安土桃山時代 その4 1584年〜1586年
備前の熊 龍造寺隆信
この頃九州では島津・大友・龍造寺の3つが争っていました。

が、大友家は耳川の戦いで破れてからは衰退の一途。

逆に勝者・島津がリードし始めたのです。

龍造寺家も大友家とバトルしまくっていましたが、和議が結ばれることに。

その時、大友家老臣の立花道雪の使者がお酒を持ってきました。

家臣らは「毒が入ってるかもしれない!」と、その酒を捨てようとしました。

が、隆信は「立花殿はそのような卑怯な男ではない。弓矢でワシの命を狙うことはあるが、このような卑劣なやり方で命は狙わんよ」と、その酒を立て続けに3杯飲んだのです。

そんな豪快な隆信でしたが、自分の息子政家に家督を譲り始めた頃からちょっとづつおかしくなり始めたのです。

お酒をよく飲み家臣らを殺し始めた。

謀反の疑いがあるってので、重臣であった赤星家の14歳の息子と8歳の娘を磔したりして、家臣の心は離れ始めてしまったのです。

暴飲暴食のため、すごく太ってしまい馬にも乗れないほど。

理由は不明ですが、勇猛な武将の面影が全く無くなってきてしまったのです。

そして家臣らは「鍋島直茂の方がいいんじゃないか・・・?」と思うようになるのでした。

そんな中、島津が九州制圧をしに戦いを挑んできたのです!!


1584年3月 沖田畷(おきたなわて)の戦い 龍造寺VS島津 
この頃九州は、北は龍造寺が頑張っていました。

島津は耳川の戦い後、一大勢力となっていました。

ここに九州の覇者を賭け、島津義久と龍造寺隆信のバトルがスタートしたのです。

戦いは島原半島。

島原当主の有馬晴信は、龍家が勢力拡大してきたので一旦は龍家の傘下に入ったものの、島津と新しく同盟を結ぶ決意をしたのでありました。

もちろん隆信はこれを聞いて激怒

6万もの軍を率いて有馬の城へむかいました。

ちなみにこの時の龍造寺隆信は、肥満だったため六人担ぎの駕籠で移動。

対する島津義久は、弟の家久に兵を与え島原へ派遣。

勝負は人数の多い龍家が断然有利と思われました。

そこで島津は沖田畷へ逃げ込むフリをしたのです。

沖田畷という場所は、一本道で2.3人がやっと通れるほくらいのあぜ道。

そこで島津兵は両側の道に伏せ待ち構えたのでした。

家臣の鍋島直茂は「危険だなぁ。ここは追撃するのをやめましょう」と意見。

ですが、隆信は「うるさーい!」と、追撃をしてしまったのです。

誘導作戦に見事ひっかかった隆信。

龍軍は総崩れとなり、隆信はとうとう討ち取られてしまったのです。

備前の熊と言われ、勇猛な武将として名を轟かせた龍造寺隆信。

56歳で戦国の世から姿を消しました。
龍家 葉隠れの精神 「不運の髑髏に用なし」
沖田畷の戦いによってぼろぼろになった龍家。

唯一の救いは鍋島直茂が生き延びたこと。

この後、島津はチャンスとばかり備前佐嘉城にたてこもっている龍家を包囲したのです。

当主である隆信も、名だたる武将もことごとく討ち死にしてしまい、もはや抵抗する力は全く残っていませんでした。

島津総大将の家久は無駄な争いはしたくないな・・・ってことで隆信の首を塩漬けにし、篭城してるやつらに持って行ったのです。

そして「こーなる前に降伏したほうがいいんじゃないの?」と言いました。

これを見た70歳すぎた隆信の母・慶闇尼

敗将の首などいらんわ!この抜けた首を持ってさっさと薩摩に帰れや!」と怒鳴ったのです。

ビックリしたのは島津家久。

家久は「葉隠れの精神(武士道は死ぬこととみつけたり)」に非常に感心し、行き場のなくなった隆信の首を丁重に埋葬しました。

覚悟を決めたその潔さを重んじ、軍を撤退。

龍家はかろうじて首がつながったのです。
ノリノリの秀吉「ワシが一番じゃー!」
明智光秀を討ち、勝家を討ち、もはや秀吉の勢いは留まりませんでした。

着々と天下取りを押し進めつつある秀吉。

明智討伐から10ヶ月で、近畿北陸一帯を平定した秀吉を恐れた他の大名達は、こぞって秀吉のご機嫌取りをしだしたのです。

秀吉は「もはや北の果ての津軽まで、ワシにかなうものはおらんぞ!」と、宣伝しまくっていました。

が、じっと黙っている不気味な存在である家康のことは、ずっと秀吉の心の片隅にあったのです。

秀吉が「天下」を取るのに、もっとも邪魔な存在の家康。

主君信長の同盟者であり、下手な真似はできない

家康も「ワシは織田の同盟者。秀吉とは対等でなければならん。決して下と思われるのは嫌だ」と思っていました。

ですが秀吉にとって「天下の覇者は1人

どうしても家康を自分の下につけなければならなかったのです。

織田信雄 「なんか秀吉 調子乗ってない?」
着々と天下取りをしている秀吉。

それをむかついて見ていたのが信長の次男信雄でした。

犬猿の仲であったライバルの信孝を自刃させ、次はオレの時代だーとほくそ笑んでいたのもつかの間、秀吉が力をつけつつありました。

「秀吉は自分のため、つまりは織田家のために協力してくれていると思っていたから、自分も秀吉の味方をしていた。だけどあいつ、自分のためだったんじゃねーか!」と、感じてきたのです。

「あいつは昔、オレのオヤジの草履係りだったくせに!」と後継者の椅子を秀吉にかっさらわれ不満タラタラ。

秀吉は信雄に会うときは「信雄様」と一応は臣下の礼はとっていました。

が、心中は信雄のことなど眼中にありませんでした。

信雄のいる尾張の向こうにいる家康を睨んでいたのです。
秀吉「信雄様 挨拶に来なさい」
大阪城を築城した秀吉。

この城をお披露目するため諸国の大名に「上洛しにきなさい」とうながしました。

この時、秀吉は信雄に対しても同じ手紙を送ったのです。

「なにぃー!」と激怒した信雄。

「秀吉はオレのオヤジの部下だぞ?オレはその息子だぞ?っつーことは、ヤツはオレより下だぞ?家臣同様の男に、なんでオレが挨拶に行かなきゃなんねーんだ!」とカンカンに怒ったのです。

信雄は腹を立て、「誰が挨拶に行くか!」と返事しました。

そして「あいつをとっちめるには・・・」と、考え、思いついたのが信長の同盟者であった徳川家康だったのです。
家康「信雄殿に協力いたしますよ」
家康にとって、信雄の領地は絶対秀吉に奪われてはならないところでした。

