室町時代その13 1571年〜1573年8月まで | |
1571年 | 尼子家復興 |
本願寺挙兵 伊勢長島一向一揆 | |
6月 | 毛利元就死す |
9月 | 信長 比叡山延暦寺を焼き討ち |
10月 | 北条氏康死去 |
1572年9月 | 信長キレた!将軍に異見十七条を送る |
信玄「準備は整った!」 | |
10月 | 信玄 京都へ上洛!信長パニック |
家康「オレ!やったるぞー!」 | |
12月 | 三方ヶ原の戦い |
家康 必死で逃げる! | |
徳川軍団 | |
徳川四天王 酒井忠次 | |
徳川四天王 井伊直政 | |
徳川四天王 本田忠勝 | |
徳川四天王 榊原康政 | |
家康親友 鳥居元忠 | |
石川数正 | |
大久保忠世・忠佐ブラザーズ | |
一番の嫌われ者??本多正信 | |
信玄 朝倉義景を怒る! | |
信長ビクビクの毎日 | |
1573年4月 | 上洛の途中で信玄死す |
信玄の死を聞いた謙信は・・・ | |
信玄亡き後の武田のボス 勝頼 | |
松永久秀 裏切る! | |
7月 | 奥平貞昌 武田を裏切る |
8月 | 室町幕府滅亡 |
室町時代その13 1571年〜1573年8月まで |
1571年 尼子家復興 |
毛利家に敗れた鹿之助らは、「こうなったら織田信長に頼るしかない!」と決断。 信長の支援を受けて2回目の尼子家再興にチャレンジ。 この時は、勢いにのってる信長のバックアップもあり、めでたく尼子家復活!となったのです。 が、1578年に毛利に攻められ尼子勝久は守りきれずに自刃。 鹿之助は捕らえられ、捕虜として送られる途中に殺されてしまいました。 主家再興に生涯をかけた哀しい男の一生でした。 二君にみまえずという気質が、日本人好みの山中鹿之助。 鹿之助の長男・幸元は鴻池村(今の宝塚市)に移り、武士をやめて商人となりました。 このあたりでは濁酒(どぶろく)造りが盛んで、幸元は苦労の末超おいしい濁酒造りに成功。 名前を鴻池新右衛門直文と改めました。 で、濁酒を江戸に送り評判となり、濁酒造りをやめて運送業をやるように。 そして最後は両替商となり大阪で富豪となったのです。 さらに銀行業をはじめました。 これが現在のUFJ銀行となるのです。 ちなみに「新右衛門」の名前は世襲されて幕末まで残ってます。 鹿之助も子孫が栄えてくれてホットしたことでしょう。 |
本願寺挙兵 伊勢長島一向一揆 |
本願寺が兵を起こし、信長と全面対決することに! そこへ浅井・朝倉が姉川の戦いでの恨みを晴らそうと、本願寺へ援軍。 この戦いは一進一退を繰り返します。 信長が浅井・朝倉との戦いで手一杯の頃、顕如が命令して伊勢長島で一向一揆が始まってしまいました。 一揆の大軍は、信長の弟信興の尾張・小木江城に迫り、とうとう信興は自刃してしまったのです。 さすがの信長も参ってしまい、天皇や将軍義昭に頼み込みました。 本願寺・朝倉・浅井との和議を成立させ、以後、全面戦争をやめ個別攻撃しようと考えるようになるのです。 ちなみにその後の1571年5月に、信興の弔いとして信長は長島一揆勢を攻めた。 が、下間豊前(しもずまふぜん)の戦略によって氏家ト全(うじいえぼくぜん)という有能な将を失ってしまい、柴田勝家は負傷。 信長は大敗となり、一向宗に対して憎悪の炎を燃やしまくることとなったのです。 |
1571年6月 毛利元就死す |
数々の大敵をやぶり、今や中国の覇者となっていた毛利元就が75歳で食道ガンのため死亡。 元就の息子・隆元は急死してしまったので、わずか11歳の輝元が後を継いでいました。 後見人であるじーちゃんに、輝元は頭が上がらずにいました。 輝元が19歳の時に、偉大な祖父である元就は死んでしまったのであります。 そしてこの頃、信長と必死に戦っている本願寺から、兵糧が足りない!と援助を要請されたため毛利は本願寺に協力。 毛利の「村上水軍」が織田の水軍を破って物資補給をしまくってたのであります。 ちなみに、村上水軍に対抗するのが織田家の「九鬼水軍」 もちろん、毛利と織田の仲は険悪になっていきます。 |
