安土桃山時代その7 1595年〜1599年 |
1595年2月 エリート武将 蒲生氏郷死去 |
氏郷の父は六角家の重臣でした。 1568年に六角家が織田家に城を攻め落とされた時に、13歳の氏郷は人質として信長のもとに送り込まれたのでした。 そして信長の小姓となったのです。 信長は近習を集め毎晩武道の話などをしましたが、それを誰よりも熱心に聴いてたのが氏郷でした。 そして信長に「あいつは眼精が普通ではない。ただ者ではない」とまで言わせるほどのおりこうさんでした。 本能寺の変の後は秀吉に仕える事に。 そして会津を任されるのでした。 秀吉が氏郷を会津に行かせたのは近くに置いておくと危険だからというのと、氏郷を会津に行かせれば関東の家康・奥州の政宗を牽制できるというのもありました。 氏郷は会津行きを聞かされたとき悔し涙を流しました。 都の近くにいれば天下への望みもあったのに・・・という涙です。 また氏郷は高山右近の勧めでキリシタンに。 秀吉ははっきりいって氏郷が嫌いでした。 信長から目をかけられており、また才能もあったのを秀吉は見抜いていたからです。 そのため何か落ち度がないか常にチェックしていましたが、全く落ち度が見つからなかったのです。 そして秀吉のもとでも数々の武功を挙げまくっていました。 そんな氏郷ですが文禄の役に出陣している時に突然発病。40歳で死にました。 最後は高山右近が付き添ったそうです。 この氏郷の死には毒殺説があります。 氏郷の能力は測り知れないと読んだ石田三成が秀吉に忠告し、三成に命じて毒を盛ったといわれています。 秀吉や千利休も大絶賛していた武将・蒲生氏郷。 氏郷死後の蒲生家は秀吉や徳川によって減封されまくり、ひ孫の代になると世継ぎがいないことを理由にお家断絶となりました。 かつては前田利家の加賀100万石に継ぐ92万石の大大名だった蒲生家は不遇な大名家として終わってしまったのです。 |
1595年7月 殺生関白秀次自害 |
秀吉は秀次の噂を見てみぬフリをしていました。 が、とうとう秀吉を怒らせてしまう。 秀次が「殺生禁止」である比叡山で狩をしたのです。 さらに激怒させることが! なんと秀次が朝廷へ多額の献金をしたのでした。 これを謀反ととった秀吉は、石田三成・長束正家に素行調査をさせました。 が、「殺生関白」の非道はもはや隠しようがなかった。 秀次は剃髪して謹慎したがすでに遅かった。 秀吉は秀次に切腹の命令を出したのでした。 秀次は高野山に逃げ込みました。 高野山は「誰であろうと、わが寺に来た者は匿う」という寺法がありましたが、秀吉には逆らえず、秀次を差し出したのです。 7月15日 28歳にて秀次無念の切腹となりました。 ちなみに切腹の命令を伝えたのは福島正則です。 秀次の首は三条河原に晒されました。 重罪を犯した者の一族は全て皆殺しという戦国時代のルールによって、秀次の妻妾・子ら一族全てが洛中引き回しの上、斬首となったのです。 ちなみに秀次と仲良しだった伊達政宗は、この時かなり秀吉から責められましたが、なんとかセーフでした。 |
伊達政宗 大ピンチ |
伊達政宗は「次期ボス」を秀次と予想していたので、秀次ととても仲良しになっていました。 一緒に鷹狩に行ったりと、ともに行動しているのが多かったのです。 それを秀吉に睨まれた政宗。 またも開き直りにでました。 「いかにも!オレは秀次殿と仲良かったぜ!秀吉殿から関白を譲られた秀次殿と親しくして何が悪い?秀吉殿だって秀次殿を見誤ったんでしょ?オレの片目が見損じるのも当然じゃないか!疑いが解けぬなら首を刎ねればよい!」と言いました。 その裏で、政宗は家康に「頼むー!秀吉殿に取り繕ってー!」とお願いしました。 家康は秀吉に「朝鮮とガタガタやってるこの時期に政宗を殺したたら内乱が起きかねません。」と、政宗を許してやってくれるようお願いしたのです。 結果、政宗は許してもらえることに。 政宗は、家康に感謝し、家康派となっていくのです。 |
1596年 秀吉「ふざけんな!再度朝鮮行くぞ!」 |
![]() そんな頃、明の王からの手紙がきたのです。 そこには「秀吉を日本国王に命じる」などという高飛車な内容が書いてあったのでした。 秀吉は超激怒!またも朝鮮へ出兵を決めることとなるのでした・・・。 |
1596年7月 伏見大地震 地震加藤 |
京都の伏見で大地震が起きました! 伏見城にいた秀吉は真っ青。 天守閣はつぶれ、500人の圧死者が出ました。 そこへ誰よりも早く飛んできたのが謹慎中の加藤清正だったのです。 すぐさま救援活動をはじめ、いかに自分が秀吉のことを思ってるかを大アピール★ 秀吉は感動し、謹慎を解いて清正を再び朝鮮へ行かせるのでした。 ちなみに飛んでった清正は、ただちに伏見城を守備しました。 そこへやってきた石田三成。 すると清正は家臣に命じて三成を城内へ入れないよう指示したのです。 やがて秀吉の命令で中へ入れた三成。 清正は三成が城内へ入る時、守衛に向かって「仕方ないからあの背の小さい男を通してやれ」と大声で言いました。 |
1597年2月 再び朝鮮へ!慶長の役 |
文禄の役は自然休戦となりました。 小西行長はなんとしても講和を結ぼうと思い、明の使者と策謀したんだけど明の王にうまく伝えられず、秀吉は1596年9月にまたも朝鮮出兵命令をくだしました。 そして再度今度は14万の大軍で朝鮮へ攻め込みました。 が、今回は朝鮮側も防備ばっちり。 以前のようには行かず膠着状態に。 今回の朝鮮水軍は元均が李舜臣の功をねたんでチクリを入れたため李舜臣は投獄されていました。 すると前回ボロ負けの日本水軍は李舜臣がいないため快勝! 朝鮮はこれじゃやばいと再び李舜臣を起用すると今度は日本水軍の敗北が続きまくった。 一進一退の戦いが続くのであります。 |
