明治3年 1870年 年表

さてさて!明治3年からの「歴史の流れ」は、
今までの歴史の流れとはちょっと違う年表形式でやっていこうと思っております

だんだん国際化していくため、「日本」だけじゃなく、世界史も入れ込まないとなりませんのでね
それに記録もはっきりしてくるので、いろんなことがありすぎちゃうので

もちろん、解説付きのとこもありますし、基本的な「日本の流れ」は押さえるつもりです

なるべく堅苦しくない、簡単なミーハー解説でわかりやす〜く、たのしーくやっていこうと思っておりまする〜★


明治3年 1870年 
ちょっとまとめ★世の中の動き★

さてさて、幕末の民衆の多くは幕府が倒れ、天皇による新政治が行われることにより、全て上手くいくと思っていました

そのため、民衆は明治政府の成立をとっても喜びました

が、新政府は軍備の拡大や、西洋の技術を導入するために農民にめっちゃ重い税をかせました

さらに、来年の明治4年7月に「廃藩置県(はいはんちけん)」が断行されます
「藩」をすべてなくして、県にするってものです

今まで「藩」が武士たちにお給料をくれていたのに、それが無くなってしまう
会社が潰れちゃったみたいな状態になってしまった士族(元武士)たち
これでめっちゃ政府に反感を抱くようになります

士族の中には、戊辰戦争で幕府を倒すのに協力した人たちもいました
彼らはよりよい地位を求めて働いたのに、政府は自分達の功績に報いてくれない
「幕府が倒れれば自分達は豊かになれるんじゃないのか?」という思いを裏切りまくったのです

でもって、かつての倒幕派の人々は「新政府のお偉いさんになった奴らばっかいい給料もらってんじゃないのか??俺らには重税をとってるくせによー」という不満がタラタラ

農民だって負けちゃいない
「新政府になったら、わしらの暮らしがよくなると思ってたのに・・・。これじゃあ幕府の方がマシじゃー!」と、各地で農民一揆が起きてしまいました

革命以前の社会情勢より、革命後の政権の方が悪いなんてなかなかありえないですよね〜

でもって、新政権にはほとんどお金が無い

外国に負けないよう、バカにされないよう、肩を並べるよう、文明を発達させていくには、民衆に税金をかけるしか方法がないのであります

ここでおさらい 中央政権について

五稜郭が落とされ、完璧に徳川幕府の時代が終わりました

これからは、明治新政府が日本を動かしていくようになります

ここでちょっとおさらい!

幕府が滅亡し、摂政と関白という役職が廃止されました

で、天皇の下につく役職は「右大臣」「左大臣」「大納言」「参議」となります

ちなみに新政府スタッフはというと

左大臣→欠員
右大臣→三条実美
大納言→岩倉具視・徳大寺実則
参議→副島種臣(肥前藩)・前原一誠(長州藩)

この後さらに大久保利通(薩摩藩)・広沢真臣(長州藩)佐佐木高行(土佐藩)・斉藤利行(土佐藩)・木戸孝允(長州藩)・大隈重信(肥前藩)が就任します

ちなみに、木戸・大久保といった新政府樹立に活躍した人がナゼ最初っから新政府スタッフにならなかったのか??とゆーと、どうやら諸藩の反感をかわすためだったみたいです

でも、すぐに政府がたちいかなくなって、大久保らに「参議になってくれ〜」とお願いしてきますからね

でもって、大久保が就任したと同時に三カ条を作りました

1.大目的をきめること
2.政令を一本化すること
3.機事の秘密を守ること

大久保はこの三カ条を残りのみんなに誓わせました
なんでか?というと、実はこの頃の政府のお偉いさんたちは「疑心暗鬼」に陥ってたのです

いまだ出身藩にこだわっていて、自分の藩にだけは秘密情報を漏らしたりしてました
もう「藩」という枠組みにこだわらず、新たに「国」として統一していかなくちゃいけない!ということなのであります

制度はというと、ニ官六省制とゆーのができたり
あ、軽く解説すると二官とは@神祗官A太政官
六省とは@刑部省A兵部省B大蔵省C外務省D民部省E宮内省

が!!!

