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安土桃山時代その10 1584年

1584年 肥前の熊 龍造寺隆信
3月 沖田畷(おきたなわて)の戦い 龍造寺VS島津 
龍家 葉隠れの精神 「不運の髑髏に用なし」
ノリノリの秀吉「ワシが一番じゃー!」
織田信雄 「なんか秀吉 調子乗ってない?」
秀吉「信雄様 挨拶に来なさい」
家康「信雄殿に協力いたしますよ」
秀吉 信雄三家老を懐柔
3月6日 家康 「あの3人は危険です!」三家老成敗
3月7日 家康 秀吉に宣戦布告
秀吉激怒!榊原康政の首に懸賞金をかける
3月8日 秀吉出陣!!
3月13日 家康・信雄 軍議を開く
3月13日 池田恒興 犬山城を攻める
3月17日 羽黒の合戦 鬼武者ボロ負け!
3月27日 秀吉犬山城へ到着
4月4日 池田恒興「この作戦どうですか?」 
4月7日 池田恒興ら三河へ!
4月9日 先鋒・恒興 挑発に乗る
4月9日 長久手の戦い
4月9日 AM10:00 長久手激闘!!
4月9日 PM12 秀吉ビックリ!すぐさま応援に行くぞ!
鬼武蔵 森長可 「娘は武士とは結婚するな!」
母のおかげで大名へ 池田恒興
その後の小牧・長久手 
8月28日 佐々成政 ライバル利家を攻撃してやる!
妻まつ 利家に嫌味を言う
10月 伊達政宗家督を継ぐ
11月11日 織田信雄 勝手に講和
人質となった家康次男 秀康
12月 佐々成政 大ピンチ!
佐々成政 さらさら超え




安土桃山時代 その104年〜1586年
肥前の熊 龍造寺隆信
この頃九州では島津・大友・龍造寺の3つが争っていました。

が、大友家は耳川の戦いで破れてからは衰退の一途。

逆に勝者・島津がリードし始めたのです。

龍造寺家も大友家とバトルしまくっていましたが、和議が結ばれることに。

その時、大友家老臣の立花道雪の使者がお酒を持ってきました。

家臣らは「毒が入ってるかもしれない!」と、その酒を捨てようとしました。

が、隆信は「立花殿はそのような卑怯な男ではない。弓矢でワシの命を狙うことはあるが、このような卑劣なやり方で命は狙わんよ」と、その酒を立て続けに3杯飲んだのです。

そんな豪快な隆信でしたが、自分の息子政家に家督を譲り始めた頃からちょっとづつおかしくなり始めたのです。

お酒をよく飲み家臣らを殺し始めた。

謀反の疑いがあるってので、重臣であった赤星家の14歳の息子と8歳の娘を磔したりして、家臣の心は離れ始めてしまったのです。

暴飲暴食のため、すごく太ってしまい馬にも乗れないほど。

理由は不明ですが、勇猛な武将の面影が全く無くなってきてしまったのです。

そして家臣らは「鍋島直茂の方がいいんじゃないか・・・?」と思うようになるのでした。

そんな中、島津が九州制圧をしに戦いを挑んできたのです!!


