明治36年 1903年 

日本・・・黒字  アジア・・・青字  アメリカ・ヨーロッパ・・・赤字



明治36年 1903年 年表
ここらでちょっと知っとこう★満州の歴史

さてさて、日本の歴史を語る上で欠かせない場所といえば「満州」

そもそも満州というのはどーいった国なのか??というのをちょっと解説

現在は満州という名前の地域はないんだけど、当時は現在の中国の東北部のことを「満州」と呼んでました

もともとこのあたりには、女真(じょしん)族という民族のが住んでたんだけど、明王朝が女真族にこのあたりの指揮権をゆだねました

で、ヌルハチが女真族が統一した時に、満珠国(まんじゅこく)とし、それがなまって満州となりました

満州という名前は女真族の民族名であり、女真族が住んでいる地域でもあるのです

でもって、この頃の明王朝はとうと、戦国時代の武将・豊臣秀吉の朝鮮出兵によってお金を使いまくっていてボロボロになってしまってました

ヌルハチ率いる女真族は明王朝から離れ、1616年に大金(だいきん)という国を建国しました

大金(のちに後金という名前になります)は都を瀋陽(しんよう)におき、この頃は奉天(ほうてん)と呼ばれる都になります

そしてこの「満州」は、これから始まる日露戦争の主戦場となっていくのです

ここらでちょっと知っとこう★ロシアの歴史

ロシア帝国の王朝はロマノフ王朝で17世紀はじめからスタートしました

1721年にピョートル一世が皇帝と名乗ってから「帝政ロシア」と呼ぶようになります

このピョートル一世の時にロシアは列強に加わるべく西洋化・近代化を進めていくようになります

ロシアは領土欲がすごくって、どんどん領土を拡大していきまいsた

もともとはウラル山脈から西側のみだったんだけど、広大なシベリア地方を手に入れどんどん領地拡大を行っていきました

アラスカまで領土にしたんだけど、さすがに首都から遠すぎたためアメリカに売却しました

で、もう一方の領土拡張はアジア方面

まず狙ったのはトルコ

ここでトルコ(オスマン帝国)との戦いであるクリミヤ戦争が勃発します(1853年)

が、イギリスとフランスがトルコを応援したためロシアは敗北

この敗北をきっかけにロシアは大改革をしました(ちょーど日本が明治維新があって西洋文化を取り入れてる頃)

その途中にまたもトルコとバトル!

これが露土(ろと)戦争で、ロシアが勝利しバルカン地方に勢力を築いたんだけど、イギリスなんかがだんだんロシアをけん制しはじめたのであります

なんせロシアは「領土拡大欲」がすごい!!!そんな国となっていたのでした


3月1日 大阪で第5回 内国産業博覧会 イルミネーション初登場

海外から18カ国が参加した20世紀の幕開けを象徴する博覧会が開かれました

一番人気は電気冷蔵庫!!

温度を保持するために、一回に50人しか見学ができず大行列となりました

夜になると、各展示館がイルミネーションで飾られ、6700個の電燈が使われました

5ヶ月間開催されたんだけど、入場者は530万人という大人気の博覧会となりました


3月 犬を飼っている人は届出が必要になりました

4月10日 小学校教科書が国定になる

5月22日 エリート学生・藤村操 日光の華厳の滝にて投身自殺

那珂(なか)通世博士の甥っ子で、第一高等学校生の藤村操が日光華厳の滝で投身自殺するという事件がおきました

死ぬ間際に「厳頭之感」というタイトルの遺書を大樹に彫り付けたのが最後でした
ちなみに遺書の内容は・・・

悠々たる哉天壤、 遼々たる哉古今、 五尺の小躯を以て比大をはからむとす、
ホレーショの哲學竟(つい)に何等のオーソリチィーを價するものぞ、
萬有の真相は唯だ一言にして悉す、曰く「不可解」。 我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。

既に巌頭に立つに及んで、 胸中何等の不安あるなし。
始めて知る、 大いなる悲觀は大いなる樂觀に一致するを


藤村操は友達もたくさんいる明るい生活で、ヒマさえあれば図書館に通う勉強好き
父親は銀行の頭取という超エリート家族

が、自殺1ヶ月前から何か物思いにふけるようになり、とうとう家出

そしてこの日、自殺したのです

エリートの死は世間に大きなショックを与えました

「立身出世」を目的として生きていた人々に大きな影響を与え、自殺者が増えたのです

ちなみに、藤村操の学校で英語教師をしていたのはあの夏目漱石

漱石は藤村操が自殺する直前の授業で、彼をこっぴどく叱り付けたそうです
この事件がきっかけかどうかははっきりわかりませんが、漱石はこの後ひどいうつ病になってしまいます