このあたりはまだ制度が安定していなくって、明治17年の内閣制度が発足するまでめまぐるしく設置と廃止が繰り返されます
三院八省制になったり、名前が変わったりと、ほんと毎年コロコロ変化しちゃってます

あまり詳しく書くとごちゃごちゃしてきてしまうので、個人的にきちんとした内閣制度ができるまで、このあたりは軽く流そうかと思っております

こだわるとミーハー歴史サイトが堅苦しくなっちゃうのでね〜

廃藩置県に向かう流れ 版籍奉還アレコレ

さて、去年「版籍奉還」が行われました
土地(版)と人民(籍)を天皇に返すというものであります

この版籍奉還を唱えたのが薩摩藩と長州藩であります

すでに1867年の時点(ちょうど慶喜が大政奉還してる頃)に、薩摩藩士の寺島宗則が藩主の島津忠義に意見書をだしていました

だけど、まだ時勢が熟してないため完全な版籍奉還は将来の課題となっていました

長州藩の中心は木戸孝允(桂小五郎)であります

長州征討で幕府から占領していた二国を朝廷に返上することを唱えていました

これらがきっかけとなり、木戸孝允は朝廷側の三条実美と岩倉具視と密かに話し合いをしていたのです

そして長州を代表して、木戸孝允

薩摩を代表して大久保利通が版籍奉還について話し合い、翌日薩摩の小松帯刀らお偉いさんや、土佐藩の後藤象二郎の同意を得ました

ここでおもしろいのが「姫路藩」

姫路藩では、新政府に忠誠を使う新藩主の息子・酒井忠邦と、あくまでも徳川命!!の父親と祖父チームが激しい藩内バトルを繰り広げていました

新藩主の忠邦は「このままじゃ姫路藩がめちゃめちゃになる」と、自ら版籍奉還を願い出たのです

が!新政府はこの訴えを無視
なぜか?というと、「版籍奉還」は、まず長州と薩摩の両藩がさきがけにならなくちゃいけなかったからです

自分達の版籍を天皇に返上するということを、他の藩に最初にやられるわけにはいかなかったため、姫路藩はムシされまくったのでした

で、とある京都の料亭では、薩摩・長州・土佐の三藩がコッソリ話し合い
出席者は薩摩の大久保利通、長州からは広沢真臣(木戸は東京にいたのでこれなかった)土佐からは板垣退助

そして3人は合意し、藩主にこのことを伝えました

さらに副島種臣と大隈重信が、肥前藩の前藩主だった鍋島直正にもこの計画を伝え、OKさせました
なんで肥前藩を入れたかというと、鍋島直正が他の藩を圧倒する存在感を持っている!と、広沢がずーっとアピールしたからです

こうして4つの藩が版籍奉還を発表し、新政府は「忠誠」の志である!と、受理したのです

新政府はこの4つの重要な藩が版籍奉還をしたことで、他の藩はどうするか?と様子をみていました

すると発表したその日に鳥取藩が返上し、3日後には佐土原藩、4日後には福井藩・大垣藩・熊本藩と、ぞろぞろと返上してきたのでした

そして、これから版籍奉還してきた藩を、どのような体制で支配していくかが問題となってくるのであります


ここでもう一つ重大なこと
実は版籍奉還をした時、新政府は諸藩に対して11か条の指令「諸務変革令」を出しました

各藩の石高や物産、藩士、人口、戸籍などいろーんなことを調査して報告しろというものです

重要なのが武士階級を華族と士族に編成したこと
家老以下の藩士を全て「士族」にして、藩主が「華族」になりました
藩主と藩士という、今までの幕府の主従関係を廃止したのです

試行錯誤しながらの新時代が到来ですね

ここらで知っとこう!アメリカの歴史

日本に「開国しろー!」とやってきたアメリカですが、アメリカの成り立ちをちょこっと説明しますね〜

アメリカ大陸は1492年コロンブスによって発見されました

で、イギリスがアメリカを植民地としてゲットしたのであります

アメリカ大陸には自由を求めてやってきた人たちが、開拓したりしてどんどん発展していきました

アメリカ植民地が発達していくにつれ、イギリスはだんだんアメリカに関心を示してきました

でもって、アメリカにあれこれと口出しするようになってきたのです

アメリカ側は「ふざけんなぁ!」ってことで、本国イギリスとバトル!これがアメリカ独立戦争とゆーもので、アメリカ植民地側はイギリスの支配権を拒否して、独立することに成功