1597年6月12日 小早川隆景死去 |
隆景は毛利元就の三男として生まれ、小早川家に養子に行き、兄・吉川元春とともに大大名にしてはちょっと頼りない甥の輝元を支え、「毛利の両川」と言われていました。 隆景は文武に優れ思慮深く、人望もありました。 秀吉も隆景を大事にしており、毛利家は小早川隆景のお陰で何とか友好関係を築いていたのです。 毛利輝元に子供がいないことから、秀吉の養子・秀秋を輝元の後継ぎに・・・という話しが出たときも、隆景は「これでは毛利家が乗っ取られてしまう。だったら我が小早川家を犠牲にしよう」ということで、小早川秀秋を養子にし、隠居した隆景。 毛利本家を守るために52万石の小早川家を犠牲にし、毛利本家の安泰を願ったのです。 そんな隆景でしたが、家臣たちと話しをしている時、急に嘔吐しました。 そしてそのまま死んでしまったのです。 数時間前まで元気だった隆景。 どうやら脳卒中だったそうです。65歳でした。 隆景は甥の輝元に死ぬ間際こう言いました。 「天下が乱れても、輝元は戦に深入りしてはダメだ。自分の国の経営に専念しろ。輝元にはまだ天下を治める器はない。思慮深くいるんだぞ」 そして小早川隆景の死後は、吉川元春の嫡子 広家が隆景的な立場を取るようになります。 が、広家は小早川隆景が重宝していた安国寺恵瓊とはいまいちうまくいかないのでした。 こうして隆景の死は、毛利家に暗い影を落とすこととなるのです。 |
1597年7月24日 ルソンから象が来た! |
ルソン使節が秀吉に謁見。 そして象をプレゼントしました。 これには秀吉をはじめみんなビックリ。 秀吉は当時の天皇後陽成天皇に見せるため京都へ象を連れて行きました。 |
首の代わりに鼻を送る武将達 |
文禄の役の際、島津忠豊の軍が「首」の代わりに「鼻」を秀吉に送っていました。 殺した人の「首」では重いので、代わりに「鼻」を送って「俺はこれだけやっつけました」というのをアピールしたのです。 みんなも今回の慶長の役の時は、「鼻」や「耳」を送ることにしたのです。 削ぎ取られた鼻は「塩漬け」「酢漬け」にし、秀吉のもとへ送られました。 中には非戦闘員である子供の鼻もありました。 みんなわれ先に鼻や耳を送って、秀吉に褒められることを競ったのです。 そしてこの鼻や耳を埋めたのが、京都の豊国寺神社の前にある「耳塚」です。 ちなみに、その数10万人分です。 |
1598年3月 大イベント 醍醐の花見 秀吉を巡る女のバトル |
朝鮮侵略がいまいちうまくいかず、イライラしてた秀吉は、家臣はもとより秀吉の正室・側室がこぞって参加するという大イベント「醍醐の花見」を行いました。 その時の輿の順番はというと @ねねA淀君B松の丸(京極家)C三の丸(信長の娘)D加賀殿(前田利家の娘)Eまつ(前田利家の奥さん)F三条殿・・・と続いています。 ちなみに前田利家の妻「まつ」は6番目。 家臣の妻でありながら別格扱いでした。 この時秀吉が盃をねねにまわし、次は淀君のはずなんだけど、Bの松の丸がAの淀君より先に盃のお流れを所望したのです。 松の丸殿は京極高吉の娘です。 淀君と松の丸の間に張り詰めた空気が立ち込めました。 仲裁に入るべき秀吉は怖くって知らん顔・・・ そこへ入ったのが「まつ」 「私は家臣筋ですが歳の順からいえば私でしょう」とこの場をうまく治めたのです。 淀君もねねに対し「私は主家(信長)の血統よ!」と折にふれてねねに表しまくってましたが、松の丸も血統はお墨付きで、むしろ淀君より格上。 浅井家はもともと京極氏の家臣だったしね。 松の丸は「正室は仕方ないとしても、同じ側室であれば私の方が淀君より上なのよ。なんであたしが格下の淀君の下じゃなきゃなんないの?」といった態度がアリアリだったのでした。 |
この頃の家康と秀吉 |
秀吉はいよいよヤキがまわってきました。 朝鮮出兵は手を広げるだけ広げて、収拾がつかない。 戦いは一進一退。 いつまでたってもグットニュースは入ってこない。 お金はかかりまくるし、大名連中は疲れまくっているし、日本中疲労しきってました。 ある日、秀頼が「ボクの周りにいる侍女でムカつく奴がいるんだよね」と言ったところ、「そんなら死ぬほどぶん殴れ!そうすればお前の気が済むだろぉ??」と言いました。 今までにない秀吉発言にまわりはビックリ。 秀頼を目に入れても痛くないほど可愛がり、そしてボケつつあったのです・・・・。 家康はというと、必死で領内経営。 さらに朝鮮での秀吉家臣内(石田三成ら文治派VS加藤清正ら武功派)の分裂を聞いて内心ニヤリ。 それを敏感に感じ取り、加藤清正・小早川秀秋・黒田長政ら武功派に近づいていたのです。 さらにさらに!「家康は朝鮮出兵に反対気味」という雰囲気を漂わせまくりました。 戦いに疲れきっている諸大名らは「早くこの戦いを止めて欲しい」と思っていたので、密かに家康に期待を寄せ始めるのです。 家康は慌てず騒がず、じっとこの状況を見つめていたのでした。 |
1598年7月 秀吉 秀頼への忠誠を誓わす |
