昭和20年 1945年



昭和20年1945年 年表
日本人と中国人の見分け方

アメリカでは、アメリカに住んでいる中国人が日本人と間違えられ街でリンチを受けるというのが多くなりました

中国人側からしてみれば大迷惑

そこでニューヨークの出版社が「日本人と中国人の見分け方」という本を出したのです

そこに書かれている日本人はというと

・胴が長い

・足が短い

・出っ歯

・メガネをかけている

・愛想笑いをする

戦争中だから人種的偏見は仕方が無いんだけど、アメリカではこのイメージがずーーーーーっと続くんですねぇ

今でもアメリカ映画観てると、出てくる日本人って「チビ・出っ歯・メガネ・七三・カメラ」って感じですもんね


1月9日 アメリカ軍 ルソン島に上陸

アメリカ軍はオーストラリア軍とともに、19万人の兵士をルソン島に上陸させ、マニラに進軍していくことに

フィリピン全域の防衛を担当している山下奉文大将は、マニラを無防備都市として放棄することに

が!!陸軍と海軍の意見が衝突しまくり、指揮系統が大混乱

結局 交戦することになったのです

が、指揮もめちゃくちゃなので兵たちはどうしていいかわからず、どんどんと追い詰められてしまうのでした

1月17日 ソ連軍がワルシャワを解放する

ポーランドでは圧倒的な武力を持つナチスドイツと戦い続けており、市民の5人に1人が死んでいる状況でした

そこへソ連軍がやってきて大攻撃!!

ドイツ軍に代わってワルシャワを占領したのです

ポーランド臨時政府はソ連の影響下に置かれることになり、ロンドンに亡命中だったポーランド政府がめちゃ抗議しました

が、ソ連はその抗議を受け付けず、ポーランド臨時政府を承認し、ワルシャワを開放したのでした

1月20日 帝国陸海軍作戦計画大網!!一億総特攻へ

大本営陸軍部では、本土決戦に備えて軍の編成を大幅に見直すことにしました

本土決戦に必要な人数はというと、戦闘要員に150万人で後方支援50万人

そして国民義勇隊を結成する計画をたて、15歳から60歳までの男子と、17歳から40歳の女子を全て集めて義勇隊に編入させることに

海軍の大西滝治中将は「日本人が2000万人死ねば相手も相当な数が死ぬ。そうすれば占領をあきらめてアメリカに帰るであろう」と宣言

国民が死ぬことが戦略なのでした

こうして一億総特攻へ日本は突き進んでいくのでした

1月27日 ソ連 ナチスのアウシュヴィッツ強制収容所を解放

2月4日 ヤルタ会談

この日から2月11日までアメリカのルーズベルト大統領、イギリスのチャーチル首相、ソ連のスターリン首相が出席し、連合国側三首脳会談が開かれました

この会談の内容は敗戦国の戦後処理をどうするかというもの

ちなみにソ連は日本と不可侵条約を結んでいるので、アメリカ・イギリスの対日参戦を許可したお礼に、日本が負けて戦争が終わったら千島列島と南樺太をくれと要求

また、ソ連はドイツが降伏してから3ヵ月後に対日参戦するといったことも言ってました

2月13日 連合軍がドイツの古都ドレスデンを無差別攻撃!!6万人の市民が死亡しました

2月17日 マッカーサー 無差別砲撃を許可する

1月9日にルソン島に上陸し、マニラへ進軍していたアメリカ軍に マッカーサー元帥がマニラ市街での無差別砲撃を許可しました

日本の守備隊は2万人でしたが、彼らは激しい抵抗をすることが予想され、歴史的な文化遺産が破壊される危険も出てきました

アメリカ軍の無差別攻撃が始まれば日本軍に勝ち目はなく、マニラ市民にも大きな被害が出てしまいます

2月19日 アメリカ軍 硫黄島に上陸

アメリカ軍はサイパン・フィリピン・グアム・テニアンとどんどん日本の南方拠点を陥落させていました

本土空襲を本格化させるために大勢力を結集し、本土に迫っていました

そしてとうとう硫黄島に上陸してきたのです

日本軍の守備隊は栗林忠道中将が指揮する21000人(そのうち海軍が8000人)

守備隊は全島に交通壕を掘り、地下陣地にもぐりこんで時々地上に出て交戦という戦い方をしました

栗林中将は硫黄島に来る前に東条英機首相にこう言われました

「どうか、アッソのように戦ってくれ」

増援はできないから、玉砕するまで戦えという意味です

2月23日 アメリカ軍 マニラ市を占領

3月10日 東京大空襲

この日、B29が300機以上、東京上空にやってきました

そして約2000トンの爆弾と焼夷弾を投下したのです

この日は陸軍の記念日で、日露戦争で勝利したのを記念した日でした

アメリカ軍はその日を狙ったのです

今までのアメリカ軍の空襲は、全て目標が軍需工場といった施設が中心だったのですが、今回は無差別攻撃でした

あたり一面に爆弾を落とす「絨毯爆撃」で、被害はものすごいことになってしまいました

運悪くこの日は強風だったため、火の手はすぐに燃え広がり深川などの下町は火の海に

死亡者は10万人以上という、ものすごい被害となったのです



ラッキョウを食べると爆弾に当たらない!?

東京大空襲以後、東京都内では毎日爆撃が続いていました

恐怖心に打ちのめされた人々の中で、さまざまな噂話が飛び交いました

どうやら、朝、ラッキョウとご飯だけで食事をすると、その日一日は爆弾に当たらないというものです

これには条件があって、友達に教えたとすれば、その友達もこれを実行しないとダメというもの

そのうちラッキョウが梅干に代わったりと、激しい爆撃を受けるたびにこんな噂が飛び交いました

警視庁が必死にその噂を打ち消しまわったといわれています

3月22日 アラブ諸国連盟成立(エジプト、シリアなど7カ国加盟)

3月26日 アメリカ軍 沖縄上陸目前に

アメリカ軍はこの日、沖縄にある座間味島・阿嘉島・外地島などを占拠

27日には渡嘉敷島を占拠し、島民たち300人は自決してしまいました

こうしてアメリカ軍は沖縄本島まで30キロの島々に攻撃拠点を確保し、いよいよ沖縄上陸目前となったのです

3月27日 硫黄島が陥落

硫黄島に上陸したアメリカ兵を迎え撃つのは21000人の日本軍

もはや勝ち目はありませんでした

日本軍がとった作戦は、島のいたるところに地下壕を掘ってゲリラ戦を展開すること

少しでも本土決戦を遅らせるための持久戦でした

栗林は「一人十殺」を兵らに誓わせ、「最後の一人になってもゲリラとなって戦わん!」と、毎日言いました

が、3月17日になると指揮官の栗林忠道中将が「もはやこれまで」と、大本営に決別の電報を打ちました

そしてついに残った400人の兵で最後の突撃をし玉砕したのです

硫黄島での日本軍の戦死者は20000人

アメリカ軍の戦死者は6800人で、戦傷者は22000人にものぼりました



3月30日 翼賛政治会解散する 大日本政治会結成!