1571年9月 信長 比叡山延暦寺を焼き討ち |
信長は、浅井・朝倉とバトルしていた時に、延暦寺に対し「味方をすれば延暦寺の領地を返してやる。味方になんないなら中立でいろ。敵に回ったら焼き払う!」と言っていました。(近江(滋賀県)は信長が奪っちゃったから) が、延暦寺は浅井・朝倉についたため、信長は怒り延暦寺を攻めることにしたのです。 ですが延暦寺側はノンキでした。 我らは比叡山延暦寺だぞ?焼き払うなどと罰当たりなことができるわけないだろうと、思っていました。 が、信長はやってきたのです。 まさか本当に延暦寺を攻めたりはしないだろ・・と本気にしてなかった延暦寺は大慌て。 信長は延暦寺をことごとく焼き払い、僧をはじめ逃げまどう老若男女3千人の全てを惨殺しました。 ここに800年の伝統をもつ山門は滅びたのです。 この焼き討ちの煙は奈良からも見えたといいます。 皆、信長の神をも恐れぬ行動に驚きました。 |
1571年10月 北条氏康死去 |
北条早雲から始まった北条氏。 早雲の死後は氏綱が後を継ぎ、三代目氏康の頃は関東一帯を支配していました。 北条氏は1545年に関東官僚の役職を持っていた「山内上杉氏」とバトル。 この時山内上杉氏は、今川を味方につけ8万という大軍でやってくるも氏康が8千人の兵で夜襲をかけ勝利。(川越の戦い)北条氏康の名をとどろかせました。 そして氏康は政治にも優秀で、通貨を統一したり国を豊かにしていきます。 北条家には、早雲の時からの家訓がありました。 「家臣や民を大切に。人の心を掌握し、戦いに勝っても思慮深くあるように」これをその通りにやっていた氏康。 で、1554年には今川・武田と三国同盟を結ぶ。 ここから北条は攻めはなく、守り中心の戦いとなります。 1561年には山名上杉が越後の上杉謙信に関東官僚を譲っちゃったもんだから謙信が関東を支配するために毎年やってくるのを守り、そして昔から仲の悪い房総半島の里見氏ともバトル。 さらに今川義元が死んだ後、三国同盟が破棄されたため武田ともバトルしたり、前にやっつけた山名上杉もこちょこちょと攻撃してくるしと四方八方敵だらけ。 氏康は度重なる攻撃のたびに、小田原城をちょこっとづつ改築。 そのおかげで、難攻不落の巨城として小田原城はすごいことになっていきました。 氏康には息子の氏政がいました。ある朝、氏康・氏政と朝食を食べていると、氏政がご飯に味噌汁をかけました。が、味噌汁が足りなくなり、もう一度ご飯に味噌汁をかけるのをみていた氏康は「飯にかける味噌汁の量も一度でわからないとは・・・」と嘆いたそうです。 で、国を守る戦いを続けながら1571年に56歳で病死してしまったのです。 味噌汁の量がわかんなかった氏政が後を継ぐことになるが、どうなるのでしょうか!? ちなみに、氏康の後を継いだ氏政は、正室に信玄の娘をもらいました。 偉大な父が死に、敵だらけなのが心細くなり、バトルしていた武田家ととりあえず仲直りしておこうと思ったのです。 余談ですが、うちのおとーさんのバーチャン側の先祖は小田原城で働いてたそーです。 今も、その時もらったみかん畑が小田原にあるのだ。 |
1572年9月 信長キレた!将軍に異見十七条を送る |
本願寺・一向宗・浅井朝倉など、信長の周りは超ハード。 そんな中、信玄が上洛というニュースが!これには信長大パニック! 裏でこちょこちょ手紙を書いてる将軍 義昭に対して異見十七条を送りつけた! 信長はこれを送る意味は、一応は将軍である義昭に攻撃することの大義名分を得るためでした。 これだけ信長は色々やってるのに、困らせるようなことばっかしてる義昭を討つのはしょうがないだろ?というアピールみたいなもんです。 |
