暗闇の日本史           



怨念の日本史




義民・佐倉宗吾の怨念
丑の刻参り
人々を恐怖におののかせた長屋王
桓武天皇を発狂させた早良親王の祟り
雷神となって甦った菅原道真
現代も続く平将門の祟り
生霊となった藤原朝成
七十年も祟り続けた中納言藤原元方の怨霊
魔道へ進んだ阿闍梨頼豪
自ら魔王となった崇徳上皇




義民・佐倉宗吾の怨念

江戸時代のことです

堀田正信が現在の千葉・佐倉の領主となりました

すると農民たちに重たい税をとるようになり、税を払えない者には拷問をするようになっていました

佐倉には「宗吾」という男がおりました(諸説があり、実在していたかどうかは定かではない人です)
宗吾は偉い人に訴えるも、却下されてしまいました

宗吾はあきらめず、子供たちに別れをつげ江戸へ向かったのです

そして将軍・家綱に直訴し、なんと重税が軽減されることになったのです

宗吾は喜びました

が、領主・堀田正信は激怒

領主としての面子を潰されてしまったため、江戸から戻ってきた宗吾と、その妻と子供四人を捕らえたのです

そして宗吾の目の前で子供をなぶり殺し、妻を惨殺しました

最後は宗吾を磔で殺したのです

宗吾は堀田正信を呪いながら死んでいきました

それから、堀田家では怪異が続くのです

「宗吾の霊が出る」と家中大騒ぎとなり、堀田正信も狂いだしてきました

そしてとうとう堀田家は改易されてしまったのです

人々は、佐倉宗吾の怨霊により堀田家が滅びたのだと噂しあいました


さて、100年後、再び堀田家が佐倉の領主になることに

が、農民たちが宗吾の怨念が乗り移ったかのように堀田家に反抗しました

そして「まだ宗吾の怨霊がいる!!堀田家はまたも呪われる」という噂が

とうとう堀田家では、先祖の非礼をわびる為に宗吾のための神社を建てました

すると領民たちも大人しくなり、堀田家に平穏が訪れたのです





丑の刻参り

人を呪う・・・それが丑の刻参り

「太平記」に、丑の刻参りのことが書いてあります

丑の刻とは午前二時ごろ

人々が寝静まった時間に、怨みを持つ人が怨んでいる人を呪うのです

用意するものは人の形をした藁の人形、五寸釘と金槌

神社の神木に藁人形を添え、五寸釘を打ち付けるのです

この時、ただ打ち続けるだけでは効果はない

相手を呪うのだから、本気で行わなければならないのです

顔に朱をさし、身に丹を塗り、鉄輪を逆さに頭にいただき、足には松をともし、たいまつを携え両端に火をつけ、それを口にくわえて行うのです

「死ね 死ね 死ね・・・」と念じると、呪われた人間はもだえ苦しみ、死んでしまうのです

が、忘れてはいけません

呪いを行った者には、必ず災いが訪れるということを・・・・




人々を恐怖におののかせた長屋王


奈良時代の出来事です

当時の朝廷は権力者・藤原不比等が亡くなり、トップは右大臣の長屋王となりました


ところが、藤原不比等の4人の息子らはおもしろくなかった

今まではやりたい放題権力をほしいままにしてきたので、長屋王が邪魔だったのである

せっかく築き上げた藤原氏の権力を長屋王なんかに奪われてたまるか!・・・と、激しい権力争いが始まりました

藤原氏の四兄弟は謀略によって長屋王を排除することに

「長屋王が天皇を呪詛しようとしている」とでたらめを言い、兵を長屋王のもとへむけたのです

家を兵に囲まれ、死を覚悟した長屋王

子供と孫に毒薬を飲ませ、首を絞めて殺し、自らも毒を飲んで自害したのです

これが歴史上有名な「
長屋王の変」です



さて、長屋王の死体は焼かれ、灰は川へ投げ捨てられました

灰にならなかった骨は、呪いを恐れた藤原四兄弟が家臣に土佐の国まで持っていかせ葬りました


が、異変が起きてしまったのです


長屋王の骨を埋めた土佐の国で、農民たちが次々と死んでいくという事件が起きました

農民たちは「これは長屋王の怨霊のたたりです!なんとかしてください」と騒ぎ出しました

これを聞いた朝廷は気味が悪くなり、長屋王の骨を沖ノ島に移したのです


が、異変は収まりませんでした