もし信雄のいる尾張が秀吉に奪われたら、自分の国に攻撃してくるのは目に見えてわかる。

秀吉をこれ以上徳川の領地近くまで来させないようにしたかった。

そんな矢先に信雄からの「秀吉ムカツク!オレの味方してよ!」の協力要請。

家康は「ラッキー♪」とばかりに、信雄に協力することにしたのです。
1584年1月 秀吉 信雄三家老を懐柔
信雄のもとにまた秀吉から手紙が来ました。

そして「信雄様はワシのことを誤解している。是非会って誤解を解きたい」と言ってきました。

信雄は「そこまで言うなら会ってやろう」と、ちょっぴり機嫌を直したのです。

そして3人の重臣を連れて会見場所まで出かけたのです。

連れて行ったのは岡田思考・浅井田宮丸・津川雄春の3人で「信雄の三家老」と言われていました。

信雄は正直、あまり頭のいい男ではない。

つまりは、この3人が信雄の領地の国政を牛耳っていたのです。

これに目をつけた秀吉。

この3人を抱き込めば、信雄は簡単に落ちるだろう・・・そう考えたのです。

さっそく三家老に「ワシについた方がいい。その方がそなた達の将来のためであるぞ」と説得。

三人は新領地をもらえるという約束をしてもらい、秀吉に寝返ったのです。

ちなみにこの会見の時、信雄は秀吉が偉そうな態度をとった!と言って、怒って一人で帰ってしまいました。

その後、秀吉は3人にじっくり話しをしたと言われています。
1584年3月6日 家康 「あの3人は危険です!」三家老成敗
秀吉に寝返った3人。

それ以後、なんとなく怪しい態度になってきました。

が、お坊ちゃま信雄は全く気がつかない。

気がついたのは家康だったのです。

3人の態度がどことなく変わったという噂を聞いた家康は、さっそく忍者を放ちスパイ活動

すると、どうも秀吉側に寝返ったという話しが出てきたのです。

「秀吉め!尾張に手を伸ばしてきたな!信雄が殺されてはまずい。先手を打たねば!」と、信雄のもとへ使者を出したのです。

そして「三家老に内通の疑いあり。すみやかに処分したほうがいい」と言ったのです。

信雄はビックリ!

早速3人を呼び、殺したのです。
1584年 3月7日 家康 秀吉に宣戦布告
三家老を殺したとなっては、秀吉も黙っちゃいない。

家康はすぐさま動き出しました。

3月7日 家康は浜松城を出ました。

そして星崎城を占拠し、はっきりと秀吉に敵対したのです。
秀吉激怒!榊原康政の首に懸賞金をかける
徳川四天王の1人、榊原康政は、この時得意の筆で敵・味方に手紙を書きまくりました。

「秀吉は農民の子だぜ?それを信長に取り立ててもらったっつーのに、恩を忘れてやがる。徳川には信長遺児の信雄殿がいるっていうのに、秀吉は弓をひいた。恩を忘れた男め!神は秀吉に罰を下すであろう!」というものでした。

これをみた秀吉はめちゃくちゃ怒りました!

「憎っくき康正め!奴の首を討った奴は褒美を増やす!」と、怒鳴ったのです。

こうして康政の首に、懸賞金がかかったのでした。
1584年3月8日 秀吉出陣!!
三家老を殺したというニュースは秀吉のもとへ。

これが信雄の公然の挑戦とみた秀吉。

さらに家康が動いたという情報も入ってきました。

「信雄などどうとでもなる。問題は家康じゃ。あいつはこれからワシの天下取りにおいて、必ずや目の上のタンコブとなる!今のうちに叩き潰さねば!」と、家康を討とうと心に決めたのでした。
1584年3月13日 家康・信雄 軍議を開く
家康は信雄と清洲城で会見。

軍議を開きました。

秀吉軍の兵力は凄まじく、その数10万人

対する家康・信雄連合軍は16000人。

数では圧倒的に秀吉が有利でした。

ちなみに家康は、婚姻関係にある北条家に応援を依頼。

ですが、北条は断ってきたのです。
1584年3月13日 池田恒興 犬山城を攻める
美濃の大垣城にいる池田恒興は、どちらにつこうか非常に悩んでいました。

秀吉・信雄の両方と仲良しだっため両方から誘いがあったのです。

そこへ秀吉が「勝った時は駿河と近江の2つをあげるから!」と、熱心に勧誘。

とうとう秀吉につくことを決意。

娘婿の森長可とともに秀吉チームへ入ったのです。

秀吉への手土産に犬山城を攻め落としました。

これに驚いたのは家康・信雄チーム。

恒興は絶対こちらにつくと思ってたので、急遽計画を変更。

伊勢に行くのをやめて、兵を小牧山に集め秀吉軍と対峙することにしたのです。
1584年3月17日 羽黒の合戦 鬼武者ボロ負け!
小牧山に本陣を置いた家康軍。

ここで邪魔だったのが、森長可(蘭丸の兄)のいる羽黒。

家康は羽黒を急襲しました。

突然の来襲に、「鬼武蔵」の異名を持つ長可はボロ負けし、命からがら逃げ帰ってきたのです。

ちなみに、ここまでが「小牧の戦い」です。

1584年3月27日 秀吉犬山城へ到着
秀吉はというと、家康の策謀である一揆の平定に手間取っていました。

数では圧倒的に多い秀吉軍でしたが、家康は地元だということと、地域住民の一揆によるゲリラ先鋒で秀吉らを困らせていたのです。

そこへ森長可がボロ負け!という知らせを聞いた秀吉。

3万の大軍を率いて急いで犬山城へ急行し、3月27日に本陣を置いたのです。

こうして秀吉軍と家康・信雄連合軍は真正面から対峙しました。

秀吉49歳・家康43歳。

9年前、初めて会った長篠の戦の時は味方同士でしたが、2度目の戦は敵同士となったのです。

両者にらみ合ったまま、緊張した状態が続きました。

お互い簡単に仕掛けることはできない。

仕掛けた方が大きな損害をこうむることは、長篠の戦の時の武田勝頼を見て嫌というほどわかっていた。

あんなミジメな姿にはなりたくない。

2人は、仕掛けるチャンスを淡々と狙っていたのです。
1584年4月4日 池田恒興「この作戦どうですか?」 
膠着状態が続いていました。

すると池田恒興がこの状態を打破するために、策を提案したのです。

「家康の本国である三河は守りが手薄になってるに違いない。今三河を攻撃したら混乱する。家康は慌てて三河に戻るでしょう。残った信雄を一気に叩けば尾張はゲットできます」というものでした。

恒興は、羽黒にて娘婿の森長可が負けたこともあって、何とか戦功を得たかったのです。

秀吉は危険を感じました。

確かにうまくいけば、素晴らしい作戦。

だけど、あの家康がそう簡単に罠にかかるだろうか??