1584年3月 沖田畷(おきたなわて)の戦い 龍造寺VS島津 
この頃九州は、北は龍造寺が頑張っていました。

島津は耳川の戦い後、一大勢力となっていました。

ここに九州の覇者を賭け、島津義久と龍造寺隆信のバトルがスタートしたのです。

戦いは島原半島。

島原当主の有馬晴信は、龍家が勢力拡大してきたので一旦は龍家の傘下に入ったものの、島津と新しく同盟を結ぶ決意をしたのでありました。

もちろん隆信はこれを聞いて激怒。

6万もの軍を率いて有馬の城へむかいました。

ちなみにこの時の龍造寺隆信は、肥満だったため六人担ぎの駕籠で移動。

対する島津義久は、弟の家久に兵を与え島原へ派遣。

勝負は人数の多い龍家が断然有利と思われました。

そこで島津は沖田畷へ逃げ込むフリをしたのです。

沖田畷という場所は、一本道で2.3人がやっと通れるほくらいのあぜ道。

そこで島津兵は両側の道に伏せ待ち構えたのでした。

家臣の鍋島直茂は「危険だなぁ。ここは追撃するのをやめましょう」と意見。

ですが、隆信は「うるさーい!」と、追撃をしてしまったのです。

誘導作戦に見事ひっかかった隆信。

龍軍は総崩れとなり、隆信はとうとう討ち取られてしまったのです。

備前の熊と言われ、勇猛な武将として名を轟かせた龍造寺隆信。

56歳で戦国の世から姿を消しました。
龍家 葉隠れの精神 「不運の髑髏に用なし」
沖田畷の戦いによってぼろぼろになった龍家。

唯一の救いは鍋島直茂が生き延びたこと。

この後、島津はチャンスとばかり備前佐嘉城にたてこもっている龍家を包囲したのです。

当主である隆信も、名だたる武将もことごとく討ち死にしてしまい、もはや抵抗する力は全く残っていませんでした。

島津総大将の家久は無駄な争いはしたくないな・・・ってことで隆信の首を塩漬けにし、篭城してるやつらに持って行ったのです。

そして「こーなる前に降伏したほうがいいんじゃないの?」と言いました。

これを見た70歳すぎた隆信の母・慶闇尼

「敗将の首などいらんわ!この抜けた首を持ってさっさと薩摩に帰れや!」と怒鳴ったのです。

ビックリしたのは島津家久。

家久は「葉隠れの精神(武士道は死ぬこととみつけたり)」に非常に感心し、行き場のなくなった隆信の首を丁重に埋葬しました。

覚悟を決めたその潔さを重んじ、軍を撤退。

龍家はかろうじて首がつながったのです。
ノリノリの秀吉「ワシが一番じゃー!」
明智光秀を討ち、勝家を討ち、もはや秀吉の勢いは留まりませんでした。

着々と天下取りを押し進めつつある秀吉。

明智討伐から10ヶ月で、近畿北陸一帯を平定した秀吉を恐れた他の大名達は、こぞって秀吉のご機嫌取りをしだしたのです。

秀吉は「もはや北の果ての津軽まで、ワシにかなうものはおらんぞ!」と、宣伝しまくっていました。

が、じっと黙っている不気味な存在である家康のことは、ずっと秀吉の心の片隅にあったのです。

秀吉が「天下」を取るのに、もっとも邪魔な存在の家康。

主君信長の同盟者であり、下手な真似はできない。

家康も「ワシは織田の同盟者。秀吉とは対等でなければならん。決して下と思われるのは嫌だ」と思っていました。

ですが秀吉にとって「天下の覇者は1人」

どうしても家康を自分の下につけなければならなかったのです。

織田信雄 「なんか秀吉 調子乗ってない?」
着々と天下取りをしている秀吉。

それをむかついて見ていたのが信長の次男信雄でした。

犬猿の仲であったライバルの信孝を自刃させ、次はオレの時代だーとほくそ笑んでいたのもつかの間、秀吉が力をつけつつありました。

「秀吉は自分のため、つまりは織田家のために協力してくれていると思っていたから、自分も秀吉の味方をしていた。だけどあいつ、自分のためだったんじゃねーか!」と、感じてきたのです。

「あいつは昔、オレのオヤジの草履係りだったくせに!」と後継者の椅子を秀吉にかっさらわれ不満タラタラ。

秀吉は信雄に会うときは「信雄様」と一応は臣下の礼はとっていました。

が、心中は信雄のことなど眼中にありませんでした。

信雄のいる尾張の向こうにいる家康を睨んでいたのです。
秀吉「信雄様 挨拶に来なさい」
大阪城を築城した秀吉。

この城をお披露目するため諸国の大名に「上洛しにきなさい」とうながしました。

この時、秀吉は信雄に対しても同じ手紙を送ったのです。

「なにぃー!」と激怒した信雄。

「秀吉はオレのオヤジの部下だぞ?オレはその息子だぞ?っつーことは、ヤツはオレより下だぞ?家臣同様の男に、なんでオレが挨拶に行かなきゃなんねーんだ!」とカンカンに怒ったのです。

