています。それが村上義清です

この頃信玄は、勢力を拡大しようと北信濃を侵略していました

北信濃を支配していたのは、村上義晴であります

信玄はすごい勢いで責めまくりましたが、信玄の家臣板垣信方・甘利虎康が突撃したところ、なんと伏兵に囲まれ討死してしまったのです

義晴は、囮をつかい狭いところにこの2人の兵をおびき寄せ、討ち取ったのでした

これは信玄にとってかなりのダメージ!!
形勢は逆転し、信玄も槍で怪我をするほど
とうとう退却したのであります

村上軍は追撃しようとしましたが、こちらもかなりの痛手をこうむっており、信玄を追いかけることができなかったのでした



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1550年 戸石城攻防戦
勝者 村上義清 50歳
兵 ?
敗者 武田信玄 30歳
兵 ?

どーーーーしても北信濃が欲しかった信玄
上田原の合戦で負けてからも、再度リベンジするべく村上義清に立ち向かいました

戸石城は村上義清の支城(ホントの城じゃないってことね。居城は葛尾城だよ)を攻め込みました

戸石城は信玄軍に取り囲まれましたが、ここで義清本領発揮
なんと、今まで敵であった豪族の高梨氏とこっそり和睦(仲直り♪)しちゃって、この高梨氏が信玄い襲い掛かってきたのです

そして、戸石城の兵たちも一斉に武田軍へ襲い掛かりました

前と後ろから挟み撃ちされちゃった信玄は、総崩れに
これを「戸石崩れ」といいます
信玄にとって、メチャクチャ無残な負け方でした

あの信玄が二度も負けた男・村上義清
が、この後も信玄はしつこく義清を狙い撃ちし、とうとう義清は負けてしまいます

で、義清が「助けてくれ!」と向かったのが、あの越後の上杉謙信なのですね〜



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1550年 大友二階崩れ
勝者 大友宗麟 21歳
敗者 弟・塩市丸

戦国初期初期、大友家はこ九州NO1の実力でありました

宗麟は大友家の嫡子として生まれたんだけど、不幸な子供時代を送っていました

それはナゼ?というと、宗麟の父・義鑑は長男である宗麟を差しおいて、寵愛している側室の息子「塩市丸」を溺愛していたからです

そして、塩市丸をワシの跡取りにする!と発表しちゃったのです

が、そうはいかないのが宗麟側
なんと宗麟の家臣が夜中に義鑑を襲撃しちゃいました

お父さんの義鑑をはじめ、溺愛してた奥さんと塩市丸、さらに塩市丸の妹までも斬殺してしまったのです

この場所が2階だったので、「大友二階崩れ」と呼ばれるようになりました

こうして親と弟を殺した(直接手は下してないが)宗麟は21歳にして家督をついだのでした



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1555年 厳島の合戦
勝者 毛利元就 59歳
兵 4000
敗者 陶晴賢
兵 2万

この頃の中国地方は、尼子氏と大内氏が勢力を持ってました
毛利はまだまだ弱小で、元就は大内氏に忠誠を誓っていました

尼子VS大内はいっつもバトルしていて、疲れ気味
特に大内当主の義隆は月山富田城攻めに失敗してから、政治とかに興味がなくなっちゃったらしく、国の中がめちゃくちゃに

てことで、大内三大家老の一人、陶晴賢がクーデターを起こし、大内義賢を自害に追い込んじゃったのであります
こうして大内氏のNO1にのしあがった陶晴賢ですが、他の家臣が黙っちゃいない
「主君でもないヤツのいうコトなんか聞けるか!」ってなもんで、大内家内はばらばらになっていたのであります

そんな中、大内義隆のおねーちゃんのダンナである吉見正頼が陶晴賢に反旗を翻しました
怒った陶晴賢は、毛利元就に「吉見をやっつけてこーい!」と命令

ここで元就賭けに出た
「っていうか、毛利家が大内家の支配から逃れるチャンスねーの?大内義隆の仇っていう大義名分もあるしさ」てことで、吉見氏とともに陶晴賢に戦いを挑むことに

もちろん陶晴賢は激怒!!反旗を翻した毛利を倒し、今度こそ中国地方の地盤を固め、新・当主となるぞ!と燃えたのです

こうして陶晴賢は厳島へ!

こっから元就大得意の謀略がスタート
まず手始めに晴堅の大事な家臣・江良房栄(えらふさひで)は毛利と内通してますぞ〜というデマを流した
そしてそれを信じた陶晴堅は周りがとめるのも聞かず、江良を殺しちゃったのです
江良はとっても強い武将だったので、大内軍はかなりのダメージ

さらに様々な密書をばら撒き、陶晴賢たちを混乱に貶めたのです

こうして厳島に兵が集まりだしました
そして陶晴賢は厳島の宮尾城を落とすべく攻略を始めるのです

そこへ予想外のことが!
なんとものすごい嵐になったのです
この嵐をチャンスとみた元就「これで敵にバレずに厳島へ上陸することができる!」

こーして元就は嵐の中厳島へ上陸

そして夜明けとともに鬨の声を上げたのです

ビックリしたのは陶晴賢軍
こんな嵐の中来るわけないと思ってたもんだから、ぐっすり寝てた
こうして陶軍は大混乱となり、とうとう壊滅
陶晴賢はもはやこれまでと自刃したのであります

こうして元就は大内氏から念願だった「独立」をしたのであります




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1556年 長良川の合戦
勝者 斎藤義龍
兵 17500人
敗者 斎藤道三 62歳
兵 2700人

斎藤道三は油売りからのし上がってきた下克上大名でございます

主君の土岐家を騙し、美濃を手に入れた「マムシ」でありました
そんな道三の嫡男である義龍は問題児だった
何が問題児か?というと、義龍は道三のホントの子ではないのです

道三は主君の土岐頼芸から側室の深芳野を譲り受けました
が、深芳野はそのときすでに妊娠中
ということで、義龍は土岐頼芸の子なのであります
ってことで、道三は義龍をあんまり可愛がらなかった

反対に、国内の土岐家や土岐家に可愛がられていた家臣なんかは、主君を騙した道三が大嫌い!
そのため義龍のことを土岐家の血を汲んでいると、義龍を大切にしていました

道三はそんな義龍に家督を譲る気になれず、一番可愛がっていた三男の喜平次(きへいじ)に譲ろうと考えてはじめました

それが土岐家に可愛がられていた家臣らにばれてしまい、義龍も父道三が、自分を捨てようとしているのを知ってしまうのです

義龍は、道三が今まで裏切りと謀略を繰り返して今の地位を築いたのを知っているので「このままじゃボクも・・・」と不安に思いはじめました

とうとう義龍は弟で次男の孫四郎と三男の喜平次を自宅に呼び、そこでこの2人を殺してしまったのです

怒った道三!!

が、この時家臣らはほとんどが義龍の味方をしたのです

さすがの道三も人数には勝てませんでした

とうとう長良川で戦って破れ、引きあげる途中で、首を切られ鼻をそぎ落とされたのです
道三は無残な最期をとげました

「蝮の道三」と恐れられ「梟雄」として名高い道三も、最後は自分の息子に下克上されてしまうという哀しい最期となったのです

ちなみに道三は、可愛い娘・濃姫のダンナ織田信長にも援軍を要請していたけど、信長も周りの小うるさい蠅を叩き落すのに時間がかかり、信長の援軍が到着した頃にはすでに道三は命を落としちゃってました

道三は、この時の義龍の采配をみて「虎を猫と見謝るとはワシの目も老いたわ!」と言ったそうです

そしてこの時道三は「美濃一国譲り状」という、「美濃をあげますよ!」という手紙を織田信長に送りました

そのため以後斎藤義龍は、度々織田家の攻撃にあうハメになるのです







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1556年 稲生ヶ原の合戦
勝者 織田信長 23歳
兵 700人
敗者 織田家家臣 代表・柴田勝家
兵 1700人

織田信長は、父が死に家督をついでからもヤンキー生活を続けていました
そのうつけ(アホ)ぶりに、織田家の家臣たちはうんざり

そしてとうとう、重臣の柴田勝家や林道勝は
「あんなバカより、弟の信行の方がいいんじゃないの?」ってことになったのです

弟の信行は信長とは正反対の性格で、マジメなおりこうさん
家臣からもめちゃくちゃウケがよかった

こうして柴田勝家は信行を新しい主君にするべくクーデターを起こすことに!
そしてまず、信長の家臣である佐久間をやっつけに向かいました

これを聞いた信長は大激怒!!
すごいスピードで700の兵を連れてやってきました

そして信じられないくらいの大声で「おのれ!にっくき人でなしどもめ!」と怒鳴ったのです

柴田勝家や林通勝はもともと反乱軍という引け目もある上に、主君である信長に怒鳴られ戦意を失い始めてしまいました

そして信長の素早い対応によりこの反乱はすぐに鎮圧となったのです

柴田勝家は、この時の信長の采配に感心し「うつけと思っていたがなかなかやりおる」と、以後信長に従うことになったのです

ちなみに首謀者の2人はお咎めナシでした
で、この後すぐに信行は信長に殺されることとなるのでした






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1560年 桶狭間の合戦
勝者 織田信長 27歳
兵 3000人
敗者 今川義元 42歳
兵 25000人

戦国三大奇襲の一つ、そして織田信長の名を天下に知らしめた戦いが、この桶狭間の合戦です

今川義元は、軍師の太源雪斎が死んでから、下降線をだどっておりました
ってことで、義元は雪斎が死んでからの悪いムードを一新するために京都へ上洛し、天下を取るべく動き出す決心をしたのです

さーて、今川の上洛を聞いた織田家は混乱に陥りました
通り道だからね
なんせ今川といえば、このへんじゃ実力NO1
織田はまだまだ弱小

家臣らは「これで織田の終わりか・・・」落胆の色を隠せませんでした

信長はというと、敵は目前というのに軍議もせず、夜遅いからもう寝ろとまで言う始末
家臣らはほとほと呆れ果てました

が、夜中の2時

突然信長が「具足を持て!法螺を吹け!」出陣命令を出したのです
そして湯漬けを立ったままかきこみ、「敦盛」を3度舞いました

人間五十年 下天のうちをくらぶれば 夢幻ごとくなり ひとたび生をうけ 滅せぬもののあるべきか 

そして馬を走らせ突然の出陣。熱田神宮で勝利を祈願したのです
織田軍は精鋭を率いて進軍していきました。
すると、信長のもとに梁田政網が「義元軍、田楽狭間で休憩中!」という情報を持ってきたのです

田楽狭間は桶狭間の東北にあり、周りは丘に囲まれている低地で、5000人ほどがやっと収容できるほどの場所でした

義元はここで兵を集めて祝宴を開いていたのです

といのも、松平元康(家康)が砦を破ったという情報が入ったりと、続々と砦を破ったという連絡が入ってきており、勝利間違いなしの余裕モードに入っていたのです

さらに近隣の農民達が義元たちに酒を献上したりして、義元たちは酒宴をやっていたのでした

信長らは、今こそ勝機!と、桶狭間目指して進軍

もう少しで到着という時に、突然稲妻が走り大雨が降り始めたのです

今川軍はこの大雨により避難しだしました
そのため大将・義元の近くに兵が300人ほどになったのです。
さらにこの雨の音により、信長軍の音は一切かき消されました。

天も我らの味方をしている!!!

信長は、桶狭間で休んでいる今川軍を見つけると、全軍に突撃命令を出しました

今川軍は、突然の襲撃に大混乱

信長軍の攻撃を、味方の裏切りか謀反かと勘違いしたほど
武装していない今川軍は次々と討たれていきました

そしてとうとう義元を発見したのです

服部小平太(はっとりこへいた)が、義元に一番槍として切りつけましたが、逆に義元にひざを切りつけられちゃました

倒れた義元を、毛利新介(もうりしんすけ)が斬りかかりましたが、必死の義元に小指を食いちぎられてしまった

が、とうとう毛利新介が義元の首を討ち取ったのです!

「義元の首、討ち取ったり!!」この声に今川軍呆然

大将を失った今川軍はみな逃げていきました

弱小国・織田信長が強大国・今川義元を討ち取ったというニュースはまたたく間に広まりました

天才風雲児・信長の表舞台デビューとなったのです

ちなみにこの時、どさくさに紛れて徳川家康が今川を出て独立しちゃいました



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1561年 川中島の合戦
引き分け 武田信玄 41歳
兵 20000人
引き分け 上杉謙信 32歳
兵 13000人

川中島の合戦は、実は5回あったんです
その中でも有名なのが4回目の川中島の合戦!
ふつー川中島の合戦っていうと、4回目のことを言うんですね〜

さてさて、信玄は村上義晴を倒し、北上するつもりでいました
村上義晴は上杉謙信に助けを求めに行き、謙信の方も「これ以上信玄がこっちに来たらまずいな」ってことで、信玄と戦うことを決めたのです

が、3回戦ってもお互い引き分け
四回目の今度こそ!と、お互い決着をつけようと挑んだのでした

謙信は妻女山に陣を引きました

信玄も近くの梅津城に入り、不気味な対陣が10日ほど続きました

そして信玄の軍師である山本勘助が提案した「啄木鳥の法」を使うことに
啄木鳥の法とは、軍勢を二手に分け、一方が妻女山に夜討をかける
上杉軍は夜襲に勝っても負けても必ず下山して川中島へ向かうであろう
そこをもう一方の本陣が待ちうけ、謙信を討ち取ろうという作戦です

妻女山を襲う攻撃隊は、飯富兵部・馬場信春・真田幸隆ら12000の兵

川中島にて迎え撃つ本陣は、信玄を先頭に弟の武田信繁・山本勘助ら8000の兵

ちなみに川中島とは霧がよく発生する場所で、両者ともこの霧に乗じて攻撃を考えていました

そしてとうとう川中島が深い霧に覆われた。時は熟したのであります

信玄は、啄木鳥作戦の実行を開始!

が、謙信はあがった狼煙を見逃しませんでした

謙信はこの霧に乗じて信玄らは絶対襲ってくるだろうと予想してたのです
夜襲される前に妻女山を下って妻女山にはわずかな兵を残すことに

武田軍をあざむくためにかがり火を焚いて、上杉軍がまだ妻女山にいるかのように見せかけたのです

信玄らはこの戦略を見破ることができませんでした

啄木鳥の作戦を決行中の武田軍

朝6時、霧が晴れてくると突如謙信の軍旗が見えたので信玄はめちゃくちゃ驚きました

上杉軍は1万人武田軍は8000人

しかも意表を突かれたので、武田軍は押されてしまったのです

信玄の弟信繁は、「わが隊は、全員玉砕するつもりで敵を防ぐので、援軍の必要にはこなくてもいい!兄、信玄の勝利を願う!」と使者を出し、上杉軍に討たれてしまったのです

のち、信玄は弟信繁の遺体にすがって泣き崩れました

山本勘助は、啄木鳥作戦を見破られコトを知り「みなワシの責任じゃ」と敵の中に突撃し討ち死にしてしまいました

謙信は怒涛の勢いで信玄の本陣に迫り、月毛の馬にまたがり三太刀七太刀で信玄を斬りつけたのです

それを信玄軍配で防ぎました

その時、近くにいた家臣らが謙信を槍で斬りつけようとしたところ、謙信の乗った馬のお尻を刺してしまい、馬は驚き駆け出したのです

信玄は危ういところで謙信の太刀から逃れたのです

夜襲隊はというと、行ってみたら妻女山はもぬけの殻
慌てて引き返しました

最初は、押していた上杉軍でしたが、夜襲隊が引き返してきたことにより今度は押され、敗走していきました

信玄軍は追撃をせず、ここに第四回の川中島の合戦は終わったのです

ちなみに信玄も謙信もお互い「俺が勝った」と言いふらしてました〜
で、信玄はというと、「もう上杉とやるのめんどっちいよ。桶狭間で織田信長に負けた今川がボロボロになってるからターゲットをそっちに代えよっと」ってことになりました




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1565年 月山富田城攻防戦
勝者 毛利元就 70歳
兵 ?
敗者 尼子晴久 27歳
兵 ?

