昭和14年 1939年 


ここからヨーロッパ戦線は赤字となります



昭和14年 1939年 年表
ここでちょっと解説!「ファシズム」について

ファシズムって言葉、聞いたことあると思うんですが、ここいらでちょっと簡単に説明しますね

歴史的背景とか、いろーんなことがあるんですが、簡単に言うと

「一切の自由主義を取り除いて、暴力的な独裁をしていく体制」のこと

こう言っちゃうと、「ちょっと違うんじゃないの?」と言う人もいらっしゃるかもしれませんが(^^;)

国民に民主主義とか自由主義とかそーいった考えをやめさせて、自分の国が歴史的においてすっごく優れているという「国粋主義」に基づいて暴力的な独裁をすすめていきます
で、自分の国以外のところを侵略していきます(自分の国が一番優れてるから)

こーいった考えのことを「ファシズム」と言い、このあたりのドイツ(ヒトラー)やイタリア(ムッソリーニ)はまさにこの体制なのです

で、日本もどんどんとファシズムな国になっていくことになるんです

ちなみに、日本にはヒトラーやムッソリーニのような独裁者はいたのか??というと、この2人のようなすっごい独裁者はいませんでした

後から出てくる「東条英機」がそうなんじゃないの??と思う方もいるかもしれませんが、ワタクシ個人の意見ではヒトラーやムッソリーニのような独裁政治は出来てなかったと思われます


ガーっとまとめ★日本と中国の関係

ここらでガーッとまとめます!日本と中国の関係とか満州のこととかねっ

まず日露戦争で勝った日本がロシアから南満州の権利を引き継ぐことになったよね?

で、日本は旅順に「関東都監府(かんとうととくふ)」とゆーのを設置して、南満州経営の拠点にし、満州鉄道を創立しちゃいます

これが明治39年で、この時に満鉄を守るために軍隊を派遣します

この軍隊が大正八年に関東軍として独立していくんですねぇ

でもって関東軍が独立する5年前に第一次世界大戦が勃発したんだけど、日本はドイツ東洋艦隊とバトルしてドイツが植民地にしてた中国の青島(チンタオ)なんかを軍事制圧してちゃっかり占領しちゃいました

ケド、第一次世界大戦に懲りた列強の国々が「ちょっと平和になろうよ」とゆー流れに

日本も仕方なくこの流れに乗るんだけど、昭和2年に総理大臣になった田中義一は領地ゲットに燃え始めちゃうのであります

この頃の中国はとゆーと、日本の戦国時代のように各地に政権があって、全然まとまりなし

大正八年に孫文とゆー人が「中国国民党」を作り、蒋介石(しょうかいせき)が引き継ぐんだけど、蒋介石は中国統一が目標だったので大規模な軍事行動をスタートさせました

国民革命軍を率いて中国統一するべく北上します

これが「北伐(ほくばつ)」とゆーんだけど、蒋介石は上海を制圧して南京に国民政府を樹立するんですねぇ

さてさて、満州で権益(権利&利益)をゲットしてる日本としては「これ以上あいつらに調子に乗られるとヤバイ」と考え「蒋介石の北伐で困ってる中国に住んでる日本人を保護しよう」とゆー名目で、中国に兵を出しちゃいます

で、当時満州を支配していた張作霖(ちょうさくりん)を援助して蒋介石の勢力を防ごうとしました

ケド、現地にいる関東軍首脳部は「張作霖じゃ蒋介石には勝てない。もっと手っ取り早いいい作戦があるぜ」と、張作霖の乗ってる電車を爆撃し殺害し、これを蒋介石率いる中国国民党の仕業だー!!と、謀略を行ったのであります

が、これがばれてしまい、張作霖の息子が激怒して蒋介石に降伏しちゃいました

そのため、満州も中国国民党の支配下に置かれちゃうんですねぇ


田中義一はこの責任をとって内閣総辞職となり、新たに浜口雄幸が総理大臣になり、なんとか中国と仲良くしようとするんだけど、現地の関東軍は張作霖事件なんて全然気にしてなくって、さらにさらに満州占領計画をたてていくのであります