5月に具合が悪くなり始めた秀吉。 激しい下痢と腹痛はだんだんひどくなっていき、7月にはとうとう寝たきりとなってしまいました。 この時まだ朝鮮では14万人の兵が戦っています。 7月13日 自分の死期を悟った秀吉。 前田玄以・石田三成・増田長盛・浅野長政・長束正家の5人を五奉行に任命しました。 秀頼を守る腹心たちの体制を固めたのです。 そして五大老に徳川家康・前田利家・毛利輝元・小早川隆景(死後は上杉景勝)・宇喜田秀家 この五大老に見苦しいほど秀頼のことをお願いした手紙を託しました。 そして7月15日に秀吉は五大老に対してこのような約束をさせたのです。 @秀頼に対して、秀吉と同じように誠心誠意奉公すること A徒党を組んで争わないこと B勝手に婚姻関係を結ぶなど、権力増大をしないこと などなどです。 |
五大老・五奉行 |
秀吉は自分の死後、秀頼を支えてくれるようにと五大老・五奉行を任命しました。 1597年ごろ成立されたと言われてますが、実際に機能を始めたのはこの頃らしいです。 五大老には豊臣家の武家法を守ることや秀頼に対して謀反心を抱くなといった内容を誓わせました。 前田玄以・・・寺院・公家 浅野長政・・・司法 石田三成・・・行政 長束正家・・・財政 増田長盛・・・土木・検地 といった感じです。 |
五大老 徳川家康 |
秀吉主君・信長の同盟者だった家康。 信長死後、秀吉に一歩リードされ、何かと秀吉に対抗していました。 が、小牧・長久手の後、とうとう和解。 それからはただひたすら秀吉に従うのです。 そして江戸に行かされ、領内経営に専念しまくり。 着々と地盤固めをしました。 朝鮮出兵の際も、懐を殆ど痛めず、豊臣家がバカにならないくらい戦費を使っている間、お金をコツコツと貯めていたのです。 着々と実力をつけつつある家康に期待する諸大名は多く、「秀吉が死んだら家康の時代かも・・・」と思う人たちも出始めたのでした。 |
五大老 前田利家 |
信長時代は秀吉のお隣さんとして夫婦揃って超仲良し。 利家の人生においての最大のピンチは賎ヶ岳の戦い。 おやじと慕っている「上司」勝家と、親友秀吉の戦いでどっちの味方をしようか悩みまくり。 とうとう秀吉を選んだのです。 それから秀吉は利家を重宝しまくり。 秀吉自ら諸将に「利家はワシの親友じゃ!」と言いまくり、豊臣政権において利家はかなりの権力をゲットするのです。 こうして秀吉のもとで大大名となった利家。 そんな利家に対抗するのが家康だったのです。。 |
五大老 宇喜田秀家 |
26歳の若さで五大老に任命された秀家。 父は宇喜田直家です。 直家は怪物のような頭脳と人望を持ち合わせていましたが、信長の威力には勝てず、息子秀家のために信長と和解。 病気でもう長くないと悟った直家は秀吉に接触し、8歳の息子秀家の後見人になってもらいました。 この時交渉役をしたのは小西行長。 ちなみにこの時秀吉は、美人で有名だった直家の妻もちゃっかり貰ってます。 秀吉は自分の名前を一文字あげて「秀家」と名乗らせました。 秀家は13歳の時に養子となり四国征伐を初陣とし、九州でも活躍。 また前田利家の大事な娘豪姫と結婚。 宇喜田・豊臣・前田は超仲良しになっていました。 秀吉は秀家をとても可愛がり、秀家も秀吉が大好きでした。 |
五大老 毛利輝元 |
吉川元春・小早川隆景の「毛利の両川」に守られ、なんとか毛利本家を守ってきた輝元。 輝元は毛利元就嫡男である隆元の子供です。 隆元が毛利家を継ぎ、元春・隆景が養子に行かされたとき、下の2人は「兄貴だからって毛利家を継ぐなんてズルイよなぁー」みたいな雰囲気が漂っていました。 が、隆元が死に、11歳の輝元が本家を継いだことによって「俺ら2人がチビッコ輝元を守ってやんなきゃな!」という団結ムードが出てきたのです。 前将軍義昭が信長に追放され、毛利家を頼ってきたり、本願寺から援助を要請されたりとなにかしら中央の政権に絡んでいた毛利家。 ピンチは何度も訪れましたが、隆景らのおかげで大大名に成長していきました。 高松城の水攻めの時に秀吉と講和を結び、秀吉に感謝され、豊臣配下ではNO1となるのです。 ですが秀吉は小早川隆景に大きな信頼を寄せていたので、隆景死後、輝元を軽く見るようになってくるのでした。 |
五大老 上杉景勝 |
![]() 本能寺の変の時、景勝は柴田勝家・秀吉の両方から「味方になってくれ」とお願いされました。 景勝が選んだのは秀吉でした。 この時、秀吉の使者として景勝に会いに行ったのが石田三成です。 以後、秀吉の配下に入ることとなります。 小田原攻めにも参戦。 家康が北条の領地に入り、没収された伊達政宗の領地に蒲生氏郷が入り、景勝を合わせたこの3人で東国を支配していました。 直江兼続ら優秀な家臣に囲まれ、領内経営に専念していました。 そんな中、蒲生氏郷が死んでしまいました。 後継ぎの蒲生秀行がまだ若かったため、大国を治める器量はないと秀吉に判断されてしまい、氏郷の領地を景勝に与えたのです。 こうして景勝は120万石の大大名となりました。 秀吉は権力を増大しつつある徳川家康を牽制するために、景勝を対抗馬とさせたのです。 |
五奉行 石田三成 |
お茶が縁で秀吉の小姓となった15歳の三成。 有能だったため、秀吉にすごく重宝されました。 戦いの分野ではなく事務的な分野で大活躍。 暴雨風で城の石垣が壊れた時、翌朝秀吉は「誰か石垣を直せ」と命令しました。 すると三成がすでに直し終わっていたのです。 昔の自分と似て機転のきく三成を秀吉は可愛がり、「機転の利く男」として秀吉家臣の中で出世していくのです。 が、「合戦で戦功をあげてこそが出世の道である!」と思っていた武功派(加藤清正・福島正則・加藤嘉明・黒田長政たち)らは、三成のように頭の良さで出世していくタイプが嫌いでした。 それどころか自分達を追い抜く勢いで、秀吉から格別の寵愛を受けているのが許しがたかったのです。 |
