安土桃山時代その18 1600年 関ヶ原への序曲

1月 宇喜田家のお家騒動
「上杉家が怪しい・・・」by家康
1600年5月 上杉家臣 直江兼続の直江状  
5月 直江兼続の「直江状」とは?
家康 会津出陣を決める
武功派 「三成が心配なんだよね」
6月16日 家康 会津出陣じゃー!
7月2日 家康江戸に到着
7月7日 石田三成 画策スタート 大谷吉継へ!
7月11日 吉継ついに折れる 
三成らの作戦!大阪せき止め戦略
7月16日 西軍総大将 毛利輝元 大阪城へ
三成ら 弾劾文をばらまく
島津義弘激怒!「薩摩隼人をバカにしやがって!」
島津義久 真っ青・・・
島津義弘 「三成殿の味方をしましょうぞ」
西軍 軍議を開く
西軍 人質を取りまくる
7月17日 細川ガラシャ 夫のために死す!
7月19日 家康に三成挙兵情報が届く
7月19日 西軍 鳥居元忠の伏見城を包囲
伏見城包囲の総大将は? 揺れる秀秋
7月19日 細川幽斎ギリギリセーフ
7月21日 家康江戸城を出発
7月22日 真田昌幸 西軍へ入る
7月24日 家康びっくり!まさかあいつらが!?
福島正則 「これは天下の大乱となる・・・」
7月25日 家康の大演技 小山評定 
7月25日 伊達政宗 白石城を攻略
景勝 怒る!甘糟清正は切腹じゃー!
ノリノリ政宗
7月26日 家康の大旋回
上杉はどう動く!?



安土桃山時代 その18 1600年 関ヶ原の合戦
1月 宇喜田家のお家騒動
この頃、宇喜田家の中で不穏な動きが。

豪姫が連れてきた前田家の家臣が、宇喜田家内でハバをきかせるようになってきていたのです。

もともと直家の代から優秀なのが揃ってた宇喜田家臣は、だんだん我慢できなくなってきて宇喜田家は2つの派閥に分かれていきました。

このお家分裂を解決したのが家康。

直家の代からいる優秀な家臣をこぞって徳川家に仕えるよう勧めちゃったのでした。

若い秀家はどうすることもできず、忠臣 明石全登を中心にお家建て直しに全力を注ぐことに。

お家騒動を解決できなかった秀家も悪いんですが、優秀な家臣をこぞって家康に持っていかれたことに秀家はムッとすることになるのです。
「上杉家が怪しい・・・」by家康
諸大名は、家康に目をつけられたら困るので、なるべく静かに過ごしていました。

家康は早く次のターゲットを見つけ、「大義名分」において徳川家の勢力を確実なものにしたかった。

そのため、どんな些細なことも見逃さないぞ!状態でした。

そんな家康にグットニュースが!

東北の上杉家がなにやら怪しい動きをしている・・・というものだったのです。
1600年5月 上杉家臣 直江兼続の直江状  

上杉景勝は去年秀吉により91万石から120万石に国替えされ、領国経営に力を入れまくってました。

国内の街道や橋の改修、そして浪人を集めたりなど積極的に国造りを行ってました。

これが問題となってしまうわけです。

さらに上杉家と仲の悪い越後の堀秀政が「上杉に謀反の動きがある!」と家康に言っちゃったのです。

景勝からしてみれば、まったくそんな気はない.。

ですが家康は、前田利家亡き今、ライバルは他の大老に向いていたので、景勝を追討する大義名分を得たわけです。

家康は毛利輝元・宇喜多秀家に会津攻めるか?と相談。

が、他の大老たちは「景勝に一度上洛を促してからにした方がいいよ」と意見。

家康は、仕方なく書状を送りました。

5月 直江兼続の「直江状」とは?
家康の書状に対して返事が上杉家より返事がきました。

景勝はこの手紙に頭きて、自分で返事を書かず重臣である直江兼続に書かせました。

これが有名な「直江状」です。

返事の内容はというと

「上杉に叛意ありと言った奴をまず調べろ。そうすれば上杉に叛意がないことはわかるはずだ。もしそれをしないでいい加減な奴らの言うことを信じて上杉を責めるつもりならこっちはこっちで家康との一戦をやる気でいる。」

さらに前田利長の事件のことは

「前田利長殿をあのようにさせるとは、さっすが家康殿ですな。家康殿の威光も素晴らしいもんですな。だけど上杉は前田とは違いますぞ?」と嫌味たっぷり。

街道や橋の改修については

「道を作るのは交通の便を良くするために決まってるだろ?うちだけじゃなく、伊達や最上もやってるぜ?それを恐れてケチつけるなど、どうしたんですかい?」と、小ばかにしまくり。

武器や浪人を集めていることについては

「そっちの武士は茶道具とかを集めているそうですが、うちは田舎なので武骨者が多くてね」と笑い飛ばしました。

そして〆は、「これだけ書いたけど、景勝が間違ってる?それともアンタ?それは天下の公論によって決しようではないか!名門上杉家は潔い覚悟を持って上洛を拒否する」という内容でした。

何者にも媚びずに、義のために戦い続けた謙信のモトで育った景勝と直続は、家康ごときに屈するのは耐え難かったのです。

景勝はこの時、家臣達に対して

「謙信公以来、上杉家は他者の脅しに乗ったことなどない。家康と戦うことになるかもしれんが、屈するより戦って滅亡するほうがはるかに名誉である!」と言い、上杉家は「毘」の文字のもと、家康と戦う決意をしたのでした。

家康 会津出陣を決める
直江状を読んだ家康。

怒りで、手がわなわなと震えました。

今や天下様と呼ばれるようになった家康。

このような無礼な手紙はなかなか見ることができない。

家康はこの時、怒りながらもこの手紙を書いた直江兼続を「なかなかの男だ・・・・」と感心したのです。

そして5月3日に会津出陣を決定したのです。

これに対して長束正家・前田玄以・増田長盛らは反対状を送ったけど、家康の心の中はすでに「会津出陣」は確定。

無駄骨に終わりました。

秀吉により死闘は禁止されていたけど、この頃最大の実力者である家康に「上杉は豊臣政権を崩そうとしている」と言われてしまえば、誰も文句はいえない。

天下取りの野望に燃えまくってる家康にとって、自分に反発するヤツらは元気なうちに潰しておきたいのでした。

家康は諸大名に上杉討伐を号令したのです。

武功派 「三成が心配なんだよね」
加藤清正ら武功派は、家康が会津出陣を決めたと知ると反対しまくりました。

「家康殿が自ら行くなどと!景勝征伐は我らだけでいいのでは?」と言ってきたのです。

武功派からしてみれば「家康殿が大坂を出れば、必ずや三成が動くであろう!」という気持ちでした。

が、家康は「心配してくれてありがとうな。だがワシは今まで生きてきてあれほど無礼な手紙を貰ったのは初めてなのじゃ。三成のことも心配だが、あいつの器量じゃそれほど兵は集まらんだろう。むしろ挙兵するのであれば、どれだけ兵を集められるか見ものじゃ。それにワシにはそなた達のような心強い味方がたくさんいるでな」と言ったのです。
6月16日 家康 会津出陣じゃー!
家康自らが総大将となり6月16日大阪を出発しました。

一緒についてきたのは細川忠興・福島正則・池田輝政・黒田長政・浅野幸長ら55000人

会津出陣は家康にとって危険な賭けでした。

大阪を離れるということは、反家康派である三成らが挙兵する可能性も充分にあったのです。

家康は三成は挙兵するだろうな・・・とは予測していました。

予測はしていましたが、三成ごときが兵を集められるはずもない。

奴の器量じゃたいしたことないだろう。

むしろ、挙兵してくれて一気に叩き潰した方が楽だ・・・くらいの考えでした。

そして、鳥居元忠のいる伏見城に少しの兵を残しておいたのです。

7月2日 家康江戸に到着
家康は江戸城の留守役をまかせていた秀忠の迎えを受けて江戸に入りました。

そして江戸城に7月21日までいるわけです。

この間家康は各地の諸将らに手紙を書きまくりました。

また家康は、上杉先発隊として伊達政宗・最上義光・佐竹義宣・前田利長らを命じたのです。

7月7日 石田三成 画策スタート 大谷吉継へ!
家康がいない大阪。

奉行職を解かれ、身軽になっていた三成はチャンスは今しかないと打倒家康へ動き出すことに。

家康の命令により会津遠征へ行こうとしていた親友の大谷吉継の元に使者がやってきました。

「会津に行く前に、ぜひ三成殿の城へお寄りください」

吉継は「なんだ?」といった感じで三成のもとへ。

そこで三成が「家康をやっつけたい」と相談したのです。

吉継はめちゃくちゃ驚きました。

「家康の勢力に勝てるものなど一人もいない。ましてお前は武功派連中に恨みを買いまくっている。家康は確かに勝手なことばっかしてるけど、別に秀頼を廃立しようとしてるわけじゃなし。絶対にやめた方がいい!」と強く諭したのです。

が、三成は「家康の正体はもうわかってる!あいつはメチャクチャうそつきだ。誓約をことごとくやぶり、秀頼殿にとってかわろうとしている!」と、意見を曲げることはしなかったのです。

7月11日 吉継ついに折れる 
三成の打倒家康の気持ちは変わる事はありませんでした。

吉継は3日間、この地に留まり、何度もやめた方がいいと言いました。

が、三成は自分の信念を曲げることはなく「頼む!おぬしの命わしにくれ!一緒に死んでくれ!」とお願い。

吉継はだんだん心を動かされました。

「病気のワシをここまで望んでくれるとは・・・。もしかしたらワシの死に際は今かもしれん。親友にここまで望まれ、それを断るなど、もうできない」

吉継は、とうとう親友三成のために加担することを決めたのです。

その際三成に

「お前ははっきりいって嫌われまくっている。お前の言い方はめちゃくちゃ横暴なので、敵を作るだけだ。なのでお前は表に出るな。家康の横暴さを責めるという名目で五大老の毛利輝元を総大将にして、宇喜田秀家を副将としろ。またお前は智の部分ではピカイチだけど勇気に欠けるところがある。」と忠告しました。

そして、「わが命、そなたに預ける」と言ったのです。

三成は涙を流して感謝しました。

さっそく吉継の言うとおり大将を輝元・副将に秀家を立てるよう画策するのです。

そして翌日吉継は、安国寺恵瓊・増田長盛らに同調することを求め、毛利輝元を大将にという件を相談。

が、増田長盛がこれを家康に密告してしまうのです。

安国寺恵瓊は毛利輝元に会いに行きました。

が、吉川広家が輝元の上洛を阻止するべく、家康家臣の榊原康政に連絡をとるのです・・・。

三成らの作戦!大阪せき止め戦略
諸大名らは家康に会津攻略を命じられており、西国の武将らは会津に向かうため軍を進めていました。

そこに目をつけた三成。

大阪で軍勢をせきとめ、女房・子供らを人質にとろう!という作戦に出たのです。

事実、諸大名らの中には家康の専領をおもしろく思ってなかった者も多数いました。

誰か有力な人が諸大名を取りまとめてくれれば、反家康派も巨大な勢力となる。

そのために担ぎ出されたのが毛利輝元なのでした。

毛利輝元は三成らにうまく担ぎ出され、7月15日に大阪に向け広島を出発しました。

7月16日 西軍総大将 毛利輝元 大阪城へ
西軍総大将として依頼を受けた輝元は、この日大阪城へ入城しました。

安国寺恵瓊の謀略は大成功だったのです。

一族の吉川広家・毛利秀元らは、三成の要請を受けて大阪城に入った輝元の軽率さを超激怒!

「このことが家康に知れたらどうする!?」と意見しまくり。

毛利家の意見は2つに分かれまくってました。

が、結局三成と三人の奉行、そして五大老の一人宇喜田秀家らと相談し、総大将になることをはっきりと決めたのでした。

そして大阪城の西の丸にいた家康の留守番衆を追い出したのです。

三成ら 弾劾文をばらまく
前田玄以・増田長盛・長束正家ら3奉行と、毛利輝元・宇喜田秀家の2大老の名前で、家康が秀吉の命令に背いたという家康弾劾文をばらまきました。

@会津に行くというが、上杉景勝にはなんの罪もないこと

A伏見城を占拠したこと

B前田利長の母を人質にとったこと

C政務を1人で勝手にやっていること

D西の丸に居住していること

などなどでした。

吉川広家は「うわぁー。とうとう毛利の名前でやっちゃったよ・・・。ここまでやっちゃったら仕方ないな。表面上は西軍に入っとかなければ」という考えに。

ですが、広家は毛利本家を守るために、家康にちゃんと話しつけとかなければ!と、動くのでした。

他にも「とりあえず西軍に入ったけど、状況が変われば東軍にいくぞ」という人も沢山いました。

島津義弘激怒!「薩摩隼人をバカにしやがって!」
島津義弘は、家康に「近く合戦が始まるので、その時は伏見城を助けてくだされ」とお願いされ、OKしていました。

そして兄の義久に「近々戦いがありそうです。兵力の増強と兵糧をお願いします」と使者を出しました。

が、島津家は朝鮮出兵と伊集院の乱で超貧乏。

とてもそんなお金はなく、しかも「たかだか上杉をやっつけにいくくらいで、そんな兵糧とか兵力はいらないだろ」と、情報分析を誤ったのです。

義弘はわずか300の兵しかいませんでした。

それでも「家康殿と約束したし、伏見城はそろそろ危ないし。助けに行くか!」と、律儀に伏見城へ向かったのです。

が、伏見城の鳥居元忠は「島津?そんなの家康殿から聞いておらん!」と、入城を拒否。

義弘は「いや、家康殿から直々に頼まれたのじゃ。助けに来たので入れてくれ」としつこくお願い。

城内では「島津が応援にくるなど、家康殿から聞いてない。もしかしたら三成の回し者なのでは!?」ということになり、あろうことか応援に駆けつけた島津勢に鉄砲を撃ってきたのです。

これには義弘大激怒!!

「応援に来たのに撃たれるとは何たること!そもそも家康殿は鳥居殿に話しを通していなかったのか!この島津を軽く扱いおって!わしが田舎者だから、粗末に扱ったのか!!くっそー!家康め!この義弘を軽視しおって!」と、プライドがずたずたになってしまったのです。
島津義久 真っ青・・・           
その頃、島津義久のもとに「家康弾劾文」が届きました。

それを読んだ義久は「うっわぁー!やべー!これめちゃくちゃヤバイ!日本が真っ二つになる大乱じゃねーか!義弘がしきりに兵力をよこせって言ってたのに、全然軽く見てた!義弘大丈夫か・・・?」と、改めてコトの大きさがわかったのです。

「義弘が少人数で立ち往生している」という情報は、瞬く間に流れました。

すると「わしが行く!」「いや!わしも!」と、義弘救援に向かう人がわれ先に出始めたのです。

「大乱の真っ只中にいる義弘殿をどうして見捨てることができようか!島津家がお金を出さないのであれば、我々は自分のお金で行く!」と、士気が高まりまくったのです。

こうした人たちが「大坂にいる島津関係者は、ただちに義弘のもとへ行け!」と連絡したもんだから、島津義弘のもとには何とか1500人くらいが集結したのでした。
島津義弘 「三成殿の味方をしましょうぞ」
そんな中、義弘のもとに石田三成からの使者がやってきました。

「秀頼様を守っていただきたい!今こそ、家康の非業を攻め立てようぞ!それが亡き太閤殿の恩に報いることです!」というものでした。

義弘はちょっと複雑な気持ちに。

はっきりいって秀吉は島津を攻めたりと、どっちかというと敵に近かった。

さらに三成と家康を比べても、家康の方に親しみを感じていたからです。

が、その家康から納得いかない仕打ちを受けたのも事実。

家康は義弘を軽視している。

もし重要視していたら、絶対に伏見城に連絡をしているはず。

そのことは、義弘のしいては島津家のプライドが許さなかったのです。

「そっちがその気なら、いかに島津が勇猛かを知らしめてやろうぞ!」という気持ちになり、とうとう三成へ加勢することを決めたのでした。
西軍 軍議を開く
島津の猛将として名高い義弘が西軍に入ったことにより、みんな大喜び!

