吉原の歴史


生まれては苦界 
死しては投げ込み寺 苦界十年の女たちの世界


吉原を開業させた男の名は庄司甚内(しょうじじんない)

庄司は風魔一族の生き残りといわれています

また遊郭に遊びに来た不審者を密告する情報屋もやってました

家康が幕府を開く際、各所にちらばっていた遊女を、庄司甚内が一つにまとめて幕府に遊女街を作らせてくれといったのが始まり

庄司は家康らが関ヶ原に向かう途中の道々で若い女性をサービスとしてあてがっていたので、遊女街を作りたいと幕府に申し出た時にすんなりOKとなりました

それに幕府としても、犯罪と密接なかかわりあいのある娼館をひとつにまとめた方が治安維持のために都合が良かったのです

こうして吉原遊郭1617年にOPEN

日本橋葺屋町続きにある葦の茂る湿地に営業許可をもらいました

女性の数が少ない江戸にとって、以後吉原は江戸唯一の公認の「遊女の城」としてきらびやかになっていくのです

最初吉原は葦の多い湿地帯にあったため「葦原」と呼ばれていましたが、葦の字をめでたい「吉」に変えて「吉原」となりました

はじめは昼のみ営業という条件でスタート

お昼はお客さんが大名や豪商が多かったため、遊女にも教養が求められるように

最初、吉原の遊女の最高ランクが「太夫」で、容姿・教養・諸芸に優れた女性だけがなることができました

3000人の中で数名しかなれないという江戸男性の憧れの的となっていくのです

オープンしてから四十年後、江戸が発展していくと、町の中心近くに遊郭があるのはまずいということになってきた

ちょうどその頃、明暦の大火(1657年)がおき、全焼したのを機会に吉原を浅草寺裏手の田んぼの一角に移しました

これが新吉原となります

以後、自然に新をつけず、「吉原」で通じるようになります

新吉原は場所が不便になったので、幕府は昼だけではなく夜も営業許可を出しました

すると今度は武士ではなく、町人の客も増え、新吉原はさらなる発展をしていくのです

その後吉原は火事を何度も繰り返しつつ、江戸の町人文化を支えてきました

が、江戸末期になると、吉原以外にも深川など新たな性風俗に押されはじめます

それでも昭和三十三年、売春防止法が出る間まで、吉原は女の苦界・男の極楽としてあり続けたのです



ちなみに庄司甚内は、当時向崎陣内という泥棒で有名な男がいたため紛らわしいので途中で名前をを変えました

この向崎甚内は番町更屋敷で有名なお菊さんのお父さんのモデルだそうです

庄司甚内は結構やり手ジーサンで「オヤジ」と慕われてすごしました



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