信玄「準備は整った!」 |
信玄は自分より先に上洛した信長にちょっとムカついてました。 そこへ将軍・義昭より「信長を討て」の命令書。 「信長が将軍を操って勝手な政治を行うので、武田が上洛する」という大義名分を得て、大喜びとなったのです。 さっそく将軍義昭に「了解!上洛します」と返事しました。 将軍義昭は大喜び! 「武田は織田とは違って由緒ある守護大名だ!昔から幕府の信用は厚い!頑張ってー!」とエールを送ったのです。 北条氏康が死んだことにより、氏政と婚姻関係を結び北条とのバトルはない。 怖いのは関東管領の上杉謙信でしたが、こちらは親戚の本願寺顕如にお願いして「越後あたりで一向宗に一揆をやらせてくれ!」とお願い。 本願寺も信長とバトルしてたので「信玄が上洛するなら、一揆起こしますぜ」と、謙信の邪魔をするよう宗徒に命令したのです。 さらにちょっと邪魔だったのが佐竹氏。 信玄は佐竹氏に「武田と佐竹はもともと源氏の八幡太郎義家の弟、義光(金太郎のことだよ)の家柄。わしは佐竹氏を兄弟同然に思っていますぞよ」とお手紙を出しました。 この手紙を貰った佐竹氏は大喜び。 なんといっても現在最大級の権力を誇っている信玄から「佐竹氏を大事に思っていますよ」と言って来たのです。 佐竹氏の家臣達も「まっこと佐竹氏は名門でござる!我々も鼻が高い!」と、信玄と友好を深めることとなったのです。 これで信玄の邪魔をする者はいない。 いるとすれば徳川家康でしたが、信玄は「あんな者、わが武田軍団をもってすれば魚の小骨程度じゃ」と物の数にいれていませんでした。 準備は整った。 信玄は信長を倒すべく、京都へ向かうこととなったのです。 |
1572年10月 信玄 京都へ上洛!信長パニック |
さすがの信長もこの時は、かなり動揺しました。 信長が一番恐れている信玄が、とうとう自分を倒しに上洛してくるのです。 ここでも信長は「オレは信玄とは戦いたくない!」と、信玄に「オレ、信玄殿と戦う気などございません。」とめちゃくちゃへりくだったのです。 でも実際、武田軍はがんがん進軍してきました。 まさにしずかなること林の如く・動かざること山の如くといった感じで、列を乱さず京都へ向かってきたのです。 そしてとうとう徳川領に入ることに。 信長は仕方なく佐久間信盛と平手汎秀(ひらてひろひで)を送りこみました。 ですがこの2人には「あくまでも牽制の意味を込めていくだけだぞ。間違っても信玄に刀を向けるな」と言ったのです。 こうして信玄は家康の領地へ足を踏み入れることとなりました。 |
家康「オレ!やったるぞー!」 |
信玄が徳川領に入ってきて焦ってたのは家康。 この時信玄52歳・家康31歳。 やる気マンマンの信玄にとっては、家康なんてその辺の石ころ程度。 信玄は3万人の軍を率いて、家康のいる浜松城を無視して通り過ぎるつもりでいました。 すると家康「このまま武田軍に何もせずに通らせてしまうということはこの家康、腰抜けと言われ恥をかく!勝負は天運にまかせて合戦するぞ!!」と言い出したのです。 家臣は「無理ですよ!辞めた方がいいですよ!」と止めました。 信長から派遣された佐久間らも「信玄は強いですぞ!?信長殿も手出しはしない方が言いと言ってます!」と家康を抑えました。 が、とうとう家康の迫力に負けてしまったのです。 家康は(素通りさせちゃったら、家臣もオレをバカにするだろうし、信長もオレのことを軽く見るだろう・・・)という腹でした。 また、あの信玄と戦った武将ってコトで、他の武将に尊敬されるかもしれない・・とも考えました。 それに家康は、信長の将来性と実力を高く評価していた。 信長のために、少しでも武田の兵力を弱めようとしたのです。 もう何もいうなぁ!と家康は三方が原へ出陣。 一番ビビってたのは、家康でした。 |
1572年12月 三方ヶ原の戦い |
