安土桃山時代その11 1585年〜1586年

1585年3月21日 秀吉 根来・雑賀衆を攻める
丹羽長秀あてつけ切腹
7月 史上初の平民関白 秀吉関白になる
真田昌幸 上杉景勝のもとへ
8月 真田昌幸の謀略
8月 上田合戦 真田VS徳川
8月 長宗我部元親 秀吉に降伏
9月11日 立花道雪死す
10月 伊達政宗 父・輝宗を銃殺
11月 家康家臣 石川数正 秀吉のもとへ
家康 井伊の赤備えを作る
その後の石川数正
1586年4月 秀吉九州制圧へ!
元親期待の星★長宗我部信親デビュー
5月 家康 秀吉妹・旭姫と結婚
10月 家康 秀吉に服従する
11月15日 吉川元春死去
12月 戸次川の戦い
長宗我部元親 ショックでおかしくなる
長宗我部の後継ぎは?




安土桃山時代 その11〜1586年
1585年3月21日 秀吉 根来・雑賀衆を攻める
小牧・長久手の戦いの時、一揆を起こしたりなど、何かと反抗しまくっていた根来・雑賀衆。

そもそも信長の石山本願寺攻めから、雑賀衆とは戦いまくっていた。

雑賀衆は信長が大嫌いだったので、信長の後を継いだ形となっていた秀吉のことも大嫌いだったのです。

そのため徳川方の味方をし、何かと秀吉を苦しめていたのでした。

秀吉はとうとう「あいつらぶっ殺したる!徹底的に潰すぞ!」と雑賀攻めを決めたのです。

こうして秀吉は10万の兵を率いて出発しました。

そしてすごい勢いで攻めまくったのです。

根来・雑賀衆は全滅しました。

こうして家康の味方を次々と排除していったのです。
1585年2月 丹羽長秀あてつけ切腹
長秀は賤ヶ岳の戦いで秀吉の味方をし、猛者である佐久間盛政を捕らえるなど軍功を立て、123万石という秀吉の家臣団の中では最高の大名となっていましたた。

が、秀吉がだんだんに「羽柴秀吉」として支配力を強めていくので考え方にズレを感じ始めるのです。

かつて「羽柴」の「羽」をあげた自分の足元にも及ばなかった格下の秀吉が、いまや「織田家」のためでなく「羽柴家」として天下を欲しいままにしているのに屈辱を感じるように。

しまいには秀吉の呼び出しも無視し、外出しなくなったのです。

長秀にとって主家は「織田家」であります。

その主家の子供を次々と手にかけていく秀吉にガマンできなくなってきたのです。

そんな中持病が悪化してきてしまいました。

もはや自分には勝家のように秀吉と戦う力はない。

だけど前田利家のように従うことはできない!