秀吉は考えました。

が、家康がこんな手にひっかかるとは思えない。

秀吉はその作戦をNOと言ったのです。

だけど恒興はこの意見を強く主張。

他の武将達も恒興の意見に賛成しだしたのです。

これ以上恒興の機嫌を損ねたら、せっかく味方になってくれたのに離れて行ってしまうかもしれない・・・秀吉は悩みました。

また、甥の三好秀次が「ボクに三河攻撃の大将をやらせてくれ!」とまで言いだして、秀吉はとうとうOKしたのです。

それでも秀吉は不安だったらしく「岡崎城に行って火をかけたら、すぐ戻って来い!」と注意を与えました。
1584年4月7日 池田恒興ら三河へ!
こうして三河行きの別働隊が出発しました。

先手が池田恒興

二番手に森長可

三番手には堀秀政

四番手は三好信吉

そして最後は秀次の合計2万。

総大将は秀次だけど、実際指示を出してたのは恒興です。

が、進軍ルートである村の村民達が、秀吉軍が三河に向かったことを家康に急報したのでした。

これを聞き家康はすぐに追撃隊を作り、恒興軍を追ったのです。
1584年4月9日 先鋒・恒興 挑発に乗る
順調に進撃していた一番手の恒興隊。

この日、家康の出城である岩崎城の前までやってきました。

岩崎城には丹羽氏重ら240人ほどしかおらず、恒興は「そんな少人数構ってられん」とシカトしていくつもりでした。

が、この240人が、果敢にも大人数の恒興隊に挑戦してきたのです。

「構うな」と言っていた恒興でしたが、なんと愛馬に鉄砲の弾が命中!!

「おのれ!生意気な!」と激怒したのです。

恒興は、重要な先鋒でありながら、挑発にのって岩崎城を攻撃じゃー!と命令してしまったのでした。

先鋒の池田隊がバトル中、二番手・三番手は前進できず、一休みとなってしまいました。

ここで、恒興は大事な時間を使ってしまうこととなったのです。

1584年4月9日 長久手の戦い
秀吉軍の先鋒が岩崎城攻撃をしている間、着々と家康の追撃軍が近づいていました。

そして家康軍の水野忠重隊が、四番手の三好信吉隊が長久手付近でのんびりとしているところを発見したのです。

長久手の合戦が幕を開けたのです。

さらに家康軍の榊原康政も到着。

秀吉軍最後尾の三好秀次に攻撃しました


ふいを突かれた秀次隊はあっけなく敗走していったのです。

後方の銃声で家康軍の攻撃に気がついた秀吉軍三番手・堀秀政

なんとか榊原隊を撃退させたものの、家康本隊がすぐ近くまできているのを知り、追撃をやめ退却しました。

この頃、やっとこさ岩崎城を落として休憩中の恒興のもとに、危ないところを助かった秀次の使者がやってきました。

「家康軍がやってきました!」

恒興は「しまった!」と悔やみました。

ですがもう間に合わない。

こうなったら全軍を戻して、長久手へ向かうしかない。

恒興は急いで戻っていったのです。


1584年4月9日 午前10時 長久手激闘!!
恒興は必死で長久手へ戻りました。

ここで恒興隊と長可隊は家康軍と対峙し、大激戦が始まりまったのです。

一時恒興隊は優勢になったものの、家康本隊が横槍を入れると多くの兵が逃げていきました。

ここで森長可が討ち取られてしまったのです。

恒興は森長可の死を知ると大ショック。

「全てワシの責任じゃ・・・」と、自ら乱戦の中に入って討死したのです。

ここで恒興と長可は戦死。

大将を失った秀吉軍は大混乱になり、敗走していったのです。
1584年4月9日 午後12時 秀吉ビックリ!すぐさま応援に行くぞ!
秀吉のもとへ使者がやってきました。

恒興・長可討死!別働隊全滅!

秀吉は大ショック!

すぐさま兵をかき集め応援に行きましたが、時すでに遅く、家康軍はさっさと引き揚げていたのです。

そして翌日、家康は何事もなかったかのように小牧山の本陣へ現れたのです。

この小牧・長久手の戦いは、家康の勝利となったのです。

鬼武蔵 森長可 「娘は武士とは結婚するな!」
森家は織田家に仕える家柄でした。

父の可成(よしなり)が浅井・朝倉攻めで討死したため長可は13歳で後を継ぎました

本能寺の変の時は上洛し、道中、武田軍の残兵や百姓たちに襲われつつも、それらをバタバタとなぎ払い斬って捨てたため「鬼武蔵」と呼ばれるように。

そして弟の森蘭丸ら弟3人が信長とともに殺されてしまうのでした。

その後は秀吉に下へ。

そして小牧の戦いで徳川方に攻撃を受け敗走。

今まで負けたことのない長可は大ショック

そして長久手の戦いで奮闘の末、討ち取られてしまったのでした。

長可は遺書を書いており、そこには「もしオレが死んだら母は秀吉殿から生活費を貰って京都で暮らしてくれ。千丸(末弟)は今までどおり秀吉殿に仕えること。だけど城主にはなるな。妻(池田恒興の娘)は家にきちんと戻ること。おこう(娘)は武士と結婚してはダメだ。京都の町人、できれば医者と結婚してくれ」とありました。

長可は父と兄を浅井・朝倉攻めで失い、蘭丸ら弟三人を本能寺の変で失っており、残っているのは自分と末弟の千丸だけ。

武士として武士の恐ろしさをわかっていただけに、このような遺書を書いたのでしょう。
母のおかげで大名へ 池田恒興
父の恒利は織田信秀に仕えていました。

そして信長誕生。

信長は幼い頃から癇が強く、乳母の乳首を噛み切ってばかりいました。

滝川一益のはからいで、恒興の母が乳母になったとたん信長の癇癪がすっかり止んだのです。

夫の恒利が死んでからも信長に仕え、恒興も信長の遊び相手として一緒に成長しました。

信長の弟・信行が反旗を翻した時も、恒興は信長につき信長の命令のままに信行を殺しました。

桶狭間など数々の戦功をたて、恒興の長男らもともに戦いました。

本能寺の変が起きると秀吉に協力。

そのため清洲会議に出席することができて、秀吉に感謝していたのです。

小牧・長久手ではどっちにも恩があるため非常に悩んだけど、最終的には秀吉につくのでした。

が、ここで戦死。

娘の婿である森長可も討たれてしまったのでした。

恒興49歳でした。

秀吉は恒興の死をとても悼み、恒興の遺児に大垣城を与えました。
その後の小牧・長久手 
長久手の激闘後、秀吉はますます慎重に。

5月になると、ついに10万の兵を動かしだしました。

そして尾張に入り、信雄の城を次々と潰しにかかったのです。

対する家康は、「秀吉の挑発には簡単に乗らないぞ」と、動かずにいました。

秀吉は「しぶとい奴め!」と、ムカムカ。

各地で小競り合いが続きました。

そして秀吉・家康は少しでも味方を多く!と、各地の有力な諸将たちに手紙を書きまくっていたのです。
1584年8月28日 佐々成政 ライバル利家を攻撃してやる!
秀吉は上杉景勝を味方につけようとしていました。