午後3時ごろ三方が原に武田軍が現れました。 武田軍3万・徳川軍1万の三方ヶ原の戦いの始まりです。 偵察していた武田軍の小山田信茂が「徳川軍の布陣は一線だけですぞ?しかも織田から援軍が来てますがまるでやる気がなさそうです。戦いが始まれば逃げそうな感じですよ」と報告しました。 すると小山田隊の先手にいた足軽が、徳川方の石川数正に石つぶてを投げたのです。 戦いが始まりました! 徳川軍の石川数正が、武田軍小山田信茂の陣へ突撃! 続いて本田忠勝・榊原康政・大久保忠世が後に続きました。 家康も自ら山県昌景(やまがたまさかげ)へ突っ込もうしましたが、酒井忠次がそれを必死でとめました。 次々とやってくる強豪武田軍。 徳川軍は今戦っている軍勢が全て。 家康は歯軋りし、口から泡を吹き、必死で激励しながら戦っていました。 が、家康が恐ろしいほど奮闘しているのに、武田軍はちょこっと乱れただけで、まったくびくともしないのです。 そこへ27歳の信玄の息子勝頼が家康本陣へ突っ込んできたのです。 それにすぐ反応したのは山県隊。 信玄はそこで総攻撃の合図を出し、徳川軍はもはや総崩れ。 殿軍(しんがり)の本田忠勝も奮闘しましたが、織田勢が逃げ出したのです。 織田の援軍は形だけだったので、戦いが始まってからも全く動きませんでした。 ですが、一旦戦闘が始まったら動くべきだったのに、佐久間信盛は戦わずに逃げたのです。 ですが平手汎秀は奮闘しました。 汎秀は、信長の守役で、信長の乱暴を諌めるために自刃した平手政長の息子です。 この時まだ20歳。 討死覚悟で信玄に迫りましたが、届かず、武田軍に討ち取られたのです。 ちなみに信長は汎秀の死を聞くとめちゃくちゃ哀しがり、後に家康や佐久間に「汎秀を生かして返せ!」と困惑させました。 |
家康 必死で逃げる! |
さて、総崩れとなった徳川軍。 家康は慌てて浜松城へ引き返そうとするが、武田の騎馬軍団はそんなに甘くはありませんでした。 逃げる家康の後ろでバッタバタと人が倒れまくる。 浜松城までの七キロを、忠臣らが家康を逃がすために必死になり、家康は後ろも振り向くことができず、ひたすら浜松城へ。 浜松城の留守役である夏目正吉が、家康を迎えに駆けつけた時、家康はまだ追われていました。 合流すると家康はなおも武田軍へ突入しようとしました。 夏目正吉は、「殿!死ぬ気でござるか!」と、無理やり家康の馬のお尻をひっぱたいて家康を城に戻させたのです。 そして夏目正吉は「我こそは家康なり!」といい敵陣に突っ込み討死しました。 なんとか浜松城へ逃げ帰った家康。 すると「城門を開け!かがり火をたけ!」と命令しました。 そして湯漬けをかき込むと、そのまま大いびきをかいて寝てしまったのです。 追撃してきた山県隊と馬場隊は、城門が開いてるのを見て「何か策があるんじゃないか?」と進撃をためらいました。 そこに三方ヶ原から帰ってきた徳川軍がやってきたので、武田軍は逃げていったのです。 ちなみにこの時、家康は恐怖のあまり馬の上でウンチもらしちゃいました。 それほど、恐怖だったんでしょうね(^^;) ちなみに家臣に「この匂いはなんだ?」と騒がれ「腰につけてた焼き味噌をこぼした」と言い訳したそうです。 戦い終わった後、武田の猛将・馬場信房は「三河勢の死体はいずれも仰向けで討ち死にしており、逃げた兵の死体はいない。三河兵はなかなかやりおる」と言ったそうです。 この合戦で死んだ大物は、信長援軍としてむかった「平手汎秀」のみ。 信玄は、長政の首を岐阜の信長の下に送りつけ、家康に援助したことを理由に敵となる!と言ってきました。 家康は、この戦いのことを恥じて絵に描かせ、教訓として飾っていたようです。 そして死ぬまで側に置き、自戒の絵としました。 ちなみに、信長からはよくぞあの信玄に挑んでいったと褒められました。 |
徳川軍団 |
家康が今川家に人質に取られていた時、武士でありながら田植えまでやった三河軍団。 これも「いつか殿(家康)が戻ってくる日のために!」と、辛い思いをして絶えた日々は、三河軍団の結束を高めました。 のちに秀吉さえも羨んだ家康率いる三河軍団を紹介します。 |
