十三代目 家定 いえさだ
1853年11月23日 〜 1858年 7月 6日 |
ポイント |
徳川の不幸はこの家定が将軍に着くことによって始まった!?
家定は知的障害者
お料理が大好きで、特にカステラ造りはお手の物♪マメを煮るのも得意でした
30過ぎても庭のガチョウを追い回して遊んだり、刀を持って近習を追い回したり・・・
また幼い頃疱瘡を患ったため顔は醜く、祖父である家斉譲りの癇癪もちも手伝って「癇癪公方」というニックネームがつく始末・・・
そんな将軍だったので、色んな外様大名が徳川に対して口を出すように
大名以外にも、一般ピーポーまでもが徳川を批判するようになってくるのであります
|
女性関係 |
一人目・二人目の正室は京都から迎えたけど、二人とも死んじゃった
一応おしがというお気に入りの女性がいたけど、子供が生まれなかった
どうやら肉体的欠点があったらしい
時代はペリー到来の大変な時
ってことで、家定を操るよう命令されてやってきた薩摩の娘・敬子が正室になり大奥に君臨することになります
この敬子って女性は、名前を変えたり身分を変えたりしてアレコレ画策されてやってきた島津家のお姫様
ある意味、この人も激動の人生を送るハメになってしまいます
|
その他 |
ペリーがやってきて開港を迫るというまさに激動の幕末のど真ん中にいた家定
みんな「あの将軍じゃこの大変な時期を乗り越えられない」と思ってました
そんな家定は35歳で死去
タイミングがよすぎるため毒殺説もあります
|