まさに関東軍、暴走状態なんですヨ

この間に蒋介石はアメリカと仲良くなって、「一緒に日本をどうにかしようよ」ムードに

アメリカも日本が大嫌いだったから(理由は昭和17年の年表に書いてるヨ)急速に中国と仲良しになるんですね〜

で、昭和3年に石原莞爾が関東軍参謀として満州にやってきます

石原は「日本がアメリカに勝つには長期戦に耐える経済力が必要なのだー!」と考え、満州を中国政府から切り離して日本の植民地にすればいいんだよ!そして資源ゲットだぜ!とゆーことに

で、奉天とゆーとこで南満州鉄道の線路を爆発させ、「中国国民党の犯行だ!」と騒いで軍事行動をスタートさせたのです

これが満州事変とゆーんですねぇ〜

日本国民はというと、なんとこの満州事変を大歓迎!マスコミも関東軍すごいすごい!よくやった!とあおりまくったので、世論は完璧に関東軍の味方

政府は関東軍の暴走を止めることができなくなっちゃいました

中国の国民はとゆーと、関東軍の横暴に激怒して、全土で排日運動が起こってました

で、上海で日本人の僧侶が中国人に襲撃され殺されてしまいます

これが第一次上海事変のきっかけになるんだけど、どーやらこの僧侶襲撃事件も関東軍が裏であれこれ仕組んだんじゃないの〜?とゆー黒い噂が・・・

このよーに関東軍は中国において、ほんっとやりたい放題やってくんだけど、列強諸国は全然気にしてませんでした

なんでー?とゆーと、もともと満州あたりは日本が権益を独占してたんで、自分達にあんま関係なかったから

ところが、関東軍はイギリスの権益がある錦州(きんしゅう)とゆー場所をも獲得するため動き出したので、イギリスはこっから大慌て

今まではしらーんぷりだったのに、いきなり「日本に経済制裁を加えるべきだーー!」と騒ぎ出しました

でもって日本が上海で大規模な軍事行動を起こしたから、とうとう国際非難を浴びるように

上海はこの頃の列強諸国の利益と資本があれやこれやと錯綜してる場所だったからね

とゆーことで、日本はだんだんと厳しい目で見られるようになってくのであります

すると関東軍は、「ちっ。満州を植民地にしようと思ったのに、国際世論がうるさくてできねーぜ!こうなったら・・」と、なんと満州を中国から独立させて一つの「国家」にしちゃったのです

で、満州国の元首に溥儀(ふぎ)を就任させました

溥儀は清国の最後の皇帝で、廃位した後は天津でのーんびり静かに暮らしてたのに、いきなり関東軍に引っ張り出されて元首にされちゃったのであります

もちろん満州国には軍事力なんてないので、全ての軍事を関東軍に委託しました

まさに関東軍の傀儡国となったのです

さてさて、この頃の日本の首相は犬養毅

犬養毅は「満州国なんぞ日本政府は承認しないぞ!!」という強い態度だったんだけど、なんと青年将校らに射殺されてしまいます(5.15事件)

次の総理大臣になった斎藤実は、あっさりと満州国を独立国家として認定しちゃいました

で、「満州国の官僚のトップは満州人がやっていいけど、次官は絶対に日本人ね。なんでも次官のいうコトを聞きなさいね」

まさに傀儡

ちなみにこの頃、戦後総理大臣になる岸信介が次官になってたんだよ〜

とゆーことで、満州国を傀儡国家としてゲットし、満州拓殖公社という会社を造って満州の農民からものすごーーく安いお金で強制的に土地を買い、この土地を日本人に無料であげるから、満州に移民しなさいとゆー移民政策をしちゃいました