信雄は腹を立て、「誰が挨拶に行くか!」と返事しました。

そして「あいつをとっちめるには・・・」と、考え、思いついたのが信長の同盟者であった徳川家康だったのです。
家康「信雄殿に協力いたしますよ」
家康にとって、信雄の領地は絶対秀吉に奪われてはならないところでした。

もし信雄のいる尾張が秀吉に奪われたら、自分の国に攻撃してくるのは目に見えてわかる。

秀吉をこれ以上徳川の領地近くまで来させないようにしたかった。

そんな矢先に信雄からの「秀吉ムカツク!オレの味方してよ!」の協力要請。

家康は「ラッキー♪」とばかりに、信雄に協力することにしたのです。
秀吉 信雄三家老を懐柔
信雄のもとにまた秀吉から手紙が来ました。

そして「信雄様はワシのことを誤解している。是非会って誤解を解きたい」と言ってきました。

信雄は「そこまで言うなら会ってやろう」と、ちょっぴり機嫌を直したのです。

そして3人の重臣を連れて会見場所まで出かけたのです。

連れて行ったのは岡田思考・浅井田宮丸・津川雄春の3人で「信雄の三家老」と言われていました。

信雄は正直、あまり頭のいい男ではない。

つまりは、この3人が信雄の領地の国政を牛耳っていたのです。

これに目をつけた秀吉。

この3人を抱き込めば、信雄は簡単に落ちるだろう・・・そう考えたのです。

さっそく三家老に「ワシについた方がいい。その方がそなた達の将来のためであるぞ」と説得。

三人は新領地をもらえるという約束をしてもらい、秀吉に寝返ったのです。

ちなみにこの会見の時、信雄は秀吉が偉そうな態度をとった!と言って、怒って一人で帰ってしまいました。

その後、秀吉は3人にじっくり話しをしたと言われています。
1584年3月6日 家康 「あの3人は危険です!」三家老成敗
秀吉に寝返った3人。

それ以後、なんとなく怪しい態度になってきました。

が、お坊ちゃま信雄は全く気がつかない。

気がついたのは家康だったのです。

3人の態度がどことなく変わったという噂を聞いた家康は、さっそく忍者を放ちスパイ活動。

すると、どうも秀吉側に寝返ったという話しが出てきたのです。

「秀吉め!尾張に手を伸ばしてきたな!信雄が殺されてはまずい。先手を打たねば!」と、信雄のもとへ使者を出したのです。

そして「三家老に内通の疑いあり。すみやかに処分したほうがいい」と言ったのです。

信雄はビックリ!

早速3人を呼び、殺したのです。
1584年 3月7日 家康 秀吉に宣戦布告
三家老を殺したとなっては、秀吉も黙っちゃいない。

家康はすぐさま動き出しました。

3月7日 家康は浜松城を出ました。

そして星崎城を占拠し、はっきりと秀吉に敵対したのです。
秀吉激怒!榊原康政の首に懸賞金をかける
徳川四天王の1人、榊原康政は、この時得意の筆で敵・味方に手紙を書きまくりました。

「秀吉は農民の子だぜ?それを信長に取り立ててもらったっつーのに、恩を忘れてやがる。徳川には信長遺児の信雄殿がいるっていうのに、秀吉は弓をひいた。恩を忘れた男め!神は秀吉に罰を下すであろう!」というものでした。

これをみた秀吉はめちゃくちゃ怒りました!