737年4月17日 藤原四兄弟の次男・房前が突然死んでしまったのです

その3ヵ月後の7月12日 今度は四男が死亡

さらに12日後に長男が死んでしまい、また12日後の8月5日に、三男までもが死んでしまったのです

人々は長屋王の祟りと、非常に恐怖におののいたのです・・・・・


そして翌年、都で惨殺死体が見つかりました

その男は、「長屋王が天皇を呪詛しようとしている」というデタラメを密告した男だったのです・・・・





桓武天皇を発狂させた早良親王の祟り


奈良時代

時の天皇である桓武天皇には悩みがありました

桓武天皇は自分の息子である安殿親王を次期天皇にしたかった

が、次の天皇は、桓武天皇の弟である「早良親王」に決まっていたのである


ある時、桓武天皇の信頼している家臣である藤原種継が何者かによって暗殺されてしまった

暗殺の容疑者として捕まった男が「大伴氏に命令され、早良親王の許可ももらった」と供述したのです

桓武天皇は早良親王を失脚させるチャンスがやってきたとばかり、この暗殺の犯人が早良親王に仕立て上げた


もちろん早良親王は、オレは犯人じゃない!と抗議をするが、聞きいれてもらえない

とりあえず乙訓寺(おとくにでら)に幽閉されることとなったが、早良親王はこの日から無実を証明するために断食を行ったのです

早良親王の無言の抗議も届かず、淡路島へ流されることなりました

が、早良親王は淡路島に流される船の上で餓死してしまったのです

そして早良が死んだので、桓武天皇は自分の息子である安殿親王を皇太子としたのです


なにかもかも上手くいったかのように見えましたが、この後桓武天皇の身の回りに次々と不幸が押し寄せてくるのです

桓武天皇の妻がこの後すぐに死んでしまい、さらに母親も死んでしまいました

桓武天皇は「これは早良親王の祟りに違いない」と、早良親王を埋葬した淡路島のお墓をキレイに改造しました

しかし、その年の秋から都では天然痘が大流行し、都は死人だらけになっていったのです

さらに息子の安殿親王が発狂

桓武天皇は陰陽師に占わせると、「早良天皇の怨霊がとりついています・・・・」

憔悴した桓武天皇は、家臣に早良親王の怨霊に陳謝させ、都を移すことにしたのです

これが平安京です

「平安」は、決して民のために思った「平安」ではなく、桓武天皇自身の願いだったのでした


桓武天皇は平安京遷都の後も早良親王の怨霊に悩まされ続けました

800年に早良親王に「祟道天皇」の称号を送りました

本来なら天皇となるはずだった早良親王に「天皇」の称号を与えたのです

が、早良親王の怒りはしずまらず、桓武天皇は毎晩「早良親王の怨霊がやってくる・・・」と、怨霊に悩まされるようになったのです

桓武天皇は数々の早良親王の霊を沈める努力をしましたが、とうとう苦悶のうちにこの世を去っていったのでした




雷神となって甦った菅原道真


菅原道真は学問の神様として有名ですが、昔は祟りをなす人物として恐れられていました

時の天皇であった宇多天皇は、権力者である藤原氏が大嫌いでした

そこで宇多天皇が重宝したのが、学識豊かな菅原道真だったのです

ポッと出の菅原道真の出現によっておもしろくないのは藤原氏

着々と道真を追放する準備をしておりました

そして宇多天皇から醍醐天皇へ時代は変わっていきました

その時、藤原氏が醍醐天皇に「道真が天皇を廃し、自分の娘の婿を天皇にしようとしております」と、醍醐天皇に密告したのです

もちろん道真は何のことかさっぱりわかりませんでしたが、この「道真陰謀説」は認められ、道真は大宰府へ左遷されてしまったのです



大宰府での生活は悲惨でした

道真は「私は何もしていない。都に帰りたい・・・」という思いをずっと残し、59年の生涯を閉じたのです


それから京都の様子に変化が出てきました

道真が死んだ翌年から、京都ではしきりに雷が鳴るようになったのです

そして道真を追放した主犯の藤原時平が39歳という若さで突然死したのです

さらに時平が後押しした皇太子が21歳の若さで死に、その次に皇太子となった5歳の子も死んでしまった

