安土桃山 その3 1582年〜1583年
1582年5月29日 信長 本能寺到着
森蘭丸らを連れた信長は、宿舎である本能寺に到着しました。

そして6月1日に行われるお茶会の準備にとりかかったのです。
1582年5月 明智光秀 決意
55歳の明智光秀。

主君信長を討つべきか・・・心の中はさまざまな感情で破裂しそうでした

接待した後の家康は、わずかな人数だけで堺見物をしている。

滝川一益は新しく得た関東の領地に行ったばかり。

柴田勝家は前田利家・佐々成政らと越中で上杉景勝と戦っている。

丹羽長秀は四国遠征のため大阪で兵を集めている最中。

そして最大のライバルである秀吉は中国地方で毛利と戦っている。

誰も光秀をさえぎる邪魔者はいない。

このチャンスを逃したら、次は二度とない

そしてまた信長に罵られる毎日。

愛宕山(あたご)に詣で、祈願しました。

そして信長を討つ決意をしたのであります。

1582年6月1日 信長 本能寺でお茶会
この日のお茶会は、信長自慢の茶器を披露するのが目的でした。

疲労されたのは、松永久秀から貰った九十九茄子(つくもなす)など38種類。

信長の茶器コレクターぶりを、見せびらかしまくったのです。

実際、この時代に「名品」と呼ばれる茶器は、そのほとんどが信長の物でした。

茶事が終わると、酒宴が開かれました。

近衛前久ら公卿らと、博多の豪商である島井宗叱(そうしつ)・また所司代である村井貞勝らと楽しみました。

そこへ嫡男である信忠がやってきて、楽しい一時が繰り広げられました。

酒宴が終わると、囲碁の名人である「本因坊算砂(ほんいんぼうしゅうさく)」らが対局。

やがて夜もふけ、信忠は宿舎に帰りました。

宗叱らは別間へ行き、村井貞勝らも帰宅して行ったのです。

そして信長も寝所に入りました。
1582年6月1日 光秀計画を打ち明ける
光秀軍は京都盆地を進軍していました。

そして光秀は、もっとも信頼している5人の家臣に真意を告げたのです。

娘婿の明智秀満・斉藤利三らはめちゃくちゃ驚きました。

なんといってもあの信長に謀反を行おうとしているのです。

ですが光秀の思いが本物だと知ると、これは思いとどまらせるのは無理だ・・・と、驚きつつも主に従うことにしたのです。

用心深い光秀は、兵らには真意を伝えませんでした。

「秀吉を助けに行く前に、一度信長様に会うため京都へ向かう」と告げたのです。
光秀軍 斉藤利三 
斉藤利三は、美濃の稲葉一鉄の家臣でした。

が、一鉄が信長のもとへ寝返るというのを聞くと「武士道に反する!」と、利三は一鉄の元を去りました。

その後、光秀の家臣となったのです。

すると今度は光秀が信長の家臣へ。

利三は「あんないやなヤツの下で働きたくない!」と、光秀が止めるのも聞かず出て行ったのです。

それから数年たちました。

すると、「利三は浪人となり、さらに病気になって超貧乏生活をしている」という噂を聞いた光秀。

光秀は利三のマジメで義を貫く性格がスキだったので、再度家臣になれと誘ったのです。

「自分のことを忘れずにいてくれたんだ・・」と、利三は感動し、光秀の家臣になることに

しかも、光秀は利三をかなりいいランクに取り立てました。

ですが、それを聞いた稲葉一鉄が激怒!

俺を裏切った奴を重臣にするなど許さん!光秀と一戦を構えるぞ!」と信長に訴えました。

信長は光秀に「斉藤利三を捨てろ」と、光秀に言いました。

が、光秀は「私は利三は優れた男だと思っております。それを捨てるなど・・・」と言い返しました。

すると信長ブチキレ!

もともと自分に口答えする奴は大嫌いなので、光秀をめっためたに殴ったのです。

そんな目にあいながらも、光秀は利三を雇い続けたのです。

そして、それを聞いた利三は、光秀に忠誠を誓うのでした。

利三には7男3女がいました。

その娘の一人が「お福」

のちに春日の局と呼ばれるようになります。

1582年6月1日 PM10時 斉藤利三 京都へ!
京都は静かな夜を迎えていました・・・

夜10時 先鋒の斉藤利三軍が京都へ先にむかいました。

そして軍勢が入りやすいように、木戸を開きまくったのです。

1582年6月2日 AM4時 敵は本能寺にあり!!!
光秀軍は桂川で止まりました。

そして13000人の兵らに新しいわらじを履けと命令。

兵らはなぜこんなトコロで?と疑問に思いました。

そこで光秀は「
敵は本能寺にあり」と号令したのです。

もう後戻りはできない。

1582年6月2日 AM6時 是非もなし・・・ 本能寺ショック!
空がしらみ始めた6時頃、光秀軍は本願寺を包囲しました。

そして兵は塀や堀を乗り越え、すぐさま攻撃を開始したのです。

どこからか騒がしい音がするので起きた信長。

はじめはどこかの家臣らのケンカだと思った。

が、なにやら近くで鉄砲を撃つ音が聞こえる。

信長はこの時初めて、何者かが襲撃してきたことにやっと気がついたのです。

そこへ森蘭丸がやってきて「明智光秀御謀反!!」と叫びました。

光秀により謀反が起きたことを知った信長は「是非もなし」と言いました。

これが何を意味するのかわかってません。

「なぜ・・・」と言ったとも言われています。

信長は近くにあった弓を放ち、弓矢がなくなると槍を手に戦いました。

が、もはやこれまでとわかると、最後まで側にいた女を逃がし小姓たちに火をつけさせた。

そして奥の部屋に入り切腹したのであります。

蘭丸ら小姓らも討死したのです。

「人間五十年 下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり」

信長の愛した「敦盛」の一節と同じく、信長49歳で幕を閉じたのです。

本能寺の変 その時嫡子信忠は!?
妙覚寺にいた信忠はこの急報を聞いてビックリ!

急いで1キロしか離れていない本能寺へ加勢に行きました。

が、そこへ昨日まで一緒にお茶を楽しんだ村井貞勝がやってきました。

「私が今、本能寺を見てきました!もはやすっかり包囲されており、炎に包まれております!今行ってもどうにもなりません!」と叫びました。

さらに「もうすぐここにも明智軍がやってくるでしょう。ここは危ない!二条城へ逃げたほうがいい!」と言ったのです。

信忠は仕方なく二条城に向かいました。

二条城には天皇の家族や、公卿衆らがいました。

信忠の兵をあわせても500人ほどしかいない。

信忠は、天皇の家族や公卿達に逃げるように言いました。

ですが、突然の出来事にびっくりの公卿連中。

悠長に「あれも持っていかなきゃ!」などやっちゃったのです。

ぐずぐずしているうちに、明智軍がやってきてしまいました。

光秀は「天皇の家族および公卿連中は逃げよ!ただし信忠をさせるような動きをすればどうなるかわかっておられるな!」

こうして、天皇チームだけが無事退去しました。


6月2日 AM8:00 信長嫡男 信忠 二条城で死す!
天皇チームが逃げた後、明智軍は信忠に攻撃を開始しました。

信忠らは人数は少なかったですが、菅谷長頼らと、なかなか強い武将らが揃っていたため、3度ほど敵を追い散らして勇敢に戦いました。

ですが、やはり人数が少なすぎた

もはやこれまでと悟った信忠は、自刃して果てたのです。

信忠26歳でした。

本能寺の変 その時末弟有楽斎は!?
信長と異母兄弟で11人兄弟の末っ子だった有楽斎(この頃の名前は長益)

