昭和17年 1942年


           ヨーロッパ戦線は赤字となります



昭和17年 1942年 年表 
いつもと全然違うお正月!!

開戦してから初めてのお正月を迎えました

繁華街はどこも静かで、自粛ムード

宴会もできないため、飲み屋も開店休業状態でした

ご近所さんへの年始まわりもナシ

空襲対象になりそうな工場などではノンビリできる状態ではありませんでした

また農林省が林業資源を確保するために門松禁止!!と言いましたが、あまりにもさびしすぎるので隣組で共同門松を立てるのだけは許可しました

唯一賑わっていたのは神社と映画館

ちなみに映画館で上演されているのは、戦争関係のニュース映画でした

1月2日 日本軍 マニラを占領する

日本軍はマニラに無血入城し、占領しました

真珠湾攻撃と同じ日に航空攻撃に成功し、数日間の間に米軍航空隊を壊滅させ制空権を握っていた日本ですが、これらの戦果を受けた第四十八師団の主力らがマニラに向かってきたのです

マニラを挟み撃ちする形で日本軍は進撃し、フィリピンにいたアメリカ軍も激しく抵抗しました

が、とうとうコレヒドール島の要塞にたてこもったのです

日本軍はアメリカ軍が脱出した後のマニラに入り、占領を成功させました

そしてこれからフィリピンからアメリカ軍を一掃する作戦を開始するのです

ちなみにこの時のアメリカ軍の総指揮はマッカーサー将軍です

1月15日 大本営発表始まる

大本営はNHKラジオを通して、戦果の発表を行いました

以後、4年半のうちに846回ほど、ラジオや新聞で色んな発表を行います

なんでこんなにいっぱい発表するのさ??というと、陸軍と海軍が自分達の方が戦争成績がいい!というアピール合戦を行っていたから

で、この大本営発表ですが、戦争が始まった最初の頃はわりあい正確な情報を流していたんですが、だんだん誇張されていくようになります

最初の頃は日本が優勢だったんで、ガンガン発表できたけど、後半はだんだん雲行きが怪しくなってきましたよね

で、国民には「架空の勝利」をアピールし続けることになるのです

当時のマスコミ状況

当時はテレビもインターネットもない時代なので、情報源といえば「ラジオ」「新聞」「雑誌」のみでした

でもって、満州事変・日中戦争と日本は戦争モードに入ってたので、政府の多くに軍人がいました

太平洋戦争が始まった直後には「言論・出版・集会・結社等臨時取締法」が成立し、出版物の発行には内務大臣の許可が必要で、妙な記事を書いた者などは処罰できるという法律ができたのです

