武将その後             


華々しい活躍をした戦国武将たち
活躍した時は知ってても、その後はどうなったの?

※そもそも、この人知らない〜って人は
ハガクレ★カフェの歴史人物辞典もチェック!


※あいうえお順になってます
現在23名のその後を紹介!


朝倉義景

越前を小京都と言われるほど文化的な町にした義景

が、生まれてくる時代を間違えた

時代は群雄割拠の時代。義景は戦国武将としての「武」の部分がイマイチ欠けていた

義景をボロボロにしたのは「姉川の合戦」

この時、盟友である浅井長政は果敢に戦うも、義景の方はイマイチぱっとしなかった

そしてとうとう浅井長政が織田信長に殺されてしまった

が、義景はここでも慌てるだけ

こんな当主じゃヤバイと思った家臣たちは次々と離反していく

織田信長の攻撃は続き、とうとう一乗谷城まで攻め込んできた

義景はすぐさま逃げていき、寺にたてこもる

が!ここで信頼していた家臣の朝倉景鏡の裏切りにあってしまうのであります

義鏡らは、義景を囲んで切腹を強制

もはやここまでと観念した義景は、「憎いのは義鏡じゃ。わしはここで死ぬが、お前の命を必ず三年以内で終わりにしてやる!」と呪いの言葉を吐き、切腹したのでありました

義景41歳でした

生まれる時代が戦国でなければ、ある意味文化・教養に優れたいいお殿様になったかもしれませんネ









足利義昭

武将ではありませんが、ちと気になるこのお方

そうです!室町幕府最後の将軍となり、織田信長に京都から追放されたお気の毒将軍であります

信長に追放された義昭はその後、毛利家に転がり込んでました

毛利家に「信長やっつけてよ!」とお願いするも、無視され続けました

そして信長が死に、秀吉が天下人に

この時、征夷大将軍になりたかった秀吉でしたが、出自が農民だったためなんとか箔をつけたかったらしく、義昭に「わしのこと、アンタの養子にしてよ」とお願い

が、義昭の最後のプライドが許さなかったのかこれを断りました

その後、毛利家からも邪魔者扱いされまくる

が、一応「元・お偉いさん」だったため、秀吉が一万石をプレゼント

細々と暮らし、大阪にて61才で死去しました






荒木村重

村重は織田信長の家臣でしたが、信長を裏切り有岡城に立て籠もった人であります

信長は村重の裏切りをめちゃくちゃ怒り、総攻撃をしました

が、村重はさっさと城を逃げ出してしまったのです

主に逃げられた有岡城は超悲惨。妻子たちは皆殺しで、城内にいたありとあらゆる人が惨殺されました

村重は家族や家臣を見捨てて、一人逃げてしまったのであります

その後の村重は息子のいる尼崎城に行き、そして息子も危ない目にあうかも・・・ってことで華熊城へ

が、ここも織田軍に攻撃され、村重またも逃亡!

そして信長の敵である毛利家へ逃げ込んだのであります

ここで村重は剃髪し、密かに隠れておりました

が、織田信長が死ぬと、何かが吹っ切れたのか茶の湯に没頭

千利休の門に入り、利休七哲にまでなるほど

そしてかつての同僚・秀吉が天下を統一すると、秀吉に仕えることとなります

といっても、「武将」として仕えるのではなく「茶人」としてであります

こうして村重は茶人としては大成功をおさめ、気楽な日々を送ることとなったのでした






池田輝政

コレ!というたいした活躍もないけど、優遇されまくったのがこの人

お父さんの池田恒興(つねおき)は武勇すぐれた男でしたが、小牧・長久手の戦いで戦死

秀吉はかわいそうに・・・と、息子の輝政を大事にした

そして秀吉は輝政の奥さんに、家康の娘を選ぶ

これがラッキーの始まりとなる

関ヶ原では全然活躍してないのに、家康の娘のオムコさんなので姫路52万石をゲット

その後、ガンガンと加増し姫路宰相100万石と呼ばれるほどになる

で、輝政は姫路城の大改築を行い、姫路城は世界遺産にまでなったのであります





石川数正

徳川家康の譜代の家臣でありながら、家康を裏切り豊臣秀吉に寝返ったことで有名な数正

このまま家康に仕えていれば、「徳川四天王」の一人には間違いなくなったであろう人ですが、さてこの人、秀吉に寝返った後、豊臣家ではどんな立場に置かれたのでしょう??