人数がめちゃくちゃ少ないのに、軍議の席に招きました。

この時のメンバーは

石田三成・大谷吉継・安国寺恵瓊・毛利輝元・毛利秀元(輝元の養子)・吉川広家・増田長盛・宇喜田秀家・長束正家・鍋島勝茂・長宗我部盛親・小西行長・生駒親正(いこまちかまさ)・島津義弘

が、島津義弘はここでカチンとくることが。

自分は今まで不敗の義弘として武名をあげてきた。

だけど軍議の席で、合戦したことのない石田三成が「参謀」としてアレコレ指図しているのがムカついたのです。

「このワシに向かって偉そうに指図するとは片腹痛いわ!」と言いたいとこでしたが、兵力も全く持っていない義弘はデカイ顔できなかったのです。

こうして義弘は三成に対し、ムッとした感情を抱くのでした。

この軍議で決まったのは、明日からさっそく東軍諸大名の妻子を人質に取ること・東軍の拠点である伏見城を攻撃することでした。

家康のいない間に、家康に従軍している諸大名の大坂にいる妻子を人質にとっておこう。

とりあえず妻子を人質に押さえておけば、諸大名も簡単に家康に同調しないだろうと読んだのでした。
西軍 人質を取りまくる
さっそく、大阪城の外側に屋敷を持っている諸大名の家に家臣を行かせて「諸将の妻子は即刻大阪城へ入城せよ!」と命令しました。

増田長盛は京極高次の屋敷へ向かい人質を差し出すよう命令。

もちろん高次は断りました。

すると今度は「淀君」の名前で命令書を持ってきたのです。

高次の妻は淀君の妹・おはつ。

「淀君なら、生命は助けてくれるだろう・・・」と、長男を人質に差し出したのです。

お次は伊達政宗の屋敷へ。

家臣はすぐさま長男秀宗を差し出し、秀宗は宇喜田秀家の屋敷へ行かされたのです。
7月17日 細川ガラシャ 夫のために死す!
大阪玉造にある細川家に1回目の使者がやってきました。

細川忠興は家康に従って出陣中だったため、妻のガラシャは大阪城内に行くことを拒みました。

2度目の使者がやってきたがガラシャは拒絶

とうとう3度めには、使者だけでなく軍を送り込み、細川家を包囲したのです。

そして腕ずくでも大阪城に収容する!という勢いでした。

ガラシャは夫 忠興と三成が以前から仲がよくないのを知っており、夫の足をひっぱるような事はしたくない!と考えたのです。

こうなったら人質になる前に死んでやる!と考えましたが、ガラシャはキリシタンなので自殺ができない。

仕方なく侍女に「私を殺しておくれ」と頼みました。

が、主人であるガラシャに誰も刃を向けることはできなかった。

すると細川家老の小笠原少斎が屋敷に残っていたので「私を殺せ!」と頼み、他人の手を借りて自殺したのです。

このガラシャの行動は三成にとって予想外でした。

ガラシャ死後、細川家は炎に包まれ大騒ぎとなり「ガラシャが三成の命により大阪城に入ることを拒んで自殺した」というニュースは東軍武将の耳に入るのです。

三成はこれにより強引な人質収容はあきらめざるを得なくなったのです。

ガラシャの自殺は東軍武将を余計奮い立たせることになったのでした。

ちなみに忠興はこの時生きていた者を許さず、皆殺しにしました。

7月19日 家康に三成挙兵情報が届く
家康のもとに増田長盛からの「三成謀反!」密書が届きました。

これは家康の予想通りでした。

この時はまだ三成を過小評価していたのです。

そして21日に江戸を出発。

会津に向かうのです。
7月19日 西軍 鳥居元忠の伏見城を包囲
三成らは家康の西の拠点になっていた伏見城攻略に取りかかりました。

この城に残されていたのは鳥居元忠であります。

元忠の父は徳川家に仕えており、元忠は13歳の時に今川家で人質になっていた家康(当時10歳)のもとに仕えました。

一緒に人質生活を送っており、家臣というより友達のような感覚で育っていました。

家康は肉親より元忠を信頼するようになるほどだったのです。

三方ヶ原・長篠・小牧長久手と全ての合戦に家康の側近として参加。

本能寺の変の後、北条とバトル。

その時、武田家臣・馬場信房の娘が近くにいるという情報をキャッチ。

家康はその娘を捜すように命じましたが、元忠がなかなか連れてこない。

元忠はその娘にヒトメボレしちゃったのでした。

家康はそれを知り、「抜け目ないやつめ」と笑ったそうです。

本来なら主君の命令に背くなんて大変なことなのに、親友だからこそ笑って許してもらえたのでした。

家康はその後秀吉に臣従しますが、秀吉が元忠に官位を授けようとしました。

すると元忠は「三河譜代の田舎者なのでわしは粗忽者であります。秀吉どのにそのようなものを頂くのは恐れ多い。また、わしは二君に仕えるほどの器量はござらん」ときっぱりと断りました。

今度は家康が、元忠に感状を与えようとすると「感状とは軍功の証明書。他家へ使えるときの履歴書代わりになるべきもの。わしは他家に仕える気は全くないので、ご無用でござる」と断った。

誰でも欲しがる感状を断るほどの男だったのです。

そんな元忠もこの時61歳。

家康は竹馬の友である元忠を留守役にすることはすごくつらいことでした。

留守役とはいっても、三成が挙兵するのは目に見えている。

そんなところに元忠を置いておくということは、危険極まりないこと。

死ぬのが目に見えていたからです。

上杉討伐に行く前日。

家康は元忠に会いに行きました。

家康は「少人数で城を守るのは苦労なことだのぅ」と言うと、元忠は「なぁに、家康殿は一騎でも多く率いて会津に行かれよ。」と答えました。

2人が夜遅くまで語り合っているうちに、家康はとうとう涙を流してしまったのです。

すると元忠「年をとって涙もろくなったようじゃの?わしら500や1000が命を落とすことをなぜ悲しむ?」と大声で励ました。

元忠は家康のために死ぬ覚悟ができていたのです。

そして7月17日三成の使いがやってきて開城を求めました。

すると元忠「100万の兵で攻められたとしても明け渡さん!」と言い、使者を殺して遺体を送り返したのであります!

伏見城包囲の総大将は? 揺れる秀秋
伏見城攻撃が始まると、進んで総大将になったのが宇喜田秀家でした。

秀家は半年前に家康にこぞって家臣を持っていかれたことをムカついていたし、秀吉の恩に報いるため勇んで出陣したのです。

秀家とともに参加したのは、島津義弘と小早川秀秋でした。

秀秋ははっきりいってこの戦いには参加したくなかった。

家康の大事な家臣である鳥居元忠を攻めるなんて、家康にバレたらどうなるんだろうとビクビク。

家康には恩もある。

かといって、毛利本家が西軍につくのに、自分だけが東軍につくわけにはいかない。

(秀秋のことは下に詳しく書いてます)

そんな優柔不断な態度の秀秋を、三成は「こいつ裏切んねーだろうな・・・」注意して見ていました。

秀秋に「もし西軍が勝利した場合は、秀秋を関白に推薦しますよ。」と甘い餌をまいておきました。

秀秋は「えっ!ほんと!ふーん・・・関白かぁー。それもいいよなぁー。なんたってボクは秀吉の養子だもんな!それくらいの資格はあるもんなー」とまんざらでもなさそうでした。

だけど家康からも「こっちに寝返りなさい」というお誘いが。

「関白もおいしいよなぁ。けど、家康には助けてもらってたしなぁ・・・」と、悩みまくるのでした。
7月19日 細川幽斎ギリギリセーフ
幽斎は本能寺の変後、学問に熱中。

蹴鞠・能楽・歌と全てたしなみ、かなりの文化人になっていました。

幽斎は文化大好き!な天皇家とも超仲良し。

そのため秀吉・家康に天皇家とのパイプ役として重宝されていたのです。

そしてこの頃、幽斎は古今集伝授の第一人者でした。

天皇の皇子である智仁親王は幽斎から「古今集」のお勉強を教えてもらっていました。

そんな頃に三成からの呼びかけに応じなかったため、幽斎は居城である丹後(京都)の田辺城を15000人の兵に包囲されてしまったのです。

対する幽斎側は500人。

困った幽斎は、智仁親王に「まだ伝授してない古今集の書類を渡したい」という手紙を書いたのです。

これを師に危険が迫っていると思った智仁親王は、天皇らに働きかけ、幽斎はなんとかギリギリセーフとなったのです。
7月21日 家康江戸城を出発
7月2日に江戸に入っていた家康は、8日に榊原康政を先鋒として会津へ出陣させ、自分は西軍の動きを伺っていました。

そして「三成謀反」の連絡を受けたにもかかわらず会津征伐へ出発したのです。

まだこの頃は三成が謀反を起こすというのはあくまでも噂であって、三成挙兵は確実なものというニュースではなかったのです。

しかし22日・23日と会津に進軍するにつれて三成挙兵のニュースが確実な情報となってきており、ついに7月23日に会津征伐の中止を決めました。

24日家康は下野小山に着陣するのです。

7月22日 真田昌幸 西軍へ入る
真田昌幸は徳川の命令に従って、上杉景勝征伐に向かおうとしていました。

そこへ石田三成の使者がやってきたのです。

真田家は複雑な気持ちになりました。

というのも、昌幸と石田三成とは、宇田頼忠の娘を妻としたことから義兄弟。

嫡男・信之は家康に仕えており、その妻は家康の養女(本多忠勝の娘)でありました。

さらに次男・幸村の妻は大谷吉継の娘。

ということで、昌幸・幸村は西軍へ。信幸は東軍という、どっちが負けても真田家は存続するという策をとったのです。

昌幸は「この戦い徳川が有利であろう。だがワシは、以前徳川に手痛い目を受けている。ワシも小信玄と言われた男。もう一度あやつと戦ってみたいのだ」という気持ちもあったのでした。

こうして昌幸・幸村は陣を払い、上田城へ戻ったのです。

途中、「死ぬかもしれないから、最後にもう一度信之のいる沼田城に寄って、孫の顔が見たいな・・・」と思った昌幸。

戻りがてら沼田城へ寄りました。

が、長男信之の妻は、本多忠勝の娘なので、昌幸・幸村が西軍に寝返ったことを知ると、城門を閉ざし城に入れなかったのです。

こうして56歳の昌幸は、最後に一つ花を咲かすべく上田城へ戻りました。

ちなみに昌幸は石田光成に「なんでこんな大事なことを、今までこのワシ言わなかったんじゃ!」と、怒りの手紙を書き、三成はめちゃくちゃ謝ったそうです。
7月24日 家康びっくり!まさかあいつらが!?
家康は最初「自分がいなくなれば、必ず三成は挙兵するだろう。そうすれば遠慮なく三成をやっつけることができる。わっはっはー」という気持ちでした。

挙兵する危険を承知の上で会津出陣に行ったんだけど、入ってくるニュースに驚きまくりました。

家康からしてみたら「たかが奉行であった三成に賛同するのは、仲良しの大谷吉継と小西行長くらいだろ?」となめきってました。

そこへ毛利輝元が総大将で宇喜田秀家が副将となり家康に対抗してきたってのには家康大慌て。

特に輝元と秀家は間違いなく家康につくだろうと思ってたのでした。
福島正則 「これは天下の大乱となる・・・」
毛利と宇喜田が西軍についたということは、家康にとってめちゃくちゃピンチでした。

さらに西軍は「秀頼のため!」と言っている。

「まずいなぁ。秀吉恩顧の諸将たちは動揺するかもしれないな・・・」と焦り始めました。

実際、家康が一番気を使っていたのが福島正則・加藤清正らだったのです。

ここで家康は、黒田長政に正則の本当の気持ちを聞いてみてくれと命令したのです。

長政は黒田如水の息子で、正則とともに朝鮮出兵し、三成嫌いに関しては共通の気持ちを持っていました。

こうして長政と正則は酒を酌み交わしながら話し合いをしたのです。

正直、福島正則は動揺していました。

三成は憎いが、秀頼は主君だし、毛利輝元も宇喜田秀家も、秀吉政権下で権力を持っていた家々。

上杉景勝だって侮れない敵だというのに、毛利・宇喜田が敵となると、これは天下の大乱となる。

が!その前に、家康側についたとして、もし勝利をおさめたら秀頼殿はどうなるのか?

故・秀吉殿の恩義に反することなのではないか・・・・。

すると長政が「秀頼殿のことは心配いらぬ。家康殿は秀頼殿を決して粗略に扱わないと言っている。なにより、秀頼殿が幼少なのをいいことに、権力を我が物にしようとしている三成が危ないのだ!」

正則は「そうなのだ!三成めが危険なのだ!」と、言いつつも、秀頼のことが心配でたまらないのでした。
7月25日 家康の大演技 小山評定 
家康は小山にいる諸将らと軍議を開きました。

そしてこの事実をありのままに述べたのです。

「諸将の妻子は大阪城にて人質に取られている。心中お察しいたす。妻子の無事が気になるものはすぐこの場から去ってもかまわぬ。ワシの味方をするのも三成につくのも自由である!恨みには思わぬ」と言いました。

そして家康は「ワシは故・秀吉殿から秀頼殿を頼むと何度もお願いされた。ワシは絶対に秀頼殿を粗略に扱わぬ!」と言ったのです。

みんな「どうする・・・・?」といった感じで静まり返りました。

すると、福島正則が「わしは家康殿とともに、三成を討つ!その証しとして、息子の正之を家康殿に預けまする!」と叫んだのです。

この正則の発言をきっかけに、諸将は我も我も状態となり、その場で「いや俺は西軍に・・・」とは言いにくい状況になったのでした。

この場で「どうしよう・・・」と悩んでいた人たちも、豊臣政権の中での有力者・福島正則がこういったもんだからみんな一安心。

そして山内一豊が「東海道を攻めるなら城と兵糧が必要でしょう。それがしの城を家康殿に献上しましょう」といったもんだから、こっちも我も我も状態に・・・。

ちなみに、「城を家康殿に献上する」というアィデアは隣の浜松城にいた堀尾忠氏のものだったんですが、一豊がそれを盗んで先に言っちゃったのでした。

さらに細川ガラシャの死!

そうして家康方である東軍の士気は高まりまくったのです。

7月25日 伊達政宗 白石城を攻略
伊達政宗は「いまこそ、旧領を取り返す絶好のチャンスなのではないか?」と考えるように。

狙いをつけたのは、上杉景勝の出城である白石城でした。

白石城の城主は甘糟清正で、上杉謙信・景勝と二代にわたって仕えていました。

川中島の戦いでは、武田の勇将馬場信房・山県昌景と2時間渡り合い、一歩も退かず、謙信をはじめ信玄も「敵でありながらあっぱれじゃ」と、褒め称えていました。

そんな清正でしたが、この大事な時に、景勝の許可なく城を出てしまったのです。

というのも、清正の妻が会津で病死してしまったのです。

清正はその報を聞くと、すぐさま会津に帰り、葬儀を行いました。

これを政宗に内通した者がいたのです。

政宗は白石城を包囲し、留守役の登坂式部に「3万石やるから降伏しろ」と伝えました。

登坂はいとも簡単に降伏したのです。

清正が白石城に戻ると、城は伊達の旗印が翻っていました。

「あぁ・・・ワシはなんてコトをしてしまったのだ・・・」と、絶望しまくったのです。
景勝 怒る!甘糟清正は切腹じゃー!
白石城があっけなく落ちたことを知った景勝。

めちゃくちゃ激怒し「清正は切腹じゃ!」と命じました。

が、直江兼続が「確かに清正が100%悪い。が、清正は謙信時代からの忠節な家臣であります。なにとぞ切腹だけは・・・」と、お願い。

景勝は仕方なく切腹は許しましたが、一生清正を恨むことになります。

のちに清正は所領を減らされまくりました。

すると家康が清正を自分の家臣にしたく、使者を送ったのです。

清正は涙を流して「ありがたきお言葉。が、白石城を奪われたのはワシの非であります。景勝様からどのような仕打ちを受けても仕方のないことなのです。ワシは謙信様の代からずっと上杉家に仕えております。二君にまみえることなどできませぬ」と断りました。

景勝から冷たくされても、上杉家への忠誠は変わることがなかったのです。

家康は「ああいう男だからこそ、ワシは自分の家臣にしたかったのじゃ・・・」と、つぶやいたそうです。
ノリノリ政宗 
政宗は白石城をゲットし、やる気マンマンでした。

家康に「最上義光とともに、景勝を挟み撃ちしたい!」と進言しました。

が、家康は小山評定を終えた後だったので、「いやいや、今はむやみに兵を動かすな。その代わりおぬしには景勝の所領を全て渡そうと思っておるからな」というお墨付きをもらいました。

政宗は大喜び!