この満州における一連の出来事に怒ってるのは中国政府
当たり前だよね・・・

中国は国際連盟にこのことを提訴しました

国連が色々と調べ「日本の満州占領は不当であーる!日本はただちに満州事変以前の状態に戻しなさい」と、総会で発表

すると総会に出席していた日本の松岡洋介は「ふざけんな!」と、日本の正当性を言いまくったけど、結局は多数決42対1で負けちゃいました

あ、この1票はもちろんニホン

すると松岡は、席を蹴り飛ばして退出

でもって国連脱退してやる!といった捨てゼリフを吐きました

帰国した松岡はとゆーと、日本国民から「よくやった!!えらいぞ!!」と、めっちゃ歓迎され、ヒーロー状態

で、日本はすぐさま国連を脱退し、国際社会から孤立して独自の道を進んでいくのであります

うーーーん。すごいな・・・・ニッポン

とゆーことで、ガガっと戦争に突き進んでいく日本の情勢と満州のことなどを簡単に解説しましたが、もっと詳しいことを知りたいって人は、歴史の流れを読んでね



戦前の満州へ行くまでの旅をどうぞ

1月4日 近衛文麿内閣が総辞職



昭和宰相列伝 近衛文麿のことがありますヨ
1月5日 平沼 騏一郎内閣

平沼 騏一郎(ひらぬま・きいちろう)が、35代内閣総理大臣となりました

共産主義者・自由主義者の弾圧をめっちゃ主張していた人であります

1月14日 双葉山 連勝ストップ

大相撲春場所の4日目、ついに双葉山に黒星が

この日、双葉山は安芸ノ海と対戦し、激しいつっぱりを見せましたが腰が浮いたところを左外掛けを掛けられてしまいました

昭和11年の春場所7日目以来、ずーっと勝ち続けてきた双葉山でしたが、70連勝直前で夢破れました

それでも前人未到の69連勝という偉業を成し遂げました

1月24日 チリ沖地震

チリ沖で大地震が起きました

チリ中部の都市であるチャンや、太平洋沿岸の町が壊滅状態に

死者5万人以上出しました

2月18日 岡本かの子死去 脳溢血 51歳

3月 ドイツがポーランドに「ダンチヒちょうだい」

ドイツは、ポーランドに「ダンチヒを割譲して」と要求しました

詳しくは下↓を読んでね★

もちろんポーランドは拒否

で、イギリス・フランスも「いよいよドイツがポーランドに侵攻するかもな」と、進攻に対して備えることに

ここで問題なのがソ連の出方!

ドイツからしたらポーランドを孤立させたいのでソ連が出てくるのがイヤだった

そのためドイツ総裁のヒトラーが、ソ連共産党書記長のスターリンに直接電報を出したのです

ちょこっと解説 ヒトラーがポーランドを狙うワケ

ヒトラーを当主とするナチス党は、昭和7年に第一党となりました

第一次世界大戦の敗戦に打ちひしがれていたドイツ国民にとって、民族意識を刺激するヒトラーはドイツ国民に勇気と希望を与え、昭和9年にヒトラーが「総督」を名乗り、国家元首の地位につきました

ナチス・ドイツが誕生したのです

とはいっても、ナチスは最初から軍事力を使って支配してませんでした

ヒトラーは始めポーランドにとって友好的な態度をとってました

まず第一次政界大戦で失ったオーストリア領内の旧ドイツ領と、チェコスロバキアでの領土回復が第一目標だったからであります

ドイツの積極的&威圧的な外交に対し、「ドイツと戦争したくねーな」という考えを持っているイギリス&フランスはドイツに対してドイツのオーストラリア併合を許し、チェコスロバキアに「スロバキア」というドイツのいいなりになる国を作ることをOKしちゃいました

日本が満州国を作ったのと同じような感じですね〜

外交成功となったヒトラーは、ここでポーランドに矛先を向けるわけです

実はドイツには東プロイセンという飛び地の領土がありました

ちょうど本国と東プロイセンの真ん中にポーランドがあり、分断されてたのです

ドイツはここを「ポーランド回廊」と呼んでいて、まさにポーランドが邪魔だったのでした

ということでヒトラーはポーランドに対して「ドイツ本国と東プロイセンを結ぶ治外法権の道路を作らしてほしい。でもってドイツ系住民が多く住んでいるポーランド領内のダンチヒを欲しい」と言ったのです

ヒトラーは、ドイツの軍事力を背景に脅せばポーランドは簡単に屈すると思ってました

が、ポーランドはイギリスとフランスが味方してくれるだろうと思ってるので、もちろんこの要求を無視したのでした

こうして第二次世界大戦への準備が着々と進んでいくのであります・・・・



ドイツ側からみた第二次世界大戦の道のり
大変わかりやすい解説ですケド、@〜Cまで1時間近くあります(^^;)

4月27日 満州開拓団を送り込む

政府は満州開拓団として、農民を送り込むことを決定しました

大日本青年団や文部省が中心となり、関東軍が援助するという形で進められました

農村の青年や学生を全国から集めて「興亜青年勤労隊」と名づけ、150人ずつ満州の村へ送り込みました

で、農業をやらせたり道路補修や軍役奉仕を行いました

が、陸軍省や関東軍のホントの目的はというと・・・・

彼らに農業開発を行わせて、満州の防備に当たらせることでした

満州に日本人が定着することを狙い、満州への既得権を確保するつもりだったのです

満州国総務長官の星野直樹は、集まった青年たちに「血気にあふれた1万人はフヌケた100万人より勝るよ!あらゆる苦労を乗り越え、興亜の基礎をかためようではないか」と、青年たちを励ましました

