江戸っ子はどんなファッションを楽しんでいたのでしょうか
とにかく「粋」 |
江戸っ子にとって一番大事なのが「粋」
老若男女全て「粋」を大事にしていました
でも「粋」って何??
って、こんなことを聞くじたいが野暮なんですが(^^;)簡単に言うと・・・・・
垢抜けてること。すっきりとしていてシンプルなんだけど、そこにちょっとしたこだわりがあること
ちなみにわっかりやすーーーいこだわりとかはNG
現代でいうと、ブランドのロゴがどどん!!と書いてあるTシャツなんかは「野暮」
洗練されている感が「粋」なのであります
粋はファッションだけじゃなくて、生活態度でも使われます
例えば、人にこびるような態度は粋じゃない
気性や風情なんかも「粋」を表していたのであります
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着物は擦り切れるまで活用! |
江戸っ子のファッションといえば着物
この時代は全て手作りなので、何度も洗っては仕立て直し、記事が擦り切れるまで使ってました
ちなみにほとんどの庶民が「一張羅」でした
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余計なお世話!慶安のお触書 |
1649年に出された慶安のお触書
江戸っ子の生活にアレコレ指図をした法律のようなものであります
ここにお百姓さんについての洋服の規制が
お百姓が着る着物の素材は木綿にしなさいというもの。余計なお世話ですねぇ
さらに裏生地も使っちゃダメとか・・・
慶安のお触書は江戸っ子に「贅沢をしちゃだめ」というもので、洋服以外にも食べるものとかのこともうるさーく書いていました
ということで、江戸っ子は隠れてオシャレするということを勉強するのであります
それがのちに「粋」に繋がっていくんですねぇ
つまりは目立たないトコでオシャレするというコトでございます♪
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長屋では井戸端会議 |
井戸端会議という言葉がありますが、この言葉は長屋に住んでいるおっかさんたちが井戸端に集まって話すのから作られた言葉
みーんな井戸端でおしゃべりしながらお洗濯していたのです
ちなみにお洗濯はおっかさんの大事なお仕事
炊事や裁縫と並んでとっても大事な仕事でした
きちんと洗わないと着物のモチが悪くなってしまいますからね
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ダサイ男のファッション 浅葱裏 |
浅葱色というのは、緑がかった薄い藍色
浅葱裏というのは、木綿を裏地に用いた着物で丈夫で実用的!
そのため江戸っ子に流行しましたが、その浅葱裏を最後の最後まで愛用していたのが勤番の下級武士
つまり、諸藩に仕えていた田舎侍たち
そのため浅葱裏といえば、ダサい田舎侍が着る洋服となってしまったのです
新撰組なんかも浅葱色のを着ていましたねぇ。そのためダサいと言われていました
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ファッションリーダーは花魁と役者 |
江戸っ子は流行に敏感でした
人よりも早く何かをするのがダーイスキだったのです
そんな江戸っ子のファッションリーダーは花魁と歌舞伎役者の女形
花魁は遊女界のスーパースターで、江戸の男性の憧れの的
そして歌舞伎役者の女形も大人気で、帯の結び方や舞台で着用した着物の色なんかをみーんなマネしてたのでした
でもでも、江戸娘たちは花魁になかなか会うことはできないし(吉原だからね)それに一流の花魁のスタイルは真似したくてもお金がかかりすぎて無理
ということで、ちょっと身近な「深川芸者」のスタイルも人気になりました
深川芸者たちは当時男性しか着なかった羽織なんかを着て、男勝りで勝気でした
そのきっぷのよさも人気の秘訣だったのです
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寒くても我慢!それが粋 |
江戸っ子は「粋」が命!