これによって国民は戦争を非難することはいっさいできなくなりました

内閣情報局はラジオ放送内容をめっちゃチェックしまくり、国が完全に情報を遮断し、操作しまくったのです

1月16日 日本軍がタイからビルマに侵攻する

1月18日 ベルリンで日独伊新軍事協定が調印される

1月20日 ナチス 全ヨーロッパのユダヤ人殺害を決定する

ベルリンで国家保安本部長官のハイドリヒが、ナチス党と政府の代表を集めました

そしてヨーロッパにいるユダヤ人問題についての会議を開いたのです

結果は極秘事項となりましたが、実はここで全ヨーロッパ人にいるユダヤ人を大量殺戮することが決まったのです

1月23日 日本軍、ラバウルへ上陸

1月25日 タイがアメリカとイギリスに宣戦布告する

1月26日 180億円の臨時軍事費追加予算案が可決される

1月28日 埼玉県で越境買出しの主婦が100人以上が検挙される

1月 大日本婦人会が結成

この頃の婦人団体は大きなものが3つありました

陸海軍の監督指導下→大日本国防婦人会

内務省(のちの厚生省)下→愛国婦人会

文部省下→大日本婦人連合会

この3つは、日中戦争が始まってからというもの、遺族の救護活動や貯蓄奨励など、ほぼ同じような活動をするようになりました

そのため、3つの団体をまとめて「大日本婦人会」として、新たに発足させたのです

20歳以上の夫人が強制加入させられ、制服は紺色のスモッグのようなもので、左胸には日の丸をあしらった会章をつけました

2月4日 ジャワ沖海戦

ボルネオ島から発進した海軍航空部隊が、スラバヤ沖のマドゥラ海峡でアメリカ・イギリス・オーストラリア・オランダの連合国艦隊を攻撃しました

そしてアメリカの「ヒューストン」と、「マーブルヘッド」に大きな打撃を与えました

沈没させるまでは行きませんでしたが、オランダの司令長官ドールマン少尉率いる連合艦隊を撤退に追い込み、ジャワ沖の制海権を握りました

2月8日 日本軍 シンガポールを攻撃

シンガポールはイギリスの東洋における植民地支配の象徴の場所

日本はここを占領することにしました

マレー半島は資源が豊富だし、それにシンガポールを陥落させるということは、植民地解放!という大義名分もできるからです

ということで、日本は作戦準備を入念に行い攻撃を開始しました

作戦準備にぬかりのない日本軍はどんどんイギリス軍を敗走させ、シンガポールに迫っていきました

2月10日になるとチャーチル首相が「シンガポール死守!!」の命令を出します

イギリス軍も「東洋のジブラルタル」といわれるシンガポール島の要塞地で日本軍をまちかまえることに

始めの頃は日本軍優勢か!?と思われましたが、そのうちイギリス軍・インド軍もめっちゃ頑張りだし、日本軍にも多くの死傷者が出るようになりました

日本軍の爆薬も少なくなり、これはまずいかも・・・というムードになっていきます

2月11日 ドイツ海軍の「ケルベロス作戦」大成功

フランスのブレスト港にいるドイツ戦艦がイギリス本土近くのイギリス海峡を通り、ドイツ本国へ帰還させるという「ケルベロス作戦」が行われました

ブレスト港はたびたびイギリス軍の空襲を受けており、さらにアメリカの参戦によって太平洋への出撃も無理な状態

ということで、ドイツへ戻すことにしたのです

ここでドイツは白昼堂々の突破を行い、イギリス海軍は「なにやっとんじゃ!!」と、めっちゃくちゃ非難されたのでした

2月14日 スマトラ島に落下傘降下

日本軍は油田を確保するために、339人の陸軍落下傘部隊をスマトラ島パレンバンに降下させました

そして飛行場と製油所を襲撃し、制圧したのです

2月14日 イギリス空軍が攻撃対象を特殊目標から一般市街にする

2月15日 日本軍、シンガポール占領

さて、2月8日から行われていた攻撃ですが、この日の午後、突然白旗を持ったイギリス軍の兵士が現れました

そしてプティマにあるフォードの工場で、日本軍の山下奉文(ともゆき)司令官と、イギリス軍のパーシバル中将とで会見が行われたのです

山下は「日本軍はさらに進攻しますぞ。無条件降伏か、戦うか、イエスかノーで聞きたい」

コレに対し、パーシバルは一時間ほど考え「降伏します」と答えたのです

こうして日本軍はシンガポールを占領したのでした

この活躍により、山下中将は賞賛されまくりました

2月19日 アメリカの日系人 収容所へ

ルーズベルト大統領が「戦争遂行上 軍が必要と認めた地域から一定の人々を排除することができる」という行政命令に基づき、日系人の強制立ち退き命令を出しました

そして約11万人の日系人が、今まで築いてきた財産全てを失い収容所に入れられたのです

日系人は10箇所ある収容所の鉄条網に囲まれたバラックで暮らすことに

ほとんどの場所が、環境が悪く生活は苦しいものでした

アメリカに続き、カナダとペルーも日系人の強制収容を始めることになります

アメリカは日本人が嫌い

今回罪のない日系人が収容所送りされたことにより、日本はアメリカに対しますます憎しみを持つように

実は、アメリカ人は以前から日本人を何度も迫害していました

もともとの「白人の人種偏見」もあるんだけど、きっかけは日露戦争の時

日露戦争で日本が勝てたのは、アメリカ大統領のセオドア・ルーズベルトが頑張ってくれたから

だけどポーツマス講和会議の結果は日本にめっちゃ不利で、不満を持った日本国民が日比谷で焼き討ち事件を起こし、頑張ってくれた仲介者であるアメリカを恨みました

この日本人の感情に怒ったアメリカ

ふざけるな!と、サンフランシスコで日本人の子供の隔離を決めたのです

でもって、次々と日本人排斥の法案がいたるところで出されました

カリフォルニアでは、日本人がいっくら頑張っても土地を持つことは禁止!という法律まで出来ちゃうし、「黄色人種は帰化不能人種だ」といったことまでアメリカ最高裁判所が言っちゃうし

さらに大正13年には「絶対的排日移民法」が出来て、日本移民が完全に禁止

とにかく日本人が嫌いだったんですねぇ

日本人移民の多くはハワイ経由でアメリカへやってきました

1881年にハワイのカラカウア王が日本へやってきて、明治政府に対し「勤勉な日本人を移民として受け入れたい」と言ってきたのであります

この時 約3万人の日本人がハワイへ渡り、その後1924年までに20万人が移民としてハワイへいきました

それからハワイがアメリカ領になったので、多くの日本人移民がアメリカへ

なんといってもアメリカ大陸のほうが賃金がいいからね

大量にやってくる日本人移民に対してカリフォルニアの人々はというと

「日本人は勤勉でマジメ。安い給料で長時間労働を喜んでやる。日本人は楽しむことをせず働き続けるだけ。アメリカ人は社交を重んじて幸せな家庭を築こうとしてる。そんなアメリカ人がバカみたいに働く日本人に勝てない。このままじゃ日本人に職を奪われてしまう!」と思うように

それに日本人はアメリカ社会に溶け込もうとしない

「故郷に錦を飾る」思いが強く、大金を稼いだら日本に帰る。それまでの我慢という感じだし、ちょっとでもお金が入れば故郷へ送金しちゃう

だからアメリカ経済に寄与することも無い

さらにさらに、アメリカ定住を決意した日本人は日本から花嫁を呼び、子供をいーーーっぱい作った

出生率の高さもアメリカ人にとって嫌だった

また、生活習慣もアメリカ人にとって嫌悪だらけ

「爪楊枝を人前で使ったり、スープを音を立てて飲んだり、女性は白粉べったりで売春婦みたいな化粧だし、どこでも立小便するし、下着姿でウロウロ歩く」と、アメリカ人にとってめっちゃ不快な習慣だったのであります

ということで、もともとある「人種差別」意識が、日本人を目の当たりにしてさらに嫌悪感を抱くようになり、排斥したくなってきちゃったのです

こうしたアメリカの感情に対し、日本国民もアメリカにたいして嫌悪感を抱くのでした

2月20日 日本軍がティモール島を占領する

2月20日 バリ島沖海戦

日本軍はジャワ島攻略の足がかりにするため、バリ島に上陸

この動きを察知したオランダのドールマン少尉は阻止するべくジャワ島の基地を発進しました

そしてこの日、戦闘が開始されました

日本軍は「満潮」が大破しましたが、連合国艦隊は国籍が違う同志のため連絡がうまくできず、日本の魚雷攻撃に翻弄されまくり

とうとう撤退したのです

2月26日 大日本青少年団が、女子団員に傷痍軍人との結婚をすすめる

女性団員はお国のために働いて、傷ついて帰ってきた軍人さんと結婚しなさいってことです

なんでも「軍神」に祭り上げる軍部

この頃、軍部が真珠湾で散った海軍19人の下士官を軍神として祀り上げました

国民に聖戦意識をもたせ、戦意をあげさせるためです

平凡な庶民兵士を軍神に祀りあげ、庶民に共鳴を与えるという姑息な大衆煽動テクニックは、この頃の陸軍の得意中の得意でした

2月27日 スラバヤ沖海戦

ジャワ島上陸部隊を護衛している日本の第五戦隊と第四水雷戦隊がジャワ島のスラバヤ沖でオランダ海軍ドールマン少尉が指揮する連合国艦隊と2度にわたって交戦しました

第一戦ではオランダ駆逐艦「コリテノール」とイギリス駆逐艦「エレクトラ」を撃沈させました

日本軍の重巡洋艦「那智」と「羽黒」が大活躍しました

第二戦では一戦目で砲弾を撃ちつくしてしまったため、魚雷攻撃がほとんど

ここでオランダの「デ・ロイテル」と「ジャバ」を轟沈させ、ドルーマン少尉が戦死したのでした

2月28日 バタビア沖海戦

日本軍第七戦隊と第五水雷戦隊がスラバヤ沖海戦で残っていた連合国艦隊と交戦しました

そしてアメリカ重巡洋艦「ヒューストン」オランダの「パース」「エベルツェン」を撃沈したのです

ちなみに沈没した連合国艦隊の乗員1064人のうち、368人を日本軍が救助しました

3月1日 日本軍がオランダ領ジャワ島へ上陸

スラバヤ沖海戦・バタビア沖海戦で勝利した日本兵がジャワ島各地に上陸を開始しました

これから島の制圧に向け、連合国軍の掃征の戦いが始まります

3月1日 後楽園で手榴弾投げ競争

この日の巨人対大洋戦で、両軍から選ばれた選手が手榴弾を標的に当てるというゲームが行われました

グランドには「米英撃滅」と書かれた点数版があり、選手はユニフォームではなく軍服姿で参加

野球にも戦争が持ち込まれたのでした

3月2日 商工省がガスを使いすぎた人には供給停止します!と発表

3月5日  東京で初めて空襲警報が発令される


3月5日 日本軍がバタビアを占領する

3月8日 ラングーン占領

日本軍はビルマのラングーンを占領し、イギリス領インドシナのイギリス軍を退け全土を制圧しようとしました

参謀本部はビルマからイギリス軍を追い出すため、ビルマの独立運動家らに「ビルマ義勇軍」を創設させ、アウン・サン将軍らに指揮官としての訓練をさせました

はじめは訓練させた独立運動家をビルマに戻して、「独立したいなら、あんたたちがイギリス兵をやっつけちゃいなさい!」と言うつもりだったんだけど、その前に戦争が始まってしまったのです