この時信忠とともに二条御所に入りましたが、味方も欺き一人でさっさと逃げてしまいました。

そのため京都では「織田の長益は人ではない」と唄われバカにされました。

ですが信長と一緒で茶の湯だけは熱心でした。

後「有楽派」を開くなど一流の茶人になっていきます。

東京の有楽町は、江戸時代に有楽斎の江戸屋敷があったことから名づけられました。
信玄の娘・信忠の妻 松姫 儚い一生
武田信玄には6人の娘がいました。

長女黄梅院は12歳の時北条氏政へ嫁ぎました。

1569年に北条との同盟が敗れると送り返されてしまい27歳で死亡。

次女は穴山信君。

三女の真理姫は木曽義昌。武田滅亡のきっかけを作っちゃった人です。

夫の裏切りを怒った真理姫は末子を連れ逃げ、なんと98歳まで生きました。

四女は死んじゃってて、五女は菊姫は信玄の死後、武田・上杉の同盟の証として勝頼によって上杉景勝のもとへ嫁がされました。

そして六女の松姫が織田信長の嫡男である織田信君へ1567年に嫁ぎました。

だけど、三方が原の戦いにおいて武田と織田の仲は険悪となり、翌年信玄が死ぬと2人は引き離されました。

だけど松姫と信忠は離れてからも手紙のやりとりをする仲でした。

松姫は北信濃に移ってたんだけど、勝頼が長篠の戦において破れだんだんと武田の雲行きが怪しくなってきて城から城へ逃げる日々。

仁科盛信の高遠城にもいて、盛信が攻められる時に「妹だけでも」と、お兄さんの盛信は松姫を逃がしたのです。

天目山において勝頼が死ぬのを聞くと、松姫は勝頼の娘たち女4人で北条の領地へ逃げていきました。

勝頼の妻が北条氏だったので、北条氏照はこの4人を見逃してくれました。

で、お寺に入ってたんだけど、松姫は京都に大好きな信忠がいることを知り、会いに行こうと決意。

が、本能寺の変で信忠が死んだことを知ってしまった。

その後北条氏もやられてしまい、松姫のいるところに家康が入ってきました。

家康は信玄を崇拝していたので、松姫に庇護の手をさしのべました。

そして松姫は信松院を大久保長安に建ててもらい、1616年56歳まで生きたのでした。
 
6月2日 PM12:00 光秀「信長の首はどこじゃー!」
朝の8時に信忠との戦いは終わりました。

すると光秀の家臣らは、京都の人々に「皆さんお静かに!今日からは天下殿は明智光秀殿でござる!」とふれ回りました。

さらに、信長の残党が潜んでいないかと、兵たちが色んな家に押し込み、探しまくりました。

京都は混乱の場となったのです。

光秀は、すぐさま信長の居城である安土城へ向かう予定でした。

が、ここで光秀は無駄な時間を過ごしてしまうのです。

というのも、本能寺の焼け跡から「信長の首」が見つからないのです。

光秀は「もしかしたら信長は生きているのではないか・・・」と、恐怖にさいなまれました。

ここに至るまで光秀は、迷い・悩み・恐怖と、さまざまな気持ちが入り乱れていました。

信長の首を見るまでは、不安がいつまでも続くのです。

信長に対する恐怖が、まだ払拭されていないのでした。
6月2日 PM2:00 光秀 安土城へ向かう
とはいっても、いつまでもこんなところでグズグズしているわけにはいかない。

光秀は「信長の首」を見つけることが出来ないまま、安土城を占拠するべく進軍を開始しました。

安土城にいるのは、留守役の蒲生賢秀・蒲生氏郷らでした。
光秀 書状を出しまくる
安土城へ向かう中、光秀は多くの諸将らに手紙を出しまくりました。

手紙を出したのは、仲間である細川幽斎(この時はまだ藤考)・忠興父子・筒井順慶・そして摂津衆の高山右近らです。

彼らに自分がしでかした「信長への謀反」の理由を述べ、味方につけるべく手紙を出しました。

そして織田の各軍と対立している諸大名ら。

毛利家・上杉家・北条家・長宗我部家などにも送りました。
前田利長 慌てて安土城へ向かう
この頃、前田利家の長男である利長(19歳)は、夫婦で京都に向かっていました。

妻は「永」。

織田信長の末娘で、まだ10歳でした。

信長は前田利長と永の若い夫婦を、京都に招待していたのです。

で、何人かの従者を連れて歩いているところに、信長の足軽が泣きながら走ってきたのです。

利家は、その男の顔をなんとなく知っており、泣きながらやってくるので何事か!?とビックリしました。

するとその男が「光秀殿の謀反でございます!今朝、信長殿が殺されました!」と、告げたのです。

一同、血の気が失せました。

今ここにいるのは、信長の末娘なのです。

京都に行くわけにも行かないが、引き返すのも難しい。

いつどこで明智軍に見つかるかわからないし、この騒ぎに乗じて野武士らも動き出す。

利長は「とりあえず、妻を尾張へ!」と指示しました。

すると家臣らが「われらも妻子ある身!こんな危ない状況で尾張などに連れて行けぬ!」と家臣らは、逃げていったのです。

それでも何人かの譜代衆が残ってくれ、「永」は尾張へ。

そして利長は急いで安土城へ向かったのです。
光秀 ちょっぴり足止めされる
光秀らは、安土城へ進軍していました。

瀬田川のほとりまでやってくると、瀬田橋が焼け落ちていたのです。

このあたりは山岡景隆の勢力下でした。

光秀は、この山岡にも味方になるよう伝えていましたが、景隆はそれを拒否し、橋と城を焼いて退却していったのです。

明智軍は足止めをくらってしまいました。

ですが、兵たちは疲れまくっている。

光秀は仕方なく、一度坂本城へ行くことにしたのです。

そして疲れきっていた兵たちは、坂本城に入ると死んだように眠ったのです。
安土城にいる蒲生賢秀らビックリ!
安土城の留守役をしていた蒲生賢秀に「光秀謀反!信長討死!」のニュースが入ってきました。

賢秀は顔色を失いました。

が、光秀軍がこの安土城に来ることは目に見えている。

まず、息子の氏郷にこのことを告げると、氏郷もビックリ

そこへ、前田利長も安土城へやってきました。

ちなみに氏郷の妻も信長の娘(冬姫)

そのため、2人は仲が良く、特に利長は年上の氏郷のことを慕いまくっていました。

利長は、氏郷の顔を見ると、張り詰めいていた緊張が少し緩みました。
眼精常ならず 蒲生氏郷
蒲生氏郷は、信長に「眼精常ならず」(目の輝きは普通ではない)と言わせた武将です。

さらに千利休に「日本の武将の中で一番の文武兼備の名将」と言わせ、秀吉にも「あいつはワシに似ている。恐ろしい男だ」と言わせた氏郷。

蒲生家は、六角家の重臣でした。

1568年に信長に攻められた時に、父の賢秀(かたひで)は、13歳の息子氏郷を信長に人質として差し出したのです。

氏郷は信長の小姓となりました。

信長が小姓を集めて武勇を聞かせていると、一人目をキラキラ輝かせ「それで?それで?」と、毎晩聞いていたのです。

信長は賢そうな氏郷をとても気に入り、自分の娘・冬姫を与え、人質を解き日野を任せたのです。

ですがあまりにも賢すぎたため、のち秀吉から警戒されることとなります。
本能寺ショック!その時 次男信雄は?
信雄は丹羽長秀とともに伊勢にいました。

織田軍団の中で、一番近くにいたのです。

四国征圧のために、大坂で兵を集め待機してるトコだったのです。

信雄は事件の前日、信長のいる本能寺に信長の今後の予定を聞くために使者を出していました。

その使者が京都に入る直前、「本能寺の変」を聞いたのです。

ただちに信雄のもとに帰った使者。

ですが、信雄は「そんな話、信じられるか!」と、信長・信忠死亡を信じようとしなかったのです。

嫡男信忠亡き後の筆頭となるはずの信雄。

が、信じるのが恐ろしかったのか、動こうとしなかったのです。

本能寺の変 その時徳川家康は!?
家康は信長と会見したあと、信長の勧めで堺の町を観光してる最中でした。

2日の朝。

本能寺にいる信長に、最後にお礼の挨拶に行こうと堺を出たところでした。

先発を命じられ馬に乗っていた家康家臣の本田忠勝のもとに、京都の豪商・茶屋清延が必死の形相でやってきました。

何事か!?と、驚いた忠勝。

そして信長が本能寺において光秀により自刃というニュースを聞いたのです。

忠勝は慌てて家康に報告しに戻りました。

聞いた家康も血の気がなくなりました。

すると家康「わしは長年、信長殿の世話になってきた!だが、弔い合戦をするには人数が少なすぎる。ワシは長年の恩に報いるため京都に入って信長殿の後を追う!(つまり切腹する)」と言いだしたのです。

慌てたのは家臣。

ですが、数人しかいないこの状況。

もはや明智軍がやってきて、討ち取られるのは目に見えている。

家臣の酒井忠次・榊原康正・石川数正らは「確かにこの人数では、討ち取られるのがオチだ。こうなったら武家の習いに従い、我々も追い腹しようではないか!」と言い出しました。

それを本多忠勝が、「皆のもの!それは間違いでござる!確かに状況はきついが、なんとか国へ戻り、軍勢を出して明智光秀を討つことこそが信長殿への恩に報いることである!」と言ったのです。