五奉行 前田玄以 |
美濃に生まれた玄以は、はじめ住職でした。 その後比叡山延暦寺に入り、還俗。 信長嫡男である信忠に仕えました。 本能寺の変の時、信忠に命令され3歳の嫡男 三法師を連れ岐阜へ逃れました。 その後は秀吉に仕え、政治部門で大活躍します。 秀吉によるキリスト禁止令の時は、元僧侶なのでキリシタンに反感を示しまくり。 けど、後に好意的になって長男・次男の洗礼を許しました。 そして豊臣五奉行に任命されることとなったのです。 |
五奉行 浅野長政 |
秀吉と義兄弟の長政。 豊臣政権下では縁者の少ない秀吉にとって、重宝されていました。 が、朝鮮出兵の際、秀吉を「狐憑き!」と言った頃から、だんだんと秀吉から気持ちが離れていくことに。 代わりに家康と仲良くなり始めるのでした。 さらに淀君が秀頼を生み、秀吉の気持ちはそちらにばかり心を奪われるように。 だんだん長政は一生懸命やってるのがイヤになってきちゃいます。 また五奉行筆頭でありながら、石田三成の発言力にタジタジに。 「おれ、このままでいいのか?」と考え始めるようになってくるのです。 |
五奉行 名束正家 |
尾張で生まれた正家は、若い頃から計算能力がズバ抜けており、丹羽長秀に仕えることになりました。 その能力を聞いた秀吉が「正家をワシにくれ」と丹羽長秀にお願い。 以後、秀吉のもとで重宝されるように。 兵糧の調達などの仕事をし、財政面で大活躍していくのです。 |
五奉行 増田長盛 |
尾張出身の長盛。 秀吉に仕え、主に「土木」の面で活躍していました。 朝鮮出兵の時は在陣奉行となり、石田三成・大谷吉継とともに後方で物資を運んだりしました。 が、次第に前線で戦っている加藤清正ら武断派が「安全なとこにいるくせに、偉そうに指示しやがって!」と言ってきます。 ですが3人の在陣奉行の中でめちゃくちゃ嫌われたのは石田三成だけだったのです。 |
1598年8月5日 秀吉 最後のお願い |
![]() 病床にあった秀吉は、石田三成や浅野長政に会い、秀頼を傍らに置き、いとおしそうに眺めながら「この子が元服し、諸大名と会う晴れ姿をこの目で見たかった・・・」と、さめざめと泣きました。 小さな背中の老人の姿がそこにありました。 8月5日 秀吉は五大老宛てに遺言状を書きました。 「秀頼のことをなにとぞ頼む」と、しつこいくらい頼む頼むとお願いしたのです。 その時の文は「かえすがえす秀頼のこと、頼み申し候。五人の衆 たのみ申すべく候。なごりおしく候」といった内容です。 そして五大老と五奉行は互いに血判の誓約書を取り交わしました。 内容は「秀吉同様に秀頼に奉公すること・秀頼が成人するまで知行に関する争いはしないこと」などなどでした。 8月6日 家康・利家・宇喜田秀家・毛利輝元がお見舞いにやってきました。 秀吉は利家と家康に、何度も何度も秀頼を頼むとお願いしたのです。 8月11日 五奉行の誓紙が家康らに提出されました。 これを最後に臨終までの言動は記録はありません。 |
1598年8月16日 秀吉死去 家康 迫真の名演技 |
![]() とうとう死去しました。 この死により、一つの時代が終わったのです。 権力の頂点に立ったままでの死でしたが、最後まで秀頼のことを心配しつつの死でありました。 死ぬ間際にまで「かえすがえす秀頼のことを頼み申す。五人の衆(五大老のこと)へ、しかと頼みます」と書き残しました。 家康は何度も何度も「秀頼を頼む」と言われ、それに対し涙を浮かべ、秀吉の手を握り「お任せ下さい」と誓ったのです。 家康の迫真の名演技でした。 秀吉63歳。そして家康は57歳でした・・・。 |
1598年10月 日本軍撤退スタート |
秀吉の死によって、ずっと続いていた戦いが幕を閉じることに。 五大老らの会議により、家康と前田利家が2人の使者を朝鮮に送り講和に成功。 軍を撤退させることを命じました。 朝鮮水軍は撤収する日本軍を追撃しましたが、李舜臣が戦死してしまい追撃は終わりました。 12月に最後の軍が日本に帰ってきて、長かった戦いは終わりました。 この戦いは豊臣家のお金を使いまくり、大ダメージとなりました。 その間コツコツと貯め込んでいたのが徳川家康であります。 家康は遠征軍の引きあげを一番積極的に行いました。 さらに遠征軍の武将達への慰労もぬかりなくやりました。 そのため秀吉死後の家康人気は高まっていくのです。 また、朝鮮の田畑は荒れまくり、朝鮮から活字印刷や陶芸などの技術者は日本に連れさられました。 多くの捕虜が奴隷として売り飛ばされるなど朝鮮にとっては悲惨な結果となったのです。 |
武功派VS文治派 |