尼子家は中国地方の有力な家でした
尼子家を大きくしたのは尼子経久
北条早雲とならび、この時代「下克上」を起こした人であります

もともとは京極家の家臣だったんだけど、17歳から22歳まで京極家のもとで人質生活をしていた経久は自分達地方武士が必死で治めた税金で、京極家らおえらいさん達が私利私欲のために使いまくってるのを見てきてしまった

そのため京極家から無理やり独立!
もちろん京極家は怒りましたが、経久は月山富田城を奪い、着々と領地を広げ、11カ国もゲットしました

経久には長男政久がいましたが、経久があまりにも偉大だったため、政久はつねにプレッシャーを感じており、なぜか芸能・詩歌を好むタイプに成長していきました。

ところが1518年、経久と一緒に磨石山城(島根県)の桜井家を攻めた時、優雅に笛を吹いていると、敵兵が場内から矢を放ち、なんと政久に命中
長男政久は死んでしまったのです

突然の息子の死経久は嘆き悲しみました

経久は、孫(政久の子)の義久が成長するのを待ち、家督を譲るのでありました
そして、その頃急速に這い上がってきた毛利家と中国地方の覇権を争うようになるのであります

元就も孫・輝元のため、「自分がまだまだ健在なうちに、尼子家を潰しとこう」と総攻撃をかけることに

得意の謀略で、「尼子家一番の家臣・宇山久信は毛利とつながってますぜ!」と噂を流し、当主の尼子義久はそれを信じて宇山を殺してしまったりと尼子の家臣らも乱れまくっちゃいました

さらに元就は、「降参すれば許してあげますヨ」と尼子家臣らに言ったので、尼子家臣はどんどん毛利側に逃げてきました

とどめに、尼子義久に対して「命は助けてやるから降参しろ!」と言い、「とうとうここまでか・・・」と義久は降伏
名将・尼子経久を生み出した尼子家は滅亡してしまったのでした

もうちょっと後になるますが、尼子家の忠臣・山中鹿之助らが「尼子家再興」を目指し立ち上がるわけです

ちなみに、尼子義久は71歳まで生きましたよー


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1570年 野洲川の戦い
勝者 柴田勝家
兵 400
敗者 六角義賢
兵 ?

この頃、織田信長がガンガン台頭してきており、信長の周りでは「信長をやっつけろ!」という信長包囲網というのができちゃいました

それにのって「反・信長」を表したのが六角義賢でした

信長は長光寺城を拠点にして六角をやっつけろ!と柴田勝家に命令

勝家は400名ほどで長光寺城に向かいゲットしました

が、ここはもともと六角家の所領

たちまち城は六角軍に包囲され勝家軍は籠城となったのです
勝家はよくもちこたえており、六角義賢はがムカムカ
そこへグッドニュースが!

「城内には井戸がなく水は背後の谷から取り寄せてます。」という情報だったのです

これを知った六角義賢はニヤリと笑い、早速その水路を絶ちました

そして義賢は、家臣の平井甚助に和睦の名目で城内の様子を見にいかせることにしたのです

ところが甚助は、たっぷりと水の入った銅盤でおでむかえされちゃいました
さらにその水は惜しげなく庭に捨てられた

あれ?水に困ってるんじゃないんかい?って感じの甚助

「水に困った様子は見られない」と六角氏に報告しちゃいました

が、実は城内これが最後の水だったのでした

水がないとわかるとただちに責められるだろうと予測した勝家は、城内に残っていた水甕を全部割ったのです

その後すぐに決死の覚悟で勝家軍は六角氏に挑み、一気に突き崩し圧勝したのであります

ここから勝家にニックネームができちゃいました
「鬼柴田」「甕割り柴田」と呼ばれるように
そしてこの勝利は信長に大きな利益をもたらしたのでした



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1570年 姉川の合戦
勝者 織田信長 37歳
兵 25000 (家康の援軍も含む)
敗者 浅井長政26歳 朝倉義景 38歳
兵 15000

信長は浅井長政がめちゃお気に入りでした
自分の妹・お市の方をお嫁さんにしたりと、長政を信頼しきってたのです
そんな長政が信長を裏切り、朝倉の味方についたもんだから、信長はめちゃくちゃ怒ったのです

ということで、浅井・朝倉を滅ぼすべく復讐の念に燃えた信長

こうして姉川の合戦が始まるのです

信長のとこには徳川家康が援軍としてやってきました

家康は朝倉担当 そして信長は浅井担当ってことで、両軍が姉川をはさんでにらみ合い

朝6時 戦闘の火蓋を切ったのは徳川勢の服部半蔵でした
人数の多い朝倉軍は、徳川軍に迫りました
それを徳川軍の酒井忠次らが迎え撃ちました

6000人の徳川軍は、1万人の朝倉軍に押され始めたのです

戦局は朝倉軍に有利かと思われましたが、家康は本田忠勝・大久保忠世・松平忠次を一度に突入
さらに榊原康政を朝倉軍の右側を攻めるよう命令
朝倉軍はこの奇襲にびっくりし、一気に形勢逆転
朝倉軍に敗走者が目立ち始めたのです

織田VS浅井はというと・・・

浅井勢は後がないもんだからもう必死!

特に浅井軍の先鋒・磯野員政(いそのかずまさ)の進軍がすごくて戦死者続出

織田軍の13段構えの第1段の坂井政尚を破り、第二段の池田恒興を破り、なんと秀吉・柴田勝家をも破って13段構えの11段までくるほどの勢い

が、徳川軍が頑張った

朝倉軍の敗走者が続出すると、浅井軍の士気がだんだん下がりだしたのです

さらに朝倉軍の豪傑・真柄直隆が討死!

朝倉軍の末尾が崩れ、浅井軍の側面ががら空きになったのです

そこを狙ったのが織田軍の氏家ト全(ぼくぜん)ら美濃勢でした
氏家ら美濃勢は横山城の監視をしており、さきほど到着したばかり
朝から動きっぱなしで疲れまくっている浅井軍は、隊が乱れまくったのです

さらに稲葉良通らの軍が浅井軍の右を攻撃すると、とうとう総崩れとなり小谷城へ逃げ込むこととなりました

午後二時ごろ、信長は勝鬨を上げました
取った首は3000となり、姉川は血に染まり、屍だらけとなったのです

小谷城に逃げた長政らを、信長は追撃するのをやめました

城の守りが堅く、また自分の軍隊も8時間に及ぶ乱戦に疲れきってたから

翌日、信長は陥落させた横山城を秀吉に任せることに
戦いに勝ったものの、朝倉義景・浅井長政を討ち取ることはできませんでした

信長は一度岐阜へ帰り、再び浅井・朝倉を討つチャンスを伺うことになったのです

そしてこの後すぐ、浅井・朝倉は織田に討ち取られてしまうこととなるのでした

ちなみにこの勝負、正直家康がいなかったら信長はやばかったかもしれませんねぇ〜



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1570年 今山の合戦
勝者 龍造寺隆信 42歳
兵 5000
敗者 大友親貞
兵 60000

この頃の九州は大友宗麟の勢いがピークだった頃であります

そんな中、龍造寺隆信は主家を滅ぼし独立しましたが、まだ全然小さい家でありました

大友宗麟は、「そんな小さな家でもでかくなったら困る。小さいうちにやっつけとこう」と、3万の大群を率いて備前へ

隆信は城に立てこもったけど、なんせ相手は三万人
もはや城は落ちる寸前だった

が、大友宗麟が「もう大丈夫だろ。後はお前にまかせた」ってことで、弟の親貞を総大将にして帰っていったのであります

さて、新・総大将となった親貞は「もう絶対勝てるよな!明日総攻撃しよう!絶対勝てるから勝利のパーティやろうぜっ」ってことで、酒宴を開いちゃったのです

この情報をキャッチしたのが龍造寺の軍師・鍋島直茂
800人を率いて、ランチキパーティをしているとこへ奇襲をしかけたのであります

大友軍は大混乱!
さらに混乱は混乱を呼び、めちゃくちゃに
とうとう大友軍は逃げていっちゃいました

これを機に。大友家は衰退の道をたどることになります
そして龍造寺家はのしあがっていくこととなるのでした


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1572年 三方ヶ原の合戦
勝者 武田信玄 52歳
兵 30000
敗者 徳川家康 32歳
兵 8000

織田信長は京都へ上洛し、ノリノリでした

そこへ出てきたのが武田信玄
「ガキが調子にのりやがって!」と、とうとう信長をやっつけに京都へやってくることになったのです
さすがの信長もドッキドキ

信長が一番恐れている信玄が、とうとう自分を倒しに上洛してくるのです

しずかなること林の如く・動かざること山の如くといった感じで、列を乱さず京都へ向かってきたのです

そしてとうとう徳川領に入ることに

信玄が徳川領に入ってきて焦ってたのは家康
信玄にとっては、家康なんてその辺の石ころ程度

信玄は3万人の軍を率いて、家康のいる浜松城を無視して通り過ぎるつもりでいました

すると家康「このまま武田軍に何もせずに通らせてしまうということはこの家康、腰抜けと言われ恥をかく!勝負は天運にまかせて合戦するぞ!!」と言い出したのです

家臣は「無理ですよ!辞めた方がいいですよ!」と止めました

家康は(素通りさせちゃったら、家臣もオレをバカにするだろうし、信長もオレのことを軽く見るだろう・・・)という腹でした
また、あの信玄と戦った武将ってコトで、他の武将に尊敬されるかもしれない・・とも考えました

もう何もいうなぁ!と家康は三方が原へ出陣

一番ビビってたのは、家康だったことでしょう

午後3時ごろ三方ヶ原に武田軍が現れました

偵察していた武田軍の小山田信茂が
「徳川軍の布陣は一線だけですぞ?しかも織田から援軍が来てますが、まるでやる気がなさそうです。戦いが始まれば逃げそうな感じですよ」と報告しました

すると小山田隊の先手にいた足軽が、徳川方の石川数正に石つぶてを投げたのです

戦いが始まりました!

徳川軍の石川数正が、武田軍小山田信茂の陣へ突撃!
続いて本田忠勝・榊原康政・大久保忠世が後に続きました
家康も自ら山県昌景(やまがたまさかげ)へ突っ込もうしましたが、酒井忠次がそれを必死でとめました

次々とやってくる強豪武田軍

徳川軍は今戦っている軍勢が全て

家康は歯軋りし、口から泡を吹き、必死で激励しながら戦っていました
が、家康が恐ろしいほど奮闘しているのに、武田軍はちょこっと乱れただけで、まったくびくともしないのです

そこへ27歳の信玄の息子勝頼が家康本陣へ突っ込んできたのです

それにすぐ反応したのは山県隊
信玄はそこで総攻撃の合図を出し、徳川軍はもはや総崩れ
殿軍(しんがり)の本田忠勝も奮闘しましたが、織田の援軍が逃げ出したのです

織田の援軍は形だけだったので、戦いが始まってからも全く動きませんでした

ですが、一旦戦闘が始まったら動くべきだったのに、織田の援軍・佐久間信盛は戦わずに逃げたのです

ちなみにもう一人の援軍・平手汎秀は奮闘しました
汎秀は、信長の守役で、信長の乱暴を諌めるために自刃した平手政長の息子です
この時まだ20歳

討死覚悟で信玄に迫りましたが、届かず、武田軍に討ち取られたのです

ちなみに信長は汎秀の死を聞くとめちゃくちゃ哀しがり、後に家康や佐久間に「汎秀を生かして返せ!」と困惑させました

さて、総崩れとなった徳川軍

家康は慌てて浜松城へ引き返そうとしましたが、武田の騎馬軍団はそんなに甘くはありませんでした

逃げる家康の後ろでバッタバタと人が倒れまくる
浜松城までの七キロを、忠臣らが家康を逃がすために必死になり、家康は後ろも振り向くことができず、ひたすら浜松城へ

浜松城の留守役である夏目正吉が、家康を迎えに駆けつけた時、家康はまだ追われていました
合流すると家康はなおも武田軍へ突入しようとしました

夏目正吉は、「殿!死ぬ気でござるか!」と、無理やり家康の馬のお尻をひっぱたいて家康を城に戻させたのです。
そして夏目正吉は「我こそは家康なり!」といい敵陣に突っ込み討死しました

なんとか浜松城へ逃げ帰った家康

すると「城門を開け!かがり火をたけ!」と命令しました
そして湯漬けをかき込むと、そのまま大いびきをかいて寝てしまったのです

追撃してきた山県隊と馬場隊は、城門が開いてるのを見て「何か策があるんじゃないか?」と進撃をためらいました

そこに三方ヶ原から帰ってきた徳川軍がやってきたので、武田軍は戻っていったのです

ちなみにこの時、家康は恐怖のあまり馬の上でウンチもらしちゃいました

それほど、恐怖だったんでしょうね〜

ちなみに家臣に「この匂いはなんだ?」と騒がれ「腰につけてた焼き味噌をこぼした」と言い訳したそうです

戦い終わった後、武田の猛将・馬場信房は「三河勢の死体はいずれも仰向けで討ち死にしており、逃げた兵の死体はいない。三河兵はなかなかやりおる」と言ったそうです

この合戦で死んだ大物は、信長援軍としてむかった「平手汎秀」のみ

ちなみに家康は、この戦いのことを恥じて絵に描かせ、教訓として飾っていたようです
そして死ぬまで側に置き、自戒の絵としました

ちなみに、信長からはよくぞあの信玄に挑んでいったと褒められました

そして、もはや織田は終わりか!?って時に、なんと肝心の信玄が進軍中に死んでしまったのです・・・
まさにラッキーマン・織田信長!