みんな「それはもっともだ!」と、忠勝の意見をとることにしました。

家康の伊賀越え
ですが家康が帰国するのは難しいことでした。

街道を通れば、明智勢がいるのは間違いない。

間道を通れば、こういう時に必ず出てくる野武士が襲い掛かってくる。

さらに一揆が始まっている。

家康一行はこのまま少人数でいつまでもここにいたら明智軍に討たれる。

この危機を逃れるためにはどうすればいいか?と相談。

すると服部半蔵が、「私に任せてくだされ。必ず家康殿を本国にお返しいたす」と言ったのです。

そして半蔵は、伊賀の山を越えて行くというルートを進言。

道々で、伊賀・甲賀の忍者仲間に呼びかけたのです。

さらに茶屋清延が多額のお金を用意しました。

三河までのルートにある村の人々にお金を握らせ警護にあてました。

茶屋清延は家康が今川から独立した時に甲冑を大量注文した時からのお付き合い。

この時の活躍が家康の信頼を得て、幕末まで「幕府御用達」の商人として重宝されることとなったのです。

家康の「伊賀超え」は、伊賀忍者達のおかげで無事に本国に帰ることが出来ました。

家康はこの時、伊賀忍者にめちゃくちゃ感謝しまくることとなるのです。


信玄の次女で穴山梅雪の妻 見性院
この時武田家臣であった穴山梅雪も、家康と一緒にいました。

伊賀越えの時に家康一行と離れて農民に殺されたといわれています。

42歳でした。

残された穴山梅雪の妻「見性院」ちなみに俗名はわかってない。

5年後嫡男勝千代が16歳で病死。

生きていく希望もなくなり、2人の菩提を弔うため仏門の世界に入りました。

その後家康は見性院を江戸城北の比丘尼屋敷へ呼んで600石を与えました。

そんな頃、家康の息子秀忠が女中に手をつけちゃって、産まれた男児を母子共々引き取り、7歳になるまで育てました。

その子がのちの保科正之です。

見性院は80歳に死にましたが、間際まで保科正之の幼名「幸松丸」の名を呼びながら死んだそうです。

本能寺の変 その時他の人々は!?
滝川一益は新しく得た領地に入ったばかりで、その領地の保持でてんてこまい。

とても京都にいける状態ではなかった。

6月3日 蒲生賢秀ら安土城を捨てる
蒲生賢秀・氏郷・前田利長ら3人は「これからどうする?」と話し合うことに。

そして決まったのが、ひとまず安土城を捨て、日野へ逃げるというものでした。

というのも、安土城には信長の家族や愛妾ら、女房らがいたからです。

こんな状況で、戦うのは無理だ。

こうして一行は、安土城を後にしたのです。

この時、安土城の金銀を一切持って生きませんでした。

そして蒲生父子と前田利長は、日野の城に立て籠もることとなったのです。
6月3日 深夜 その時秀吉は!? 
秀吉は、中国地方の高松城にいました。

和議は整い、あとは信長からの返事を待つだけ。

そこへ不審な男がうろついていました。

秀吉の兵が、その男を捕らえると、光秀が毛利にあてた手紙を持っていたのです。

毛利の陣へ行くはずが、間違えて秀吉の陣に入り込んでしまったのです。

その手紙を開くと「光秀謀反・信長自刃

一同呆然とし、しばらく我を忘れた秀吉。

さすがの秀吉も大ショックで、ギャーギャー泣き出したのです。

するとそこに黒田官兵衛

「今こそ主君信長の仇を取りに光秀を討ちなさい!これはチャンスですぞ。そして天下を取るのです!」と言ったのです。

そこから秀吉は素早かった。

いつまでも悲観にくれているわけにはいかない。

秀吉は蜂須賀小六・黒田官兵衛らと話し合いました。

そして「4日に決まっている清水宗治の切腹を、午前中にしましょう!」

まず毛利家に信長が死んだことを悟られないよう慎重に対処しなければ!と、毛利方の使僧である安国寺恵瓊(あんこくじえけい)を呼びました。

6月4日 その時柴田勝家・前田利家は!?
織田軍団の中で、一番勢力の大きい柴田勝家率いる「北国軍

この頃、勝家・前田利家・佐々成政・佐久間盛信らで、上杉景勝の魚津城を攻めている最中でした。

景勝は、自らが大軍を率いて出陣してきていました。

そこを織田の森長可が「景勝がいないうちに越後に行くぜ!」と、越前に向かったので、景勝は慌てて越前に戻って行きました。

勝家らは大喜びで、魚津城をガンガン攻めまくり。

とうとう6月3日に魚津城は落ちたのです。

みんな大喜びで騒いでいました。

そこに「光秀謀反!信長討死!」の使者がやってきたのです。

一同呆然・・・・・。

このニュースにみんなパニックとなり、魚津城を捨て、みんな自分の城へ帰ってしまったのです。

というのも、このニュースを聞けば、たちまち上杉景勝は「チャンス到来♪」と攻撃してくるだろうから。
北国軍の事情
勝家ら北国軍は、それぞれ事情を抱えていました。

佐久間盛信は、自分が住んでいる城を攻め落とす際、だまし討ちで奪い取ったのです。

そのため一揆衆の残党達が「隙あらば・・・」と、狙っていたのです。

佐々成政は上杉勢と直接バトルしている。

ここで自分があたふたと動いたら、上杉景勝は必ず攻撃してくる。

前田利家は畠山の旧家臣達が、上杉に寝返り能登を狙って絶えず動き回っていました。

さらに利家と佐々成政は不仲。

隙あらばとお互い思っている。

柴田勝家は動きたかった。

ですが「北国軍」で明智勢に立ち向かわなければ勝ち目はない。

また、北国軍同士でも小競り合いをしそうな雰囲気。

いわば勝家の監督不行き届きだったのです。
6月4日 秀吉ドッキドキ
秀吉はなんとしても和議を早く成立させなければならなかった。

もし信長の訃報が毛利家にバレたら、毛利は和議どころか、これをチャンスと攻め込んでくるかもしれない。

秀吉は毛利の使者である安国寺恵瓊が戻ってくるのをハラハラしながら待っていました。

そして恵瓊が毛利からの返答を持ってきました。

本日午前中に切腹する。という条件はOKとなったのです。
6月4日午前 清水宗治切腹!!
約束の時間、清水宗治は小舟を漕いだ。

敵味方見守る中で湖上で腹を切るのが条件だったのです。

秀吉側からも小舟がやってきて最後の美酒を贈りました。

これほどの大軍に見守られた切腹は始めてでした。

周りは静まり返り、固唾を呑む。


両軍にとって苦しかった戦いが終わろうとしていました。

小早川隆景は「宗治こそ忠臣である」と号泣。

清水宗治 46歳でした。
6月4日 昼過ぎ 秀吉大忙し!中国大返しスタート!
切腹の儀が終わりました。

秀吉軍の撤退がスタートしたのです。

まず城内の水をなくすべく、工事がはじめられました。

さらに人質交換。

秀吉は毛利家に悟られないよう、不安を抱きながらテキパキと指示を出しました。

早く撤去しないと、いつ毛利が信長の死を知り、「和議は破棄じゃ!追撃じゃ!」と言ってくるかわかんないのです。

夜になると、次々と秀吉や兵たちが撤退し始めました。

秀吉「中国大返し」のスタートです!

最後に残ったのは蜂須賀小六。

そしてほとんどが撤退した後、毛利の陣営に松明がつき始めました。

「本能寺の変」のニュースが毛利家に届いたのです。
6月4日夜 毛利家ビックリ!「え?信長死んだの!?」
夜、毛利家は本能寺の変を知りました。

もちろん毛利家は「秀吉め!こーゆーことだったのか!すぐに秀吉軍を追撃しよう!」ということに。

それを反対したのが小早川隆景と安国寺恵瓊。

隆景は「約束を破るなどの卑怯なやり方は、毛利家のやり方ではない。」と言ったのです。

腹の中は「そろそろ天下を取るやつが現れてもいい頃だ。秀吉はその才能がある。もしここで秀吉を追撃せずにいて秀吉が光秀を討ったら、秀吉は毛利家に感謝するだろう」

その隆景の読みは的中したのでした。

後日秀吉はこの毛利家のやり取りを聞き、小早川隆景ら毛利家に感謝し、その後毛利家を優遇するのであります。
6月5日 光秀 安土城に入る
光秀は、この日無血で安土城に入りました。

城に入ると、財宝を家臣たちに惜しみなく分け与えました。

まず手始めに近江を平定。

丹羽長秀と、秀吉の城を家臣らに攻め込ませました。

留守役しかいない城は、簡単に落ちました。

お次は光秀、美濃に狙いを定めました。

さらに光秀は「信長の弔い合戦として、来るとしたら柴田勝家ら北国軍だろう。ヤツラが一番勢力を持っている。北国軍に備えなければ!」と、ターゲットを柴田勝家に絞りました。

秀吉のことなど、ほとんど考えていなかったのです。

そのため、織田信澄が殺されたことも黙認していました。

京都より西に対し、なんの手も打っていなかったのです。
どう出る?摂津衆・中川清秀
秀吉も光秀も、どうにかして味方に加えたい人たちがいました。

それが池田恒興・中川清秀・高山右近ら「摂津衆」です。

摂津衆は荒木村重の傘下にありましたが、村重が謀反を起こしたため摂津衆は大打撃を受けていました。

そして荒木村重の家族・家臣は、信長によって大量虐殺・・・。

それを見ていた村重傘下の中川清秀は「とてもじゃないが、あんな酷い男に心から敬服などしたくない」と思っていたのです。

秀吉はそんな中川清秀に「味方になれ」と手紙を送りました。

同じ頃、光秀も手紙を送っていたのです。

中川清秀は悩みました。

どっちにつくかによって、今後「中川家」の存続がかかっているのです。

そして清秀が選んだのは「秀吉」だったのです。

もちろん池田恒興は信長と乳兄弟だったので、秀吉側につきました。

すると高山右近も秀吉軍に入ることに。

摂津衆が秀吉についたことは光秀ショックでした。

ですが、ここまでは仕方ない・・・と諦めることができたのです。
信雄ビビる 「弔い合戦??オレが?」
日野城に入った蒲生賢秀らは、一番近くにいる信雄に使者を出しました。