長秀は最大の抵抗として1585年51歳で切腹してしまいました。

この時、長秀は自分の腹の中から握りこぶし大の病根(結石・肉腫のどっちか)を出し、遺書と一緒に秀吉へ送りつけたといいます。

秀吉も驚いたことでしょう。
1585年7月 史上初の平民関白 秀吉関白になる
今度は肩書きが欲しくなっちゃった秀吉。

朝廷にお金をがんがん使ってとうとう関白に。

ちなみに、1586年には太政大臣となり「豊臣」姓を貰いました。

ほんとは征夷大将軍にしてくれーと頼んだんだけど、これは身分が低いってので許可されなかった。

そのため前将軍の足利義昭に養子縁組を申し込んだんだけど、義昭はプライドが高く交渉決裂した。

ちなみにプライドだけは高い公家連中は、この関白就任に大ブーイングでした。

ついでですが、この頃キリスト教宣教師と秀吉は会見。

この頃の秀吉は「キリスト教が一夫多妻を禁止してなければ、ワシもキリシタンになってもいいんだけどな」と、キリスト教に対して好意を持っていました。

真田昌幸 上杉景勝のもとへ
この頃、真田昌幸は家康に対してムカムカしていました。

家康の下についたものの、「お前の領地を北条に渡す」と勝手に決められ、怒って断ったら「力ずくでも奪い取るぞ!」と言われたのです。

昌幸は「真田家がこんなに軽く見られるとは!」と、怒ったものの、弱小には変わりない。

こうなったらどこかにバックについてもらうしかない。

この辺の実力者といえば北条・徳川・上杉。

が、北条は一度裏切ってるし、上杉は川中島で我が殿であった武田信玄と戦っている。

ですが背に腹は変えられない。

昌幸は上杉景勝のもとに使者を出しました。

「わが次男幸村を人質に差し出しますので、どうか真田を助けてくだされ」と。

これを聞いた景勝は大喜び。

景勝にしたって、北条や徳川は敵。

あの煮ても焼いても食えない真田の昌幸が、自分のところを頼ってくるとは!と、家中喜びを隠し切れませんでした。

そして早速「あいわかった。昌幸殿に謀反の噂が流れようとも、上杉は真田の味方をするぞよ」と言ったのです。

これを知った家康は超激怒!!

希代の横着者!と、昌幸を評しました。

こうして家康は、昌幸のいる上田を攻めることにしたのです。

1585年8月 真田昌幸の謀略
8月19日 家康は真田を潰すために、この日兵を出陣させました。

が、真田を弱小とナメていたので、自ら出陣せず、鳥居元忠・大久保忠世らを出陣させました。

また途中で、信州・甲州勢(武田の遺臣)らを合流させ、その人数は約10000人となりました。

対する真田は2000人いるかいないかでした。

まず徳川軍は真田家に対し、降伏するよう使者を出しました。

すると昌幸は「わし、ほんとは家康殿と戦う気はありません。3日たったら城を明け渡すので、3日間待っててくだされ」と言ったのです。

実はこれが昌幸の作戦だったのです。

3日間待たせ、軍備を充実させ、上杉景勝の援軍を待っていたのです。

が、徳川方はこれを信じて「よしわかった!3日間待ってやろう」ということになったのです。

が、3日間たっても城を明け渡す雰囲気はまるでなし。

すると旧武田家臣の人たちが怪しみはじめました。

そして大久保忠世に

「ワシらは武田家出身なので、昌幸のことをよくわかっております。あいつは幼少から信玄公に仕えており、信玄公の采配をよく見ておりました。信玄公から教わったあの知謀は素晴らしいものです。油断しない方がよろしいかと思われますが・・・」

すると忠世は「ふん。武田家臣らはまだ信玄の威光を忘れられぬようだな」と、鼻で笑ったのです。

その時、昌幸から書状がやってきました。

「悪い悪い。やっぱりこの城は渡せないや。来るならどうぞ!」といった内容だったのです。

大久保忠世は超激怒!

さっそく昌幸を攻めることに。

が、敵が侮れない奴とわかると、忠告してきた旧武田家臣である三科・広瀬の両名を先鋒に命じたのです。

昌幸は、その顔ぶれを見ると「懐かしいでござるな!山県隊にいた広瀬殿ではないか!」と言ったそうです。
1585年8月 上田合戦 真田VS徳川
こうして徳川軍は真田攻めをすることに。

兵を神川へ集めました。

対する昌幸は、長男信之と次男幸村を出陣させ、潜ませたのです。

徳川軍が神川を渡ろうとした時、信之隊が鉄砲を討ちまくりました。

それでも兵の半分以上が川を渡ると、信之隊は撤退。

やっと川を渡り、ほっとしているところを、別方向から幸村隊が鉄砲を撃ちまくったのです。

そこへ信之隊が戻ってきたため、徳川軍は大パニックに!