日本軍がビルマへ侵攻すると、ビルマ義勇軍に入ってくるビルマ人がドンドン増えてきました

そしてビルマのラングーンを占領した頃には、12000人の大部隊となっていたのです

さて、イギリス軍を撤退させ、日本軍はビルマ義勇軍に独立宣言させてあげるのか??と思いきや、なんと独立宣言するのを認めないでいたのでした

これじゃあイギリスに支配されていた頃とたいして変わりありませんね

3月9日 ジャワ島のオランダ軍が日本軍に無条件降伏

第十六軍東海林支隊が、オランダ領東インドのジャワ島パンドンを占領し、オランダ軍が降伏しました

さて、ここは17世紀のはじめからずーっとオランダに占領されていました

オランダは東インド会社を設立し、ジャワ島・スマトラ島・ボルネオ島を支配していたのです

この頃植民地にされた国というのは、人間扱いされてませんでしたのでとても辛い状況でした

現地の伝説に「天から白い衣の神が舞い降りて、我々を解放する」というものがあり、日本軍の落下傘部隊を神になぞらえたりしました

ジャワ島では独立の動きが高まり始め、スカルノ氏ら指導者が独立を目指す「独立インドネシア委員会」を立ち上げ、日本軍に協力しました

3月9日 真珠湾の9軍神

この日の朝刊はどこも「軍神」の文字で一杯でした

大本営が発表した真珠湾攻撃での戦死者9名のことです

真珠湾攻撃では、戦闘機だけでなく特殊潜航艇が5隻あったんですが、戦果をあげることはできませんでした

この特殊潜航艇の事実が明かされ、戦死した9人の名前とともに功績が報じられたのです

そしてラジオで流れる音楽はいつも「軍艦行進曲」だったんですが、初めて鎮魂の曲である「海ゆかば」が流れました

こうして9人の「神格化」がはかられ、日本国民の気持ちをますます戦争へと持っていくのでした

ちなみに、特殊潜航艇は2人乗りで今回は5隻

とゆーことは、全部で10人のはずなのになぜ9人しか発表しなかったのかは謎・・・

別の資料を見たところ、1人は捕虜になったたしいです


3月12日 「アイ・シャル・リターン」マッカーサー  オーストラリアへ

フィリピンにいたアメリカ極東軍総司令官マッカーサーが、妻子や他のお偉いさんたちを連れてフィリピンのコレヒドール島を脱出しました

ルーズベルト大統領からオーストラリアに行き、太平洋連合軍司令官に就任するよう命じられたからです

3月17日にオーストラリアに着いたマッカーサーは、「アイ・シャル・リターン(私は必ず帰る)」と誓ったのでした

まぁ、はっきりいって部下を見捨てたのであります

この「アイシャルリターン」は米軍内で流行語となり、「トイレにいってくるぜ!アイシャルリターン」という感じで、皮肉に使われました

3月27日 関門海底トンネルが開通

世界初の海底トンネルができました

本州と九州を結んで兵員や物資を運ぶトンネルで、極秘で工事が行われました

下関と門司を結ぶ全長3614メートルの海底トンネルです

3月28日 ドイツのリューベック市がイギリス軍によって大空襲を受けました

3月29日 日本人ふざけるな!!フィリピンで「フクバラハップ」が結成される

フィリピンで抗日愛国人民軍「フクバラハップ」が結成されました

タルクという主導者のもと、日本軍の追放と地主制の打倒を目的としたグループです

フィリピンでは、長年スペインとアメリカに支配されていて、ものすごいお金を搾り取られていました

そこへ日本軍が進出してきたんですが、前よりもっとひどくなってしまったのです

略奪や暴行などが日常茶飯事で、フィリピンの内政は全然よくなりませんでした

ついに民衆の怒りが爆発し、武装集団を立ち上げることになったのです

どうやらオーストラリアに行ったマッカーサー司令部から援助を受けているとのことです

4月1日 アメリカ兵向けラジオ番組「ゼロ・アワー」で、東京ローズが大人気に

日本放送協会が南太平洋にいるアメリカ兵に向けた英語番組「ゼロ・アワー」の放送を開始しました

ゼロ・アワーというのは前線で兵士が突撃命令を待っているという死を覚悟した一瞬のこと

アナウンサーは日系二世のアイバ・戸栗

甘い声で「私いま 寂しいの。あなたはどうしてる?」と語りかけたりしました

これが前線のアメリカ兵に大人気となり、「東京ローズ」と呼ばれるようになったのです

ちなみにこの東京ローズは、終戦後スパイ容疑で逮捕されちゃいます

4月3日 マレーの虎・ハリマオ死去

マレーの虎と言われていた谷豊が死去しました

谷は福岡県で生まれてからすぐにマレー半島のトレンガヌに渡りました

そしてマレーで満州事変後に排日運動がおきて、妹が華僑の暴徒に惨殺されたのです

以後、イギリス官憲と華僑への復讐心に燃え、盗賊のボスに

そして日本軍の進撃にも協力しました

その谷がマラリアのためマレーで死亡したのです

日本は殉国の英雄として、谷を靖国神社に祀ることにしたのでした

4月5日 インド洋海戦

南雲忠一中将率いる部隊がセイロン島のコロンボを空襲しました

そしてイギリスの重巡洋艦「ドーセットシャー」と「コンウォール」を撃沈しました

4月9日 フィリピンのバターン半島を制圧

フィリピンではアメリカ軍が激しい抵抗をしていまいた

アメリカ軍が逃げ込んだのはバターン半島で、日本軍は制圧開始

が、実はバターン半島の要塞の裏には8万のアメリカ兵が待ち構えていたのです

日本軍は壊滅的な被害を受けましたが、体制を建て直し再度総攻撃

とうとうアメリカ軍が降伏し、日本軍はバターン半島を制圧したのです

4月10日 アメリカ兵8万人の死の行進

バターン半島にいたアメリカ・フィリピン軍の兵は8万人以上

日本軍は彼らを捕虜としてサン・フェルナンドまで歩かせました

その距離は100キロです

アメリカ兵はバターン半島にいた頃からマラリア患者が多く、また食糧不足だったためこの100キロ移動により17000人が死んでしまいました

日本側にはトラックなどの装備がなく食糧が準備できなかったたという理由もありましたが、これは国際法上捕虜の虐待と見られても仕方のないことでした

アメリカ兵からは「まるで死の行進だった」という声が多くあがったのです

ちなみに・・・

隙を見て逃亡し、オーストラリアいたどり着いたアメリカ兵がこのときの様子を報告しました

アメリカは逃亡兵から聞いた話を「デスマーチ・オブ・バターン」と、日本軍の残虐行為として何度も何度も喧伝しました

日本でこの放送を傍受していた日本軍は、何のことだかさっぱりわからなかったそうです

フィリピンを攻略したのは本間雅春中将率いる第一四軍で、戦後本間はマニラの法廷に立たされました

そこで「死の行進」の罪として銃殺刑となりましたが、彼は最後まで事情が飲み込めなかったそうです


4月12日 イギリス・インド会議が決裂!