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1573年 刀根坂の合戦
勝者 織田信長 40歳
兵 20000
敗者 朝倉義景 41歳
兵 10000

姉川の合戦で負けた浅井・朝倉でしたが、武田信玄が上洛!ってことで、信長は浅井・朝倉どころじゃなくなってました

武田信玄は朝倉義景に「俺も行くからお前も信長を攻めろ」って手紙を貰ったんだけどナゼか無視
絶好のチャンスを次々フイにしていた義景でした

そしてなんと!信玄が上洛途中で死んでしまい、信長の矛先がまたも浅井・朝倉のとこにきて大慌てしちゃいました

まず信長は浅井攻めを再開させました

さすがに今度は自分も出陣しようと思ったんだけど、そんな時代を見抜けない義景を見限っていた朝倉家臣が次々戦場に出るのをボイコット

さらに織田家からの引き抜きもあり、朝倉家はパニックに
でも、やんなきゃやられちゃうので、義景は多くの家臣にボイコットされたまま浅井を助けようと出陣

浅井の城を包囲している織田軍に戦いんだのです!
が、信長はここで「あんたの居城・一乗谷城は落城しちゃってるよ」という噂を流しました

そのため朝倉軍は慌てて一乗谷城へ逃げちゃいました

そしてみんな「織田軍が攻めてくる!」と速攻で逃げまくり

朝倉義景にとって、頼みの武将は一族の景鏡のみ
景鏡は「もう一乗谷城を捨てて再起をはかった方がいい!」と進言し、義景もてんやわんやで逃げ出しました

主のいない一乗谷はゴーストタウンとなったのです
第二の京といわれた華やかな文化町は、信長に火をつけられ3日間燃え続けたました

その後再起をはかろうとした義景ですが、織田の手はいろんなトコにまわっていて誰も協力してくれない

そこで最後までついてきた景鏡が「賢松寺」に入るよう勧めました

実はこれが罠だったのです

景鏡は軍を率いて義景に自刃を迫ったのです

義景は誰一人味方のいないまま、呪詛の言葉を残し賢松寺にて自害したのです
家族は捕らえられ焼き殺されてしまいました

名将「朝倉宗滴」の死後、戦国の世を転げ落ちていった朝倉家

景鏡は義景の首を手土産にし、信長に降伏しました

ちなみに、景鏡は朝倉義景の首を取った手柄として越前の領地をもらいました

が、越前では一向宗の勢力が強まりはじめ、「主君を殺して信長に取り入ったヤツ」というイメージをぬぐいきれず一向宗に攻撃されまくり、とうとう戦死してしまいました




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1575年 長篠の合戦
勝者 織田信長 43歳
兵 20000
敗者 武田勝頼
兵 15000

武田信玄が死んだ後、新当主となった武田勝頼
父に負けじと色んな城を攻めまくっていました

が、父の家臣だった人たちは「もっと落ち着きなされ」と勝頼をたしなめまくり
勝頼はいつまでも父の信玄と比較されるのが嫌で仕方なかった

そんな中、武田家臣の奥平貞昌が家康側に寝返ったのです
怒った勝頼は長篠城にいる奥平を攻め込むことに!!

そして迎え撃つは徳川と織田でした
ここで織田信長は「鉄砲」を使ってみようと思ったのであります

織田・徳川は各武将に命じて、陣の前に穴を堀ってそこに木の柵を作るように命令しました
これが「馬防柵」
最強武田の騎馬隊を食い止めるとともに、鉄砲を三段に分けて発射するための柵です

まず最初の千人が銃を発射すると、すぐ次の千人が撃つ
これを繰り返し行う方法を使うことに
考えに考えた信長の作戦でした
そしてこの馬防柵は延々と続いて造られたのです

武田軍では軍議が開かれていました

信玄時代からの武将である馬場信房・山県昌景・内藤昌豊らは、連合軍のこの異様な構えを見て不安を抱きました

「今回の織田・徳川連合軍は決してバカではない。それに背後には長篠城で籠城している兵もいる。今回はちょっと危険だ。一度甲府に戻ってから体勢を立て直そう」と勝頼に言ったのです

が、勝頼は聞かなかった

信玄さえ落すことの出来なかった高天神城をも落とし、ここらで一発デカイ戦いに勝利して、自分が武田家の後継ぎだということを、世間に知らしめたかったのです

こうして勝頼は、重臣らの意見も聞かず、長篠城の包囲を解いて織田・徳川連合軍の元へ進軍していったのです

夜、酒井忠次は兵3000人を連れて鳶ヶ巣山へ向かいました

そして鬨の声を挙げ、奇襲したのです
不意をつかれた武田軍は、あっけなく逃げていきました
鳶ヶ巣山を奪ったのは、連合軍にとってものすごく価値のあることでした
退路を絶たれるばかりか、全軍の食料補給基地でもあったのです
補給を絶たれては、武田軍は長い間滞陣することができない
すぐさま勝負に出ることを選ばざるを得なかったのです

さらに酒井隊はそのまま長篠城を監視していた武田軍の小山田昌行らを攻撃
小山田隊は退却していったのです

武田重臣である馬場信房は何とかこの戦いを止めさせたかった
それは長年の戦場の癇であり、「今回は分が悪い。それに悪い予感がします」とひっきりなしに勝頼に言いました

だけど勝頼は「臆病風に吹かれたか?敵が目の前だというのに、引き返すことが出来ようか!武田家の面目が丸つぶれじゃ!」と激怒しました

怒鳴られても信房は「では、長篠城をどうにかして奪い取りましょう。数千人の被害は出ますが、籠城に持ち込んだ方がいいと思われます」と意見しました
信房はあの妙な織田・徳川連合軍の陣構えが気になって仕方なかったのです

が、信房の意見は実現不可能となってしまいました
酒井忠次が鳶ヶ巣山を攻略し、長篠城近くに布陣してた小山田隊を撃破してしまったのです
この時勝頼が、信房の意見をすぐ聞き取り、長篠城を奪い籠城していれば、歴史は変わっていたかもしれないですね〜

武田家の重臣達は、何度も勝頼に「今回は止めた方がいい」と進言しました
ですが勝頼は聞く耳持たず
それどころか「臆病者どもめ!」と逆ギレしてくる始末

山県昌景・内藤昌豊・馬場信房ら重臣達は「こうなっては仕方が無い」と覚悟を決めました

今生き延びて勝頼のもとで武田家滅亡をみるより、華々しく戦って討ち死にし信玄殿の恩義に報いようと酒をくみかわしたのです

早朝、信長は本陣を極楽寺山から弾正山北部へ移しました
弾正山南部には家康がいて、両軍トップが近くに布陣したのです
右翼には徳川軍の大久保忠世・榊原康正政・本多忠勝・石川数正・鳥居元忠
中央には織田軍の羽柴秀吉・丹羽長秀・滝川一益
左翼には織田軍の佐久間盛信らが布陣しました。
そして最前列には前田利家・佐々成政らの足軽部隊。つまりは「鉄砲隊」がいたので
武田家臣は最後にもう一度だけ勝頼を諌めようと試みました

家臣一同の代表となったのは山県昌景
「ここまで来た以上、もう合戦するなとは申しません。ですが、こちらから仕掛けず、敵に川を越えさせ、敵から仕掛けるようにいたしましょう」と言いました

皆、馬防柵の中にいる鉄砲隊が、どんな働きをするか不安で仕方がない
見当がつかないものは避けて、あちらから仕掛けさせようとしていたのです
が、勝頼は「まったく、本当にお前らはだらしがないな!人間はどこまでも命が惜しいのだな!」とバカにしたのです

昌景は憤りました
そして「ワシは討死いたす。勝頼殿も大将であるのだから、討死は覚悟の上なのであろうな?」と言い捨てました

他の家臣達は昌景が最後にお願いしに行って、どうなったかを陣所で待っていました
すると昌景が戻ってきて「みな討死じゃぁ!」と大声で叫び、怒りの形相のまま赤備えを率いて飛び出して行ったのです

大久保忠世・忠佐の兄弟は、「今日の戦いは、本当ならば徳川と武田の戦いであって、織田は加勢にすぎませぬ。先に織田勢によって戦いの火蓋が切られるのは、徳川の恥である。よって、我ら大久保が進んで戦いを仕掛けようと思います」と家康に言いました

家康は「もっともである」と、大久保隊に鉄砲隊を付けてくれました
そして大久保隊は、馬防柵を飛び出して、武田軍の第一陣である山県昌景隊を挑発していたのです

山県昌景は「赤備え」で有名な猛将でした
甲冑・旗差物・鎧など全てが「赤」
武田軍の勇猛第一と言われていた猛将でした

その頃、最後の願を勝頼に聞き入れてもらうことが出来なかった昌景
憤怒の形相で、3000人の赤備えを率いて大久保隊に攻めかかってきたのです
大久保隊は慌てて馬防柵の中へ逃げ込みました
そして鉄砲隊が一斉に山県隊めがけて発射されたのです

鉄砲隊は途切れることなく発射し続けました
第一列目が撃ち終わったら、次の列に交代
こうして3列の鉄砲隊が発撃の切れ間なく、襲い掛かってきたのです
みるみるうちに山県隊の騎馬が撃ち倒されていきました

それでも弾丸の間をくぐって、何とか馬防柵までたどり着いた者もいましたが、柵を乗り越えようとすると撃たれ、屍だらけとなって行ったのです

次に武田軍第二陣の武田信廉が突撃してきました
ですが山県隊と同じく、鉄砲の前に屍の山を造ったのです
武田第三陣の小山田信茂・第四陣の武田信豊も突撃しましたが、一斉射撃の前に崩れ去りました

これを見ていた馬場信房は、もはや黙って仲間達が討たれて行くのを見ていることはできませんでした
右から信長本陣に迫っていったのです。

この猛進は凄まじく、馬防柵を打ち破るほどでしたが、前田利家・佐々成政の鉄砲隊が前に出て、一斉に射撃しました

鉄砲の命中率・量はものすごく、馬場隊は撤退。
馬場隊とともに進んだ真田信網・穴山信君らも敗走しました

中央本陣でこの様子を眺めていた内藤昌豊も、目の前で繰り広げられる悲惨な戦況にいてもたっても居られなくなり、何とかこの状況を打破しようと、自ら先頭となり1000騎を引き連れ滝川一益隊めがけて飛び出しました
内藤隊1000騎は3000の滝川隊をかなり散乱させました
が、鉄砲は容赦なく射撃を繰り返しました。

とうとう内藤昌豊は、銃弾の前に命を落としたのです
もはや武田軍は悲惨なことになっていました

それでも屈せず、陣形を建て直して何度も攻め続けました
もはや自滅するのを覚悟したかのような突進だったのです。

赤備えの山県昌景隊は、17箇所の銃弾を受けてもひるまず、兵が減っても陣形を建て直し、突撃を繰り返すこと13回
弾が右腕を貫通すると、采配を左手に持ち替え奮闘
左手も弾丸で撃たれると、采配を口に加えてまで挑んだのです
が、馬に銃弾が当たってしまい、落馬してしまいました
そこを徳川軍が襲い掛かり、とうとう首を討たれてしまったのです

もはや織田・徳川連合軍の勝ちは確実のものとなりました

用心深い信長は、ここにきてとうとう「総攻撃じゃー!」と命令を出したのです
武田家の馬場信房は総攻撃がかかったと知ると、すぐさま勝頼に退却を勧めました
勝頼はこの悲惨な戦場に焦りまくりでした

すると信房「勝頼殿!勝敗は運でありますぞ!なぁに、勝頼殿はまだ若い。これから再挙できまする!」と勝頼を元気づけました

信房は勝頼だけでも退却させなければと、自ら殿軍となりました
そして勝頼退却を見届けると、ここを死に場所と決め、単騎で突撃していったのです

700騎を率いて6000人の佐久間信盛隊を突き崩し、信長に「馬場信房の働き、比類なし」と言われるほどでしたが、やはり兵の数が少なすぎた
とうとう討ち取られてしまったのです

信長は退却する武田軍を追撃させました

15000人の武田軍のうち、甲斐に戻ってきたのはわずか3000人となったのです
この合戦時、本国守備として留守番役をしていた昌信

わが最強の武田の騎馬隊が完敗し、仲間が撃ち取られまくったと聞いて大ショック
慌てて逃げて帰ってきた勝頼の洋服をすぐに着替えさせ、敗戦の見苦しさをみせないようにしました
凱旋を装わせ、領民を安心させたのです
この戦いは武田軍の完全な負けに終わりました

それどころか、名だたる武将達が討たれまくり

足軽は補充できても、戦歴をつんだ武将に代わりはなかなかいない

山県昌景・馬場信房・内藤昌豊・真田信網・原昌胤・甘利昌澄ら、信玄時代の名将たちが殆ど討死したのです

それでも勝頼は、心配してくれた人たちに対し「いやいや、今回の負けはたいした事はない。まだ高坂昌信・穴山信君・武田信豊・小山田信茂らが残っているし。だから心配しないでくれ」と言っていました

というか、弱みを見せたら潰される時代
こう言うしかなかったのです

重臣達の意見を聞かずに、功を焦った勝頼

この戦いは最強・武田家に暗い影を落すこととなってしまったのでした


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1576年 七尾城攻防戦
勝者 上杉謙信 48歳
兵 ?
敗者 畠山春王丸 6歳
兵 ?

上杉謙信は、関東管領だった上杉憲政から「関東管領」の職を譲り受けてから、めちゃくちゃ大変でした
わざわざ越後から毎年関東へ出向き、武田や北条とバトルを繰り返していたのでした

そんな頃、越前の畠山氏が織田側に寝返ったのであります
越前が織田の手に落ちちゃったら、関東どころじゃなくなる!と思った謙信
越前の七尾城を取り戻すべく畠山攻めを開始したのです

ちなみに畠山の当主はまだ6歳
ってことで、実権は重臣の長氏が握っておりました

謙信は七尾城を包囲したものの、なんと撃退されちゃいました

怒った謙信は再度七尾城攻略にチャレンジ
今度は七尾城にいる「上杉ひいき派」に調略を命じ、なんと城内で反乱を起こさせ、長氏を殺したのであります

長氏がいなくなれば、もう七尾城は上杉の手に落ちたも同然
こうして謙信は、無事七尾城をゲットし、織田信長の侵略を防いだのでした



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1577年 手取川の合戦
勝者 上杉謙信 48歳
兵 ?
敗者 織田信長勢 代表 柴田勝家
兵 40000
謙信はずーーーーっと将軍であった義昭からも上洛するよう言われました
が、武田や北条とバトルしてたので、なかなか京都へ行くことが出来ませんでした

が、、武田の脅威がなくなったためやっとこさ重い腰をあげることとなったのです

「謙信上洛!」のニュースを聞いた信長は恐ろしいほど緊張しました

そして信長の所領である加賀に入ったのです

とうとう信長もこれはヤバイと覚悟を決め、手取川に陣を置きました

上杉軍はかがり火を焚き、部隊がそこに駐留しているように見せかけ騎馬のみの精鋭部隊だけを本陣へ
対する織田軍はのんびりしてたところへ突然の奇襲にびっくり

先陣の滝川一益と丹羽長秀の部隊はあっという間にボロ負け
秀吉もこりゃヤバイと早々に敗走

ちなみに、秀吉はこの時信長にかなり怒られました

かろうじて粘ったのが柴田勝家

勝家はなんとか反撃しようと頑張りましたが、すでに兵の士気は先陣の敗走により下がりまくっていたので、立ち直ることができず大敗してしまいました

夜明けになると信長は残った兵をまとめて対抗しようとしましたが、上杉のかがり火チームもやってきて織田軍はぼろぼろに

信長は残った兵とともに逃げ出しましたが、追撃され何とか美濃に逃げ帰った時には全身傷だらけでした。

「やばいことになったぞ」と焦った信長

が、謙信は一度春日山城に戻ることに

そして戻ってから数日後、なんとトイレの中で脳卒中となり倒れてしまい、そのまま死んでしまったのです

恐るべし!ラッキーマン信長




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1578年 三木城攻防戦
勝者 豊臣秀吉 45歳
兵 ?
敗者 別所長治 25歳
兵 5000