鳥居元忠は「真田兄弟を討ち取ったものは褒美をつかわす!」と叫びましたが、地の利に詳しい真田兵はがんがん徳川軍に襲い掛かり、徳川軍は乱れまくったのです。

それでも1万の兵は多かった。

真田兄弟の兵は500人しかいなかったのです。

徳川軍は何とか体勢を立て直し、信之・幸村を追い込みました。

そして昌幸のいる上田城へ迫ったのです。

昌幸は城下に家財や華やかな衣装をそのままにしておきました。

城下へやってきた兵たちは、それらをほおっておくことはできず、我先に掠奪をはじめたのです。

すると昌幸が隠していた鉄砲隊が、掠奪に走った兵たちを撃ちまくったのです。

この時、昌幸はノンキに碁をうっていました。

そして時が来たと悟ると、狼煙を上げ反撃に出たのです。

狼煙を見た真田全軍が四方八方から一気に反撃に出ました。

大混乱に陥った徳川軍は、我先に神川を渡り逃げていったのです。

真田方の戦死者はわずか40人程度。

徳川方は1360人ほどの戦死者を出し、逃げるときに神川にて溺死者も数多く出たのです。

こうして真田は大勝利をおさめ、昌幸は戦国の世に名をしらしめたのです。
1585年8月 長宗我部元親 秀吉に降伏
元親は3度、命拾いをしていました。

最初は信長が織田信孝を総大将として、丹羽長秀を率いてやってくる!というときに本能寺の変。

2回目は賤ヶ岳の時。

この時も柴田勝家の味方をしたんだけど、勝家敗北によって中途ハンパに終わっていました。

3度目は小牧・長久手。

この時も家康側についたんだけど、家康と秀吉の和議が成立し、中途ハンパに終わったのです。

元親は四国統一を目指していました。

明智光秀と仲良くなり中央の情報はバッチリ!

光秀の家臣斎藤利三の妹をお嫁さんに貰ったりと、虎視眈々と勢力拡大を狙っていたのです。

が、なんと明智光秀が信長を殺し、光秀は秀吉に殺されるという予定外の事件が発生。

さらに斎藤利三の遺族が秀吉に追っかけられ、元親を頼ってガンガン逃げてきた。

一体ナニがどーなってんだ!?状態でした。

この時、斎藤利三の遺族の中にのち徳川三代将軍家光の乳母となるお福(春日の局)がいます。

元親のもとで成人の儀式をむかえ、元親はとても喜んで行ってあげたそうです。

とまぁ、元親が考えてなかった伏兵・秀吉によって予定が狂い始めるんだけど、それでもとりあえず四国を統一しようと必死に。

何度も危機を乗り越えていましたが、とうとう秀吉が天下統一のため四国へ乗り出してきました。

元親も覚悟を決めて秀吉を迎え撃つことに。

そしたらちょーど秀吉が病気になり、ラッキーと思ったのもつかの間、秀吉の弟秀長が、秀吉軍を貰い受けやってきました。

さすがに強く、元親はボロ負け。

秀吉から土佐だけは残してやるから、もう反抗するなと言われました。

潰そうと思ったら潰せる長宗我部をわざわざ残してくれた秀吉の采配に元親は感謝し、秀吉傘下となりました。

が、この2人めちゃくちゃ気が合ってしまい、元親はすぐさま秀吉のお気に入りとなり一目置かれるようになるのでした。
1585年9月11日 立花道雪死す!
大友家名軍師である立花道雪は、この頃島津家・秋月家とバトル最中でした。

が、去年突然倒れてしまい、それでも陣中へ入ったんですが、とうとう陣の中で死んでしまったのです。

死ぬ間際に道雪は、仲間の高橋紹運に「ワシの遺体に甲冑を着せ、この地に埋めてくれ」と遺言しました。

ですが高橋紹運は、この遺言に従っていいかどうか悩み、立花城にいた立花宗茂に相談。

すると宗茂は「敵の地に義父の遺体を埋めるのは忍びない」と、立花城へ運ぶこととなりました。

その際、高橋紹運の兵が棺を担いだのですが、敵対していた島津・秋月の兵たちが棺の主が道雪だとわかると、誰一人追撃しなかったのです。

徳川家康に「ぜひ一度会ってみたい」と言わせ、同じ九州の龍造寺隆信は「武を好み、文を親しむ当代きっての良将であった」と言っていました。

そして大友家を支えていた道雪の死は、大友家に暗い影を落すこととなるのです。
1585年10月 伊達政宗 父・輝宗を銃殺
政宗はもと家臣で、今はライバルとつるんでいる大内氏の小森城を攻めていました。