インドがイギリスからの独立を求め、ニューデリーで会議が開かれていました

話し合いは1ヶ月に及びましたが、今日決裂したのです

イギリスはインドをアジアでの拠点にしたかったので、イギリスは「この戦いが終わったらインドをイギリス連邦内の自治領にしてあげるから」と言ったんですが、インド側は「即時独立とイギリス軍撤退を希望!!」してきたのです

両者の意見がかみ合わず、とうとう決裂したのでした

イギリスはインド内で戦争の恩恵を受ける人たちと組んで、独立運動を抑圧させるために動き出しました

日本軍も諜報機関の「F機関」を発足させ、インドにあるイギリス軍の中にいるインド人将兵を寝返らせたりといった工作をしていました

日本はインドの独立へめっちゃ協力的だったんですが、日本軍はインドの国民軍を対等にみていませんでした

ホンネは、彼らを飛行場建設の作業現場にいかせるなど、南方作戦に利用したかったのです

4月18日 初の本土空襲「ドゥリットル空襲」

「わが軍の防御は完璧であ〜る。本土爆撃などありえない」

日本の陸軍は、戦争が始まってからいつもこのように豪語していました

ところが、開戦してから4ヶ月だというのに、アメリカが本土爆撃を行ったのです

ドゥリットル海軍中佐の指揮のもと、空母ホーネットから爆撃機B25を飛び立たせ日本本土を爆撃して、中国本土に帰るという作戦でした

この作戦が計画通り行われたのです

日本本土爆撃によって、陸軍は面子を失ってしまいました

陸軍上層部は「敵は焦っているのだ。無茶な行動を起こして日本の威信を失脚させようとしているのだ」と言い、国民にもそのように理解するよう言いました

が、国民は「いつもいつも、絶対に本土爆撃はありえないってアレほど言ってるのに・・・・」と、陸軍への信頼が薄れていくのでした

ちなみにアメリカのB29が東京上空に現れ空襲がはじまったのは12時10分

が、空襲警報が発令したのは12時25分という遅さ

しかもちょうど東京では大規模な防空訓練が行われており、本物の爆弾が落とされているのに練習だと思っている人もいたそうです

また爆撃をされたのは東京・川崎・横須賀と、名古屋・大阪・神戸です

アメリカ爆撃機B29のその後

日本本土を空襲した爆撃機16機のうち、1機はソ連のウラジオストックに向かい不時着

残りの15機は中国に向かい、日本軍の占領地ではない場所にある飛行場へ

ところが夜になってしまったため飛行場が発見できず、地上から攻撃を受けてしまいます

4機は強硬着陸をして失敗。大破しました

11機は機体から落下傘で脱出

中国は日本が嫌いだったので、このアメリカ爆撃隊員を大歓迎しました

ですが日本の占領地に不時着してしまった9人は捕虜となったのです

ちなみに大本営は2度とアメリカ軍が同じ作戦が出来ないように、爆撃機が逃げ込んだ中国の飛行場を破壊しました

4月30日 第21回衆議院議員選挙

5年ぶりに総選挙が行われました

国家総力戦体制を強化したい東条英機首相が、戦勝気分になっている今がチャンスと選挙を実施

東条首相は議会を政府に協力的な議員で独占したかったため、推薦候補制度を採用しました

特別の選挙だということで「翼参政治体制協議会」という結社を設立させ、都合のいい人物だけを推薦し選挙運動させました

そのため、「翼参政治体制協議会」の推薦のない非推薦候補は「非国民」呼ばわりされ、選挙妨害されまくります

これは選挙違反だ!と主張した尾崎行雄などは、不敬罪で捕まるなど、ものすごい選挙となりました

5月5日 翼賛議会が成立

選挙の開票が終わり、政府の後押しを受けた「翼賛政治体制協議会」が推薦した候補者381人が当選しました

ちなみに全議員は466名なので、約8割が「翼参議員」となります

推薦を受けなかった自由立候補者は選挙妨害を受けながらも613人中85人が当選しました

ちなみに翼賛会が推薦した候補者には、軍の機密費から推薦料といったお金まで出たのに、推薦がない非推薦候補者は印刷物を差し押さえられたり、演説中に警察が不敬だーー!と妨害したりと、ほんとに大変でした

尾崎行雄・鳩山一郎・三木武夫といった人たちが何とか当選できたのです

ちなみに投票率は83.1%と、ものすごい投票率でした

5月 インドネシア住民に日本の教育を

政府はオランダ領東インドにいる住民に対し、日本と同じような「皇民化」を徹底することを決めました

占領地の住民を善良な皇民に育てようというのが目的です

まず子供たちには日本語教育をさせることに

「大日本帝国が盟主となり、大東亜共栄圏内(東南アジアとオセアニアの一部)にいる各民族を統合する。そのため日本語を共通語とさせる」

こうして日本文化の押し付けが始まったのです

5月7日 世界初の空母対決

ニューギニアの東方のガダルカナル島が浮かぶ珊瑚礁で、日本艦隊とアメリカ艦隊が激戦となりました

これは東部ニューギニアにある連合軍の基地であるポートモレスピーを攻略する「MO作戦」で、日本軍がラバウルを出撃したのです

また連合国側も日本が1月23日にラバウルを占領したため、オーストラリアとフィリピンを結ぶ中継地点がないことがとても重要だったので、ラバウル奪還のためやってきました