秀吉の死は武功派と文治派の争いをヒートアップさせることとなりました。 この時代は合戦に明け暮れていたので、どうしても「武功派」が脚光を浴び、人気がありました。 武功派は、文治派のやる仕事をめちゃくちゃ軽視していました。 「俺たちは命を賭けて戦っている。ヤツラの仕事は後ろで調達などをしているだけ。あいつらは命も賭けれないいくじなしどもだ。だから黙って我らの言うことを聞いていればいいのだ」みたいな考えでした。 でも文治派もそれなりに仕事をしています。 兵糧調達・外交交渉・検地など。 それら根回しをきちんとやっていなければ、武功派は活躍の場を与えられないのです。 とまぁ、現代でも営業マンと事務員が揉め事を起こすように(?)、この時代も武功派と文治派は避けることのできない確執があったのです。 そして、今までは秀吉の目が光っていたので、遠慮していましたが、秀吉死後押さえが効かなくなってきたのです。 朝鮮撤退後、三成らが諸武将の辛労を慰めようと茶会を催しました。 すると加藤清正が「われらは7年間茶も酒もないとこで命を賭けた戦いをしてきた。こちらからは稗粥くらいなら進上してやろうか?」と嫌味を言ったのです。 こうして武功派と文治派の争いは目に見えた形となってきました。 武功派からしてみれば、石田三成だけには政治の実権を握らせたくない。 三成が握れば、真っ先に潰されるのは武功派である自分達だからです。 そしてそんな不安定な状況を、冷静な目で見ていたのが家康だったのです。 |
犬猿の仲 加藤清正VS小西行長 |
1588年に佐々成政が切腹させられました。 佐々成政の領地は、加藤清正と小西行長が二分して与えられることに。 2人とも秀吉から信任も厚く、出世のスピードも同じくらい。 何かと競争心を刺激していたのです。 2人は全くタイプの違う武将。 そんな2人が隣同士。 清正は熱心な日蓮宗の信者で、行長は熱心なキリスト教信者。 国境を接してるだけに、何度もトラブルを起こしていましたが、いつも石田三成ら文治派と仲のいい行長の勝ち。 清正は行長だけでなく、三成も激しく憎むようになっていくのでした。 そして朝鮮では2人で戦功争い。 が、三成によって清正は強制送還。 もう清正は三成・行長が憎くて憎くてたまらない状態に。 秀吉はこの2人を競争させ、いい方向に持ってこさせようとしてましたが、作戦通りにはいかなかったのです。 |
次の権力者は誰か!? |
三成が一番警戒していたのは徳川家康でした。 領地をとってみても家康は255万石。 対抗馬の前田利家は80万石・毛利120万石・上杉120万石。 領地以外にも、家康は秀吉死後、何かと積極的な行動をとっていました。 三成にとって大恩のある秀吉の遺児・秀頼を守ることが先決。 ここで家康に大きな権力を与えることは許されないことだったのです。 できれば家康を、秀吉が作った「秀頼を頂点とする五大老合議制の枠組み」の中に押し込んでおきたかった。 そしてそれに賛成意見を出しているのは、秀吉の信任厚い前田利家でした。 こうして大坂にいる利家と三成・伏見にいる家康は、表面上では協力的な態度を見せていたのです。 まわりの諸大名たちは「次の権力者はどっちか・・・」と、値踏みをしていました。 自分達の家を守るには、有力な方へ付かなければならないからです。 こうして秀吉死後の半年間は、怪しげな空気が漂いまくっていたのでした。 |
家康と利家 どっちが人気? |
秀吉死後は、家康と利家が権力を二分していました。 家康・利家と、2人とも諸大名から人望があり、その評価は五分五分といった感じでした。 ただ、この頃の利家は健康面が優れていないという、ダメージがあったのです。 |
1599年2月 家康 動き出す!!婚姻関係結びまくり |
![]() 家康は自分の勢力を大きくするため伊達政宗・福島正則・蜂須賀家政らと婚姻関係を結ぼうと動き出したのです。 ですが大名が勝手に婚姻関係を結ぶことは秀吉により禁止されていました。 五奉行の石田三成はその情報をキャッチすると、真っ先に前田利家に相談したのです。 |
三成に過ぎたるもの 島左近 |
出生は不明。 一説によると筒井順慶に仕えていたといわれています。 そこで松倉右近とともに「右近・左近」と呼ばれていたそうです。 順慶が死ぬと、養子である定次に仕えました。 が、定次と仲が悪くなり筒井家を去りました。 その後は柴田秀長に仕えましたが、秀長がまもなく病死。 今度は秀長の息子である秀保に仕えましたが、秀保も死んでしまい、次に出会ったのが石田三成でした。 三成は年上である右近に対して「自分の四万石の所領のうち一万五千石(二万ともいう)をあげるから私のもとに来てくれ」とスカウトしました。 主人でありながら家臣の自分に半分の所領をくれるってんだから左近もこれにはびっくり! この話を聞いた秀吉は「主人でありながら家来と同じ石高とは!」と三成の思い切りの良さに驚愕し、右近を呼んで三成への忠誠を説きました。 ちなみに三成が、有名な左近を召抱えたことにも秀吉は驚きました。 そして左近は三成の思いに答え、軍師として忠誠を尽くしたのです。 「三成に過ぎたるものが二つあり。島左近と佐和山の城」と言われるように。 そして、左近は三成の片腕として、同じく上杉景勝の腹心である直江兼続となにやら相談をしだすのです・・・。 |
この頃 上杉家は? |
![]() 「これはやりすぎだ!近いうち、何か起きるであろう」と予想しました。 秀吉は上杉景勝に120万石与えた他、家臣の直江兼続にまで米沢30万石を与えました。 これは異例中の異例。 当時30万石を超える者は家康・毛利輝元・上杉景勝・伊達政宗・宇喜田秀家・前田利家・小早川秀秋・鍋島直茂・島津忠恒らわずかな人数だけ。 三成でさえ20万石。 兼続は家臣でありながら30万石の所領を与えられていたのです。 そんな上杉家は「家康め・・・。何を企んでおるのじゃ。まさか豊臣に代わって天下を取ろうとしているのでは・・・?」と、嫌な気持ちでいっぱいになっていくのでした。 |
前田利家 怒る! |