「明智光秀謀反!ただちに光秀征圧の軍を出したいので、総大将として出馬願います!」というものでした。

嫡男信忠が死んでしまったので、総大将となるべきだったのは信雄でした。

この頃、日野城にいる蒲生賢秀のもとには明智勢からの使者が来まくっていました。

もちろん「明智勢の味方になれ」というお誘いです。

それを氏郷らは何とか引き伸ばしている最中でした。

前田利長は「何で使者を切り捨てて、明智光秀を討ちに行かないんだ!」と、ブーブー文句

利長はまだ19歳で、血気盛んだったので、賢秀や氏郷の態度にムカムカしていたのです。

氏郷らは、「まったく、この軍勢で立ち向かったところで、勝てると思ってるのか?」と、なだめていましたが、埒があかないので、信雄のもとへ使者を出したのです。

が、信雄は恐怖におののいていました。

「オレ?オレが総大将?」と、ビビってしまい、出陣を何日も先延ばししていたのです。

そして、やっと出陣したのは9日。

が、何を間違ったか余計なことをしてしまいます。

その頃に、秀吉がやってくることとなったのでした。
信雄 全然関係ないとこを攻める
信雄と丹羽長秀は、ここで「織田信澄」のことを思い出しました。

信澄は、以前信長に謀反を起こした弟・信行の子供。

そして、明智光秀の妻を娶っていたのでした。

ちょうど大阪城にいたので、信雄らは「明智光秀の味方になったら困る!」と、大阪城の信澄をやっつけに行ったのです。

信澄は、突然の攻撃に何の準備もしていなかったので、あっという間に攻められ自刃しました。

光秀の味方になるかどうかもわからないうちに、信雄は無駄な血を流させたのです。
光秀 無駄な時間を過ごす
光秀は、貴重な時間を費やしてしまいました。

それは「朝廷に対して」です。

信長は朝廷などハナから相手にしておらず、太政大臣でさえも「お前呼ばわり」

ですが、光秀は違った。

律儀な性格だったし、信長と将軍とのパイプ役もやっていたこともあり、京都のお偉いさんたちをおざなりにできなかったのです。

今が一番大事な時だというのに、ここでお偉いさんたちに気を使い、酒宴などをやって過ごしてしまったのです。

そして、その間に秀吉が「中国大返し」をしているのでした。
6月8日 秀吉 姫路へ到着
毛利家と和議し、尋常じゃない速さで戻ってきた秀吉。

秀吉は馬上で寝て落ちてしまうほど疲労しきっていました。

姫路城に到着すると、「中国攻めの軍資金を全て残らず兵に配れ」と言ったのです。

破格の恩賞でした。

6月9日 光秀大ショック!細川父子の裏切り
光秀にとって「摂津衆は仕方ないな・・・」と、思っていましたが、味方と信じて疑わなかった細川幽斎・忠興父子がなんと光秀を裏切ったのです。

細川幽斎と光秀は、将軍足利義昭を擁した頃からの親友でした。

将軍のもとで苦楽をともにした2人は、以後信長の家臣となり、ずっと仲良くやってきたのです。

光秀は、娘の「玉」(細川ガラシャ)を、幽斎の息子である忠興と結婚させ、両家は非常にうまくやっていたのです。

ですが、細川父子は「光秀謀反!」を知ると、すぐさまガラシャと離婚し、ガラシャを幽閉してしまいました。

さらに幽斎は剃髪して、(この時、藤考から幽斎になりました)、家督を忠興に譲ってしまったのです。

さらに忠興も髪を切り、信長への忠誠を誓ったのです。

もう光秀は大ショック

最も頼りにしていた親友に裏切られたのです。

光秀は諦めきれず、何度も手紙を出しました。

最後には「お願いだから、来てくれ!所領も沢山あげるから!頼む!」と、涙を流しながら手紙を書きましたが、細川父子は全く動こうとはしなかったのです。
6月9日 本能寺の変 その時滝川一益は?
関東の北条氏政とバトル中の滝川一益

なんと「本能寺の変」の情報が入ったのは6月9日。

これは甲賀出身であった滝川一益が、甲賀攻めを信長に進言したことから、甲賀忍者に「裏切り者め!」と憎まれていたから。

そのため、甲賀忍者は「滝川一益に、この訃報を知らせるのを遅らせてやろう!」と、邪魔をしまくったのです。

敵である北条氏政の方が、先にこの情報をキャッチしました。

そしてチャンス到来♪と、一益に攻めかかってきたのです。

一益は、さっさと引き揚げればよかったのに「正々堂々戦ってやる!」と、北条氏政とバトル!

が、こてんぱんに負けてしまい、命からがら逃げ出したのです。

この負けはかなり最悪で、清州会議の参加もさせてもらえないほどとなってしまったのです。
6月9日 日和見順慶
ここで光秀、さらなるショックが!

一度、味方になると言っていた筒井順慶が、怪しい動きをしだしたのです。

順慶は光秀とともに、河内へ討ち入ることになっていたのに、9日なってから、籠城の支度をし始めたのです。

筒井順慶は信長の家臣として大和(奈良県)一国を与えられていました。

大和を与えられたのは、光秀が信長にプッシュしてくれたおかげなのでした。

以後も光秀は順慶を可愛がり、何かと面倒をみてあげました。

順慶が今この立場があるのは、全て光秀のおかげだったのです。

そのため光秀は、本能寺の変後は順慶は必ず自分についてくれると思っていたのです。

が、動く気配がない。

光秀は順慶に何度も使者を出し、一刻も早く自分のもとに来るように言いました。

が、いっこうに順慶が来る気配はなかったのです。

諦めきれない光秀は、洞ヶ峠まで行き、10日まで順慶がくるのを待ちました。

順慶は光秀と秀吉 有利な方につこうと考えていたのでした。

そして光秀に加担するものが殆どおらず、戦況は秀吉にありと見極めると、秀吉に使者を出し「オレはそっちにつく」と言ったのです。

そのため「日和見順慶」というニックネームがついてしまったのでした。

洞ヶ峠で待っていた光秀でしたが、秀吉が早くも尼崎までやってきたというニュースを聞き、慌てて戻ったのです。
6月10日 光秀絶望
信じて疑わなかった細川父子・筒井順慶の裏切り。

光秀は「いったい誰が、来てくれるのだろうか・・・」と、ものすごく憂鬱になりました。

さらに光秀にとって一番の誤算。

秀吉が1日で100キロ走ったのかと思われるようなスピードで戻ってきたのであります。

光秀は、こんな状況に陥ってしまったコトを考えると情けない思いに。

ですが、そんなことも言ってられない。

「主君の仇!」と、大義名分をひっさげた秀吉が、怒涛の勢いで迫ってきているのです。

洞ヶ峠を引き揚げた光秀は、下鳥羽に本陣を置きました。

当初予想していた布陣とは、まったく違うものとなりました。

味方する軍勢がまったくいないからです。

また、強力部隊である娘婿・明智秀満率いる兵を、対勝家用に安土城守備に置いてしまっていたのです。

こうして、秀吉とやりあうのは、光秀の一軍だけとなってしまったのです。
6月10日 秀吉尼崎へ到着
秀吉は尼崎へ到着しました。

尼崎で池田恒興・中川清秀・高山右近らの摂津衆と合流。

秀吉軍は3万人に膨れ上がりました。

こうして秀吉が想定した合戦の場は「山崎

対する光秀も「桂川と天王山に挟まれた山崎で迎え撃つしかない」と決めたのです。

1582年6月13日 午前 山崎の戦い
秀吉は作戦会議を開いた後、高山右近に山崎の町を占領させました。

そして中山清秀・黒田考高に天王山を占拠させ、戦場の要所を押さえた。

光秀軍は13000人。

明智光秀の中央には重臣・斎藤利三の3000。阿閉貞征の2000や、旧足利の幕臣らが陣を置きました。

対する秀吉軍は、中央に高山右近の2000。中川清秀の2500。

右翼は池田恒興の5000。

左翼に羽柴秀長らが陣を置きました。

6月13日 午前 秀吉 織田信孝を待つ
秀吉は信長三男・織田信孝が来るのを今か今かと待っていました。

信孝は信長の子であります。

信孝がそこにいるだけで、「名分」がたつのです。

秀吉だけが勝手に弔い合戦を始めたら、織田の重臣達が何を文句言って来るかわからない。

ですが、信孝がいれば、「息子がいたから」という理由になるのです。

そして、織田信孝を連れて丹羽長秀らがやってきました。

秀吉は、合流した織田信孝・丹羽長秀を最後尾に配置したのです

これは光秀討伐の際、手柄をたてさせないためです。

「主君信長の弔い合戦」を行う総大将は、あくまでも秀吉でなければならなかったのです。

それが秀吉が天下へ近づく最低限の条件だったのです。
6月13日 PM4:00 天王山争奪戦
山崎の戦いは、別名「天王山の戦い」とも言います。

この天王山の戦いが、すべての戦局を左右したからです。

午前中はずっと睨み合いが続いていました。

午後4時頃。

天王山に陣を張っていた中川清秀隊と黒田考高隊。

ここに光秀軍の松田隊・並河隊が攻撃をしかけ、激しい戦闘が繰り広げられたのです。

これが合図となり、ぶつかり合いが全軍に広がったのです。
6月13日 午後4時 山崎の合戦!!
天王山では、めちゃくちゃ激しいバトルが繰り広げられていました。

が、とうとう中川・黒田隊は松田・並河隊を撃破!

さらに光秀軍に近づいていったのです。

中央では、光秀軍の斎藤利三VS池田恒興らが戦っていました。

斎藤隊は果敢に戦いました。

また、足利旧幕臣の御牧兼頼の活躍はめざましいものがありました。

ですが、とうとう斎藤利三が池田隊に討たれてしまったのです!