家康はその動きを察知し、上杉を食い止める役として佐々成政を味方に誘いました。

成政は両方から誘われていたのです。

結局、選んだのは信雄・家康チームでした。

理由は「織田家に対する忠誠心」&「利家が秀吉に可愛がられてるから」

信雄に仕えていたこともあり、信雄を擁して織田家の再興を願っていたのです。

それに織田家の家臣として、後継者気取りの秀吉の勢いにちょっと腹が立っていた。

また秀吉が、自分の大嫌いな利家を可愛がっているのも気に入らなかったのです。

そして、中央で小競り合いが続いている中、「この分じゃ、秀吉はこっちにこれないだろう。今こそ、長年の宿敵・利家をやっつけたる!」と、決心したのです。

成政はさっそく利家の朝日山砦を攻撃しました。

焦った利家は金沢城を警戒。

すると成政は「ふん!金沢城などどうでもいいわい!オレの狙いはこっちじゃ!」と、能登の末森城を包囲したのです。

末森(すえもり)城は能登半島と金沢城の境にあり、ここを奪われたら能登と金沢の連絡が出来なくなってしまう。

利家は大ピンチに。

家臣たちの士気も下がり、重臣達も「もう利家殿の負けかも・・・」と、思い始めたのです。
妻まつ 利家に嫌味を言う
そもそもこの頃の利家は超ケチでした。

軍勢を多く雇わず、自分の財テクばかりしていたのです。

妻のまつは、常日頃「もうちょっと兵を集めたほうがいいんじゃないの?」と忠告してましたが、利家はそれを無視。

対する成政は兵の甲冑に金箔を入れてあげるほど、金銀惜しまず軍勢を雇っていたのです。

ですが出陣しないと、末森城は落とされる。

そしたら前田家は大変なことになる。

利家は士気が下がりまくりの中、甲冑を着用しました。

すると「まつ」が、「日頃から軍勢を蓄えとけとあれほど言ったでしょう?なのにあなたは耳も貸さなかった。今度の戦では金銀に槍を持たせ働かせたらよいのでは?」と、利家に金銀の入った袋を投げつけたのです。

利家は超激怒!

まつに殴りかかろうとする利家を、家臣たちが必死で止めました。

まつは涼しい顔で、「なにか?」状態。

こうして利家はプリプリ怒りながら「クソー!まつめ!あいつにバカにされてたまるか!」と、ものすごい勢いで出て行ったのです。

このまつの一言が、利家軍の戦意を鼓舞させることとなったのです。

1584年10月 伊達政宗家督を継ぐ
伊達輝宗の長男として生まれた政宗。

母は最上義光の妹義姫。幼い頃の名前は梵天丸。

幼い頃に「疱瘡」にかかり右目を失明。

そのおかげで陰気臭くなりました。

母の義姫は陰気臭い政宗よりかしこくて美男子の弟・竺丸を非常に可愛がり始めました。

そして夫の輝宗に何度も政宗を廃嫡させ、竺丸を後継ぎにしようと意見していたのです。

が、輝宗はこれを拒否していました。

義姫の兄は最上義光。

もし竺丸を後継ぎにしたら、最上家は何かと口出ししてくる。

伊達家が最上家に乗っ取られてしまうかもしれないからです。

そんな夫・輝宗に腹を立てた義姫は、兄である最上義光に政宗を毒殺するようお願いしました。

が、この作戦は失敗。

自分の子を殺そうとした義姫は「奥羽の鬼姫」と呼ばれるようになるのです。

そんな政宗を叱咤激励しつつ育てたのが、のち軍師となる片倉小十郎

政宗が疱瘡になった失明した時、毒が回り目玉が飛び出そうになった。

心も病み始めていた政宗。

小刀を持ち家臣らに「目をえぐれ!」と襲い掛かったんだけど、誰もおじけづいてできなかった。

そこへ片倉小十郎が「そんな目なら私がえぐり取りましょう」と政宗の右目を突いたのです。

そこから政宗は小十郎を信頼するようになっていくのです。

また父の輝宗も政宗を可愛がり無事に成長した。

そして18歳で家督を譲るのでした。

なんでこんなに早く当主にさせたかというと、竺丸を家督に!!という義姫らを封じ込めようとしたからです。
1584年11月11日 織田信雄 勝手に講和
秀吉はいい加減この戦いをやめたくなってきました。

いっこうに降伏する様子のない家康にうんざり

ということで、秀吉は信雄のもとへ「そろそろやめない?」と相談しにいったのです。

信雄は秀吉の懐柔策ニコロリと騙されてしまいました。

そして家康に何の相談もなく勝手に仲直りしてしまったのです。

これを聞いた家康はビックリ!

「あのバカ・・・何をやっとんじゃ」と呆れまくり

そして戦う名目のなくなった家康は、仕方なく秀吉と講和することとなったのです。

講和の人質として、家康の次男である秀康が秀吉の養子に行くこととなったのです。
人質となった家康次男 秀康
秀康の母は正室築山殿の侍女であった側室お万の方。

家康の次男として生まれ、幼名は於義丸。

顔がギギという魚に似て変なことから、家康は秀康をあまり可愛がらなかったのです

秀康が初めて家康に会ったのは3歳の時。

家臣が家康嫡男である信康に「なんとか会わせてあげて欲しい」とお願いして、やっと会うことができました。

ちなみにお万の方の妊娠が発覚した時、築山殿は激怒し、お万の方を丸裸にして裏山に捨て置きました。

それを家康の家臣が見つけ、助けたそうです。

また家康も「ホントにワシの子供かぁ?」という感じだったので、秀康は次男でありながら家康に嫌われていました。

嫡男信康が切腹させられた時は6歳でした。

そして11歳の時に、秀吉のもとへ行かされたのです。

秀吉は当時3人養子がいました。

信長の四男である秀勝17歳・宇喜田直家の子である秀家13歳・ねねの甥であるのちの小早川秀秋3歳。

秀吉は実子がいないことから、養子を貰っていたのです。

秀康は養子に出された時、秀吉家臣から「おい、あれが人質だぜ!」と見下されました。

すると「わたしは家康の実子であるぞ!家来の分際でわたしを軽蔑するなど許さんぞ!」と、威厳高々に言ったのです。

みんな「まだ幼いが、なかなかの男だ」と、ビックリしたそうです。

秀康は自分が父・家康に可愛がられなかったことから、家康のことがあまり好きじゃなかった。

家康よりも、義父の秀吉の方を好きになっていくのです。

また家康は秀康が養子にいった後、すぐに三男・秀忠に「竹千代」という名前をつけました。

「竹千代」とは、家康の幼名で、この名前がつく者が「次期後継ぎ」となるのです。

1584年12月 佐々成政 大ピンチ!
成政は末森城攻略のため、利家とバトル中でした。

そこに信じられないニュースが!