「憎っくき康正め!奴の首を討った奴は褒美を増やす!」と、怒鳴ったのです。

こうして康政の首に、懸賞金がかかったのでした。
1584年3月8日 秀吉出陣!!
三家老を殺したというニュースは秀吉のもとへ。

これが信雄の公然の挑戦とみた秀吉。

さらに家康が動いたという情報も入ってきました。

「信雄などどうとでもなる。問題は家康じゃ。あいつはこれからワシの天下取りにおいて、必ずや目の上のタンコブとなる!今のうちに叩き潰さねば!」と、家康を討とうと心に決めたのでした。
1584年3月13日 家康・信雄 軍議を開く
家康は信雄と清洲城で会見。

軍議を開きました。

秀吉軍の兵力は凄まじく、その数10万人。

対する家康・信雄連合軍は16000人。

数では圧倒的に秀吉が有利でした。

ちなみに家康は、婚姻関係にある北条家に応援を依頼。

ですが、北条は断ってきたのです。
1584年3月13日 池田恒興 犬山城を攻める
美濃の大垣城にいる池田恒興は、どちらにつこうか非常に悩んでいました。

秀吉・信雄の両方と仲良しだっため両方から誘いがあったのです。

そこへ秀吉が「勝った時は駿河と近江の2つをあげるから!」と、熱心に勧誘。

とうとう秀吉につくことを決意。

娘婿の森長可とともに秀吉チームへ入ったのです。

秀吉への手土産に犬山城を攻め落としました。

これに驚いたのは家康・信雄チーム。

恒興は絶対こちらにつくと思ってたので、急遽計画を変更。

伊勢に行くのをやめて、兵を小牧山に集め秀吉軍と対峙することにしたのです。
1584年3月17日 羽黒の合戦 鬼武者ボロ負け!
小牧山に本陣を置いた家康軍。

ここで邪魔だったのが、森長可(蘭丸の兄)のいる羽黒。

家康は羽黒を急襲しました。

突然の来襲に、「鬼武蔵」の異名を持つ長可はボロ負けし、命からがら逃げ帰ってきたのです。

ちなみに、ここまでが「小牧の戦い」です。

1584年3月27日 秀吉犬山城へ到着
秀吉はというと、家康の策謀である一揆の平定に手間取っていました。

数では圧倒的に多い秀吉軍でしたが、家康は地元だということと、地域住民の一揆によるゲリラ先鋒で秀吉らを困らせていたのです。

そこへ森長可がボロ負け!という知らせを聞いた秀吉。

3万の大軍を率いて急いで犬山城へ急行し、3月27日に本陣を置いたのです。

こうして秀吉軍と家康・信雄連合軍は真正面から対峙しました。

秀吉49歳・家康43歳。

9年前、初めて会った長篠の戦の時は味方同士でしたが、2度目の戦は敵同士となったのです。

両者にらみ合ったまま、緊張した状態が続きました。

お互い簡単に仕掛けることはできない。

仕掛けた方が大きな損害をこうむることは、長篠の戦の時の武田勝頼を見て嫌というほどわかっていた。

あんなミジメな姿にはなりたくない。

2人は、仕掛けるチャンスを淡々と狙っていたのです。
1584年4月4日 池田恒興「この作戦どうですか?」 
膠着状態が続いていました。

すると池田恒興がこの状態を打破するために、策を提案したのです。

「家康の本国である三河は守りが手薄になってるに違いない。今三河を攻撃したら混乱する。家康は慌てて三河に戻るでしょう。残った信雄を一気に叩けば尾張はゲットできます」というものでした。

恒興は、羽黒にて娘婿の森長可が負けたこともあって、何とか戦功を得たかったのです。

秀吉は危険を感じました。

確かにうまくいけば、素晴らしい作戦。

だけど、あの家康がそう簡単に罠にかかるだろうか??