斎藤隊は崩れていきました。

御牧は「戦況は不利でございます!自分はこれから最後の突撃をし、討死いたす!その間に光秀殿は退却されよ!」と伝令。

光秀はそれを聞き「御牧を見殺しにするわけにはいかぬ!」と、兵を率いて救援に向かおうとしました。

が、他の家臣らは「今行っても無駄でございます!もはや退却するしかありません!」と必死で止めたのです。

午後6時 光秀軍の敗走が始まった。

もはや誰の目から見ても、光秀の敗北は決定的となったのです。

6月13日 夜 光秀 勝龍寺城へ!
光秀は勝龍寺城に逃げていきました。

そしてこの城に籠もって戦おうとしていたのです。

ですが、すごい勢いで秀吉軍は勝龍寺城へも迫ってきました。

城からは脱走者が相次ぎ、はや籠もって戦うどころじゃなくなってしまったのです。

明智軍の敗兵は必死に逃げてきました。

が、逃げる明智軍を秀吉軍が追撃。

みんな捕らえられ斬られていったのです。

「ここにいても落とされるのは時間の問題だ。娘婿・秀満を安土城に分散しなければ良かった!」

光秀は悔やみました。

ですが、今はもう逃げるしかない。

ここにいても殺される。

とにかく逃げなければ!

光秀は、最後までついてきてくれる覚悟のあるお供を数名つれて、勝龍寺城を脱出したのです。

6月13日 明智光秀死去!!
明智光秀一行は、少人数で近江へ向かいました。

雨が降り、道はぬかるみんでいました。

あちこちに「かがり火」が見える。

これは秀吉兵が、「残党狩り」をしていたのです。

見つからないように、必死に逃げました。

光秀一行は、桂川を渡り小栗栖(おぐるす)の竹やぶに差し掛かりました。

その時、竹やぶに隠れていた「落ち武者狩り」をしている農民達が現れたのです。

彼らは、疲労しまくっていた光秀一行に襲い掛かりました。

そして光秀は竹槍で突き刺されてしまったのです。

もはやこれまでと悟った光秀は、介錯で命を落としたのでした。

光秀の死体は何日もほったらかしであったため、腐敗しており本人かどうかの区別がつかなかった。

そのため光秀生存説が出て家康時代に活躍する「天海」は光秀である!という説が出てきたのです。
光秀弟・明智秀満自刃
秀満は、「山崎の合戦 大敗」を聞くと、ただちに安土城を出ました。

向かったのは坂本城です。

光秀がもし生きていたのであれば、坂本城に戻ってくるであろう。

そうしたら、坂本城で籠城するべきだと考えたのです。

が、坂本城に入った秀満に入ったニュースは「光秀死亡

もはや坂本城で籠城する意味はなくなってしまいました。

秀満は家臣らを呼びました。

「ここまで付いて来てくれたことに礼を言う。だが、もはや明智は終わった。そなたらは、今すぐ逃げよ」そう延べたのです。

そして、秀満は天守閣へ。

そこで光秀の妻子と、自分の妻を刺し殺し、城を火にかけました。

それを見届けると、自らも腹を切って自刃したのです。
明智光秀の妻 煕子
煕子は美濃の土岐家の家臣である妻木載煕の娘として生まれました。

光秀が信長に仕える前に結婚したのです。

結婚を間近に控えた頃、煕子は疱瘡(天然痘)になってしまい顔があばた顔になってしまいました。

心配した父は「これでは嫁いでもすぐに帰らされてしまいショックを受けてしまうだろう・・・」と、煕子の妹を光秀のもとに嫁がせたのです。

ですが光秀は、すぐに妹を別人と見破り、妹を帰らせ煕子を嫁に欲しいと言ったのです。

煕子はそんな光秀に感謝し、2人は仲良く暮らしました。

ある時「汁事(しるごと)」を光秀の家でやることになりました。

汁事とは仲間の武士同士で順番に家を訪れ食事をしながら話をするというもの。

光秀の順番が廻ってきた時、貧乏だったため人数分の食事が用意できそうになくって光秀は悩みまくっていました

すると煕子が「ご心配なく」と言い、仲間のどの家よりも立派な食事を用意したのです。

面目を保った光秀は「どうしてあんな立派な料理が用意できたのか?」と聞くと、煕子は頭のかぶり物を取り「髪を売りました」と言ったのです。

キレイな黒髪を売ってまで自分のために尽くしてくれた煕子に光秀は感謝し、さらに愛しく思いました。

その後信長のもとで出世してからも、他の武将達のように側室を誰一人置かず、一生煕子だけを愛し続けたのです。

江戸時代、松尾芭蕉は奥の細道の旅に出て越前にてこの話を聞き、感動して歌を詠んでいます。

「月さびよ 明智が妻の はなしせん」 というものです。

坂本城にいた煕子は光秀が山崎の合戦で死んだのを聞くと、家臣らに金銀と食料を分け与え城を出させた。

そして娘婿である秀満に自分を斬らせ夫のもとへ旅立ったのであります。
光秀の娘 細川ガラシャ
細川家は管領細川家の流れを汲む家柄でした。

信長に仕え、かしこかったのですぐお気に入りに。

信長の紹介で明智光秀の三女ガラシャと結婚。

忠興とガラシャは父同士も仲が良く幼馴染でした。

この可愛らしい2人の結婚を信長はとても喜んだそうです。

が、本能寺の変で光秀が信長を討っちゃった。

光秀は細川家にも「助けてくれ!」とお願いするも、細川父子はそれを拒否。

光秀は大ショックを受けるのです。

そして忠興は秀吉への忠誠を見せるために、光秀の娘ガラシャと離婚。

といっても忠興はガラシャを捨てきれずに、2年間隠し通して再婚するのです。

ですが、この2年の間に忠興は他の女性と浮気をし、子供を産ませました。

妻であるガラシャは幽閉されたり、浮気されたりと忠興の仕打ちにショックを受け、キリスト教にはまっちゃうのでした。

ですが、忠興はガラシャが大好き。

どうやっても捨てきれなかったのです。

6月14日 「家康、もう帰っていいから」by秀吉
必死の伊賀越えで、何とか三河に帰ることができた秀吉。

早速「光秀征圧!」の軍を出しました。

が、秀吉から急使がやってきたのです。

「もう戦いは終わった。帰っていいですよ」というものでした。

家康は「してやられた・・・」と悔しがりました。

信長が死に、長男信忠も死んだとあれば、光秀を討った者こそが「天下」に一歩近づく。

それを秀吉にやられてしまったのです。

家康は秀吉のことを気にしたことはありませんでした。

「信長の一家臣」としか思っておらず、何の義理もない。

そんな男にしてやれた家康は、爪をかみながら悔しがったのでした。
6月16日 名城・安土城炎上!!秀吉ビックリ
この日秀吉は安土へ入りました。

が、信長お気に入りだった当代きっての名城・安土城はすでに燃え落ちていたのです。

というのも、光秀の娘婿・秀満は、安土城を出て坂本城に向かいました。

その翌日15日に、安土城へ入った織田信雄が、安土城に火をかけたのです。

敵である秀満さえ火をかけなかった、名城安土城

それを息子・信雄が「明智勢が引き返してくるかもしれない!」と恐れ、灰にしてしまったのでした。

てっきり明智勢が火をかけたと思っていた秀吉。

信雄がやったと知ると、めちゃくちゃ呆れまくったのです。
1582年6月27日 清洲会議 信長の後継ぎは?
清洲城では、天下取り半ばの信長の後継者を選ぶ会議が開かれることになりました。

参加資格を得たものは、羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興・柴田勝家の4人。

滝川一益は重臣でありながら、北条に大敗を喫したため参加資格がなかったのです。

また、信雄・信孝らも参加させてもらえませんでした。

流れ的に「信孝」が後継者となるであろうという空気がありました。

秀吉は「信雄・信孝を参加させると、公正な議論ができない」と、2人の参加を却下したのです。

清洲会議は勝家の発案でした。

秀吉は「ココで勝家に主導権を握られてはマズイ・・・・」と、さまざまな裏工作をしてたのです。

清洲会議当日。

ここで柴田勝家は、山崎の合戦に参加した三男の信孝を後継者としてプッシュ。

対する秀吉は、京都で討たれた信忠の嫡男である三法師をプッシュしたのです。

秀吉はこの時、丹羽長秀を味方につけました。

丹羽長秀は「嫡孫を後継ぎにするのが筋である!」と主張し、この清洲会議で後継者は三法師に決定したのです。

さらに「信孝が後継者になれば、次男の信雄が黙っておらんだろう?2人のうちどちらかを決めるのは混乱を招く」とまで付けたし。

勝家はこう言われてしまっては、信孝をこれ以上強く押せなくなってしまったのです。

機転と根回しをきっちりとやる秀吉の前に、まっすぐにしか突き進めない勝家が負けたのでありました。

結果はそれだけではありませんでした。

信長の遺領配分において秀吉は播磨・山城・河内・丹羽を取ったのに対し、勝家は秀吉の旧領である近江の長浜のみ。

滝川一益は遺領配分さえもなかった。

三男信孝は自分も秀吉とともに弔い合戦に参加したので、後継者は自分だと思い込んでいたので結果を聞いてガクゼンとしたのです。

こうして秀吉は、後継ぎである三法師の後見人となったのです。

1582年7月1日 勝家ムカッ!なんだあいつ!
秀吉は、三法死の後見人となると、さっそく三法師におもちゃを与えてなつかせました。

そして清洲会議から4日目・・・

織田家の諸将が登城してきました。

みんなが居並ぶ大広間に、秀吉が三法師を抱いて現れたのです。

勝家らは平伏しました。

その姿が、あたかも三法師を抱いた秀吉に対して頭を下げ、平伏しているように見えたのです。

勝家は怒りに震えました。

「草履取りだった奴に、ワシが平伏した形になるとは!!

