伊達騒動


生まれては苦界 
死しては投げ込み寺 苦界十年の女たちの世界

1659年の出来事です

19歳で仙台藩主となった伊達綱宗(つなむね)吉原が大好きでした

そして吉原NO1の三浦屋遊女「高尾太夫」にいれあげまくり

ちなみに「高尾太夫」というのは何代も続いてて、この高尾太夫は何代目かなのはわかっていません

綱宗は高尾太夫を押して押しておしまくりましたが、高尾太夫は全然なびきません

綱宗は62万石の大大名

これでは面目丸つぶれじゃ!と無理やり三浦屋に大金を積み、高尾太夫を身請けしたのです

三浦屋は大喜びでした

が、高尾太夫には好きな人がいました

浪人である島田重三郎です

重三郎は高尾太夫を身請けするために一生懸命働いていたのでした

そして強引に船に乗せられた高尾太夫は、泣きながら他に好きな男がいると言ったのです

その言葉に激怒した綱宗は高尾太夫の髪を掴み、舟ばたで吊るし斬り殺してしまったのです

ちなみに高尾太夫のタタリで仙台には美人が生まれないという失礼な伝説があります

これが幕府の耳に入って御家取り潰しを恐れた綱宗の叔父である宗勝や重臣らは、綱宗を辞めさせて2歳になったばかりの長男亀千代を藩主にしたいと幕府に願い出を出したのです

幕府はこれをOKし2歳の亀千代が62万石の藩主となりました

綱宗はこの動きを知らなかったので寝耳に水でした

さらに重臣らは、綱宗を吉原に誘ったという側近ら4人を暗殺したのです

そしてこの事件が発端となり、のちに12年間に及ぶ仙台藩あげての御家騒動につながるのです

1659年に19歳の綱宗が高尾太夫吊り斬り事件を起こしたため2歳で藩主となった亀千代

まだ幼かったため伊達宗勝と田村右京が後見人となりました

宗勝とは仙台藩の祖 伊達政宗の末っ子で、2代目藩主綱宗の叔父にあたります
田村右京は綱宗の異母兄です

宗勝と右京は後見人となり伊達家重臣らを抑えつけようとしましたが簡単ではありませんでした

家老に原田甲斐を抜擢し反対勢力を抑えたのです

宗勝は幕府老中(このあと大老になる)酒井忠清と婚姻し、それをバックアップにし次第に藩内で力を持つように

10年で反対勢力である家臣120人を処分し17人を切腹させました

1670年ごろ仙台藩は幕府から江戸小石川の堀普請を命令されました

藩財政は貧乏となり、領地を持つ重臣らが自分達の領地の保全に必死になり始めたのです

そして宗勝と一門の伊達安芸(あき)との間に領地紛争が始まったのです

これは幕府が介入し1671年3月27日に大老酒井忠清の屋敷で話し合いが行われました

尋問を受けたのは伊達安芸・原田甲斐・柴田外記らです

そして判決が言い渡される直前の休憩中に原田甲斐が突然伊達安芸に斬りかかったのです!

伊達安芸は即死。甲斐も周りの人に斬られ殺されてしまいました

ここに居合わせた関係者らは全員酒井忠清の家臣によって斬られてしまったため、結局事件は謎に包まれたまま終わってしまったのです

伊達宗勝は土佐に流され、原田甲斐の家は御家断絶となり息子らも死罪となりました

藩主亀千代は幼少のため不問となり仙台藩はお咎めなしとなったのです

遊女の死をきっかけに起きた藩をあげての大お家騒動となったのでした


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