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安土桃山時代その16 1598年8月〜1599年

1598年8月5日 秀吉 最後のお願い
8月16日 秀吉死去 家康 迫真の名演技
10月 日本軍撤退スタート
武功派VS文治派
犬猿の仲 加藤清正VS小西行長
次の権力者は誰か!?
家康と利家 どっちが人気?
1599年2月 家康 動き出す!!婚姻関係結びまくり
三成に過ぎたるもの 島左近
この頃 上杉家は?
前田利家 怒る!
家康「ごめん、ごめん」
家康 細川忠興を頼る
3月3日 前田利家死去
3月3日 石田三成襲撃事件
家康ビックリ!よくワシのとこに来れたな
3月 島津家 お家騒動 伊集院の乱
この頃 秀吉正妻「ねね」は?
さらに続く 女のバトル ねねVS淀殿
家康 ねねに近づく・・・
9月 ねね(北政所)大阪城を出て行く
9月27日 家康 大坂城へ入る
11月 前田利長大ピンチ!
まつ 江戸へ行く
利家の妻 まつ
家康 確実に権力を掴み始める


安土桃山時代その17 〜1599年
1598年8月5日 秀吉 最後のお願い
もはや誰の目からみても秀吉が死ぬのは明らかになってきていました。

病床にあった秀吉は、石田三成や浅野長政に会い、秀頼を傍らに置き、いとおしそうに眺めながら「この子が元服し、諸大名と会う晴れ姿をこの目で見たかった・・・」と、さめざめと泣きました。

小さな背中の老人の姿がそこにありました。

8月5日 秀吉は五大老宛てに遺言状を書きました。

「秀頼のことをなにとぞ頼む」と、しつこいくらい頼む頼むとお願いしたのです。

その時の文は「かえすがえす秀頼のこと、頼み申し候。五人の衆 たのみ申すべく候。なごりおしく候」といった内容です。

そして五大老と五奉行は互いに血判の誓約書を取り交わしました。

内容は「秀吉同様に秀頼に奉公すること・秀頼が成人するまで知行に関する争いはしないこと」などなどでした。

8月6日 家康・利家・宇喜田秀家・毛利輝元がお見舞いにやってきました。

秀吉は利家と家康に、何度も何度も秀頼を頼むとお願いしたのです。

8月11日 五奉行の誓紙が家康らに提出されました。

これを最後に臨終までの言動は記録はありません。

1598年8月16日 秀吉死去 家康 迫真の名演技
8月16日 農民から天下統一を成し遂げた秀吉。

とうとう死去しました。

この死により、一つの時代が終わったのです。

権力の頂点に立ったままでの死でしたが、最後まで秀頼のことを心配しつつの死でありました。

死ぬ間際にまで「かえすがえす秀頼のことを頼み申す。五人の衆(五大老のこと)へ、しかと頼みます」と書き残しました。

家康は何度も何度も「秀頼を頼む」と言われ、それに対し涙を浮かべ、秀吉の手を握り「お任せ下さい」と誓ったのです。

家康の迫真の名演技でした。

秀吉63歳。そして家康は57歳でした・・・。
1598年10月 日本軍撤退スタート
秀吉の死によって、ずっと続いていた戦いが幕を閉じることに。

五大老らの会議により、家康と前田利家が2人の使者を朝鮮に送り講和に成功。

軍を撤退させることを命じました。

朝鮮水軍は撤収する日本軍を追撃しましたが、李舜臣が戦死してしまい追撃は終わりました。

12月に最後の軍が日本に帰ってきて、長かった戦いは終わりました。
 
この戦いは豊臣家のお金を使いまくり、大ダメージとなりました。

その間コツコツと貯め込んでいたのが徳川家康であります。

家康は遠征軍の引きあげを一番積極的に行いました。

さらに遠征軍の武将達への慰労もぬかりなくやりました。

そのため秀吉死後の家康人気は高まっていくのです。

また、朝鮮の田畑は荒れまくり、朝鮮から活字印刷や陶芸などの技術者は日本に連れさられました。

多くの捕虜が奴隷として売り飛ばされるなど朝鮮にとっては悲惨な結果となったのです。

武功派VS文治派
秀吉の死は武功派と文治派の争いをヒートアップさせることとなりました。

この時代は合戦に明け暮れていたので、どうしても「武功派」が脚光を浴び、人気がありました。

武功派は、文治派のやる仕事をめちゃくちゃ軽視していました。

「俺たちは命を賭けて戦っている。ヤツラの仕事は後ろで調達などをしているだけ。あいつらは命も賭けれないいくじなしどもだ。だから黙って我らの言うことを聞いていればいいのだ」みたいな考えでした。