こうして、勝家と秀吉は織田家臣NO1の座を巡って激しく対立することとなるのです。

勝家は「自分が織田のNO1。ワシは筆頭家老である!」という気持ちがありました。

それがいつの間にか、秀吉に取られていたのです。
1582年 太閤検地スタート
秀吉は新しく支配地を広めるたびに検地を行いました。

それまでは領主達にその面積を申告させ税を決めていましたが、ごまかす者がいないようちゃんと測る事に。

土地の広さを測った後、田を上・中・下・下下に分け等級を決め等級にあった税を納めさせました。

秀吉は検地を厳しく行い、これに反抗するものは誰であろうとも一人残らず殺せと命令。

これで昔から続いた「荘園制度」は完璧に消滅となります。

この検地を行ったのは石田三成を中心とした文治派でした。

織田家臣 柴田勝家
勝家は、浅井・朝倉攻めや越前一向一揆など軍功を重ね、居城を北ノ庄城に定め城下町を北陸一とまで言わせました。

北上していった勝家ですが、ここで最大の武将上杉謙信に手取川で奇襲を受け大敗。

が、謙信が病気で死んだことを聞くと、北陸攻めが楽になり加賀一向一揆を制圧しました。

残ってるのは上杉景勝。

そして景勝と戦っている時に本能寺の変を聞いたのです。

強敵上杉と戦ってる最中だったので、動くことができず秀吉に弔い合戦をされてしまい、完全に出し抜かれてしまう。

これによって重臣としての権限が薄れていくのです。

いったん決めたらとことん型で、まっしぐらに突き進んでいく純粋な性格だった勝家は、実戦より謀略を得意とする秀吉とは対照的でした。

自分の名前である「柴」をあやかった秀吉が主君の仇を討ったことで、いつの間にか主導権を握っているのに焦りと憤りを感じたのでした。

織田家臣 丹羽長秀
清須会議の際、重臣の中で秀吉の味方をした長秀。

織田家命の長秀は、織田の命運を秀吉に賭けたのです。

47歳の時に、三男の信孝を総大将として四国平定に出陣。

その準備の最中に信長の悲報を聞きました。

その時、すぐさま光秀討伐に動かずにいた慎重さが裏目に。

秀吉の中国大返しを聞き、その大軍に合流するという消極的な行動となってしまったのです。

山崎の合戦では秀吉中心の戦いとなってしまいました。

それでも長秀は秀吉のことを嫌いではなかったらしく、「秀吉ならば、織田のために色々やってくれるだろう」と、秀吉の味方をすることとなったのです。

清洲会議参加者 池田恒興
清洲会議参加者の中で、一番ランクの低い恒興。

そもそも、会議自体に参加できるほどの身分ではありませんでした。

実は水面下で、秀吉がかなり激しい工作をしていたのです。

そして「恒興は、山崎の合戦において活躍しまくった!ぜひ参加させたい」と強く押したのです。

参加できるほどの身分じゃないのに、ベスト4に選ばれることとなった恒興。

恒興は秀吉にすごく感謝し、秀吉を応援しまくったのです。

結果、清洲会議は勝家VS秀吉・長秀・恒興となってしまいました。

いくら「筆頭家老じゃ!」と言い張る勝家でも、1対3では敵わなかったのでした。
織田家重臣 滝川一益
長篠の戦で素晴らしい活躍をした一益は、勝家や佐久間盛政ら譜代の重臣と同じ位置まで偉くなりました。

1578年には信長主催の茶会が開かれ重臣12人が選ばれました。

そこに名を連ね、一益は大喜こび

石山本願寺の時も、九鬼嘉隆とともに無敵であった村上水軍を撃破。

武田攻めでも織田信忠とともに武田騎馬隊を相手に奮闘。

多くの軍功をあげ信長から褒美をたくさんもらったのです。

戦上手として名を馳せた一益は東国攻めの総大将を任され、拠点として上野厩橋城を居城とすることを命令される。

そして信長の期待にこたえるべく一生懸命やっていたのでした。

そこへ本能寺の変。

一益は急いで京都に行こうとするが、そこへ北条氏が大軍を率いて滝川軍を追撃。

滝川軍より10倍以上ある大軍でやってきたもんだから士気が下がりまくり壊滅。

なんとか逃げ切り戻ってきた一益。

が、今まで草履持ちとバカにしていた秀吉が天下への駒をゲットしていた。

これに焦った一益は、勝家・信孝と組むことになったのです。
1582年11月 勝家「ワシ、秀吉嫌いじゃ!」
勝家は秀吉のことをめちゃくちゃムカついてました。

調子が良く、信長に気に入られていた秀吉。

対する秀吉も、勝家は目の上のたんこぶ。

それに大好きなお市の方を奪った(?)憎い奴。

こうして織田家の主導権を握るバトルが始まっていくのです。

が、勝家の居城は「北ノ庄城

冬は雪が沢山降るので、簡単に兵を出すことは出来ない。

勝家は、信頼を寄せている前田利家に「とりあえず、今は秀吉と戦うのは不利なんだよね」と、秀吉とある程度仲良くしときたいという内容のことをお願い。

前田利家は勝家とともに「北国軍」として、すごく仲が良かった。

ですが、秀吉とも貧乏時代お隣同士で、親友だったのです。

大好きな2人が、仲たがいしていくのを、利家は嫌だなぁーと思っていたのでした。
勝家VS秀吉 工作スタート
冬の間動けない勝家は、利家に頼んで「とりあえず和議」をしました。

多分この時、利家は秀吉と会い「ワシの味方をしろ」と頼まれたのでしょう。

また、勝家にとって丹羽長秀・池田恒興が秀吉側についたことは誤算でした。

「こうなったら、他のヤツラを秀吉側につかせるわけにはいかん!」と、工作しだしたのです。

秀吉も負けてはいません。

こうして他の織田家・同僚家臣の奪い合いがスタートしたのです。

が、これは秀吉が有利でした。

というのも、秀吉についたのは丹羽長秀&池田恒興

勝家には滝川一益

他の家臣たちは「どっちについたかによって、我が家の命運が決まる。強い方を選ばなければ」と、吟味しまくり。

現在のところ3対2で秀吉の勝ち。

さらに秀吉は「主君を討った明智光秀」をやっつけたのです。

さらにさらに!清洲会議において、秀吉の押した三法師が後継ぎに。

織田家臣らは「これは秀吉に分があるんじゃないか・・・」と、秀吉側につきはじめたのです。

この動きを察知した勝家。

「クソ!こうなったら織田家以外の者を味方にするしかない!」と、考え始めたのです。
この時 毛利輝元は?
勝家は「このままじゃワシの方が劣勢だな」と、感じていました。

そこで織田以外の人を味方につけようと考え、真っ先に浮かんだのが、本能寺の変直前まで秀吉と戦っていた「毛利輝元」でした。

いきなり毛利に使者を送っても、無理だろうなと考えた勝家。

元・将軍の足利義昭にお願いしたのです。

義昭は毛利家にいたので、さっそくお願い。

すると早速「毛利家は勝家の味方をしましょう」という返事が来たのです。

勝家&一益はそれを聞いて大喜び♪

が、毛利家は「勝家かぁー。どうする?秀吉はなかなかやり手だからなぁ。一応勝家にはOKしたけど、秀吉が勝っちゃったら困るしなぁ。とりあえず両天秤かけとくかー」みたいな状況でした。

そんな毛利の考えは知らず、勝家は「毛利が味方になったぞ!」と信じて疑わなかったのです。
この時 徳川家康は?
お次に勝家が期待を寄せたのは徳川家康。

信長がもっとも信頼していた同盟者だったし、家康も秀吉の急速な台等を嫌がっているはず・・・。

勝家は何とか家康を味方につけたかったのです。

が、家康は正直「信雄」派でした。

「普通三男の信孝じゃなく、次男信雄だろ?」という保守的な面があったため、信孝を押す勝家にいまいち賛同できなかったのです。

家康は「まぁ、とりあえずは様子みとくか」という感じでした。

勝家は家康を味方につけることは出来なかったのです。
この時 長宗我部元親は?
勝家は長宗我部元親にも味方になってくれるようお願いしました。

長宗我部元親が味方になってくれれば、背後から秀吉をつついてくれるからです。

この外交の使者となったのは信孝でした。

これは大成功となりました!