まもなく日本艦隊とアメリカ艦隊が激突し、両軍とも大損害が出て引き分けに

が、日本の空母「翔鶴」が大破したためMO作戦は終了となりました

5月7日 コレヒドール島を占領

日本軍はフィリピンのコレヒドール島を占領しました

1月2日にマニラを占領したんですが、アメリカ軍とフィリピン軍はバターン半島の先端にあるコレヒドール島に集結し、以後ずっと激しい争いが続いていました

マッカーサーが3月にオーストラリアに脱出してからはウェインライト中将がコレヒドール要塞にたてこもって抵抗していたんですが、とうとう降伏したのです

そして投降してきたフィリピン人とアメリカ人25万をを捕虜としました

アメリカ軍の降伏により、日本は東シナ海の制海権をゲットし、インド洋やオーストラリア方面への作戦遂行のための絶好の拠点を入手したのです

マッカーサーはというと、オーストラリアから残存勢力に対し激を飛ばしまくりました

「残っている兵は山にこもってゲリラ戦を展開しろ!必要な物資はオーストラリアから潜水艦で補給する!」

まだまだ残存勢力は残っていたのでした

5月9日 金属回収令が公布される

金属類回収令により、寺院の仏具や梵鐘などが強制的に出すことが命令されました

さらに子供が持っているブリキのおもちゃまで強制供出となります

銅像も回収され、仙台の伊達政宗像は下半身を溶かされちゃいました

ほかにも東京にある大石内蔵助・市川団十郎、そして全国の小学校にある二宮尊徳の銅像が回収されちゃいました

ちなみに、上野の西郷隆盛と靖国神社の大村益次郎、皇居前にある楠木正成の銅像はセーフでした

5月13日 「企業整備令」発令 中小企業はボロボロに

政府は産業界を総力戦体制に持っていくため「企業整備令」を出しました

といっても、昭和13年から物資は全て国の管理下におかれていて、中小企業はモノを作りたくても原料がない状態

そこへ中小企業は統廃合をしろという命令が

多くの会社が廃業となり、いらなくなった機材などは全て軍需工場に回されました

5月22日 空の軍神 加藤隼戦闘機 墜落

加藤隼戦闘隊として有名だった加藤建夫中佐がビルマのベンガル湾で死亡しました

加藤中佐は戦闘機の操作技術と射的技術が抜群でした

そのため日中戦争では陸軍の主力戦闘機「隼」で華々しい空中戦を演じており、軍から7回も表彰を受けていました

ビルマでも「加藤隼戦闘隊」を率いて、アメリカの飛行義勇団「フライング・タイガース」と戦い、216機も撃墜していました

この日、加藤中佐はインドのチタゴン基地を攻撃後、消息を絶った部下の捜索報告をアキャブ沖で待っていました

そこに1機のイギリスの中型爆撃機がやってきたのです

加藤中佐はただちに敵機を追いかけ、海面近くに逃げる敵機を追撃

が、加藤中佐が乗っていた機も被弾し、翼が火を噴いたのです

そしてベンガル湾に墜落していったのです

この後、加藤中佐は「空の軍神」として有名になっていくのでした



5月27日 中国・北担村毒ガス虐殺事件

中国の北京から車で4時間ほどの場所にある北担村を日本の第110師団が急襲しました

1227人の住民がいましたが、村人たちは日本軍から逃げるために村を掘りつないでいた坑道に隠れました

そこへ日本軍が毒ガスを投入したのです

坑道の中は地獄のような有様となり、ほとんどの村民が殺されてしまいました

女性は強姦された上、殺されたのです

ちなみに、日本軍はこのような毒ガス攻撃を中国全土で2000回以上行い、数多くの死者を出しています

日本軍はこの事実を、ずっと隠し続けました

6月4日 ミッドウェー海戦で大敗北

山本五十六司令官が計画した「ミッドウェー作戦」は、中部太平洋に浮かぶアメリカの拠点ミッドウェー島を押さえなければ、また日本本土空襲が予想されるため、ここで食い止めようというもの

ちなみにこの時も山本五十六は「この作戦を遂行しなければ辞職する!!」と脅しました

日本軍の第一次攻撃隊が午前1時30分に空母を発進し、ミッドウェーに到着

が、アメリカ軍の攻撃機が島の上空に待機しており、空中戦となってしまいました

それどころか、壊滅させるつもりだったB17爆撃機がすでに島を発進して、日本艦隊に爆撃を加えていたのです

日本軍の4空母「飛龍」「蒼龍」「赤城」「加賀」と巡洋艦1隻、航空機322機が壊滅

そして3500人以上もの死者を出し大敗したのです

中にはベテランのパイロットがものすごく多く含まれていました

東京の軍部では、この作戦が成功すると思ってました

ちゃんと祝宴の準備までして報告を待っていたのです

が、飛び込んできた電報は「大敗北」

軍部のお偉いさんたちは声を失ってしまいました

大本営 ミッドウェー海戦について嘘の発表をする

大本営は、ミッドウェー作戦の戦果を発表しました

アメリカの航空母艦2隻撃沈!(ほんとは1隻)
飛行機120機追撃(ウソ)

日本側の損失はというと

航空母艦1隻喪失(ほんとは4隻)
戻ってこない飛行機は35機(ほんとは空母に搭載していた全機285)

開戦以来日本は勝ち続け、うわついた結果ばかりが公表されていたのに、ここで初めてニュアンスが苦しい大本営発表でした

国民は少し驚きましたが、アメリカのほうが全然打撃が大きいし!と、思っていました

でもアメリカが保有している空母8隻のうち6隻が沈没したので、もう本土空襲はないよ!とか、アメリカが反攻するのは不可能に近い!なんて発表したので、国民は安心してたのです

これがまったくの嘘!!

「知らせぬは当局者 知らぬは国民のみ」

大本営はこの時の大敗を一切国民に隠し続けたのです

6月7日 ミッドウェー作戦はアメリカにバレバレ!?

アメリカの新聞シカゴ・トリビューン紙が「アメリカ海軍はミッドウェー攻撃を知っていた」と、トップニュースで報じました

この記事に対してアメリカ太平洋艦隊司令部が「バカ!暗号解読できるってことがバレるじゃねーか!!」と激怒(したという噂)

どうやらすでにアメリカは日本の暗号を解読していたと言われています

6月8日 アッツ島・キスカ島を占領

日本軍はアリューシャン列島にあるアメリカ領のアッソ島とキスカ島を占領しました

実はこの攻略作戦はミッドウェー作戦と同時に行われていて、あっちは大失敗しましたが、こっちは何とか成功したのです

アッソ島へは陸軍1200人が上陸し、キスカ島へは海軍1300人が上陸

これから航空部隊をこの2つの島に進出させ、北太平洋からの敵の接近を防ぐこととなります

6月14日 アンネの日記

ユダヤ人の13歳の少女アンネ・フランクが、占領軍のドイツに迫害され、アムステルダムの隠れ家に住むことになりました

そしてこの日から、発見され捕らえられる3日前の1944年8月1日まで、25ヶ月間日記を書き続けることとなります

6月18日 アメリカ 原爆開発をスタート

アメリカ陸軍は、原子爆弾の製造を研究開発するための専門機関を設置することに

科学研究開発庁長官のバネバー・ブッシュ博士がルーズベルト大統領に「原爆を作ることができる」と報告したからであります

この組織名は「マンハッタン工兵管区」と名づけられ、計画名は「マンハッタン計画」といいます

6月25日 グルー駐在アメリカ大使が帰国

この日、グルー駐在アメリカ大使を含む「敵性国人」の416人が「浅間丸」に乗って横浜を出航しました

浅間丸はポルトガル領である東アフリカのロレンソマルケスに到着

ここで、アメリカにいた日本の野村吉三郎駐米大使を乗せた「グリップホルム号」と、乗客を交換しました

戦争中ですが、外交的な儀礼を尽くしてお互いの帰るべき船に乗り込み、帰国することになったのです

グルー大使はものすごい親日家でした

実際、野村大使とハル国務長官が和平交渉をしていた時、ハル長官の態度が強すぎる!と、ワシントンに言い続けたそうです

また、戦争を回避するために当時の近衛文麿首相とルーズベルト大統領の会談も考えていました(実際は行われなかったけど)