秀吉は考えました。

が、家康がこんな手にひっかかるとは思えない。

秀吉はその作戦をNOと言ったのです。

だけど恒興はこの意見を強く主張。

他の武将達も恒興の意見に賛成しだしたのです。

これ以上恒興の機嫌を損ねたら、せっかく味方になってくれたのに離れて行ってしまうかもしれない・・・秀吉は悩みました。

また、甥の三好秀次が「ボクに三河攻撃の大将をやらせてくれ!」とまで言いだして、秀吉はとうとうOKしたのです。

それでも秀吉は不安だったらしく「岡崎城に行って火をかけたら、すぐ戻って来い!」と注意を与えました。
1584年4月7日 池田恒興ら三河へ!
こうして三河行きの別働隊が出発しました。

先手が池田恒興

二番手に森長可

三番手には堀秀政

四番手は三好信吉

そして最後は秀次の合計2万。

総大将は秀次だけど、実際指示を出してたのは恒興です。

が、進軍ルートである村の村民達が、秀吉軍が三河に向かったことを家康に急報したのでした。

これを聞き家康はすぐに追撃隊を作り、恒興軍を追ったのです。
1584年4月9日 先鋒・恒興 挑発に乗る
順調に進撃していた一番手の恒興隊。

この日、家康の出城である岩崎城の前までやってきました。

岩崎城には丹羽氏重ら240人ほどしかおらず、恒興は「そんな少人数構ってられん」とシカトしていくつもりでした。

が、この240人が、果敢にも大人数の恒興隊に挑戦してきたのです。

「構うな」と言っていた恒興でしたが、なんと愛馬に鉄砲の弾が命中!!

「おのれ!生意気な!」と激怒したのです。

恒興は、重要な先鋒でありながら、挑発にのって岩崎城を攻撃じゃー!と命令してしまったのでした。

先鋒の池田隊がバトル中、二番手・三番手は前進できず、一休みとなってしまいました。

ここで、恒興は大事な時間を使ってしまうこととなったのです。

1584年4月9日 長久手の戦い
秀吉軍の先鋒が岩崎城攻撃をしている間、着々と家康の追撃軍が近づいていました。

そして家康軍の水野忠重隊が、四番手の三好信吉隊が長久手付近でのんびりとしているところを発見したのです。

長久手の合戦が幕を開けたのです。

さらに家康軍の榊原康政も到着。

秀吉軍最後尾の三好秀次に攻撃しました。

ふいを突かれた秀次隊はあっけなく敗走していったのです。

後方の銃声で家康軍の攻撃に気がついた秀吉軍三番手・堀秀政。

なんとか榊原隊を撃退させたものの、家康本隊がすぐ近くまできているのを知り、追撃をやめ退却しました。

この頃、やっとこさ岩崎城を落として休憩中の恒興のもとに、危ないところを助かった秀次の使者がやってきました。

「家康軍がやってきました!」

恒興は「しまった!」と悔やみました。

ですがもう間に合わない。

こうなったら全軍を戻して、長久手へ向かうしかない。

恒興は急いで戻っていったのです。


1584年4月9日 午前10時 長久手激闘!!
恒興は必死で長久手へ戻りました。

ここで恒興隊と長可隊は家康軍と対峙し、大激戦が始まりまったのです。

一時恒興隊は優勢になったものの、家康本隊が横槍を入れると多くの兵が逃げていきました。

ここで森長可が討ち取られてしまったのです。

恒興は森長可の死を知ると大ショック。

「全てワシの責任じゃ・・・」と、自ら乱戦の中に入って討死したのです。

ここで恒興と長可は戦死。

大将を失った秀吉軍は大混乱になり、敗走していったのです。
1584年4月9日 午後12時 秀吉ビックリ!すぐさま応援に行くぞ!
秀吉のもとへ使者がやってきました。

「恒興・長可討死!別働隊全滅!」

秀吉は大ショック!