あろうことか戦いをおっぱじめた張本人の信雄が、秀吉の懐柔策にはまり仲直りしたというものだったのです。

成政は驚きと失望でいっぱいに。

さらに東海方面に釘付けになっていた秀吉が、雪が溶け始めたら利家に援軍を出すこととなったのです。

「これはやばいことになった。オレ、孤立しちゃうじゃねーか!」と大慌て。

いったいどういうつもりで講和などしたのか???

成政は不安でいっぱいに。

雪解け前に、なんとか家康と信雄に会って本心を聞くしかない

そう決心したのです。

佐々成政 さらさら超え
家康・信雄に会おうと決めた成政。

が、家康のいる浜松までのルートは利家をはじめとした秀吉方の武将が目を光らせている。

残された道は富山から黒部渓谷に入り厳冬の北アルプス立山を超えて信濃へ抜けるという危険極まりないルートでした。

成政一行は、防寒装備も整っていない戦国時代において命知らずの旅に出るのでした。

真っ白の銀世界

一番の難所は馬の背のようなさらさら峠

横殴りの雪によって凍死する者。

道を踏み間違え谷底へ落ちる者。

なだれに飲まれる者が相次いだ。

成政はこの時49歳。

「家康と信雄に会って真意を確かめたい」その一心でとうとう成政はアルプスを越え、やっと浜松城へ到着したのです。

さすがの家康もこれにはびっくり!!

が、成政の決死の思いは通じなかった。

成政は浜松から清州へ行き信雄に会うことに。

が、信雄は自分が成政を誘ったのかを忘れたかのように成政を抑えようと説得しはじめる有様

成政は「こんなヤツのためにオレは織田家の再興を願っていたのか・・・」という虚しさでいっぱいになりました。

行きのさらさら超えの時は一縷の望みをかけて挑みましたが、帰りは失望感で張り裂けそうでした・・・。

結果、成政は秀吉に降伏せざるを得なくなったのです。

ちなみにこの「さらさら超え」の時、軍資金を北アルプスのどこかに隠したらしい・・・という伝説があります。

1585年3月21日 秀吉 根来・雑賀衆を攻める
小牧・長久手の戦いの時、一揆を起こしたりなど、何かと反抗しまくっていた根来・雑賀衆

そもそも信長の石山本願寺攻めから、雑賀衆とは戦いまくっていた。

雑賀衆は信長が大嫌いだったので、信長の後を継いだ形となっていた秀吉のことも大嫌いだったのです。

そのため徳川方の味方をし、何かと秀吉を苦しめていたのでした。

秀吉はとうとう「あいつらぶっ殺したる!徹底的に潰すぞ!」と雑賀攻めを決めたのです。

こうして秀吉は10万の兵を率いて出発しました。

そしてすごい勢いで攻めまくったのです。

根来・雑賀衆は全滅しました。

こうして家康の味方を次々と排除していったのです。
1585年2月 丹羽長秀あてつけ切腹
長秀は賤ヶ岳の戦いで秀吉の味方をし、猛者である佐久間盛政を捕らえるなど軍功を立て、123万石という秀吉の家臣団の中では最高の大名となっていましたた。

が、秀吉がだんだんに「羽柴秀吉」として支配力を強めていくので考え方にズレを感じ始めるのです

かつて「羽柴」の「羽」をあげた自分の足元にも及ばなかった格下の秀吉が、いまや「織田家」のためでなく「羽柴家」として天下を欲しいままにしているのに屈辱を感じるように。

しまいには秀吉の呼び出しも無視し、外出しなくなったのです。

長秀にとって主家は「織田家」であります。

その主家の子供を次々と手にかけていく秀吉にガマンできなくなってきたのです。

そんな中持病が悪化してきてしまいました。

もはや自分には勝家のように秀吉と戦う力はない。

だけど前田利家のように従うことはできない!

長秀は最大の抵抗として1585年51歳で切腹してしまいました。

この時、長秀は自分の腹の中から握りこぶし大の病根(結石・肉腫のどっちか)を出し、遺書と一緒に秀吉へ送りつけたといいます。

秀吉も驚いたことでしょう。
1585年7月 史上初の平民関白 秀吉関白になる
今度は肩書きが欲しくなっちゃった秀吉。

朝廷にお金をがんがん使ってとうとう関白に。

ちなみに、1586年には太政大臣となり「豊臣」姓を貰いました。

ほんとは征夷大将軍にしてくれーと頼んだんだけど、これは身分が低いってので許可されなかった。

そのため前将軍の足利義昭に養子縁組を申し込んだんだけど、義昭はプライドが高く交渉決裂した。

ちなみにプライドだけは高い公家連中は、この関白就任に大ブーイングでした。

ついでですが、この頃キリスト教宣教師と秀吉は会見。

この頃の秀吉は「キリスト教が一夫多妻を禁止してなければ、ワシもキリシタンになってもいいんだけどな」と、キリスト教に対して好意を持っていました。

真田昌幸 上杉景勝のもとへ
この頃、真田昌幸は家康に対してムカムカしていました。

家康の下についたものの、「お前の領地を北条に渡す」と勝手に決められ、怒って断ったら「力ずくでも奪い取るぞ!」と言われたのです。

昌幸は「真田家がこんなに軽く見られるとは!」と、怒ったものの、弱小には変わりない。

こうなったらどこかにバックについてもらうしかない。

この辺の実力者といえば北条・徳川・上杉。

が、北条は一度裏切ってるし、上杉は川中島で我が殿であった武田信玄と戦っている。

ですが背に腹は変えられない。

昌幸は上杉景勝のもとに使者を出しました。

「わが次男幸村を人質に差し出しますので、どうか真田を助けてくだされ」と。

これを聞いた景勝は大喜び

景勝にしたって、北条や徳川は敵。

あの煮ても焼いても食えない真田の昌幸が、自分のところを頼ってくるとは!と、家中喜びを隠し切れませんでした。


そして早速「あいわかった。昌幸殿に謀反の噂が流れようとも、上杉は真田の味方をするぞよ」と言ったのです。


これを知った家康は超激怒!!