大内氏は蘆名氏や畠山氏に援軍を頼んだので、政宗はかなり手こずったんだけど、なんとか勝てました。

この時城内にいた800人全て惨殺し「19歳にして恐るべし」と一目置かれるようになるのです。

だが畠山氏も負けちゃぁいない。

畠山氏は父輝宗を拉致したのす。

政宗は急いで追いかけ、川を渡ろうとしている畠山軍と遭遇。

ですが、父が捕まっているため鉄砲も撃てずにオロオロした政宗。

そこへ父が政宗に「オレのことはいいから撃て!」と叫んだのです。

政宗は泣きながら「撃て!」と号令。

父輝宗は、政宗および伊達家を守るために自ら命を絶ったのでした。

ちなみに拉致ったヤツは政宗に捕まり、八つ裂きにされたあとずーっとさらされたらしい。

怒りまくった政宗は、輝宗を殺した原因である畠山氏に総攻撃。

畠山を滅ぼし蘆名氏をも滅ぼした。

勢いに乗った政宗。

このままいけるトコまで行っちゃうか??と思いきや、この頃はすでに秀吉が天下統一に駒を進めまくっていたのでした。
1585年11月 家康家臣 石川数正 秀吉のもとへ
頑として秀吉の「臣下」になることを拒み続けていた家康。

が、大事件が起きたのです。

それは石川数正の裏切りでした。

石川家は松平家の有力家臣。

数正は家康に仕え、今川家に人質に行く時も一緒でした。

合戦でも戦功をたて、文官として国政で活躍しまくり。

30年以上家康と辛苦をともにし、酒井忠次とともに徳川のビック2となっていました。

政治に優れている数正は、今川と手を切り織田家と同盟を組むべきだと家康に提言し、織田・徳川の同盟を成功させました。

秀吉と会見するのも、全て数正の役目でした。

数正は何度も秀吉に会ううちに「秀吉の実力はすごいな・・・。これはうちの殿様も早めに従った方がいいかもしれない」と思い始めるのです。

数正は秀吉から何度も「早く家康に従うように言ってよ!」と言われてたけど、家康はまったく秀吉に従う気はない。

で、小牧・長久手の時に「秀吉には勝てない。一刻も早く和議を結ぶべきだ」と提案したんですが、家康に疎まれてしまったのです。

あまりにも和議を勧めるため「数正は秀吉と内通しているのでは?」という噂が家臣団の中で起こってしまいました。

そして徳川最高幹部でありながら、「あいつは秀吉のスパイだ」と、みんな数正を無視しだしたのです。

数正はめちゃくちゃミジメな気持ちに。

「ワシは徳川家のためを思って意見していたのに・・・」と、嘆き悲しみました。

ですが、「スパイ疑惑」は解けることなく、信用をなくした数正。

とうとう数正は家康を見限り秀吉のもとへ出奔してしまったのです。

数正が秀吉に寝返ったというニュースに徳川家臣団は騒然となりました。

家康は恐怖で青くなりました。

数正といえば家臣団の中でも酒井忠次に並ぶ重鎮。

いくらなんでも裏切りはしないだろうと思っていたのです。

ちなみに家康は、真田昌幸を再度攻め込もうとしてる最中でしたが、それどころじゃなくなり、昌幸は命拾いしたのでした。
家康 井伊の赤備えを作る
有力家臣の石川数正が秀吉に寝返ったことは、家康にとって重大事件!