家康以外の四大老は、家康に「勝手なことしやがって!」と、激怒しました。 その中でも一番の実力者である利家は「家康・・・危ないな」と、危険を察知。 利家は織田信長の下にずっといたので、家康の律儀で信義の厚いところを気に入っていました。 その家康がなぜ?と、ムカムカ。 ただちに家康以外の四大老と五奉行で会議。 その場で石田三成が「家康を五大老から外すべきだ!」と、激怒! みんなも「それはもっともだ」と賛成し、家康のもとへ使者を出したのです。 |
家康「ごめん、ごめん」 |
![]() 狸オヤジ家康は「ごめん、ワシが悪かった!」と、さらり系。 ですが、「確かに秀吉の命令に背いちゃった。けど、大老職を免除はできないよね?それって秀吉の遺言に背くんじゃないの?」と、いった感じでいました。 三成はというと、秀吉に背く家康が嫌いだったのでこのまま家康・利家が争ってくれたら・・・と思っていました。 が、利家は実は三成のこともあまり好きじゃない。 ですが秀吉には恩がある。 なんとしても秀頼を守らなければ!それには三成と一緒にやっていくしかない!といった感じなのでした。 こうして家康・利家・三成らの間に不穏な空気が漂いまくったのです。 |
家康 細川忠興を頼る |
「利家を怒らせるのはマズイなぁ」と感じた家康。 細川忠興に仲介をお願いしました。 忠興は以前、秀吉の甥である殺生関白秀次に借金をしてたので、秀次一味として秀吉にニラまれていました。 それを仲裁に入ったのが家康で、さらに借金肩代わりまでしてくれ忠興は家康に感謝してたのです。 忠興は前田家と婚姻関係があったので、家康に「利家との仲を仲裁してよ」とお願いされてしまいました。 忠興は利家に「家康殿と利家殿が争うのは秀頼様にとってもあまりいいことではありません。是非家康殿と一度会って、話し合ってみて下さい。」と言いました。 そして家康と利家は会見。 家康は「ワシは秀頼のことを大事に思っておる」というのをアピール。 とりあえず和解となったのです。 |
1599年3月3日 前田利家死去 |
三成や家康の周りを刺客がウロウロしだしました。 世の中の情勢は不安定で、政治機能はほとんど麻痺しまくり。 が、とうとう恐れていたことが起きてしまったのです。 五大老の中で一番力がある家康。 その対抗馬が前田利家。 その利家がとうとう病気で寝込んでしまいました。 今ここで利家に死なれることは、反・家康派にとっては大打撃。 「頼むから持ちこたえてくれー」と、みんな願っていたのです。 ですが、とうとう利家は死んでしまったのです。 利家62歳でした。 利家は死ぬ10日前息子の利長に「秀頼のことを頼む!」とお願いし、遺言を残しました。 @秀頼に対し謀反をする者があった場合を考慮し、大阪城に8000人の兵を用意しとくこと A合戦は敵地でやれ。自国でやるな B文武ニ道を行え というもの。 こうして、利家の死により家康の独走態勢が整ったのです。 |
1599年3月3日 石田三成襲撃事件 |
利家が死んだその日、待ってましたとばかり、三成のことを大嫌いな加藤清正・福島正則・黒田長政・浅野幸長・細川忠興・藤堂高虎・蜂須賀家政ら7人が動き出しました。 三成も密かに武功派による身の危険を感じていたので、ずっと療養中利家の屋敷にいて保全してました。 この情報をキャッチした桑島治右衛門が、三成に「襲撃の企てあり」と連絡。 三成もある程度予想はしていましたが、7将相手だとちょっとヤバイなと感じました。 そして向かったのは佐竹義宣(よしのぶ)の家だったのです。 義宣は三成を支持している一人で、とても仲良しでした。 そして三成は無事に義宣の家にたどり着きましたが、すぐさま加藤清正らがやってきたのです。 「佐竹殿!三成を引き渡せ!さもなくば屋敷に踏み込むぞ!」と脅してきました。 これに困った義宣は「三成はおらんぞ!」と、すっとぼけましたが、内心「うわぁ。どうしよう」とドッキドキ。 三成は「これ以上義宣に迷惑はかけられぬ」と、裏門から出て、なんと敵である家康のもとへ向かったのです。 |
家康ビックリ!よくワシのとこに来れたな |
三成は家康の屋敷へ向かいました。 そして自分のことを保護してくれるようお願いしたのです。 家康は超ビックリ! まさか敵である自分のところに、保護してくれるようお願いに来るとは思ってもみなかったのです。 家康は側近の本多正信と相談。 「三成、ここで殺しちゃう?」と、ヒソヒソ話。 結果、まだ早いだろということになったのです。 加藤清正ら7将は家康の屋敷にやってきました。 「三成は我々が朝鮮で死ぬ思いをして戦っている間に、秀吉殿のご機嫌を取りまくっていた!我々は莫大な戦費と人の命を無駄にしたっていうのに、あいつは1人だけ肥えて、しかも朝鮮から帰ってきたら主人づらしている!あいつは豊臣家にとって害をなすものだ!」と、言ってきたのです。 すると家康は「確かにそなた達の言うことももっともである。が、ここで三成を殺せば秀吉殿の遺志をないがしろにすることになるぞ?私怨のためにこのようなことをしてはならぬ!それが秀頼殿のためでもありまずぞ?」と説教したのです。 7将は、家康に言われては逆らうこともできず、しぶしぶと諦めました。 三成は「勝手なことをやったあの七人を罰してくれ!」と頼みました。 が、家康は三成が嫌いなので「恨まれるお前が悪い」といった感じでかわしました。 七将は「三成が謹慎すれば攻撃をやめる」と言ってきました。 家康は三成を呼び、三成に佐和山城蟄居を命じ、奉行職を辞めさせられてしまったのです。 そして三成は、結城秀康に守られながら佐和山城へ向かいました。 ちなみに襲撃した七人はお咎めなし・・・。 三成嫌いの諸将は大喜び! これにより家康は三成以外の諸将にかなりの好印象を与えることになりました。 みんな「さすがは家康殿」と言うようになってきたのです。 そして三成は、ますます家康を憎く思うことになっていくのでした。 |