4月1日 米軍 沖縄本島へ上陸

この頃になると、日本の敗戦は目に見えるようになってきました

が、狂信的な皇国主義者が必死で「神の国」や「カミカゼ」を叫び、人々はそれにすがるしかありませんでした

そんな中、いよいよアメリカ軍が沖縄本島に上陸を開始したのです

アメリカ軍は45万人という大勢力で上陸してきました

アメリカ軍は太平洋で持っている全ての軍事力を沖縄につぎ込むことにしたのです

日本軍はこの戦いを本土への攻撃を遅らせるための前哨戦と考えたので、沖縄には少ない兵力しかありませんでした

この間にアメリカ側の手薄な部分を・・・と考えたからです

そのため、住民を巻き込んでの死闘となり、沖縄の人口の3分の一である15万人もの人を命が失われてしまことになるのです

アメリカ軍は1日の早朝から猛攻撃を開始しましたが、日本側の反撃はまるでなし

夕方までにはどんどんと上陸作戦が完了し、「ピクニック気分」と冗談まで出るほど

沖縄を防衛する牛島満中将を司令官とする第三二軍の将兵と17歳から45歳の県民で編成した25000人の部隊がありましたが、アメリカ軍の圧倒的な兵力になすすべも無し

ちなみに沖縄戦の作戦はというと、持久戦に持ち込むことでした

そのため、沖縄県民全てが戦場に立たされましたが協力する県民を軍は大事にしませんでした

スパイ防止のために琉球語が禁止になったり、非難している壕から県民を追い出して兵たちが独占したり、捕まってアメリカ軍に協力させないために自決を強要したり、壕の中で泣く赤ちゃんを居場所がばれるからと殺させたり・・・

本土決戦への時間稼ぎのために日本軍はガマと呼ばれる沖縄の洞窟や地下のコンクリート陣地に潜んでいたのですが、圧倒的なアメリカ軍の強さには何もできません

っして、結末は「自決」なのでした・・・



沖縄は「軍民一致で抗戦!!」

沖縄では、アメリカ軍が上陸してくる前に49万人の人口のうち老人や幼い子、女子など8万人を本土へ輸送しました

その際、どさくさに紛れて本土へ逃げ帰る官吏や教職員がたくさん出たため問題に

この報を受けた沖縄県知事の島田アキラは、軍民一致で抗戦すべし!!と指導

沖縄の中等学校生徒1685人を「鉄血勤皇隊」とし、女性徒543人を看護要員として「ひめゆり部隊」として結成させました
4月5日 小磯内閣が天皇の信任を失い総辞職

4月7日 鈴木内閣結成 「屍を踏み越えて往け」

総辞職した小磯国昭内閣の後に鈴木貫太郎内閣が結成されました

77歳の海軍の長老であります

鈴木首相はラジオの就任表名で「屍を踏み越えて往け」と演説し、和平を望む国民らから失望の声があがったのでした
4月7日 戦艦大和 撃沈!!

日本が世界に誇る戦艦「大和」が、薩摩半島から200キロの海上でアメリカ軍の攻撃機380機に猛攻撃を受けました

そして沈没してしまったのです

大和は沖縄にアメリカ軍が上陸したことを受け、慌しく出撃が決定しました

大和が出撃するという情報を聞いた沖縄の牛島中将は「大変ありがたいですが、沖縄付近の制空権が確保されていないので攻撃は難しいと思われます。出陣は取りやめてください」と意見しました

今、沖縄にきても何の役にも立たないというコトがわかっていたからです

が、その意見は無視され大和は出陣

ですが、大和が出撃したところをアメリカ潜水艦に発見され、ずっとつけられていたのです

大和は攻撃されてから2時間ほど耐えていましたが、ついに沈んでしまい、乗組員3000人のうち2500人も戦死してしまいました


4月12日 ルーズベルト大統領が急死

ルーズベルト大統領が急死してしまいました(63歳)

トルーマン副大統領が新大統領に

4月24日 金のしゃちほこが疎開

名古屋城のシンボル「金のしゃちほこ」が戦災を避けるために取り外されました

アメリカ軍の都市部への空襲が強まる中、しゃちほこは守らなくちゃ!ということで、多くのボランティアが参加しました

4月25日 アメリカ軍とソ連軍 エルベの誓い

アメリカとソ連の軍が、ベルリンから南へ120キロほどのエルベ河畔で合流し、お互い力を出し合って勝利を確実にし、二度と戦争が起きないように誓おう!と、話し合いをしました

これを「エルベの誓い」といいます

4月27日 ムッソリーニ銃殺される

イタリアのファシスト政権を率いていたムッソリーニ元首相は、愛人のクラレッタ・ペタッチと一緒に逃走しました

が、パルチザンに捕らえられ、銃殺されたのです

61歳でした

ムッソリーニの遺体はミラノに運ばれ、ロレッタ広場で逆さづりにされました

広場に集まった人々はムッソリーニの遺体に石を投げたりと、怒りをぶつけたのでした

4月30日 ヒトラーが自殺!!

ドイツのヒトラー総裁が首都ベルリンにある官邸の地下壕で自殺しました

25日にアメリカ軍とソ連軍がベルリンのエルベ川で合流し、ベルリンは連合国軍に包囲され、陥落はもはや目に見えていました

ヒトラーは愛人のエバ・ブラウンと結婚式を挙げた直後、ピストルで自殺したのです

56歳でした


5月2日 ベルリン陥落

5月7日 ドイツが無条件降伏する

ヒトラーの自殺により、ドイツの敗北が決定的となりました

この日、フランスのシャンパーニュ地方の都市ランツでドイツが無条件降伏する調印式が行われました

ヒトラーの遺言でドイツ首相となったのがデーニッツ提督なんですが、デーニッツはすぐにヨードル将軍らを連合軍司令部がある都市ランスに派遣し、和平交渉をすることに

ドイツの代表がランスに行ったのは、ソ連に降伏するのがイヤだったから

ソ連としては「ベルリンに一番乗りしたのはソ連♪」という意識があったため、ドイツがソ連に降伏するのを嫌がってランスまで行ったのに腹が立ってました

スターリン首相は、ソ連がベルリンを陥落させたんだ!!というのを明確にするために、再度ドイツの降伏文書調印式を要求し、9日にベルリンでも行われました

こうしてアメリカとソ連による戦後どっちが得できるかという駆け引きが行われ行くのです

5月10日 アメリカのオリンピック作戦とコロネット作戦

アメリカ統合参謀本部会議は、オリンピック作戦(九州上陸作戦)を決定しました

攻撃予定日は今年の11月1日

オリンピック作戦が成功したら、コロネット作戦(関東上陸作戦)を行うことを決めたのです

そして、原爆の開発状況とともに、日本進攻作戦を考えていたのでした

5月14日 終戦工作が開始される

鈴木首相は阿南陸相や米内海相、東郷外相らを集め、最高戦争指導会議を開きました

会議の開催を提案したのは、ずっと早期和平を主張していた東郷外相であります

この会議で決定されたのは

@ソ連の対日参戦を防止する

Aソ連の好意的態度への誘導

B和平交渉の仲介役をソ連にお願いする

ソ連への交渉役をするのは駐ソ大使だった広田弘毅に決定

東郷外相は「ソ連に仲介役を頼むなんてもう手遅れだ!!」と、反論していたんですが却下されました

5月25日 皇居が炎上

B29 470機がまたも東京を空襲しました

この日の被害は死者400人 被災家屋が66000となりました

もはや東京は空襲しても効果がないんじゃないか?というほど、一面焼け野原

この日は首都防衛ができず、皇居の表御殿までもが炎上し、軍と都民に大きな衝撃を与えたのでした

5月27日 海軍記念日

この日は明治39年(1906年)から続く40回目の海軍記念日

連合艦隊の勇ましいポスターが街中に貼られましたが、もはや誰も見向きもしませんでした

5月28日 国務次官グルー 天皇制維持を提言する

アメリカの国務次官であるグルーが、トルーマン大統領に対して「日本を無条件降伏させるためには、天皇制の維持は必要である」と意見しました

が、アメリカ政府内にもいろんな意見が飛び交い、今回は見送りとなったのです

5月 アメリカ陸軍の「日本の文化財保護リスト」

アメリカ陸軍が日本の守るべき文化財をまとめた小冊子を発表しました

リストを作成したのは、東洋美術研究家のラングドン・ウォーナー

ハーバード大学を卒業したラングドンは、日本にもやってきたことがあり、文化財の研究などを行っていました

ラングドンがリストアップした日本の文化財は138で「日本には6世紀以降、極東で生み出されたもっとも貴重で美しいものが残されている。それらを失うことは人類の大きな損失である」と述べました

