信長・秀吉・家康 |
戦国時代を語るに欠かせないのがこの3人 織田信長・豊臣秀吉・徳川家康でございます が!!!中には、「名前は知ってるけど、実際何をしたんかわかんなぁ〜い」という人が数多くいると思います ここでは、戦国時代の三大名将・信長・秀吉・家康を時代を追って紹介していきます! 三人が生まれたのは 1534年 織田信長 1537年 豊臣秀吉 1542年 徳川家康 まずトップバッターは信長 信長が生まれた頃はすでに「戦国時代」は始まっておりました 強いものが勝つ!という時代の到来です 信長のお父さんである信秀は、小国ながらも頑張っておりました 周りにはドでかい家である「今川家」があり、まさにビクビクの時代をすごしていたのです そんな中、織田家の嫡男(ちゃくなん・あとつぎのこと)として生まれた信長 が、この信長、小さい頃からすっごいうつけ(バカ)だった 信長の担当・平手政長のいうコトも全然聞かず、跡継ぎだというのにヤンキーファッションで街を練り歩き、とてもじゃないけど「次の織田家の跡取り」としては、ダメダメだったのです そんなやんちゃ時代をすごしていた信長のもとに、とあるチビっ子がやってきました 徳川家康です 家康の家はこの頃「松平」という名前で、今川家の家来のよーな小さい家でした で、家康は「松平家は今川家に従いますよー。その証拠に松平家の嫡男竹千代(家康)を今川家の人質として差し出しますよ〜」と、人質として送られることに が!信長のおとーさんが今川とバトルしてたので、この人質である家康を途中で奪っちゃったんです ということで、ヤンキー少年の前に突然現れた家康坊ちゃん 二人はこの頃から知り合いとなったんですねー そんな家康もとうとう今川家へ人質として送られることになりますが、ここで信長と家康との間にどのようなことがあったのでしょうねー 話は信長に戻りますが、ヤンキー信長は相変わらずやんちゃだった お父さんが死んだ時も、葬式にうつけファッションで登場し、家臣一同をボーゼンとさせた 重臣の柴田勝家らは「あんなバカに織田を任しておられーん!」と、信長の弟を跡継ぎにしようとクーデターを起こすも、このとき信長が素晴らしい采配をしたため失敗 勝家らは許されますが、以後、信長のことを見直すこととなります が!!!相変わらずうつけは健在 そんな中、とうとうドでかい国・今川家の当主・今川義元が「京都へ上洛する!」と宣言しました 京都に上洛するってことは、いわば「京都へ行って将軍を守り、んでもって、将軍の変わりに天下とったるぜ!」という、戦国大名なら誰もが思っていたこと それをライバル今川が行うというのです しかも!!上洛途中にあるのは信長のいる織田家 今川家は織田家をやっつけて、京都に行くこととなったのです 驚いた織田家はオロオロ・・・。が、当の本人信長はだんまり 家臣たちは「織田はもはやこれまでじゃ」と諦めました 今川家がやってくるという前日、信長はいきなり「もうみんな寝ろや!」と、さっさか寝てしまいました 家臣は「あぁぁ。ホントに織田は終わりじゃぁぁぁ」とボーゼン が!!夜中にいきなりガバっと起きた信長 いきなり敦盛(人間五十年〜♪よっ!ほっ!)を踊ったかと思うと、具足を持て!!と、突然馬に乗って走っていったのです 家臣は「な・・・何事??」とこれまたオロオロ 慌てて信長の後をついていきました 信長は雨の中進んで行きました そこへ家来の一人が「今川義元、桶狭間にて休憩中!」と伝えてきたのです 信長は「よし!」とばかりに桶狭間へ そして「敵は義元一人!!!」と叫ぶと、休憩中の今川の陣へ突っ込んでいったのです 休憩中の今川軍はビックリ みんな大慌て 桶狭間は修羅場となりました そこへ「今川義元討ち取ったり!!」という叫び声が聞こえました この瞬間、戦国風雲児・織田信長が誕生したのであります!!! 