さっそく対上杉に備えて、白石城を改修しだしたのです。
7月26日 家康の大旋回
家康は小山評定で、諸将の気持ちを一つにまとめました。

そして「上杉を叩きのめすのは後じゃ!まず、三成めを討とうぞ!」ということになったのです。

こうして家康は江戸城に戻るために小山の陣を撤収することに。

が、心配なのが上杉景勝の追撃でした。

攻めるのと引くのでは、引くほうが難しい。

ここに誰を残すか・・・・家康は思い悩みました。

そして「結城秀康」を残すことを決めたのです。

秀康は家康の次男で、秀吉の養子となり、のち結城家の養子となりました。

家康はこの危険な大役に身内を選びました。

場合によっては見殺しにする覚悟であるこの大役に「身内」を選ぶことによって、忠誠示してくれている諸将に暗にアピールをしたのです。

こうして秀康は追撃阻止の命令を受けたのでした。
上杉はどう動く!?
家康は小山から引き返したことを知った景勝。

さっそく軍議を開きました。

直江兼続は「いまこそ追撃のチャンスである!」と、意見。

が、他の家臣らは「追撃するとしたら、上杉全軍をもって攻め込まねばならぬ。その間に伊達・最上に攻め込まれたらどうする?」と弱腰。

結局、追撃せずにまずは最上を攻略することとなったのです。

兼続は「今しかチャンスがないのに!」と大反論しましたが、却下されてしまいました。

景勝は「この戦いは長期にわたる。焦って兵力を消耗させるわけにはいかない」という考えだったのでした。
ここで西軍武将を紹介!
西軍 友情をとった男 大谷吉継
大谷家はもともと大友宗麟の家臣でした。

その後豊臣秀吉に仕え吉継は敦賀万5万石の領主になったのです。

吉継が領主になれたのは、全て三成のおかげでした。

先に小姓となっていた三成が吉継を紹介してくれたおかげで、三成とともに小姓となり、一緒に検地をしたりした仲でした。

秀吉に「100万の軍を持たせ戦わせてみたい」と言わせるほど指揮能力に優れた武将でした。

が、ハンセン病が悪化しており、戦いでは輿に乗って采配していました。

ある時お茶会で吉継がお茶を飲んだところ、鼻水がポタリとお茶の中に落ちてしまいました。

次の小西行長に回さなければならないのに、鼻水が落ちてしまいその場にいた皆の動きがぴたりと止まった。

ハンセン病で体の一部が崩れ落ちていた吉継の器を取りたくない。

そんな空気の中、三成が「わしはのどが渇いた。悪いがその器をわしにくれんか?」と吉継の器を何事もなかったように取り上げ、うまそうにごくごくと飲み干した。

その時吉継は「この男のためなら死んでもいい」と思ったのです。

そして三成から相談を受ける。

最初はとめたが、三成の決心が固いとわかると「どうせオレは病気で死ぬ。だったらこの命三成に預けよう」と保身より友情を選んだのです。

西軍 総大将!毛利輝元
安国寺恵瓊に「西軍の総大将になれば、天下は思いのまま」と相談されると、速攻で総大将になってしまいました。

これには一族をはじめ広家も「家康に知れたらどうなるか!」と大ブーイングでした。

そして輝元は西軍総大将として大阪城へ入城するのでした・・・。
西軍 毛利家のために!吉川広家
小早川隆景の死後は、吉川元春の嫡子 広家が毛利輝元の補佐役として権力を握っていました。

が、広家は小早川隆景が重宝していた安国寺恵瓊とはいまいちうまくいかないのでした。

広家は悩んでいました。

主家である輝元が徳川に反旗を翻し西軍総大将になってしまったことは、非常にヤバイ。このままでは主家は滅亡の一途をたどる・・・と。

広家はもともと恵瓊とあまり仲が良くなかったので、それもまた気にいらなかった。

そこで広家は、かねてから仲良くしていた黒田長政(如水の息子)に連絡を取るのです。

黒田長政は「東軍の味方になったほうがいい。決戦の前に家康と講和を結べば主家を救える」と言いました。

そして広家は毛利輝元に内緒で着々と講和の準備をするのでした。

西軍 義に厚い男 宇喜田秀家
宇喜田家のお家騒動により、優秀な家臣をこぞって持っていかれた秀家。

家康に対してムッとしてました。

そんな中、三成が「家康をやっつけよう!ぜひ副将になって頂きたい」と言い出したのです。

秀家は秀吉死後えばりはじめた家康も嫌いでしたが、何より小さい頃から可愛がってくれた秀吉のために家康へ反旗を翻すことを決意したのです!

ちなみに、この時17歳だった宮本武蔵は宇喜田秀家軍に参加してます。
西軍 怪僧 安国寺恵瓊
出生は不明。

一説には安芸井の守護武田信重の遺児とも言われています。

そのため安国寺は預けられ剃髪して僧になったらしい。

恵瓊は東福寺の恵心とめぐり会います。

そして恵心の弟子となり、その影響を受けながら修行を重ねます。

恵心は毛利隆元と仲が良かったので、自然と恵瓊も毛利と親密に。

博学で口がうまかったため毛利氏の使僧・外交官として働くことに。

怪僧と呼ばれるのは、信長の死を予言したり、秀吉の台頭を予言したからです。

まだ木下藤吉郎だった秀吉を「藤吉郎 さりとてはの者にて候」と、秀吉が力をつけるだろうと予言したのでした。

毛利が大友宗麟と和議を結ぶ時なんかも活躍。

本能寺の変の後の高松城攻めの時も、毛利と秀吉の和議をまとめ恵瓊は秀吉にも認められることに。

四国討伐・九州討伐・朝鮮へと全て参加。

そして同じく「武」より「智」で勝負する三成とともに秀吉に使えるのでした。

三成に打倒家康を相談され、毛利輝元を総大将にという話を進めたのが恵瓊なのでした。

西軍 大ボスにたてついた寡黙の武将 上杉景勝
天下分け目の戦いである関ヶ原の合戦の火蓋を切るきっかけになった景勝。

謙信死後、御館の乱で家督を勝ち取った景勝は、直江兼続など有能な家臣にささえられ五大老の一人になりました。

景勝は眼光が鋭く、笑ったことがないそうです。

お供も一切口を開かず、静粛の中にいつもいました。

お供が多すぎて一緒に乗ってた船が沈みそうになった時、景勝が杖を振り上げただけで、泳げない者までがわれ先に水の中へ飛び込んだそうです。

そんな厳粛な景勝ですが、一度だけ笑ったことがあるらしい。

サルを飼ってたんですが、そのサルが景勝が家臣に対する時の真似をした。すると景勝がクスっと笑った。

後にも先にも笑ったのはこの1回だけだったそうです。
西軍 景勝軍師 直江兼続
御館の乱以後は景勝に信頼を寄せられ「直江執政」といわれるほど頼りにされた兼続。

家臣でありながら30万石をもらうほの破格の扱いでした。

石田三成とは非常に気があったらしいです。

そのため「三成・兼続密約説」とか「東西呼応説」がありますが、定かではありません。

そして今回の直江状は有名で、実に理路整然とした内容で、家康を激怒させるとともに、感心させました。
西軍 武士の中の武士 立花宗茂
大友家一族である猛将 高橋紹運の子で、養父は立花道雪という武将としては超サラブレッド。

19歳の時、秀吉に「東の本多忠勝、西の立花宗茂」と言われるほどの猛将。

勇猛果敢な戦いぶりもさることながら、筋目をはっきり通す性格で律儀で誠実。

日頃から家臣にエコヒイキなく扱い、領内の民を慈しみ、誰からも好かれる武将でした。

秀吉九州制圧の時は、先鋒として活躍。

とある城を攻めたところ、「降伏するなら城内の助命をしよう」と約束。

それを秀吉が怒り、皆殺しを命じました。

が、天下の秀吉に対し宗茂は「私は一度約束したことを破ることはできない。助命しないなら私を先に殺していただこう」と言い、秀吉はついに根負けしたのです。

「武士に二言はない」を命を賭けて表したのです。

文禄の役では、3000人の兵で明軍30万を切り崩し、宗茂の名を知らないものはいないほどに。

秀吉の恩を忘れずにいた宗茂は、西軍に参加するのでした。

西軍 行きがかりで西軍へ 島津義弘
当主である島津義久の弟

52回に及ぶ合戦をことごとく勝利しまくるほどの勇猛な武将でした。

軍略型の兄をしっかりサポートして、実戦は全て義弘。

義弘の名は全国に知れ渡っていました。

島津家は九州で実力NO1になったものの、義弘が52歳の時に秀吉の九州討伐。

これにはさすがの島津も降伏せざるを得なかったのです。

朝鮮では、他人の戦に関わることを嫌い、何かと理由をつけて出兵を断ったんだけど、最後には仕方なく出兵。

秀吉死後、家康に会津出兵を命令され66歳の高齢ながら東へ向かったのです。

その時家康に「多分三成が挙兵すると思うから、伏見城に残ってる鳥居元忠を頼む」と言われ、はじめは東軍につく予定でした。

そして三成挙兵。

鳥居元忠のいる伏見城を三成らが攻めました。

義弘は手勢300で伏見城へ行き、鳥居元忠を助けに行くも入城を拒否され、さらに鉄砲で攻撃されてしまう。

これに怒った義弘は三成のいる西軍に入ってしまうのです。

三成ら西軍は大フィーバー。

勇猛で名高い義弘の西軍参加をめちゃくちゃ喜び、少しの兵しかいないっつーのに軍議に招き、軍略指導をしてもらうのです。

西軍 仕方なく西軍へ 長宗我部盛親
元親亡き後、長宗我部家を継いだ盛親。

この時26歳。。前年偉大な父・元親が死んでしまったばかりの、長宗我部家。

盛親のもとには家康・三成の両方から協力依頼が来ましたが、盛親は家康につくことを決めました。

「亡き父は秀吉殿のおかげで土佐一国を安堵されたが、家康殿とも仲が良かった。それに家康殿の方が実力があると思う」という理由でした。

が、家康のモトへ向かう盛親の使者が、長束正家の設けた関所にひっかかり、家康のとこへ行けなかったのです。

すると盛親は「天運に従うしかないな」と、仕方なく西軍へ。

長宗我部軍は6600ほどの兵を率いて、7月に大坂城に入城しました。

西軍 親子が東西まっぷたつ 真田昌幸
武田信玄の家臣であった真田幸隆の3男である昌幸。

川中島の合戦にも参加し、上杉軍相手に奮闘しました。

以後、順調に出世したものの武田家が長篠の戦において敗北。

兄の信綱、信輝が戦死してしまったため家督を相続しました。

そして武田家が滅亡。

真田家は織田氏に臣従するのでした。

そして織田信長が死んだので、北条に属すものの領土問題が起こり徳川家に仕えることに。

が、家康に領地を北条に渡せ言われ家康と大喧嘩。

不仲なり上杉景勝と手を組み、秀吉に仕えることに。

秀吉には「表裏比興の者(煮ても焼いても食えない男)」と言われました。

そして秀吉死去。

家康に会津出陣の命を受けるんだけど、そこへ三成からの密書が届いたのです。

西軍 五奉行 前田玄以
五奉行の1人です。

前田利家が死ぬと、それまでの豊臣政権のバランスが崩れ五大老筆頭家康と五奉行の実力者三成の対立が始まりました。

玄以は表向きはともに仕事をしてきた三成に加わるんだけど、家康に三成の行動を報告するなど保身をはかるのです。

西軍 五奉行 名束正家
正家もめちゃくちゃ悩んでいました。

西軍に入るか?東軍に入るか?

どっちにつこうか決められず、三成の味方をしているフリをしながら、家康にも情報を流していました。

が、とうとうまわりは西軍だらけになり「ここで今更東軍に入ったらヤバイな」と心を決めました。

それからは超素早い行動で、兵糧調達などをしだしたのです。
西軍 ライバル清正へ挑戦!小西行長
朝鮮では加藤清正と先陣を争い、攻撃系の清正と平和系の行長は気が合わずにいました。

秀吉はどっちがきちんと国を管理できるか張り合わせる意味で、2人の領地を隣同士に。

このため2人はますます張り合うのでした。

三成が武功派に嫌われるようになると、行長は迷わず三成の味方をしました。

そして三成が挙兵。

行長は大嫌いなライバル・加藤清正をぶっ潰そうと決めたのでした。

西軍 三成に過ぎたもの 島左近
三成に過ぎたものと言われるほどの軍略家である島左近。

三成は破格の石高で左近を家臣にし、信頼しまくってました。

が、三成は重大な時に左近の意見をことごとく却下してしまうのです。

三成襲撃事件の時「家康を討とう!」と左近は計画をするんだけど、三成によって却下。

また家康が上杉討伐に行く際に、水口に泊まるというニュースを聞き夜襲をしようと進言するも、却下。

極めつけは関ヶ原前日に軍師としての意見を三成に言うんだけど、これも却下されてしまうのです。

西軍 親子で東西へ 最強の水軍 九鬼嘉隆
伊勢志摩を拠点としていた九鬼水軍のボス九鬼嘉隆。

信長に属して巨大戦艦を作り、最強と言われていた毛利の村上水軍らを破りました。

その功績によって伊勢志摩に3万5千石を与えれ、鳥羽城を築き海賊大名となりました。

朝鮮出兵の時、水軍大将に命じられ「軍議は多数決による」「戦功の横取り禁止」「危機となった船は必ず救援する」というルールを定めました。

が、朝鮮水軍に惨敗し、嘉隆は息子の守隆に家督を譲ったのです。

秀吉が死に家康の時代となった時、嘉隆は稲葉道通と諍いを起こしました。

この時の家康の裁決が嘉隆にとって理不尽なものだったため、嘉隆は以後家康を嫌うように。

そして関ヶ原となるのです。

三成は嘉隆が家康を嫌いなのを知っているので西軍に誘いました。

嘉隆はもう戦える年齢ではないと断るんだけど、三成に何度も誘われついに西軍に参加することを決意したのです。

嘉隆からしてみれば「朝鮮の役での悔しさは忘れられない。まだ九鬼嘉隆は健在だということを最後に世に知らしめよう」と思ったのでした。

またどちらが勝ったとしても「九鬼家」は残るだろうとも考えていました。

息子の守隆は使者を送って父 嘉隆を諌めましたが、嘉隆はこれを聞き入れなかった。

守隆は慌てて家康に使者を送り、自分は異心がないことを報告しました。

そして真田と同じく親子が東西に分かれての戦いとなるのです。
西軍 最大のキーマン 小早川秀秋
秀吉正妻ねねの兄の息子。

子供がいない秀吉とねねは、秀秋を養子に貰い秀秋は寵愛を一身に受けて育ちました。

秀吉も一度は秀秋に家督を譲ろうと考えたほどの寵愛ぶり。

が、実子秀頼が生まれたことにより、秀吉の態度は豹変。

また、成長するに連れ秀秋は愚鈍さが目立ってきたのでした。

邪魔になった秀秋は、黒田如水の計らいにより小早川隆景の養子に出されるです。

隆景が死ぬと13歳で35万石を相続。

慶長の役(2度目の朝鮮出兵)では総大将に任命されました。

これが秀秋の初陣となります。

秀秋に武名をあげるチャンスが訪れました。

加藤清正のいた蔚山城が、明軍4万に包囲されているというのです。

さっそく秀秋は応援に駆けつけ、総大将でありながら先陣にたち朝鮮兵を槍で殺しまくったのです。

秀秋は明軍を打ち破り、「これで秀吉殿もボクを見直してくれる!」と有頂天。

が、帰国した秀秋を待ち受けていたのは秀吉の怒りだったのです。

秀吉に「総大将のくせに軽率すぎる!勝ったから良かったものの、総大将が討たれたらどうなると思ってるんだ!。」と怒られたのでした。

勇猛と野蛮の区別がつかない秀秋は、秀吉に褒めれると思ってたのに怒られるなんて!と大ショック。

そして謹慎処分となり、所領も52万石から15万石と減らされてしまったのです。

秀秋は「ボクあんなに頑張ったのに!これは絶対三成ら文治派の讒言によるものだ!」と思うように。

そんな落ち込んだ秀秋を助けてくれたのは家康でした。

所領没収されそうなとこを家康がうまく取り計らってくれたのです。

秀秋は家康に感謝し、三成を恨むようになっていたのでした。

が、自分は秀吉の養子だった男。

三成は嫌いだけれど、本家である毛利輝元も西軍。

よって秀秋は西軍として参戦するのです。

七本槍 脇坂安治(わきさかやすはる)
近江出身の安治は、はじめは明智光秀の家臣でした。

次に秀吉の家臣となります。

活躍したのは秀吉VS勝家の賎ヶ岳の戦いの時。

この時加藤清正・福島正則らと活躍し、賎ヶ岳の七本槍の1人となります。

その後は九鬼嘉隆らと水軍衆を率いて戦い、朝鮮出兵などでも活躍。

三万石の大名となりました。

関ヶ原では東軍に行くつもりだったのですが、安治が大坂にいる時に三成が挙兵。

まわりは西軍だらけとなり、しかたなく西軍に加わったのです。
織田秀信(ひでのぶ) 幼名は三法師
織田秀信・・・・誰??といった感じの信行ですが、あの信長の孫で、織田家の後継者となった三法師です。

3歳の時に秀吉が後見人となり、一瞬だけスポットライトを浴びた信行。

以後は秀吉のもとで育ち、秀吉から一字もらって「秀信」と名乗ります。

一字もらったということ自体(しかも秀吉の秀が上・信長の信が下)、すでに秀信は、秀吉より格下扱い。

ですが3歳の頃から秀吉に懐柔されていた秀信は、なんの抵抗もしませんでした。

朝鮮出兵の時も秀吉の命令により参戦。

こうして秀吉に下剋上された形となった秀信は、秀吉の庇護のもとのんびりと育ちました。

が、石田三成から使者がやってきたのです。

「勝ったら尾張・美濃をもっとあげる。だから秀頼様の味方をしてくれ」と言われました。

秀信は、その誘いに乗って西軍に参加したのです。
東軍武将を紹介
東軍 徳川四天王 本田忠勝
「家康に過ぎたるものが二つあり 唐のかしらに本多平八」

本能寺ショックの時も、家康を伊賀ルートから逃げる手配をし、その後もガンガン出世し、関ヶ原へ向かうのであります。

東軍 徳川四天王 井伊直政
武田家臣であった「山県の赤備え」を受け継いだ直正

「井伊の赤備え」は、戦国の世で恐れられていきます。

関が原では、家康四男である松平忠吉を補佐。

直政の娘は忠吉と結婚してます。

ちなみに井伊家では末代まで直政の名誉を称えて、新しく奉公する者には必ず赤い鎧を用意させたと伝えられています。

東軍 徳川四天王 榊原康政
姉川・長篠・小牧と戦功を挙げ、家康の関東入りの時に関東要所の押さえとして関東へ。

家康と秀吉の仲が険悪になっていくと康政は秀吉に文句ブーブーの手紙を書きまくった。

怒った秀吉は康政の首に懸賞金を賭けたりしました。

のちに秀吉は「あの手紙を見てお前の首を取ろうと思ったが、それも徳川家への忠誠の証とわかり、今は感服しているぞ」と言いました。

1592年に家康三男である秀忠の付き人となり、康政の娘は秀忠の養女となりました。

家康からの信頼されていましたが、むしろ家康よりも秀忠の信頼を得まくりました。

そして関ヶ原は秀忠とともに行動するのであります。
  
東軍 秀吉子飼いの将 加藤清正
家康の味方をする意志を表明した清正

「関ヶ原のきっかけ」を作った1人でもあります。

朝鮮では多くの活躍をし、武名をあげたものの、大事な家臣たちが何人も死にました。

家臣の中でも戦功をたてたものが多くいるのに、朝鮮での論考賞はない。(失敗したので)