以後、太平洋戦争が始まってからも続々と満州へ行った青年達

満州に渡ってからユートピアを築こうとした夢を持った人たちは、これから大変なことになっていってしまうのでした・・・

ちなみに、今現在でも中国東北部には日本人孤児が1万人以上いるのではないかと言われています

5月3日 重慶爆撃

日本軍はおととし上海を攻撃し、南京を攻撃しましたが、いつまでたっても中国国民党が和睦を言ってこない

それどころか、徹底抗戦だ!!とし、中国で利益拡大を目指しているイギリスとアメリカに援助を受けることに

そして首都を南京から重慶に移しました

日本軍は重慶を爆撃することを決めたのです

この爆撃により10000人以上(中国側の資料によると)の死者が出ました

蒋介石はこの非人道的な無差別爆撃を怒りアメリカのルーズベルト大統領は国際法違反だ!と、激しく抗議

が、日本は以後もずっと継続的に重慶を爆撃しその様子は「重慶定期便」とまで言われました


5月11日 ノモンハン事件

満州国とモンゴル人民共和国との国境には砂漠と草原が広がっていました

そのため、どこが国境の境目なのかいまいち定めづらいトコでした

満州国とモンゴルの主張する国境線が全然違ったため、関東軍は「国境紛争処理要綱」というのを決定

それは、日本側が主張する国境にモンゴル・ソ連軍が入ってきた場合は、攻撃するというものでした

こうした中、日本側が主張する国境を越えてモンゴル軍が馬に牧草を食べさせるという事がわかったことから、小競り合いとなりました

そこへ、ソ連軍が最新鋭の戦車や重砲部隊を投入し、日本軍の第23師団がほぼ壊滅状態に
日本軍は2万人以上の戦死者を出し、負けてしまいました

ちなみに、9月15日に停戦協定が結ばれます

6月12日 平江事件

国民党軍が中国共産党系新四軍を攻撃し全滅させ、幹部を虐殺しました

6月16日 パーマネントはやめましょう

国民精神総動員委員会が生活していくための新案を発表しました

・早起励行
・報恩感謝
・節約貯蓄

といった内容で、パーマネント禁止・お中元お歳暮の禁止

朝風呂の取り締まりが行われるようになりました

さらに何も買っちゃいけない「不買デー」なるものもできたり、日の丸弁当が推奨され、禁酒禁煙となっていったのです

パーマネントしている女性は通行禁止!といった街まで出てきて、国民の生活はものすごく窮屈なものになってきました

チビッコたちもパーマネントをしている女性を見ると、はやしたてたりしてました

7月26日 日米通商条約が破棄される

アメリカは、日米通商航海条約を一方的に破棄することを日本に通告しました

7月 国民徴兵令

16歳以上50歳未満の職業能力申告者である男性に「徴用令書」が出されることになりました

徴兵のアカ紙に対して「シロ紙」と言われました
8月23日 独ソ不可侵条約が調印される

この日、独ソ不可侵条約が調印されました

3月にヒトラーがソ連の書記長スターリンに「ポーランドとドイツの問題に手出ししないで」という電報を出したからです

平沼首相は、盟友であるドイツの理解に苦しむ行為に対して「欧州の天地は複雑奇怪なる新情勢」という声明を残して総辞職しました

日本と険悪ムードのソ連とドイツが日本に相談もなく条約締結したことは、めっちゃショックで、「ドイツを信用してもいいのか?」といった議論が起こるのでした

8月24日 どうするポーランド!