以後、信長は「あの今川を破った男」として、戦国に名をとどろかせることとなるのです そんな信長のもとに「家来にさせてください」とやってきた猿のような顔の男がいました 名前は木下藤吉郎 のちの豊臣秀吉です(ここでは、秀吉で統一しちゃいます) 秀吉は信長の草履係りとして働き出しました 秀吉は、信長を待っている間、わざわざ草履を自分の懐に入れて暖めたりと、気がめちゃくちゃ利きました 信長はそんな秀吉を気に入り「猿!猿!」といっつも呼び出すように そして秀吉は出世してきたのです おもしろくないのは他の家臣たち 「農民出身」の猿顔の男が、信長に気に入られ出世していくのに腹立ててました でも秀吉はゴマをすりすり。こうして秀吉は頭の良さと気の利かせっぷりで、織田家臣の中でも五本の指に入るくらい出世してきたのであります さて、徳川家康はというと、信長が今川義元を討ち取った時「待ってました!」とばかりに独立したのです 実は家康は今川義元が京都へ上洛する時、織田軍と戦っていました が、義元が殺されたと知ると、さっさと自分の国へ戻ってしまい、そしてさっさと独立したのであります ということで、家康は信長に感謝しており、また信長の性格にほれ込んでいた部分もあったのか、すぐさま徳川と織田は同盟を結ぶのであります こうして織田は次々と天下統一への道を突き進んで行きます そしてそこには必ずぴったりと徳川がくっついて、織田の手助けをしてたのであります が・・・・・ 信長はめちゃくちゃ恐ろしい男だった 能無しはいらない。そんな男だったのであります その分、才能のある人はどんな身分の者だろうが取り立てました 譜代(昔から仕えている人)家臣より、猿こと秀吉、そしてもう一人、明智光秀を重宝し、出世させていきました 明智光秀は朝廷への儀礼的なものなのが上手にできる男で、インテリ派だった 信長はそんな光秀のプライドをへしおるべくイジワルをしたりしたのです 光秀はノイローゼ気味となり、とうとう本能寺で休息している信長に向かい 「敵は本能寺にあり!!」と、信長に刃を向けたのです こうして信長は光秀の謀反にあい、49歳で死んでしまったのです 驚いたのはたまたま信長に会いに行き、大阪見物をしていた家康 信長と仲良しの家康が大阪にいるとバレたら大変なので、必死で逃げました そして、無事国へ戻ってから光秀を討とう!と決めました そんな家康の思惑は外れてしまいました 誰よりも「信長様の仇!!」と動いた男がいたのです それが豊臣秀吉 秀吉は信長の命令で毛利攻めをしていました そこへやってきた「信長が明智光秀に討たれた」という情報 秀吉はすぐさま毛利との戦いを和議(とりあえず仲直り)にし、すぐさま京へ向かったのです これが有名な「中国大返し」です 明智光秀はというと、秀吉があまりの早さで戻ってきたのでビックリ! 秀吉は「信長様の仇を討つのじゃ!」と、周りを味方につけ、とうとう山崎という場所で明智光秀を破ったのです こうして光秀は秀吉にやられてしまいました さて、信長が死んだことで「信長の次の後継者は?」ということになりました そこで秀吉が「後継者は三法師がよい」と言ったのです もちろん重臣は大反対 なぜ?というと、三法師はまだまだ小さい子供だったからです ということで重臣の柴田勝家は信長の三男・信孝を跡継ぎにと押し出してきた こうして秀吉と勝家の跡継ぎはどちらに?バトルが始まるも、主君の仇を討った秀吉が勝ち、三法師が織田家の新当主となったのであります 三法師は小さい子供なので、実質の主導権は秀吉が握ったこととなったのです これに怒った柴田勝家ら重臣チームは、とうとう秀吉と戦うことに が、負けてしまい、これにて織田の実権は豊臣秀吉となったのです こうして秀吉は信長に代わって次々と天下に駒を進めて行きました そして天皇から「関白」という位までもらったのです 秀吉は諸大名らに「ワシのところに挨拶にこい」と手紙を出しました が、一人だけ挨拶に来ない男がいた それが徳川家康だったのです 家康からしてみれば、秀吉は信長の家臣だった男。