これまでの軍機が秀吉に筒抜けになるのを恐れました。

そのため軍法も替え、人員の配置換えも行い、徹底的に軍の強化を図ったのです。

これを聞いた秀吉は「ショックで落ち込むかと思ったら、さらに強化しまくりよって・・・」と、辟易しました。

ここで家康は、かねてから憧れていた武田信玄の家臣「山県昌景」の赤備えであった者たちを集めました。

家康は、三方ヶ原の戦いの際、山県の赤備えにめちゃくちゃ強烈なインパクトを持っていて、是非ワシもあのような最強軍団を作りたい!と思っていたのです。

武田家滅亡後、赤備えであった武士達をスカウトしまくってて、とうとう「赤備え」を復活させることにしたのです。

四天王NO1の酒井忠次は、この赤備え軍団を若い直政に推薦しました。

が、榊原康政も優秀な赤備えを欲しくって「半分でいいからオレにもくれ!」と申し出たのです。

忠次と康政はこの時大喧嘩。

忠次は「それ以上言うと、お前の一族を串刺しにしてる!」とまで言い出し、康政は年長者である忠次にしぶしぶ従いました。

精鋭「赤備え軍団」を手に入れた直政。

井伊の赤備えはその後、数々の戦闘において大活躍。

秀吉に「赤鬼」とまで言われ恐れられるほどになっていくのです。
その後の石川数正
数正は秀吉の家臣となり優遇されるんだけどました。

が、家康は黙っちゃいなかった。

「石川数正は三河譜代の重臣だぞ?どんな理由があろうと、秀吉に味方するわけがない。実はスパイとして送り込んでいるのだ」という噂を流したのです。

この流言は飛び交いまくりました。

次第に秀吉も「うーん・・・。やはり数正は危険かもしれんな」と、遠ざけるようになったのです。

数正は豊臣家臣団の中で、その政治力を発揮する場を与えられなくなりました。

忠義心を疑われ重要な仕事をさせてもらえなかったのでした。

数正はショックで、扉を閉ざしたまま屋敷を出なくなってきたのです。

かつて徳川家臣団の筆頭家老だった数正も寝返りという不忠義を犯してしまったため、活躍の場を与えられないまま。

晩年は失意の中引きこもるようになり、国政の中心に入りたい・・・と夢見たまま死去したのです。

1586年4月 秀吉九州制圧へ!
九州では島津義久が九州統一を目指していました。

1586年4月。

島津の攻撃に耐えられなくなった大友宗麟が秀吉に救援を依頼してきまたのです。

そこで秀吉は「関白」として、島津&大友に仲直りするよう命令。

すると島津が「農民出の男の命令など聞けるか!」と言って来たのです。

秀吉はめちゃくちゃ怒りました。

早速、毛利軍を先発させ九州に出陣させることにしたのです。

さらに四国勢にも出兵命令。

長宗我部元親・信親も兵を率いて出陣しました。

ですがその前にやらなければいけないことがありました。

徳川家康との和平です。

自分が九州に力を入れたら、いつ徳川が反旗を翻してくるかわからない。

本格的な九州征圧を進める前に、なんとしても徳川と和議を結ばなければ!と、思い始めるのでした。
元親期待の星★長宗我部信親デビュー
秀吉が九州討伐に乗り出すと、長宗我部家は先発隊という名誉をおおせつかることに。

当時豊臣配下でNO1の実力は毛利。

ここで活躍すればNO2の宇喜田家を抜かすことができるかも・・・ってな考えで、元親自慢の息子信親をデビューさせました。

信親は元親を上回るといわれていたほどの知将で、この戦いで活躍させ、長宗我部の名を天下に知らしめてやろうと思ってました。

また四国の覇権を巡って戦っていた「鬼十河軍団」こと十河存保(そごうながやす)も先発隊に任命されたので、元親の心はヒートアップしていったのです!
1586年5月 家康 秀吉妹・旭姫と結婚
九州征圧に乗り出した秀吉。

自分も九州に行きたいけど、行けなかった。

家康に動かれたら困るからです。

「自分が九州に行ってる間に、家康に攻め込まれたら困る・・・」と、再三「和議しよう!」と連絡しまくるのです。

秀吉は妹旭姫を前夫と離婚させ、家康のもとに無理やり嫁がせることにしたのです。

この時家康45歳・旭姫44歳。

かなりの高齢政略結婚でした。

ちなみに家康は築山殿が死んじゃってるので旭姫は正妻として入りました。

旭姫の元・ダンナはショックで死んだと言われています。

1586年10月 家康 秀吉に服従する
妹を嫁がせた秀吉。

今度は実母の大政所を人質として差し出すから上洛しろと言ってきました。

ここまで言われた家康はととうとう上洛を決意したのです。

家康は秀吉に何かされるのを恐れ、人質としてやってきた大政所の屋敷の周りに「薪」を積み上げました。

何かやったら即刻焼殺しますよというアピールです。

そして家康は威厳を張って、堂々と京都へやってきたのです。

が、上洛前日。

なんと秀吉は単身で家康に会いにやってきたのです。

これには家康をはじめ、家臣団もビックリ!!