すぐさま兵をかき集め応援に行きましたが、時すでに遅く、家康軍はさっさと引き揚げていたのです。

そして翌日、家康は何事もなかったかのように小牧山の本陣へ現れたのです。

この小牧・長久手の戦いは、家康の勝利となったのです。

鬼武蔵 森長可 「娘は武士とは結婚するな!」
森家は織田家に仕える家柄でした。

父の可成(よしなり)が浅井・朝倉攻めで討死したため長可は13歳で後を継ぎました

本能寺の変の時は上洛し、道中、武田軍の残兵や百姓たちに襲われつつも、それらをバタバタとなぎ払い斬って捨てたため「鬼武蔵」と呼ばれるように。

そして弟の森蘭丸ら弟3人が信長とともに殺されてしまうのでした。

その後は秀吉に下へ。

そして小牧の戦いで徳川方に攻撃を受け敗走。

今まで負けたことのない長可は大ショック。

そして長久手の戦いで奮闘の末、討ち取られてしまったのでした。

長可は遺書を書いており、そこには「もしオレが死んだら母は秀吉殿から生活費を貰って京都で暮らしてくれ。千丸(末弟)は今までどおり秀吉殿に仕えること。だけど城主にはなるな。妻(池田恒興の娘)は家にきちんと戻ること。おこう(娘)は武士と結婚してはダメだ。京都の町人、できれば医者と結婚してくれ」とありました。

長可は父と兄を浅井・朝倉攻めで失い、蘭丸ら弟三人を本能寺の変で失っており、残っているのは自分と末弟の千丸だけ。

武士として武士の恐ろしさをわかっていただけに、このような遺書を書いたのでしょう。
母のおかげで大名へ 池田恒興
父の恒利は織田信秀に仕えていました。

そして信長誕生。

信長は幼い頃から癇が強く、乳母の乳首を噛み切ってばかりいました。

滝川一益のはからいで、恒興の母が乳母になったとたん信長の癇癪がすっかり止んだのです。

夫の恒利が死んでからも信長に仕え、恒興も信長の遊び相手として一緒に成長しました。

信長の弟・信行が反旗を翻した時も、恒興は信長につき信長の命令のままに信行を殺しました。

桶狭間など数々の戦功をたて、恒興の長男らもともに戦いました。

本能寺の変が起きると秀吉に協力。

そのため清洲会議に出席することができて、秀吉に感謝していたのです。

小牧・長久手ではどっちにも恩があるため非常に悩んだけど、最終的には秀吉につくのでした。

が、ここで戦死。

娘の婿である森長可も討たれてしまったのでした。

恒興49歳でした。

秀吉は恒興の死をとても悼み、恒興の遺児に大垣城を与えました。
その後の小牧・長久手 
長久手の激闘後、秀吉はますます慎重に。

5月になると、ついに10万の兵を動かしだしました。

そして尾張に入り、信雄の城を次々と潰しにかかったのです。

対する家康は、「秀吉の挑発には簡単に乗らないぞ」と、動かずにいました。

秀吉は「しぶとい奴め!」と、ムカムカ。

各地で小競り合いが続きました。

そして秀吉・家康は少しでも味方を多く!と、各地の有力な諸将たちに手紙を書きまくっていたのです。
1584年8月28日 佐々成政 ライバル利家を攻撃してやる!
秀吉は上杉景勝を味方につけようとしていました。

