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安土桃山時代その14 1591年〜1594年

1591年1月 豊臣秀長 死去
2月 千利休切腹
8月5日 秀吉生涯最大の悲しみ 鶴丸死去
養子となった豊臣秀次
9月 朝鮮へ出陣 文禄の役
12月 秀吉 甥の秀次に関白を譲る
1592年3月 小西行長ら 朝鮮へ上陸
一番隊 小西行長
朝鮮行きを聞いた家康は?
文禄の役
浅野長政「秀吉は狐憑きじゃ!」
7月22日 秀吉の母 大政所死去
1593年 朝鮮とはどうなってる?
加藤清正 「小西と三成 マジむかつく!」
8月 淀君出産 豊臣秀頼生まれる
秀吉「うーむ・・・失敗した」
正室北政所(ねね)VS側室淀君
殺生関白 秀次
1594年8月23日 石川五右衛門ついに御用
11月 小早川秀秋 小早川家の養子になる




安土桃山時代 その14
1591年1月 豊臣秀長 死去
秀長は母は同じで父が違うという、秀吉の3歳下の弟でした。

秀吉を出し抜いて政権を奪おうなどという野心を持たない、正真正銘の縁の下の力持ちとして秀吉に尽くし続けていました。

山崎の戦い・小牧などなど抜群の働きを見せました。

一番は四国討伐。

秀長は100万石の大名にまでなりました。

寛容な性格だった秀長は、秀吉のパイプ役として諸大名と秀吉の仲を取り持ち、秀吉に信頼されまくていました。

そんな秀長が死んでしまったのです。

信頼できる係累の少ない秀吉にとって秀長の死はかなり大きなダメージとなり、秀吉の悲劇を招く要因となりました。

1591年2月 千利休切腹
千家流茶道の開祖である千利休。

堺で生まれた利休は、小さい頃から茶に親しみ、茶の世界で高い評価を受けて信長に仕えるように。

本能寺の変の後は秀吉に仕え、重んじられました。

利休は秀吉のように豪華絢爛な茶器は好みませんでした。

どこにでもあるけれど、使い方によっては素晴らしい名器になるという道具を好みました。

秀吉は茶の湯に熱中し、合戦や旅行の途中でも茶会を開きまくった。

そうした茶会のたびに利休に手前をやらせ、利休の名はみるみる世の中に広まっていくことになったのです。

そうして利休の勢力は、政治や人事の領域にまで広がっていきました。

ある日利休は大徳寺の山門に自分自信をかたどった木像を置きました。

大徳寺には身分の高い人が通りまくるので秀吉はいくら天下の茶人とはいえ、自分の像を置くとは!と利休に切腹を命じたのです。

いくらなんでも切腹はひどすぎると周りは非難しまくり。

秀吉の母や弟・秀長までもが利休の命乞いをしました。

が、当の本人である利休が切腹をすると言いはったのです。

利休の切腹はこれが原因と言われています。

が、実は娘を差し出さなかったのが原因とも言われています。

利休の娘はとても美人で、秀吉は「あの女をワシに差し出せ」と命じたのです。

ですが、利休はそれを断り「自分の娘にそんなことはさせられない」と断ったのです。

この直後に木像事件が発生。

誇り高い茶人であった利休は、切腹を選んだのです。

1591年8月5日 秀吉生涯最大の悲しみ 鶴丸死去
53歳にしてやっと子供が生まれた秀吉。

長男・鶴丸をめちゃくちゃ溺愛していました。

弟の秀長が病気で死んだ頃、長男である鶴丸も病気がちになってきたのです。

そしてとうとう、鶴丸は3歳で死んでしまったのです。

「鶴丸死去」を京都の東福寺で聞いた秀吉。

その場で髻を切り落としました。

そして清水寺へ行き、有馬温泉へ行き10日間姿を見せませんでした。

秀吉の悲しみ方は目も当てられない有様だったそうです・・・・。

そしてこの後「ワシにはもう子供は生まれないだろう・・・」と、甥の秀次を養子とするのでした。
養子となった豊臣秀次
秀次(ひでつぐ)の母は秀吉と同父母の姉でした。

姉が阿波の三好家一族に嫁ぎ、3人の子供をもうけました。

その長男が秀次でした。

三好秀次は農民出の秀吉にとって数少ない身内。

そのため14歳で2万石の大名となり、15歳の時に滝川一益攻めに初出陣。

そこそこの手柄を立てていましたが、16歳の時の小牧・長久手の戦いにおいて、池田恒興とともに「三河攻め」を意見。

「オレが総大将やりたい!」とまで言い、家康の反撃を受けてしまいました。

この時、多くの武将が討たれましたが、総大将である秀次がノコノコと逃げ帰ってきたことに秀吉は激怒!