1599年3月 島津家 お家騒動 伊集院の乱 |
島津家は、朝鮮出兵でお金を使いまくっていました。 さらに家老の伊集院忠棟(ただむね)が権力を握りつつあり、当主である義久の息子・家久とめちゃくちゃ仲が悪くなっていました。 伊集院忠棟は、ある時石田光成に「いずれ家康殿は秀頼殿に刃をむけますな。その時、家久殿は家康の味方をするであろうな」と愚痴ったのです。 これが家久にバレたもんだから大変なことに! 家久は相談したいことがあると言い、伊集院忠棟を茶室に誘って斬り殺してしまったのです。 これに怒ったのが、忠棟の子である忠真(ただざね) こうして島津家内でバトルがスタートとなったのです。 この戦いは島津家が勝ちました。 この時、色々と島津家の応援をしてくれたのが家康だったのです。 お家騒動が終わると、義久は弟の義弘を家康のもとへ挨拶に行かせました。 家康は「いやいや、気にしないでくれ。ところで、近々上杉征伐に行くことになりそうなんじゃ。そうすると、伏見城が孤立してしまうので、その時はぜひ島津家に守っていただきたい」と言いました。 義弘は「もちろん。いいですよ」と、快くOKしたのです。 |
この頃 秀吉正妻「ねね」は? |
ねねは秀吉の死後、尼になり「高台院(こうだいいん)」と称していました。 秀頼が大阪城に移ってきたので、ねねは本丸を秀頼に譲って、自分は西の丸に行くことにしたのです。 ねねは「秀頼という後継者が大坂城に入るんだから、自分が西の丸に行くのは筋目ですからね」という考えでした。 ところが、秀頼とともにやってきた淀殿が、いつまでたっても挨拶にやってこないのです。 城内の侍女たちは「せっかくねね様が本丸を譲ったというのに、挨拶に来ないなんて失礼じゃないの?」というムードに。 それをねねは「まぁまぁ。いいじゃないのそんなこと。それより私が秀頼殿にご挨拶に行くわ」というあっけらかんぶり。 そもそも秀頼はねねのことを「まんまかかさま」と言い、ねねも秀吉の後継者となる秀頼をとても可愛がっていました。 こうしてねねは、久しぶりに会う秀頼に挨拶に行くことにしたのです。 秀頼はねねを見てにっこりと笑いました。 ねねは久々に会う秀頼が大きくなったので、とても喜びました。 そして淀殿に「よくぞここまで秀頼殿を立派に育てましたなぁ。これで豊臣家も安泰ですね」と言ったのです。 それにカチンときた淀殿。 「なんだってこのアタシが、あんたみたいな子供も産むことのできない女にそんな偉そうに言われなきゃなんないのよ?」と思ったのです。 そもそも正室ってだけで、身分の低い女がいまや官位は従一位。 どうやっても側室のアタシじゃ敵わない地位を、この女はゲットしている。 こうなったら、秀頼は絶対渡さないわよ!秀頼がアタシのとこにいる限り、アタシの勝ちよ!といった態度になってきたのです。 |
さらに続く 女のバトル ねねVS淀殿 |
淀殿は秀頼をあまりねねに会わせないようにすることに。 淀殿の侍女である「大蔵卿(おおくらきょう・大野治長の母)」は、それを忠実に守りました。 秀頼も幼い心に「ねねと仲良くすると、お母さんが怒る」というムードを察知してきたのです。 ねねはあからさまに避けられるようになってきました。 「そんなことしなくてもいいじゃないの!あたしはちゃんと秀頼を秀吉の後継者と認めてるというのに!誰も秀頼を奪おうなどと思わないわよ!本丸だって明け渡したんだし、淀殿に感謝されるべきなんじゃないの?」という気持ちになってきたのです。 さらに石田三成・大野治長ら近江出身の官僚連中は、旧浅井家の領地出身。 浅井家の血筋を引く淀君に自然に集まっていました。 そんな官僚連中が大嫌いなのが、秀吉子飼いの将であり、ねねを「母」と慕っていた福島正則・加藤清正ら武功派。 加藤清正らは自分達の「母」であるねねが、大坂城内において淀殿派にあからさまに無視され、肩身の狭い思いをしているのを知ると、三成らに対する怒りはますますヒートアップ! こうして、いつの間にかねね派VS淀殿派ができあがっていたのです。 |
家康 ねねに近づく・・・ |
ねねVS淀殿の派閥は、ますます熾烈になってきました。 そんな中「秀頼殿は淀殿と大野治長の間に出来た子供だ」という噂が流れ出したのです。 確かに、秀吉は20人以上もの側室がいながら、誰一人妊娠していない。 子供を産んだのは「淀殿」だけだったのです。 さらに淀殿のわがままもヒートアップ。 ねねは、大阪城にいるのが辛くなってきました。 そこをソツなくなぐさめたのが家康だったのです。 三成らが「あいつらは肉体関係がある!」とまで騒いだほど家康はねねに近づき、上手にねねの心を懐柔したのです。 ねねも、ここまであからさまに無視されまくったら、だんだん「アタシと秀吉が2人で築きあげた豊臣家を、あんな嫌な女に譲るのもだんだん癪に障るわね。だったら全然関係ない家康の方がいいかも」と思うように。 家康からしてみれば、ねねはただの女じゃない。 秀吉子飼いの大名に対して大きな影響力を持ってる。 ねねの機嫌をとっといて損はない!と睨んでいました。 三成はここでねねのご機嫌をキチンととりゃよかったのに全く何もしなかった。 「ねねは正室なんだから、豊臣家のためにならない動きはするはずない!」と決め付けていたのでした。 もう少し女心をわかってりゃ良かったのにね。 そしてねねは子飼いの将らに「何かあったら家康につきなさい」とアドバイスをしちゃうのでした。 |