別所家は赤松家の流れを汲む名門
別所長治は父が早く亡くなったため12歳で家督を継ぎました
家督を継いだとはいえ、幼かったので裏で糸を引いていたのは叔父である三木賀相(よしすけ)

長治が21歳の時、秀吉の中国攻めにおいて地理に詳しかったため先鋒に命じられました

が、叔父である三木賀相は「たかが草履とりだった男に戦いの何がわかる?」と秀吉をバカにしており、会議の席においても秀吉の傲慢さを罵り、長治にトクトクとそれをグチってたもんだから、長治もだんだん秀吉を小ばかにするように

そして「あんな草履とりが総大将なんでふざけるなや!」と、毛利とつながり反旗を翻すことになったのです

怒った秀吉は得意の城攻めをスタートさせました

三木城には立て籠もっているのは7500人

まず周囲の城を一つづつ壊していき精神的に追い詰めました

そして完全に三木城を孤立させたのです

1579年2月 籠城1年後
食料も底をつき2500人の城兵が一丸となって突撃するも敗北
9月になると、毛利は兵糧を送るも秀吉軍に逆にやられてしまい城内には米一粒も残らなかった

さらに城内から内応者を出させ混乱に陥れた
ねずみ・馬・草

とりあえず口に入るもの全て食べましたが、とうとう長治は
「自分と息子の友之。そして三木賀相手の3人が切腹するので、城内の兵の命を助けてください。兵を助けていただければ、長治今生の喜びであります」と言いました

秀吉はこれを了解した

そして切腹の日

早朝に起きて行水し、長治は自分の妻と3歳の子供を刺し殺し、賀相の妻と子供を殺しました

そして友之と最後の別れをし、切腹しました。長治23歳 友之12歳でした

ちなみに長治の家臣である中村忠五郎は、自分の娘を差し出し、城内から門を開く約束をしました

で、秀吉軍が城内に入ると襲いかかったのです

本来なら秀吉に殺されるとこでしたが、秀吉は忠五郎を「主君に忠誠を尽くした武士の鑑じゃ」と褒め、知行を与えたのでした



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1578年 耳川の合戦
勝者 島津義久 46歳
兵 40000
敗者 大友宗麟 49歳
兵 45000

この頃の九州では、大友宗麟が実力NO1でした
それに続いて島津がのしあがってきておりました

1577年に島津は日向の伊東義佑のとこに攻撃をかけます

伊東氏は日向を追放され、伊東義佑は宗麟の娘を嫡男の妻に貰ってることから、宗麟のとこに助けて!とやってききたのです

大友宗麟は伊東氏の領地を奪回するべく島津に戦いを挑むことに

だけど重臣達は大反対

しかし宗麟は九州制覇という野望のもと、同じ九州の最大の敵 島津氏をやっつけようと決心したのでした

1578年9月 大友軍45000人は日向へ向かいました

島津家久の軍はこれをとめることができず、耳川近くの高城に立て籠もり、なんとか進軍を食い止めました
大友軍は高城を何度も攻略しましたが、落とすことができずに損害だけを増やしていました

11月に島津義久は4万の軍で救援にやってきた

島津勢と大友勢は川を挟んで対陣する態勢が整いました

翌日、大友軍の総大将である田原紹忍が、島津を侮り川を渡って島津軍を攻め込みました
が、島津の猛攻撃にあってしまい総崩れに

この総崩れは大友軍を混乱させてしまいました
今がチャンスと島津軍は敗走し始める大友軍を追撃

完璧なまでに叩きのめされ、大友軍は討たれまくり。島津の大勝利となりました

大友軍の敗因は田原紹忍の油断もありますが、大友宗麟にもかなり原因あり

それはナゼか?というと、島津軍は当主である島津義久が自ら陣頭にたって頑張ったというのに、キリスト教にはまってた宗麟は200キロも離れたところにいて、お祈りをしてたってコト

これによって、兵の士気が下がってしまっていたのです
この大敗戦により、大友氏の地位は地に落ちることに
大友家は敗戦後、謀反が続出。
家臣の心も離れていきました
大友家衰退の始まりであります。

対する島津は日向を治めるとともに、念願の薩摩・大隈・日向の三国を統一
ガンガン勢力拡大していきます。

そして、負けた方を狙ってやろうと虎視眈々とチャンスを狙っていた肥前の龍造寺隆信が出てくることになるのでした



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1578年 御館の乱
勝者 上杉景勝 24歳
兵 ?
敗者 上杉景虎 27歳
兵 ?

織田信長を倒そうとしていた上杉謙信でしたが、なんとお城にあるトイレに入ったまま倒れてしまい、そのまま死んでしまいました!

謙信は独身だったので子供がおらず景勝・景虎という養子をとっていました

どちらを後継者にするか決めないまま死んでしまったため、謙信の本葬が終わらないうちにこの2人の後継者争いが始まるのです

景勝は謙信の姉の子で5歳で謙信の養子となりました

景虎は北条氏康の七男(末っ子)で「関東一の美少年」と言われていた少年
北条氏と上杉氏が和睦した時に人質として送られ、謙信は養子として迎え自分の幼名である景虎を与えました
また、景勝の妹を妻にしてました

謙信の死により景勝派・景虎派と家中が真っ二つに割れたのです

そして景勝はオレが後継ぎだ!と春日山城を占拠

自分が謙信の後継者であると宣言した
景虎は妻子とともに春日山城を脱出
越後に来ていた山内上杉憲政の家である御館にたてこもりました。

越後は揺れに揺れたのです

景勝と景虎の戦いはずーっと続きました

そしてとうとう雪の降る中、景勝は総攻撃を決意したのです!

景虎側の猛者・北条景広はかなり奮闘しましたが討ち取られ、脱走者が相次ぎ始め景虎の敗戦色は強くなってきました

もはやこれまでと上杉憲政が景虎に降伏を勧め、景虎の長男である道満丸(9歳)を連れて和議の交渉をするため春日山城へ向かいました

が、途中で2人とも兵に斬殺されてしまったのです

これを知った景虎は嘆き、再起を図るべくおにーちゃんの北条氏政のいる小田原城へ逃亡を決意

追手を振り切り、なんとか味方の鮫ケ尾城へたどり着いたのです

が、鮫ケ尾城主の堀江宗親は景勝に寝返っていたのです
景虎は堀江の謀反と景勝の攻撃に耐えることができなくなりとうとう自刃

景虎が死んだ後も各地で景虎派は反抗しまくてったんだけど、景勝の猛攻によりとうとう全員降伏

越後は景勝のものとなったのです

そしてこのお家騒動で、景勝に大きな影響を与えたのが、軍師・直江兼続なのでした




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1578年 木津川口海戦
勝者 織田信長 46歳
兵 巨大艦隊6隻
敗者 毛利水軍
船 600

この頃、信長包囲網というのが出来ており、周りの国みーんな「打倒!信長!」ムードになっておりました
その包囲網チームの本願寺が、毛利と連携して信長をやっつけよーとしたのです

毛利には昔っから「村上水軍」というメチャ強い水軍を持っており、毛利の村上水軍は本願寺へ大量の食料や物資を運んでいたのでした

それを阻止しようとした信長でしたが、最強・村上水軍の前になすすべナシ
めちゃくちゃに惨敗したのであります
これが第一次・木津川口海戦です

さて、毛利家の村上水軍にコテンパンにやられたのは織田お抱えのの「九鬼水軍」

信長は不機嫌で口もきかないほどでしたが、今度はこう考えました

「毛利の水軍はちょこまかと動きが素早い。だったら、そんな小型の船が近づけないくらいデカい船を造ればいいんじゃ!」

こうして、九鬼嘉隆に常識を超えるくらいのデカイ船を造るよう命じたのです

命じられた嘉隆はビックリ!

ですが命じられたことを断ったら信長に殺されかねないので、全造船技術を駆使してめちゃくちゃデカイ船を完成させたのです

その船が堺の港に姿を現すと、人々は度肝を抜きました

「人が5000人ほど乗る、たて12メートル・横22メートルの鉄張りで出来ており、今までに無い大戦艦」だったのです

この頃、毛利輝元はまたも石山本願寺から「兵糧運んできてー」とお願いされました
前回と同じパターンでしたが、今回は巨大な大戦艦があったのです

が、村上水軍は「前に戦った時、ヤツラめっちゃ弱かったじゃねーか!」と、全く用心していなかったのです

ところが!!

現れた超ドデカイ船に乗った九鬼水軍は遠くから大鉄砲をぶちかましまくった
村上水軍が得意とする接近火術は何の威力も発することができないのです

こうして村上水軍(雑賀衆も)はめちゃめちゃにやられてしまいました
ちなみに雑賀衆はこの後も頑強に「本願寺」を指示
意地でも織田家に従うもんか!と頑張りまくりました

以後織田家であった秀吉に対しても反抗しまくり、秀吉によって壊滅的な打撃を受け歴史から姿を消すこととなります




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1581年 鳥取城の合戦
勝者 豊臣秀吉 45歳
兵 20000
敗者 吉川経家 24歳
兵 1000

秀吉は中国地方を攻略するべく活動的に動きまくってました
そしてお次のターゲットが鳥取城であります

実は一年前に城主である山名豊国はすでに秀吉に降参してました
が、家臣らは納得できず、秀吉が一度姫路に帰った隙をみて毛利へ寝返ったのでした

鳥取城にいた代表が「吉川経家」
鳥取城は名城で、兵糧さえあれば充分戦える
そう踏んだ経家は兵を用意し、籠城に備えることに

それを知った秀吉は激怒!!
兵糧ルートを全部絶たせる作戦に出ました

鳥取城下に来た米商人に相場の倍値で買い、兵糧攻めを開始
そして城の周りに柵を立て包囲しました
兵糧ルートを経たれ、食料を用意できなかった鳥取城には何もありませんでした

ここから、鳥取城の餓鬼地獄が始まるのです

3日に一回鐘を鳴らし、兵らが柵のギリギリのとこまでいって草の葉を取ってきた
もはや食べるものは草などしかなかったのです

柵の外ではこれ見よがしに秀吉軍がご飯をモリモリ

牛や馬を次々殺して食べてもあっという間に食べつくしてしまい、城内の人々はやせこけまくり
人々は柵まで「助けてくれ」と力を振り絞って歩いていったんだけど、秀吉軍は容赦なく鉄砲で撃ちまくり

すると、撃たれた人の肉を求めて城内から兵が出てきて人肉を食べたのです

ちなみに、殺した兵のお腹を裂くと何も入っていなかったらしい

自分の子が死ぬと、その死体をみんなに見つからないように隠して食べる者もいました

とうとう絶えられなくなった経家ら重臣は降伏
経家は切腹となったのです

200日の餓鬼地獄は幕を閉じました

降伏後、秀吉は城兵に「おかゆ」を食べさせたましたが、おかゆを食べた兵らは次々と死んでしまいました

これは毒を入れたわけでもなく、突然食べたためです

それほど兵は衰えていたのでありました




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1581年 天正伊賀の乱
勝者 伊賀忍者
兵 総動員
敗者 織田信雄 25歳
兵 8000

伊賀は服部・百地・藤林を中心とした忍者の土地でした
大名がおらず、この三つの家が伊賀を支配していたのです

が、伊賀忍者達はせっかく出来上がりかけていた織田家の丸山城を焼き払っちゃいました

これに怒ったのは信雄(信長の次男)

ですが信長は伊賀なんかに構っていられない状況だったのです

が、信雄は勝手に動いちゃった

「織田家の中で、大した働きをしていないこのオレ様。なんとかヤツラを見返してやりたい!」と、十分な下調べなどをせずに、功を焦り出陣しちゃったのです

一応信長に連絡はしたらしいんだけど、それどころじゃなかったので「勝手にやれ」といった感じだったらしい

ってことで、信雄は8000人の兵を率いてやってきました

が、伊賀の忍者軍団はすごかった。
老若男女全員が武器を取り、織田軍に挑んだのです
さすが忍者!といった戦いで、ゲリラ戦・スパイ戦と、ありとあらゆる手を使って信雄軍を攻め込みました

正直、伊賀衆をナメていた信雄はびっくり!
さんざんひっかきまわされ、逃げていったのです

伊賀の乱の大敗を知った信長は超激怒!
信雄をただちに謹慎処分にしました。

ちなみに信長は伊賀忍者が大嫌い!
陣へ忍び込んで火を放ったり、流言をしたり

さらに朽木越え(浅井長政に裏切られて逃げた時)も、必死で逃げてる信長の命を狙ったり

いつか手痛い目にあわせてやろうと考え、のち第二回目の天正伊賀の乱では44000人という大群を引き連れ、伊賀をメタメタに滅ぼしたのでした




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1582年 中富川の合戦
勝者 長宗我部元親 44歳
兵 23000
敗者 十河存保 29歳
兵 5000

もともと四国は応仁の乱までは細川氏が守護をしてましたが、戦国時代になると豪族達がうようよとうごめいてきた
そんな中で頑張ったのが長宗我部家で、土佐をゲットしました

長宗我部の夢は「四国統一」
そのため邪魔なやつらをガンガンやっつけ、お次のターゲットとなったのが十河存保だったのです

が、ここで飛び出してきたのが織田信長
信長は信長包囲網を全てかいくぐって、武田も滅ぼし、お次は四国〜ってなトコだったのです
こーして信長は四国をゲットしようと、長宗我部を狙うことに
さぁ、準備は整った!ってことで、信長家臣の丹羽長秀なんかが四国へ行く前日、なんと「本能寺の変」が起きてしまい、肝心の信長が殺されてしまったのであります

そのため中央は大混乱に

ラッキーなのは長宗我部
「今のうちに四国をゲットしちゃおう!」と、十河存保のいる勝瑞城めがけて進軍しました

こーして中富川を挟んで両軍は対峙したのであります

鬼十河というニックネームまでついてる存保は「やろうども!いくぞ!」とこっちから合戦をしかけようとしたその時!!
なんと川がいきなり増水したのです

実は長宗我部が川の上流で水をせき止めており、存保がやってくるって時に水を放ったのでした
こーして増水した川に流されまくった十河軍
存保は讃岐へと敗走していきました

長宗我部は見事勝利を収めたのでした
そしてこの後、四国統一を成し遂げました!!

が、のちに秀吉が天下ゲッターとなり、長宗我部元親は秀吉に従うことに
せっかくゲットした四国は、土佐以外全部秀吉に取られちゃいます

そして皮肉なことに、秀吉から九州の島津を攻めろ〜!って命令がくるんだけど、この時一緒のチームとなって戦うのが、かつての敵であった長宗我部元親と十河存保なのでした



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1582年 高遠城攻防戦
勝者 織田信忠 26歳
兵 53000
敗者 仁科盛信 26歳 
兵 3000

長篠の合戦で破れた武田はもうボロボロでした
みんな織田・徳川に寝返り、もはや滅亡寸前
そしてとうとう、織田・徳川が武田を潰すべく動き出したのです

が、織田・家康が武田本領へ行くまでの道のりは超簡単
みーんな戦わずして城を明け渡していったのです

そんな中、唯一戦ったのが仁科盛信
盛信は信玄の5男で、勝頼の弟です

高遠城の仁科家を攻略した際、名門仁科家が没落するのは勿体ないということで、仁科を名乗るようになっていました

そこへ譜代家臣である木曽義昌が寝返ったというニュースが!