ですが秀吉は「甥」なので、許しました。

その後の秀次は一生懸命汚名返上し、小田原攻めでも人並みの手柄をたて、秀吉の機嫌もだいぶ治りました。

そして秀吉の長男・鶴丸が死んでしまったために、秀次の運命が大きく変わることとなるのです。
1591年9月 朝鮮へ出陣 文禄の役
最愛の息子を亡くした秀吉。

その思いを紛らわせるかのように朝鮮渡海計画をたてはじめたのです。

秀吉自信の征服欲ももちろんありましたが、天下統一しちゃったので領土を広げられなくなった大名達の不満を海外に向けようとしたのです。

早速、インド・ルソン・朝鮮に属国(日本の家来)になれという手紙を出しました。

もちろん朝鮮の王である李成桂(りせいけい)はそれを無視。

こんにゃろー!ってことで、秀吉は16万の大軍で朝鮮へ向かう準備に取り掛かったのです。

ちなみに朝鮮ではこの戦いを壬辰倭乱といいます。

こうして7年にわたる日本国中がヘトヘトになる戦いがスタートするのです。
1591年12月 秀吉 甥の秀次に関白を譲る
秀吉は「もう子供は生まれないだろう」ということで、関白職を秀次に譲りることに。

自分は太閤と号しました。

関白を譲った時に訓戒状を与えました。

「茶の湯・鷹野の鷹・女狂いするな。秀吉の真似をしないこと」といった内容。

自分はやったけどお前はやるなという勝手な言い草だけど、これは秀次の素質を充分にわかっていたからでした。

この時秀吉56歳 秀次は23歳でした。

1592年3月 小西行長ら 朝鮮へ上陸
1月に秀吉は出陣を命じ、朝鮮へ最後の使者を送ったが返事がありませんでした。

とうとう3月に一番隊の小西行長がプサンへ到着しました。

ちなみに隊の編成はというと

1番隊 小西行長 20000人
2番隊 加藤清正・鍋島直茂 23000人
3番隊 黒田長政・大友義統 11000人
4番隊 島津義弘 14000人
5番隊 福島正則・長宗我部元親・蜂須賀家政 25000人
6番隊 小早川隆景 15000人
7番隊 毛利輝元 30000人
8番隊 宇喜田秀家 10000人
9番隊 羽柴秀勝・細川忠興 10000人

約16万人が朝鮮へ向かったのです。

一番隊 小西行長
堺で生まれた行長。

家は朝鮮人参で作った薬や化粧品の原料を輸入する貿易商でした。

父母が熱心なキリシタンだったため、行長も自然にキリシタンに。

成長すると、商人としてそ宇喜田直家のもとへ出入りしていたのです。

ある日宇喜田家に秀吉から「戦いがあるから兵を出せ」と命令がきました。

直家は商人である行長を行かせたのです。

行長に会った秀吉は、行長の賢さを気に入り秀吉軍団へ入れることに。

「千石の舌」とも言われるほどの、さわやかな話し方で、秀吉のお気に入りに。

商人特有の優れた経済感覚と語学力、また外交に対する知識も抜群だったため秀吉に重宝されました。

1584年にはキリシタン大名である高山右近と仲良くなり、ますます熱心な信者となりました。

宣教師のルイス・フロイスは、行長を「海の司令官」と褒めていたほどです。

朝鮮行きを聞いた家康は?
「朝鮮出陣」の命令書を江戸で貰った家康。

その命令書を開いたまま呆然としていました。

本多正信が「いかがなされたのでしょうか?」と聞いても、家康は黙ったまま。

そして「バカなことを・・・」と、呟いたのです。

家康としては、江戸に来たばかりなので「国内充実」の方が先決だったのです。

朝鮮へ行くなどと、そんな無駄遣いできるか!といった感じでした。

でも秀吉からの命令なので、しぶしぶ秀吉のもとへ。

で、家康は秀吉に「ぜひ我が軍を一番手に!必ずや立派な働きをいたします!」と言いました。

内心は行きたくないけど、「行かせてくれ!」のアピールをしまくりました。

すると秀吉は「いやいや、徳川殿がいないと国内が不安定になるからな」と、家康出陣を拒んだのです。

家康は内心大喜びでした。
1592年 文禄の役
徳川家康・伊達政宗・上杉景勝・前田利家ら留守番組は、いつでも行ける様10万の兵を集め名古屋で待機しました。

上陸部隊はプサンから漢城(ソウル)にむけて快進撃!