そんなグルー大使がとうとう日本を離れることとなったのでした

野村大使らは8月20日に中南米にいた日本人外交官と民間人約1400人とともに日本へ戻ってきました
7月2日 アメリカ軍 ラバウル攻略開始

アメリカ軍は日本の基地があるラバウル奪回に向け、「望楼作戦」を決定しました

ちなみにアメリカ軍も日本の陸軍・海軍と同じようにお互いの軍同志で競いあってました

今回のラバウル奪回においても、アメリカ極東軍総司令部のマッカーサーは「一気にラバウルを奪回するぞ!」と言ったんだけど、ライバルのアメリカ太平洋艦隊指令長官のミニッツは「いや、島づたいにラバウルに近づき、確実なやり方でしたほうがいい」と言ってました

2人がもめてたので、陸軍参謀総長のマーシャルが「じゃあガダルカナル島までの攻略はニミッツに任せて、基地を確保してからはマッカーサーにお任せしよう」と妥協案を出しました

こうしてアメリカの陸海軍がなんとか和解し、ラバウル攻略へ挑むのであります

ちなみにこの頃の日本の陸軍と海軍はいまだバチバチと火花を散らしておりました

7月5日 泰緬鉄道の工事が始まる

タイ南部のノンプラドック駅で泰緬鉄道工事が始まりました

鉄道の全長は415キロの予定です

日本から15000人が工事にかけつけ、73500人の捕虜と現地労働者10万人が動員されました

7月7日 日中戦争 勃発五周年

大本営は日中戦争勃発五周年!ということで、今までの戦死者が11万1111人と発表しました

五周年とゆーのも妙な感じですが、ほんとにこのように言ってたのであります

昭和12年7月7日に起きた慮溝橋事件がきっかけでずっと続いていましたが、中国側は62万人の兵が動員しており、その中の11万人が死亡したのです

ものすごい犠牲者の数であり、そして日本側も苦戦し戦況が泥沼化している状況がこの人数からわかります

ちなみに陸軍は戦争結果は日本軍が500勝1敗と豪語していました

7月15日 パリのユダヤ人 強制収容所へ

パリに住んでいる13000人のユダヤ人が一斉検挙され、強制収容所に送られました

ポーランドにある収容所では、毒ガスによるユダヤ人の大量虐殺が行われてていくのでした

7月21日 夏季心身鍛錬が始まる

国民の体力向上を目指すため「夏季心身鍛錬」が全国一斉に始まりました

一番普及しているのはラジオ体操で、早朝から人々が集まり体を動かしました

ちなみに「銃後の守りは国民体力の向上から」というキャッチフレーズであります

7月24日 新聞が一県一紙になる

大本営は言論を統制させるため、さらに紙の無駄遣いをはぶくために一つの県に一つの新聞のみにしろと発表しました

当時700紙ほどあった日刊紙が合計で54紙に統合されたのです

大本営は、これにより新聞の報道内容を統一させることが出来るようになったのでした

7月25日 大本営「対ソ連参戦はお断り」

ドイツから「一緒にソ連を倒そう」と相談されていた大本営ですが、とうとう拒否することを決定しました

理由はミッドウェー海戦での大負けが原因

現在の戦況があまりよくないため、これ以上戦線を拡大するのは危ないということになったのです

現在ドイツは、ソ連領の各地を夏に大規模に攻撃するつもりでいました

日本がやってきてくれれば、東西から挟み撃ちになるためドイツの負担が軽くなるのに・・・と、めっちゃ残念がったのでした

7月 子供たちに軍神の家を訪問させる

東京青少年団は、国民学校の子供たちを各地の軍神の家を訪問させ感想文を書かせました

最初に行ったのは岩佐直治中佐(真珠湾攻撃で軍神となった人)の生家

お次は隼戦闘隊の加藤建夫中佐の生家でした

8月7日 第一次ソロモン海戦 アメリカ軍ガダルカナルへ上陸

この日、アメリカ軍がガダルカナル島に上陸し、反攻を開始させました

2万ものアメリカ兵がやってきて、守備隊の2800人は抵抗もできず建設した飛行場も奪われました

翌日、ガダルカナル島の守備隊を助けに第八艦隊が出撃し、ガダルカナル島とサボ島の間にあるシーラーク海峡に突入し交戦

戦力は互角でしたが、日本軍得意の夜襲でアメリカ軍を圧倒

が、空母からの空襲を恐れ帰還

こうしてアメリカ軍がガダルカナル島に上陸していったのです
8月20日 日本軍先遺隊 全滅

ガダルカナル島に一木清直陸軍大佐率いる1000人の先遺隊がやってきました

そしてアメリカ軍に総攻撃を仕掛けましたが戦車に包囲され全滅

ガダルカナル島の支配権はアメリカ軍に移っていったのです

8月23日 第二次ソロモン海戦

この日ソロモン諸島で日米の艦隊が激突しました

日悪天候によりあまり戦闘ができませんでしたが、日本はアメリカ軍をガダルカナルから後退させることができませんでした

日本軍は8月20日に派遣した先遺隊が全滅したことを知り、5000人をガダルカナルに送り込んだんだけど、その途中にこの戦いが始まってしまいました

いよいよ本格的にガダルカナルの攻防が始まっていくのでした

9月 大日本言論報国会ができる

軍部は「大日本言論報国会」を作りました

言論人を使い、国民にさらに戦争協力させるというのが目的です

東条英機がめっちゃ乗り気で、資金も出したと言われています

が、有名な言論人はお飾りとして使われただけで、実際は戦争が始まってから天皇主義者になりあがった人たちによって牛耳られていました

ちなみにこの会は、のちにヒトラーが自殺未遂を起こした時(昭和19年6月)なぜか激励の電報を出しちゃってます

9月1日 大東亜省ができる

政府は満州などを管理するための「拓務省」を大東亜省として設置しました

東郷茂徳外相は「これでは東亜諸国の自尊心が傷ついてしまう」と反対しました

9月9日 初のアメリカ本土空爆

アメリカ西海岸のオレゴン州沖にいた伊号第二十五潜水艦から、水上偵察機の「春嵐」が発艦し、ブルッキングス市を空襲し、搭載していた焼夷弾二発を投下しました

山林を少し焼いただけにとどまりましたが、これが初のアメリカ本土空襲となります

潜水艦に格納されている飛行機で空襲することは、戦略的にはあまり効果ありませんでした

9月13日 ガダルカナルの攻防 食糧のない日本軍

ガダルカナル島の飛行場奪還のため、今度は兵6000人を率いて川口支隊が突入

が、戦死者を多数出して失敗におわりました

川口隊は食糧を6日分しか持っていませんでした

簡単に飛行場を奪還できると思っていたからです

こうして残された川口隊の兵たちは新たな支援部隊がやってくるまで、食べ物がない状態になってしまったのでした

9月15日 満州建国10周年