武田家は大パニック!

逃げ出すものが続出でしたが、仁科盛信は踏みとどまったのです

織田家は武田家を一気に潰すために53000人もの大軍を送り込みました
これを恐れた武田家では、どんどん城を逃げて行き、織田軍は一滴の血も流さず高遠城にやってきました

そして仁科盛信にも「降伏しろ!」と使者を出したのです

ところが盛信はその使者の耳を切り落とし「何を言われても降伏する気などないわ!来るならコイや!」と3000人の兵で籠城することとなったのです

相手となったのは織田信長の長男信忠でした

こうして若者同士の戦いが始まったのです

ですが53000人の大軍に3000人では敵うはずがない。

もはやこれまでと悟ると、盛信は最後の意地を見せ、腹を十字に斬り、腸を壁に投げつけ自刃しました

それを見た他の武将や女性達も、自刃して高遠城は落ちたのです

盛信26歳

武田家臣としてただ1人、最後まで戦った男でした




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1582年 本能寺の変
勝者 明智光秀 55歳
兵 13000
敗者 織田信長 49歳
兵 ?

織田信長は怒涛の勢いで天下を取るべく突き進んでいました

関東を滝川一益にまかせ、中国地方を豊臣秀吉・そして北陸を柴田勝家・四国を丹羽長秀にまかせておりました

が、秀吉が苦戦しているというニュースを聞いた信長は、明智光秀に「秀吉を助けに行け」と命令
助けに行け=秀吉の下につけ・・・・ということであります

光秀はこの頃、かなり悩んでいました
信長の非道なやり方にです
比叡山延暦寺を焼き払い、さらに自分を侮辱しまくる毎日
インテリ光秀と野生児信長の性格はまさに火と油

光秀の心は揺らいでいた
今、信長の近くには自分しかいない
今が信長を殺すチャンスなのではないか・・・・
この機会を逃したら、二度と信長を殺せる時はない
また、罵られる毎日が始まる・・・・

光秀は、とうとう信長を討つ決心を固めたのです

6月1日 この日行われる本能寺でのお茶会は、信長自慢の茶器を披露するのが目的でした
披露されたのは、松永久秀から貰った九十九茄子(つくもなす)など38種類
信長の茶器コレクターぶりを、見せびらかしまくったのです

実際、この時代に「名品」と呼ばれる茶器は、そのほとんどが信長の物でした
茶事が終わると、酒宴が開かれました
近衛前久ら公卿らと、博多の豪商である島井宗叱(そうしつ)・また所司代である村井貞勝らと楽しみました
そこへ嫡男である信忠がやってきて、楽しい一時が繰り広げられました

酒宴が終わると、囲碁の名人である「本因坊算砂(ほんいんぼうしゅうさく)」らが対局
やがて夜もふけ、信忠は宿舎に帰りました
宗叱らは別間へ行き、村井貞勝らも帰宅して行ったのです

そして信長も寝所に入りました

光秀軍は秀吉の元へ向かうため、京都盆地を進軍していました
そして光秀は、もっとも信頼している5人の家臣に真意を告げたのです
「信長を殺したい・・・・」と

娘婿の明智秀満・斉藤利三(春日局のお父さんだよ)らはめちゃくちゃ驚きました
なんといってもあの信長に謀反を行おうとしているのです

ですが光秀の思いが本物だと知ると、これは思いとどまらせるのは無理だ・・・と、驚きつつも主に従うことにしたのです
用心深い光秀は、兵らには真意を伝えませんでした
「秀吉を助けに行く前に、一度信長様に会うため京都へ向かう」と告げたのです

京都は静かな夜を迎えていました・・・
夜10時 先鋒の斉藤利三軍が京都へ先にむかいました
そして軍勢が入りやすいように、木戸を開きまくったのです

光秀軍は桂川で止まりました
そして13000人の兵らに新しいわらじを履けと命令
兵らはなぜこんなトコロで?と疑問に思いました
そこで光秀は「敵は本能寺にあり」と号令したのです

もう後戻りはできない

空がしらみ始めた6時頃、光秀軍は本願寺を包囲しました
そして兵は塀や堀を乗り越え、すぐさま攻撃を開始したのです

どこからか騒がしい音がするので起きた信長

はじめはどこかの家臣らのケンカだと思った

が、なにやら近くで鉄砲を撃つ音が聞こえる

信長はこの時初めて、何者かが襲撃してきたことにやっと気がついたのです

そこへ森蘭丸がやってきて「明智光秀御謀反!!」と叫びました

光秀により謀反が起きたことを知った信長は「是非もなし」と言いました

これが何を意味するのかわかってません。
「なぜ・・・」と言ったとも言われています。

信長は近くにあった弓を放ち、弓矢がなくなると槍を手に戦いました

が、もはやこれまでとわかると、最後まで側にいた女を逃がし小姓たちに火をつけさせた
そして奥の部屋に入り切腹したのであります。

蘭丸ら小姓らも討死しました

「人間五十年 下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり」

信長の愛した「敦盛」の一節と同じく、信長49歳で幕を閉じたのです

朝の8時に信忠との戦いは終わりました

すると光秀の家臣らは、京都の人々に「皆さんお静かに!今日からは天下殿は明智光秀殿でござる!」とふれ回りました

さらに、信長の残党が潜んでいないかと、兵たちが色んな家に押し込み、探しまくりました
京都は混乱の場となったのです。

光秀は、すぐさま信長の居城である安土城へ向かう予定でした
が、ここで光秀は無駄な時間を過ごしてしまうのです
というのも、本能寺の焼け跡から「信長の首」が見つからないのです

光秀は「もしかしたら信長は生きているのではないか・・・」と、恐怖にさいなまれました

ここに至るまで光秀は、迷い・悩み・恐怖と、さまざまな気持ちが入り乱れていました

信長の首を見るまでは、不安がいつまでも続くのです

信長に対する恐怖が、まだ払拭されていないのでした
ノイローゼ状態だったのかもしれませんね
それほど信長という存在が恐怖だったのでしょう



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1582年 高松城攻防戦
勝者 豊臣秀吉 47歳
兵 20000
敗者 清水完治 46歳
兵 5000

秀吉は、信長の命令で中国地方で頑張っていました

秀吉は順調な進撃をしており、三木城・鳥取城を落し、お次は備中へ入って毛利本軍とバトル!という所まで来ていました

そして今、清水宗治の高松城を攻略中でした

が、秀吉は結束の固い毛利勢力にてこずり、この高松城にはなかなか落せずにいたのです
秀吉はたびたび降伏するよう使者を出したけど、城主である清水宗治はかたくなにそれを拒み続けました
こうなったら!と、秀吉は蜂須賀小六に、川をせき止め城を水びたしにする作戦を命じました

おかげで、高松城は本丸と二の丸の間も小舟に乗って移動しなければならないほどに
毛利もたびたび援軍を送っていたんだけど、秀吉の包囲網は簡単に崩せずにいました

この頃、毛利の当主は長男である隆景の嫡男・輝元
補佐していたのが吉川元春と小早川隆景でした

高松城では兵糧がなくなり、城の板まではがして食べているという状況に

降伏をがんとしてはねつけていた城主の清水宗治らを助けるため、毛利輝元は、全軍で高松城に向かうことを決意!

その反面、小早川隆景は秀吉との和解策を考え始めていました
条件は「毛利家は5カ国を織田に譲る」「高松城の人々の生命保証」というもの
が、秀吉にはこれだけは譲れないというものがありました

それは「高松城主清水宗治は切腹」

毛利家は「宗治を殺すという条件は飲めん!宗治を亡き者にしてまでおぬしらと和解したくないわ!」と激怒

直接対決寸前となったのです

秀吉はわしら20000人の兵じゃキツイな・・・と、信長に「応援に来てください」と連絡

が、清水宗治は「私が死ぬことで毛利家が安泰なら」と切腹を受け止めたのです

毛利家は必死でとめました

それでも宗治は「自分に命を預けてくれた城兵の命が助かるのなら、ワシは一命を投げうちます。ワシの名を後世に残すことこそ、武士の本望であります」と言ったのです

毛利輝元にとっては、無念の選択でしたが、「6月4日を持って自害させる」ということになったのです

こうして和議の条件は整い、切腹を待つだけとなりました
切腹後は、お互い陣をはらい、ひと段落となるのです
秀吉は最後のイイトコを信長に渡すべく、信長を高松城へ呼ぶべく再度使者を出しました
あとは、信長からの返事を待つだけとなったのです

そこへ不審な男がうろついていました

秀吉の兵が、その男を捕らえると、光秀が毛利にあてた手紙を持っていたのです
毛利の陣へ行くはずが、間違えて秀吉の陣に入り込んでしまったのです

その手紙を開くと「光秀謀反・信長自刃」

一同呆然とし、しばらく我を忘れた秀吉。

さすがの秀吉も大ショックで、ギャーギャー泣き出したのです
するとそこに黒田官兵衛

「今こそ主君信長の仇を取りに光秀を討ちなさい!これはチャンスですぞ。そして天下を取るのです!」と言ったのです
そこから秀吉は素早かった

いつまでも悲観にくれているわけにはいかない
秀吉は蜂須賀小六・黒田官兵衛らと話し合いました
そして「4日に決まっている清水宗治の切腹を、午前中にしましょう!」

まず毛利家に信長が死んだことを悟られないよう慎重に対処しなければ!と、毛利方の使僧である安国寺恵瓊(あんこくじえけい)を呼びました

秀吉はなんとしても和議を早く成立させなければならなかった
もし信長の訃報が毛利家にバレたら、毛利は和議どころか、これをチャンスと攻め込んでくるかもしれない
秀吉は毛利の使者である安国寺恵瓊が戻ってくるのをハラハラしながら待っていました

そして恵瓊が毛利からの返答を持ってきました

本日午前中に切腹する。という条件はOKとなったのです

約束の時間、清水宗治は小舟を漕いだ

敵味方見守る中で湖上で腹を切るのが条件だったのです

秀吉側からも小舟がやってきて最後の美酒を贈りました

これほどの大軍に見守られた切腹は始めてでした

周りは静まり返り、固唾を呑む

両軍にとって苦しかった戦いが終わろうとしていました

小早川隆景は「宗治こそ忠臣である」と号泣

清水宗治 46歳でした

そして切腹が終わるとすぐさま、秀吉の「中国大返し」のスタートとなるのです




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1582年 山崎の合戦
勝者 豊臣秀吉 47歳
兵 30000
敗者 明智光秀 55歳
兵 13000

本能寺にて信長を殺した光秀
すぐさま体勢を整えるべく準備を始めました

そして仲のいい武将たちに手紙を書きました
が、大ショックなことが
ずっと信頼関係を保っており、味方になってくれるだろうと信じて疑わなかった細川父子・筒井順慶が味方にならないと言ってきたのです

さらに光秀にとって一番の誤算が!

秀吉が1日で100キロ走ったのかと思われるようなスピードで戻ってきたのであります

光秀は、こんな状況に陥ってしまったコトを考えると情けない思いに
ですが、そんなことも言ってられない
「主君の仇!」と、大義名分をひっさげた秀吉が、怒涛の勢いで迫ってきているのです。

洞ヶ峠を引き揚げた光秀は、下鳥羽に本陣を置きました

当初予想していた布陣とは、まったく違うものとなりました
味方する軍勢がまったくいないからです。

また、強力部隊である娘婿・明智秀満率いる兵を、対勝家用に安土城守備に置いてしまっていたのです
こうして、秀吉とやりあうのは、光秀の一軍だけとなってしまったのです

秀吉は尼崎へ到着しました
尼崎で池田恒興・中川清秀・高山右近らの摂津衆と合流
秀吉軍は3万人に膨れ上がりました

こうして秀吉が想定した合戦の場は「山崎」

対する光秀も「桂川と天王山に挟まれた山崎で迎え撃つしかない」と決めたのです
秀吉は作戦会議を開いた後、高山右近に山崎の町を占領させました

そして中山清秀・黒田考高に天王山を占拠させ、戦場の要所を押さえた。

光秀軍は13000人

明智光秀の中央には重臣・斎藤利三の3000。阿閉貞征の2000や、旧足利の幕臣らが陣を置きました
対する秀吉軍は、中央に高山右近の2000。中川清秀の2500
右翼は池田恒興の5000
左翼に羽柴秀長らが陣を置きました

秀吉は信長三男・織田信孝が来るのを今か今かと待っていました

信孝は信長の子であります
信孝がそこにいるだけで、「名分」がたつのです
秀吉だけが勝手に弔い合戦を始めたら、織田の重臣達が何を文句言って来るかわからない
ですが、信孝がいれば、「息子がいたから」という理由になるのです

そして、織田信孝を連れて丹羽長秀らがやってきました
秀吉は、合流した織田信孝・丹羽長秀を最後尾に配置
これは光秀討伐の際、手柄をたてさせないためです

「主君信長の弔い合戦」を行う総大将は、あくまでも秀吉でなければならなかったのです
それが秀吉が天下へ近づく最低限の条件だったのです

山崎の戦いは、別名「天王山の戦い」とも言います
この天王山の戦いが、すべての戦局を左右したからです

午前中はずっと睨み合いが続いていました

午後4時頃
天王山に陣を張っていた中川清秀隊と黒田考高隊
ここに光秀軍の松田隊・並河隊が攻撃をしかけ、激しい戦闘が繰り広げられたのです

これが合図となり、ぶつかり合いが全軍に広がったのです
天王山では、めちゃくちゃ激しいバトルが繰り広げられていました

が、とうとう中川・黒田隊は松田・並河隊を撃破!
さらに光秀軍に近づいていったのです

中央では、光秀軍の斎藤利三VS池田恒興らが戦っていました
斎藤隊は果敢に戦いました

また、足利旧幕臣の御牧兼頼の活躍はめざましいものがありました
ですが、とうとう斎藤利三が池田隊に討たれてしまったのです!
斎藤隊は崩れていきました

御牧は「戦況は不利でございます!自分はこれから最後の突撃をし、討死いたす!その間に光秀殿は退却されよ!」と伝令

光秀はそれを聞き「御牧を見殺しにするわけにはいかぬ!」と、兵を率いて救援に向かおうとしました
が、他の家臣らは「今行っても無駄でございます!もはや退却するしかありません!」と必死で止めました

午後6時 光秀軍の敗走が始まった

もはや誰の目から見ても、光秀の敗北は決定的となったのです

光秀は勝龍寺城に逃げていきました
そしてこの城に籠もって戦おうとしていたのです
ですが、すごい勢いで秀吉軍は勝龍寺城へも迫ってきました
城からは脱走者が相次ぎ、はや籠もって戦うどころじゃなくなってしまったのです

明智軍の敗兵は必死に逃げてきました
が、逃げる明智軍を秀吉軍が追撃
みんな捕らえられ斬られていったのです

「ここにいても落とされるのは時間の問題だ。娘婿・秀満を安土城に分散しなければ良かった!」

光秀は悔やみました。
ですが、今はもう逃げるしかない
ここにいても殺される
とにかく逃げなければ!