そのため、家臣たちに褒美をあげることもできない。

家臣たちに申し訳ないという思いに加え、父と思っている秀吉は三成ばかり可愛がる・・・。

この怒りの矛先は、石田三成しかいなかったのです。
東軍 秀吉子飼いの将 福島正則
三成が死ぬほど嫌いな清正も家康につきました。

小山評定では、迷うことなく「家康殿に加担する!」と叫びました。

正則が家康についたのは、憎き三成もありますが、母親がわりである北政所(ねね)の影響も大きかったことでしょう。

さらに不安なことは、この頃の豊臣家は「近江チーム(淀君を中心としたメンバー)」によって動いていました。

ここに自分の入る隙はない・・・・ということも、感じていたことでしょう。

東軍 笹の才蔵 可児才蔵
可児才蔵は見事なほど主君を変えています。

斉藤龍興→柴田勝家→明智光秀→織田信孝→羽柴秀次→前田利家→福島正則と名だたる武将に仕えました。

秀次に仕えてたときは大喧嘩。

というのも、小牧・長久手で百戦錬磨の勘から「今日の敵は強いので一旦退いたほうがよかろう。無理に攻めれば大敗するだろう」と、前線から撤退しようとしたため秀次に超怒られたのです。

そして才蔵は秀次にやめたほうがいい何度も言ったんだけど、秀次は無理に進軍。

才蔵はあまりの無能さに呆れ、さっさと自分の兵を引き連れ帰ってしまいました。

で、秀次はボロ負け。

帰り道で才蔵にばったり会って「馬を貸してくれ」とお願いするも、才蔵断っちゃいました。

そして関ヶ原で福島正則のもとで参戦するのです。
東軍 家康次男 結城秀康
秀吉との小牧・長久手の戦いの時、講和の人質として11歳の秀康は秀吉の養子に行かされました。

14歳で九州討伐に。

この時、前線で蒲生氏郷が大奮闘。

秀康は氏郷の活躍に比べ自分が不甲斐ないのを悔やみまくり。

すると佐々成政が「おぬしはまだ若いので気落ちするな」と慰めました。

秀康は「今日のことは今日限りだ!」と怒るとそれを聞いた成政が「さすが家康の息子」と褒めると、秀吉が「いやいや秀康はワシの養子だから、わしに似てるんじゃ」と言ったそうです。

秀康は実の父である家康より、秀吉の方が好きだったみたいです。

秀康25歳の時に、秀吉の甥・秀次が後継者に決まると、下総の結城家へと送られ結城家の家督を継がされました。

家康の律儀な性格を受け継いでおり、家臣から人気もありました。

また福島正則と仲が良かったそうです。

東軍 家康三男 徳川秀忠
家康の三男。

12歳の時に秀吉から一字もらって秀忠となります。

秀忠の生まれた年に、長男信康は信長により自刃させられます。

幼名は長松。が、次男秀康が養子に行かされたことから、6歳の長松は「竹千代」と改名。

以後、徳川家では家督を継ぐ者の幼名は「竹千代」となります。

17歳の時にお市の方の三女 お江と結婚しました。

長男信康は死に、次男秀康は養子に行っていることから実質的な嫡男として育ちました。

そして家康が関東へ行かされます。

家康は領国経営をやる一方、豊臣政権下で最大の大名のため秀吉の側にいることが多く、関東を留守にすることが多かった。

江戸で留守を守っていたのが秀忠であり、徳川家の後継ぎとし認知されるのです。

そして家康VS三成の関ヶ原が始まります。

家康は会津討伐に行きますが、途中小山にて三成挙兵を聞き兵を戻しました。

そこに秀忠を上杉の押さえとしてとりあえず置いておき、その後秀忠は中仙道を通り関ヶ原へ向かおうとするのでした。

東軍 五奉行筆頭 浅野長政
秀吉の数少ない縁故関係にあった長政。

秀吉政権下では、五奉行筆頭として政務をこなします。

が、自分が五奉行の筆頭なのに、年々発言力を増してくる三成とも仲が悪くなっていくのです。

秀吉死後は一人別行動を取るようになりました。

そして家康VS三成。

息子幸長が三成襲撃事件に加わり、長政は迷わず息子幸長とともに東軍へ入るのでした。
東軍 最上義光
義光は1546年に最上家当主の義守の嫡男として生まれました。

が、父が自分よりも、弟の義時ばかり可愛がったため家督争いが始まります。

25歳の時に義守を隠居させ、弟の義時を滅ぼして家督をもぎとりました。

ちょうどこの頃、信長が姉川の戦いをやっていました。

中央の激戦もさることながら、東北では最上・伊達・上杉や中小豪族と領地争いに明け暮れていました。

そして伊達家に妹義姫を嫁がせ、政宗暗殺を企むなどしました。

そんな義光も秀吉により小田原参陣を命令されます。

が、義光はそれに遅れてしまいました。

秀吉は激怒したけど、以前から親交のあった家康のとりなしによってなんとかセーフ。

論功行賞の場で、諸大名が次々と所領を没収されるのを目の当たりに見て、秀吉を恐れるとともに、家康に感謝するように。

それからは秀吉のご機嫌をとるようになりました。

奥州征伐に来た秀吉の甥 秀次が義光の12歳の娘 駒姫を気に入りました。

義光は、駒姫を側室として差し出しました。

これで最上は安泰か!と思いきや、秀次が秀吉に殺されてしまう。

もちろん駒姫も処刑。

そして関が原では恩のある家康につくのでした。

東軍 主君をコロコロ変えて大成功!?藤堂高虎
主君を何度も替えていた高虎。

いままで、リストラ・倒産などなど、波乱万丈だった高虎。

無銭飲食をやらかし、盗みの汚名まで着せられていましたが、やっとこさ家康のもとで落ち着きます。

身長190センチ・体重115キロの超巨漢でした。

最初は浅井長政に仕えようとしたんですが、姉川の合戦で破れたため、お次は浅井の猛将である磯野員昌を頼りましたがイマイチ。

そしてお次は秀吉の弟である秀長に仕えることに。

ここで高虎は、秀長にとても可愛がられ出世していきますが、その秀長が死んでしまいます。

高虎は秀長に養子である13歳の秀保(ひでやす・関白秀次の実の弟)の後見役を頼まれますが、秀保は「うるさいオヤジが死んだぜ!」と羽を伸ばしまくり。

お酒ばかり飲む毎日で、とうとう死んでしまいました。

ここで高虎は出家しようとしましたが、高虎のウワサを聞いた秀吉が、高虎の器量を買い、自分のモトへスカウトするのです。

その秀吉が死に、朝鮮出兵していた兵を撤退させることに。

撤退させるべく重要な実務の役割を、家康は「そんな重大なことをやらせられるのは、藤堂高虎しかおるまい!」と言ったのです。

ここで高虎は「自分のことを高く買ってくれている」と、家康に好意を持ちました。

事実、この2人はすごく気があったそうです。

関が原での高虎は、西軍の一挙一動を逐一家康に報告し、西軍についた武将らを東軍に来させるよう諜報活動をしていました。

また高虎は優れた建築家としても有名となっていきます。

東軍 妻のおかげで大名に 山内一豊
妻 千代のへそくりのおかげで信長に一目置かれるようになった一豊。

その後は目立った戦功はなく過ごしていました。

が、小山評定の時、一豊のもとへ手紙が2通届きました。

その手紙は三成から「西軍につくように」というものと、もう一通は大阪にいる千代からで「あたしのことはご心配なく♪家康にきちんと忠誠を尽くすように」というものでした。

さらに千代は同じ内容のものを開封せず用意し、これを家康に渡すようにいったのです。

そして開封していない手紙を家康に渡した一豊。

家康は一豊の忠誠をしっかりと受け止めたのでした。
東軍 妻ガラシャのために!細川忠興
ガラシャ大好き!で、めちゃくちゃヤキモチ焼の忠興。

が、三成はガラシャを人質にしようとしました、

そしてガラシャは死んでしまうのです。

忠興は大ショック!!

憎い三成を倒すため関ヶ原へ向かうのであります。

幽斎・忠興父子は秀吉のもとで文化行事に大活躍。

関ヶ原の時、父である幽斎の古今伝授(古今和歌集の語句の伝授)が絶えるのを心配した後陽成天皇らが三成に和議を勧告するほど。

それほどまでに幽斎の文芸・芸能・故実の知識は必要だったのです。

家康も幽斎の知識を非常に重宝し、依頼されて「室町家式」という本を書いたりしました。

東軍 父を超えるぞ!黒田長政
父 黒田官兵衛は、あまりにも有能すぎたために秀吉から危険人物とされていました。

命の危険を感じた官兵衛は、名前を「如水」と改め嫡男である長政に家督を譲りました。

後を継いだ長政は、頭脳プレイの如水と違い、勇猛な武将。

家臣からは「ちょっと軽率すぎんじゃない?」と言われていました。

でも当の長政は「オレが死んでも父ちゃんさえいれば黒田家は安泰さ」と言っていました。

ですが、如水に言われたのか朝鮮攻めが終わった頃から家康に急接近。

ちょっとづつ知謀を発揮していきます。

秀吉死後は家康の味方に。

なぜか?というと、秀吉は父の如水があれだけ頑張ったのに頑張ったなりのご褒美をくれなかったから。

また長政は朝鮮の時、前線で頑張ったのに後方支援している三成が嫌いだったのです。

そして武断派の三成襲撃事件に長政は参加し、そのまま関ヶ原へ突入!

長政は、あの「小山評定」の時に福島正則を説得するなど、かなり重要な任務を成功させた一人なのです。

東軍 軍師はどう動く?黒田如水
本能寺の変後、秀吉に天下を取るチャンス!と勧めたことから、秀吉は如水の底知れぬ野望に危険を感じるようになります。

度重なる戦功を評価せず、他の豊臣家臣から「もう少し恩賞をあげたほうがいいのでは?」とまで言われるほど。

ですが秀吉は「奴に力を蓄えさせると、どうなるかわからん」と言い、正等な評価をしようとしませんでした。

秀吉の天下統一に果たした如水の役割は多かったのですが、優秀すぎるがために秀吉に疎まれるのです。

が、秀吉に疎まれるような野心を持っていたのも事実でした。

こうして如水は「秀吉を天下統一させた功労者」でありながら、豊臣政権下では、その立場を三成らに奪われていくのです。

如水はその才能・手腕を生かす活躍の場も与えられないようになってきました。

関ヶ原が始まる頃、如水は九州をまかされていました。

この頃の九州は、九州制圧をした秀吉はよく知ってるけど、家康って?といった感じでした。

一応家康に命令され、出来る限りの軍を率いて中央へ向かっていましたが、戦いの本筋をイマイチわかってない人が多かったのです。

ただ1人、黒田如水を除いては・・・・。

そして如水はこの戦いは長引くと予想し、55歳の自分が天下を取るべく野望に燃えるのです。

つまり「この戦いは長引くので、ワシは今のウチに九州を統一する!そして、中央が戦い続けている頃、九州を統一したワシが中央へ乗り込む」というものでした。

如水は惜しげなく金銀をばらまき、九州中の浪人を集めたのです。
東軍 三成に恩のある悩める男 佐竹義宣
ここにもめちゃくちゃ悩んでる男がいました。

常陸(茨城)の佐竹義宣であります。

当時、領地を54万石持っている大大名でしたが、それは全て三成が秀吉に後押ししてくれたおかげなのでした。

そして義宣は三成に感謝し、恩義を感じるのでした。

三成襲撃事件の時、義宣は三成を家に匿いました。

そのため家康から「こいつは三成派だな」と印象づけられてしまうのです。

関ヶ原の時、家康は義宣に使者を送りました。

が、義宣は上杉景勝とも密かに呼応していたのです。

上杉討伐に動いた家康の出動要請にも動かずにいました。

恩義のある三成に弓を引くことはできなかったのです。

が、頭のいい義宣は次の天下は家康が取るだろうとも予測していた。

西軍が敗れた際に訪れるであろう佐竹家の悲劇を考え悩みに悩んだ決断は、上田城を攻める徳川秀忠にわずか300の兵を送り込んだだけだったのです。
東軍 池田輝政
名将 池田恒興の次男です。

母はもと信長の弟 信行の妻だった人です。

初陣は16歳で荒木村重攻め。

父とともに活躍し、10万石を賜りました。

本能寺の後は秀吉に仕え、父 恒興は娘を秀次に嫁がせ秀吉は輝政を養子にする約束をしました。

そして小牧・長久手。

この戦いで輝政は父と兄を失うのです。

父の戦死を聞いた輝政は「父と兄だけを死なすわけにはいかぬ!」と敵陣へ突入しようとしました。

が、家臣の藤右衛門が「父上は無事でござる!早くこの場から逃げたほうがいい!」と言われ言うとおりに逃げます。

ですが、後で嘘と知り右衛門を憎むように。

輝政にとって父と兄を見捨てたことが生涯忘れられない心の傷に。

その後、輝政は家臣を大事にしまくりましたが、右衛門のことだけは一度も褒めず、また一度の加増もしなかったといいます。

朝鮮出兵には加わらず、秀吉の甥の秀次を補佐しました。

そして秀吉は徳川家との関係強化のため、家康の娘 督姫と輝政を結婚させようとするのです。

督姫は元々北条氏直の妻、そして輝政にも正妻がいました。

また家康といえば、父と兄を殺した敵。

ですが、天下人秀吉の言うことを聞かないわけにはいかなかったのです。

初めて徳川家に行った輝政は、父・恒興を討った永井直勝と対面しました。

直勝の石高が千石しかないと聞くと「わが父の首を討ったのはたかが千石の小侍か!」と怒ったため、家康は慌てて直勝を加増したそうです。

そして殺生関白秀次が失脚。

補佐役だった輝政は疑惑をかけられましたが家康の仲介によりお咎めナシ。

また秀頼が誕生した頃から、秀吉の行為に疑問を抱くようになり家康に気持ちを傾けるように。

そして石田三成襲撃事件に加わるのです。

東軍 尻蛍大名 京極高次
近江の名門京極家は、高次の祖父の代に家臣である浅井家に下克上されました。

8歳であった高次は信長のもとに人質として送られました。

そして浅井家滅亡後、旧臣を集め信長に仕えたため五千石を与えられました。

本能寺の変では明智光秀に協力。

秀吉の所領であった長浜城を攻撃し、京極家の再興をはかりましたたが、頼みの綱である光秀がヤラれちゃったので慌てて柴田勝家のトコへ逃げ込みました。

が、勝家が秀吉にやられてしまい、お次は妹のダンナである武田元明のとこへ。

が、元明も秀吉に倒されてしまい、高次は自分の保身のために美貌の妹・龍子を秀吉の側室として差し出したのです。

これが淀君と側室筆頭を争った松の丸であります。

美人でお嬢様が好みの秀吉は龍子をとっても気に入り、高次は許されました。

そして高次は秀吉から6万石をもらい京極家再興の夢がかなったのです。

でも、全て妹のおかげなので高次は周りからバカにされ「尻蛍大名」というあだ名をつけられてしまいました。

高次の妻が浅井長政の次女(淀君の妹・おはつ)で、家康の3男だる秀忠の妻が浅井長政の三女お江であることから、秀吉の死後は家康に急接近。

そうして家康の東軍に参加することになるのでした。

7月29日 三成 伏見に到着
家康の武将 鳥居元忠のいる伏見城を攻めるべく石田三成も伏見へ出馬。

猛攻撃を仕掛けました。
西軍 伏見城 攻略
西軍の伏見城攻略は続いていました。

7月19日に三成からの使者を殺し遺体を送り返すとすぐさま4万の大軍がやってきました。

その顔ぶれはというと 島津義弘・宇喜田秀家・小早川秀秋・立花宗茂・鍋島勝茂・毛利秀元らです。

城を守ってるのはわずか1800人でした。

この日元忠は1800人の兵にむかって「当家は主君より預った城を明け渡す方法など知らぬということを世に知らしめようぞ!」と酒盛りをし、士気を高めました。

攻撃は20日より始まりました。

1800人は22倍の兵に攻められながらも、実によく戦いました。

29日には三成が陣中見舞いにやってきて西軍も士気が高まりました。

なんとか伏見城を死守していた元忠ですが、とうとう西軍の突破口が見つかったのです。
7月30日 長束正家の謀略 甲賀衆を内応させる
最後までどっちにつこうか考えていた長束正家でしたが、まわりはみんな西軍。