家康はその動きを察知し、上杉を食い止める役として佐々成政を味方に誘いました。

成政は両方から誘われていたのです。

結局、選んだのは信雄・家康チームでした。

理由は「織田家に対する忠誠心」&「利家が秀吉に可愛がられてるから」

信雄に仕えていたこともあり、信雄を擁して織田家の再興を願っていたのです。

それに織田家の家臣として、後継者気取りの秀吉の勢いにちょっと腹が立っていた。

また秀吉が、自分の大嫌いな利家を可愛がっているのも気に入らなかったのです。

そして、中央で小競り合いが続いている中、「この分じゃ、秀吉はこっちにこれないだろう。今こそ、長年の宿敵・利家をやっつけたる!」と、決心したのです。

成政はさっそく利家の朝日山砦を攻撃しました。

焦った利家は金沢城を警戒。

すると成政は「ふん!金沢城などどうでもいいわい!オレの狙いはこっちじゃ!」と、能登の末森城を包囲したのです。

末森(すえもり)城は能登半島と金沢城の境にあり、ここを奪われたら能登と金沢の連絡が出来なくなってしまう。

利家は大ピンチに。

家臣たちの士気も下がり、重臣達も「もう利家殿の負けかも・・・」と、思い始めたのです。
妻まつ 利家に嫌味を言う
そもそもこの頃の利家は超ケチでした。

軍勢を多く雇わず、自分の財テクばかりしていたのです。

妻のまつは、常日頃「もうちょっと兵を集めたほうがいいんじゃないの?」と忠告してましたが、利家はそれを無視。

対する成政は兵の甲冑に金箔を入れてあげるほど、金銀惜しまず軍勢を雇っていたのです。

ですが出陣しないと、末森城は落とされる。

そしたら前田家は大変なことになる。

利家は士気が下がりまくりの中、甲冑を着用しました。

すると「まつ」が、「日頃から軍勢を蓄えとけとあれほど言ったでしょう?なのにあなたは耳も貸さなかった。今度の戦では金銀に槍を持たせ働かせたらよいのでは?」と、利家に金銀の入った袋を投げつけたのです。

利家は超激怒!

まつに殴りかかろうとする利家を、家臣たちが必死で止めました。

まつは涼しい顔で、「なにか?」状態。

こうして利家はプリプリ怒りながら「クソー!まつめ!あいつにバカにされてたまるか!」と、ものすごい勢いで出て行ったのです。

このまつの一言が、利家軍の戦意を鼓舞させることとなったのです。

1584年10月 伊達政宗家督を継ぐ
伊達輝宗の長男として生まれた政宗。

母は最上義光の妹義姫。幼い頃の名前は梵天丸。

幼い頃に「疱瘡」にかかり右目を失明。

そのおかげで陰気臭くなりました。

母の義姫は陰気臭い政宗よりかしこくて美男子の弟・竺丸を非常に可愛がり始めました。

そして夫の輝宗に何度も政宗を廃嫡させ、竺丸を後継ぎにしようと意見していたのです。

が、輝宗はこれを拒否していました。

義姫の兄は最上義光。

もし竺丸を後継ぎにしたら、最上家は何かと口出ししてくる。

伊達家が最上家に乗っ取られてしまうかもしれないからです。

そんな夫・輝宗に腹を立てた義姫は、兄である最上義光に政宗を毒殺するようお願いしました。

が、この作戦は失敗。

自分の子を殺そうとした義姫は「奥羽の鬼姫」と呼ばれるようになるのです。

そんな政宗を叱咤激励しつつ育てたのが、のち軍師となる片倉小十郎。

政宗が疱瘡になった失明した時、毒が回り目玉が飛び出そうになった。

心も病み始めていた政宗。

小刀を持ち家臣らに「目をえぐれ!」と襲い掛かったんだけど、誰もおじけづいてできなかった。

そこへ片倉小十郎が「そんな目なら私がえぐり取りましょう」と政宗の右目を突いたのです。

そこから政宗は小十郎を信頼するようになっていくのです。

また父の輝宗も政宗を可愛がり無事に成長した。

そして18歳で家督を譲るのでした。

なんでこんなに早く当主にさせたかというと、竺丸を家督に!!という義姫らを封じ込めようとしたからです。
1584年11月11日 織田信雄 勝手に講和
秀吉はいい加減この戦いをやめたくなってきました。

いっこうに降伏する様子のない家康にうんざり

ということで、秀吉は信雄のもとへ「そろそろやめない?」と相談しにいったのです。

信雄は秀吉の懐柔策ニコロリと騙されてしまいました。

そして家康に何の相談もなく勝手に仲直りしてしまったのです。

これを聞いた家康はビックリ!