希代の横着者!と、昌幸を評しました。

こうして家康は、昌幸のいる上田を攻めることにしたのです。

1585年8月 真田昌幸の謀略
8月19日 家康は真田を潰すために、この日兵を出陣させました。

が、真田を弱小とナメていたので、自ら出陣せず、鳥居元忠・大久保忠世らを出陣させました。

また途中で、信州・甲州勢(武田の遺臣)らを合流させ、その人数は約10000人となりました。

対する真田は2000人いるかいないかでした。

まず徳川軍は真田家に対し、降伏するよう使者を出しました。

すると昌幸は「わし、ほんとは家康殿と戦う気はありません。3日たったら城を明け渡すので、3日間待っててくだされ」と言ったのです。

実はこれが昌幸の作戦だったのです。

3日間待たせ、軍備を充実させ、上杉景勝の援軍を待っていたのです。

が、徳川方はこれを信じて「よしわかった!3日間待ってやろう」ということになったのです。

が、3日間たっても城を明け渡す雰囲気はまるでなし。

すると旧武田家臣の人たちが怪しみはじめました。

そして大久保忠世に

「ワシらは武田家出身なので、昌幸のことをよくわかっております。あいつは幼少から信玄公に仕えており、信玄公の采配をよく見ておりました。信玄公から教わったあの知謀は素晴らしいものです。油断しない方がよろしいかと思われますが・・・」

すると忠世は「ふん。武田家臣らはまだ信玄の威光を忘れられぬようだな」と、鼻で笑ったのです。

その時、昌幸から書状がやってきました。

「悪い悪い。やっぱりこの城は渡せないや。来るならどうぞ!」といった内容だったのです。

大久保忠世は超激怒!

さっそく昌幸を攻めることに。

が、敵が侮れない奴とわかると、忠告してきた旧武田家臣である三科・広瀬の両名を先鋒に命じたのです。

昌幸は、その顔ぶれを見ると「懐かしいでござるな!山県隊にいた広瀬殿ではないか!」と言ったそうです。
1585年8月 上田合戦 真田VS徳川
こうして徳川軍は真田攻めをすることに。

兵を神川へ集めました。

対する昌幸は、長男信之と次男幸村を出陣させ、潜ませたのです。

徳川軍が神川を渡ろうとした時、信之隊が鉄砲を討ちまくりました。

それでも兵の半分以上が川を渡ると、信之隊は撤退。

やっと川を渡り、ほっとしているところを、別方向から幸村隊が鉄砲を撃ちまくったのです。

そこへ信之隊が戻ってきたため、徳川軍は大パニックに!

鳥居元忠は「真田兄弟を討ち取ったものは褒美をつかわす!」と叫びましたが、地の利に詳しい真田兵はがんがん徳川軍に襲い掛かり、徳川軍は乱れまくったのです。

それでも1万の兵は多かった。

真田兄弟の兵は500人しかいなかったのです。

徳川軍は何とか体勢を立て直し、信之・幸村を追い込みました。

そして昌幸のいる上田城へ迫ったのです。

昌幸は城下に家財や華やかな衣装をそのままにしておきました。

城下へやってきた兵たちは、それらをほおっておくことはできず、我先に掠奪をはじめたのです。

すると昌幸が隠していた鉄砲隊が、掠奪に走った兵たちを撃ちまくったのです。

この時、昌幸はノンキに碁をうっていました

そして時が来たと悟ると、狼煙を上げ反撃に出たのです。

狼煙を見た真田全軍が四方八方から一気に反撃に出ました。

大混乱に陥った徳川軍は、我先に神川を渡り逃げていったのです。

真田方の戦死者はわずか40人程度。

徳川方は1360人ほどの戦死者を出し、逃げるときに神川にて溺死者も数多く出たのです。

こうして真田は大勝利をおさめ、昌幸は戦国の世に名をしらしめたのです。
1585年8月 長宗我部元親 秀吉に降伏
元親は3度、命拾いをしていました。

最初は信長が織田信孝を総大将として、丹羽長秀を率いてやってくる!というときに本能寺の変。

2回目は賤ヶ岳の時。

この時も柴田勝家の味方をしたんだけど、勝家敗北によって中途ハンパに終わっていました。

3度目は小牧・長久手。

この時も家康側についたんだけど、家康と秀吉の和議が成立し、中途ハンパに終わったのです。

元親は四国統一を目指し
ていました。

明智光秀と仲良くなり中央の情報はバッチリ!

光秀の家臣斎藤利三の妹をお嫁さんに貰ったりと、虎視眈々と勢力拡大を狙っていたのです。

が、なんと明智光秀が信長を殺し、光秀は秀吉に殺されるという予定外の事件が発生。

さらに斎藤利三の遺族が秀吉に追っかけられ、元親を頼ってガンガン逃げてきた。

一体ナニがどーなってんだ!?状態でした。

この時、斎藤利三の遺族の中にのち徳川三代将軍家光の乳母となるお福(春日の局)がいます。

元親のもとで成人の儀式をむかえ、元親はとても喜んで行ってあげたそうです。

とまぁ、元親が考えてなかった伏兵・秀吉によって予定が狂い始めるんだけど、それでもとりあえず四国を統一しようと必死に。

何度も危機を乗り越えていましたが、とうとう秀吉が天下統一のため四国へ乗り出してきました。

元親も覚悟を決めて秀吉を迎え撃つことに。

そしたらちょーど秀吉が病気になり、ラッキーと思ったのもつかの間、秀吉の弟秀長が、秀吉軍を貰い受けやってきました。

さすがに強く、元親はボロ負け

秀吉から土佐だけは残してやるから、もう反抗するなと言われました。

潰そうと思ったら潰せる長宗我部をわざわざ残してくれた秀吉の采配に元親は感謝し、秀吉傘下となりました。

が、この2人めちゃくちゃ気が合ってしまい、元親はすぐさま秀吉のお気に入りとなり一目置かれるようになるのでした。
1585年9月11日 立花道雪死す!
大友家名軍師である立花道雪は、この頃島津家・秋月家とバトル最中でした。

が、去年突然倒れてしまい、それでも陣中へ入ったんですが、とうとう陣の中で死んでしまったのです。

死ぬ間際に道雪は、仲間の高橋紹運に「ワシの遺体に甲冑を着せ、この地に埋めてくれ」と遺言しました。

ですが高橋紹運は、この遺言に従っていいかどうか悩み、立花城にいた立花宗茂に相談。

すると宗茂は「敵の地に義父の遺体を埋めるのは忍びない」と、立花城へ運ぶこととなりました。

その際、高橋紹運の兵が棺を担いだのですが、敵対していた島津・秋月の兵たちが棺の主が道雪だとわかると、誰一人追撃しなかったのです。

徳川家康に「ぜひ一度会ってみたい」と言わせ、同じ九州の龍造寺隆信は「武を好み、文を親しむ当代きっての良将であった」と言っていました。

そして大友家を支えていた道雪の死は、大友家に暗い影を落すこととなるのです。
1585年10月 伊達政宗 父・輝宗を銃殺
政宗はもと家臣で、今はライバルとつるんでいる大内氏の小森城を攻めていました。