迷いに迷った挙句、とうとう西軍につくことを決め、伏見城攻略の手伝いをするべく優秀な頭脳をフル回転させはじめたのです。

長束正家は、自分の所領である甲賀(滋賀県)の旗が伏見城内にあるのを見つけました。

すると、甲賀の兵らに「城内の甲賀者に告げる!おぬしらの甲賀にいる妻子は捕らえた!このまま抵抗すれば妻子を磔にするぞ!しかし、わが軍にくだり、伏見城内に放火をすれば、妻子の命を助けるばかりか、多くの褒美を与えよう」と脅したのです。

甲賀の人々は正直喜びました。

はっきりいって落城するのは時間の問題だったし、このまま殺されるしかないと思っていたのです。

それが放火すれば自分の命が助かるどころか、妻子の命も助けてもらえて、その上褒美までもらえる。

山口宗助(そうすけ)ら甲賀衆は内応することを決意。

夜になると、火を放ち、城内に長束隊を招きいれたのです。

これに城内は大パニック。

元忠は兵を叱咤激励し戦いましたが、長束隊に続き小早川秀秋隊が乱入してきました。
8月1日 伏見城落城 鳥居元忠自刃
この時、小早川秀秋は元忠のもとに使者を出しました。

「降伏した方がいい!ボクが何とか話すから!」

が、元忠の返事は「わしは命ある限り家康殿のために戦う!遠慮せずかかってこい!」というものでした。

そして言葉どおり、凄まじい戦いぶりを見せたのです。

寄せ手を3度も撃退し、自ら傷をつけまくりました。

が、兵の大半を失い、とうとう元忠は本丸へ逃げ込んだのです。

本丸へ逃げ込んだ時は、わずか10名ほどでした。

とうとう家康譜代の忠実な家臣・内藤家長が戦いの末戦死。

元忠はそれを見て、涙を浮かべながら次へとやってくる敵兵の中へ突っ込みました。

最後の最後まで戦い続けました。

そしてギリギリまで戦い、もはやこれまでと悟ると自ら首を突いて自害したのであります。

覚悟の討死とはいえ、凄まじいものでした。

元忠61歳 最後まで忠義を貫いた男でした。

ちなみに元忠の孫娘のそのまた孫が大石内蔵助であります。

また滝廉太郎が作曲した「箱根の山は天下の天♪」という「箱根八里」を作詞をしたのは元忠の子孫であります。

小早川秀秋「ボク、仕方なくやったんだヨ!」
伏見城が落城した後、すぐに小早川秀秋は家康に手紙を出しました。

「ほんとは攻撃したくなかったんだ!だけど仕方なかったんだ!」という内容の手紙を、黒田長政を通して家康に渡しました。

が、家康からの返事がなかなか来ない。

秀秋は「うわ・・・。怒ってるのかな・・・。どうしよう!!」と、イライラ・アセアセしまくり。

そのため「ボク、病気になった。だから当分戦えない」と、三成らに伝え、鷹狩などをして気を紛らわせていたのです。
8月5日 家康 江戸城へ戻る
7月26日に小山の陣を引き払った家康。

諸将を会津に向かわせ、江戸城に戻ってきました。

その途中でせっせと手紙を書きまくっていました。

5日に江戸に着き、その後26日間もの長い間江戸にとどまるのであります。

8月9日 三成 美濃垂井へ出陣
伏見城を落とした三成は、兵6000人を率いて美濃の垂井に到着しました。

垂井で大垣城主の伊藤盛正を説き伏せ、城を明け渡してもらうことに。

この頃、西軍の間では関が原付近が東軍との決戦場になるであろうと考えていました。
8月14日 東軍先鋒が清州に出陣
東軍の先鋒として家康に言われたのが浅野幸長・加藤嘉明・一柳直盛・福島正則・池田輝政・黒田長政田中吉政・山内一豊・有馬豊・井伊直政・本多忠勝らでした。

この時の東軍の拠点は福島正則のいる清州城。

諸将らは清州城に入り、家康の出馬を待ち受けていました。

が、なかなか家康が出馬したという情報が入ってこない。

19日に家康の使者がやってきた。

諸将らは「なぜ家康殿は出馬しないのか!?」と詰め寄りました。

すると使者は「家康殿は先鋒の諸将らが美濃に進軍し、家康に対する忠誠をみた上で江戸を出発しようとしているのであります」と言いました。

この使者の言葉にみんなビックリ。

家康の出馬があるまで自重してたのに、かえって家康から戦う気がほんとにあるのかどうか疑われていたのです。

家康からしてみれば、豊臣恩顧の大名である福島正則らが本当に自分のために戦う気があるのかどうか試したのでした。

これにはみんな発奮することになるのです。
この頃の上杉VS伊達・最上は??
最上義光は「上杉は手ごわい・・・。自分のとこに来られたら困るな」と、景勝の矛先を伊達に向けさせようとしました。

そして「ワシは上杉に対抗する気ないから」と言ってきたのです。

上杉は「ふん。身の保全をはかるためにご苦労なことだな。本心じゃなくせに」と、せせら笑いました。

同じく伊達政宗も、最初はやる気まんまんでしたが、家康が小山から去ったとあれば、景勝の軍事力は侮れない。

なんと景勝に講和を申し込んできたのです。

景勝はとりあえず戦術的講和をのむことに。

そしてその間に、続々と兵力を集結させたのです。
22日 東軍先鋒 岐阜城を攻略
東軍先鋒隊は美濃へ進軍しました。

そして狙いを定めたのが信長の孫である秀信(三法師)のいる岐阜城でした。

軍議を開き、22日に岐阜城へ。

翌日には総攻撃を仕掛けあっというまに秀信は降伏。

捕らえれられた秀信は「今日の憂き目はオレが不甲斐ないからだ・・・」と、涙しながら自刃しようとしました。

それを福島正則らに止められ、剃髪し高野山へ行かされちゃいました。

この頃、三成は大垣城にいました。

が、東軍が岐阜城を落とした後、大垣城に来ないで関ヶ原に放火したので「もしかしたら自分の城である佐和山城へ行くのでは?」と思いはじめました。

そして、26日に急遽佐和山城に戻りました。

同時に大阪城にいる毛利輝元へ出馬を促す使者を出し、大谷吉継には脇坂安治らの隊を率いて関ヶ原付近に来るようにと連絡を取ったのです。

8月24日 秀忠 関ヶ原へ向かう
家康三男秀忠は、宇都宮から中仙道を通り関ヶ原へ向かうことになりました。

この日、兄の結城秀康に見送られ、本田正信・榊原康政・酒井家次・牧野康成・大久保忠隣・真田信之(昌幸の長男)ら38000の大軍を率いて出陣しました。

23歳の秀忠にとって、気になっているのが上田城に立て籠もっている真田親子。

合戦経験の少ない秀忠でも、昌幸の謀略武略は聞いており、不気味な存在だったのです。
9月1日 家康江戸を出陣
はじめは26日に予定されていた家康の出馬は、上杉景勝を牽制するために9月3日に決定しました。

が、美濃では東軍先鋒の岐阜城攻撃など、事態が緊迫してきたため9月1日にあらためて決定しました。

32000人の兵を連れ江戸を出発。

その晩神奈川に到着し、2日藤沢 3日小田原 4日三島・・・そして11日に清州に到着するのです。
9月3日 秀忠 上田城に使者を出す
この日、秀忠軍は「9月1日に家康が出陣した」というニュースを聞きました。

そうと決まれば、早いトコ家康のもとへ向かいたい秀忠。

上田城にいる真田昌幸に使者を出すことに。

使者に選ばれたのは、昌幸の息子である信之と、信之のお嫁さんの兄である本多忠政でした。

秀忠は「息子と息子の嫁の兄に頼まれたら、諦めるだろ。なんてったって、こっちは10倍以上もの大軍だし」というものでした。

苦しい立場になったのは信之。

「まいったなぁ。こんな役目やりたくもないよ」と思ってましたが、とりあえず忠政と一緒に昌幸に会うことに。

すると昌幸は「ワシだってはっきりと西軍に入ったわけじゃないさ。秀忠殿に従うよ。明日、城を明け渡すからさ」と言いました。

信之は「あの父があんなアッサリ明け渡すわけないよなぁ」と思いつつも、秀忠にはそんなコト言えないので、ありのままを延べました。

秀忠はそれを聞くと「やっぱりオレの人選がよかったんだな!」と満足したのです。
9月4日 上田城の真田昌幸に激怒!
翌日、秀忠は城明け渡しの使者を昌幸のもとに送りました。

すると昌幸側から「考えたんだけど、やっぱりワシラは秀吉殿の恩が忘れらんないや。悪いが城は明け渡さん。どうか今すぐこの城を攻めてくださいな。こんな小さい城に手間ヒマもかかんないだろ?」とコバカにした感じで言って来たのです。

これに秀忠は神経を逆撫でされました!

「汚いぞ昌幸め!」と、激怒したのです。

「三成の策に乗せられ籠城しているが、もうすでに岐阜城は落ちたし、家康は東海道を、おれは中山道へ軍を進めてる。もはや三成が負けるのは時間の問題なので、さっさと降伏しろ!」と使者を出すと

昌幸は「一旦決めたことは、たとえ味方が負けそうでも義を捨てることはできん!秀頼殿のために戦うまで!この返答でお怒りならまずワシの城から攻め込め!」と返事を出したのであります。

さらに秀忠は「おぬしのは義ではない。秀頼はまだ幼いので、これは秀頼をタテに天下を操ろうとしている者の策略である。だからこそ秀吉恩顧の大名が徳川についているのではないか!」

すると昌幸「秀吉恩顧の大名が徳川についたのは、下心があるからじゃ!わしは秀吉に恩があるので、なんと言われようとも主君のために戦う。文句あるなら勝手に攻めろや!さっさとかかってこいや!」という返事を出しました。

秀忠はこの返事に激怒!

みごと昌幸の挑発にひっかかったのです。

昌幸は中央に秀忠率いる大軍を行かせないために、わざと挑発したのでした。

38000人もの大軍を素通りさせるわけには行かなかったのです。

若い秀忠はプライドを傷つけられ、軍議を開き、やんなくていい上田城を攻めることにしちゃったのです。
9月5日 幸村「兄上とは戦いたくない」
秀忠は、まず最初に信之に伊勢山城攻略を命じました。

この城にいたのは弟の真田幸村。

軍旗を見た瞬間「こりゃまいったなぁ。兄上が来たのかぁ。オレ、兄弟合戦したくないんだよね」と、さっさと上田城に戻っていったのです。

幸村は父の昌幸に「兄弟合戦だけはするな」と言われていたのでした。

こうして秀忠は信之に伊勢山城を守らせ、上田城を狙うことに。
9月6日 秀忠 真田親子に翻弄されまくる
榊原康政は「真田は老練な奴なので、用心した方がいい」と秀忠に忠告していました。

秀忠もわかってるよ!と、攻撃命令を出すチャンスをうかがっていました。

昌幸からしてみれば、一気に秀忠軍が来てくれたほうが作戦上有利でした。

ということで、昌幸父子が50騎ばかりで様子を見にくるフリをして、挑発しにやってきたのです。

秀忠は昌幸らがやってくるのを見て、何か企んでるな・・・と思っていました。

が、あまりにも近くにやってきたのでカチンときてしまったのです。

秀忠は家臣に命じて「追い払え!」鉄砲を撃ちましたが、そ知らぬ顔で昌幸は引き返したのです。

逃げていく昌幸を見て、牧野忠政は若いせいもありじっとしていられなかった。

軍旗違反とわかっていつつも、追撃してしまったのです。

案の定、伏兵が現れ、一斉に牧野隊に襲い掛かってきたのです。

牧野隊は壊滅寸前になってしまいました。

牧野隊がボロボロになってくのを見た他の家臣たちも、命令が出てないのに突撃してしまいました。

ここまでくるとじっとしていられない大久保忠隣・本多忠政も駆けつけ、戦闘が開始されたのです。

すると真田兵が慌てて逃げていく。

秀忠軍は逃がすか!と上田城まで追い詰めた瞬間、城内が突然門を開き真田幸村率いる精鋭たちが突撃してきたのであります。

秀忠勢は散々に蹴散らされ大混乱に。

真田の策にまんまとはめられたのでした。

そして昌幸は頃合を見ると、鐘を鳴らし兵を城内へ戻したのです。

さらに、秀忠軍を挑発すべく、昌幸は手鼓で歌いだしたのです。

これを見た榊原康政は激怒!

本多正信も「勝手に突撃しやがって!」と、超激怒したのです。

9月7日 西軍主力が南宮山に布陣
家康出馬のニュースは西軍にも広まりました。

3日には大谷吉継が関ヶ原の南にある山中村に到着。

この頃西軍の毛利・吉川・鍋島・龍造寺・長宗我部・長束・安国寺などは8月24日から始まっていた伊勢の安濃野城攻撃の大忙しだった。

少しづつ進軍してはいたものの、伊勢の平定がすまないうちに家康出馬のニュース。

宇喜田秀家はこのまま伊勢にいることは不利だ!と判断し9/3に兵を率いて大垣城へ入ったのです。

7日には伊勢にいた大軍も全て美濃に入り、関ヶ原近くまでやってきました。

8日には三成も佐和山城を出て大垣城へ入るのです。

こうして続々と主力が集まってきたのです。

9月8日 秀忠 悔しいけど上田攻めを諦める
秀忠勢の怒りはヒートアップしていました。

が、まごまごしていたら関ヶ原に間に合わない。

一度は上田城を力攻めにしよう!と決まったんだけど、本多正信が「関ヶ原に間に合わなくなる!」と大反対しました。

しかたなく、上田城攻略をあきらめることに。

しかも本多正信は、「いつ真田勢が攻めてくるかわからないので、本道を避けていきましょう」という用心ぶり。

榊原康政は本多正信のやり方に怒り「真田なんてたいしたことない!攻めてきたら踏み潰せばいい!」と一人本道で進んでいくことに。

秀忠は悔しさをたっぷり残して上田を後にするのでした。

9月13日 家康 岐阜へ着陣する
11日に清州に到着した家康。

が、11日の強行軍でお疲れのため体調を悪くして一休み。

秀忠がいつまでたってもやってこないのも気になってたらしい。

東軍先鋒隊は1ヶ月も先に来てるので、これ以上待たすと味方の士気も下がるかも・・・と心配し、秀忠到着を待たずに13日 岐阜へ着陣しました。

ちなみにこの頃、黒田如水が九州で大友家と戦い、3日間の激闘の末破りました。
9月14日 家康 美濃岡山に着陣 合戦前夜
いよいよ合戦前日。

家康は稲葉貞通の先導で岡山(勝山)の頂上にある陣所に入りました。

そして軍議を開くのです。

三成のいる大垣城には押さえの兵をおいておくだけにして、佐和山城を抜き大阪城を攻める!と発表しました。

この作戦は野戦の得意な家康が、三成を関が原におびき出すためにわざと流させました。

大垣城はそんなに堅城ではないけど、西軍主力が集まってるため落としにくかったのです。

なので、わざと情報を流して三成を外におびき出すという「おびき出し作戦」を決行したのでした。

ちなみにこの「おびき出し作戦」は、三方ケ原の戦いの時に信玄にやられたのと同じような作戦。

西軍も軍議を開いていました。

島津義弘は「夜襲で一気に家康の本陣を襲うべきだ!」と主張。

が、三成はその意見を却下するのです。

百戦錬磨の武将義弘は、この時三成に対してむかつきまくることに。

三成としは「正々堂々と勝ちたい」という思いだったのです。

あーだこーだ軍議している間に「家康が佐和山城を抜き、大阪城に攻撃をかける!」という情報が入ってきました。

これを聞いた三成は、大阪城に行ってしまったら秀頼殿が危ない!と、東軍を関ヶ原で食い止めなければ!と考え、急遽軍を関が原に移動させるのです。

まんまと家康の策にはまってしまったのでした。

夜の七時ごろ、三成は娘婿にわずかな兵を預け大垣城に残して4万の軍を率いて関が原へ。

この日は雨。

大垣城から関が原まで16キロの道のりを、たいまつを消し、馬の口を縛り息を潜めながら泥道を進むのでした。

この日小早川秀秋も到着しましたが、三成に会いに行かずそのまま松尾山に登ってしまいました。
9月15日 午前1時 西軍主力 関が原へ到着
西軍は関が原に進んでいました。

