武田信玄は数多くの忍びを抱えていました 武田お抱えの忍者を乱波(らっぱ)といったり三ツ者といいます 乱波は僧侶・商人・修験者の姿になり、各国の情報を集めていました 忍術名人と言われた富田郷左衛門によって組織化された忍びは200人以上おり、敵を内応させたり、誤報を流させたりしました 他の国の忍びと異色なのが「くノ一」の多さであります 信玄は信州北佐久の望月城主の未亡人である望月千代女にくノ一を養成するよう命じたのです 千代女は甲賀の出身と言われています 千代女は捨て子や孤児から美少女だけを集め、幼い頃から修行をさせました つまりは「くノ一養成所」を作ったのです ここで少女達は口寄せや呪術など巫女道の修行のほか、徹底的な忍びの訓練を教え込まれました そして200人以上を超す美少女が「歩き巫女」というくノ一になったのです 巫女の姿をした妖艶な美女達が諸国を歩き、男では得ることのできない情報を信玄のもとに集めていたのです さてさて、武田滅亡後の乱波たちはというと・・・・ なんと徳川幕府のある江戸で「盗賊」として大活躍しちゃっていました 中でも向崎(高坂?)甚内という(高坂弾正の子孫という噂あり)ボスを中心とし、江戸を荒らしまくっておりました が、大名よりも大きな組織となってしまったため、最後は磔にされてしまいます
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