こーしてアメリカ独立宣言を出して、1776年に正式にアメリカ合衆国となったのです

さてさて、そんなアメリカが世界に目を向けた時、めぼしい地域はほとんど列強諸国の植民地になっちゃってました

「なんだよ!もういい国残ってないじゃん!」と思ったアメリカは、1823年に5代目大統領のジェームズ・モンローが「モンロー宣言」とゆーのを出しました

めっちゃ簡単に言うと「中南米の派遣はアメリカが先取りするから!」宣言であります

こーしてアメリカはメキシコからテキサスを独立させ、アメリカに吸収し、メキシコからカリフォルニアを奪ったりと、帝国主義国家に乗り遅れながらも必死に頑張ってました

で、いよいよ太平洋に乗り出してきたのであります

エジソンが電灯を発明する前、アメリカはくじらの油から製造するローソク照明を使ってました

そのためアメリカは大西洋のくじらを捕獲しまくっていて、とうとう絶滅寸前に

すると今度は中部太平洋へくじら捕獲に乗り出しました

でも太平洋は広いから、捕鯨船の飲料水や食糧の補給場所が必要になってきた

とゆーことで、ちょーどいい中継地点の日本に目をつけたのであります

ちなみにこれまたちょーどタイミングがいいことに、アメリカは中国と貿易をしたがってたので、日本はこれまたちょーどいい場所にあったのであります

こーしてアメリカはペリーに命令して「日本に開国しろー」と言ってきたのであります

余談ですが、アメリカは今でこそクジラ愛護運動をしまくって、日本バッシングにクジラを持ち出してきますよねぇ

日本は縄文時代からクジラを捕獲してて、クジラ文化も発達してるケド、アメリカのように大量捕獲はしてないんですよね
むしろ「子持ちのメスクジラは捕獲しちゃいけない」なんていうタブーが江戸時代からあったりしたんですよー

悪く言いたくはないけど、アメリカは自分の国の大量捕鯨を忘れて、よく日本のクジラ文化にあれこれといちゃもんつけてこれるなと思いますね〜

そもそもクジラ捕鯨禁止にまでなった原因はアメリカのせいだし!

ロックフェラーの出現が遅れてたら、今頃世界中のクジラが絶滅してましたヨ!!