6月4日 沖縄戦 太田少将率いる部隊が玉砕

太田実少将率いる海軍部隊が、アメリカ軍と交戦しました

が、9000人の兵士のうち銃を持っているのは30%程度で、他は竹槍や自分で作った手榴弾のみ

勝敗は見えていました

太田少将は「沖縄県民潔ク戦エリ 県民ニ対シ 後世特別ノ後高配ヲ賜ランコトヲ」と、海軍次官宛に電報を打って玉砕したのです

6月18日 ひめゆり部隊49人が戦死

沖縄師範学校の女子部と、沖縄県立第一高等女学校の生徒によって組織されていた従軍看護婦隊の「ひめゆり部隊」の49人が、陸軍第三外科の地下壕で戦死してしまいました



6月23日 沖縄戦が終わる

凄まじい戦いが三ヶ月間の間、沖縄で繰り広げられました

アメリカ軍は21日に司令部壕の垂直坑道に爆撃を投下し、勝利宣言をしました

日本の第三二軍司令部は、もはや沖縄戦を終わりにしようと決めたんですが、残された県民達がアメリカの捕虜になることを拒み、いまだ戦い続けていたのです

アメリカ軍は牛島中将に降伏勧告状を送りましたが、牛島中将はこれを拒否

そしてこの日、牛島中将と、参謀長の長勇中将が自決したのです

こうして沖縄での戦いが終わりました

日本軍の投降者はたった一割しかいませんでした

他は全て玉砕したのです

毎日のように学徒動員で出征した少年達がアメリカ軍の艦隊にぶつかり、沖縄の空で死んでいったのです

さらに沖縄の住民達の多くが死んでしまったのでした

6月30日 花岡事件

秋田県の同和鉱業が経営する黒鉛採掘のための花岡鉱山で、強制連行されてきた中国人労働者850人が決起しました

日本では労働力不足のため中国人労働者を強制連行しており、その数は4万人以上

花岡鉱山は鹿島組が管理していて、昭和19年8月以降、1300人の中国人が配置されていました

が、食事も充分に与えられず、1日12時間以上働かされ、さらに現場監督から日常的に暴行を受けており、いままでに140人もの死者を出していました

彼らはそれに耐えられなくなり、とうとう蜂起したのです

監視役の日本人4人を殺害し、警察署を襲撃した後逃亡しました

が、鹿島組をはじめ地元の警察や消防団員が徹底的に追いかけ、全員を補足

逮捕した中国人を拷問し、100人以上が死亡してしまいました

そして食事を与えられず厳しい取調べを行ったため、さらに420人が死亡したのです

7月16日 アメリカ 原爆実験を行う

アメリカがニューメキシコ州アラモゴードの砂漠で新型爆弾の実験を行いました

新型爆弾の破壊力は凄まじく、「近くの山が閃光で真っ白に染まった」そうです

これまでアメリカはソ連に強く対日参戦を促してきたんだけど、今回の実験が成功したことにより、ソ連を入れずにアメリカとイギリスだけで日本に降伏を迫ろうと考えるようになったのでした

7月26日 ポツダム宣言が発表される

アメリカのトルーマン大統領・イギリスのチャーチル首相・中国の蒋介石政府主席の名前で「ポツダム宣言」が発表されました

内容は、日本の軍国主義勢力の除去と民主主義の確立を掲げ、日本に無条件降伏をしなさいというもの

ソ連の名前が入っていないのは、日ソ不可侵条約があるから!といったものではなく、水面下で対日参戦に向けて動いているためタイミングを計っているから

上↑に書いた「和平交渉に仲介役をソ連にやってもらおう!」という計画も、思いっきり断られちゃいましたからね

ポツダム宣言を受けた日本はというと、実は6月22日には天皇が戦争終結に努力しなさいという命令を出していました

が、鈴木内閣は少しでも有利な条件を引き出すために、今回の宣言は黙殺したのです


7月 鈴木内閣 富くじを発行

鈴木内閣は戦争資金をまかなうために富くじを発行しました

富くじのネーミングは「勝利」

貧乏生活もピークだった庶民達にとって、一枚10円の富くじで一等10万円は夢のようなお話で大人気となりました

ちなみに締め切りは8月15日

皮肉なことに「勝利」とは正反対になってしまうのであります

8月6日 広島に原爆が投下される

午前8時15分

西太平洋マリアナ諸島のテニアン島から飛来したB29「エノラ・ゲイ」が、広島市に原爆を落としました

高度9600メートルかた投下され、50秒後に高度580メートルで爆破した原爆は、強烈な閃光を放ち、激しい熱風と放射能が地表を襲いました

そしてキノコ状の巨大な雲が15000メートルもの高さまで立ち上がったのです

爆心地から半径2キロ以内の市街地は一瞬にして消滅してしまいました

死傷者は即死だけでも8万人以上となったのです

まもなく雨が降ってきましたが、雨の色は真っ黒でした



トルーマン大統領 原爆投下を発表

原爆投下から16時間後、トルーマン大統領はこの爆弾が原子爆弾であることを発表しました

日本がポツダム宣言を無視したため、投下に踏み切ったと述べました

そして日本の戦争遂行能力を徹底的に破壊するため、すべての都市機能を抹消する準備が出来ていると言い切ったのです

原爆候補地は京都だった!?