三成は途中で長束正家・安国寺恵瓊に会いにいき、最終的な打ち合わせをしました。

その後、松尾山に登り小早川秀秋の老臣 平岡頼勝に会いに行きました。

三成の心の中には「秀秋はもしかしたら寝返るかもしれない・・・」という不安があったのです。

そして平岡頼勝に作戦内容を打ち明け、狼煙を合図に東軍側背を突くことを約束させるのでした。

その後三成は山中村に布陣している大谷吉継に会いに行き打ち合わせ。

自信は笹尾山に本陣を置きました。
午後2時 家康計画通りでニヤリ
午後2時 福島正則の使者が「西軍 関ヶ原に向けて移動中!」という情報を連絡してきました。

家康はその時寝ていましたが、それを聞くとガバっと起きて、すぐさま出陣命令を出しました。

全て家康の計画通りにコトが運んでいたのです。
午後3時 家康 出陣じゃーーー
家康の出陣命令を受けた諸将は続々と出発していきました。

先頭は福島正則隊と黒田長政隊。

これに続いて加藤嘉明隊・藤堂高虎隊・松平忠吉が向かいました。

ちなみに松平忠吉は家康の4男で、秀忠のすぐ下の弟。

秀忠が真田の上田城に手間取り、間に合わなかったため忠吉が先頭にいる隊の監督をするという役目になったのでした。

忠吉のサポート役は井伊直政です。

家康は最後尾にいました。
午後4時 西軍 関ヶ原に布陣完了!
三成の本陣の200メートル隣に、島津義弘・豊久ら1500人の兵が到着しました。

続いて小西行長が島津隊に並び到着。

その横に西軍殿軍として宇喜田秀家が陣を置きました。

ちなみに秀家が陣を置いたのが一番遅くって、午後5時くらいです。

また秀家が布陣した頃、東軍先鋒の福島正則隊がちょうど関ヶ原に軍を進めていて、宇喜田隊最後尾と福島隊前衛が小競り合いをしました。

これはすぐに家康に報告され、すぐさま福島隊の進軍をストップさせました。

秀家の横に大谷吉継。そして脇坂安治。

脇坂の横の松尾山には昨日から布陣している小早川秀秋がいました。

南宮山には毛利秀元も布陣完了し、秀元の前には吉川広家が布陣しました。

その東側には安国寺恵瓊・長宗我部盛親・長束正家が到着。

南宮山だけで笹尾山本陣の三成よりはるかに兵は多かった。

三成は着陣してすぐに島左近・蒲生郷舎を前衛とし、臨時の砦を作るべく土木工事をしました。

三成の手元の兵力は6000。

三成の近くには、織田信高や秀頼の黄母衣(きほろ)衆ら2000人がいました。

東軍が佐和山城を抜き、大阪城へ行くのを食い止めるための陣形であります。

午前6時 東軍先鋒が関ヶ原に到着
宇喜田秀家が到着し、西軍の布陣は完了しました。

対する東軍は先鋒が福島正則。

福島正則は宇喜田秀家隊と対陣する形となりました。

福島隊のすぐ後ろには筒井定次・田中吉政・藤堂高虎・京極高知らが控えいていました。

三成のいる笹尾山に対する形となって布陣したのは細川忠興・黒田長政・加藤嘉明・竹中重門ら。

家康の四男忠吉は、井伊直政・本多忠勝に守られながら福島隊・黒田隊の間にいました。

以上のあたりが主戦部隊になります。

主戦部隊の後ろに、遊軍として織田有楽・金森長近らが控えその後ろの桃配山(ももくばり)に家康が本陣を構えたのです。

そして家康は、吉川広家と密約したものの用心のために毛利秀元の近くに山内一豊・池田輝政・浅野幸長。有馬豊らを配置しました。

東西布陣が終了した頃、黒田長政家臣の毛屋主人(けやもんど)は家康に向かって「敵は二万に過ぎず」と言ったのです。
午前7時 東西両軍 嵐の前の静けさ
夜中ずっと降り続いていた雨が夜明けとともに上がってきました。

そして霧が出てきたのであります。

東軍の先鋒は福島正則と軍議で決まっていました。

憎き三成への思いが家康に買われ、東軍先鋒隊の中心として働いていました。

が、この正則の働きに家康譜代の家臣らは不満が溜まっていたのです。

特に徳川四天王の本多忠勝・井伊直政は家康に向かって「この戦いで福島ら豊臣恩顧の大名にばかり活躍させたら、戦い終わった後ヤツラがのさばりまくる!」と文句を言いました。

家康は直臣の意見を汲み取って、本多忠勝・井伊直政を先鋒隊に入れ、最前線へ送り込んだのです。

それでも井伊直政は不満タラタラ。

「この戦いは、なんとしても家康の直臣である自分達が先に出て勝負しなければならない!」と感じていたのでした。
午前8時 天下分け目の戦い戦闘開始!
霧も晴れはじめ、しだいに視界が広がってきました。

井伊直政は、家康四男松平忠吉と選りすぐりの部下10名をつれて先鋒福島正則隊を通り抜けようとしました。

すると正則隊の可児才蔵(かにさいぞう)がそれに気がつき「先鋒は我らと家康殿に言われている!抜け駆けは許さん!」と注意しました。

すると井伊直政は
「何を言う!家康殿の四男忠吉殿は初陣なので、先陣の戦いの激しさを勉強させるために偵察に行くのだ!」と言いました。

可児才蔵も忠吉の名前を出され、ちょっと気後れしてしまい、それ以上阻止することができずに、井伊直政は忠吉をつれて一番前にやってきました。

井伊直政は徳川直臣のプライドに賭けて、後で軍律違反と言われようともこの戦いの口火は我ら徳川が切りたかった。

直政は福島隊の前をすり抜け一番前にやってきて、そのまま宇喜田秀家隊に向かって鉄砲を撃ったのであります。

この様子を見ていた福島正則は、仕方なく「戦いの始まり」と判断して宇喜田隊に一斉射撃を命じたのであります。

これを合図に、黒田長政隊・石田三成隊・小西幸長隊から一斉に狼煙が上がりました。

最初のバトル!宇喜田秀家隊VS福島正則隊
この戦いの一番最初の衝突が宇喜田秀家隊VS福島正則隊でした。

そして一番の激戦だったのであります。

宇喜田隊先陣は明石全登(あかしてるずみ)対する福島隊先陣は可児才蔵。

福島隊が優勢でしたが、宇喜田隊も負けてはおらず、何度も押し返すという激戦が繰り広げられました。

宇喜田隊南の大谷吉継は、藤堂高虎・京極高知とバトルが始まり、宇喜田隊北側の小西行長は、織田有楽らとバトルしました。

井伊直政はというと、そのまま宇喜田秀家隊に攻撃せずに島津義弘らの押さえがないことに気がつき、矛先を島津へ向けました。

石田三成は黒田長政・細川忠興・加藤嘉昭とバトル。

三成隊 島左近撃たれる!
三成先陣は勇猛で有名な島左近でした。

対するは黒田隊で、その後ろには細川忠興らの隊がいました。

が、島左近はこれらの敵を翻弄しまくりました。

黒田隊は、「島左近へ正面攻撃をしてもダメだ!我らの被害が大きすぎる!」と、動揺しまくり。

そこへ黒田隊の菅六之助というものが、鉄砲隊を率いて左近らを捕らえる射程距離に兵を置いたのです。

これがなければ、黒田隊は壊滅していました。

この鉄砲隊はみごと左近の隊を直撃したのです。

島左近は柵を出て戦っていましたが、この鉄砲隊の銃弾が当たり、馬から落ちて負傷してしまいました。

それでも左近は手当てをるすと、「ワシが戦わねば!」と、再度戦場へ向かっていったのです。

西軍にとって、この島左近の負傷は心理的にマイナスになってしまうのです。
午前9時 石田三成隊崩れる
前線は修羅場と化していました。

宇喜田VS福島
大谷VS藤堂
石田VS黒田
小西VS寺田

と、すべて一進一退の戦いでした。

が、三成隊の主力である島左近が負傷し、三成隊のもう一人の主力である蒲生郷舎が、細川・黒田を押さえ踏ん張っていました。

傷の手当てをした島左近が戻ってきて、手勢100にを連れ討って出ました。

そしてそのまま戦乱の中、消えてしまったのです。

この時の島左近の戦いぶりは後々まで語り草となりました。

黒田長政の家臣達は、誰一人左近の着ていた軍装を覚えていないのです。

「あの時の鬼神のような島左近の声が耳にはりついて離れない・・・。今思い出すだけで身の毛がよだつ」と語っているのに、軍装は誰一人覚えてなかったのでした。

あまりの左近の恐ろしさに、「目の魂を失ってしまった」と、語り合ったそうです。

東軍VS西軍 必死の戦い
島左近の死により、三成隊の第一線が崩されてしまいました。

三成は、自ら陣頭に立ち指揮をとったのであります。

三成隊の強さはものすごいものでした。

が、東軍が全力で戦っているのに比べ、西軍は三成・宇喜田秀家・小西行長・大谷吉継の兵のみ。

残りの西軍の兵は、ただ静に見守っていただけなのです・・・・。
家康 イライラしまくる
敵は二万・・・と思っていた家康ですが、西軍の予想外の善戦に苛立ちを隠せませんでした。

いらだった時の癖であるツメをギリギリと噛み、いらいらしながら周囲に当り散らしていました。

そこへ家康に飛び込んできたニュースは、宇喜田隊が福島隊を退却させたが、小西隊と戦っていた寺沢隊が小西隊の前線を打ち破り、福島隊の応援に駆けつけたというニュース。

家康は、毛利・吉川が動かないだろうと読み、毛利牽制のために残しておいた山内一豊と有馬豊に主戦場へ応援に行くよう命じました。
午前11時 三成 総攻撃の狼煙を上げるが・・・
三成隊は黒田隊・細川隊の猛攻撃を受けまくっていた。

三成は隣に布陣している島津へ援助を求めるため、家臣の八十島(やそじま)助左衛門を島津義弘のもとに派遣しました。

が、八十島が馬に乗ったまま三成の指令を伝えたため、島津の武将らは怒ってそのまま追い返してしまったのです。。

焦った三成は、仕方なく自ら島津の陣地へ向かい、島津隊の前衛である義弘の甥 島津豊久に面会を求め参戦をお願いしました。

ですが前日大垣城の軍議で、島津の意見を三成に却下されたため、三成のために全力を挙げて戦おうという気がなくなっていた島津豊久は「自らの敵で手がいっぱいなので、応援に行けない。勝負は天の定めるところじゃ」と断ったのでした。

三成は、毛利・吉川・長宗我部・小早川が動かないことにも疑念を抱き始め、島津に断られた後すぐに狼煙を上げました。

この狼煙で、小早川・毛利秀元らが動く手はずになっていたのです。

今の状況は、やや東軍が押して入るものの毛利・吉川・長宗我部・小早川が一気に東軍に攻め込めば東軍は崩れることは明白でした。

松尾山・南宮山の隊が動くことによって、関ヶ原の勝敗を左右するのでした。
狼煙を見た毛利秀元
秀元は毛利輝元の養子です。

小早川秀秋が養子に来るトコを小早川隆景によって「毛利の血」を組む秀元が毛利家に入ったのでした。

義父の輝元は大阪城に留まっていたので、毛利家の総帥として関ヶ原に出陣したのでした。

笹尾山からの狼煙を見て、毛利秀元のもとに長束正家の使者が援助してくれとやってきました。

秀元は「よし!そろそろオレらの出番だぜ!」と、それに応じようと兵を動かそうとしました。

が、秀元の前にいる吉川隊が動こうとせず、兵を進められなかったのです!

毛利家安泰のために! 吉川広家
狼煙があがり、いきり立つ22歳の毛利秀元の前を押さえつけたのが吉川隊でした。

安国寺恵瓊がやってきて、出陣を要請しましたが
「我は大垣城近くで東軍と戦う約束だった。関ヶ原で戦いをするという話は聞いておらん!関ヶ原で戦うと決定した軍議の場に、毛利一族は誰も出席しておらん!」と反論したのです。

安国寺恵瓊は何度もおねがいしました。

広家は黒田長政を通して、井伊直政・本多忠勝との間に今回参戦しない代わりに、輝元を助け毛利の所領を安泰してくれという誓約書を取り交わしたのでした。

輝元・秀元の2人は、この裏取引を知らされていませんでした。

総攻撃の狼煙が上がったので、秀元は前に進もうとしましたが、広家が前で毛利の兵を出させぬようふんばっており、とうとう兵を進めることができかったのです。

そしてこの様子を見て、長束隊・安国寺隊・長宗我部隊も兵を挟まれ、安易に兵を動かすことができなくなってしまったのです。
焦る三成 使者を出しまくる!
西軍の三分の二が静観している中、三成は焦っていました。

集中攻撃を受けている三成隊を見かねて島津へ援軍を要請したものの断られ、毛利・吉川らは動かない。

三成は南宮山にいる兵をあきらめ、松尾山の小早川秀秋に向かって再び狼煙を上げたのです。
悩める小早川秀秋
戦いの始まる前、秀秋家老のもとに三成がやってきて、狼煙を合図に総攻撃の約束をした小早川秀秋。

三成からの条件は秀頼が15歳になるまで秀秋を関白に任ずるというものでした。

が、その一方で家康からの手も延びていたのです。工作に当たったのは黒田長政で、秀秋に「もし寝返ったら2カ国をあげる」と言いました。

秀秋にとってこちらも魅力でした。

この誓約書は両方とも9月14日で、秀秋は最後の最後までどっちにつくか悩みまくっていたのです。

松尾山から戦況を見ていた秀秋。

宇喜田隊が福島隊を後退させており、秀秋の心は揺れまくっていた。

3倍近い敵を相手に善戦している西軍。

ここに自分の隊が入れば、西軍は勝利するかもしれない・・・。

次々とやってくる三成や大谷吉継の使者。

いつまでもぐずぐずしている訳にはいかない。

だが、どちらにつけばいいのか???

そして我慢できない男がもう一人いました。徳川家康であります。

一度目の狼煙で秀秋が兵を動かさなかったことで安心していたのもつかの間、今度は秀秋がいつまでたっても兵を動かさない。

西軍の予想外の善戦。

もし秀秋が西軍についてしまったら、東軍は負けてしまうかもしれない。

あんなバカにこのオレの首がかかってるかと思うと、我慢できなかった。

家康は家臣を呼びつけ、黒田長政のもとに行かせた。

そして「お前は本当に秀秋の裏切りを確約したのか!?」と確かめたのであります。

ですが、黒田隊も三成隊と必死に戦っており「戦の前の事前工作を今更攻められても困る!今は目の前にいる敵を倒すことに精一杯なんじゃ!」と怒鳴り返される始末。

なんとしてもあのバカ青二才を動かさねばならぬ!!!

家康は一か八かの賭けに出ることにしたのです。
午後12時 秀秋寝返り  大谷吉継隊を攻撃!
家康は秀秋のいる松尾山の陣に向け、一斉射撃をしたのでした。

弱気な秀秋はこれにおびえて約束どおり裏切るか、それとも恐怖心にかられ東軍に襲い掛かってくるか・・・家康にとっても賭けでした。

一斉射撃後、しばしの沈黙があった。

秀秋は、この一斉射撃におびえ「大谷吉継を討てぇーーー!」と叫んでしまったのです。

この時、大谷吉継は輿に乗って、藤堂隊・京極隊と死闘を繰り広げていました。

秀吉からもその戦の才能を認められていた吉継の采配は素晴らしく、兵力は圧倒的に少ないのに、藤堂隊・京極隊を押していました。

吉継は「さぁ!皆の者!あと一息だぞ!」と、掛け声をかけていたその瞬間!

秀秋隊15000人が突如として大谷吉継隊へ突撃してきたのです。

家康の賭けは見事的中したのでした。
大谷隊壊滅!
吉継は、秀秋の裏切りを予想していました。

秀秋隊が襲いかかってくることを読んでおり、自分の兵である脇坂・朽木・小川・赤座の四隊を秀秋の攻撃に対し温存していました。

素晴らしい采配で、なんと小早川勢を跳ね返したのです。

その隙を突いて、藤堂・京極隊もやってきました。

さすがの吉継隊も、20倍以上の敵を相手にしているので、疲労の色が見えてき始めました。

が!ここでなんと温存していた脇坂・朽木・小川・赤座の四隊が東軍に寝返ったのです!