そして自分は信長の同盟国の主。信長には忠誠を誓ってもいいが、なぜあんな猿のような男に挨拶に行かなければいけないのだ?というもの 秀吉は、力をつけ始めている徳川に何とか挨拶しに来させたかった 家康が来れば、ほかの国の大名も「あの徳川家康が挨拶に行ったんだから、豊臣の力は本物だ」ということになるからです ですが家康は全ての手紙を無視 秀吉は妹の旭姫を家康の正妻に送り込んだりと、色々な作戦をたてましたが、家康はいっこうに動かない 秀吉は最後の手段!!!として、自分の本当のお母さんである大政所を人質として家康に送ったのです お母さんまで送られてきてしまった家康は、こりゃもうしょうがない・・・と、とうとう秀吉のもとへ挨拶に行くことを決意 こうして秀吉は家康をも従えることとなり、九州を統一、そして仕上げに関東の大大名・北条をも屈服させ、見事天下統一をなしとげたのであります! が・・・・。 秀吉には跡継ぎとなる子供がいなかった ずーっと子供がほしくてほしくてたまらなかった秀吉に、側室の淀君が秀頼という子を産んだのです ここから秀吉おかしくなりはじめた 秀頼のことしか頭になく、しかも老齢のためボケも出てきてしまったのです 朝鮮へ兵を出し、朝鮮を奪おうとしたりしたのです この朝鮮出兵により、日本中みんな疲れ果ててしまった この間に、北条の跡地である関東をもらった家康は、せっせせっせと貯め込んでいたのであります 朝鮮出兵は何にもならない戦いでありました 世の中は疲れ果て、みんなうんざりするようになってきたのです そんな中、とうとう秀吉が病気に 自分の最後を知った秀吉は、五大老(秀吉が指名した家康ら、実力者五人)を集め、「秀頼のことをよろしく頼む。なにとぞ・・・」と最後まで秀頼のことを心配しながら死んでしまったのです 天下統一した男が死にました だがまだ跡継ぎ秀頼は子供・・・・・・ 朝鮮出兵はというと、秀吉が死んだことにより家康がやめるよう皆に言いました これにより「徳川殿は力がおありになる・・・」という雰囲気になっていくのです 秀吉の死により、徳川家康の評判がとてもよくなってきました これに危険を感じたのが、秀吉の家臣・石田三成だったのです 三成は秀吉に取り立てられた豊臣命!の男で、秀頼の成長を守り続けていました が、その秀頼に代わって、家康が着々と実力をつけてきているのが不安だったのです また、三成は戦はしない男で、政治をする男でした そのため、同じ豊臣家内で戦い屋の加藤清正や福島正則らは「戦もしないクセになんであんなに秀吉様に気に入られてるんだ!!」と、ものすごく三成を嫌っていました さらに、清正や正則は北政所(おね)にとても可愛がられていた が、三成は近江出身なので、浅井の血を引く淀君を大事にしており、豊臣家内でも「おね派」VS「淀派」で分かれていたのです そこをうまくつついたのが家康でした 家康はおねを自分側に引き込んだのです 石田三成は「このままじゃ危ない・・・。家康に天下を乗っ取られてしまう」 と考え、動き出したのです こうして強大になってきた徳川家康を倒すべく、戦いが始まるのであります 実は石田三成のほかに、家康を気に入らないという人はおりました 同じ五大老の上杉家や、秀吉に世話になった宇喜田家、そして毛利家なども家康の力が大きくなってきているのが気に入らなかったのです こうして天下分け目の合戦「関ヶ原の戦い」が始まることとなったのです!!! が、この勝負は一日で終わりを告げました 味方の裏切り。