人々は「これは道真の祟りに違いない」と恐怖におののきました



さらに決定的な事件がおきました


午後一時ごろ、愛宕山の方から黒い雲が出てきて、あっというまに空を覆いつくした

すさまじい雷の音がとどろき、清涼殿(天皇の日常いる場)に雷が落ちたのです

轟音とともに清涼殿は炎に包まれ、何人もの人が死んでしまいました


この変事に醍醐天皇は恐怖のあまり発病

そしてこの後すぐに46歳でこの世を去ってしまったのです


菅原道真の怨霊は、この後もずっと京都の人々を恐れさせたのでした




現代も続く平将門の祟り

この時代、貴族達は農民から税金を取り放題

貴族達だけが、いい生活をしていました

平将門は、そんな京都のやり方に反抗し、関東にて新たな国を作ろうとした武士です

その活躍ぶりはすさまじく、とうとう京都の朝廷から将門を倒すために兵が送られました

それが「平将門の乱」



将門軍は奮闘したものの、なんと流れ矢が将門の額を貫き、平将門は討たれてしまったのです

将門の首は京都の三条河原に晒されました



が、将門の生首は自分が死んだことを認めず「
今一度合戦を!!!」と叫び、関東まで飛んでいったのです

その生首が落ちた場所が、現在の東京都千代田区大手町
そこに「将門の首塚」が建てられました

さて、現在高層ビルが立ち並ぶビジネス街となった大手町

なぜこんな東京のど真ん中にこの首塚は移転されず残っているのでしょうか???



それは将門の呪いがあるからなのです


大正十二年、関東大震災が発生しました

東京は焼け野原となり、政府は「再生のため、大蔵省を大手町に移転する」と発表

そして移転先に将門の首塚があったのです

工事する人たちは、現場監督に「この首塚は手をつけてはいけないと言われています」と反対しました

が、現場監督は「バカバカしい!京都に晒された首がなんでここに飛んでくるんだ?今の世にそんな呪いだとか祟りだとかあるものか!東京を復興しなきゃならんのだぞ!?」と大反対

それでも工事の作業者達は首塚を壊すのを嫌がった

怒った現場監督は「じゃあ俺がやる!」と首塚の石に手をかけたのです

その瞬間、現場監督は「うぎゃあ!!」と奇声を発し、突然走り去って行ってしまったのです


不思議なことはまだ続きました

大蔵省の移転計画に関わった十四人が次々と病死していったのです

健康だった役人達の不審な死

とうとう大蔵省の移転計画は中止となりました


その後も首塚を移転しようと計画が何度もありましたが、関係者が次々と不審な死を遂げていったのです

第二次世界大戦の終戦後、アメリカ軍が将門の首塚を移転しようとしました

すると突然ブルドーザーが転覆し、数多くの負傷者を出したのです

こうして将門の首塚を壊すと祟りが起きると言われるようになりました


さらに1988年に作られた映画「帝都物語」の撮影中、将門の首塚のセットを作り、撮影しようとしたところ、スタッフがクレーンから落ちて重症を負った

さらに出演者が炎に近づくシーンは、風もなかったのに急に炎が大きくなりやけどを負ったのです

スタッフたちは将門の首塚におまいりをし、さらに将門を祭ってる「神田明神」に手を合わせ、なんとか撮影が終了させました


そして今でも大手町のビジネス街では「将門の首塚に尻を向けてはいけない」と言われています

実際そのようにしていた○○○銀行はつぶれてしまいました

こうして将門の首塚はいつまでも大手町にあるのです・・・




生霊となった藤原朝成


右大臣の息子・藤原朝成(あさひら)が生霊となるという事件が起きました

朝成は学識があり、思慮深い男だっといわれていますが、なぜ生霊になったのか?

原因は権力争いであります

この時代、高い官位を獲得することが貴族の生きがいでした

が、朝成はライバルの藤原伊尹(これただ)に破れてしまったのです

悔しがった朝成は、伊尹の家臣い嫌がらせをしてしまいましたが、もともとそういった事が出来ない正確だったのか「悪かったな・・・」と悩み続け、伊尹の家に謝りにいったのです