この四隊が大谷隊を裏切り、攻撃してきたのでした。

吉継は「なぜヤツラが・・・」と絶望を隠せませんでした。

そして脇坂隊が吉継隊を攻撃し、とうとう吉継隊は壊滅となったのです・・・。

知将・大谷吉継自刃
壊滅となった吉継隊。

家臣の湯浅五郎が「相次ぐ裏切りにより、わが隊は壊滅状態でございます!半分以上の兵が死に絶えました!もはや戦いの続行は不可能でございます!」

吉継は「そうか・・・。もはやこれまでか・・・」と、無念極まりない表情で声を出しました。

そして湯浅五郎に「皆に逃げろと伝えろ。そしてお前にお願いがある。ワシは生きていても仕方がない。ここで自刃して果てる。だが、ワシのこの醜い顔を晒されるのは絶えられぬ恥辱じゃ。ワシの首を人目につかぬよう埋めてくれ」と言いました。

そして潔く自刃を遂げたのです。

吉継42歳でした。
午後1時 西軍の敗走が始まる
昼頃までは五分五分で戦っていた西軍。

ですが小早川秀秋の裏切りにより、大谷隊が壊滅したころから西軍の敗色が濃厚になってきました。

そして西軍にいた兵が、東軍に属している一族や縁者を頼りに、東軍へどんどん寝返っていったのです。

西軍は秀秋の裏切りと大谷隊の壊滅により、士気が下がりまくりました。

そしてそれまで互角に戦っていた小西隊が信じられないくらいあっけなく壊滅したのです。

小西行長は裏にある伊吹山へ逃走していきました。

そして福島隊と激戦を繰り広げていた宇喜田隊も崩れました。

秀秋の裏切りを知った宇喜田秀家は烈火のごとく怒り「秀秋を殺してオレも死ぬ!!」と単独で敵中へ突っ込もうとしました。

それを家臣の明石全澄がなんとか押しとどめ、逃走させました。

そして最後の最後まで戦っていた石田三成隊。

黒田・田中・細川の攻撃を一身に受けていましたが、続々と新手が加わり、さらに小西・宇喜田の敗走を見て、兵らは逃走し始めました。

家臣の蒲生郷舎が「殿!お逃げ下さい!殿さえ生きていれば再興の道もありましょう!私が敵を引きつけている隙にどうか!」と叫びました。

三成は涙を流しながら、伊吹山へ脱出したのです。

蒲生郷舎は壮絶な死を遂げました・・・・。
午後2時 島津隊 敵のど真ん中へ!
三成隊が敗走してしまい、戦場真っ只中に残されてしまった島津隊。

最初から最後まで傍観していましたが、勝敗が決定した時点で何事もなしで済まされるわけにはいかなかった。

そして東軍の矛先は、残された島津隊に向けられたのです。

背後は伊吹山、左右と前方に東軍8万の兵。

真正面には家康の陣と八方ふさがりに。

もう島津隊は大慌て。

東軍に降伏するなど、薩摩武士のプライドが許さなかった。

薩摩では大将が討ちとられるということは「最大の恥」とされていたのです。

義弘は潔く戦って死ぬことを考えましたが、甥の豊久が大反対。

だったら最初から戦ってれば・・・・と、管理人は悔やまれてなりません(西軍派なので)

そして1500人の兵で敵中突破という、意表をついた作戦を考えたのです。

真正面には井伊直政・本多忠勝ら家康の本隊が立ちはだかっていました。

島津軍は隊列を組み、「エイトウ、エイトウ」と家康本陣に向かって突き進んできたのです。

これには東軍ビックリ!

普通「戦線離脱」といえば後ろに退却ですが、まさか真正面を退却ルートに選ぶとは、さすがの家康も思っていなかったのです。

島津軍は一丸となり、真正面にいる福島正則の軍へ!

これに対して正則はあえて反撃しませんでした。

「もはや東軍の勝利は間違いないし、わしの武功も十分だ。これ以上兵を消耗させたくない」というものでした。

次に待ち構えていたのは、井伊・本多隊。

この二つの隊は「ここで義弘をしとめなければ、徳川の名がすたる!」と執拗に追撃してたのです。

島津軍は必死で駆け抜けました。

なんとか切り抜けた時は、200人を残すのみ。

この時の殿軍(しんがり)は豊久。

井伊・本多は執拗に殿軍の豊久を追撃し、豊久はとうとう討死。

さらに義弘を追撃するも、島津軍は必死。

あちこちで影武者が「我は島津義弘なり!」といいつつ、死にもの狂いで攻撃。

ステガマリ戦法(最後尾の武将が死ぬまで戦い、時間稼ぎする)で井伊直政が負傷。

これでなんとか逃げ切れたのです。
午後3時 西軍大名落ちまくり
そして、西軍敗報は南宮山にも伝わりました。

吉川隊のせいで動けずにいた長束・安国寺・長宗我部屋は、それぞれ伊勢へ落ちていったのです。

午後3時を回った頃には、西軍は関ヶ原から姿を消したのであります。
午後5時 家康 首実検を行う
日本史上、最大の戦いが終わりました。

家康のもとに、続々と東軍の武将が詰め寄りました。

真っ先に家康の前に進み出たのは黒田長政。

三成隊と真正面から戦い、寝返り工作の労を称えたのです。

そして小早川秀秋は、最後までぐずぐずしていたので家康に怒られる・・・といつまでたっても姿を現しませんでした。

家康は使者を使わせ、秀秋を招き入れました。

すると秀秋が「三成の佐和山城攻めの先鋒をやりたい」と言い出しました。

これは秀秋の保身でしたが、それにつられて脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠が我も我もと進み出ました。

西軍大谷隊にいながらも寝返ったため、自ら佐和山城攻めをすることによって、少しでも立場をよくしたいと思ったのでした。
9月17日 東軍 佐和山城へ攻撃開始
西軍寝返り組は、自分の保身のため佐和山城を攻めました。

兵が一気に攻め上がり、城内は混乱し三成の父・兄ら一族全て自害したのであります。

この時、太閤秀吉の寵臣としてさぞかし城の中は豪華絢爛でお宝が沢山あるだろうと、攻め込む兵はワクワクしていました。

が、城は板張りや荒壁で、あまりの質素さにみな驚きました。

三成は、主君から頂いた者を自分の私利私欲のために使わず秀吉のために使うのだ。と常日頃言っていたのであります。
9月18日 島津義弘 無事逃げる
なんとか逃げ切った島津義弘。

1500人の兵もわずか80名。

無事に逃げ延びましたが、ここにきてとんでもない出来事にあってしまいました。

西軍にいた立花宗茂と、島津義弘が途中で出会ってしまったのです。

立花宗茂の父である高橋紹運は、島津義弘に敗れ殺されたのでした。

へとへとになって歩いている島津隊を見つけた立花家臣は「いまこそ仇を討つ絶好のチャンスです!」と言いました。

ですが宗茂は「窮地に陥っている者を狙うなど、武士のすることではない。ましてや同じ西軍にいた同志ではないか」と家臣を叱り、島津義弘に使者を出したのです。

「ワシは遺恨はもうない。お互い助け合いながら無事に帰国しようではないか」

心身ともに疲れきっていた義弘はこの申し出に感謝し、「もし東軍によって籠城を余儀なくされたときはこの島津義弘、必ず援軍をお出しします」と約束したのでした。

9月19日 小西行長 捕らえられる
伊吹山へ逃げた小西行長は、カトリック信者のため自殺ができませんでした。

9月19日糟賀部村の寺の僧と林蔵主という関ヶ原の住人に自ら名前を告げ、進んで捕らえられました。

林蔵主(りんぞうす)は褒美に黄金10枚もらいました。

21日には福島正則によって、居城宇土城を包囲されました。
三成の逃亡
三成は、「万一負けたときは大阪城に戻り、もう一度家康と戦う」という計画をたてていました。

大谷吉継が死んだ情報は知っていましたが、小西行長・宇喜田秀家の情報は全く知りませんでした。

三成に従って逃げたのは20名ほどでした。

9月16日  三成ら落人一行は雨でびしょぬれの中、なんとか大坂城へたどり着くべく歩き続けました。

ちなみに、伊吹山は三成の所領です。

ですがここにきて三成は雨で濡れた寒さと、過度な神経の使いすぎ・不眠などから、下痢となってしまったのです。

三成は家臣に背負われて歩きました・・・。

翌日三成は家臣らに「みな、悪かった。もうここまでで充分じゃ。あとはワシ1人で大丈夫なので、みんな逃げてくれ」と言いました。

家臣らは「何を言うのです!我らはどこまでもお供いたします!」と、言いましたが、三成は「この人数で歩いていれば見つかるのも時間の問題じゃ。ここはワシの領地だから大丈夫じゃ」といい、彼らに残っている小判を与えました。

それでも側近の3人(塩野清介・渡辺勘平・磯野平三郎)らは「なんと言われようと付いていく!」と、言い張り、4人で落人行を続けました。

が、三成の下痢はひどくなる一方。

一行は高時村に到着し、そこの岩窟に隠れることに。

そしてこの村の農民らに食事を運んでくれるようお願いしました。

三成は良い政治をしていたので、農民らは三成を匿うことにしたのです。
家康 大規模な山狩りを命令!
家康は、逃げて行った西軍首謀者を捕まえることを厳命していました。

伊吹山を中心に大掛かりや山狩りをしたのです。

家康が出した触れの内容は「石田三成・宇喜田秀家・島津義弘を捕らえた者は年貢を永久に免除する。また、殺した場合は褒美として金子(きんす)100枚を与える。が、隠したヤツラは本人以外にも親戚・その村の住人全員に厳しい罰を与える」

このお触れにビックリしたのが三成を匿っている村の人々でした。

「三成殿を匿っていることがバレたら、村の一大事だ!三成殿を差し出そう!」ということになってしまったのです。

この話しを聞いた三成は「迷惑をかけるわけにはいかない。ワシを差し出せ」と言い、田中吉政のもとへ訴えるように言ったのです。

ちなみに、三成を差し出したこの村にはこんな言い伝えがあります。

・種まきは午前中にしない(三成が捕らえられたのが午前中なので、午前中に種まきをすると、育たない)

・下痢にならないように、韮のオジヤを夏に食べる(田中吉政が与えたので)

・この村の味噌汁は沈殿する(三成が最後に口にしたのが味噌汁。その悲しみのため)
9月21日 石田三成 捕らえられる
捕らえられた三成。

捕らえた方の田中吉正は、かつて三成のおかげで秀吉に取り立てられた人でした。

下痢で動けない三成に、ニラ雑炊を与えて手厚く看護しました。

三成も捕らえられた身でありながら、以前のように「田兵(たひょう)」と呼び、捕らえられた期間を過ごしたのです。
9月23日 毛利輝元 大阪城を退去

大阪城にいた輝元は、関ヶ原の西軍敗戦のニュースを聞きビックリ!

このまま大阪城で籠城するか!という意見も出ましたが、輝元は悩んでいました。

家康にとって、堅城大阪城に籠城されたらめちゃくちゃ大変だし、秀頼を擁護されて徹底抗戦されたら、豊臣恩顧の大名が黙っちゃいないのでなんとしてでも、輝元を大阪城から出さなければなりませんでした。

養子の秀元が徹底抗戦を!と唱えましたが、吉川広家の内通もあり、さらに黒田長政・福島正則を通じて家康から毛利家に対して所領安堵するという条件がきたので、和議に応じました。

輝元も、援軍の見込みのない戦いをしてもダメだろうな・・・という気持ちもあったのです。

そして27日に、家康が大阪城へ入るのでした。

9月23日 安国寺恵瓊 捕らえられる
伊吹山の落ち武者狩りをすりぬけて、京都に潜伏してたい安国寺恵瓊ですが、とうとう捕まってしまいました。

宇喜田秀家・長宗我部盛親・島津義弘は逃がしてしまったものの、首謀者格の3人を捕らえたことで、家康は大満足しました。

三成らは諸将の前につれてこられました。

そこで小早川秀秋の姿を見つけた三成は「国中にお前ほどの卑怯者があろうか!」と散々罵り、秀秋は恐れおののき口も聞けませんでした。
10月1日 三成ら六条河原にて処刑
処刑の日。

馬上から福島正則が三成を侮辱しました。

すると三成は「貴様を討てなかったとは、ワシも天運に見放されたもんだわい」と応酬しました。

黒田長政は馬から下りて、自分の着ていて羽織を脱ぎ、三成に着せ姿を消しました。

3人は汚れた服だったので、家康が新しい服を渡した。

小西行長と安国寺恵瓊は、家康の好意に感謝しました。

三成が「誰からの品か?」と聞くと、二人は「上様(家康)からです」と答えた。

すると三成、「上様は家康ではなく秀頼だ!」と怒り、お礼も言わずにいたのです。

そして3人は洛中を引き回された後、六条河原で処刑。

最後に三成は「喉が渇いた」と白湯を所望しましたたが、警護の兵が「白湯はない干し柿で我慢しろ」と干し柿を与えました。

すると三成「干し柿は痰の毒なのでいらん」と言うと、兵らは「今から死ぬ奴が何をいう」と大笑い。

「ばか者どもめ。大義を思う者は死の直前まで命を大事にするのだ!」と言ったといいます。

小西行長の死はローマ法王にまで伝わりました。

行長は家族宛に遺書を書いており「今回不意の事件に遭遇し、苦しみは書面には書きつくせない。今後、お前たちは神に仕えるように心がけてくれ」妻のドンナ・ジェスタは、家康から許され生かされたといわれています。

そして六条河原には処刑を見ようと、群衆が集まり、ここで3人は首をはねられ、その首は三条大橋にさらされたのであります。

これにて戦後処理を残し、関ヶ原の戦いが幕を閉じたのです・・・・。

ハガクレの関ヶ原合戦の感想
くぅーーー!悔しいです!

三成ファンのハガクレは、西軍に勝って欲しかったです。(別に家康が嫌いってワケじゃないんだけどね)

「なんで伊吹山に逃げた後、下痢になっちゃうのよー!丈夫でさえあったら、無事に大阪城にたどり着いて毛利輝元と話し合って再度家康に挑戦できたのに!」

「秀頼を守る!そのためには正々堂々と家康を真正面からやっつけなければならない!なんて思わなくていいんだよー!三成は戦い方面はイマイチなんだから、戦い屋の島津義弘とか島左近の言うことをもうちょっと聞けばよかったのにぃー!」

「ドイツ人のメッケル少佐(プロシア参謀総長の愛弟子・明治時代に日本の陸軍を近代化するため呼ばれた人)が、関ヶ原の布陣を見ただけで戦術上で西軍の勝利であると言い切ったくらい、布陣は完璧だったのに!なんでもっと、各武将たちと心を通わせとかなかったのヨー!」

「なんで秀頼を前に出さなかったのさ!秀頼さえ出してれば、豊臣恩顧の福島正則とか加藤清正は悩んだのにさぁー!大坂の陣の時もそうだけど、淀君ヤバイよー!」

「なんで前田利家、もうちょっと家康に釘ささなかったかなぁ?あんたくらいしか家康に対等に渡り合えるのいなかったんだからさぁー!利長じゃまだ無理なのわかってんじゃん!」

「吉川広家・・・。あんたのせいでみんなボロボロだよ・・・」

「さらに小早川秀秋・・・。仮にもモト秀吉の養子なんだからさぁ。頼むよ金吾ちゃん」

「宇喜田秀家!あんたサイコー!」

「大谷吉継!男の友情に涙させてもらいました!」
西軍 戦後処理
毛利輝元
大阪城に入った家康は、態度豹変させました。

「総大将となった責任は免れられんだろぉ?お咎めなしってのはムシが良すぎるんじゃないのー?」と、毛利家の所領8カ国を没収しました。

毛利家に残ったのは周防・長門の2カ国だけとなってしまいました。

さらに隠居を命じられ、剃髪し、その後73歳で死去。

なんとか毛利家を存続できたものの、巨大な領国はわずか36万石となってしまったのです。

この後始まる大阪の陣の時はすでに隠居生活。

かつての総大将はどのような思いでいたのでしょう。
吉川広家
輝元・秀元に内緒で内通し、なんとか毛利の所領を守ることができました。

が、最初の約束との違いに広家は自分のツメの甘さに愕然。

「所領安堵」のお墨付きは家康直筆のものではなく、井伊直正・本多忠勝の名だったため、家康は「ワシが書いたわけじゃないし。8カ国没収じゃあ」と言って来たのです。

広家はめちゃくちゃ焦って、抗議しまくりました。

が、すっとぼけられまくって、なんとか周防・長門の2カ国だけは安堵となったのです。

この結果に、輝元の養子である秀元はずっと広家を恨むことに。

「オレは戦う気だったのに!広家が前を陣取ってオレらを動かさないようにしたから何もできなかったじゃねーか!卑怯者めが!」と、広家に対し超激怒!