「あのバカ・・・何をやっとんじゃ」と呆れまくり

そして戦う名目のなくなった家康は、仕方なく秀吉と講和することとなったのです。

講和の人質として、家康の次男である秀康が秀吉の養子に行くこととなったのです。
人質となった家康次男 秀康
秀康の母は正室築山殿の侍女であった側室お万の方。

家康の次男として生まれ、幼名は於義丸。

顔がギギという魚に似て変なことから、家康は秀康をあまり可愛がらなかったのです。

秀康が初めて家康に会ったのは3歳の時。

家臣が家康嫡男である信康に「なんとか会わせてあげて欲しい」とお願いして、やっと会うことができました。

ちなみにお万の方の妊娠が発覚した時、築山殿は激怒し、お万の方を丸裸にして裏山に捨て置きました。

それを家康の家臣が見つけ、助けたそうです。

また家康も「ホントにワシの子供かぁ?」という感じだったので、秀康は次男でありながら家康に嫌われていました。

嫡男信康が切腹させられた時は6歳でした。

そして11歳の時に、秀吉のもとへ行かされたのです。

秀吉は当時3人養子がいました。

信長の四男である秀勝17歳・宇喜田直家の子である秀家13歳・ねねの甥であるのちの小早川秀秋3歳。

秀吉は実子がいないことから、養子を貰っていたのです。

秀康は養子に出された時、秀吉家臣から「おい、あれが人質だぜ!」と見下されました。

すると「わたしは家康の実子であるぞ!家来の分際でわたしを軽蔑するなど許さんぞ!」と、威厳高々に言ったのです。

みんな「まだ幼いが、なかなかの男だ」と、ビックリしたそうです。

秀康は自分が父・家康に可愛がられなかったことから、家康のことがあまり好きじゃなかった。

家康よりも、義父の秀吉の方を好きになっていくのです。

また家康は秀康が養子にいった後、すぐに三男・秀忠に「竹千代」という名前をつけました。

「竹千代」とは、家康の幼名で、この名前がつく者が「次期後継ぎ」となるのです。

1584年12月 佐々成政 大ピンチ!
成政は末森城攻略のため、利家とバトル中でした。

そこに信じられないニュースが!

あろうことか戦いをおっぱじめた張本人の信雄が、秀吉の懐柔策にはまり仲直りしたというものだったのです。

成政は驚きと失望でいっぱいに。

さらに東海方面に釘付けになっていた秀吉が、雪が溶け始めたら利家に援軍を出すこととなったのです。

「これはやばいことになった。オレ、孤立しちゃうじゃねーか!」と大慌て。

いったいどういうつもりで講和などしたのか???

成政は不安でいっぱいに。

雪解け前に、なんとか家康と信雄に会って本心を聞くしかない。

そう決心したのです。

佐々成政 さらさら超え
家康・信雄に会おうと決めた成政。

が、家康のいる浜松までのルートは利家をはじめとした秀吉方の武将が目を光らせている。

残された道は富山から黒部渓谷に入り厳冬の北アルプス立山を超えて信濃へ抜けるという危険極まりないルートでした。

成政一行は、防寒装備も整っていない戦国時代において命知らずの旅に出るのでした。

真っ白の銀世界。

一番の難所は馬の背のようなさらさら峠。

横殴りの雪によって凍死する者。

道を踏み間違え谷底へ落ちる者。

なだれに飲まれる者が相次いだ。

成政はこの時49歳。

「家康と信雄に会って真意を確かめたい」その一心でとうとう成政はアルプスを越え、やっと浜松城へ到着したのです。

さすがの家康もこれにはびっくり!!

が、成政の決死の思いは通じなかった。

成政は浜松から清州へ行き信雄に会うことに。

が、信雄は自分が成政を誘ったのかを忘れたかのように成政を抑えようと説得しはじめる有様。

成政は「こんなヤツのためにオレは織田家の再興を願っていたのか・・・」という虚しさでいっぱいになりました。

行きのさらさら超えの時は一縷の望みをかけて挑みましたが、帰りは失望感で張り裂けそうでした・・・。

結果、成政は秀吉に降伏せざるを得なくなったのです。

ちなみにこの「さらさら超え」の時、軍資金を北アルプスのどこかに隠したらしい・・・という伝説があります。