1599年9月 ねね(北政所)大阪城を出て行く |
秀吉死後の不安定な時期、ねねは大阪城を出ることにしました。 これには子飼いの将である福島正則・加藤清正らは激怒。 「母」であるねねが、淀殿らのイジメによって大阪城を追い出されたという雰囲気になっていったのです。 そこへうまく入りこんだのが家康だったのです。 「わしはねね派じゃ」というのをアピールしまくり、秀吉子飼いの将を手なずけたのでした。 |
1599年9月27日 家康 大坂城へ入る |
![]() そして、家康以外の四大老は続々と国元へ帰っていったのです。 この間に、するするっと大坂城へ入った家康。 これにより、秀頼の後見人の座は「前田家」から「徳川家」に移ったことを人々に知らしめたのです。 家康は今まで秀吉の下で12年間我慢していた鬱憤を晴らすべく、手厳しい政治をスタートさせることになったのです。 |
1599年11月 前田利長大ピンチ! |
前田利家死後、すぐに前田家はピンチに陥りました。 原因は増田長盛の諫言でした。 長盛は五奉行の1人で、三成にもいい顔をしていた人でした。 家康は長盛を抱きかかえようと企んだのです。 そして家康は「おぬしは五奉行なんだから、何かいい情報はないのか?」と訪ねました。 情報提供を依頼された長盛は、忠誠の証を表そうと、何か良い情報がないかと考えまくり。 そして証拠もないのに「前田利長に謀反の気配があります」と言ったのです。 家康が何度も情報提供を依頼したので、何か喜ばせようと思って伝えた確実性のない情報でした。 家康はすぐに飛びつきました。 情報の確実性はどーでもいいのです。 ただ、討つきっかけ、つまりは「大義名分」が必要だっただけなのです。 前田家は大パニックに陥りました。 利長は「あの狸ジジィ!ふざけるなや!秀吉殿の遺言をことごとく破ってるのはあいつじゃねーか!こうなったら、前田VS徳川の全面戦争じゃ!」と、超激怒! すると家老の横山長知(ながちか)が、「いやいや、その前に一度ワシが話しをしてきます」と言い、戦う前にまず話し合いをすることになったのです。 長知は、家康側近である本多正信と会見しました。 すると本多正信は「いや、実は家康殿もほんとはこんなコトしたくないんだよね。だけど、まわりが色々うるさくてなぁ。じゃあ、この疑念を晴らすためにも、芳春院(ほうしゅんいん・利家の妻まつ)を江戸に人質にしてはどうか?あと、家康の三男・秀忠の娘を、利常殿と結婚させましょう!」と言って来たのです。 それを聞いた利長「なぁにぃぃー!母を人質に寄こせだとぉぉー!」と、超超激怒! 「今すぐ合戦じゃぁ!」の勢いとなったのです。 |
まつ 江戸へ行く |
これを知って心が痛んだのが芳春院こと、「まつ」でした。 「私が行けば全て丸く収まる。もしかしたら利長も死ぬかもしれない。私は息子の血をみたくない。私が犠牲になれば、前田家は安泰じゃ。」と言って来たのです。 が、利長がそんなこと納得できるはずがない。 まつは「バカ!頭を冷やして考えなさい!利家殿が死んだとなっては、今は前田家にとって一番大事な時ですよ?」と、とにかく「前田家のために」と、説得しまくったのです。 また、まつにとって「ねね」が大坂城を出たのも考える所がありました。 「あれほど秀吉殿とともに、力を尽くしてきたねね殿が大坂城を出るということは、豊臣家を見限ったとも言える。ねね殿でさえ見限った豊臣家に、いつまでも前田家が義理立てをする必要はない」 利長はとうとう折れました。 こうして利家の妻 まつを人質として江戸に送ることになったのです。 前田家を潰すチャンスを狙ってた家康でしたが、本当にまつが江戸に来るとなってビックリ。 さらに細川忠興が一生懸命前田家の弁護をしたのです。 家康は加賀討伐を断念せざるを得ませんでした。 利長は武将としての意地で滅亡の道を進むより、家名存続を選んだこととなったのです。 |
利家の妻 まつ |
まつは4歳の時に、叔母のダンナである尾張の荒子城主前田利昌に引き取られました。 12歳の時にイトコである22歳の前田利家と結婚。 利家は5人の側室を持ち、7人の子を産ませました。 ちなみに、まつは4人産んだよ。 合計11人の子供の大所帯を切り盛りしてました。 信長の家臣となり、お隣さんのねねと大の仲良しに。 子供がいないねねにお願いされ、娘のお豪(おごう)を養女に出すほど。 以後利家は秀吉に信頼され続けたのでした。 そして利家が死に、前田家の大ピンチが訪れます。 この時まつは息子利長にむかって「お前は家を守ることが第一である。母を案じて前田家を潰すことのないように」と言い、家康のいる江戸へ人質となったのでした。 江戸での生活は14年続きました。 そして利長が死んでから68歳にしてやっと金沢に戻ることができたのです。 |
家康 確実に権力を掴み始める |
![]() これには反・家康派は焦りまくり 「あの前田家が戦わずして屈したぞ!このままだと家康の思い通りになってしまう」と、三成をはじめとする反・家康派は動揺しまくったのです。 そして家康は、他の有力勢力を潰すべく口実を探し出すことに。 が、前田家の事件のこともあり、みんな慎重になり出しました。 |