数正は家康の政治的な分野え活躍していたため、もちろん豊臣家内でもそのような仕事をさせてもらえると思っていました

秀吉は数正に八万石を与え、数正の前途は開けたかのように思えました

が!!!実際、秀吉は数正に重要な仕事を一切やらせなかったのであります

さらに周囲からは「徳川の譜代でありながら、寝返った男」として白い目で見続けられました

こうして数正は失意のどん底に落ちていくのであります

以後、なーんにも大事なことはやらせてもらえないまま、数正は死んで行きました

余談ですが、あのまま徳川に仕えていれば、絶対に重要なポジションに石川家はいたことでしょう

運命ってのはわからないもんですね




宇喜田秀家

関が原の合戦ですさまじい戦いぶりをみせた秀吉子飼いの将

豊臣のためと西軍に入るも、味方の裏切りによって敗北
秀家は処刑は免れたものの、八丈島へ島流しになってしまった

島での生活は、今までの大名暮らしとは雲泥の差だった

家は苔が生え、戸からは風や雨が入るというすさまじい生活

そこで50年以上、生き続けたのでした・・・




織田長益

織田信長の一番下の弟であります

戦いがだーーい嫌いで、本能寺の変の時もお兄ちゃん・信長のとこにいましたが、さっさかと一人で逃げてきてしまうというスゴイ人

その後、秀吉がエバってくると、刃向かうどころかさっさと剃髪し、秀吉の御伽衆になっちゃった

大阪の陣では途中で帰ってきてしまい、隠居

以後はダイスキな茶の湯三昧の日々を送る

武将としてはダメダメだけど、文化人としては一流だったらしく有楽派を開いたりした

ちなみに東京の有楽町は、有楽斎の江戸屋敷があったから有楽町となった




加藤清正

福島正則とともに憎き三成を倒すべく、関ヶ原では東軍についた清正

関ヶ原で家康が勝利してから、清正はしだいにビミョーな立場になっていく

それでも心は「豊臣家」だった

清正の最後の仕事は、秀頼と家康を二条城で会見させたこと

無事会見が終わり、秀頼が帰っていく姿をみて涙を流した

その後、熊本へ帰るがすぐに死んでしまった

噂では「家康が毒入り饅頭を贈った」と言われているけど、そーいった噂がでるほどに急な死であったのでしょう

そして家康にとっては、邪魔者が消えてくれて嬉しかったことでしょう






小早川秀秋

関ヶ原の合戦で、世紀の裏切り(?)をしたことで有名な小早川秀秋

そんな秀秋はその後どうしたのか?というと、なんと!ノイローゼで死んでしまったのであります

関ヶ原での褒美として51万石をもらったのですが、「大谷の幽霊が見える!」と言い出し、家臣を殺してしまったりと奇行が続きました

老臣の稲葉正成なんかもあきれて出て行ってしまい、もはや秀秋はひとりぼっちに

周囲からの「裏切り者め」という中傷に絶えられなくなったのか、21歳で病死

しかも子供もいなかったため、小早川家は断絶となってしまったのであります

お気の毒すぎる・・・






佐久間信盛

信盛は織田信長が小さい頃から仕えていた武将

が、本願寺攻めのときに全然活躍しなかったといって信長にリストラされてしまう

小さな頃からずーっといてくれた家臣を「能無しは必要ない」と言って切り捨ててしまう信長もある意味すごい

ということで、佐久間信盛とその息子は高野山に追放となる

しかも丸裸で放りだされたのであります

その後すぐに、信盛は病死してしまうのでありました




佐々成政

気の毒な武将であります

成政は織田信長に仕えており、柴田勝家をリーダーとする東北チームのメンバーでした

が、一緒に東北チームにいた前田利家と仲が悪かった
で、利家と仲がいい秀吉のことももちろん嫌いだった

そんな秀吉が天下を取ってしまった

成政は従うしかなく、秀吉の下につくこととなり肥後を与えられる

成政は肥後へ入国し、検地を実行。が、領民たちがそれに従わなかった
怒った成政はリーダーたちを攻撃。

これに怒った農民たちが一揆を起こしたのであります

この一揆は手がつけられないくらい膨れ上がり、小早川隆景によってやっと鎮圧された

秀吉は「一揆が起きたのは成政が悪い政治をしてたからじゃ!」と激怒し、切腹を命じたのであります





島津義弘

関ヶ原の合戦で中央突破というすごいことをしちゃった義弘

その後、多くの犠牲を出しつつもなんとか無事に藩にたどりつきました

お兄ちゃんにはめちゃくちゃ怒られましたが、この脱出劇は島津の背進と称され、東軍からもあっぱれとの声があがることになりました

そんな義弘ですが、おじいちゃんになってボケてきちゃいました

それでも家臣が「えいえいおー!」と声をあげるとガバっと起きてご飯を食べたそうです

85歳の大往生でした





高山右近

戦国のキリシタン大名の代表格といえばこの人

両親ともに熱心なキリシタンだったため、もちろん右近も早くから洗礼を受け、ドン・ジュストと称しておりました

右近は秀吉に仕え、六万石をもらいました

が、秀吉はキリスト教が嫌いで「バテレン追放令(キリスト教追放令)」を出したのです

ですが右近の信仰は本物で、信仰を捨てるくらいなら・・・と、六万石を秀吉に返したのです

そして同じくキリシタンの小西行長のもとへ行き、天草でかくまわれた後、前田利家の客将として一万五千石で迎えられました

右近は利休七哲の一人になるほど、茶の湯に精通していたので前田家ではかなり大事にされました

ですが秀吉の後に天下人となった徳川家康は、さらにキリシタンを嫌いました

そして右近のような者がいると、いつどこで一揆が起きるかわからない・・・・ということで、危険人物とされ国外追放処分となったのです

この時、右近は63歳でした

マニラに追放処分された右近は妻や家臣など100人以上を連れてマニラへ向かいました

マニラでは右近が来ることを大歓迎し、スペイン人のルソン総督や市民たちは歓迎のパレードまで行いました

が、長い船旅がたたったのか、マニラ到着後一ヶ月で右近は死んでしまったのでした






武田信虎

武田信虎は、武田信玄のお父さんであります

あまりにも悪い政治ばっかしてたため、息子に信玄にクーデターを起こされ追い出されてしまったというお人

さて信虎は、その後どうしていたのでしょう!?