ドイツがポーランドに侵攻するのは時間の問題でした

でもって、ドイツとソ連が不可侵条約を結んじゃったので、ポーランドはイギリスと相互援助条約を結ぶことにしたのです

8月27日 ドイツで食糧の配給制度が始まる

8月 隣組ができる

国民総動員体制推進のために「隣組」ができました

内務省の通達により、10戸内外を単位として、その地域の消防や防護の任にあたることとされました

9月1日 興亜奉公日

政府は、日本の全ての国民が戦場の苦労や労力を偲ぶべきだということで、自粛・反省の気持ちを実際に表すため
毎月1日を「興亜奉公日」としました

実施内容は地方ごとに色々違いがあり、東京では「一汁一菜・禁酒・禁煙・享楽的行為禁止・節約貯金」などなど

お酒を売っちゃいけないということで、料理屋なども休業となり、町からネオンが消えていきました

9月 ゼロ戦 施行飛行

三菱重工の堀越二郎が、ゼロ戦の第一号試作機を作成し、飛行試験が行われました

翌年正式採用となり、皇紀2600年の下二桁をとって「零式艦上戦闘機」と名づけられ、略してゼロ戦と呼ばれました

ゼロ戦は陸軍の主力戦闘機「隼」と並び、戦闘機の名器となります

9月1日 ドイツ軍がポーランドに侵攻!第二次世界大戦が始まる

この日、53個師団を超えたドイツの精鋭部隊がポーランドに侵攻しました

近代化が遅れていたポーランド軍はドイツ軍にコテンパンにやられてしまいました

ポーランド軍が期待していたアメリカ・イギリスからの援軍もイマイチで、ドイツ軍の空軍の爆撃機に空軍基地を叩かれてしまい、すぐさま制空権を奪われてしまいました

そして反撃ができないまま東へ逃げていったのです

こうしてて第2次世界大戦が始まってしまったのです

9月3日 イギリス・フランスがドイツに宣戦布告

ポーランドに侵攻したドイツに対し、イギリス・フランスが宣戦布告をしました

9月5日 アメリカが中立を宣言

9月5日 南アフリカがドイツに宣戦布告

9月10日 カナダがドイツに宣戦布告

9月13日 ルーマニアが中立を宣言

9月18日 9・18ストップ令

日本国内は第二次世界大戦歓迎ムードとなり、株価が急騰しました

政府はあらゆる物価を連結するべく、賃金臨時措置令や価格等統制令などを交付しました

これらはいずれも国家総動員法に基づくもので、総称して「9・18ストップ令」と呼びます

9月27日 ワルシャワ陥落

とうとうワルシャワが陥落しました

そしてドイツとソ連の間で、ポーランド分割の話し合いが始まりました

9月30日 結婚十訓が発表される 「産めよ殖やせよ」

厚生省が「結婚十訓」を定めました

兵力を殖やすために早く結婚させてたくさん子供を産め!という「産めよ殖やせよ国のため」とありました

なんか、うーーーん・・・って感じですねぇ

10月6日 ポーランド降伏

10月16日 イギリスが初空襲される

11月26日 ソ連 フィンランドにいちゃもんをつける

この日、カレリア付近の国境線で、ソ連兵13人が砲撃されるといった事件が起きました

ソ連は「フィンランドの挑発だ!」と怒りました

が、この事件の真相は、実はソ連が自分達の軍に向けて発砲し、フィンランド軍の仕業にしたのであります

戦争のきっかけがほしかったんですね

こうしてソ連VSフィンランドの戦いが始まっていくのでした

11月30日 ソ連軍 フィンランドに侵攻する 冬戦争の始まり

とうとうソ連がフィンランドに対して国交断絶を発表し、侵攻を開始しました

実はソ連もフィンランドに対し領土を割譲しろ!と前から要求してたんだけど、フィンランドが拒否したのです

ドイツとソ連の不可侵条約が成立したため、フィンランドはドイツという後ろ盾を失ってしまい、ソ連の侵攻の脅威に怯えてたんですが、とうとう侵攻してきたのです

ちなみに国際世論はフィンランドを支持してました

アメリカなんかは、フィンランドに多額のお金を渡したりしました

この戦争は兵の数も装備も劣勢なフィンランドがめっちゃ頑張ってゲリラ戦を繰り広げることとなります

でもって、冬の装備をあまりしていなかったソ連はとうとう停戦することになるのであります

ぶっちゃけ負けたのであります

ソ連のスターリンは、このことをめちゃくちゃ怒り狂いました

「なんであんなちっぽけな国に苦戦しとんじゃ!!」と激怒し、この戦いの責任者を処刑しまくったのでした



↑この戦いの解説です。わかりやすいですよ〜
12月14日 ソ連 国際連盟を除名

フィンランドに侵攻したというコトで、ソ連が国際連盟を除名されました

大ヒット!父よあなたは強かった

朝日新聞社が皇軍将士に対して感謝するための歌を募集しました

主婦による歌詞が入選し、レコードが発売され大ヒットとなりました