紀伊国屋文左衛門


生まれては苦界 
死しては投げ込み寺 苦界十年の女たちの世界

1687年ごろ

時代は五代将軍綱吉の時代であります

この頃江戸は火事だらけ

そんな中、建設ラッシュに乗って出てきたのが紀伊国屋文左衛門こと「紀文」でした

紀文ははじめ紀州のミカンを江戸に運び財を蓄えましたが、みかんではたかが知れてるので材木に目をつけたのです

幕府御用達になるため、紀文は柳沢吉保や勘定奉行の荻原重秀と手を結びました

そして上野寛永時の根本中堂造営工事で現在の300億円以上の儲けを出したのです

こうなると商売繁盛しまくり!紀文は遊びまくる日々を過ごしました

一番有名な遊びは「吉原の大門を1日閉じさせすべて貸しきる」というもの

ちなみに紀文のライバルは「奈良屋茂左衛門」

こちらも材木商でした

ある日奈良屋が吉原で雪を見る宴を催してるのを知った紀文は、目の前で小判を空からばらまいたのです

すると遊女らは小判ほしさに大パニック

奈良屋の宴は台無しとなったのでした

また紀文は節分で豆の代わりに小判をまき、江戸の初鰹を全て買占めたりと、ケタハズレの豪遊ぶりは伝説になりました

が、建設ブームが終わり、柳沢吉保らが幕閣を去っていった頃、紀文の深川の材木置き場は火事になったのです

これが致命傷となり、紀文のバブルは終わりを告げました

そして最終的には没落の道へ

晩年は深川の屋敷だけが残り、そこで寂しく暮らしたのです

ちなみにライバル奈良屋は「つつましく暮らせ。幕府相手に商売するな」と息子らに遺言して死去

息子らはそれを守り、この時稼いだ奈良屋の財産は幕末まで残ったといいます

吉原において伝説となる豪遊・大盤振る舞いを行った人物でした



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