つまり石田三成率いる西軍の中に、勝敗を決める裏切りをした人がいたのです それが小早川秀秋 秀秋は、おねの親戚で、秀吉にとても可愛がってもらっていました が、秀頼が生まれたら邪魔になってきてしまい、小早川家に養子に出されてしまったのです その秀秋が、豊臣を裏切り、徳川の味方についたのです 裏切りの瞬間、家康率いる東軍勝利は確定しました 石田三成は捕らえられ、斬首となったのです こうして徳川の力は不動のものとなりました そしてとうとう、家康は「征夷大将軍」となり、江戸に幕府を開くことになったのです ところで豊臣家は?というと、淀君らは「家康が将軍?ま、秀頼がまだ小さいからね。家康は豊臣の家来なんだから、二代目将軍は秀頼にするんでしょ。大きくなるまでの間だけでしょ」 という感じでした ところが!!家康は二代目将軍に自分の息子・秀忠を任命したのです これには豊臣家はビックリ! そしてやっと「徳川は豊臣に代わる気では・・・・」と疑うようになってきたのです ですが時代はすでに徳川でした 徳川家康は自分が生きている間に何とかして豊臣家を滅亡させたかった 何か豊臣に落ち度はないか?と色々探りを入れ、強引に見つけたのが豊臣家が作った方広寺の鐘の銘文に書いてある「国家安泰」「君臣豊楽」の文字だったのです 家康はこの文字を「国家安泰は家康を真っ二つに切り、君臣豊楽は豊臣家を繁栄させようというものだ!これは家康に対する呪いの銘文である!」とイチャモンをつけたのです 驚いたのは豊臣家 ですがもはや徳川VS豊臣の雰囲気をぬぐうことはできませんでした こうして家康は豊臣家に向かって挑戦状を叩きつけたのです 大阪城にいた豊臣家はもちろん怒って「いい気になるなぁ!!」と、諸大名に大阪城に集まるよう手紙を出しました が、秀吉に世話になっていた諸大名らが誰も集まらないのです そう。もうすでに豊臣の時代は終わっていたのです 今ここで徳川家康に反抗したら、自分の家は取り潰しとなってしまう いまさら豊臣家に味方することはできない・・・という者たちばかりだったのです 困った豊臣家は色んな人に声をかけました そこで集まってきた人たちが「関ヶ原で東軍に負けた西軍の武将」たちだったのです 真田家の真田幸村や、長宗我部家の長宗我部盛親ら、多くの西軍武将たちが大阪城へやってきました こうして何とか家康に対抗する兵を得たものの、実はここでも問題が浮上したのです というのも、大阪城にいる豊臣家は、いまいちこの西軍生き残りチームを信用していなかったのです 生き残りチームの武将らが一生懸命勝てるような作戦をたてても、全て却下 こうして意見が全然あわないまま、戦いが始まったのです 大阪の陣と呼ばれるこの合戦は、「冬の陣」と「夏の陣」の2回にわかれています 最初が冬の陣なんですが、このとき、豊臣家はかなりいい感じだったのに、家康の謀略により上層部が勝手に和議をしてしまったのです そして和議の間、大阪城の外堀を強引に埋められてしまうという信じられないことになってしまったのです 外堀を埋め終わった頃、家康は和議を破棄してきました そしてまたも大阪城へ攻め込んできたのです 外堀もない丸裸の大阪城が落ちるのは目に見えていました それでも最後に一花咲かせようと、真田幸村や後藤又兵衛などの勇将が大活躍するのです ですが、とうとう大阪城も落城することとなりました 最後まで城内にいた淀君や秀頼らは逃げるんですが、徳川勢に取り囲まれてしまいます もはやこれまで・・・と悟った二人は、そこで自害して果てたのです 秀頼には子供が二人いました 一人は男の子だったので、斬首に。そしてもう一人は女の子だったので、鎌倉の東勝寺で尼となったのです 豊臣は滅亡してしまいました こうして本当の天下統一を成し遂げた家康 以後、家康が開府した江戸幕府は260年近く続き、江戸時代は泰平の世となり、ペリー来航により幕末の動乱を迎えるまで徳川はずっと政権を握り続けるのであります |