忍 者


影として生きた忍びの者達

         

伊賀忍者



伊賀の忍者は古代からいたと言われています

最初は甲賀と同一の一族だったという伝承が伊賀の国に残されております

甲賀の者が藤原氏の荘園の「荘官」となった時に、分裂したと言われています

伊賀に忍者が定着するようになったのは聖武天皇(725年頃?)の治世の頃

伊賀のあたりに寺が開設され、ここで修行をさせられたと言われています

寺がたくさん建てられたので、「国司」や「守護」などが入れない地域となり、中世になっても大名の領地にはならない場所でした

ちなみに伊賀は東大寺領で甲賀は比叡山領です

戦国のはじめ頃になると、伊賀の無数の小土豪がお互いに連合するようなり、忍者集団ができるようになりました

伊賀の忍者には「服部」「百地(ももち)」「藤林」の三つの家がありました。この三家が伊賀の上忍です

この三家が伊賀の地を守るために、伊賀の土地の人々から報酬を貰い家を守ってきたのです

が、伊賀の人々たちから貰う報酬では、組織が保てなくなってきました

このため他国の豪族や大名たちの仕事も引き受けるようになってきたのです

が、戦国時代の中ごろになると、組織もどんどん大きくなり財政が困難になってきました

ここで服部家の宗家である服部半三保長(はっとりはんぞうやすなが)が、伊賀の国のことを百地・藤林の二家に任せて、当時の室町幕府十二代将軍足利義晴に仕えることとなったのです

伊賀では、百地家が南伊賀の土豪のボスとなり、藤林家は北伊賀のボスとなっていきました

さてさて、足利家に仕えることになった服部家ですが、だんだんと室町幕府が衰退していくのを見て見切りをつけました。

そして三河の豪族である松平清康に使えることとなったのです

これが徳川家康のおじいさんです

こうして服部家は松平家に使えることとなり、のちに徳川家康に重宝されます

家康は早くから忍者を好んでおり、服部半三と息子の服部半蔵を通して伊賀忍者をお抱えすることとなりました

さらに甲賀をも抱えることとなるのでした








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