大内氏は蘆名氏や畠山氏に援軍を頼んだので、政宗はかなり手こずったんだけど、なんとか勝てました。

この時城内にいた800人全て惨殺し「19歳にして恐るべし」と一目置かれるようになるのです。

だが畠山氏も負けちゃぁいない。

畠山氏は父輝宗を拉致したのす。

政宗は急いで追いかけ、川を渡ろうとしている畠山軍と遭遇。

ですが、父が捕まっているため鉄砲も撃てずにオロオロした政宗。

そこへ父が政宗に「オレのことはいいから撃て!」と叫んだのです。

政宗は泣きながら「撃て!」と号令。

父輝宗は、政宗および伊達家を守るために自ら命を絶ったのでした。

ちなみに拉致ったヤツは政宗に捕まり、八つ裂きにされたあとずーっとさらされたらしい。

怒りまくった政宗は、輝宗を殺した原因である畠山氏に総攻撃。

畠山を滅ぼし蘆名氏をも滅ぼした。

勢いに乗った政宗。

このままいけるトコまで行っちゃうか??と思いきや、この頃はすでに秀吉が天下統一に駒を進めまくっていたのでした。
1585年11月 家康家臣 石川数正 秀吉のもとへ
頑として秀吉の「臣下」になることを拒み続けていた家康。

が、大事件が起きたのです。

それは石川数正の裏切りでした。

石川家は松平家の有力家臣。

数正は家康に仕え、今川家に人質に行く時も一緒でした。

合戦でも戦功をたて、文官として国政で活躍しまくり。

30年以上家康と辛苦をともにし、酒井忠次とともに徳川のビック2となっていました。

政治に優れている数正は、今川と手を切り織田家と同盟を組むべきだと家康に提言し、織田・徳川の同盟を成功させました。

秀吉と会見するのも、全て数正の役目でした。

数正は何度も秀吉に会ううちに「秀吉の実力はすごいな・・・。これはうちの殿様も早めに従った方がいいかもしれない」と思い始めるのです。

数正は秀吉から何度も「早く家康に従うように言ってよ!」と言われてたけど、家康はまったく秀吉に従う気はない。

で、小牧・長久手の時に「秀吉には勝てない。一刻も早く和議を結ぶべきだ」と提案したんですが、家康に疎まれてしまったのです。

あまりにも和議を勧めるため「数正は秀吉と内通しているのでは?」という噂が家臣団の中で起こってしまいました。

そして徳川最高幹部でありながら、「あいつは秀吉のスパイだ」と、みんな数正を無視しだしたのです。

数正はめちゃくちゃミジメな気持ちに。

「ワシは徳川家のためを思って意見していたのに・・・」と、嘆き悲しみました。

ですが、「スパイ疑惑」は解けることなく、信用をなくした数正。

とうとう数正は家康を見限り秀吉のもとへ出奔してしまったのです。

数正が秀吉に寝返ったというニュースに徳川家臣団は騒然となりました。

家康は恐怖で青くなりました。

数正といえば家臣団の中でも酒井忠次に並ぶ重鎮。

いくらなんでも裏切りはしないだろうと思っていたのです。

ちなみに家康は、真田昌幸を再度攻め込もうとしてる最中でしたが、それどころじゃなくなり、昌幸は命拾いしたのでした。
家康 井伊の赤備えを作る
有力家臣の石川数正が秀吉に寝返ったことは、家康にとって重大事件!

これまでの軍機が秀吉に筒抜けになるのを恐れました。

そのため軍法も替え、人員の配置換えも行い、徹底的に軍の強化を図ったのです。

これを聞いた秀吉は「ショックで落ち込むかと思ったら、さらに強化しまくりよって・・・」と、辟易しました。

ここで家康は、かねてから憧れていた武田信玄の家臣「山県昌景」の赤備えであった者たちを集めました。

家康は、三方ヶ原の戦いの際、山県の赤備えにめちゃくちゃ強烈なインパクトを持っていて、是非ワシもあのような最強軍団を作りたい!と思っていたのです。

武田家滅亡後、赤備えであった武士達をスカウトしまくってて、とうとう「赤備え」を復活させることにしたのです。

四天王NO1の酒井忠次は、この赤備え軍団を若い直政に推薦しました。

が、榊原康政も優秀な赤備えを欲しくって「半分でいいからオレにもくれ!」と申し出たのです。

忠次と康政はこの時大喧嘩

忠次は「それ以上言うと、お前の一族を串刺しにしてる!」とまで言い出し、康政は年長者である忠次にしぶしぶ従いました。

精鋭「赤備え軍団」を手に入れた直政。

井伊の赤備えはその後、数々の戦闘において大活躍。

秀吉に「赤鬼」とまで言われ恐れられるほどになっていくのです。
その後の石川数正
数正は秀吉の家臣となり優遇されるんだけどました。

が、家康は黙っちゃいなかった。

「石川数正は三河譜代の重臣だぞ?どんな理由があろうと、秀吉に味方するわけがない。実はスパイとして送り込んでいるのだ」という噂を流したのです。

この流言は飛び交いまくりました。

次第に秀吉も「うーん・・・。やはり数正は危険かもしれんな」と、遠ざけるようになったのです。

数正は豊臣家臣団の中で、その政治力を発揮する場を与えられなくなりました。

忠義心を疑われ重要な仕事をさせてもらえなかったのでした。

数正はショックで、扉を閉ざしたまま屋敷を出なくなってきたのです。

かつて徳川家臣団の筆頭家老だった数正も寝返りという不忠義を犯してしまったため、活躍の場を与えられないまま。

晩年は失意の中引きこもるようになり、国政の中心に入りたい・・・と夢見たまま死去したのです。

1586年4月 秀吉九州制圧へ!
九州では島津義久が九州統一を目指していました。

1586年4月。

島津の攻撃に耐えられなくなった大友宗麟秀吉に救援を依頼してきまたのです。

そこで秀吉は「関白」として、島津&大友に仲直りするよう命令。

すると島津が「農民出の男の命令など聞けるか!」と言って来たのです。

秀吉はめちゃくちゃ怒りました。

早速、毛利軍を先発させ九州に出陣させることにしたのです。

さらに四国勢にも出兵命令。

長宗我部元親・信親も兵を率いて出陣しました。

ですがその前にやらなければいけないことがありました。

徳川家康との和平です。

自分が九州に力を入れたら、いつ徳川が反旗を翻してくるかわからない。

本格的な九州征圧を進める前に、なんとしても徳川と和議を結ばなければ!と、思い始めるのでした。
元親期待の星★長宗我部信親デビュー
秀吉が九州討伐に乗り出すと、長宗我部家は先発隊という名誉をおおせつかることに。