長宗我部元親は早速、兵を集めて動き出したのです。

秀吉はそれを察知し、仙石秀久を阿波方面に派遣し、長宗我部元親の牽制役に任命したのです。
1582年12月9日 秀吉動く!
前田利家を通して、いちおう和議をした秀吉と勝家。

ですが、水面下ではガンガン工作しまくっていました。

秀吉としては勝家が冬の間動けないというチャンスを見逃すわけには行かなかった。

12月9日 秀吉は、勝家の養子である柴田勝豊に攻撃開始をしたのです。

勝豊は「いくらがんばっても、勝家は応援にこれない・・・」と、とうとう勝豊は秀吉に降伏したのです。

1582年12月20日 信孝を攻撃!
秀吉が次にターゲットに選んだのは岐阜城にいる信孝でした。

が、岐阜城はなかなか落ちそうにない。

秀吉はいきなり岐阜城を攻めるのではなく、周りから・・・と考え始めたのです。

まず氏家直通(うじいえなおみち)を、秀吉側に寝返らせました。

お次は稲葉一鉄

秀吉は岐阜内にいる大物家臣2人を寝返らせたのです。

大物家臣が寝返ったことに動揺しまくったのは他の家臣たち。

「もしかしたら秀吉殿のほうが有利なのでは!?」と思い始め、次々と秀吉に降伏していったのです。

さらに森長可も秀吉側に寝返りました。

こうしてまわりを寝返らせてから、岐阜城にいる信孝を攻撃したのです。

ちなみにこの時、秀吉が信孝攻めの総大将に選んだのは信長次男の「信雄」

信雄は信孝が大嫌いだし、信雄を前面にたてておけば、何かとうるさいヤツラを黙らせることが出来るからです。

信孝は柴田勝家に何度も連絡しましたが、勝家は雪のため兵を動かせなかった。

さらに秀吉は信孝の老臣である岡本良勝を寝返らせることに成功。

岡本良勝は「ここは降伏したほうがいいですよ」と信孝を説得。

信孝は降伏することとなり、自分の母や娘を人質として差し出さなければならない羽目になったのです。

自分の一族や同盟者が、次々と秀吉に降伏していくのを、北の国で聞いていた勝家。

もういてもたっても居られない状況に。

雪がなくなったら、絶対秀吉ぶっ殺す!」と、イライラしまくるのでした。

1583年1月 織田家臣 滝川一益動く!
1月になると毛利家に不審な動きが見え始めました。

秀吉はその動きを察知し、牽制しまくっていました。

さらに秀吉にとって嫌なニュースが。

滝川一益が動き出したのです。

一益はお坊ちゃんの信孝や、柴田勝豊とは違いました。

名将として名を馳せている一益は、一筋縄ではいかない相手だったのです。

せっかく秀吉が押さえた亀山城と、岡本良勝のいる峯城を一益は奪ったのです。

そして一益は峯城に立て籠もり、なんとか秀吉軍を撃退してました。

かなり奮闘しましたが、独力では秀吉軍を撃退するくらいしかできなかったのです。

また、一益は勝家のために少しでも秀吉を伊勢に釘付けにしておきたかった。

自分がここで意地を見せなければ、秀吉は次々と我らの兵を味方につけていく!ワシが少しでも秀吉をとどめなければ!と、必死に頑張ったのです。

そして勝家が早くやってくるのを、今か今かと待っていたのでした。

1583年3月3日 勝家動く!
冬の間動けず、イライラしっぱなしだった勝家。

信孝が降伏し、滝川一益も苦戦している。

自分が動かなければ、秀吉の天下となってしまう!と、もうじりじりしっぱなし。

3月 勝家にとって待ちに待った雪解けがやってきました。

早速、3月3日に先鋒として佐久間盛政を出陣させたのです。

そして自分は3月9日 北ノ庄城を出発。

対する秀吉は「うぬっ!勝家めが動きよったか!」と滋賀県の佐和山城で作戦会議を開きました。
1583年3月17日 秀吉・勝家 賎ヶ岳
勝家挙兵!を聞いた秀吉。

すぐさま25000人の兵を従え、近江へ向かいました。

秀吉が陣を置いたのは賎ヶ岳

秀吉の味方となったのは、羽柴秀長(弟)・蜂須賀小六(正勝)・池田恒興・加藤清正・丹羽長秀・福島正則・森長可・織田信雄(信長の次男)・中川清秀・稲葉一鉄・筒井順慶ら25000人。

対する勝家側は、佐久間盛政(勝家の甥)・佐々成政・滝川一益・織田信孝・前田利家・不破勝光ら20000人。

勝家側に「北国軍」がすべてつきました。

勝家らも賎ヶ岳近くに陣を置きました。

両軍とも、同じほどの兵力。

うかつに動けば負ける。

両軍は膠着状態となりました。

お互い持久戦を覚悟した戦いを予想しました。

織田の主導権を争う、織田家内の有力家臣ら全てが、ここに集結したのです。

1583年4月 織田信孝「秀吉ムカツク!!」
信孝は、自分が織田家の後継ぎに選ばれなかったのがめちゃくちゃムカついていました。

以前から次男信雄とは仲が悪く、「アイツがなるくらいなら、絶対オレだろ?だってオレは、父の弔い合戦に参加したんだぜ?」と思っていました。

が、結果は信忠の嫡男であるチビッコの三法師。

さらに、居城である岐阜城を攻撃され信孝の怒りはヒートアップ。

勝家は応援にこれないし、母親は人質に取られちゃうしと、もうふんだりけったり状態だったのです。

そんな頃、勝家挙兵のニュースが!

両軍続々と賎ヶ岳へ集結。

信孝我慢できなくなり、とうとう岐阜で挙兵したのです。
秀吉「総攻撃は4月19日じゃぁ!」
めげずに信孝が岐阜で挙兵したというのを聞いた秀吉。

「あのやろうめ」と、秀吉は岐阜に向かうことに。

誰もが持久戦になるであろうと予想していた戦端を、信孝が切って落としたのです。

秀吉は「4月19日を信孝総攻撃の日とする!」と決めました。

そして本隊を率いり岐阜へ!

が、雨がめちゃくちゃ降り、秀吉はこの日に総攻撃できなくなってしまったのです。
1583年4月20日 佐久間盛政出陣!
秀吉は岐阜で挙兵した信孝を攻撃しに岐阜へ。

そこへ秀吉軍の家臣が寝返り、秀吉不在を勝家に知らせたのです。

これはチャンスと佐久間盛政が出陣をお願いしてきました。

この攻撃は敵の奥深くまで突き進んでいくため、勝てれば打撃を与えられるが、負けたら非常に危険でした。

勝家は「危険だから辞めたほうがいい」と、却下。

ですが、佐久間盛政は「なぜこんなチャンスを逃すんですか!?秀吉がいないんですよ!」と強く言ったのです。

仕方なく勝家はこれを許可しました。

そして「もし勝ったらすぐに戻って来い」という条件を出し出陣させたのです。

佐久間らは早速中川清秀を攻撃。

猛将の佐久間盛政は4時間の戦闘の末、中川清秀を討ち取ったのです。

が、佐久間は勝家に言われたことを守らなかった。

「もしこの知らせを秀吉が聞いたとしてもすぐ戻って来れないだろう?」と、勝利を祝って酒宴を開いてしまったのです。。


4月20日 秀吉「しまった!」賤ヶ岳の一騎駆け
自分がいない間に、大岩山で中川清秀が討たれたという情報を聞いた秀吉。

「クソー。しまった。」と、賤ヶ岳へ戻ることに。

秀吉は先導隊を出し、街道沿いにかがり火を焚くよう指示。

そして握り飯も用意させました。

これを全て手配したのが石田三成。

こうして時間のロスを極力少なくしたのです。

その勢いはすさまじく賤ヶ岳の一騎駆けと言われるように。

50キロの道を、不眠不休でわずか5時間で戻ってきたのです。

そして、その頃佐久間盛政は「秀吉は岐阜だぜ?」と、勝利の余韻に浸っていたのです・・・・。
1583年4月21日 AM2:00 賤ヶ岳の戦い
夜中の2時・・・。

不眠不休
で走ってきた秀吉軍が到着しました。

そしてすぐさま、待機していた兵を集め全軍で佐久間めがけて反撃に向かったのです!!

佐久間盛政はノンキに酒宴中。

そこへは突撃してくる大軍をみてビックリ!

戦闘態勢が整っておらず、慌てて逃げ出したのです。

が、部隊の最後尾にいた柴田勝政隊が追いつかれてしまいました。

そしてみるみるうちに盛政軍が総崩れとなったのです。

さらに、勝家軍であった前田利家が、佐久間盛政を見捨てて退却していったのです。

柴田勝家のもとに「佐久間盛政軍壊滅!」の情報が入ってきました。

勝家本陣は大パニックに!