徳川四天王 酒井忠次 |
忠次は15歳の時、家康の父に仕えました。 家康とは親族関係にあります。 忠次が22歳の時、家康が今川家に人質に出されると一緒について行き、苦労を分かち合いました。 智勇兼備の武将として徳川家臣団を引っ張っていきました。 そして石川数正とともに徳川の両家老となるのです。 三方ヶ原で家康が大敗して逃げ帰ってくると、忠次は太鼓を打って士気が下がらぬよう鼓舞しました。 徳川四天王の筆頭です。 |
徳川四天王 井伊直政 |
井伊家はもともと今川家に仕えていました。 父が織田家と内通しているという疑いをかけられ、今川義元の嫡子である氏真に殺されてしまい、当時2歳であった直政も殺せと命じられました。 それを父の友人である新野親規によって助けられ、寺から寺へと隠れた生活を強いられるのです。 直政はめちゃくちゃ美少年で、15歳の時鷹狩に出かけていた家康にヒトメボレされ、家康の小姓として仕えるのでした。 家康は直政を気に入り、抜擢していきます。本多忠勝・榊原康政らは13歳年上で、酒井忠次は34歳も年上でした。 それでも直政は家康の信頼を勝ち得ていくのです。 四天王と呼ばれるようになったのは信玄が死んだ後。 本能寺の変の時はまだ小姓だった直政。 が、北条との和議の場に23歳の直政が抜擢され出世コースを歩いていくのです。 |
徳川四天王 本田忠勝 |
幼い頃から家康に仕えており、19歳のときに同い年の榊原康政とともに頑張って出世。 「ただ勝つのみ」という願を込めて付けられた「忠勝」の通り、以後活躍しまります。 武田信玄から「家康に過ぎたるものが2つあり。唐のかしらに本多忠勝」といわれるほどの猛将。 蜻蛉切りという巨大な槍を持ってることでも有名。 蜻蛉切りというのは、トンボが忠勝の槍の上に止まった時に、トンボがまっぷたつに切れたことからこう呼ばれました。 初陣の時、叔父の本多忠真が敵を倒し、首を取れ!と言いました。 すると忠勝「人の手を借りてまで武功は立てたくない!」といい敵陣に突っ込み、首級を上げました。 以後出陣すること50回以上。 一度も手傷を負わず、家康は「わが家の勇将」と褒め称えていました。 |
徳川四天王 榊原康政 |
3歳の時家康にスカウトされ小姓となりました。 同い年の本多忠勝とともに大活躍します。 16歳の時の三河一向一揆が初陣。 この時軍功をあげ、家康の信頼を得ました。 康政の「康」は家康からもらったものです。 姉川の合戦や三方ヶ原も参加。 以後家康とともに数多くの合戦に参加しています。 家康に対する忠義心はものすごく、のちに秀吉に激怒され「あいつの首をとったら褒美をとらす!」と懸賞金をかけられるほど。 また家康は「軍法を聞くなら康政が一番いい」と言うほどでした。 |
家康親友 鳥居元忠 |
家康が人質時代から一緒にいた「親友」 家康への忠誠度はめちゃくちゃ高い人でした。 元忠のことは、のちに詳しく説明しています。 |
石川数正 |
家康が今川家の人質だった頃からお共をしていた古くからの家臣。 織田家との交渉役をして「清州同盟」を成立させたりと行政面で大活躍。 酒井忠次とともに、初期の徳川軍団のリーダーでもありました。 |
大久保忠世・忠佐ブラザーズ |
大久保忠世(兄)と忠佐(弟)の兄弟は、古くから徳川家に仕えている家臣です。 典型的な「三河武士」で、徳川のために忠誠を誓いまくります。 兄の忠世は武功派武士の中ではNO1の優しさを持っていて、1563年に起きた三河の一向一揆の際に、一揆側についた武将らをとりなししまくってあげました。 その中には、後で家康の側近となる本多正信もいます。 大久保家は「武」の家として、ずっと家康を守り続けるのです・・・。 |
一番の嫌われ者??本多正信 |