広島が原爆を投下されましたが、最初の予定地は4つ

最大の爆薬工場がある小倉
日本軍の輸送船団集合地である広島
アルミ工場や輸送船の終着港である新潟
100万人の人口と原爆効果測定にもっとも適しているとされる京都

4つの候補地を知ってクレームを出したのはスチムソン陸軍長官

京都の貴重な文化財に被害を与えてしまうと、世界的な非難を受け、外交的にも不利になってしまうとして猛反対

そしてスチムソンの部下でついこないだまで日本空襲の総指揮をとっていたアーノルド大佐が「京都の代わりに長崎を考えてはどうか?」と言いました

結果、第一候補は広島 第二候補 小倉 第三候補 長崎となったのです

広島は、海軍施設が集中している呉市に近くて人口の多い、そして最大のポイントは「連合軍捕虜収容所がないのは広島のみ」ということでした


8月8日 ソ連が日本に宣戦布告

午後11時 ソ連は日ソ中立条約を破棄し、日本に宣戦布告をしました

佐藤駐ソ大使が、モスクワのクレムリン宮殿でソ連のモロトフ外相から「対日宣戦布告文」を受け取ったのです

佐藤大使はソ連を仲介役として和平交渉をしていたので、モロトフ外相から招かれた時、まさかこんな事態になるとは思っていませんでした

ソ連は翌日の9日には満州国と樺太の国境線を超えて、大軍で攻め込んできました

ソ連参戦の裏事情

ソ連は焦って参戦を発表しました

というのもアメリカが原爆を投下したからです

原爆投下によって日本が降伏してしまうと、ソ連は参戦の機会を逃してしまいアジアの覇権をアメリカに奪われてしまうから

そのため、時期を早めて参戦に踏み切ったのです

満州 地獄の逃避行

満州では突然のソ連参戦で大パニックに

満州にいる居留民派160万人いましたが、いっせいに引き上げが始まったのです

全財産を失い逃げる居留民でしたが、飢えと疲労に加え、盗賊などにも襲われ、またソ連軍に追われ、大量の死者がでました

関東軍は??というと、兵力も装備も圧倒的に強いソ連軍がやってくる!という情報をキャッチすると、民間人を見捨ててさっさと逃げてしまったのです

こうして居留民の地獄のような逃避行が始まったのでした

8月9日 長崎に原爆が投下される

午前11時2分

広島と同様にテニアン島から飛来してきたB29が、長崎に原爆を投下しました

長崎も壊滅状態となったのです

最初は小倉を目標としていたんですが、この日の小倉上空は雲が多く原爆投下に適していなかったため、B29は長崎へ迂回したのでした

8月10日 聖戦を戦い抜かん!!阿南陸相が全軍叱咤

阿南陸軍大臣が訓辞を発表しました

「全軍将兵に告ぐ!!」から始まり、楠木正成の言葉を使い「死中自ら活あるを信ず」と叱咤

一人残らず命を賭けて戦うよう伝えたのです

8月13日 無条件降伏のビラがまかれる

B29が「日本が無条件降伏した」というビラを東京上空からまきました

アメリカの撹乱工作です

8月14日 敗戦が決定

午前10時50分から御前会議が開かれました

そこでポツダム宣言を受諾し、降伏することを決め、天皇に上奏したのです

実は9日の深夜から10日に開催されていた御前会議で「天皇制の存続を条件」として天皇自らが決断したのです

そして10日に条件付での受諾を連合国に通知し、海外歩向け放送で宣言受諾が世界に伝えられました

が、軍部が激しく非難

12日に連合国軍からの答えがやってきて「天皇および政府の統治権は連合国軍最高司令官へ従属すること
」とあり、軍部が激怒し、反対意見がでました

が、この日天皇が再び受諾を決定し、敗戦が決まったのです

午後には詔が作成されました

天皇 終戦の詔書を読む

閣議で終戦の詔書を天皇自らが読むことが決定しました

夜、NHKの職員が宮内庁の天皇執務室で録音を行い、録音盤は皇后官職事務官室軽金庫に置かれ、放送教会に運ばれました



8月15日 クーデター発生

この日の未明、近衛第一師団所属の椎崎三郎中佐と畑中健二少佐を中心とした将校らが皇居を一時占拠しました

ポツダム宣言受諾に反対してのクーデターです

彼らは近衛第一師団の森団長を説得しましたが、断られたため皇居内にある師団司令部の参謀長室で殺害し、師団長の名前で偽の命令書を出し皇居を占領

東部軍に決起をよびかけましたが、逆にクーデターをやめるよう説得され、翌日鎮圧されました

録音盤は無事でしたが、首謀者2人は自害しました
8月15日 阿南陸相 割腹自殺する

早朝、阿南陸相が陸相官邸で割腹自殺しました

今までずっと本土決戦を強く主張していたため、降伏に反対しての自殺といわれています

遺書には「一死ヲ以テ 大罪ヲ謝シ奉ル」と書いてありました

翌日には軍令部次長の大西滝治郎海軍中将(特攻の生みの親と言われている人)も自害しました

8月15日 玉音放送が流れる

朝 7時21分 天皇の放送があるということが全国に流されました

そして、正午、多くの国民がラジオの前で起立をし、天皇の録音放送に耳を傾けました

流れてきた放送は、ラジオ放送が始まって以来、もっとも国民に大きなショックを与えるものでした

ラジオは雑音が多く、「朕 深く 世界の大勢と 帝国の現状とに・・・」

天皇の玉音放送とともに日本は無条件降伏したのです

放送後、皇居前広場では土下座して泣き続ける人で溢れかえりました

また、割腹自殺する人も数多く出てしまったのです

無条件降伏を信じない国民達

この日の玉音放送は、雑音が入り続けたためよく聞こえない人が多かった

そのため「終戦」ではなく、「もっとガンバレ」といった、奮起を促す放送だと思っていた国民がたくさんいました

が、夕方頃になると日本全国で「終戦」が伝わってきました

けど、「どうやらあの放送はニセモノのようだ」とか「アメリカを欺くだめの嘘だ」といった噂が流れ出し、終戦を信じなかった国民が多くいたのです

数日後、終戦は本当だということがわかってきました

すると「さすが日本だ。無条件降伏といってアメリカに何の条件もつけさせずに負けたんだ。たいしたものだ」ということに

どうやら違う解釈をしたようで、日本は敗戦国になりながらも、アメリカから条件をつけられずに負けた。日本は自らの意思で動いたのだ。日本は戦争に負けたことにはならない

なんてコトを言い出す人も多くいたのでした

噂がいっぱい飛び交いまくる

↑に書いたように、様々な嘘や噂が飛び交いましたが、ほかにも色んなのがありました

・日本人は危険だということになったので、もう日本人を作らないよう全員海外に移住させられる
・女性は全てアメリカ人に強姦される
・未婚女性はアメリカ人男性の慰み者になる
・日本男性は全員が去勢させられる

などなど

こんなすごい噂が飛び交いまくったため、この1週間後に「進駐軍を迎える国民の心得」というのが発表されることになります

あ、進駐軍というのは他の国に進軍し、そこへ駐屯する軍隊のこと

これから敗戦国となった日本には、アメリカ軍が進駐軍としてやってくるんです

その時の心得をちょっと紹介しちゃいます

・これからやってくる進駐軍は、日本政府と平和的に話し合っているので、暴行略奪等な無いと信じているから、国民は普通どおりに安心して生活しなさい

・進駐軍と個人的接触をするのはやめなさい。相手側から求めてきた場合でも毅然とした態度をとること

・女子は日本婦人としての自覚を持ち、外国人に隙を見せてはならぬ

・婦女子はふじだらな服装や胸をあらわにする服装は絶対禁止

8月15日 最後の特攻

この日の午後、第五航空艦隊指令長官の宇垣中将らが、17人の部下とともに大分の基地から沖縄のアメリカ艦隊に向け、特攻を行いました

もはや司令部からは攻撃中止命令が出ていたんですが、出撃したそうです

8月15日 鈴木内閣総辞職

戦争を終えた東京の様子

東京が最初の空襲をうけたのは昭和17年4月18日

最後の空襲は終戦当日の8月15日午後1時20分

昼も夜も空襲を受け続け、その数122回 4870機によって11000発の爆弾と、389000発の焼夷弾が投下されました

2863000人の都民が家を失ってしまったのです

仕事場も燃えてしまったため、終戦の日から10月までに失業者は448万人

そこへ戦争から帰ってきた人が761万人、在外引揚者が150万人

全てをあわせて1359万人が住む場所も働く所もない状態になったのです

皆、飢えと戦っていました

東京から富士山が見える状況の中、人々は駅や車、神社仏閣の軒下などで寝起きし、なんとか生きていく状況だったのです

太平洋戦争を終えて@ アメリカ兵の考え方

日本兵とアメリカ兵は全く違う考えでした

例をあげると、ヨーロッパ戦線で活躍していたアメリカのパットン将軍

彼が陸軍病院に行ったとき、一人の兵隊にアレコレと質問をしました

するとその兵隊の答えがしどろもどろだったので、パットンは「戦場が恐くて仮病をつかい病院に逃げ込んだな?この臆病者!」と怒鳴り、兵隊をビンタしました

その場をカメラマンが撮影し、全米に報道

するとパットン将軍が大バッシングされたのです

ビンタでですよ??

