生没年は不明の人であります
とても美人だったようです
中大兄皇子(のちの天智天皇)の弟・大海人皇子と愛し合い、結婚しました
そのとき、額田王は15歳
大海人皇子は20歳と言われています
2人は十市皇女という女の子を産み、幸せに暮らしていました
が、そんな額田王のことを気に入ったのが、お兄ちゃんの中大兄皇子
度を越えた奉仕を額田王に求めるようになり、大海人皇子は嫌〜な予感がしてました
何といっても中大兄皇子はあの蘇我入鹿を倒した最大の権力者なのです
そしてとうとう、中大兄皇子は弟の大海人皇子に「お前の奥さん、俺にくれ」と言ってきたのです
大海人皇子は兄に逆らうことができず、額田王を兄に差し出したのです
この時額田王は25歳でした
こうして額田王は愛する大海人皇子と離婚させられ、中大兄皇子の妻となったのです
額田王が34歳になった時のこと
蒲生野という場所で狩が行われました
その時、久々に額田王と会った大海人皇子は、馬の上からしきりに袖を振ったのです
この時、額田王が詠んだのがこの歌です
あかねさす 紫野ゆき 標野ゆき 野守は見ずや 君が袖振る
(まったくアナタって人は!いっつも派手にオレオレ!オレだよ!と袖を振るけど、そんなに目立つやり方したら天智天皇にバレちゃうじゃないの)
そして額田王に対する大海人皇子の返歌は
紫草の にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆえに 我恋ひめやも
(人妻であろうとなんだろうと、オレはオマエがスキだぜ?チャンスがあれば奪ってやるぜ)
が、実際は大海人皇子はこの頃多くの妃を迎えておりました
のちに中大兄皇子が死に、大海人皇子は天武天皇となりましたが、額田王は以後歴史の舞台に出ることなく、飛鳥の地にて余生を送ったのであります
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