幼少の頃から家康に仕えており、仲も良く過ごしていました。 が、熱烈な一向宗の信者だった正信は、1563年の一向一揆の時に、一揆側にまわり(しかも大将クラス)家康に刃を向けるのです。 一揆は鎮圧されましたが、徳川家には戻らすに、松永久秀に仕えたり、加賀の国に言ったりしたといわれています。 それから何年かたってから大久保忠世のとりなしで、徳川家に復職しました。 頭が良かったため、以後は家康の側近として政治活動をしまくり。 それが武功派の徳川家臣に嫌われるようになっていくのです。 このへんはまた後ほど |
信玄 朝倉義景を怒る! |
信長は信玄がやって来るつーので、朝倉・浅井に構ってる場合じゃないと、とりあえず手を引きました。 信玄は今がチャンスと朝倉義景に「信長の背後を突ついてくんない?」と手紙を出しました。 が、なにをとち狂ったのか義景は、信長が自分とこの領地から手を引いて対信玄に対する守りを固めはじめた時、自分の軍も引き上げさせてしまった。 これを聞いて信玄大激怒!! 「こんなチャンスの時に退いてどうすんじゃー!?何やっとんじゃ!アホかオマエは!今攻めろー!」とボロクソに罵倒した手紙を送ったんですが、緩い義景はこれを無視したのです・・・。 ほんとなんでだろうね? |
信長ビクビクの毎日 |
武田軍はいとも簡単に家康を破り、反信長勢力は大喜び! 将軍義昭も今か今かと信玄を待ち受けていました。 信玄と信長の決戦は避けられない状態となり、 包囲網の中にいる信長はかなり苦しい状況に。 信長は、将軍義昭を通して和睦願いを出したんだけど信玄はこれを拒否。 さぁいよいよ!!京都へ進軍・・・・・。 と、思いきや、ぱったりと武田軍の勢いが止まってしまったのです。 |
1573年4月 上洛の途中で信玄死す |
武田軍の様子がおかしい・・・。 家康も不審に思いました。 近くにいるはずの武田軍の進軍がぱったりと止まっているのです。 この時、信玄は病気になっていました。 そしてとうとう、上洛中の陣の中で死んでしまったのです。 甲斐の虎 武田信玄52歳でした。 死因は病死説と鉄砲に撃たれた傷が悪化したという説がありますが、どうやらガンだったらしいです。 信玄は死の直前「俺の死は3年は隠せ。わしが死んだとなれば、四方の敵がたちまち攻撃をしかけてくるだろう。国内を固め、国外に出て戦うな」と言いました。 ですが信玄ほどの大物が死んだことを3年も隠し通すことなどまず無理。 すぐに各国にこのニュースは飛び交いました。 コレを聞いた信長は大喜び。 早速毛利元就に報告したそうです。 家康は「まだ50才なのに。惜しいことである」と言ったそうです。 息子勝頼は遺言通り、信玄は病気のため隠居というコトにしました。 そして3年後、もうバレバレだというのに盛大なお葬式が行われたのです。 |
信玄の死を聞いた謙信は・・・ |
「信玄死す」のニュースを聞いた時、謙信は春日山城で食膳に向かっている時でした。 箸を投げ「長年の宿敵であったが、名将であった。惜しい武将をなくした」とホロホロと涙を流しました・・・。 そして自分の城内で3日間音楽を禁止させ死を悼んだのです。 また家臣らが「これを機に武田を攻めよう」と提案。 謙信は「勝頼はまだ若い。そこを突くのは大人げないことである」と戒めました。 |
信玄亡き後の武田のボス 勝頼 |
信玄は家督は勝頼の子、信勝に継がせようとしていました。 信勝が16歳になったら勝頼は後見人になるように言ったのです。 なぜ勝頼を当主にしなかったか?というと・・・。 勝頼は一度信玄が滅ぼした諏訪家を継いでいて、いわば武田二十四武将と同じ「家臣」の立場となっていたのです。 それが当主になってしまったら、家臣達にナメられ指導力を発揮できないと思ったのでしょう。 後見人となった勝頼もそこそこ優れた武将でした。 が、あまりにも信玄が偉大すぎた。 そのため古くからいる家臣は、口うるさく勝頼を注意しました。 なので勝頼、おやじの代の家臣はうるさい!と思うようになっていくのです。 信玄死後は諏訪家の家臣を多く入れたため、信玄時代からの家臣らと対立するようになっていくことに。 特に諏訪家の長坂長閑、跡部勝資らを重宝しまくったため、家臣団の結束は乱れていきました。 |