一番の強力部隊である盛政が総崩れとなってしまったのです。

秀吉は今がチャンスとガンガン攻め込みました。

勝家の本陣を側面から攻撃し、大打撃を与えたのです。

さらに勝家大ショックな出来事が。

あの前田利家が退却していたのです。

勝家本陣は、退却していく前田利家軍を盛政軍が退却したのかと思っていました。

それが前田利家軍だと知った勝家。

あの利家が退却・・・と大ショックを受けたのです。

精神的にショックを受けた勝家は立ち直ることはできませんでした。

頼りにしていた盛政軍が崩れ、信頼していた利家の裏切り。

勝家軍は敗走せざるを得なくなりました。

秀吉軍は敗走する勝家軍を容赦なく追撃し、大打撃を与えたのです。

勝家は北ノ庄城に向かって逃げていったのです。

そしてこの時に大活躍をしたのが「賤ヶ岳の七本槍」であります。

風見鶏になった前田利家
前田利家は非常に悩んでいた。

戦っているのは親友の秀吉。

そして「オヤジ」と呼び心から尊敬している勝家。

もともとは勝家についていたけど、親友の秀吉に万一の時は中立を約束してくれと言われていました。

自分の軍が総崩れになっていくのを、なんとか立て直そうとしている盛政の後ろにいた前田利家は、その時「裏切り」を決意。

自分の軍を退却させたのでした。

1583年4月22日 柴田勝家 利家に湯漬けを乞う
北ノ庄へ向かって敗走していた勝家は、途中利家の城に寄って湯漬けを乞いました。

利家は自分を裏切った男。

ですが勝家は、裏切った利家に文句をひとつも言わず「あの頃は楽しかったな」と、懐かしい昔話をして北ノ庄へ戻っていったのです。

そのあと、勝家を討ち取るため秀吉がやってきました。

そして秀吉も湯漬けを乞いました。

「なぜ最初から俺の味方をしなかったんだ?」となじるべきトコでしたが、何も言わずに湯漬けを食べ行ってしまったのです。

そして利家は、勝家のたてこもっている北ノ庄城攻撃の先鋒を命じられるのです。

1583年4月23日 勝家 哀しい酒宴を開く
4月23日の夜。

秀吉は北ノ庄城を包囲しました。

勝家は家臣80名を天守閣に集め酒宴をはじめました。

勝家は皆の前で「わしの命運も明日までじゃ。今宵はみなで夜が明けるまで酒を飲み名残を惜しもうぞ」と言ったのです。

そのうち女房らも酒宴に加わりはじめ、唄が出たり舞を踊ったり身分関係なく飲み騒ぎました。

でもみんな胸の内は悲観にくれていました。

哀しい最後の宴となったのです。

勝家は隣にいる妻・お市に「城を脱出しろ」と言いました。

ですがお市はそれを拒み、勝家とともに果てることを望んだのです。

お市は秀吉のことがあまり好きじゃなかった。

モトだんなの浅井長政を攻めた時も秀吉が先鋒だったし、自分の息子を殺したのも秀吉。

ですが、勝家とお市は、娘3人だけでも・・・と、娘だけを城外へ逃がしたのです。

浅井長政に続き、2度の落城に遭遇した娘3人。

その後戦国の世になくてはならない存在となるのでした。
1583年4月24日 柴田勝家 お市とともに自刃
24日。

秀吉軍の総攻撃が始まりました。

北ノ庄城は果敢に抵抗しましたが、人数が少なすぎた。

もはやこれまでと最勝家は自ら城に火を放ち、お市とともに果てたのです。

勝家62歳 お市37歳でした。

賤ヶ岳の七本槍
賤ヶ岳の戦いにおいて一番の功労者は「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれる七人。

加藤嘉明(よしあき)・片桐且元(かつもと)・福島正則・加藤清正・糟屋武則(かすやたけのり)・平野長康・脇坂安春の七人。

華麗なデビューをしたこの七人ですが、みんな最後はあまり幸せとはいえない人生を送ります。

本当は9人なんだけど、いつの間にか石河・桜井の2人は死んじゃって名前は消えちゃったらしい。

秀吉子飼いの将 加藤清正
子飼いの将として教育された清正。

15歳で元服しました。。

そして山崎の合戦などで戦功をあげ、今回の賤ヶ岳で完璧にその名を広めることに。

戦いだけが己の生きる道

武断派の清正は、文治派でクソ真面目な石田三成らと次第に険悪になっていくわけです。

しまいには「三成を八つ裂きにしても腹が収まらん!」というくらい憎むようになり、そこを狸ジジィ家康に利用されてしまうのでした。

秀吉子飼いの将 福島正則
秀吉の期待通り勇敢な武将として成長してた正則。

秀吉とともに別所長治を攻撃した時に、真っ先に敵中に入り初めて首をとりました。

が、その首を味方の兵に奪い取られてしまい、また首を取りに敵陣へ。

疲れて休んでいるとまたもや首を盗まれてしまった。

正則は泣いて悔しがり、他の先輩武将に「そんなことで悔しがるとは器の小さいやつだ」とたしなめられたのです。

正則は悔しくて仕方なくって、また敵陣に突っ込み首を取って来ました。

それを聞いた秀吉はたいそう褒めたらしい。

賤ヶ岳でも一番の活躍。

一人だけご褒美が五千石だった。

加藤清正はそれに不満で「おれのどこが正則に劣ってるのか?」とブーブー文句

秀吉は「愚か者め!」といいつつも、清正にも同じ五千石をあげたといいます。

正則も清正と同じく戦うことでアピールする武断派

なので戦場で必死に戦ってるのに、その後方支援ばっかで秀吉に気に入られている石田三成を憎むようになるのです。

賤ヶ岳の結末 織田信孝
岐阜で挙兵した信孝でしたが、勝家自刃を聞くとあっさり降伏。

ちなみに、攻めたのは次男の信雄です。

そして知多半島の端っこに追いやられてしまったのです。

信孝は、頼みの綱であった勝家が死んでしまい、もはや再起する力はありませんでした。

そこを秀吉・信雄が「潔く自刃すれば?」と攻めたてました。

こうして5月2日 信孝は無念の中、自刃したのです。
賤ヶ岳の結末 滝川一益
滝川一益は、賤ヶ岳の戦いで秀吉が大軍を率いてやってくると、後方の柴田勝家と挟み撃ちをしようと思っていました。

ですが、肝心の勝家が負けてしまい孤立無援となってしまったのです。

岐阜城にいた信孝もあっさり敗北したため、残された道は死か降伏しかなかった。

一益は降伏を選んだ。

そして剃髪して越前に行った。

かつて秀吉や光秀と出世争いをした男は、信長死後の急変についていけず62歳で死にました。

賤ヶ岳の結末
柴田勝家の遺領は丹羽長秀に。

佐久間盛政の遺領は前田利家に。

信孝と滝川一益の遺領は、織田信雄に分け与えられました。

また、佐々成政も越中を与えられました。

佐久間盛政は捕らえられ、首を京都六条河原に晒されることとなったのです。
前田利家・佐々成政のライバル関係
柴田勝家の「北国軍」は終焉を遂げました。

が、まだ前田利家と佐々成政のライバル関係は続いていたのです。

この2人の険悪な関係は、まだ利家が信長の小姓をやっている時代からでした。

利家が、信長の小姓であった拾阿見とケンカをして殺してしまった時、成政は拾阿見をかばったことから始まっていたのです。

お互いライバル関係むきだしで、利家は「オレは長年成政と合戦の場で競ってたけど、一度も奴に先を越されたことは無いぜ!」と常日頃言っていました。

そんな仲の悪い2人が、柴田勝家の「部下」となったのです。

が、勝家は前田利家をとても気に入っており、甥である佐久間盛政よりも可愛がる勢い。

成政は、そんな勝家にもムカムカしていたのです。

ですが、勝家が生きている間は正面きった衝突はありませんでした。

が、勝家が死んでしまい、お互いさらに衝突しあっていくこととなるのです。
1583年9月 秀吉大阪城を作る
柴田勝家がいなくなり、もはや秀吉の天下取りは急速にスピードアップしていきました。

天下取りの第一歩が大阪城築城であります。

石山本願寺の跡地に城を作り、天下へ号令するべく動き出したのです。

池田恒興親子を織田信孝がいた美濃へ強引に引越しさせ、自ら工事の陣頭指揮を行いました。

大阪城はものすごい巨大なお城で、豪華絢爛ダーイスキな秀吉はどんな城よりも立派な城を建てました。

黄金の茶室も作り大満足。

他の武将達に対して、「ワシはおぬしらとは格が違うのだぞ」という意味も込め、ものすごく豪華な城を作ったのです。

1583年 この頃家康は?
秀吉が勝家を破り、めざましい躍進を遂げている中、家康はというと・・・。

この頃は激動の中央には目もくれず、ひたすら自分の国の地固めをやっていたのです。

とはいっても、それなりの野望はありました。

まず、信長が死んだことにより、「こんなチャンスを逃すか!」と、北条が甲斐を狙い始めたのです。

甲斐には織田家の河尻秀隆がいました。

が、河尻は武田時代の国法ややり方をまったく無視したやり方で、国経営を推し進めていたため、領民らに人気がなかったのです。

そこを狙ったのが北条氏政でした。

正直、家康は河尻秀隆のことなんてどーでもよかったんだけど、「甲斐」は自分と信長がめちゃくちゃ苦労したやっと奪った領地。

黙ってるわけにはいかなかったのです。

こうして北条VS徳川が始まりました。

が、北条氏政は甲斐の山々の寒さをナメていた。

あまりの寒さに、士気が下がりまくり、とうとう「甲斐と信濃を徳川のものにする」という徳川にとってはすごくいい条件で和議したのです。

さらに北条氏政の嫡男・氏直と、家康の次女督姫(とくひめ)が結婚することに。

こうして、とりあえず北条とのバトルは終わり、同盟を組むこととなりました。

秀吉が中央で頑張ってる中、家康は甲斐と信濃の領地経営に専念していたのでした。
主君をコロコロ 弱小真田家
この頃真田昌幸は、困りまくっていました。

というのも、武田家が滅びた後信長に属しましたが、信長が本能寺で死去。

その後、北条が活発になり、仕方なく北条へ。

そのうち北条と徳川が怪しい雰囲気に。

徳川はどうにかして真田の領地を手に入れたかった。

使者をバンバンよこし、弱小である真田家は仕方なく徳川へ。

が、北条と徳川が和解することに。

この時、「真田の所領を北条のものにする」と家康が約束しちゃったもんだから、真田家は超激怒!

「この所領は先祖代々続く真田の土地じゃ!勝手に決めるなや!しかも出てけと言って、代わりの土地も与えないとは!」と、怒りまくったのです。

家康としては、北条と戦いたくなかった。

秀吉ともイマイチうまくいかないってのに、北条といつまでも戦っているのは正直危なかったからです。

こうして家康は真田を捨石にしようとしたのでした。

ですが昌幸も納得できない。

「真田をコケにしおって!」と、激怒したのでした。