ところが伊尹は、朝成を許さず、炎天下の中、ずっと朝成をそのまんまにしてしまいました

とうとう朝成は「伊尹は私のあぶり殺しにするつもりなのか!!」と怒り、「伊尹はわが敵である。私は鬼となって七代まで祟り、命をとってやる」と呪いの言葉をはいたのです

それから平安の都では怪奇な事件が多発しました

これを人々は「朝成が生霊となり呪っている」と噂に

そして伊尹は49歳で急死してしまい、ますます噂は広まりました

肝心の朝成ですが、その2年後の58歳で死去

朝成の家は「鬼殿」と呼ばれるようになり、伊尹の子孫たちはこの方角へは足を踏み入れないようにしていたといいます



七十年も祟り続けた中納言藤原元方の怨霊


中納言藤原元方の娘・祐姫(ゆうひめ)は村上天皇の女御でした

祐姫は村上天皇の第一皇子である広平皇子を出産し、元方は「初めての皇子を産んでくれた。やっとワシも出世できる」と喜んでいました


ところが、時の権力者・藤原師輔の娘・安子も同じ年に第二皇子の憲平皇子を出産

こちらの権力のほうがすさまじかったため、次期天皇は憲平皇子に決定したのです


元方は見るも無残な落胆ぶりで、そのまま恨みごとを言いながら死んでしまい、さらには広平皇子・祐姫も後を追うように死んでしまったのです


その後、憲平親王(のちに冷泉天皇となります)は精神をやんでしまい、異常な行動を起こすように

都の人々は「これは元方の恨みが怨霊となり、憲平親王を祟っているんだ」と噂しあうように

たびたび祈祷が行われましたが効き目はありませんでした

さらに藤原師輔が死に、次に安子、そして村上天皇と相次いで死去

憲平親王が18歳で天皇となりましたが、奇行はおさまらずとても政治を行える状態ではありませんでした

さらに元方の怨霊は冷泉天皇の同母弟である円融天皇の身にも及び、円融天皇は熱にうなされながら「元方の霊が・・・」と口走った

元方の霊は様々な人に祟りをおこし、七十年にわたって平安の都の人々を恐怖に陥れたと言われております


魔道へ進んだ阿闍梨頼豪


時は1072年の白河天皇時代

白河天皇の悩みは皇子がいないということだった

そこで有名な僧である三井寺(みいでら)の阿闍梨頼豪(あじゃりらいごう)に、子供が授かるよう祈ってもらうことに

白河天皇は「もし息子が生まれたら、褒美は何でもやろう」と言いました

こうして阿闍梨頼豪は、100日の間、一心不乱に祈ったのです

そしてとうとう息子が生まれました

天皇は非常に喜び、阿闍梨頼豪の願いを聞いてあげることに

阿闍梨頼豪の願いは「三井寺に戒壇を建ててほしい」ということでした

戒壇とは、僧侶になるための授戒の儀式を行う檀のこと。三井寺には戒壇がなかったので、皆のかねてからの願いだったのです

ところが天皇は「それはムリだ。戒壇設立を立てるとなれば延暦寺の僧が黙ってはいない」

阿闍梨頼豪は悲しみました

「戒壇設立を願いに、一心不乱に息子の誕生を願ったというのに!!!私が祈って誕生させた息子ならば、後はどうなろうと私は知りませぬ!!」

こういうと、三井寺に戻り御堂にこもってしまいました

そして「私は魔道(仏教でいう悪の住む世界のこと)へ行く!」といい、そのまま餓死して死んでしまったのです

四年後、阿闍梨頼豪の祈りによって誕生した敦文親王は四歳にして死んでしまいました


その後も阿闍梨頼豪は、三井寺と対立していた延暦寺に84000匹の鼠(ねずみ)を従え怨霊となって暴れ続けました

その鼠の大群は、参道に溢れ、本堂の中にも入って経典をも食い尽くしてしまったのでした・・・・





自ら魔王となった崇徳上皇


源平時代の始まる頃のことです

1156年に「保元の乱」という大乱が起こりました

崇徳上皇と、後白河天皇との戦いです

戦いは後白河法皇が勝利し、崇徳上皇は讃岐に幽閉されることとなった


幽閉された崇徳上皇は、この乱で死んでいった人たちのために大乗経(だいじょうきょう)の写経をしました

そして3年をかけて出来上がった写経を、京都にある仁和寺(にんなじ)に収めてくれるようお願い


ところが後白河天皇の家臣らが「これは帝を呪うつもりなんじゃないか?」と言い出し、後白河天皇も「謀反人の書いたものなど収めることはできない」と、写経を讃岐へ送り返したのです


崇徳天皇はせめてもの願いを絶たれたことを恨みました

そして指を噛み、流れ出た血で誓いの言葉を書いたのです

「我は日本国の魔王となり、天皇家を呪ってやる。天皇家以外の民の繁栄を願ってやる」

その後、呪いの手紙を書き続け、ボロ布を身にまとい、髪も伸ばしっぱなし

そしてその手紙に自らの血を滴らせ、瀬戸の海に沈め、1164年8月26日に死んでしまいました


上皇は火葬されましたが、その煙は讃岐から都の方へなびいたといいます


さて、上皇の死からまもなく都では死人が相次ぎました

さらに政治も乱れ始め、大火事が起きたりと世の中はめちゃくちゃに

これは崇徳上皇の呪いに違いないと、崇徳上皇の怨霊を沈める為に様々な陳謝を行いました


崇徳上皇の怨霊は代々語り継げられました


明治天皇も、即位した翌日に勅使を讃岐にある崇徳上皇の墓に派遣させ、上皇の霊を京都の白峰宮に移したのです

新しい時代を迎えるにあたり、崇徳上皇の怨霊を沈めるためであります