でも文治派もそれなりに仕事をしています。

兵糧調達・外交交渉・検地など。

それら根回しをきちんとやっていなければ、武功派は活躍の場を与えられないのです。

とまぁ、現代でも営業マンと事務員が揉め事を起こすように(?)、この時代も武功派と文治派は避けることのできない確執があったのです。

そして、今までは秀吉の目が光っていたので、遠慮していましたが、秀吉死後押さえが効かなくなってきたのです。

朝鮮撤退後、三成らが諸武将の辛労を慰めようと茶会を催しました。

すると加藤清正が「われらは7年間茶も酒もないとこで命を賭けた戦いをしてきた。こちらからは稗粥くらいなら進上してやろうか?」と嫌味を言ったのです。

こうして武功派と文治派の争いは目に見えた形となってきました。

武功派からしてみれば、石田三成だけには政治の実権を握らせたくない。

三成が握れば、真っ先に潰されるのは武功派である自分達だからです。

そしてそんな不安定な状況を、冷静な目で見ていたのが家康だったのです。

犬猿の仲 加藤清正VS小西行長
1588年に佐々成政が切腹させられました。

佐々成政の領地は、加藤清正と小西行長が二分して与えられることに。

2人とも秀吉から信任も厚く、出世のスピードも同じくらい。

何かと競争心を刺激していたのです。

2人は全くタイプの違う武将。

そんな2人が隣同士。

清正は熱心な日蓮宗の信者で、行長は熱心なキリスト教信者。

国境を接してるだけに、何度もトラブルを起こしていましたが、いつも石田三成ら文治派と仲のいい行長の勝ち。

清正は行長だけでなく、三成も激しく憎むようになっていくのでした。

そして朝鮮では2人で戦功争い。

が、三成によって清正は強制送還。

もう清正は三成・行長が憎くて憎くてたまらない状態に。

秀吉はこの2人を競争させ、いい方向に持ってこさせようとしてましたが、作戦通りにはいかなかったのです。
次の権力者は誰か!?
三成が一番警戒していたのは徳川家康でした。

領地をとってみても家康は255万石。

対抗馬の前田利家は80万石・毛利120万石・上杉120万石。

領地以外にも、家康は秀吉死後、何かと積極的な行動をとっていました。

三成にとって大恩のある秀吉の遺児・秀頼を守ることが先決。

ここで家康に大きな権力を与えることは許されないことだったのです。

できれば家康を、秀吉が作った「秀頼を頂点とする五大老合議制の枠組み」の中に押し込んでおきたかった。

そしてそれに賛成意見を出しているのは、秀吉の信任厚い前田利家でした。

こうして大坂にいる利家と三成・伏見にいる家康は、表面上では協力的な態度を見せていたのです。

まわりの諸大名たちは「次の権力者はどっちか・・・」と、値踏みをしていました。

自分達の家を守るには、有力な方へ付かなければならないからです。

こうして秀吉死後の半年間は、怪しげな空気が漂いまくっていたのでした。
家康と利家 どっちが人気?
秀吉死後は、家康と利家が権力を二分していました。

家康・利家と、2人とも諸大名から人望があり、その評価は五分五分といった感じでした。

ただ、この頃の利家は健康面が優れていないという、ダメージがあったのです。
1599年2月 家康 動き出す!!婚姻関係結びまくり
秀吉死後の緊張感漂う中、ついに家康が動き出しました。