松永久秀 裏切る! |
信長上洛により、信長に降伏し家臣となっていた松永久秀。 信長は久秀のケタ違いのワルぶりを結構気に入ってたフシもある。 舅であった道三に似てると思ってたのかもしれないです。 信長包囲網が出来上がった時、久秀はそれに加担しました。 信玄がやってくるというのを聞くと、たちまち多聞城で旗揚げして、信玄がやってくるのを待っていたのです。 が、信玄の死によって計画は潰れてしまった。 この時久秀は、信長に城と刀を取られただけで許してもらっています。 |
1573年7月 奥平貞昌 武田を裏切る |
信玄の死はすぐ広まり、家康は今がチャンスと速攻で長篠城を囲みました。 このあたりは「山家三方衆」という菅沼氏という二家・奥平氏の三家がいて、この三家は今川が強い時は今川につき、武田が強くなってくると武田に服従するという弱小家でした。 そして今は武田家に服従していたのです。 長篠城にいた菅沼氏は、家康が攻め込んできたのでただちに武田へ援軍を要請しました。 勝頼は依頼を受け、すぐにでも出兵しようとしましたが、重臣達は「信玄が3年喪に服して外で戦うなって言っただろ!」と大反対。 勝頼は大ブーイングの中、それを押し切り援軍に向かいましたが時すでに遅し。 長篠城は落城した後だったのです。 これを聞いて焦ったのは作手城主の奥平貞昌。 次に作手城へ家康がやってきたら、長篠城と同様に武田家はオレを見殺しにするかもしれない・・・。 そこへ家康「娘の亀姫をあげるし、本土を安堵してあげる」と言ったもんだから、奥田貞昌は武田を見限り、徳川へ寝返ったのです。 それを聞いた勝頼は、ただちに人質として武田方へいた奥平貞昌の妻と弟を磔にしました。 |
1573年 8月 室町幕府滅亡 |
将軍義昭は、とうとう挙兵し信長に反旗を翻した。 信長は一応和議を申し入れたが、義昭は本願寺・朝倉・浅井・武田を味方につけていると信じていたので戦う姿勢を崩さずにいました。 けど肝心の信玄は死んじゃってるし、他の家も義昭の挙兵に援軍を出せる状況じゃなかった。 結局は信長軍を目の前にして無条件降伏。 そして室町幕府は滅びたのであります。 実質的には信長が政権を握り、ここで「室町幕府滅亡」となり、以後は安土桃山時代と呼ばれるようになるんだけど、実はまだ室町幕府は終わっちゃいない。 義昭はその後も一応将軍であり続けたのです。 将軍ってのは天皇によって任命される。 だから本人が辞退するか解任されない限り「将軍」はそのままなのです。 よって京都にいようがいまいが「将軍」と認める人がいれば「幕府」はそのまんまあり続けるのです。 その後義昭は、まず大阪にいる三好義継を頼りに落ちのびました。 途中一揆の襲撃を受けて宝物を全部奪われてしまい、超ミジメな姿になってしまったそうです。 それから今度は毛利氏に「オレ様を京都に戻らせろ!」命令書を出したんだけど、毛利にとってはいい迷惑。 毛利だって正面きって信長と対立したくなかったため、やんわーりと拒否しました。 義昭は再び京都に戻る夢を追い続けました。 その後は転々と各地をさすらって、一応は毛利・上杉・武田に命令書を出しまくってたんだけど、もうすでに誰も聞いちゃいなかった。 で、秀吉が出てきて「俺を養子にしろ!そして将軍職を譲れ!」と言われるんだけど、それだけは絶対イヤじゃー!と拒み続けた。 やがて天下統一目前となった秀吉によって念願の京都に戻ることができ、1588年にやっとこさ将軍を辞職しました。 そして秀吉の庇護のもと1598年まで生きていました・・・・。 よって、一応は(幻の?)室町幕府は1588年まで続いたのです。 |