数々の戦乱をくぐりぬけてきた日本軍の武士に朝鮮は対抗できず、とうとう明(中国)へ助けを求めました。

5月には朝鮮の王李成桂は漢城を捨て平壌へ逃げ、日本軍は漢城を落としました。

そして6月には平壌をもゲット。

明に向かって進撃体制を整え始めました。

明はというと、たびたび援軍を要請されており、やっとこさ救援にやってきました。

が、日本軍はこれを撃退。

だけどこのあたりから平和主義である小西行長は休戦したいと思い始めるのです・・・。

さらに兵糧も少なくなってきました。

慣れない土地で暮らすことを余儀なくされた兵たちは疲れ始めてきたのです。

8月になると小西行長は50日間の休戦協定を結びました。

ちなみに日本軍は、占領した場所の朝鮮の人々を「日本人」にするべく教育しました。

髪型も日本人のようにさせたり、日本名を名乗らせたり・・・。

安国寺恵瓊が「いろは」を教えてたそうです。

浅野長政「秀吉は狐憑きじゃ!」    

浅野長政の妻と秀吉の妻ねねは腹違いの姉妹だったため秀吉にとっては義兄弟でした。

戦いよりも政治的手腕に優れていた人で、縁者の少ない秀吉にとって、長政は力強い存在でした。

小牧・長久手の戦いの時、家康と和解するために秀吉の妹 旭姫を嫁がせますが、その時の交渉役が長政でした。

優れた官僚である長政を家康は歓迎し、優遇しました。

長政も家康と気があったのか、2人は水面下で仲良しに。

朝鮮出兵の時、苦戦しだした日本軍の情報を聞き、秀吉が「ワシも朝鮮に行く!前田利家と蒲生氏郷を連れて30万の軍隊で海を渡るぞ!」と言い出しました。

すると長政が「今秀吉殿が国を離れれば、国内の情勢は悪くなります。日本国中父が討たれ、息子が討たれと不満だらけ。さらに兵糧の調達の負担もすごいことになってます。そんなこともわからず、それでも行くというのであれば、殿は狐憑きに違いありません!」と言ったのです。

秀吉は「なんじゃとーーー!!」と、超激怒!!

今にも刀を手にかけ長政に襲い掛かろうとしたところを、蒲生氏郷と利家に必死で止められました。

長政は「切腹覚悟で申したのじゃ!」と、そのまま帰ってしまいました。

秀吉は長政の真心を忠心と認め、長政に何の処分も下しませんでした。

1592年7月22日 秀吉の母 大政所死去
秀吉にとってまたも大変な出来事が!

名古屋にいた秀吉のもとへ「大政所重体!」というニュースが入ってきたのです。

秀吉は慌てて大政所のもとへ向かいました。

が、秀吉が出発した22日、大政所は死んでしまったのです。

それを聞いた秀吉は、そのまま気絶してしまったそうです。

秀吉はショックでそのまま大坂に10月まで滞在しました。

その間に主のいない名古屋では「和議したいよね・・・」という空気が流れてきたのです。

というのも、快進撃を続けていた朝鮮上陸部隊は、朝鮮の水軍に制海権をゲットされてしまったのです。

そのため兵糧・武器などの補給路が絶たれ、苦境に陥っていたのです。

さらに秀吉は大政所の死がショックで、そろそろボケが始まりかけていました。

日本軍の士気は下がりまくっていたのです。
1593年 朝鮮とはどうなってる?
日本軍は朝鮮で年を明かしましたが、事態はますます悪くなってきていました。

1月7日には明の李如松(りじょうしょう)を大将とする大軍が、平壌を奪い返したかと思うと、小早川隆景率いる日本軍が明の軍を打ち破ったりと、一進一退の攻防となってきたのです。

