日本人なら一度は聞いたことのある名前であることは間違いなし!の超有名人清少納言
清少納言という名前は本名ではなく、お父さんが清原元輔(きよはらもとすけ)という名前なので、清少納言という名前になった
この時代の女性は名前を名乗る風習が無いので「清少納言」という名前で通っております
生年月日もイマイチわかっておらず、たぶん964年か966年生まれではないか???と言われております
さてさて清少納言のお父さんは歌人としても有名で、清少納言はこのお父さんの影響を受け頭のいい子に育ちました
お父さんが60歳頃に生まれたので、とーっても可愛がられて育ち、16歳で1歳年上の橘則光(たちばなのりみつ)という人と結婚
則光の家は敏達天皇の血を受け継ぐ家系で、そこそこのエリートな家柄
親戚の中にも歌人が多くいますが、則光はそこんとこは全くダメで、どっちかというと武勇に優れているタイプだった
一応二人はフツーの夫婦のように暮らし、男の子二人誕生しています
が!清少納言は家でじーっとしていられるタイプではなかった
ダンナは自分の頭の良さをわかってくれないしぃー、どこかで私の才能を使ってくれるとこないかしら?状態
そんなモヤモヤ状態の時にお父さんが死んでしまい、もはや清少納言をストップさせる人がいなくなってしまった
そしてとうとうダンナと離婚を決意!夫とコ子供を残し、28歳(くらい?)の清少納言は第二の人生をスタートさせるのであります
こーして清少納言は、持ち前の教養を売りに宮中へ!!
そして一条天皇の奥さんである藤原定子に仕えます
ここで清少納言はウィットな会話と洗練された手紙やユーモア溢れる行動で、すぐさま定子のお気に入りに
そしてとうとう、枕草子を執筆
有名な「春はあけぼの やうやう白くなりゆく山ぎわ すこしあかりて 紫だちたる雲の ほそくたなびきたる」で始まるエッセイというか宮中ルポを書き上げるのであります
さてさて、定子つきとして毎日を楽しく過ごしていた清少納言ですが、その定子に不幸が訪れます
一条天皇とラブラブだった定子を邪魔に思う人が・・・
それが「世の中はわしのもんじゃ!」くらいブイブイ(死語・・・)言わせてた藤原道長であります
道長は自分の娘を一条天皇と結婚させるということをやってのけ、定子を邪魔モノあつかい
時の超権力者・道長には天皇さえも逆らえず、定子はだんだん隅っこにおいやられていきます
そのうち定子は病気となり、死んでしまうのです
そして清少納言も、仕える定子が死んでしまったため宮中から出て行くこととなってしまいました
人生で一番華やかな10年間が終わりを告げました
そしてその後の清少納言はどうやって生きたか、いろんな憶測が飛んでいますが、あまり幸せではなかったと思われます・・・・
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