5月24日 日本初のゴルフクラブ「神戸ゴルフ倶楽部」ができる

6月1日 日比谷公園が開園

この日、日比谷公園が開園しました

夜は10時まで!という規則があったんだけど、入園者はなかなか公園をでなかったので、巡視係りの人がめっちゃ大変だったそうです

6月10日 七博士事件

東京帝国大学の七人の博士が桂首相に建白書を提出しました

内容はロシアとの開戦を訴えたものです

七博士は日本政府が交渉しようとしていた「満韓交換論(日本はロシアが満州を支配することに口出ししないから、そっちは日本が韓国を支配するのを口出ししないで」に大反対し、「満州も韓国も日本が武力で奪い取ればいいのだ!!」と談判してきたのです

さてさて、この頃の東京帝国大学というのはめっちゃめちゃ権威を持ってました

帝大の学生ってだけでも、ものすごい権威だとゆーのに、教授ともなると一般人からしたら雲の上の人

そんな帝大の教授が7人も「開戦しろ!」と言ってきたのであります

6月23日 御前会議

この日、御前会議が開かれました

出席したのは元老チームの伊藤博文・山県有朋・大山巌・松方正義・井上馨
現役の政治のお偉いさんからは桂太郎(総理大臣)・山本権兵衛(海軍大臣)・小村寿太郎(外務大臣)・寺内正穀(陸軍大臣)

以上の9名であります

でもって、この9人がこれから始まる日露戦争の指導者となっていきます

この会議で決まったことは

韓国を全ての日本の支配下に置くためにロシアと交渉はするが、韓国についてはロシアの意見を絶対に譲歩しない。満州については少しは譲歩する。そしてこの交渉が決裂したら戦争をおこす

というものでした

6月24日 七博士の開戦記事が新聞に掲載される

開戦しろ!と建白書を出した七博士ですが、今度は東京日日新聞に彼らの記事が掲載されました

外交の失敗がドイツの青島租借を生み、それが遼東半島租借をもたらしたが、それは軟弱外交の結果であり政府の責任である!
満州を手に入れたロシアの次の目標は朝鮮であり、もし朝鮮が取られたら次は日本である

ロシアの満州撤兵に断固たる態度をとらずにほったらかしにしているから、ロシアは兵力を増強しているのだ!!開戦の決断を一日延ばせば、また日1日と危険が迫る。現在ならば戦力的に日本のほうが有利であり、政府はこの千載一遇の機会を失うことなく、断固たる態度で臨むべきである!!


この新聞記事は国民に大きな衝撃を与えました

そして、世論は次第に「戦争しろ!!」といったムードになっていくのでした

日本は熱狂的になり、戦争熱が高まっていくのであります

8月25日 明治法律学校が明治大学と改称しました

9月30日 モルガンお雪 米国大富豪・ジョージ・モルガンのもとへ

アメリカの大富豪であるジョージ・デニソン・モルガンが、10万円で加藤雪と言うギオンの芸妓を落籍し話題となりました

詳しく知りたい人はコチラをどうぞ!

ロックフェラーにつぐ資産家が行きさんにヒトメボレし、アタックしまくったのでした

10月19日 東郷平八郎 常備艦隊司令長官に就任

東郷平八郎が海軍の司令長官に就任しました

ここで東郷平八郎について紹介します

東郷平八郎は薩摩で生まれ、薩摩藩士として薩英戦争や戊辰戦争にも参加していました

大政奉還の後に海軍士官としてイギリスへ留学することに

このとき、東郷は鉄道技師になりたくって大久保利通に留学させて下さい!とお願い

すると大久保に「ダメ。お前はおしゃべりだから」と言って断られました

今度は東郷、西郷隆盛にお願いすると「まかせない」と言われ、イギリス留学が決定したのです

で、イギリスの商船学校で学びましたが、ここで東洋人だからということでイジメにあい、おしゃべりだった性格がすっかり無口に

だけど「俺、宮古湾海戦に参加してたんだぜ!」というと、一躍ヒーローに

ここで色んなことを学び、日本に帰ることになったんだけど、帰国途中で西郷隆盛が西南戦争で自害したことを知りました

東郷は「私が日本に残っていたら西郷さんのもとにすぐはせ参じたのに!!」と、めっちゃ悲しみました
ちなみに東郷の実のお兄さんは実際西南戦争で西郷の下について自決してます