満州では建国10周年の式典が首都の新京郊外にある南嶺の総合運動場で行われました

この式典に1万人が参加

現在満州は、日本の物資の供給基地、そして対ソ連用の軍事基地として重要視されています

独立国ですが、実際は関東軍の強い影響下におかれており「日本の傀儡国家」と見られていました

この頃満州国を承認してたのは、日本のほかにドイツ・イタリア・タイ・デンマーク・ハンガリー・ルーマニア・ブルガリア・フィンランド・スペイン・エルサルバドル・南京政府(中国)であります

9月15日 米空母ワスプを撃沈

空母不足に悩むアメリカ軍が太平洋艦隊のために空母を要請

そしてワスプがやってきました

が、ソロモン諸島の南方で、日本軍の魚雷が命中しワスプを撃沈したのです

アメリカが太平洋で稼動できる空母は「ホーネット」のみとなりました

9月 ボーイング社の爆撃機B-29 試作第1号機がテスト飛行に成功!

9月 横浜事件 出版人が大量に逮捕される

8月〜9月号の「改造」という雑誌に連載された評論家・細川嘉六の論文「世界史の動向と日本」が、共産主義の宣伝だ!!とみなされ、二号連続で発禁処分を受けました

論文を書いた細川は治安維持法の違反で逮捕されたのです

改造社は大森編集長と原稿担当者の相川博を退社させ、「改造」の編集者全員の配置転換をしました

が!!

翌年の昭和18年5月に、退社した原稿担当者の相川博と改造社の社員である小野康人が神奈川県の特高に捕らえられたのです

また翌年には改造社 3名を逮捕し、大森元編集長も上海で逮捕

神奈川県の特高は彼らに対して激しい拷問を行い、4人が獄死しました

この事件の逮捕者は、出版言論関係者数十名に及び、逮捕者全員に「共産党再建の準備」という治安維持法違反の容疑がかけられたのです

10月11日 ガダルカナル攻防 日本軍 得意の夜戦で負ける

11日の夜から12日朝にかけてガダルカナル島北西部にあるサボ島周辺で、日本艦隊とアメリカ艦隊の海戦が始まりました

日本側はガダルカナル島へ輸送作戦を実施中で、護衛には重巡洋艦「青葉」「衣笠」「古鷹」などがあたっていました

この輸送艦隊の接近を察知したアメリカ艦隊が、午後9時40分ごろ照明弾を打ち上げると同時に、猛烈な砲撃で襲い掛かってきたのです

日本艦隊の被害は大きく「青葉」が大破し、「古鷹」や「吹雪」が沈没してしまいました

夜戦に自信を持っていた日本側は大きなショックを受けたのです

ちなみにアメリカ軍が夜間だというのに正確な攻撃ができたのは、新式のレーダーによるものでした

10月13日 ガダルカナル攻防 飛行場を砲撃

日本軍の高速戦艦「金剛」「棒名」や軽巡洋艦「五十鈴」ら駆逐艦が、ガダルカナル島のルンガ湾に侵入し、飛行場を砲撃しました

砲弾1000発を撃ち込み、飛行場は炎上し使用不可能に

翌日も重巡洋艦「鳥海」「衣笠」が砲弾を撃ち込みました

その間に、日米両軍はガダルカナル島へ支援部隊を送り込みました

13日にはアメリカ陸軍2800人が上陸

日本軍も戦車や食糧などの陸揚げに成功しました

ちなみに(イツモのことですが)大本営は、ガダルカナル島がアメリカ兵に奪われてことを国民には発表してません

10月13日 最新レーダーが海の底!潜水艦伊30号沈没

日本の潜水艦「伊30号」がイギリス軍が仕掛けた機雷によって大破してしまいました

伊30号は今年の2月に呉海軍工場で完成したばかりの最新鋭の潜水艦

今回ドイツへ行き、ドイツが開発した最新式のレーダーを持ち帰ることになっていました

8月にドイツの占領下にあるフランスのロリアン軍港に8月6日に到着しました

ロリアン軍港はドイツUボートの基地であります

伊30号の乗組員らはめっちゃ大歓迎を受け、パリ旅行まで招待されました

さらに艦長ら将校4人はヒトラーにベルリンに招かれ勲章を授与されるほど

こうして国賓待遇を受け、ロリアンを8月22日に出航し順調な航海をしていました

10月8日にマレー半島にあるペナンに寄り補給したんですが、軍から「シンガポールに寄れ」という命令が

ガダルカナルで苦戦している日本軍のために、最新レーダーを持っていくことになったのです

が、シンガポールでイギリス軍が仕掛けた機雷に触れてしまい、伊30号は大破!!

ドイツが誇る最新レーダーも海の底へ沈んでしまったのです

10月15日 ガダルカナル攻防 アメリカ軍 陸揚物資を空襲

日本軍が前日ガダルカナルに陸揚した爆弾・食糧・重火器などの物資が、アメリカ軍の空襲によって焼かれてしまいました

ガダルカナル島を奪還するべく総攻撃準備をしていた日本軍ですが、陸揚げ物資の多くが失われてしまったのです

10月20日 本土空襲の米兵を3人処刑する

4月18日に行われた初の本土空襲は陸軍の信頼を一挙に失わせることとなりました

↑上にも書きましたが、その時の日本本土爆撃を行ったドゥリットル爆撃団17機のうち、中国本土で二機が撃墜され、陸軍は9人のアメリカ人パイロットを捕虜にしましたよね

この9人の捕虜を日本に連れてきて、ものすごく厳しい取調べを行ったのです

そして彼らに強引に自白をさせました

が、陸軍内部では、「このパイロットたちは一般市民をも銃撃した!極刑にするべきだ」という声がものすごく多かったため、6人に死刑宣告して、実際3人を処刑したのです

世界には国際法というのがあり、捕らえた敵兵は捕虜として扱わなければいけないのに、感情を優先させ処刑してしまったのでした

この処刑の事実は、のちの東京裁判でものすごい糾弾されることとなります

10月27日 ガダルカナル島 南太平洋海戦

ソロモン諸島東沖で南雲忠一中将が指揮する第三艦隊の空母部隊と、アメリカ機動部隊が交戦し日本が勝利しました

空母「翔鶴」「瑞鶴」などから発艦した攻撃隊が、アメリカ空母「ホーネット」を沈め「エンタープライズ」にに大きな損害を与えることに成功したのです

日本軍 戦艦大和を出し惜しみ

ところで、実は8月にあの「戦艦大和」がトラック島にやってきていました

山本五十六連合艦隊司令長官は、ガダルカナル攻防が苦戦しているため「大和」を送り込むつもりでいました

ところが、海軍上層部が大和を出すことを許可せず、山本長官を説得したのです

なんでかというと、連合艦隊自慢の旗艦を傷つけたくないからです

アメリカ軍はこのガダルカナルにおいて、大きな損害を受けながらも総力あげて死守する勢いでしたが、日本軍は大和を出し惜しみしていたのです

もし大和が出ていたらどうなっていたんでしょうね

10月 ウサギを飼育しなさい!