当時豊臣配下でNO1の実力は毛利。

ここで活躍すればNO2の宇喜田家を抜かすことができるかも・・・ってな考えで、元親自慢の息子信親をデビューさせました。

信親は元親を上回るといわれていたほどの知将で、この戦いで活躍させ、長宗我部の名を天下に知らしめてやろうと思ってました。

また四国の覇権を巡って戦っていた「鬼十河軍団」こと十河存保(そごうながやす)も先発隊に任命されたので、元親の心はヒートアップしていったのです!
1586年5月 家康 秀吉妹・旭姫と結婚
九州征圧に乗り出した秀吉。

自分も九州に行きたいけど、行けなかった。

家康に動かれたら困るからです。

「自分が九州に行ってる間に、家康に攻め込まれたら困る・・・」と、再三「和議しよう!」と連絡しまくるのです。

秀吉は妹旭姫を前夫と離婚させ、家康のもとに無理やり嫁がせることにしたのです。

この時家康45歳・旭姫44歳。

かなりの高齢政略結婚でした。

ちなみに家康は築山殿が死んじゃってるので旭姫は正妻として入りました。

旭姫の元・ダンナはショックで死んだと言われています。

1586年10月 家康 秀吉に服従する
妹を嫁がせた秀吉。

今度は
実母の大政所を人質として差し出すから上洛しろと言ってきました。

ここまで言われた家康はととうとう上洛を決意したのです。

家康は秀吉に何かされるのを恐れ、人質としてやってきた大政所の屋敷の周りに「薪」を積み上げました。

何かやったら即刻焼殺しますよというアピールです。

そして家康は威厳を張って、堂々と京都へやってきたのです。

が、上洛前日。

なんと秀吉は単身で家康に会いにやってきたのです。

これには家康をはじめ、家臣団もビックリ!!

怒りあらわにした家康家臣団が取り囲む中、秀吉と家康の会談が始まったのです。

秀吉は得意の懐柔策で家康に「明日の正式会見の話なんだけどさ、頼むからみんなの前でワシに忠誠を誓ってくれよー。家康殿が頭を下げてくれれば、みんなワシを見直すし!」とお願いしました。

これには家康毒気を抜かれてしまいました。

「正直というかなんというか・・・。」とすっかり秀吉のペースに飲まれてしまったのです。

翌日、大阪城に登城した家康。

並み居る諸将の前で、恭順の礼を取ったのです。

秀吉は上段の間から「三河守殿か!上洛ごくろうであった」と、声をかけたのです。

家康は秀吉に臣従の礼をとりました。

そして家康の臣従により、秀吉の天下統一は目前となったのです。

これに抵抗を続ける北条・島津・伊達も影響を受けることとなります。
1586年11月15日 吉川元春死去
毛利元就の息子で、吉川家へと養子にいった元春。

秀吉の時代となると「ワシはあいつと戦ったことがあるだけに、どうも臣従するのは嫌なんだよね」と、息子の元長に家督を譲り引退してしまいました。

だけど、今回の九州攻めの時、甥である毛利輝元や、弟の小早川隆景に「一緒に戦ってよ!」とお願いされ参戦。

小倉城を攻略中に悪性の腫れ物が出来て病気となってしまったのです。

そのまま小倉城で療養し、回復に向かっていきました。

そこへ仲良しの黒田如水がお見舞いとして「鮭料理」を持ってきたのです。

当時「鮭料理」は腫れ物に悪いと言われていました。

元春は一瞬ためらいましたが、「せっかく持ってきてくれた如水に悪い・・・」と、全て食べたのです。

その夜、急に容態が悪くなり病状は次第に悪化。

とうとうそのまま息を引き取ったのです。

律儀さによって命を落とした元春。57歳でした。
1586年12月  戸次川の戦い
四国勢は仙石秀久を大将に、十河存保・蜂須賀・小早川などそうそうたるメンバーで九州に向かいました。

大友宗麟と相談し、まずは島津家久に攻撃されていた鶴ヶ城を助けるため戸次川に陣を構えました。

仙石秀久は「敵はたいしたことない。蹴散らそう!」と主張。

元親と十河が「それは危険だ。絶対に伏兵を潜ませているはず!しばらくは敵の出方を待つべきだ」と反対。

元親と十河はライバルでしたが、意見が一致しました。

が、仙石久秀は2人の意見を無視し、川を渡って島津勢を蹴散らすことにしたのです。

川を渡った四国勢は最初は勝ってましたが、途中で伏兵と大軍が一斉に襲い掛かってきました。

そうです。元親たちの予想通りの罠にかかってしまったのでした。

仙石軍は真っ先に逃亡

残された元親軍と十河軍は攻撃の真っ只中に取り残されてしまったのでした。

元親はなんとか退却できたけど、果敢に敵中で戦った息子信親は死去。

十河存保も討死しました。

仙石秀久は秀吉にめちゃくちゃ怒られ所領没収となったのです。
長宗我部元親 ショックでおかしくなる
元親はというと、信親の死を聞いて愕然

あまりのショックに腰に差していた短刀で自刃しようとしたが側近に止められました。

秀吉から可哀相だからといって所領を与えましたがそれも拒否。

信親の死は長宗我部家の衰退の始まりでした。

元親は人が変わってしまい、自分のことを心配する人を疎ましく思うようになっていったのです。

ちょっとミスしただけの家臣を殺すようになったり。

偏屈な老人となってしまいました。
長宗我部の後継ぎは?
信親が死んだことにより、新しい後継者問題が勃発してきました。

元親には4人息子がいて、長男が死んだ信親でした。

普通は次男が継ぐんだけど、元親は四男の盛親に継がせることに。

これを知った次男はショックで死んじゃいました。

家臣団は順序が違う!と大反対

元親は反対した家臣を処刑しまくりました。

信親の次に可愛がられていた盛親ですが、それでも信親を溺愛していた元親は冷酷に盛親を扱いました

盛親は死んだ兄の幻影を追い続け、父に認めてもらおうと必死に頑張りました。

元親は1599年4月、関が原を見ることなく61歳で死去。

戦国を生きた悲哀の英雄でしたが、信親の死後は腑抜けたまま死んでしまいました。

そして新当主となった盛親は、戦国時代NO1といわれるほど数奇な運命をたどることとなるのです。