怒りあらわにした家康家臣団が取り囲む中、秀吉と家康の会談が始まったのです。

秀吉は得意の懐柔策で家康に「明日の正式会見の話なんだけどさ、頼むからみんなの前でワシに忠誠を誓ってくれよー。家康殿が頭を下げてくれれば、みんなワシを見直すし!」とお願いしました。

これには家康毒気を抜かれてしまいました。

「正直というかなんというか・・・。」とすっかり秀吉のペースに飲まれてしまったのです。

翌日、大阪城に登城した家康。

並み居る諸将の前で、恭順の礼を取ったのです。

秀吉は上段の間から「三河守殿か!上洛ごくろうであった」と、声をかけたのです。

家康は秀吉に臣従の礼をとりました。

そして家康の臣従により、秀吉の天下統一は目前となったのです。

これに抵抗を続ける北条・島津・伊達も影響を受けることとなります。
1586年11月15日 吉川元春死去
毛利元就の息子で、吉川家へと養子にいった元春。

秀吉の時代となると「ワシはあいつと戦ったことがあるだけに、どうも臣従するのは嫌なんだよね」と、息子の元長に家督を譲り引退してしまいました。

だけど、今回の九州攻めの時、甥である毛利輝元や、弟の小早川隆景に「一緒に戦ってよ!」とお願いされ参戦。

小倉城を攻略中に悪性の腫れ物が出来て病気となってしまったのです。

そのまま小倉城で療養し、回復に向かっていきました。

そこへ仲良しの黒田如水がお見舞いとして「鮭料理」を持ってきたのです。

当時「鮭料理」は腫れ物に悪いと言われていました。

元春は一瞬ためらいましたが、「せっかく持ってきてくれた如水に悪い・・・」と、全て食べたのです。

その夜、急に容態が悪くなり病状は次第に悪化。

とうとうそのまま息を引き取ったのです。

律儀さによって命を落とした元春。57歳でした。
1586年12月  戸次川の戦い
四国勢は仙石秀久を大将に、十河存保・蜂須賀・小早川などそうそうたるメンバーで九州に向かいました。

大友宗麟と相談し、まずは島津家久に攻撃されていた鶴ヶ城を助けるため戸次川に陣を構えました。

仙石秀久は「敵はたいしたことない。蹴散らそう!」と主張。

元親と十河が「それは危険だ。絶対に伏兵を潜ませているはず!しばらくは敵の出方を待つべきだ」と反対。

元親と十河はライバルでしたが、意見が一致しました。

が、仙石久秀は2人の意見を無視し、川を渡って島津勢を蹴散らすことにしたのです。

川を渡った四国勢は最初は勝ってましたが、途中で伏兵と大軍が一斉に襲い掛かってきました。

そうです。元親たちの予想通りの罠にかかってしまったのでした。

仙石軍は真っ先に逃亡。

残された元親軍と十河軍は攻撃の真っ只中に取り残されてしまったのでした。

元親はなんとか退却できたけど、果敢に敵中で戦った息子信親は死去。

十河存保も討死しました。

仙石秀久は秀吉にめちゃくちゃ怒られ所領没収となったのです。
長宗我部元親 ショックでおかしくなる
元親はというと、信親の死を聞いて愕然。

あまりのショックに腰に差していた短刀で自刃しようとしたが側近に止められました。

秀吉から可哀相だからといって所領を与えましたがそれも拒否。

信親の死は長宗我部家の衰退の始まりでした。

元親は人が変わってしまい、自分のことを心配する人を疎ましく思うようになっていったのです。

ちょっとミスしただけの家臣を殺すようになったり。

偏屈な老人となってしまいました。
長宗我部の後継ぎは?
信親が死んだことにより、新しい後継者問題が勃発してきました。

元親には4人息子がいて、長男が死んだ信親でした。

普通は次男が継ぐんだけど、元親は四男の盛親に継がせることに。

これを知った次男はショックで死んじゃいました。

家臣団は順序が違う!と大反対。

元親は反対した家臣を処刑しまくりました。

信親の次に可愛がられていた盛親ですが、それでも信親を溺愛していた元親は冷酷に盛親を扱いました。

盛親は死んだ兄の幻影を追い続け、父に認めてもらおうと必死に頑張りました。

元親は1599年4月、関が原を見ることなく61歳で死去。

戦国を生きた悲哀の英雄でしたが、信親の死後は腑抜けたまま死んでしまいました。

そして新当主となった盛親は、戦国時代NO1といわれるほど数奇な運命をたどることとなるのです。