とまぁ、クジラ捕鯨について熱く語ってしまいましたが(笑)話を元に戻しますww

こーしてアメリカはペリーwith黒船により日本に「開国!開国!」と迫り、見事日本を開国させちゃいます

でもっていよいよ太平洋だぜ!わははは!って時に、南北戦争が起きちゃうので、とりあえず一休み

が!!これからのちもアメリカは中国市場に目をむけまくり、同じく中国進出しようとしてるロシアと日本をことごとく邪魔するのであります

特に日本はアメリカにめっちゃいじめられることとなるんですね〜

まぁこれからの日本もどうしちゃったの?っつーくらい、ヤバイ国になっていくんですが・・・

それはまた、のちのちの歴史の流れでお勉強しましょう★

ここらでちょっと知っとこう★植民地について

植民地については当サイトの歴史の流れでちょこちょこと解説してますが、このあたりでまたガガっと簡単に解説しちゃいまーす

明治時代になると、日本はアメリカやロシア・イギリス・フランスといった西洋のめっちゃ強い国と付き合っていかなければならなくなってきます

鎖国してのーんびりしてた江戸時代とうってかわって、世界を相手にアレコレとお付き合いをしなくちゃいけないんですねぇ

ヨーロッパでは16世紀くらいから「大航海時代」という時期がスタートして、航海術がガンガンと発達

ポルトガル・スペイン・オランダ・イギリス・ロシア・ドイツ・アメリカといった国々が、植民地を求め、そして一攫千金を狙って外へ出て行くようになってきました

で、珍しい東洋の品々を持って帰って一儲けしよう!って考えたんですね〜

最初はアジアの国々から胡椒とか陶磁器を買ってたんだけど、買ってばっかだったのでだんだん経済的に余裕がなくなってきちゃった

アジアには欲しいものばっかあるのに、お金も無いし交換するものもない

だったら、力ずくで奪っちゃおう!ということになってきたんですね〜

ということで、ヨーロッパ諸国の国々はまだ武力的に未発達な国をことごとく占領していくのです

例えばスペインやポルトガルは南米に攻め込み、インカ帝国を滅ぼして金銀を根こそぎ奪い取っちゃった

そして現地人やアフリカ人を捕まえて奴隷として連れ帰った

インドにいたっては、ひどい

インドは昔から木綿産業が盛んだったんだけど、産業革命が起きたイギリスから木綿がめっちゃ安い値段で入ってくるように

そうするとインドで木綿を作って生活してる人が困っちゃう

するとイギリスは現地で木綿を作りにくくするために、木綿をつむぐ人たちを集めて手首を切り落としちゃったのです

いくら綿があっても、つむぎ手がいなければ布ができないからね

ということで、インドの木綿工たちは仕事がなくなってしまい餓死してしまいます

イギリスは自分のトコの木綿を売るためにひどいことをしたんですよ

でも、当時は白人以外は人間じゃないという考えが当たり前だったので、白人以外がどんだけ死んでも全くお構いなしだったのです

またスペインのインディオに対する虐殺もすごいものでした

数人のキリスト教徒が、犬がおなかをすかせてるということで、近くにいたインディオの母親から赤ちゃんを奪い取り、母親の目の前で赤ちゃんを犬に生きたまま投げ与えたりしました

そして現場監督の誰もが、インディオの女性と寝るのが習慣で、その女性に夫がいようがなんだろうがおかまいなし

また徹底的に抹殺されたのはオーストラリアのアボリジニ

イギリスは1788年に囚人1473人を乗せ、シドニー近くのボタニー湾に送りました

本国にはいられないならず者達をオーストラリアに送ったのです

で、彼らは遊びとして「アボリジニ狩り」を行いました。アボリジニを殺すことにまったく罪の意識がない状態

そしてだんだん「狩」がめんどくさくなってくると、アボリジニの水のみ場に砒素や水銀を流して殺しまくったのです

またタスマニアの原住民は絶滅させられてしまいました

とにかくこの時代は強い国が弱い国を植民地化し、植民地となった国は人間扱いしてもらえない時代だったのです

人種差別がものすごく、白人以外は人間じゃない!ってのが、ほんっとーに当たり前で、このことを理解しとかないと、明治時代ってのは語れないんですよ!

でもって、この時代、かろうじて植民地になってなかった国は日本・タイ・エチオピアの3つの国だけ

残りはぜーーーんぶヨーロッパの強い国の植民地となっていて、奴隷状態なのです

日本にとっては、ペリーが黒船でやってきたことはマジで恐怖でした

近くの中国もマレーシアもインドも、強盗みたいなやられ方で植民地にされてたので、日本としてはヨーロッパの国々とお付き合いすることは、ほんっと恐怖だったのであります

ということで、明治時代の日本はいきなり強い国から「あんたたちさ〜、もう自分達だけでゆったり暮らすのはやめなよね」という感じで、無理やり力が支配する国際社会へ引きずり込まれていくのであります

で、日本は他の国のように植民地にならないよう、近代化して必死でがんばってくのであります!!

それが明治時代なんですね〜


幕臣たちはどうしてるの??

ところで!!

東京に薩長ら新政府が入ってきたので、今までの幕臣たちはどうしてたのか??というと、これが大変なことになっていました

新政府は徳川御三卿の一つ、田安家の当主・亀之助を徳川宗家の相続人(16代目)として駿河・遠江などで70万石を与えたのであります

徳川家の家臣の数は、旗本が6000人・御家人が26000人と3万人以上もいました

70万石の大名が抱えることのできる家臣はせいぜい5000人

大リストラをしないと徳川家はやっていけなくなってしまいます

ということで、徳川家は家臣に対して3つの選択を迫りました(新政府が出させたんだけどね)

@新政府に出仕する
A徳川家をやめ農業や商売を始める
B給料ナシを覚悟して静岡へ移住する

新政府は新しい国家を作るため、皇居周辺に役人の家が必要だった

そこで旗本や御家人の屋敷がほしかったので、早く出て行くようせっつきました

ちなみに、3つの選択肢のうち@を選べば、幕臣時代の屋敷もそのままで給料も出されることとなっていて、賊軍とされた割にはめっちゃ好条件

が!ほとんどの幕臣がこれを拒否したのです

新政府に仕えるなんて冗談じゃねぇよ!という空気が幕臣の間ではめっちゃ強かったのでした

そのため、幕臣だったくせに敵の明治政府に仕えてお偉いさんになった勝海舟や榎本武揚は元・幕臣らすごーーい嫌われてました

多くの幕臣がBを選んだのです

ですが、徳川家もそんなに多くの人がいても困る
幕臣たちも「徳川に迷惑がかかってしまう」と思う人もいて、のちにAを選ぶ人が出てきたんですが
残念なことに幕臣たちはめっちゃ商売ベタ