自分の国に戻れなくなった信虎は、仕方ないので娘のお婿さん・今川義元のもとへ

義元は一応お義父のために、屋敷をあたえてものすごく優遇した

さらに信玄も「父親を追放」というのはちょっと切なかったらしく、とっても多くの隠居料を出した

ということで、かなり悠々自適な生活を送っており、側室も数人ゲットし、子供まで生ませました

がっ!!!なんと義元が桶狭間で信長に殺されてしまったため今川家はボロボロに

「こりゃ困った」と感じた信虎は、なんと信玄に今川家の情報を流しまくった。ちなみに信玄は無視し続けた

この信虎のスパイ行動に気がついた今川家は、信虎を追放しちゃいました

その後、信虎は将軍のとこに行き足利義輝の家臣になるも、将軍が殺されそうになるとスタコラ去った

こうして信虎は行脚の旅に出ることに

信玄が上洛中倒れた時、信虎は近くにいたため32年ぶりに息子の顔を見ることに

そして孫の勝頼にも初めて会うことができた

そして翌年81歳で死去

死後は甲斐の国で葬られました

死んでからやっと自分の国に帰ってくることができたのでありました







滝川一益

織田信長の家臣として活躍してきた一益

が、本能寺の変により一益の運命は変わっていく

柴田勝家と秀吉が織田家の後継者争いを始めると、一益は柴田勝家側についた

そして京都へ向かおうとするが、北条家に邪魔され惨敗してしまう

その後も関東にいた一益は勝負どころを誤り、とうとう秀吉に降伏しました

以後、一益には織田信長に仕えていた頃の精鋭さは消えてしまう

とうとう剃髪し、蟄居生活に入ってしまい、62歳で静かに死んでいった





直江兼続

上杉景勝の側近として活躍してきた兼続

が、関ヶ原で上杉家は西軍だったため120万石から米沢30万石に減らされてしまいました

兼続は「負けたのは俺のせい」と、自分を責めました

ですが死んでお詫びするのではなく、生きてお詫びすることにしたのです

こうして兼続の倹約生活がスタート

30万石の領内を節約!節約!と、経済政策を出しまくり、努力し続けました

こうしてなんとか米沢30万石は、実質50万石くらいの儲けを出せる国となったのです

ちなみに兼続は、関ヶ原の合戦の話は死ぬまで一度もしなかったそうです

よっぽど悔しかったんでしょうね






蜂須賀正勝

個人的には「正勝」という呼び方より「小六」の方がスキなので、小六で行かせて頂きます♪

小六は初期のころの秀吉の右腕としてずっと活躍してきた人

墨俣一夜城でも有名な人ですねぇ

が、61歳になって病気がちになってきました

小六は秀吉から阿波一国をもらっていたんだけど、「ワシは晩年は大阪城にとどまって秀吉の近くにいたい。阿波は息子の家政に与えてくれ」とお願いした

秀吉も小六の願いを聞き届け、阿波を息子の家政に与えた

こうして小六は秀吉のいる大阪で死んでいったのであります






福島正則

大嫌いな石田三成を関ヶ原の合戦で倒すことができて大満足の正則

関ヶ原の戦功により安芸50万石をゲットするんだけど、天下をゲットした家康にとって豊臣恩顧の正則は邪魔な存在となっていく

正則の領地である広島城の石垣が、洪水で壊れたため修理したいと幕府に願いでるも、幕府はそれを無視

いつまでたっても治せないので、許可もらってないけど治そう・・と、修理をしたら、なんと幕府が「許可なしで修理した!!」と言い出してきた

これにより、領地没収となり川中島4万5千石に減封されてしまったのであります