光秀は、最後までついてきてくれる覚悟のあるお供を数名つれて、勝龍寺城を脱出したのです

明智光秀一行は、少人数で近江へ向かいました
雨が降り、道はぬかるみんでいました
あちこちに「かがり火」が見える

これは秀吉兵が、「残党狩り」をしていたのです
見つからないように、必死に逃げました

光秀一行は、桂川を渡り小栗栖(おぐるす)の竹やぶに差し掛かりました
その時、竹やぶに隠れていた「落ち武者狩り」をしている農民達が現れたのです

彼らは、疲労しまくっていた光秀一行に襲い掛かりました
そして光秀は竹槍で突き刺されてしまったのです

もはやこれまでと悟った光秀は、介錯で命を落としたのでした
光秀の死体は何日もほったらかしであったため、腐敗しており本人かどうかの区別がつかなかった
そのため光秀生存説が出て家康時代に活躍する「天海」は光秀である!という説が出てきたのです

こうして主君の仇である明智光秀を討った秀吉は、他の家臣より一歩リードすることとなったのでした




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1583年 賤ヶ岳の合戦
勝者 豊臣秀吉 48歳
兵 25000
敗者 柴田勝家 62歳
兵 20000

本能寺の変にて主君織田信長が殺され、後継者争いが始まっちゃいまいた
そして後継者に決まったのは、豊臣秀吉がプッシュした三法師
これにて重臣・柴田勝家との間で険悪な空気が流れるのです

というのも、柴田勝家は織田家にずーっといる家臣
秀吉は百姓から草履取りになり、這い上がってきた元・家臣
そんな秀吉が信長の後継者を三法師に決め、自分が後見人となったのが許せなかったのでした
こーして、柴田勝家と秀吉のバトルが始まるのです

秀吉が陣を置いたのは賎ヶ岳

秀吉の味方となったのは、羽柴秀長(弟)・蜂須賀小六(正勝)・池田恒興・加藤清正・丹羽長秀・福島正則・森長可・織田信雄(信長の次男)・中川清秀・稲葉一鉄・筒井順慶ら

対する勝家側は、佐久間盛政(勝家の甥)・佐々成政・滝川一益・織田信孝・前田利家・不破勝光ら

勝家側に「北国軍」がすべてつきました
勝家らも賎ヶ岳近くに陣を置きました

うかつに動けば負ける
両軍は膠着状態となりました

お互い持久戦を覚悟した戦いを予想しました

織田の主導権を争う、織田家内の有力家臣ら全てが、ここに集結したのであります!

さてさて、ここで出てくるのが信長の三男・信孝
信考は自分が織田家の後継ぎに選ばれなかったのがめちゃくちゃムカついていました

以前から次男信雄とは仲が悪く、「アイツがなるくらいなら、絶対オレだろ?だってオレは、父の弔い合戦に参加したんだぜ?」と思っていました

が、結果は信忠の嫡男であるチビッコの三法師
さらに、居城である岐阜城を攻撃され信孝の怒りはヒートアップ
勝家は応援にこれないし、母親は人質に取られちゃうしと、もうふんだりけったり状態だったのです

信孝は我慢できなくなり、とうとう岐阜で挙兵したのです

信孝が岐阜で挙兵したというのを聞いた秀吉
「あのやろうめ」と、秀吉は岐阜に向かうことに

誰もが持久戦になるであろうと予想していた戦端を、信孝が切って落としたのです
秀吉は「4月19日を信孝総攻撃の日とする!」と決めました

そして本隊を率いり岐阜へ!

が、雨がめちゃくちゃ降り、秀吉はこの日に総攻撃できなくなってしまったのです
秀吉は岐阜で挙兵した信孝を攻撃しに岐阜へ向かいました

そこへ秀吉軍の家臣が寝返り、秀吉不在を勝家に知らせたのです

これはチャンスと佐久間盛政が出陣をお願いしてきました
この攻撃は敵の奥深くまで突き進んでいくため、勝てれば打撃を与えられるが、負けたら非常に危険でした

勝家は「危険だから辞めたほうがいい」と、却下

だけど佐久間盛政は「なぜこんなチャンスを逃すんですか!?秀吉がいないんですよ!」と強く言ったのです
仕方なく勝家はこれを許可しました

そして「もし勝ったらすぐに戻って来い」という条件を出し出陣させたのです
佐久間らは早速中川清秀を攻撃

猛将の佐久間盛政は4時間の戦闘の末、中川清秀を討ち取ったのです
が、佐久間は勝家に言われたことを守らなかった
「もしこの知らせを秀吉が聞いたとしてもすぐ戻って来れないだろう?」と、勝利を祝って酒宴を開いてしまったのです

自分がいない間に、大岩山で中川清秀が討たれたという情報を聞いた秀吉

「クソー。しまった。」と、賤ヶ岳へ戻ることに
秀吉は先導隊を出し、街道沿いにかがり火を焚くよう指示

そして握り飯も用意させました
ちなみにこれを全て手配したのが石田三成

こうして時間のロスを極力少なくしたのです
その勢いはすさまじく賤ヶ岳の一騎駆けと言われるように
50キロの道を、不眠不休でわずか5時間で戻ってきたのです

そして、その頃佐久間盛政は「秀吉は岐阜だぜ?」と、勝利の余韻に浸っていたのです・・・・

夜中の2時・・・。
不眠不休で走ってきた秀吉軍が到着しました
そしてすぐさま、待機していた兵を集め全軍で佐久間めがけて反撃に向かったのです!!

佐久間盛政はノンキに酒宴中

そこへは突撃してくる大軍をみてビックリ!
戦闘態勢が整っておらず、慌てて逃げ出したのですが、みるみるうちに盛政軍が総崩れとなったのです

さらに、勝家軍であった前田利家が、佐久間盛政を見捨てて退却していったのです
柴田勝家のもとに「佐久間盛政軍壊滅!」の情報が入ってきました

勝家本陣は大パニックに!
一番の強力部隊である盛政が総崩れとなってしまったのです
秀吉は今がチャンスとガンガン攻め込みました

勝家の本陣を側面から攻撃し、大打撃を与えたのです

さらに勝家大ショックな出来事が

信頼してた前田利家が退却していたのです
勝家本陣は、退却していく前田利家軍を盛政軍が退却したのかと思っていました

それが前田利家軍だと知った勝家

あの利家が退却・・・と大ショックを受けたのです

精神的にショックを受けた勝家は立ち直ることはできませんでした

頼りにしていた盛政軍が崩れ、信頼していた利家の裏切り
勝家軍は敗走せざるを得なくなりました

秀吉軍は敗走する勝家軍を容赦なく追撃し、大打撃を与えたのです
勝家は北ノ庄城に向かって逃げていったのです

そしてこの時に大活躍をしたのが加藤清正や福島正則などの「賤ヶ岳の七本槍」であります

北ノ庄へ向かって敗走していた勝家は、途中利家の城に寄って湯漬けを乞いました

利家は自分を裏切った男
ですが勝家は、裏切った利家に文句をひとつも言わず「あの頃は楽しかったな」と、懐かしい昔話をして北ノ庄へ戻っていったのです

そのあと、勝家を討ち取るため秀吉がやってきました
そして秀吉も湯漬けを乞いました

「なぜ最初から俺の味方をしなかったんだ?」となじるべきトコでしたが、何も言わずに湯漬けを食べ行ってしまったのです

そして利家は、勝家のたてこもっている北ノ庄城攻撃の先鋒を命じられるのです

4月23日の夜

秀吉は北ノ庄城を包囲しました

勝家は家臣80名を天守閣に集め酒宴をはじめました

勝家は皆の前で「わしの命運も明日までじゃ。今宵はみなで夜が明けるまで酒を飲み名残を惜しもうぞ」と言ったのです

そのうち女房らも酒宴に加わりはじめ、唄が出たり舞を踊ったり身分関係なく飲み騒ぎました
でもみんな胸の内は悲観にくれていました

哀しい最後の宴となったのです

勝家は隣にいる妻・お市に「城を脱出しろ」と言いました
ですがお市はそれを拒み、勝家とともに果てることを望んだのです

お市は秀吉のことがあまり好きじゃなかった
モトだんなの浅井長政を攻めた時も秀吉が先鋒だったし、自分の息子を殺したのも秀吉
ですが、勝家とお市は、娘3人だけでも・・・と、娘だけを城外へ逃がしたのです

浅井長政に続き、2度の落城に遭遇した娘3人

その後戦国の世になくてはならない存在となるのでした




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1584年 小牧・長久手の合戦
勝者 徳川家康 43歳
兵 16000
敗者 豊臣秀吉 49歳
兵 100000

この合戦の原因は、ズバリ!!織田信長の息子「信雄」でございます

明智光秀を討ち、柴田勝家を討ち、もはや秀吉の勢いは留まりませんでした
着々と天下取りを押し進めつつある秀吉

明智討伐から10ヶ月で、近畿北陸一帯を平定した秀吉を恐れた他の大名達は、こぞって秀吉のご機嫌取りをしだしたのです
秀吉は「もはや北の果ての津軽まで、ワシにかなうものはおらんぞ!」と、宣伝しまくっていました
が、じっと黙っている不気味な存在である家康のことは、ずっと秀吉の心の片隅にあったのです

秀吉が「天下」を取るのに、もっとも邪魔な存在の家康

主君信長の同盟者であり、下手な真似はできない。

家康も「ワシは織田の同盟者。秀吉とは対等でなければならん。決して下と思われるのは嫌だ」と思っていました

ですが秀吉にとって「天下の覇者は1人」

どうしても家康を自分の下につけなければならなかったのです

着々と天下取りをしている秀吉
それをむかついて見ていたのが信長の次男信雄でした。

犬猿の仲であったライバルの信孝を自刃させ、次はオレの時代だーとほくそ笑んでいたのもつかの間、秀吉が力をつけつつありました

「秀吉は自分のため、つまりは織田家のために協力してくれていると思っていたから、自分も秀吉の味方をしていた。だけどあいつ、自分のためだったんじゃねーか!」と、感じてきたのです

「あいつは昔、オレのオヤジの草履係りだったくせに!」と後継者の椅子を秀吉にかっさらわれ不満タラタラ
秀吉は信雄に会うときは「信雄様」と一応は臣下の礼はとっていました
が、心中は信雄のことなど眼中にありませんでした
信雄のいる尾張の向こうにいる家康を睨んでいたのです

さてさて日本一すっごい大阪城を築城した秀吉

この城をお披露目するため諸国の大名に「上洛しにきなさい」とうながしました
この時、秀吉は信雄に対しても同じ手紙を送ったのです

「なにぃー!」と激怒した信雄

「秀吉はオレのオヤジの部下だぞ?オレはその息子だぞ?っつーことは、ヤツはオレより下だぞ?家臣同様の男に、なんでオレが挨拶に行かなきゃなんねーんだ!」とカンカン!!

信雄は腹を立て、「誰が挨拶に行くか!」と返事しました

そして「あいつをとっちめるには・・・」と、考え、思いついたのが信長の同盟者であった徳川家康だったので

家康にとっても秀吉は邪魔な存在
そんな矢先に信雄からの「秀吉ムカツク!オレの味方してよ!」の協力要請

家康は「ラッキー♪」とばかりに、信雄に協力することにしたのです

さてさて、信雄のもとにまた秀吉から手紙が来ました
そして秀吉は「信雄様はワシのことを誤解している。是非会って誤解を解きたい」と言ってきたのです

信雄は「そこまで言うなら会ってやろう」と、ちょっぴり機嫌を直っちゃいました
そして3人の重臣を連れて会見場所まで出かけたのです
連れて行ったのは岡田思考・浅井田宮丸・津川雄春の3人で「信雄の三家老」と言われていました

信雄は正直、あまり頭のいい男ではない
つまりは、この3人が信雄の領地の国政を牛耳っていたのです

これに目をつけた秀吉

この3人を抱き込めば、信雄は簡単に落ちるだろう・・・そう考えたのです

さっそく三家老に「ワシについた方がいい。その方がそなた達の将来のためであるぞ」と説得
三人は新領地をもらえるという約束をしてもらい、秀吉に寝返ったのです
ちなみにこの会見の時、信雄は秀吉が偉そうな態度をとった!と言って、怒って一人で帰ってしまいました

その後、秀吉は3人にじっくり話しをしたと言われています

秀吉に寝返った3人はそれ以後、なんとなく怪しい態度になってきました
が、お坊ちゃま信雄は全く気がつかない

気がついたのは家康だったのです
3人の態度がどことなく変わったという噂を聞いた家康は、さっそく忍者を放ちスパイ活動
すると、どうも秀吉側に寝返ったという話しが出てきたのです

「秀吉め!尾張に手を伸ばしてきたな!信雄が殺されてはまずい。先手を打たねば!」と、信雄のもとへ使者を出したのです

そして「三家老に内通の疑いあり。すみやかに処分したほうがいい」と言ったのです
信雄はビックリ!
早速3人を呼び、殺しちゃったのです

三家老を殺したとなっては、秀吉も黙っちゃいない。
家康はすぐさま動き出しました。

3月7日 家康は浜松城を出ました。

そして星崎城を占拠し、はっきりと秀吉に敵対したのです

三家老を殺したというニュースは秀吉のもとへ
これが信雄の公然の挑戦とみた秀吉

さらに家康が動いたという情報も入ってきました
「信雄などどうとでもなる。問題は家康じゃ。あいつはこれからワシの天下取りにおいて、必ずや目の上のタンコブとなる!今のうちに叩き潰さねば!」と、家康を討とうと心に決めたのでした

家康は信雄と清洲城で会見
軍議を開きました

秀吉軍の兵力は凄まじく、その数10万人
対する家康・信雄連合軍は16000人。

数では圧倒的に秀吉が有利でした。

ちなみに家康は、婚姻関係にある北条家に応援を依頼しましたが、北条は断っっちゃいました

そして美濃の大垣城にいる池田恒興は、どちらにつこうか非常に悩んでいました
秀吉・信雄の両方と仲良しだっため両方から誘いがあったのです
そこへ秀吉が「勝った時は駿河と近江の2つをあげるから!」と、熱心に勧誘
とうとう秀吉につくことを決意

娘婿の森長可とともに秀吉チームへ入ったのです
秀吉への手土産に犬山城を攻め落としました

これに驚いたのは家康・信雄チーム
恒興は絶対こちらにつくと思ってたので、急遽計画を変更

伊勢に行くのをやめて、兵を小牧山に集め秀吉軍と対峙することにしたのです
小牧山に本陣を置いた家康軍

ここで邪魔だったのが、森長可(蘭丸の兄)のいる羽黒
家康は羽黒を急襲しました
突然の来襲に、「鬼武蔵」の異名を持つ長可はボロ負けし、命からがら逃げ帰ってきたのです