なんせ今まで江戸ではふんぞりかえってた身分

てんぷら屋・だんご屋・骨董品屋などなどいろーんな商売をしても、どうも身分意識が高い

お客さんにぺこぺこすることができないため、失敗する人が続出していたのでした

さて、給料ナシを覚悟して新領地に入った徳川家臣たちは、駿河と遠江に半分づつ振り分けられました

問題の給料はというと、ほんっとにすごい大幅カットで、生きていくにも大変な状況でした




外国人が撮ったこの頃のサムライ!


1月27日 日の丸が国旗となる

日の丸の寸法が定められ、商船に掲げる国旗と決められました


2月5日 お歯黒禁止

元服する時に歯を染め、眉を剃るという風習が廃止になりました

ちなみに外国人は「白い歯命!!」だったので、日本のお歯黒にはマジでびびったそーです

4月15日 刑死者の死体を使った試し切りや人の臓器密売が禁止に!

5月 イギリス人のブラックが写真入の雑誌を創刊しました

6月8日 東京府 小学校を6つ設置

6月11日 横浜ではじめて花火があげられました

島津久光・・・「あれ?俺ってもしかして騙されてる??」

ここで「なんだか俺、西郷や大久保に騙されたんじゃないのか?」と思い始めた久光

久光は幕府を倒すためにめっちゃお金を出し、薩摩は官軍の主力となって奮闘しました

で、新政府となり、当然その見返りはあるだろうと思ってました

むしろ「島津幕府」ができると思ってましたからね

ところが、新政府はいっこうに自分を将軍にしてくれる気配なし

それどころか、保守的な久光がいっちばん嫌いな洋行帰りの知識者をガンガン新政府に入れている

久光はだんだん「騙された!!」と思うようになってきました

でもって、久光は大久保にさんざん不平不満をぶちまけておりました

大久保はというと、不満だらけの士族がいーーーっぱいいるため、久光にお願いして「兵を出して政府の動揺を抑えてもらおう」と思ってました

もちろん疑いまくっている久光の答えはNO

大久保にとって頼れるのは、人気のある西郷隆盛だけになってしまったのです


7月20日 小松帯刀 死去

小松帯刀といえば、NHK大河ドラマ「篤姫」でめちゃめちゃ有名になりましたよね

でもあれはドラマ上の設定で、実際2人には接点はありませんでした

ですがホントに堅実で穏やかな人柄で、西郷隆盛などは帯刀に忠誠を誓ってました

身分とか関係なく、接していたそうですよ

また、愛妻家で夫婦仲はとてもよかったそうです

そんな帯刀がなんと36歳という若さで死んでしまいました

8月2日 山県有朋 欧州より帰国 「エ?日本どうなっちゃってんの??」

山県有朋(やまがたありとも)は、長州藩の足軽身分の生まれ育ちました

堅実な人で、石橋を叩いて渡るようなタイプ
長州藩の天才・高杉晋作が死んだ後、長州藩の軍事をとりしきった大村益次郎の下で実務をしてました

ずーっと補佐役に徹していたタイプでした

でもって、山県はパリを中心とした欧州へ視察の旅に出ました
この日、帰ってきて日本の様子を見てビックリ!!

ついこないだまで全国で血煙をあげ戦っていたのに、全て終わると「いや〜。お疲れ様〜」とばかりに、兵達が国へ帰っちゃってる

首都である東京にまたく兵が残っていない

東京に残っているのは、丸裸の新政府で、今現在、農民達が怒って各地で一揆が各地で始まってるのに、この人たちが東京へなだれ込んできたらどうする気??状態でした

さて、そんな山県にってラッキー(?)だったのは、全権を持っていたボスの大村益次郎が暗殺されていたこと

大村益次郎の後釜には長州の前原一誠がなってたんだけど、どうやら木戸孝允と意見があわず怒って国へ帰ってしまってました

ということで、タナボタ状態で山県が軍部の実権を任されたのです

で、一緒に欧州へ行った西郷従道(西郷隆盛の弟)が軍部のNO2となったのでした


9月19日 政府、平民の苗字使用を許可する

武士以外は苗字を持つことが許されなかった日本ですが、農工商の平民に苗字が許されることになりました

といっても、今まで苗字なんて無かったのでみんな「どうすればいいの??」状態

自分で決断できない!とゆー人は、村長さんに相談したりとてんやわんや

漁村では「魚」系の名前が多かったりしたんですが、その名前をつけられたほうも特に気にもしなかった
鯛釣り名人は「鯛」さんとか、はげちゃてる人は「蛸(タコ)」さんとか(笑)