漢城では飢饉になり兵糧がなくなってきたので小西行長・石田三成・増田長盛らは講和を求めるように。

とうとう和議へと向かっていったのです。

秀吉は講和の条件として明の皇女をわが后にしろ!とか勘合貿易復活させろ!とか朝鮮の王子を人質によこせ!などなど強気の条件を出してきました。

疲れきっていた小西行長は、なんとしても講和を成功させたかった。

「こんな条件出せないよ」と、明の使者とともに相談し、明の王へ出すこの条件をすり替えました。

こうして小西行長により文禄の役は「自然休戦」という形になったのです。
加藤清正 「小西と三成 マジむかつく!」

清正は文禄の役の際、二番手として一番手の小西行長と戦功を争っていました。

秀吉は朝鮮に出兵した諸大名を監視・監督させるため石田三成・増田長盛・大谷吉継を派遣しました。

そんな中、清正は「オレは最前線で命を賭けて頑張ってるのに、後方で偉そうに命令出しまくってる石田三成とかってムカつく!」と、イライラ。

さらに小西行長と三成が仲良しなので清正のイラつきは頂点に達し、朝鮮では内部分裂しまくってました。

ところで小西行長は「和平派」だったため、なんとか朝鮮とのバトルを辞めたかった。

だけど清正は「秀吉を偽ってまでなんで和平しなきゃならんのだ!?」と、激怒!

たびたび朝鮮側と小西行長の和平工作を妨害したのです。

清正の勝手な態度に困った小西行長は石田三成に相談。

三成は秀吉に「三罪あり」とチクることに。

三罪とは
@清正は朝鮮人の前で小西行長のことを「堺の薬売り商人」とバカにした

A清正は勝手に豊臣の名前を名乗っている

B清正の家来は明の使者の財宝を勝手に奪った

秀吉はこれを見て怒り、清正を朝鮮から戻し、謹慎処分にしました。

これに逆ギレした清正。

「安全なとこにいて俺達に指図する三成らに何がわかる!!」と超激怒!

清正をはじめ、前線で必死に戦っていた福島正則・浅野幸長・黒田長政もいつか三成を・・・と憎悪の炎を燃やすことになるのです。

1593年8月 淀君出産 豊臣秀頼生まれる
ここにきて愛妾淀君になんと待望の男児が生まれました。

秀吉はもう子供はあきらめていただけに狂喜して喜んだのです。

ちょうど朝鮮出陣のため名古屋いにたんだけど、大阪城に飛んで帰りました。

名前をつけるとき、秀吉は真剣そのもの。

以前「捨」とつけた鶴丸は、結局捨てた(死んだ)ことになってしまった。

ならば今度は!と、「拾」という名前をつけたのです。

以後、「拾」と名づけられた秀頼はめっちゃくちゃ可愛がられます。

帝王学を教えられ、淀君ら女性に囲まれ過保護すぎる生活に。

過保護にしすぎて超肥満児に育っていったそうです。

ちなみに帝王学の書として秀頼に与えられたのは「樵談治要(しょうだんちよう)」というもの。

これは日野富子(将軍足利義政の妻)が、自分の子義尚のために一条兼良(かねら)という学者に書かせた「心得書」であります。

秀吉「うーむ・・・失敗した」
秀吉は秀頼を目に入れても痛くないほど可愛がりました。

そして、愛しいわが子に関白を譲り天下を譲りたいと思うのです。

こうなると甥の秀次に関白を譲り、家督を取らせたことが悔やまれてきました。

こうなったら日本を5つに分け、4を秀次に1を秀頼にと計画。

また将来、前田利家夫婦を仲人にして秀頼の妻に秀次の娘を迎えようと計画までした。

が、肝心の秀次は一度手に入った天下を人手に渡したくない。

関白だって自分の息子に譲りたい。

だけど秀吉に逆らえるはずもなく、憤懣やるかたない秀次は自暴自棄に陥っていくこととなるのです。
正室北政所(ねね)VS側室淀君
秀吉正室のねねと側室淀君の仲は最悪でした。

淀君は信長の妹 お市の方の娘。

もともとは自分の一族である織田家が主家で秀吉は家臣だったことからねねに対して「私は主筋で、お前など土下座しても縁側までも上がれない身分だったじゃないの」といった態度がアリアリでした。

秀吉には側室が20人ほどいましたが、淀君だけは正室であるねねのご機嫌を伺いませんでした。

秀吉も、昔から恋焦がれていたお市の方に一番似ていて美しい淀君を側室にした時、淀君だけは他の側室と別格扱い。

だけど、どう頑張っても側室は側室。

どうあがいても地位も名誉も北政所である正妻 ねねには勝てなかったのでした。

そこに秀頼が誕生。

一説には秀吉は子種がなく、秀頼は秀吉の子供じゃないという噂もあります。大野治長とかね。

当時の習わしでは側室の子供でも正室が引き取り、嫡男として育てるのが当然だったけど、ねねは貰い受けませんでした。

それでもたまに会う秀頼は可愛かったらしい。

そして秀頼に「まんまかかさま」と呼ばせていました。

これも淀君が気に入らないポイントでした。

「あんたなんて子供もうめないくせに!なにがまんまかかさまよ!」という感じ。

その代わり加藤清正・福島正則らを子飼にし、ねねはそれら子飼いの将の「母」として、わきあいあいと暮らしていたのです。
殺生関白 秀次
秀頼が生まれたせいで秀吉と険悪になっていった秀次。