ちなみに、ここまでが「小牧の戦い」です


秀吉はというと、家康の策謀である一揆の平定に手間取っていました

数では圧倒的に多い秀吉軍でしたが、家康は地元だということと、地域住民の一揆によるゲリラ先鋒で秀吉らを困らせていたのです

そこへ森長可がボロ負け!という知らせを聞いた秀吉

3万の大軍を率いて急いで犬山城へ急行し、3月27日に本陣を置いたのです
こうして秀吉軍と家康・信雄連合軍は真正面から対峙しました

秀吉49歳・家康43歳
9年前、初めて会った長篠の戦の時は味方同士でしたが、2度目の戦は敵同士となったのです

両者にらみ合ったまま、緊張した状態が続きました
お互い簡単に仕掛けることはできない
仕掛けた方が大きな損害をこうむることは、長篠の戦の時の武田勝頼を見て嫌というほどわかっていた

あんなミジメな姿にはなりたくない

2人は、仕掛けるチャンスを淡々と狙っていたのです
膠着状態が続いていました

すると池田恒興がこの状態を打破するために、策を提案したのです

「家康の本国である三河は守りが手薄になってるに違いない。今三河を攻撃したら混乱する。家康は慌てて三河に戻るでしょう。残った信雄を一気に叩けば尾張はゲットできます」というものでした

恒興は、羽黒にて娘婿の森長可が負けたこともあって、何とか戦功を得たかったのです
秀吉は危険を感じました
確かにうまくいけば、素晴らしい作戦
だけど、あの家康がそう簡単に罠にかかるだろうか?
秀吉は考えました

が、家康がこんな手にひっかかるとは思えない
秀吉はその作戦をNOと言ったのです

だけど恒興はこの意見を強く主張
他の武将達も恒興の意見に賛成しだしたのです

これ以上恒興の機嫌を損ねたら、せっかく味方になってくれたのに離れて行ってしまうかもしれない・・・秀吉は悩みました
また、甥の三好秀次が「ボクに三河攻撃の大将をやらせてくれ!」とまで言いだして、秀吉はとうとうOKしたのです

それでも秀吉は不安だったらしく「岡崎城に行って火をかけたら、すぐ戻って来い!」と注意を与えました
こうして三河行きの別働隊が出発することになったのです

先手が池田恒興
二番手に森長可
三番手には堀秀政
四番手は三好信吉
そして最後は秀次の合計2万

総大将は秀次だけど、実際指示を出してたのは恒興
が、進軍ルートである村の村民達が、秀吉軍が三河に向かったことを家康に急報したのでした
これを聞き家康はすぐに追撃隊を作り、恒興軍を追ったのです
順調に進撃していた一番手の恒興隊

この日、家康の出城である岩崎城の前までやってきました

岩崎城には丹羽氏重ら240人ほどしかおらず、恒興は「そんな少人数構ってられん」とシカトしていくつもりでした

が、この240人が、果敢にも大人数の恒興隊に挑戦してきたのです。
「構うな」と言っていた恒興でしたが、なんと自分の愛馬に鉄砲の弾が命中!!

「おのれ!生意気な!」と激怒したのです

恒興は、重要な先鋒でありながら、挑発にのって岩崎城を攻撃じゃー!と命令してしまったのでした
先鋒の池田隊がバトル中、二番手・三番手は前進できず、一休みとなってしまいました
ここで、恒興は大事な時間を使ってしまうこととなったのです

秀吉軍の先鋒が岩崎城攻撃をしている間、着々と家康の追撃軍が近づいていました

そして家康軍の水野忠重隊が、四番手の三好信吉隊が長久手付近でのんびりとしているところを発見したのです

長久手の合戦が幕を開けたのです
さらに家康軍の榊原康政も到着
秀吉軍最後尾の三好秀次に攻撃しました

ふいを突かれた秀次隊はあっけなく敗走していったのです

後方の銃声で家康軍の攻撃に気がついた秀吉軍三番手・堀秀政

なんとか榊原隊を撃退させたものの、家康本隊がすぐ近くまできているのを知り、追撃をやめ退却しました

この頃、やっとこさ岩崎城を落として休憩中の恒興のもとに、危ないところを助かった秀次の使者がやってきました

「家康軍がやってきました!」
恒興は「しまった!」と悔やみました

ですがもう間に合わない
こうなったら全軍を戻して、長久手へ向かうしかない
恒興は急いで戻っていったのです

恒興は必死で長久手へ戻りました

ここで恒興隊と長可隊は家康軍と対峙し、大激戦が始まりまったのです
一時恒興隊は優勢になったものの、家康本隊が横槍を入れると多くの兵が逃げていきました
ここで森長可が討ち取られてしまったのです

恒興は森長可の死を知ると大ショック
「全てワシの責任じゃ・・・」と、自ら乱戦の中に入って討死したのです
ここで恒興と長可は戦死

大将を失った秀吉軍は大混乱になり、敗走していったのです

秀吉のもとへ使者がやってきました

「恒興・長可討死!別働隊全滅!」

秀吉は大ショック!
すぐさま兵をかき集め応援に行きましたが、時すでに遅く、家康軍はさっさと引き揚げていたのです
そして翌日、家康は何事もなかったかのように小牧山の本陣へ現れたのです

この小牧・長久手の戦いは、家康の勝利となりました

長久手の激闘後、秀吉はますます慎重に

5月になると、ついに10万の兵を動かしだしました
そして尾張に入り、信雄の城を次々と潰しにかかったのです
対する家康は、「秀吉の挑発には簡単に乗らないぞ」と、動かずにいました
秀吉は「しぶとい奴め!」と、ムカムカ

各地で小競り合いが続きました

そして秀吉・家康は少しでも味方を多く!と、各地の有力な諸将たちに手紙を書きまくっていたのです

秀吉はいい加減この戦いをやめたくなってきました
いっこうに降伏する様子のない家康にうんざり
ということで、秀吉は信雄のもとへ「そろそろやめない?」と相談しにいったのです

信雄は秀吉の懐柔策ニコロリと騙されてしまいました

そして家康に何の相談もなく勝手に仲直りしてしまったのです

これを聞いた家康はビックリ!

「あのバカ・・・何をやっとんじゃ」と呆れまくり
そして戦う名目のなくなった家康は、仕方なく秀吉と講和することとなり、この戦いはあっけなく幕を閉じてしまったのでした




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1584年 末森城攻防戦
勝者 前田利家 47歳
兵 2800
敗者 佐々成政 47歳
兵 12000

前田利家と佐々成政は昔っからちょーーーーーーー仲が悪かった
お互いライバル心バリバリで、衝突しまくってました

そんな2人が信長に命令されて柴田勝家率いる「北国軍」(上杉勢を抑えるためのチーム)に入れられました

2人とも勝家のことがだーいスキでした
が、 賤ヶ岳の合戦で上司の柴田勝家と秀吉がバトル

この時、北国軍の2人は勝家チームについたんですが、前田利家は秀吉チームに寝返っちゃいました
で、佐々成政はこの合戦に参加してませんでした

その後、成政はお咎めナシで、越中一国を安堵されてました

が、秀吉と家康が小牧・長久手でバトルしている最中、「今がチャーンス!」突然前田利家の末森城に攻め込んだのです

よっぽど利家が嫌いだったんでしょうねぇ

それを知った利家は、雨の中末森城を包囲している成政の背後に回りこみ、場内からも兵を出させ挟み撃ち
成政はひとまず退散

そこに信じられないニュースが!

あろうことか戦いをおっぱじめた張本人の信雄が、秀吉の懐柔策にはまり仲直りしたというものだったのです

成政は驚きと失望でいっぱいに
さらに東海方面に釘付けになっていた秀吉が、雪が溶け始めたら利家に援軍を出すこととなったのです
「これはやばいことになった。オレ、孤立しちゃうじゃねーか!」と大慌て

成政は家康にきちんと話を聞こうと家康のもとに向かうが(有名なアルプス越えだよ)のらりくらりとかわされちゃいました

で、秀吉は10万の兵で成政を攻撃
もはや成政には降参するしかなかった

それでも秀吉に許してもらえた成政
が、のちに失敗し、切腹させられちゃいます


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1584年 沖田畷の合戦
勝者 島津義久 38歳
兵 3000?
敗者 龍造寺隆信
兵 60000?

この頃九州では島津・大友・龍造寺の3つが争っていました

が、大友家は耳川の戦いで破れてからは衰退の一途
逆に勝者・島津がリードし始めたのです。

龍造寺家も大友家とバトルしまくっていましたが、和議が結ばれることに
その時、大友家老臣の立花道雪の使者がお酒を持ってきました

家臣らは「毒が入ってるかもしれない!」と、その酒を捨てようとしました

が、隆信は「立花殿はそのような卑怯な男ではない。弓矢でワシの命を狙うことはあるが、このような卑劣なやり方で命は狙わんよ」と、その酒を立て続けに3杯飲んだのです

そんな豪快な隆信でしたが、自分の息子政家に家督を譲り始めた頃からちょっとづつおかしくなり始めたのです
お酒をバカみたく飲むようになり、無実の家臣らを殺し始めた

極めつけは謀反の疑いがあるってんで、重臣であった赤星家の14歳の息子と8歳の娘を磔したり
次第に家臣の心は離れ始めてしまったのです

また暴飲暴食のため、すごく太ってしまい馬にも乗れないほど。

なぜこのようになってしまったのかは不明ですが、勇猛な武将の面影が全く無くなってきてしまったのです
そして家臣らは「側近の鍋島直茂の方がいいんじゃないか・・・?」と思うようになるのでした

そんな中、島津が九州制圧をしに戦いを挑んできたのです!!

ここに九州の覇者を賭け、島津義久と龍造寺隆信のバトルがスタートしたのです。

戦いは島原半島

島原当主の有馬晴信は、龍家が勢力拡大してきたので一旦は龍家の傘下に入ったものの、島津と新しく同盟を結ぶ決意をしたのでありました

もちろん隆信はこれを聞いて激怒
6万もの軍を率いて有馬の城へむかいました

ちなみにこの時の龍造寺隆信は、肥満だったため六人担ぎの駕籠で移動
対する島津義久は、弟の家久に兵を与え島原へ派遣
勝負は人数の多い龍家が断然有利と思われました

そこで島津は沖田畷へ逃げ込むフリをしたのです

沖田畷という場所は、一本道で2.3人がやっと通れるほくらいのあぜ道
そこで島津兵は両側の道に伏せ待ち構えたのでした

家臣の鍋島直茂は「危険だなぁ。ここは追撃するのをやめましょう」と意見
ですが、隆信は「うるさーい!」と、追撃をしてしまったのです
誘導作戦に見事ひっかかった隆信
龍軍は総崩れとなり、隆信はとうとう討ち取られてしまったのです
備前の熊と言われ、勇猛な武将として名を轟かせた龍造寺隆信
56歳で戦国の世から姿を消しました

沖田畷の戦いによってぼろぼろになった龍家
唯一の救いは鍋島直茂が生き延びたことかもしれません

この後、島津はチャンスとばかり備前佐嘉城にたてこもっている龍家を包囲したのです

当主である隆信も、名だたる武将もことごとく討ち死にしてしまい、もはや抵抗する力は全く残っていませんでした

島津総大将の家久は無駄な争いはしたくないな・・・ってことで隆信の首を塩漬けにし、篭城してるやつらに持って行ったのです

そして「こーなる前に降伏したほうがいいんじゃないの?」と言いました
これを見た70歳すぎた隆信の母・慶闇尼
「敗将の首などいらんわ!この抜けた首を持ってさっさと薩摩に帰れや!」と怒鳴ったのです

ビックリしたのは島津家久

家久は「葉隠れの精神(武士道は死ぬこととみつけたり)」に非常に感心し、行き場のなくなった隆信の首を丁重に埋葬しました

覚悟を決めたその潔さを重んじ、軍を撤退

龍家はかろうじて首がつながったのです




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1585年 人取橋の合戦
勝者 伊達政宗 19歳
兵 8000
敗者 反・伊達連合軍 代表佐竹
兵 25000

18歳で家督を継いだ政宗
熱い男・政宗は伊達の名を売るべく野望に燃えてました
伊達政宗は周りの国から「危険視」されており、反・伊達チームができていました

まず政宗が狙ったのが、大好きなお父さんを殺すきっかけとなった畠山氏
政宗は畠山氏のいる二本松城にむけて進軍してきました

畠山氏はというと、「政宗にこられたら困る」という常陸の佐竹氏と、会津の蘆名氏とタッグを組み、「来るならコイヤ!若造めがぁ!」ってな感じでした

こうして両軍は瀬戸川をはさんで対峙したのであります

さすがにこの人数では政宗の分が悪かった

伊達軍は追い詰められ、結局この日は決着がつかないまま夜を迎えたのであります

さて、政宗はというと「もう逃げるしかないなぁ」と考えておりました

そして同じく、連合チームでも軍議を開いて勝利を確信してたのです

そこへなんと!「佐竹さん!大変ですよ!あんたがいないのをいいコトに安房の里見氏が侵略してきましたよ!」というニュースが

佐竹氏は大慌てで撤退していったのです

主力だった佐竹氏が戻っちゃったもんだから、連合チームはちんやり
こうして連合チームは

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1585年 第一次上田城攻防戦
勝者 真田昌幸 39歳
兵 2000
敗者 徳川家康勢 代表・大久保忠世
兵 10000

真田氏は幸隆の時代に武田の家臣となった家です
昌幸は幸隆の三男だったんだけど、お兄ちゃん2人が死んだため跡取りに
幼いころ信玄の小姓だったので、近くで信玄のやり方を学んだ男でした

さて、そんな真田ですが、武田滅亡後は織田・北条・徳川の間をうまく立ち回っていて、戦国大名としての地位を確立しておりました

が、家康の下についてた時、「お前の領地を北条に渡す」と勝手に決められちゃったのです
昌幸は怒って断ったら「力ずくでも奪い取るぞ!」と家康に言われたのです

昌幸は「真田家がこんなに軽く見られるとは!」と、怒ったものの、確かに弱小

こうなったらどこかにバックについてもらうしかない
この辺の実力者といえば北条・徳川・上杉
が、北条は一度裏切ってるし、上杉は川中島で我が殿であった武田信玄と戦っている

ですが背に腹は変えられない

昌幸は上杉景勝のもとに使者を出しました
「わが次男幸村を人質に差し出しますので、どうか真田を助けてくだされ」と

これを聞いた上杉景勝は大喜び♪
景勝にしたって、北条や徳川は敵
あの煮ても焼いても食えない真田の昌幸が、自分のところを頼ってくるとは!と、家中喜びを隠し切れませんでした

そして早速「あいわかった。昌幸殿に謀反の噂が流れようとも、上杉は真田の味方をするぞよ」と言ったのです

これを知った家康は超激怒!!