いっくら寒くてもほっそりとした身のこなしが「粋」とされていました
伊達の薄着と言われるほど、寒くてもモタモタしたファッションはNG
スッキリ爽やかに着こなすのが江戸っ子のお洒落さんだったのです
ちなみに幕府が「贅沢するなぁ!」という禁止令をたびたび出しましたが、そんな時でも江戸っ子は裏地にハデな模様などをあしらったりしていました
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通の必須アイテム キセル |
タバコを吸うのに使うキセルは、遊び人の江戸っ子の必須アイテムでした
人気だったのは、憧れの遊女からもらったかんざしを潰して作った特製キセル
「○○屋の遊女からもらったヤツだぜぇ」と自慢していたらしい
ちなみに江戸初期、歌舞伎者に人気だったのは超ロングキセル
ケンカのときも武器になったらしい(笑)
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イケてる超ロング羽織!? |
現代でもスカートの長さに流行がありますよね〜
男の子の学生服なんかも、一昔前のヤンキーは長い学ランを着てたり・・・
ってことで、お江戸にも「羽織」の長さに流行がありました
地面に着くくらいのだらんとした羽織が流行ったかと思えば、こうもり羽織という腰くらいしかないショート丈が流行したり
どうやら長いのと短いのが繰り返し流行したようです
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色町で人気の遊び人ファッション |
遊女に人気だったのも粋な人
いっくら顔が良くても野暮は嫌われてました
遊女に人気だったのは、全身黒でまとめていて、チョンマゲは少し崩れたナチュラルスタイル
で、歩き方も重要だった
どうやらちょっと猫背気味に腰から上をぐにゃぐにゃさせて歩くのが粋だったらしい
また、素足に数奇屋仕立ての草履というナマ足が人気
こういった通人の吉原での目的は「女郎を引いて遊ぶこと
つまり、遊女にお金を出させるて遊ぶのが究極の遊び人だったのであります
こうして粋な通人は、黒づくめで少し崩したファッションで、吉原へ行ったのであります
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男のパンツ ふんどし |
ふんどしは男性のパンツのことであります
セレブな男性は絹製や柄入りのふんどしをしてました
絞り模様のはいったふんどしなんかは大人気だったようです
ちなみに武士は白いふんどしを使ってました(ちなみに意外と高級だった)
ふんどしと言えば有名なのが「越中ふんどし」
ふんどしに紐をつけて腰に巻きやすくしたものであります
この越中ふんどし、実は遊女の名前からきております
越中という遊女が、別れる客へのおせんべつに自分の着物の片袖を切って渡したのですが、その客はそれをふんどしにして持ち帰ったとの事
大好きな遊女「越中」からもらった着物をふんどしにするというのは、どのような思いがあったのかナゾ・・・
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男性の髪型 |
もちろんチョンマゲ(といっても、チョンマゲという言葉は明治時代に作られた)
おなじみの髪型は戦国時代から定着しましたが、かぶとなんかを被るとムレるので、風通しを良くするために剃ったのが「月代(さかやき)」
本来は武士のスタイルなんだけど、平和な世になってくると、町人たちも武士の真似をして月代を剃るようになりました
月代にもイロイロ種類があって、一見同じに見えるけど実はちょっとづつ違うのであります
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カリスマ美容師 |
上で紹介したチョンマゲですが、江戸時代の美容師は「髪結」と言いました
で、この髪結いにもカリスマ髪結いがいて、その名は「諏訪町のおやじ」というそうです
浅草の諏訪町にこのカリスマ髪結いの店があったらしく、あの洒落人で有名な山東京伝も通っていたと言われています
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女性の髪形 |
日本髪と言われる髪形
女髷(おんなまげ)は色んな種類があり、島田髷だけで数十種類あります
江戸時代に詳しい方は聞いたコトあるであろう「勝山髷」
これは勝山という遊女がしていた髪型
島田髷も元は遊女がしていた髪型です
島田髷は武家の娘の基本となり、今でも文金高島田の花嫁姿で有名です
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アクセサリーは櫛と簪 |
櫛(くし)と簪(かんざし)は江戸娘にとっては大事なアクセサリーであります
簪は珊瑚や水晶・メノウに翡翠が使われていました
櫛もつげや鼈甲・漆塗りと色んなタイプがありまいsた
ちなみに頭がかゆくなった時は、簪でカキカキしてました
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ちびっ子の髪型 |
ついでにちびっ子の髪型
生まれたばかりの赤ちゃんの髪の毛は不浄とされていたので、生後7日目に男も女も丸刈りに
丸刈りは3歳まで続きます
で、3歳になると七五三があって、髪の毛を伸ばすのがOKだったんですねぇ
ちなみに昔は非衛生なので、シラミとか皮膚病にならないためという意味もあったのかも
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下駄と雪駄 |
江戸の靴といえば下駄と雪駄(せった)
下駄は厚底で、野良犬の糞が多い江戸では諜報されていた
通人(粋な人)が好んだのはカジュアルな下駄で、歯のない下駄を横に切断して、革でつないで歩きやすくしたというもの
ちなみにさらに通人だと、裸足
一時期ナマ足ブームになった時、みんな裸足だったらしい
冷え性にはきついですな
お次は雪駄
千利休が雪の日に水が足にしみるのを嫌がって、二枚重ねの草履を履いたのが始まりらしい
防水性を高める為に、底の部分に牛革をつけたりしていた
ちなみにセレブな江戸っ子は、雪駄の鼻緒を高級レザーにしたり、かかとを金細工にしたりしたらしい
江戸っ子のおしゃれさんも足元にはこだわっていたんですね〜
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ビバ!サムライ! |
ファッションうんちくではないですが、幕末(1860年)に、江戸幕府がニューヨークに派遣したサムライ(小栗忠順ら80名)がアメリカに行った時のオコトバ
あ、彼らはサムライファッションでブロードウェイを馬車で行進したんであります
西の海を越え
はるかなる日本からアメリカに渡ってきた
顔は日焼けし
刀を日本さした礼儀正しき使節よ
幌もない馬車上に身をゆだね
帽子も被らずに堂々と
この日マンハッタンの街をゆく
アメリカの詩人ホイットマンが書いた「ブロードウェイの華麗な行列」にある詩であります
あ、ちなみにアメリカ側は幕府が派遣した日本使節談が、ヨーロッパより先にアメリカにやってきたことが、かなりプライドを満足させたようです
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