日本の陸海軍ではビンタどころか殴る蹴るの暴行は当たり前で、暴力により判断を停止させてました

そして、敵に捕まった場合

日本は「捕虜になるのは恥」とし、玉砕や自害を教え込みました

が、アメリカは「我慢をするな。日本の軍人を神のように扱い、知っていることは隠さず話して生き延びろ」と教えていました

そして飛行機

アメリカの飛行機は弾が当たっても簡単に落ちないようになっていました

が、日本の零戦などは弾が当たればすぐに火を噴きました

アメリカは「命を守る」ことが第一だったのです

そして日本はそのアメリカの「命を守る」工夫を「臆病だ」と感じていたのでした

太平洋戦争を終えてA 日本の戦没者

厚生省が調べたところによると、日中戦争〜太平洋戦争mでの戦没者は320万人

そのうち、軍人は230万人 外地で戦没した一般の日本人は30万人 内地での死没者は50万人だそうです

場所の内訳を多い順から

フィリピン 518000人

中国本土 465700人

中部太平洋 247000人

東部ニューギニア・ソロモン諸島・ビスマルク諸島 246300人

満州 245400人

沖縄 186500人

ビルマ(今のミャンマー)・インド 167000人

西部ニューギニア 53000人

旧ソ連の本土 52700人

インドネシア 25400人

樺太・アリューシャン・千島 24400人

シンガポール・マレー・タイ 21000人

硫黄島 20100人

韓国 18900人

ボルネオ 18000人

ベトナム・カンボジア・ラオス 12400人
太平洋戦争を終えBスッゴイ教育だった小学校

今思うと、すっごい教育でしたよね・・・ニホン

もともと日本の教育制度は1872年に始まり、いろいろと変化しつつ1890年に教育勅語が出され、小さい頃から「忠君愛国」を徹底されるよーになってきました

大正デモクラシーの影響で、自由な教育!って声が強くなってきたんだけど、昭和になってからはガンガンと軍国主義になっていきます

小学校一年生の国語の教科書には「ヒノマルノハタ バンザイ バンザイ」といった言葉が現れるようになりました

でもって昭和16年には小学校は「国民学校」となり、天皇のために死ねる人間を作ることとなったのです

教科書は軍国主義の言葉でびっちりで、日本を賞賛しまくる言葉もびっちり

日本は世界で一つの神の国という特別さを植え付け、小さいころから天皇のために生きているんだよ的な教えをがっつり教え込みました

特に男の子には将来国の為の忠実な兵士になるようにしたのであります

また軍神などの話もすっごい取り入れ、子供たちが将来軍人に憧れるようコントロールしてたのでした

このような軍国主義的な教育は戦争が終わるとすぐに廃止されます

そして軍国主義を子供たちに教え込んだ教師は学校を追い出されることとなっていくのでした

太平洋戦争を終えてC 管理人ハガクレのひとりごと

ドイツのシュミット元首相が「日本は第二次世界大戦に対する罪の意識がない」と驚いていました

確かに、日本人は太平洋戦争のことを知らなすぎる・・・とは思うんだけど、学校でも詳しく習ったという感覚がないんですよね

なんというか、ちょっとタブー的なものになってませんかね??

今考えると、日本はひどいことをした・・・・というのは、わかります

だけど、当時の時代背景を思うと、それが戦争なんではないか・・・とも思ってしまいます

日本の真珠湾攻撃はアメリカ側からとって「なんて卑怯な国だ」と、ボロクソに非難されてますが、あれだけヨーロッパで奇襲攻撃をしたヒトラー(つまりドイツ)ってあまり卑怯者呼ばわりされてないんですよね

あるアメリカ人がそのことを「なるほど、彼はアジア人ではなかった」と皮肉っていますが、なんせ日本は反省が足りないってバッシングされまくりですよねぇ

個人的にそこにある黄色差別・白色優位主義がすっごく気になるんですが、この戦争による「正しい歴史認識」っていったいどう思えば正しいんだろう?と、思ってしまいます

そこで私が共感した作家の佐治芳彦さんのご意見をおひとつ

「この戦争を取り上げる場合、否定的に取り上げる分には自由だが、肯定的に取り上げることはタブーといっていい。確かに戦争より平和がいい。戦争を否定的に取り上げるほうが進歩的である文明的だ。
それだけでなく民主的として支えられている
平和憲法がかつての万世一系の天皇以上の絶対性を持って君臨している日本の戦後状況・・・。

中略

国連憲章には「敵国条項」がまだ生きている。日本を依然として旧敵国として位置づけることによって日本が国連の安保常任理事国になることを防ぐ
日本の国際政治的大国化を妨げようとする旧連合軍(戦勝国)の意図も隠見する。
この国内・国外的な状況が戦争について語るタブーを産んだ

だが、戦争はつねに然るべき原因があってこそ起きるものだ
したがって、戦勝国の正義の理論からみた一方的な反省などから太平洋戦争の真実が見出されるはずがない」

まさに私が思ってることを代弁してくれたお言葉なんですが、かといってワタクシが正しい歴史認識を知ってるか?と言われたら、答えはNOなんですけどね

でも、ワタクシなりの第二次世界大戦を認識する手段としては、戦争を体験した人たちの話を聞くことにしてます

おじいちゃんやおばあちゃんなど、戦争を体験した人はまだいっぱいいます

実際にあの戦争を体験した人でしかわからない思いを聞いてみたいし、そしてこれを読んでる子供がいたらぜひ聞いて欲しいなと思いますね

それで戦争のひどさや、今自分達が平和で幸せな毎日を送れるのは、こういった歴史があったからだというのをわかってほしいなとは思います

って、偉そうなことをいえる立場ではないんですが(汗)とりあえずこの戦争について思ったことをボソっと書いてみました

8月16日 連合国最高司令官からの電報が届く

この日の朝、政府の元に届いた電報がありました

連合国最高司令官からの電報で、あて先は大本営宛でした

「降伏条件を遂行するため必要な諸要求を受領する権限を持っている代表者を派遣することを命ず」というもの

その他にも連合国の代表一行が、どのような方法で、どういう飛行機に乗っていつやってくるかということを細かく命令する電報も届きました

この電報を受けて政府はめっちゃパニックに

なにしろついおとといまで戦争をやっていて、昨日は終戦となり放心状態

だれもこの電報に書いてある役目などしたくない

大本営がとりあえず次長クラスの人を代表団に仕立て上げてマニラに向かうことになりました

というkとで、とりあえずこの代表団はマニラに行き、アメリカとの間で色んな事務的なことを打ち合わせ

そして決まったのが派遣するのは「マッカーサー」で、厚木の飛行場に行くということでした

韓国が日本の占領から開放されました

8月17日 東久邇宮内閣発足

鈴木貫太郎内閣が総辞職となったため、東久邇宮内閣が新たに発足しました

東久邇宮首相は皇族なため、内閣制度が始まって以来の皇族内閣であります

武装解除に抵抗をしている軍部の一部をおさえるために、皇族を首相にしたのでした

8月18日 満州国滅亡

この日満州国の皇帝が退位を宣言し、満州が滅亡しました

皇帝はソ連が参戦してきてから、首都を放棄し朝鮮に近い大栗子という場所に逃げていました

そして15日の玉音放送で敗戦を知ると、日本に逃亡しようとしましたが、ソ連軍に身柄を拘束されました

8月18日 「光は新宿から!」闇市が始まる

この日新聞に公告が出されました

「転換工場ならびに企業化に急告!平和産業の転換はもちろん、その出来上がり製品は東宝自発の適正価格で大量に引き受けに応じます。希望者は見本及び工場原価見積書を持参して至急来談あれ!」

--新宿マーケット 関東尾津組


というもの

当時の新聞で一般広告はほとんどなかったため、関東尾津組のこの広告はすっごく目立ちました

そして広告が出た翌日から都内や近県から中小企業主が続々とやってきたのです

彼らは軍需産業の下請け業者で、終戦で納入先を失ってしまい在庫を抱えた人たちでした

関東尾津組は、戦前から新宿に根をおろしていて露天商を統率していたんですが、ここで商品を確保して「光は新宿より!」というキャッチフレーズで「尾津マーケット(新宿マーケット)」をオオープンさせたのです

この新宿マーケットの出現を、新聞は「闇吹っ飛ぶ声!新宿に明るい商店街」と報じました

すると新たに新宿に2つの露天市場が出現

西口の路線沿いにできた「民主市場」と、武蔵野館から南口へかけての「和田マーケット」です

こうして露天は新宿から始まり、瞬く間に全国へ広がっていったのでした

8月20日 灯火管制が解除される

3年8ヶ月ぶりに灯火管制が解除されました

今まで光が漏れないように、照明器具を布でおおったりして空襲時に狙われないようにしていましたが、この日解除されたのです

街に久々に灯りが戻ってきたのでした

8月24日 島根県庁が焼かれる!

