戦国時代において「女戦国大名」という異名をとったのがこの女性であります
寿桂尼は、公家の中では中くらいのクラスである中御門家で生まれました
お父さんは有名な歌人だったので、寿桂尼も教養豊かなお姫様に育っていきました
そして、その父親が決めた寿桂尼の結婚相手が今川氏親だったのであります
今川氏親は当時35歳くらい
寿桂尼の年齢は不明ですが、適齢期が15歳前後なので、たぶん20歳くらい歳の離れた相手と結婚したことになります
正直、二人の仲はイマイチでした
結婚して数年たったころ氏親は病気がちになり、寝込み生活に突入
それでも寿桂尼は長男・氏輝と、五男義元を出産しました
そしてとうとう夫の氏親は死去
長男の氏輝が跡継ぎとなりましたが、この時まだ14歳
ということで、有力な家臣から後見人を選ぶことに
ここで出てきたのが寿桂尼だったのであります
寿桂尼は「ワタクシが後見人になります!」と宣言。家臣たちはもちろんだーーれも文句が言えるはずもなく、寿桂尼が、氏輝が成長するまで今川家の実質上のトップに君臨したのであります
女性が政治に介入するというのは、この時代きわめて珍しいこと
もちろん戦には参加できませんが、かなり優秀な政治手腕を持っていたため家臣からも特に反抗はなかった
さらにこの時代の女性で珍しいのは「自分の花押」を持っているということ
今川家の正式書類は、寿桂尼の花押がなければ正式文書として認められないというくらい、寿桂尼の権力は絶大になっていったのであります
こうして寿桂尼は氏輝が成長するまでの6年間、今川家を支えてきたのであります
そして氏輝が無事成長し、やっと休めるわ〜と思った瞬間、なんと肝心の氏輝が24歳の若さで死んでしまったのです
ここで後継者争いが始まりました
長男の氏輝以外はみんなお寺さんに入れられていたのですが、寿桂尼はなんとしても自分が産んだ五男の義元を跡継ぎにしたかった
他の有力候補は三男である玄広恵探(げんこうえたん)
恵探の奥さんの家はかなり強い家だったので、この二人のバトルが始まることとなったのです
ここで飛び出してきたのが義元がお寺で修行している間の世話役・太源雪斎
戦国を代表する名軍師と、女戦国大名の異名をとる二人がタッグを組み、義元を当主にするべく立ち上がったのです
こうしてタッグを組んだ二人は「花倉の乱」と呼ばれる戦いに見事勝利し、義元は見事今川家の当主となったのです
肩の荷が降りた寿桂尼は、やっと「あとは雪斎におまかせしましょ♪安定した老後が送れるわ〜」と安心
が!!なんと雪斎が死んでしまい、さらに義元が桶狭間の戦いで織田信長に殺されてしまったのであります
今川家は義元の息子である氏真が継ぐが、イマイチ能力がない
こうして寿桂尼は今川家の将来を心配しつつ、死んでいったのであります
寿桂尼は最後にこう遺言しました
「わが墓を駿府今川館の東北に建てよ!!」
東北ってのは鬼門なので、寿桂尼は死んでからも今川家をなお守ろうとしていたのであります
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