生活も乱れまくりました。

34人以上側室を作り、中には母娘両方側室にしたりの畜生ぶり。

中でも一番のお気に入りは16歳の「おまんの方」

このおまんの方が残虐性を持った女性だったのです。

ある時秀次の料理に砂が混じっていました。

おまんの方は「秀次殿の料理に砂を入れるなんて!料理したヤツを呼べ!」といい、秀次の前に出しました。

そして秀次は料理人の右腕を切ったのです。

するとおまんの方は「キャー!お見事!」と嬌声を上げ喜んだのです。

秀次はそれ以後人斬りの味を覚えてしまったのです。

夜中たびたび外に出て人を斬るように。

だんだん辻斬りではめんどくさくなってきて、数百人捕まえてきては片っ端からなで斬りするように。

そして美女をはべらせまくりました。

またある時は、妊婦の腹がどうなってるのか気になり妊婦の腹を裂いては喜んだのです。

そして「殺生関白」と呼ばれるようになりました。

秀吉はこの乱交の噂を聞いていたものの「秀頼に天下を奪われそうになっているのだ。無理はない・・・」と、始め見てみぬフリをしていました。

肉親の少ない秀吉は、秀頼に天下をとらせ秀次を後見人にしようと思っていたのです。
1594年8月23日 石川五右衛門ついに御用
この時代大盗人として名高かった石川五右衛門。

秀吉の命令によって前田玄以がとうとう逮捕しました。

8月23日

多くの庶民が京都三条河原に詰めかけました。

希代の大泥棒石川五右衛門とその一族が、釜茹での刑に処されるのでした。

大釜の中には五右衛門の師匠の3歳の息子も入っていました。

火がおこり、油がバチバチとはねた。

すると五右衛門が釜の中から顔を出し「これはこれは大勢の見物人殿。しっかり念仏を頼みますぞ」と言い、五右衛門が引っ込むと3歳の子供が「熱い熱い」と顔を出し泣き喚いたと思うと顔をひっこめたのです。

見物人らは「熱さに耐えかねた五右衛門が子供を下にひいた」と大騒ぎ。

すると五右衛門はカッと目を見開き「ばか者め!師匠の子に苦しい思いをさせずひと思いに殺したのだ!」と怒鳴り、最後に「念仏を頼む」といい焼死しました。
1594年11月 小早川秀秋 小早川家の養子になる
小早川隆景は毛利元就の3男として生まれ小早川家の養子に。

文武に優れ思慮深く人望も集まりまくりました。

秀吉の中国攻めの時に本能寺ショック。

和睦後、追撃しなかったことから秀吉に感謝されました。

秀吉は毛利一族の中でも特に隆景を信任していました。

隆景は兄である吉川元春とともに、いまいち大大名としての力量に欠ける若い甥の輝元をサポートし、毛利家のために尽くしていました。

ちなみに元春は1586年九州征伐中に病死。

後を継いだのは息子の吉川広家。

広家もまた毛利家のために尽くしまくります。

が、ここにきて秀吉が子供のいない毛利輝元のもとに、自分の養子である秀秋を輝元の養子として送りつけてこようとしたのです。

秀秋はねねの兄の息子。

秀吉は秀頼が生まれる前は秀秋に家督を継がせようかな?とまで思ってました。

が、いまいち優秀じゃない。

さらに、秀頼が生まれちょっと邪魔に思うように。

そこで子供のいない毛利輝元に白羽の矢を立てたのです。

これは毛利家が豊臣家に牛耳られるばかりではなく、凡庸な秀秋に毛利家を継がせてしまったらどんな無理難題を持ちかけられるか・・・毛利一族の土台もぐらつくことになる。

ここで隆景は正式に頼まれる前に「秀秋殿をわが小早川家の養子に迎えたい」と秀吉に言ったのです。

毛利本家を守るために小早川家を犠牲にしたのでした。

そして秀秋は小早川家へ。

だけど小早川家家臣団らはこれを不愉快に感じまくることに・・・。