皇帝義勇軍と名乗る一団が、松江市にある島根県庁・島根新聞社・松枝放送局などを同時に襲撃しました

一団はすぐに逮捕されましたが、県庁は全焼してしまいました

彼らは20歳前後の民間人48人で、「神にまします陛下に降伏無し」という言葉をスローガンとして、徹底抗戦を主張していた団体です

ちなみにメンバーには女性もいました

8月24日 川口放送所が占領される

上↑に書いたのと同じく、徹底抗戦派はまだたくさんいました

埼玉では陸軍将校らが川口放送所を占拠し、9時間ほど放送ストップとなったのです

将校らはポツダム宣言受諾に反対し、ラジオを通して全国の将兵に決起を促すことを目的に襲撃したんですが、放送所の職員がすぐに通達したため、発電所の送電がストップされ、放送ができませんでした

8月26日 政府出資の売春会社

この日、アメリカ軍兵士の性的欲望を満足させるために、アメリカ兵専用のセックス処理機関である特殊慰安施設教会(通称RAA)が発足しました

RAAが女性を募集したところ、1500人が集まりました

吉原の娼妓組合が、色々と声をかけたそうです

が、全然人数が足りなくて一般応募も

集まった女性は仕事が「アメリカ兵向けの売春」と聞くと、顔をこわばらせる女性が多かったんですが、中には係員の説得により、OKする女性も

というのも、戦火で焼け野原となった東京では、住む家も食べるものも着る服もないし、親や兄弟のために働かざるを得ない女性が多かったからです


余談ですが、一般応募者の半数以上が処女だったそうです

こうして、彼女達は「特別女子挺身隊員」となりました

ちなみに開設の大義名分は「良家の子女の防波堤」というものでした

つまり、アメリカ兵が一般女性に手を出さないように、あんたたちが彼らの欲望の犠牲になりなさいということ

彼女達はこのような宣誓文を読まされました
「民族の純潔を百年のかなたに護持培養すると共に、戦後社会の秩序の根本に見えざる地下の柱たらんとする」

で、27日には、施設の第一号として大森小町園が開設されました

初日からジープの大行列ができ、アメリカ兵が殺到しました

彼らの中には殺気立っている人もてい、初日からいきなり慰安婦を逆さづりにしたり、暴力的な行為をする人もいました

そのため気が狂ってしまう女性も出てきたそうです

さて、この施設は来年の三月に廃止となります

この施設が不要になるほど、売春婦が増えてきたからです

それが後ほど紹介する「パンパン」と言われる女性たちです

で、彼女達「特別女子挺身隊員」たちの多くも「パンパン」となっていくのでした

8月28日 「一億総懺悔」発言

敗戦処理にあたっていた東久邇宮首相がこの日記者団と会見をしました

そこで「このさい、私は軍・官・民の全国民がことごとく反省をし、懺悔をしなければならないと思う。こ全国民総懺悔をすることが、わが国を再建する第一歩である」と発言

これが有名な「一億総懺悔」であります

でもって、国民がこの言葉に対してどう思ってるか気になったらしく、二日後には新聞を通して「全国民よ手紙を下さい」と呼びかけました

これに対し、ものすごい手紙が届けられたそうです

ちなみに「一億総懺悔」については、「戦争責任をあいまにしている!」と、猛烈に批判されました

8月28日 占領軍 第1陣が沖縄から厚木に到着

マッカーサー元帥に先立って、連合国軍の150人が沖縄から厚木に到着しました

本格的に占領軍がやってくるのは、マッカーサーが到着する30日頃となります

8月30日 連合国軍最高指令官のマッカーサー元帥が厚木に到着

午後2時5分

マッカーサーはバターン号に乗って厚木飛行場にやってきました

丸腰にサングラスで、右手に大きなコーンパイプをくゆらせながらゆっくりと降りてきました

すでに先発隊としてやってきたアイケルバーガー司令官をお迎えの中から見つけると「ハロー!ジョー」と、言って固い握手をかわしました

ここには限られた人数の日本人記者団が、取材のためにやってきていましたが、彼らの多くの感想は

「アメリカ軍の偉い人がなんて気軽なんだ」と、全然恐れるような人じゃないことに度肝を抜かれ、部下のアイケルバーガーと仲良くしている光景を見て「これじゃ日本は勝てなかった・・・」と、これまでの日本軍のお偉いさん達の態度と比較してしまったのでした

この後、マッカーサーは記者団に向かってこう言いました

「メルボルンから東京まで、とても長い道のりだった。が、われわれはついに戦いを終えた。長い支払いの期間を終えた。日本側の武装解除は血を見ることなく終わった」

GHQやマッカーサーのことなど、カーンタンに知りたい人はココを読んでみてくだされ


マッカーサーってどんな人?