そして吉川家は毛利本家から徹底的に冷遇され、その冷遇は幕末まで続くのでした。
宇喜田秀家
なんとか逃げ切った秀家は、17000人の兵を連れていたにも関わらず最後にはわずか3名。

秀家は島津を頼り、身を寄せましたが、島津と徳川が和解したため、「迷惑はかけれない」と、家康の元へ出頭しました。

秀家の正室は前田利家の娘だったことから、前田・島津が助命嘆願しまくり。

首謀者でありながら、19歳と9歳の息子・そして11名の従者とともに1606年八丈島へ流されたのです。

そして八丈島で84歳 徳川三代将軍家光の時代まで長生きしたのです。

ある時、加藤清正の船が八丈島へ流れ着きました。

すると一人の老人が、荷物の中にある酒を欲しがったそうです。

船員が「やめて下さいヨー」と止めると、「この荷は誰のじゃ?」と聞きました。

船員らが「加藤清正殿でございます」と言うと、老人は目を細め「それなら少々もらってもよかろう」と、1本ではなく一樽持っていき、そして戻っていく船を寂しそうに見送ったそうです。

船は清正の元へ戻りました。

そして酒が一樽足りないことに気づいた清正。

船員は怒られるとビクビク。

八丈島にいた老人に持って行かれたと聞くと、清正は「その者の名前は?」聞きました。

船員が「たしか宇喜田秀家・・」と答えると、「そなたたちアッパレじゃ!よく一本でなく一樽渡してくれた!」と船員達にご褒美をあげたそうです。

息子らは島の娘と結婚。

島ではそれなりに特別扱いを受けて過ごしました。

一年ごとに前田家から米俵が送られる生活に。

ちなみに許されたのは明治時代になってから。

そして土地をもらって、やっと本土に戻ってくることができたのです。

小早川秀秋
勝敗を決める寝返りをしたことから、家康は約束どおり2カ国を与えました。

が、罪の意識にさいなまれて精神に異常をきたしてしまいました。

眠ると大谷吉継の霊が出てくると言い出したのです。

家臣にも恵まれていない秀秋は、頼れる人が全然おらず、ノイローゼ状態に。

世間からは裏切り者呼ばわりされ、周りは誰も助けてくれない・・・。

1602年 とうとう狂ったまま死亡。

21歳でした。そして小早川家はは断絶してしまうのでした。
長宗我部盛親
毛利家の近くに布陣していた盛親。

「毛利と同じように動けば間違いないだろう」と、関ヶ原で行われている激戦より、毛利の動きばかりを見てました。

吉川広家が裏切っているとも知らず、動かない毛利家にならって、傍観を決めこんでしまったのです。

そのため、敗色が濃くなってくると総崩れとなって逃げてしまいました。

慌てた盛親は、井伊直正に「家康殿へゴメンネの取次ぎをして!」とお願い。

うまくいきかけていたというのに、交渉中になんと兄を殺してしまったのです。

どうやら兄の津野親忠(つのちかただ)が、この機に城を乗っ取るという企てをしたという噂を聞いたらしい。

この津野親忠と仲が良かったのが、藤堂高虎だったため、すぐさま「兄殺し」が家康の耳に入っちゃいました。

家康は「元親の子とは思えぬ不義者じゃ!」と激怒。

なんと盛親は土佐を没収されてしまったのです。

関ヶ原では一度も戦っていない男の哀れな結果でした。

盛親は京都で隠居生活を送り、お金に困って「大岩裕夢(たいがんゆうむ)」という名前で寺子屋の師匠をする始末。

ずっと心の中で「こんなバカなことがあっていいのか?なんとしてでも長宗我部家を再興させなければ」という日々を送り、大坂の陣に突入していくのです。
島津義弘
とち狂ったかのような撤退作戦は、勇猛果敢な薩摩軍という印象を残し、日本中に広まりました。

薩摩に戻ってきた義弘を見た兄の義久は、残った兵の少なさと、変わり果てた兵達の姿を見て驚きまくり。

そして義弘に対し「家康殿につけと言ったのに、三成の西軍に加わるとは何事じゃ!このバカ者!!!」と激怒したのです。

義弘は責任を取らされ隠居し、忠恒が家督を継ぎました。

さっそく隣国である加藤清正がやってくることに備えて国境を固めました。

そして義弘は、忠恒に命じて最後まで戦った井伊直政に嘆願書を送ったのです。

島津に頼られたことで、気分を良くした井伊直政。

そして家康に対しても、家康の恩義は大事にしており、西軍へ加担せざるを得なかったことを説明し、島津に非はない!という強硬路線を変えることはありませんでした。

家康は「ムムム。生意気なヤツラめ!だけど、ワシが島津をやっつけに行ったら、その隙に何があるかわからんしな。あいつらは遠いから金もかかるしなぁー。戦うとなったら、ヤツラはどうせ徹底抗戦するだろう。そうなると少々めんどっちぃからな・・」

この頃、立花宗茂は徹底抗戦の構えを見せており、加藤・黒田の軍を打ち返し、さらに加藤・黒田から「お前を死なすのはもったいないから降伏してくれぇー」とお願いされ、軍事の才能をみせまくっていました。

家康から何度も「来い」と言われているのに無視しまくりの島津。

入ってくるニュースは「長宗我部家領地没収!」「上杉家領地没収!」などイヤなニュースばかり。

とうとう家康から最後通牒が来たと頃には、家康は根負けし、島津の所領を全て安堵したのです。

家康の考えは「くぅーー!粘っこいヤツラめ!さっさと上洛してこないから、所領没収の時期を逸してしまったではないか!今ここで島津の所領を没収したら、ヤツラは絶対反撃してくる。今日本最南端のトコまで戦いにいくことは、あまりにも危険じゃ!中央を手薄にすると、いつどこで三成みたいなヤツが出てくるかわからん。もうこの際、島津の所領は安堵してやろう」というものだったのです。

島津の粘り勝ちでした。

その後義弘は85歳まで生きました。

老いた義弘は食事を食べることも忘れるほどボケてきちゃいましたが、側近が戦場での鬨(とき)の声を「ワーッ」とあげると、すぐその声に反応したらしい。

ボケても戦国武将らしい義弘でした。
上杉景勝
西軍敗戦を聞き、もー景勝はビックリ!

まさか1日で勝敗が決定するとは思ってもみなかったのです。

「なんなんだよ!ワシの苦労はどうなるんじゃーーー!」と、腹をたてましたが、負けてしまったものは仕方ない。

ここで自分だけが家康に反抗しても、もはや無理。

関東管領の家柄というプライドをかなぐり捨て、ソッコーで重臣の本庄繁長(ほんじょうしげなが)に謝りに行かせました。

家康はコレにかなり気分をよくしました。

それに家康にとっても景勝は「三成をやっつける絶好のチャンスを作ってくれた人」

こうして景勝は、家康に臣従することを誓うことになったのです。

所領は会津・米沢120万石から米沢30万石へ。

これには家臣団から大ブーイング!

城明け渡しを拒否する家臣もチラホラいました。

こうして一気に四分の一の所領となった上杉家は財政難に!

家臣に与える領土もなくなってきましたが、家臣は誰一人上杉家を離れようとしませんでした。

景勝はその家臣団の気持ちに感激し、自分の領地も家臣に分配しました。

そのため景勝の居城は他の大名と比べ、かなり質素だったそうです。

そして上杉家は江戸時代の「貧乏大名」の代名詞となっていくのです。
直江兼続
西軍敗戦後、君主景勝を支えまくりました。

ほんとは死んでお詫びしなきゃいけないとこでしたが、生きて責任を果たすことを選んだのです。

家臣に与える所領がないため景勝同様、兼続も自分の領地を分配しました。

その後極度の財政苦にもめげず、領土経営に励みました。

その甲斐あってで30万石でありながら、実収入は50万石以上と言われるようになったのです。

後に伊達政宗と江戸城ですれ違った時、政宗が「60万石のワシに挨拶しないとは無礼な!」と咎めました。

すると兼続は「長年戦場でお目にかかってはいましたが、いつも後ろ姿ばかり(逃げる時)だったので、気がつきませんでした。正面から見るのは今日が始めててありますなぁ」と少しもひるまずに皮肉ったそうです。
真田昌幸
秀忠を翻弄しまくった昌幸。

こちらも1日で勝敗が決まってしまったことに驚きました。

秀忠は「昌幸を殺せ!あいつはオレ様を関ヶ原に遅参させた原因だぞぉー!」と言いました。

本来なら死罪のところを。東軍にいた昌幸の長男信之の懇願で幸村とともに流罪になったのです。

自分の仕事はきちんとやった昌幸。

勝ったはずなのに、西軍は負け。

「またいつの日か、采配をしたい・・・」と思う日々を過ごしました。

そして昌幸は軍才を、次男である息子の幸村に伝えていくのです・・・。

脇坂安治
寝返り組の中で、成功したのはこの人だけ。

赤座・朽木・小川らに加増はなく、脇坂のみうまくやって5万石ゲット。

その後、大阪の陣も頑張っちゃって、七本槍の中で最後まで幕末まで大名として残りました。

前田玄以
東軍に属していながら、三成挙兵を家康に知らせるなどして保身をはかったおかげで、所領安堵となりました。

合戦直前に中風が悪化し、危篤状態になったため合戦には参加しませんでした。

そして1602年 幕府が開かれる前に63歳で死去。
立花宗茂
関ヶ原では前哨戦ともいえる大津城攻撃をしていたため。不参加。

西軍の負けを聞くと、すぐさま大阪城へ向かい毛利輝元に徹底抗戦を説きましたが、輝元は煮えきらず、諦めて九州へ戻ることに。

戻ってからは、東軍に追撃され、居城柳川城は東軍に包囲されました。

が、追撃軍が朝鮮出兵でともに戦った加藤清正だったため、清正は無益な争いを避けたかった。

さらに同じく、追撃軍の黒田如水も武勇を惜しみ、攻撃せず降伏を勧めたのです。

清正は宗茂に「宗茂殿と家臣の命を助けるから降伏してくれ!」と、お願い。

宗茂も領内の民に大きな苦労をかけたくなく、降伏したのです。

城を明け渡す日、柳川の領民はこぞって駆けつけ、殿様のためなら命を惜しまない!と言い、城を明け渡すのを留まるよう泣き叫びました。

が、「気持ちは嬉しい。だがワシはそなたたちを巻き込みたくないために城を出るのだ」と言いました。

その後18人の従者を引き連れ、京都近辺で流浪生活を送ります。

その日の食べるものにも困るようになりましたが、従者は誰も宗茂の元を去ろうとしませんでした。

そんな宗茂の人柄の良さに密かに感服していた家康。

息子秀忠の相談相手になってくれ!とスカウトするのであります。

そして1620年 二代目将軍となった秀忠から旧領 柳川城主に命じられ、奇跡的なカムバックをしたのであります。

関ヶ原の敗戦武将でありながら返り咲いた宗茂は、1642年74歳のときに江戸で死去。

穏やかな死に顔だったそうです。

大谷吉継の息子たち
三成のために壮絶な死を遂げた吉継ですが、息子はやばかった。

長男・吉次は父と一緒に合戦当日戦場まで行きながら、やばくなると思うと逃げ帰ってしまったのです。

そして次男・頼継も同様、さっさかと逃げ帰ったのです。

父である吉継の戦死と2人の息子のコントラストがあまりにも大きくて、哀れさが余計増してしまいます。

その後、吉次は大阪の陣へ向かいます。
竹中重治
竹中半兵衛の息子です。

はじめは西軍に属してましたが、途中で黒田長政に東軍に入るよう説得されました。

父の半兵衛は黒田長政を助けた命の恩人だったため、長政は重治をどうにかして助けたいと思ったのです。

そして重治は、小西行長を捕らえたという功により竹中家は所領安堵となりました。

竹中家はその後明治維新まで存続。

そして半兵衛と官兵衛から始まった両家の仲も末永く続いたのです。
豊臣秀頼
関ヶ原の戦いに直接関係はないものの、戦後の秀頼は65万石という一大名に格下げされてしまいました。

織田秀信
秀信は高野山に行ってから、わずか26歳で死んでしまいます。

これにて織田の嫡系は断絶。

秀信は権力者の間の天下取りに利用されただけの、お気の毒な一生となりました。

信長さえ生きていれば、このような哀れな人生を送らずにすんだかもしれなかったのにね。
東軍 戦後処理
家康は西軍の大名の諸領632万石を没収。
改易されたのは88家。

減封された大名は93家。

全国石高の34%であります。

そしてこの没収地は功績のあった東軍大名へ配分されました。

ベストテンは
@結城秀康
A松平忠吉
B池田輝政
C前田利長
D黒田長政
E最上義光
F福島正則
G加藤清正
H田中吉政
I浅野幸長
徳川秀忠
徳川家の後継ぎでありながら、関ヶ原に遅れてしまうという大失態をしてしまった秀忠。

家康は激怒し、秀忠に会おうともしませんでした。

が、榊原康政が「全てはワシの責任です!」と、家康に直訴し、なんとか許してもらえました。
松平忠吉
家康の四男。

秀忠が遅れたおかげで井伊直政とともに先鋒で大活躍。

初陣であったにもかかわらず島津軍を追撃し、自らも島津の重臣を討ち取るなど華々しい戦功をあげ、家康を大喜びさせました。

そして52万石を与えられるのです。

が、2年後病気で死んでしまい、尾張松平家は断絶。

代わりに入ってきたのが家康9男の義直。

尾張徳川家となるのです。
榊原康政
秀忠が関ヶ原遅参となり、家康は秀忠に会おうともしない。

秀忠が好きだった康政は、ついに意を決して家康のもとへ。

そして「遅参は全てワシの責任でございます。」と涙を流し弁明した。

そして家康はとうとう怒りを解いたのです。

秀忠は康政の行いに非常に感謝し「わが家が続く限り、子々孫々にいたるまでそなたの行動は忘れない」と書にしたため康政に送りました。

康政治は論考賞として水戸25万石を家康から与えられましたが、秀忠遅参の責任を取り辞退したのです。
黒田如水
関ヶ原が1日で終わってしまったことは如水にとって予想外でした。

長期戦になるだろうと如水は思っていたのです。

しかも、自分の息子が活躍しまくったことに激怒。

長政が誇らしげに「家康に褒められた!」と報告しに来ましたが、如水は「その時お前の手は何をしていた!」と言いました。

長政が家康を討たなかったことを痛烈に皮肉ったのでした。

4年後、如水は自分の死期を悟ると、突然凶暴な君主に変貌。

皆恐れおののき、近づかなくなりました。

如水は「自分が口うるさくなり、家臣に嫌われれば、わしが死んだ後ホッとするであろう。さすれば、みな長政のことを好くであろう」という長政への心憎い気配りでありました。
加藤清正
清正は、小西行長のキリシタン領をそっくりそのまま吸収。

54万石の大名となりました。

小西行長の領地にはキリシタン信者が10万人もいて、行長によって保護されていました。

そして新しい領主 清正はキリシタンが大嫌い。

10万にも及ぶ信者らは、清正のキリシタン弾圧を恐れ他領へ逃亡しまくったのです。
福島正則
関ヶ原では先鋒として大活躍。尾張20万石から広島49万石へ出世しました。
可児才蔵
実は決戦前日に、才蔵は抜け駆けして西軍の湯原源五郎を討ち取ってしまった。

福島正則は激怒しました。

首実検の時正則は「お前はたった一つの首のために法を犯したのか。愚か者め!」と怒鳴ると、才蔵は「ワシが討ち取った首は持ち帰るのが面倒なので、首の耳や口に笹の葉を差し込んでおります。それを他の若い武士らが自分の手柄として持って帰ってきたのでは?」と言ったのです。

そして取った首を調べてみると、なんと笹を詰めた首を17個あり、東軍一だったのです。

家康はこれに驚き「今日より笹の才蔵と名乗れ」と言ったそうです。

佐竹義宣
東軍にいながら、恩のある三成に弓をひけずにいた義宣。

結果、真田ともめている秀忠のもとに300騎を出しただけとなりそれを家康は許さなかった。

54万石から出羽・秋田20万石へと国替えを命じられたのです。

その後は大阪の陣にも参加。

恩義ある三成はもういない。直接対決せずにすんだ安堵感を思ったことでしょう。

62歳で死去。余生はおだやかに過ごしたそうです。
池田輝政
輝政は福島正則とともに先陣争いをしました。

大きな戦功を挙げることはできませんでしたが、播磨52万石を家康から与えられるのです。

福島正則は「輝政は家康のお婿だからな。我々は槍先で国を取ったが輝政は一物で国を取ったのだ」と皮肉りました。

輝政「いかにもワシは一物で国をとったが、もし槍先で取ったら天下までも取ってしまったかもしれんからのう」と応酬したそうです。

細川忠興
豊前39万石の大名に取り立てられました。

その後は家督を忠利に譲り、悠々とお茶の世界に。

千利休の七哲の一人となり、1645年83歳で死去。
藤堂高虎
関ヶ原では裏工作をしまくって家康に認められ8万石から22万石の大名となりました。

その後、築城が大得意な高虎は江戸城でもその能力を発揮。

1630年 75歳で死去。

死ぬ前、三代将軍・家光が見舞いに来た時
「死後も話をしたいが、宗派が違うから無理だな」と言ったとたん、その場に居合わせた僧に改宗を申し出たといいます。
山内一豊
長宗我部の領地に入る。

そして長宗我部の家臣を「相撲大会」と称して集め全て殺してしまいます。

その後、長宗我部の人々は幕末まで虐げられ、山内系がえばりまくる。

坂本竜馬も虐げられた一人であります。
最上義光
念願の庄内(山形南西部)をゲット。57万石に出世

伊達政宗
上杉景勝の押さえとして家康に命じられた政宗。

東軍勝利のニュースを聞いた後だってのに、上杉家の本庄繁長に戦いを挑み、こてんぱんにやられる。

これに家康は腹を立て、2万石しか加増しませんでした。

政宗は関ヶ原から1年しか経ってない頃「秀頼は秀吉ほどの器量がなければ2・3カ国与えて豊臣家を存続させても害はないだろうけど、このまま大阪城に居続けたら、必ず秀吉を担いで謀反を企てる者が現れるであろう」と家康に忠告しました。
九鬼守隆
守隆は家康に「私は恩賞入りませぬ。そのかわりに父 嘉隆の助命をお願いいたす!」と言い、家康はそれを許しました。

守隆は喜び、急いで志摩へ潜伏している嘉隆のもとへ使者を送りました。

が、嘉隆は助命を認めれたことを知る前に、碁を打った後自害していたのでした。

守隆はその後56000万石の中堅大名となりましたが、息子の隆季と久隆がお家騒動である家督争いを始めてしまい、幕府は隆季を丹波に、久隆を摂津に行かせた。

水軍だった九鬼家は内陸へと移って行ったのです。

それでも久隆の摂津の家には、お城の前に大きな池を作り軍船を浮かべ、水軍時代を忘れないようにしていました。

そして九鬼家は明治時代まで存続し、子爵となるのです。