まぁつまりは上手い具合に騙されたのです

正則は「家康殿に会うことが出来たら文句を言えるのだが・・・」と悔しがり、川中島に移ってから5年後死んでしまいました




細川幽斎

同じ時期に信長の家臣となった親友の明智光秀とは大違いの人生を歩いたラッキーボーイ(?)

光秀は本能寺の変を起こして殺されてしまいまいたが、幽斎はさっさかと親友を見限り剃髪

その後は持ち前のインテリ才能を開花させ、天皇家とも仲良しに

おかげで秀吉や家康からも「天皇と仲良しだからな〜」と優遇される

関ヶ原の合戦の時、幽斎のいた城は攻められるが、天皇家が「幽斎は助けてあげてー」と、お願い

こうして無事生還し、その後は悠々自適の隠居生活を送る





本多忠勝

徳川四天王の一人として、常に家康を支えてきた猛将

関ヶ原の合戦後は、桑名15万石の大名となりました

が、忠勝も年をとり、息子に後を譲り隠居生活にはいる

江戸時代になってしまうと、忠勝のような武に優れた武将はだんだんといらなくなってきてしまう

実際、家康の近くにいる側近は「武」ではなく「知」で優れている者たちで固められてきました

それがとても寂しかったことでありましょう





村上義清

あの武田信玄を二度もボロ負けさせた男

それが村上義清であります

めちゃくちゃ強かったんですが、謀略には弱く、武田方の真田幸隆の策略にはまり村上家はボロボロに

仕方なく越後の上杉謙信に助けを求めるのであります

以後は信玄に奪われた自分の領地を取り戻すために、上杉謙信軍の最前線でいつも戦いましたが、年齢には勝てずとうとう死んでしまいました

最後まで自分の領地に戻ることを願いつつの死でありました







毛利輝元

関ヶ原では西軍の「総大将」となったお人

が、西軍は敗北し、総大将である輝元は吉川広家の働きにより処刑は免れたが、所領がガクンと減った

ちなみに与えられたのは周防と長門の二カ国
この二つはすっごい不便だったため、家康は与えたそうです

こうして毛利家は何とか生き延びることができ、輝元は息子にあとを譲りさっさかと隠居生活に

そして72歳まで生きた

毛利元就の孫で、あれだけおじいちゃんやオジサンたち(小早川隆景や吉川元春)が頑張ったのに、最後は小さい大名になってしまったのでした





山中鹿之助

尼子家再興に賭けた忠義の男として有名な人であります

で、「願わくば我に七難八苦を与えたまえ」と言った言葉通りの人生を送った人

山中鹿之助は滅亡した尼子家再興のために流浪生活を続け、主君の生き残りを探し続けた

そして探し出したのが京都のお寺で僧になっていた尼子勝久でした
こうして鹿之助は尼子家のために、勝久を当主とし月山富田城を奪い返そうとしました

戦いは3年間続きましたが、とうとう城を取り戻すことができなかった

毛利元就の次男・吉川元春に捕らえられ「もう尼子家再興は無理だ。所領をやるから家来になれ。な?」と言われても断り続け、とうとう脱出に成功

その後、明智光秀をたより織田信長を味方につけ、とうとう月山富田城をゲットしたのであります

尼子家再興に喜んだ鹿之助でしたが、それもつかの間

すぐさま毛利が3万もの大軍で攻めてきました

さすがに3万もの大軍を相手に勝てるわけもなく、あえなく落城

勝久は切腹となり、鹿之助は捕らえられ護送されることとなったのです

護送途中、鹿之助は護送役の河村新左衛門に斬られてしまうのでありました

34歳でした