ダグラス・マッカーサーは、明治13年(1880年)にアーカンソー州で生まれました

お父さんのアーサーは、陸軍中将で駐在大使館付き武官をしたこともある人です

ダグラス・マッカーサーは、ウエストポイントの陸軍士官学校をめちゃくちゃいい成績で卒業し、異例のスピード出世をしてきました

太平洋戦争では極東アメリカ軍陸軍司令官としてフィリピンにいました

で、日本軍のバターン半島攻撃で、一時オーストラリアに逃げていましたが、その後はニューギニア・レイテ・沖縄を次々と攻略し、戦功を治めました

そして8月15日に連合国最高司令官に任命されたのです

日本にやってきたマッカーサーは、日本の最高権力者として君臨することになります

アメリカのトルーマン大統領がマッカーサーに送った通達で「日本側のいかなる異論も受け付けるな」と命令していました

こうしてマッカーサーによる占領統治が始まるのでした

9月 300万部のベストセラー「日米会話手帳」

誠文堂新光社から発売された「日米会話手帳」が、300万部も売れるという大ヒットを記録しました

9月2日 降伏文書に調印する

東京湾横須賀沖に停泊していた米第三艦隊旗艦ミズリー号上で、降伏文書の調印式が行われました

降伏文書にサインした連合国はアメリカ・イギリス・ソ連・中国・オーストラリア・フランス・カナダ・オランダ・ニュージーランドの9カ国

朝の9時に調印式が始まり、マッカーサー元帥の演説がありました

日本側から参加したのは重光葵外相・大本営代表の梅津美治郎参謀総長です

日本の軍部では降伏文書に「サレンダー(降伏)」という文言があることに抵抗をしましたが重光外相に説得されました

そして星条旗が調印式会場に掲げられてあり、敗戦国への威圧があったのです

日本側は敗戦国として侮辱されることを覚悟していましたが、連合国側の対応は意外と丁寧でした

こうして日本側は降伏文書に調印し、日本人の死者300万人以上を出した太平洋戦争は完全に終結しました

そして日本は正式に占領下に置かれることになったのです

ちなみにこの調印を受け、翌日フィリピンでは山下奉文大将が、9日には南京で岡村寧次郎大将がそれぞれ降伏文書に調印

以後、各地で武装解除が本格的に進められていきます

9月2日 朝鮮が南北になる

マッカーサーが、朝鮮を「北緯35度線を境に、アメリカとソ連で占領する」と発表しました

9月8日 米軍 東京を占領開始する

東京・横浜を皮切りに、連合国軍による占領が始まりました

日本政府はこれを「進駐軍」と呼び、「占領」という表現は避けました

占領軍はジープに乗り、日本をさっそうと走りました

その姿に「ニュートウキョウ・ソング」という歌まで出来ました

「向こうを通るはジープじゃないか〜 見ても軽そうなハンドルさばき〜」というものです

9月10日 GHQがプレスコード(言論および新聞の自由に関する覚書)を発表

GHQは日本の軍国主義的な傾向をやめさせるため、天皇の批判やマルクス主義の本などを解禁しました

が、GHQに関する報道は厳しく規制することに

GHQを批判したりすることは一切禁止で、特に原爆のことについての報道はきつく規制されました

闇市&買出しが増加

日本はものすごい食糧難となっていました

東京の上野駅周辺だけでも1ヶ月に100人近くの餓死者が出ていました

公的な配給では絶対的に足りないため、闇市や地方の買出しでなんとか食糧を調達していたのです
9月11日 戦争犯罪人追及を始める

GHQは戦争犯罪人の責任追及に乗り出しました

マッカーサーは、日本にやってきた初日に「東条を捕まえろ。そしてその他のA級戦犯リストを作れ」と命令しました

戦犯の区別はというと

A級戦犯・・・戦争を計画し実行した人 「平和に対する罪」

B級戦犯・・・戦争の法規および慣例に違反した人 「通例の戦争犯罪」

C級戦犯・・・戦前・戦中に一般人民に対して殺人・奴隷化・強制移送などをした人 「人道に対する罪」

そして捕まった人たちは連合国による軍事裁判で審判されることとなっていくのです

9月11日 東条元首相 ピストル自殺を図る


午後4時 東条英機元首相が自宅で自殺を図りました

戦犯として捕らえるため、連合国側の官憲がやってくると東条英機が「しばらく待ってください」と答えました

そして自室の窓に鍵をかけると、左の腹をピストルで撃ったのです

銃声に気付いた官憲が窓を破って室内に入ると、東条は重症でしたが命はとりとめました

以後、戦犯になりそうな人物の自殺が相次ぐこととなります

9月13日 ソ連軍 千島列島領有を宣言

ソ連軍はというと、日本のポツダム宣言受諾後にやってきました

そのため「戦争終結後の一方的な侵攻だ!」と言われていましたが、ソ連側は「は?終戦後の千島領有についてはヤルタ会談で連合国の合意を得てるけど?」と主張

そして満州・北朝鮮・樺太で降伏した日本人を捕虜としてシベリア各地の収容所に連行したのです

強制連行された日本兵は60万人以上で、極寒の中、強制労働を強いられることとなるのです

戦争孤児たち

戦争が終わった後、戦争孤児は13万人と言われました(20万人とか、5万人など、色んな説があります)

戦争孤児は、学童疎開で田舎に行ってる間に、両親が東京で爆撃に会い死亡してしまったため孤児になったのです

戦争が終わると、彼らは帰る場所が無くなってしまいました

孤児たちは上野を根城にして、靴磨きや花売り、アメリカ兵への物乞い、そして泥棒などをして生きていくしかありませんでした

政府は戦争孤児たちに何の助けもしませんでした

どれどころか「浮浪者狩り」を行い、施設に送り込むようにしたんですが、施設に入っても食料もなければ対策も何もなし

個人的なものなんですが、ワタクシ「戦争孤児」というと、「火垂るの墓」の冒頭シーンがいっつも出てきちゃいます。で、泣けてきます・・・(>_<。。)

9月20日 教科書が黒塗りに!

GHQは文部省にこのような命令を出しました

国防軍備などをつよくする教材や、戦意高揚に関する教材など訂正・削除するべき部分を黒く塗りつぶせ

終戦になっても進駐軍はやってくるので、軍国的な表現を無くしたかったのでした

で、新しい教科書ができるまで、問題の部分を黒く塗ることになったのです

例えば小学生の教科書では・・・

「海軍のにいさん」「神だな」「にいさんの入営」「金しくんしょう」「病院の兵隊さん」「支那のこども」「菊の花」「バンザイ」「水兵の母」「扇の的」「明治神宮」などなど

9月22日 アメリカが単独で日本を統治!

アメリカ政府が「降伏後における米国の初期対日方針」を発表しました

どうやらアメリカが単独で日本政府を通して間接統治を行うという占領政策のようです

実はソ連がマッカーサー元帥以外に、ソ連の司令官をもう一人送ると言ってたんですが、アメリカの単独が決まりました
9月25日 復員船第一号 「高砂丸」到着

最初の復員船「高砂丸」が、中部太平洋カロリン諸島のメレヨン島から大分県の別府港に到着しました

乗船していた陸海軍の兵士は1628人です

終戦時に海外にいる日本人は軍人が353万人 民間人が306万人というものすごい人数でした

引きあげが始まってますが、船も食糧も足りず、スムーズに進みませんでした

また、軍人の方が優先的に復員でき、民間人の引き上げは見通しがたっていない状況なのでした

9月27日 昭和天皇がマッカーサーを訪問

昭和天皇がアメリカ大使館にマッカーサーを訪問しました

が、このときの会見は明らかになっていません

天皇がこれまでの全ての責任を持ちますと言い、マッカーサーが感動したというエピソードもありますが、同席した奥村情報部長のメモにはそのような発言はありませんとのこと

どうやら淡々とマッカーサーが演説口調で天皇に語っていたようです

9月29日 政府の命令がくつがえされる

27日に行われた天皇とマッカーサー元帥の写真を掲載した朝刊各誌が、不敬罪で政府から発売禁止を命じられました
が、その直後GHQから発禁を取り消すという騒ぎが起きたのです

問題となた写真はアメリカのカメラマンが撮影したもの

天皇はモーニングを着て直立不動で立っているのに対し、マッカーサーはノーネクタイで軍服姿。で、リラックスして立っているというもの

2人が並んで立っているだけでも、今までの日本の報道ではありえない衝撃的なものだし、2人のポーズの違いがこれまた力関係を見せ付けるものとして大問題になったのです

この写真は連合国(アメリカ)が日本への優位を示すために、わざとこうした写真の撮りかたをしたんじゃないか?と言われています

で、政府が発売禁止しようとしたんだけど、GHQが民主化の路線から外れるとしてすぐに発売禁止を撤廃したのでした

10月4日 GHQ 100万人恩赦

GHQが政治犯の釈放を命じました

日本国民における民主主義を復活させるために治安維持法によって捕まっていた政治犯らを10月10日までに釈放しろということです

そして10月10日には、府中刑務所から徳田球一・志賀義雄といった人物が18年ぶりに出てこれるようになりました

続いて18日には恩赦として100万人がこの特典を受けたのでした

10月6日 特高警察を廃止する

GHQは特高警察を廃止するよう命令しました

特高関係の警察官は5000人ほどいて、みんな休職に追い込まれました

が、のちに公安警察として再生することになります

10月13日 治安維持法が廃止される

10月24日 国際連合が成立

第二次世界大戦が勝利目前!となった連合国軍の50カ国の代表がサンフランシスコに集結しました

そこで国際連合憲章を採択し、6月26日に国際連合憲章調印を行いました

そしてこの日、国際連合が成立したのです
11月1日 巣鴨プリズンが設置される

GHQが東京の巣鴨に拘置所を置きました

「巣鴨プリズン」と命名し、日本人の戦争犯罪人容疑者が収容されることに

11月1日 戦後の東京市の人口

戦後初めての人口調査が行われました

東京市は、戦前は800万人いましたが、このときの調査では277万人に減少したのです

天井知らずのインフレ!闇市だけが頼り!