希代の横着者!と、昌幸を評しました。

こうして家康は、昌幸のいる上田を攻めることにしたのです

が、真田を弱小とナメていたので、自ら出陣せず、鳥居元忠・大久保忠世らを出陣させました
また途中で、信州・甲州勢(武田の遺臣)らを合流させ、その人数は約10000人となりました

対する真田は2000人いるかいないかでした
まず徳川軍は真田家に対し、降伏するよう使者を出しました。
すると昌幸は
「わし、ほんとは家康殿と戦う気はありません。3日たったら城を明け渡すので、3日間待っててくだされ」と言ったのです

実はこれが昌幸の作戦だったのです

3日間待たせ、軍備を充実させ、上杉景勝の援軍を待っていたのです
が、徳川方はこれを信じて「よしわかった!3日間待ってやろう」ということになったのです

約束の3日後になりましたが、真田は城を明け渡す雰囲気はまるでなし
すると徳川家に入った旧武田家臣の人たちが怪しみはじめました

そして大久保忠世に
「ワシらは武田家出身なので、昌幸のことをよくわかっております。あいつは幼少から信玄公に仕えており、信玄公の采配をよく見ておりました。信玄公から教わったあの知謀は素晴らしいものです。油断しない方がよろしいかと思われますが・・・」

すると忠世は「ふん。武田家臣らはまだ信玄の威光を忘れられぬようだな」と、鼻で笑ったのです

その時、昌幸から書状がやってきました

「悪い悪い。やっぱりこの城は渡せないや。来るならどうぞ!」といった内容だったのです

大久保忠世はなんだとぉぉーーーーー!!!と、超激怒!
さっそく昌幸を攻めることに

が、敵が侮れない奴とわかると、忠告してきた旧武田家臣である三科・広瀬の両名を先鋒に命じたのです

昌幸は、その顔ぶれを見ると「懐かしいでござるな!山県隊にいた広瀬殿ではないか!」と言ったそうです
こうして徳川軍は真田攻めをすることに
兵を神川へ集めました
対する昌幸は、長男信之と次男幸村を出陣させ、潜ませたのです

徳川軍が神川を渡ろうとした時、信之隊が鉄砲を討ちまくりました
それでも兵の半分以上が川を渡ると、信之隊は撤退
やっと川を渡り、ほっとしているところを、別方向から幸村隊が鉄砲を撃ちまくったのです

そこへ信之隊が戻ってきたため、徳川軍は大パニックに!

鳥居元忠は「真田兄弟を討ち取ったものは褒美をつかわす!」と叫びましたが、地の利に詳しい真田兵はがんがん徳川軍に襲い掛かり、徳川軍は乱れまくったのです

それでも1万の兵は多かった

真田兄弟の兵は500人しかいなかったのです
徳川軍は何とか体勢を立て直し、信之・幸村を追い込みました
そして昌幸のいる上田城へ迫ったのです

昌幸は城下に家財や華やかな衣装をそのままにしておきました
城下へやってきた兵たちは、それらをほおっておくことはできず、我先に掠奪をはじめたのです

すると昌幸が隠していた鉄砲隊が、掠奪に走った兵たちを撃ちまくったのです
この時、昌幸はノンキに碁をうっていました
そして時が来たと悟ると、狼煙を上げ反撃に出たのです

狼煙を見た真田全軍が四方八方から一気に反撃に出ました

大混乱に陥った徳川軍は、我先に神川を渡り逃げていったのです

真田方の戦死者はわずか40人程度

徳川方は1360人ほどの戦死者を出し、逃げるときに神川にて溺死者も数多く出たのです

こうして真田は大勝利をおさめ、昌幸は戦国の世に名をしらしめたのです

まさに謀略の限りを尽くし、あの徳川を翻弄させた戦い
そして真田昌幸の知略ぶりは後も徳川を苦しめることとなるのです




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1586年 戸次川の合戦
勝者 島津家久 40歳
兵 20000
敗者 豊臣勢 代表・仙石秀久
兵 40000

秀吉が四国の長宗我部をやっつけ四国をゲット
その頃、九州では島津が、九州全部を制圧するべく頑張っていました

そして同じく九州の大友宗麟が「うちら、あんたに従うからサ、島津どうにかしてよ!」と秀吉にお願いしてきたのです

秀吉は、島津をやっつけろ!と、仙石秀久を大将にし、四国勢を中心とした連合軍を引き連れていくことに
十河存保・長宗我部などで九州に向かいました

まずは島津家久に攻撃されていた大友家の鶴ヶ城を助けるため戸次川に陣を構えました

仙石秀久は「敵はたいしたことない。蹴散らそう!」と主張

元親と十河が「それは危険だ。絶対に伏兵を潜ませているはず!しばらくは敵の出方を待つべきだ」と反対

元親と十河はかつて死闘を繰り広げたライバルでしたが、意見が一致しました

が、仙石久秀は2人の意見を無視し、川を渡って島津勢を蹴散らすことにしたのです
川を渡った四国勢は最初は勝ってましたが、途中で伏兵と大軍が一斉に襲い掛かってきました

そうです。元親たちの予想通りの罠にかかってしまったのでした

仙石軍は真っ先に逃亡

残された元親軍と十河軍は攻撃の真っ只中に取り残されてしまったのでした

元親はなんとか退却できたけど、果敢に敵中で戦った息子信親は死去

十河存保も討死しました

仙石秀久は秀吉にめちゃくちゃ怒られ所領没収となったのです

ちなみに元親はというと、嫡男・信親の死を聞いて愕然

あまりのショックに腰に差していた短刀で自刃しようとしましたが、側近に止められました
秀吉も可哀相だからといって所領を与えましたがそれも拒否

信親の死は長宗我部家の衰退の始まりとなりのです

元親は人が変わってしまい、偏屈な老人となってしまったのでした





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1587年 高城攻防戦
勝者 豊臣秀吉 52歳
兵 150000
敗者 島津義弘 53歳
兵 20000

九州制圧するべく動いていた秀吉

戸次川の戦いの敗戦を聞いて、秀吉が出陣するのは時間の問題になっていました
家康とも和解をし、とうとう島津制圧の出陣命令を下したのです

1月 宇喜田秀家を大将にして蒲生氏郷・九鬼嘉隆ら15000人の先発隊を出兵させました

そしてとうとう、秀吉本隊が出陣することに

秀吉は甥の秀次と前田利家に留守をまかせ出発
秀吉の出発を聞くと島津家久・義弘は日向を撤退しました

当主の島津義久は「これはヤバイな」と、少しづつ和睦の動きを示していました
ちなみに、義久が和睦交渉をお願いしたのは前将軍足利義昭です
それでも義久らは小さな抵抗を試みました

が、毛利・小早川・吉川・宇喜田・細川・黒田・丹羽・筒井・高山などなど名だたる武将を前に島津は少しづつ撤退

秀吉軍は快進撃で島津の領地を落しまくったのです

3月29日には秋月種実の城が落ちました。

4月6日には山田有信のいる高城は包囲され18日には落ちました

ここまでくると島津はもう四方八方囲まれまくり

義久の弟 義弘・歳久や家臣の新納忠元らは「名門島津が豊臣なんぞに服従してたまるか!」と、徹底抗戦を主張しましたが、当主の義久はもう無理と見切りをつけることにしたのです

とうとう義久は名前を龍伯と改め剃髪し降伏しました

秀吉はこれを許し、島津一族の所領を安堵しました

九州一の島津家もとうとう秀吉の前にひれ伏したのでした

九州はというと、筑前を小早川隆景
豊後を大友義統・豊前を黒田官兵衛・備前を龍造寺政家
日向を伊藤祐兵・秋月種長 そして薩摩を島津義久に分け与えました

こうして九州を統一し、残るは関東の北条のみとなったのです



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1589年 摺上原の合戦
勝者 伊達政宗 23歳
兵 21000
敗者 蘆名義広 15歳
兵 18000

伊達政宗はガンガンと領地を広げるべく燃えていた
そしてゲットしたかったのが「会津」であります

こーして政宗は会津の蘆名家をやっつけるため兵を出しました

磐梯山にある摺上原で対峙した両軍

そして合戦がスタート!!

最初優勢だったのは蘆名軍でした
風向きがちょーど蘆名が優勢だったので、風上にいた蘆名軍の弓ガピュンピュンと伊達軍を攻撃していったのです

が、風があまりにもすごすぎた
磐梯山は火山灰に覆われていたので、砂塵が蘆名軍を直撃したのです

混乱に陥ってる蘆名軍を攻撃したのが別働隊の伊達成実
そして伊達本陣が一気に攻め込み、勝利をゲットしたのであります

こーして政宗は念願の会津をゲット♪

さぁこれからが俺様の本領発揮だぜ!お次は宿敵佐竹をやっつけたるぜ!ってなトコだったんだけど、時代はすでに天下ゲッター秀吉のものになりつつあった
摺上原で勝利した翌年には、もうすでに秀吉は小田原の北条を攻めるってトコだったのです

ほんと、生まれるのがちょっと遅すぎた政宗でした



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1590年 小田原の陣
勝者 豊臣秀吉 55歳
兵 220000
敗者 北条氏政 53歳
兵 60000

九州を平定し、残っていたのは関東の北条

秀吉は何度も「挨拶に来い」と言っていましたが、プライドの高い北条は「我らは早雲からなる関東の名門であるぞ?何故あんな成り上がり者に頭を下げなければならんのだ?」と、「誰が行くか!」と突っぱねていました
そしてとうとう秀吉は北条攻めを開始したのです

小田原攻めを決めた秀吉は、さっそく諸将を集め軍議を開きました

そこで先鋒を徳川家康に命じたのです
これは北条と同盟関係にある家康をわざと先鋒にし、どこまで本気で北条と戦う気があるかをチェックしようとしたのです

が、家康は10万人もの兵力を用意し、惜しみなく戦費を使いました
また三男の長丸(のちの秀忠)を人質として秀吉のもとへ送り、異心のないことを表明したのです
秀吉に疑われる余地がないほどの素早い行動でした

だけど石田三成ら秀吉側近は「家康は絶対危ない!秀吉殿は絶対、出陣中に家康の城とかに寄らないで下さい!」と、疑いまくっていたのです

そしてこのあたりから、家康は石田三成をうざったく思い始めるのでした

先鋒である家康は、先陣として本多忠勝・井伊直政・榊原康政らを送りました
ここに小田原討伐の幕が切って落とされたのです。

秀吉は3月1日に出発

合計22万人もの大軍が、小田原城めがけて集まってきました

対する北条は6万人でした
戦いの火蓋を切ったのは山中城
山中城を守っていたのは北条重臣の松田康長ら5000人

そこへ豊臣秀次を総大将とした山内一豊・田中吉政・中村一氏ら2万の大軍が押し寄せたのです
山中城は技巧を凝らした城でしたが、大軍に攻められあっという間に落城しました

先陣を務めたのは中村一氏
そして一氏のもとで一番槍を務めたのが渡辺勘兵衛です
山中城を落とした秀吉軍は、勢いを得ました

4月1日には箱根へ到着し、3日には小田原城を包囲する態勢が整ったのです

が、小田原城はめちゃくちゃ堅城
力攻めで落とすには、余りにも労力を使いすぎる
ということで、秀吉は「兵糧攻め」をすることにしました

氏政の方も1年分の兵糧を蓄え、長期戦覚悟で望むつもりでいました
秀吉も長期戦を覚悟

石田三成らに命令し、こちらも2年以上小田原に滞在できるほどの兵糧をゲットしたのです
長期戦になるとなれば、対となる城が必要と考えた秀吉
小田原城をよく見渡せる場所に、城を作ることにしました
それが「石垣山一夜城」です。

実際は4月から6月まで、約80日かかりましたが、一夜のうちに周りの木を伐採し、城が突如として現れたように見せかけたそうです

これには小田原城内騒然
「秀吉は天狗か!?」と、北条家の士気が下がりまくったのです

秀吉は小田原城の周りを取り囲みました
そして愛妾の淀君(茶々)などをを呼び、毎日宴会三昧

ちなみに淀君を呼ぶ時、秀吉は一応ねねに断って、ねねの口から淀君に伝えてもらいました
これはねねの顔をたてるためです。
淀君は「なんでいちいちねねを通して言われなきゃなんないのよ!」と、ムッとしてました

で、秀吉は他の大名達にも妻・妾を呼ぶことを許可しました
毎晩飲め歌えやのドンちゃん騒ぎとなったのです

突然小田原に20万人以上もの人がきたもんだから、一時大都市状態
遊女小屋も出来たり、市場もできたりと、すごく賑やかになっていったのです

それに対する小田原城内はとうと・・・
昼は双六や将棋をして遊んだり、笛を吹いて乱舞したりと負けず劣らずの余裕ぶりをみせていました
というのは4月ごろの話

実際この頃は、「いきなりデカイ城は出現するわ、毎晩ドンちゃん騒ぎだわ。こりゃやばいんじゃないか?」と焦り始めていたのです
小田原城を包囲して、余裕ぶりを見せていた秀吉

実は裏では「北条の支城を攻めろ!小田原城を孤立させろ!」と命令していました

上杉景勝・前田利家ら北陸チームは、松井田城を攻め込み落城させ、進軍
4月27日には江戸城を落とし、河越城・松山城などガンガン快進撃
ちなみに「忍城」は利家らの攻撃に耐えまくっていました
本城である小田原城が落ちてからも、忍城だけは城を守り通したのです
この辺はココを読んでね
次々と支城が落とされているというニュースを聞いて、北条氏政はだんだんと弱気になってきました

重臣らを集め「降伏したほうがいいのか?それとも出撃し迎え撃つべきか?」などなど悩みまくっていました
なかなか結論が出なくて、だらだらといつまでも議論。
議論ばかりしてなかなか結論がでないことを「小田原評定」と言うようになるのです

が、決定的となったのが「韮山城落城」でした
韮山城は氏政の弟・氏規の居城で、これにより小田原城内の兵たちの戦意は喪失していったのです
さらに、秀吉への内応が発覚したのです
老臣筆頭である松田憲秀の内応でした

松田憲秀はずっと「徹底抗戦じゃ!」と言っていた重臣でしたが、いつの間にか秀吉と内応していたのです

これには城内蒼然

次第に徹底抗戦から降伏へと気持ちが変わっていったのです
韮山城から弟の氏規がやってきました
実は氏規は家康と仲良し

というのも、家康が今川家の人質時代に、氏規も人質としていたからです
その頃からの幼馴染で、家康は氏規に「もう降伏した方がいいよ!」と忠告したのでした
こうして支城を次々と落とされ、援軍の希望もなくなった氏政は、とうとう降伏を決意したのです

氏政の息子である氏直は、弟の氏房とともに家康のもとへ
そして「オレが切腹するから、父と城兵の命を助けて欲しい!」とお願いしました

家康はさっそく秀吉に報告

すると秀吉は「氏直は家康の娘と結婚してるから切腹はさせない。だが、氏政・氏照兄弟と松田憲秀・大道寺政繁の老臣2人は切腹じゃ!」と言って来たのです

こうして氏政は7月11日に切腹。53歳でした

氏直は高野山に配流となりました。

秀吉はあれほどの勢力からお家没落へとなった氏直へは、高野山へ行く時に金銀財宝を与えたといわれています

ここに北条早雲から始まった5代 100年にわたった栄華は幕を閉じたのでした
北条を破り、最後の仕上げは東北

もうこの頃は誰も秀吉に逆らうものはおらず、奥州をあっさりとゲット

日本で始めて天下統一を成し遂げたのであります





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