大政翼賛会が、「家兎大増産報国運動」をするよう発表しました

農村だけではなく、都会でもウサギを飼うように奨励したのです

なんでか??とゆーと、寒冷地での防寒用にウサギの毛皮を使うため

ウサギの皮を耳あてや手袋に使用するのでした

11月2日 北原白秋が腎臓病のため死去 58歳

11月12日 ガダルカナル攻防 第三次ソロモン海戦

この日の夜から15日にかけ、第三次ソロモン海戦が行われました

日本側の艦隊は空母「隼鷹」など31隻

ガダルカナル島へ第三十八師団(約3万人)上陸部隊を送り込み、決戦に挑んだのです

日本もアメリカも相当の損害を受けましたが、日本のあまり作戦は成功しませんでした

またも日本はガダルカナル島へ補給をすることができなかったのです

11月14日 大本営 ガダルカナル島のことをやっと発表

大本営はアメリカ軍がガダルカナル島に上陸したことと、現在交戦中ということをやっと発表しました

今回の開戦では、海軍はけっこう戦果を挙げているものの、陸軍は全く戦果無し

が、隠し切れなくなってきたため、とうとう発表したのでした

11月16日 アメリカ軍 ブナに上陸

パプアニューギニアのブナにアメリカ軍2万人が上陸しました

ブナは連合軍の司令部があるポートモレスビーを攻撃するための拠点であります

今回はマッカーサーが本格的に反攻するためにブナ攻略を開始

日本はというと、兵1500人を送り込むことを決めました

11月30日 ガダルカナル攻防 ルンガ沖海戦

ルンガ沖でガダルカナル島へ補給部物資を陸揚げする途中だった駆逐艦隊部隊がアメリカ艦隊と遭遇し、夜戦が始まりました

ここで重巡洋艦「ノーザンプトン」を撃沈し勝利をおさめました

部隊の指揮官は田中頼三少尉で、アメリカの敵艦を発見するとすぐに物資陸揚げを中止しすばやく攻撃に切り替えたことが勝利につながったといわれています

12月 映画「ハワイ・マレー沖海戦」封切り

東宝映画から「ハワイ・マレー沖海戦」が全国で封切られました

映画の内容は少年が猛訓練をし、一人前のパイロットに成長

そして真珠湾攻撃とマレー沖海戦で活躍するという内容です

12月10日 一般会計予算案

政府は予算案を決定しました

総額は約100億円です

が、この金額では戦争費用が足りないため、40億円の追加予算が組まれ、さらに臨時軍事費として270億円という別口の予算が組まれました

実は臨時軍事費の内訳は何に使ったかが明らかになってなくて、大蔵省ですらわかっていない状態

いつも軍の予算要求に対し、誰も口を挟めない状況でした

この巨額の予算を負担するのはもちろん国民

国民が苦労して貯めたお金は、公債として強制的に買わされるのであります

12月12日 天皇 伊勢神宮へ戦勝祈願

天皇が伊勢神宮に参拝にいきました

戦果を伝え、戦勝を祈願したのです

太平洋戦争が始まってからはじめての参拝でした

12月31日 ガダルカナル撤退を決定する

この日の御前会議で、ガダルカナル島を放棄・撤退することが決定しました

予想以上の被害拡大と消耗戦に、戦争体制全体に悪影響が出るんじゃないか?と恐れたのです

度重なる戦闘の中、日本軍はいつまでも制空権・制海権を奪回することができずにいたし、なんといっても1番の理由は食糧がものすごく不足していたのです

多くの兵たちが飢えに苦しんでおり、栄養失調者が続出

丸三日間、何も食べていない状況で出撃させたれたりと、本当に悲惨な状況でした

また、不衛生な環境だったのでマラリアや赤痢などにかかる兵が多くなり、1日100人以上が死んでいました

そのため来年2月に撤退作戦を開始することになったのです

ちなみに今回のガダルカナル攻防の敗因は?というと、最初にあります

アメリカ軍は今回ガダルカナルを占領するために、2万人もの兵を投入しましたが、日本軍は2000人と勘違いしたこと

でもって、たいしたことないだろうと侮っていたことです

欲しがりません 勝つまでは

大東亜戦争開戦1周年を記念して「国民決意の標語」を募集しました

そして当選したのが「欲しがりません 勝つまでは」

これは国民学校5年生の作品ということもあり、大々的に取り上げられました

が、ホントはこの子のお父さんが作ったらしいです

ということで、物不足を乗り越えるためのスローガンとして、いたるところでこの言葉が叫ばれました

すごい内容なので、全文紹介します


さあ2年目も勝ち抜くぞ

たった今、笑って散った友もある

ここも戦場だ

頑張れ 敵も必死だ

全てを戦争へ

その手ゆるめば戦力にぶる

今日も決戦 明日も決戦

理屈言う間に一仕事

「足らぬ足らぬ」は工夫が足らぬ

欲しがりません勝つまでは

非国民

この年になると、全て戦争に向けての協力するのが当たり前というか、強制となっていました

それに反対するような言動をとると「非国民」と非難され、周囲から白い目で見られました

月月火水木金金

「月月火水木金金」というのは、一週間のうちに休みがないという意味の言葉です

海軍はもともと土日がなく、毎日猛特訓するのが伝統だったので、この言葉が作られました

戦争が激しくなってくると、軍隊はもちろん休日返上となり、軍需工場や官公庁なども休みナシで働き続けました



この頃の子供たちの遊び

一番人気は戦争ごっこでした

兵隊さんに憧れて、戦争遊びをする子供がとても多かったそうです

さらに「大東亜共栄圏双六」なるものも登場

ブリキのオモチャが全く無くなったので、すべて木製になっていました

また子供たちは「少国民」と呼ばれていました

雑炊食堂

食糧難が深刻化してきたので、食堂は営業できない状態に

東京では喫茶店や百貨店の食堂などで「雑炊食堂」をオープンしました

名前どおりメニューは「雑炊」

が、お米もどんどんなくなっていき、野菜も減っていくと、お湯だけに

そのため「増水食堂」というあだ名ができちゃいました

参考文献は全てこちら