帰国後、日清戦争が始まるんだけどこのときは連合艦隊第一遊撃隊司令官として参加

明治32年には佐世保鎮守府の司令長官となり、明治34年には舞鶴鎮守府の初代司令長官に

でもって今回、日露戦争が始まりそうなので海軍首脳の山本権兵衛に呼ばれたのでした

ホントは常備艦隊司令長官の日高壮之丞がいたんだけど、病気になっちゃったので、東郷が呼ばれたんですね〜

ちなみに明治天皇が「なんで東郷にすんの?」と聞いたら、山本権兵衛は「東郷は運がいい男なので」と言ったそうです



東郷平八郎の肉声が聞けます!!
「え?東郷??困ったもんだ」

東郷平八郎が常備艦隊司令長官になるとういのを知った人たちは、「困ったもんだな」状態でした

というのも、前任の日高壮之丞は日本海軍では戦略戦術の神様とあがめられ大人気だったからです

今度の戦いも、部下達はみんな日高のもとで!!と願ってたからです

が、今回新たに来るのは「クビ寸前の任」と言われてる舞鶴鎮守府長官だった東郷平八郎

艦隊参謀の森山慶三郎中佐も「戦争が起きるというのに、そんな奴が来るとは困ったもんだ。どうせ権兵衛さん(海軍大臣の山本権兵衛大将のこと)が、鹿児島の人だからって寄こしたんだろ」と、ぶんむくれ

東郷の着任時の様子

さてさて、新長官である東郷が佐世保駅に到着しました

ロシア海軍の名将であるマカロフの「戦略論」一冊だけを持って、駅を降り立ったのです

さて、このときの様子を森山参謀がこのよーに語ってます

「停車場から海岸まで3町なんだけど、途中はでこぼこ道。そこを新長官がヨボヨボと下を向いて歩いていった。なんだか目ばかりがギョロっとした小さな男で、こんな長官が来ちゃったら困ったなと思いながらついていった」

で、着任後はというと

「着任をすませ、そうこうしているうちに、色々な人が東郷はえらい人だと言い出した。なんだこいつら、どっかで東郷さんにお世話になったんで誉めてるんだろうと思っていた。が、一ヶ月ばかりすると、誰もが東郷さんに頭をさげる。水兵までもが、東郷さんが甲板を散歩してましたよ!!と、感激する。なんだか妙だなぁ?と思うようになってきた」

と、語ってました

10月30日 小村寿太郎外相と駐日ロシア大使ローゼンの第5回会談

日本政府はロシアに対して

「朝鮮と満州の国境沿いに、お互い50キロの中立地帯を設定しませんか?」というアンを出しました

が、やっと答えがきたのは12月11日

しかも満州のことは一切触れてませんでした

11月21日 第一回 早慶対抗野球試合開催


この日、第一回目の早慶戦が慶応大学運動場で行われました

先に挑戦状を出したのは早稲田の捕手・泉谷裕勝
泉谷の朝鮮を受けたのが、慶応の左翼手・高浜徳一

これまで野球をリードしていたのは一高野球部だったんだけど、今年あたりからやたら弱くなってきた
打倒一高!!が目標だった早稲田&慶応は「これからは俺らの時代だぜ!」とばかり張り切った

ちなみに一回目勝敗は11対9で慶応の勝利でした

12月14日 ライト兄弟の飛行実験成功

12月21日 ロシアの満州侵略に対し抗議提出

10月30日にロシアに対して「お互い50キロの中立地帯を作りましょうよ」という案を出し、思いっきりシカトされた日本が、今度は・・・

「ロシアは朝鮮領土の軍事利用を禁止・撤廃するべきだ!でもって、こないだ出した中立地帯を設定するという案をもう一度考えなさい」と、提出

これについての返答は、翌年の1月6日にきたんだけど、またも満州については全く触れてませんでした


街のあちこちに「立ん坊」

日雇いの労働者が仕事にあぶれてしまい、行くあてもなくぼんやり立ち続けるという光景が増えました

彼らは「立ん坊」と呼ばれていました

資本主義が発展したことにより、都市へ人口が集中したため、こうした人たち次第に増えていくことになります

この年の出来事

・東京市長に尾崎行雄が就任する

・シルクのショールが流行

・台湾バナナが初めて売られて大人気に

・お座敷てんぷらが大好評に

・井上あくりがスゥェーデン体操を紹介

・オリーブ色が大流行

・バスの運転が始まりました

・初の「ビアガーデン」ができました