11月になると政府が生鮮食料の公定価格を撤廃しました

そのため食料品ば暴騰しまくり、食糧問題がめっちゃくちゃ深刻になってきたのです

もはや人々は、闇市を頼るしかありませんでした

闇市はお金さえだせばなんでも売られていました

この頃の国家公務員のお給料は月額が最低40円で、最高の人が520円ほど

闇市で売られていた闇物価はとういと・・・


白米一升・・・70円 (基準価格は53銭)

お砂糖一貫・・・1000円 (基準価格は79銭)

タバコ(ゴールデンバット)・・・10本13円 (基準価格35銭)

といった感じで、ひどい金額になってました

危険なお酒「メチール」

人々はこのすさまじい状況を忘れようと、お酒に逃げていきました

といっても、普通のお酒なんて飲むお金がないので、危険なお酒を飲んでいたのです

それは「メチール」と呼ばれているもので、材料はガソリン・ホルマリン・アセトンを混入したお酒

飲むと目がかすんできてしまい、飲み続けると死んでしまうという危険なものでした

それでも人々は今の状況から少しでも逃れるために、メチールを飲み続けたのです

闇市ファッション

闇市では生きようとする人々が集まり、生へのエネルギーが渦巻く場所となっていました

自暴自棄で、秩序も無い状態となっていたのです

そして戦争から帰ってきた復員兵たちも徘徊していました

彼ら復員兵たちが着用していた国民服・兵隊服は「敗戦服」と呼ばれ安い値段で取引されたのです

女性はモンペを!

新聞では「婦女子は慎重で剛健な風k層を持続しなくてはならない」と力説していました

オシャレをしちゃだめ!という理由ではなく、進駐軍による婦女暴行の恐れがあったからです

ということで、政府はモンペの常用を続けなさい!と推奨したのです

といっても、一片の布切れも貴重だったので、モンペ以外着用するものは無い状況でしたが・・・

11月3日 GHQ 第三国人のための声明を発表

第三国人というのは旧占領地(朝鮮人・中国人・台湾人など)の国籍者のひとたちです

終戦の時に日本には237万人もの朝鮮人と5万人以上の中国人が強制的に連行されていたのです

彼らのほとんどが敗戦によって何の保証も受けず、無一文で街に放り出されたのでした

GHQはそんな彼らをできるだけ解放国民として処遇すると発表したのでした

11月6日 GHQ 財閥解体を命じる

11月11日 闇を食わない・・・・で、栄養失調に

衝撃な事件がおきました

東京高等学校のドイツ語教授・亀尾英四郎さんが、政府から配られる「配給」だけを守って生活を続けていたところ、栄養失調により死亡したのです

英四郎さんはマジメな性格で、常に「いやしくも、教育家たるものは裏表があってはならぬ。どんなに苦しくとも国の策は守る」とし、闇市へ通うことを禁止しておりました

6人の子供を配給のみで養ってきましたが、終戦になるにつれ配給も少なくなってきました

庭に作った2坪の農園ではどうすることもできない状態になってきてしまいました

6人が3日間で食べる野菜の配給がネギ2本ということもあり、とうとう英四郎さんは倒れてしまったのです

英四郎さんが残した日記にはこう書かれていました

「国家のやり方がわからなくなってきた。限られた収入とこの食配給では、今日の生活はやっていけそうにない」

米兵ファッションはオシャレ♪

日本女性はまったくもってオシャレできる状況じゃありませんでした

政府はモンペを推奨していたんだけど、そんな若い人たちの目を引いたのが新聞に掲載される進駐軍の兵士たち

政府は今まで「婦女子は危険だからモンペを着用してたほうがいい!」なんて言ってたのに、GHQへゴマスリするためにいきなり米兵のことを取り上げだしたのです

でもって新聞に出てくるのは栄養が行き届いた笑顔のGIたち

進駐軍の女性兵士や将校の夫人達も取り上げられはじめたんだけど、彼女達が着用してたのがアメフトのユニフォームのような肩パットの入ったジャケットに、膝丈のミニスカート

色は赤や黄色といった原色で、「植民地カラー」と呼ばれました

そんなアメリカ女性の服装が、オシャレに飢えていた日本女性の憧れとなっていくのでした

パンパンが出現

パンパンというのは、敗戦後街頭に現れるようになった外国人相手の私娼のこと

パンパンガール・パン助とも言います

彼女達はもちろん、なりたくてなったわけではありません

生きていくためです

パンパンという呼び方に込められた蔑視と、いわれなき憎悪が彼女達に向けて注がれましたが、彼女達は日陰にかくれることはありませんでした

むしろ自らそれを誇示するように、一般の人々の前に出てきたのです

真赤な口紅やマネキュアを毒々しいほどつけ、アメリカ兵の腕にぶらさがって歩くようになりました

12月 リンゴの歌が大人気に

今年の秋から暮れにかけて、並木路子が歌う「リンゴの歌」が大ヒットしました

戦後第一作目となった松竹映画「そよかぜ」で、主人公の並木路子が主題歌として歌ったものであります

終戦を終えて解放された日本国民の安堵感と虚脱感が表現されているとして、大ヒットとなりました

ちなみに・・・・この頃の闇市ではリンゴが1個50円

大工さんの日給はだいたい30円〜40円

そのため「リンゴ高いや 高いやリンゴ」という替え歌が歌われました

12月1日 GHQが近衛文磨ら戦犯容疑者59人の逮捕を命令する

12月5日 GHQ 「神道指令」を発令!宗教を国家から分離させる

12月9日 GHQ 農地改革を指令する

12月16日 近衛文麿 自殺する

近衛文麿は今までに3度も内閣を組閣した人ですが、どの時期も陸軍がえばりくさっていた頃で、世論や議会の抵抗が激しくなってきた時の切り札として出てきた人でした

公家出身で、40代という若さから陸軍に対抗するのには一番頼りになる!とされていたからです

また、元老の西園寺公望のお気に入りということもありました

ですが、アメリカとの外交交渉に失敗し、東条英機に首相の座を奪われたため一応、戦争責任から逃れることができてました

戦後は東久邇宮首相の副総理となっていて、GHQのアドバイスにより憲法改正に力を入れていました

が、やはり戦犯に指定されてしまい出頭命令が出されました

そして出頭前夜に杉並にある自宅で青酸カリをあおって自殺したのです

どうやら戦犯の汚名に耐えることができなったようです

ラジオ番組「真相はこうだ」

12月から毎週日曜日の夜8時から30分「真相はこうだ」というラジオ番組が始まりました

これは戦前・戦争中の実際の姿を伝えるというのが目的でした

政治や軍事の指導者が、何を考え、どういった目的で政策をすすめてきたのかという真相をバラす番組です

GHQは日本を統治するために、陸軍を徹底的に悪者にする方針をとっていました

国民は陸軍に騙されてたんですよ!ということにして、日本国民をなだめることにしたのです

ということで、この番組には様々ない質問が寄せられました

「どうして東京空襲が行われたのか?」などといった、質問に対してドラマ風に伝えていったのです

もちろん陸軍や東条英機を悪者にして、国民が彼らを恨むようにした設定

ちなみに東条英機の声を担当した声優さんのもとには、ものすごい脅迫状がきたりしたので、声優が次々と代わりました

そしてこのラジオ番組は成功(?)し、東条英機は国民の憎悪の対象となっていくのです

12月22日 労働組合法が公布される

労働者の地位向上をはかるのが目的の法律ができました

・団結権
・団体交渉権
・争議その他団体行動権

この3つが保護されました

12月31日 GHQ 国民学校で修身・歴史・地理の授業を禁止!教科書の回収を命令!

旧日本軍の技術者達

「軍服を着た科学者達」といわれた、陸軍内の技術研究所にいた人たちの中には「原爆製造」についての技術を持っている人も多くいました

敗戦後、彼らには様々な「誘い」がやってきました

実際に中国の奥地で地下活動している組織で研究しないか等の話もあったそうです

またGHQも彼らの研究水準の高さをそのままにしておくのはもったいないとして、何人かをアメリカへ渡らせたと言われいます