でもって、明治5年になると姓名を勝手に変えるのは禁止!という通達が出ました
ちなみにこれは今も生きてます

ヘンテコな名前をつけちゃった人は、のちにかなり後悔したそうですよ〜

10月 ワシントン・ロンドン・パリ・ベルリンに公使館を設置

10月2日 政府が海軍はイギリス式 陸軍をフランス式と定める

10月9日 岩崎弥太郎が土佐開成商社を設立

10月18日 外国人に東京府下の遊覧を許可する

10月27日 初めて医学校(後の東京大学医学部) 人体解剖実習をしました

11月 横浜で天然痘が流行

11月25日 松代藩で7万人の農民一揆!!日本各地で「世直し」の騒乱が続きまくる

12月24日 平民の帯刀が禁止に

12月28日 雲井龍雄 処刑される

雲井龍雄は米沢藩士の息子として生まれました

江戸藩邸へ出てさまざまな志士と交わり、大政奉還の後は明治政府に仕えていましたが、新政府軍が東北へ攻撃しに行くとき、薩長の好き勝手なやり方に腹がたち、とうとう帰ってしまいました

そして、東北の藩士たちと新政府のやり方について疑問を持ち、「薩長中心の政治はおかしい!」と激しく非難しつづけ、「薩長に牛耳られないためには力で向かうしかない」と決意

旧幕臣なども龍雄のもとに集まり始め、同志は5000人ほどになりました

新政府はそんな龍雄を危険視し、米沢藩に捕らえるよう言い渡しました
そして同志たちも次々捕らえられ、東京へ送られたのです

たいして取り調べもしないまま、この日に処刑されてしまったのでした
まだ27歳の若さでした

龍雄の最後の言葉は「私の策が成功したなら、日本の政治はもっとよくなっただろう。それができなかったのは私の天命である」


新政府に賭けた!三井の読みは大当り

さてさて、新政府はとゆーと、ほんっとーーーにお金がなかった

朝廷だって幕府から3万石しか貰ってないからビンボーだったしね

ここで出てきたのが三井なのであります

新政権の資金調達の中心となり、幕府からの御用金要求にも応じながら、薩摩藩とも接触しておりました

で、幕府が終わるとさっさと幕府を見限って薩摩藩に近づきました

三井は上手いことやったんですね〜

同じような豪商だった鴻池なんかは、これから始まる廃藩置県によって没落していくのに対し、(お付き合いのあった大名が貸し倒れしまくったからね)三井は政商としてガンガンのしあがっていくのでありました

江戸っ子(東京っ子)はどうしてる??

実は、江戸っ子(東京っ子)たちはめっちゃ楽しそうに遊んでいました

それはナゼか??

ズバリ!!「江戸っ子の意地」であります

というのも、明治になってから長い間続いた参勤交代も終わり、諸国の武士たちは地元に帰っていきました

東京の人口は50万人に減ってしまい、大半が江戸時代から住んでいた人たちが残されました
残った人々は東京を「ふるさと」と自認し、江戸への愛着が強くなっていったのです

元武士たちは士族となったんだけど、権威も勢いも失ってしまっていました

また、薩摩や長州といった官軍が東京を我が物顔で歩いていたのも、この頃になると落ち着いていました
で、この年の6月にやっとこさ庶民が自由に歩くことが許可されたのであります

政府はこれ以上、庶民を縛り付けておくとマズイと思ったらしく、庶民のお遊びに寛大になっていました

元・江戸っ子たちは異常な米の値上がりにもネを吐かず、どん底な暮らしの中、江戸っ子の意地!!とばかり、毎日楽しく遊び暮らしたのであります




この頃の時代の人々の写真です!
この年の出来事

・前田留吉がオランダ人に牛乳の搾乳を習い、牛乳作乳業を開始しました

・手編みのメリヤス下着が流行

・中国のアヘン戦争後の政情を知った日本は、アヘンの取り締まりを強化しました

・男性の平均寿命は24.5歳 女性は28.9歳

・東京と大阪でとんびが流行