服部半蔵の生涯は、父の保長(やすなが)が伊賀の国(今の三重県)を1540年ごろ出たことから始まる この頃、伊賀の国内は族党同士の争いが激しく、保長は嫌気がさし、三河へ そして三河の松平清康に仕えた。家康の祖父であります 保長の五男である半蔵は家康と同い年。こうして服部家は譜代の家臣となるのです 16歳の時に初陣を飾り、以後武功を重ねるが、「忍者」として働いたことはほとんどない 戦功を上げると何度も槍を家康から貰っている 槍を貰うというのは「武士」に対する行為であります その後、家康の嫡男である信康付きになります が、この信康がなんと織田信長から「切腹じゃあ!」という命令が出てしまいます 信康は信長の娘と結婚しましたが、姑である築山殿と性格があわず嫁姑バトルを繰り広げていました そこで嫁のほうが父である信長に愚痴の手紙を書いたのです これに怒った信長はなんと信康に切腹命令を出したのです この頃の信長は怒涛の勢い。さすがの家康も信長には逆らえませんでした こうして信康は切腹 このとき、半蔵が介錯役となりました。が、信康が哀れで涙を流して介錯ができなかった 見かねた他の家臣が信康を介錯したのです さてこの後すぐに本能寺の変という織田信長が明智光秀に殺されるという大事件がおきました 本能寺近くでのんびり観光していた家康はビックリ! 明智光秀に見つかれば殺されてしまうからです このとき、半蔵は伊賀・甲賀ネットワークを駆使し、なんと家康脱出を成功させたのです これが俗に言う「家康の伊賀超え」です この働きに感謝した家康は、伊賀の人たちを召抱え、その組頭に半蔵を任命 これが「伊賀組同心」であります こうして服部家は徳川の譜代家臣として頭角を現していくのでした
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