家康は自分の勢力を大きくするため伊達政宗・福島正則・蜂須賀家政らと婚姻関係を結ぼうと動き出したのです。

ですが大名が勝手に婚姻関係を結ぶことは秀吉により禁止されていました。

五奉行の石田三成はその情報をキャッチすると、真っ先に前田利家に相談したのです。

三成に過ぎたるもの 島左近
出生は不明。

一説によると筒井順慶に仕えていたといわれています。

そこで松倉右近とともに「右近・左近」と呼ばれていたそうです。

順慶が死ぬと、養子である定次に仕えました。

が、定次と仲が悪くなり筒井家を去りました。

その後は柴田秀長に仕えましたが、秀長がまもなく病死。

今度は秀長の息子である秀保に仕えましたが、秀保も死んでしまい、次に出会ったのが石田三成でした。

三成は年上である右近に対して「自分の四万石の所領のうち一万五千石(二万ともいう)をあげるから私のもとに来てくれ」とスカウトしました。

主人でありながら家臣の自分に半分の所領をくれるってんだから左近もこれにはびっくり!

この話を聞いた秀吉は「主人でありながら家来と同じ石高とは!」と三成の思い切りの良さに驚愕し、右近を呼んで三成への忠誠を説きました。

ちなみに三成が、有名な左近を召抱えたことにも秀吉は驚きました。

そして左近は三成の思いに答え、軍師として忠誠を尽くしたのです。

「三成に過ぎたるものが二つあり。島左近と佐和山の城」と言われるように。

そして、左近は三成の片腕として、同じく上杉景勝の腹心である直江兼続となにやら相談をしだすのです・・・。

この頃 上杉家は?
家康が動いたという情報をキャッチした上杉家。

「これはやりすぎだ!近いうち、何か起きるであろう」と予想しました。

秀吉は上杉景勝に120万石与えた他、家臣の直江兼続にまで米沢30万石を与えました。

これは異例中の異例。

当時30万石を超える者は家康・毛利輝元・上杉景勝・伊達政宗・宇喜田秀家・前田利家・小早川秀秋・鍋島直茂・島津忠恒らわずかな人数だけ。

三成でさえ20万石。

兼続は家臣でありながら30万石の所領を与えられていたのです。

そんな上杉家は「家康め・・・。何を企んでおるのじゃ。まさか豊臣に代わって天下を取ろうとしているのでは・・・?」と、嫌な気持ちでいっぱいになっていくのでした。
前田利家 怒る!
家康以外の四大老は、家康に「勝手なことしやがって!」と、激怒しました。

その中でも一番の実力者である利家は「家康・・・危ないな」と、危険を察知。

利家は織田信長の下にずっといたので、家康の律儀で信義の厚いところを気に入っていました。

その家康がなぜ?と、ムカムカ。

ただちに家康以外の四大老と五奉行で会議。

その場で石田三成が「家康を五大老から外すべきだ!」と、激怒!

みんなも「それはもっともだ」と賛成し、家康のもとへ使者を出したのです。
家康「ごめん、ごめん」
家康のもとに使者が行きました。

狸オヤジ家康は「ごめん、ワシが悪かった!」と、さらり系。

ですが、「確かに秀吉の命令に背いちゃった。けど、大老職を免除はできないよね?それって秀吉の遺言に背くんじゃないの?」と、いった感じでいました。

三成はというと、秀吉に背く家康が嫌いだったのでこのまま家康・利家が争ってくれたら・・・と思っていました。

が、利家は実は三成のこともあまり好きじゃない。

ですが秀吉には恩がある。

なんとしても秀頼を守らなければ!それには三成と一緒にやっていくしかない!といった感じなのでした。

こうして家康・利家・三成らの間に不穏な空気が漂いまくったのです。
家康 細川忠興を頼る
「利家を怒らせるのはマズイなぁ」と感じた家康。

細川忠興に仲介をお願いしました。

忠興は以前、秀吉の甥である殺生関白秀次に借金をしてたので、秀次一味として秀吉にニラまれていました。

それを仲裁に入ったのが家康で、さらに借金肩代わりまでしてくれ忠興は家康に感謝してたのです。

忠興は前田家と婚姻関係があったので、家康に「利家との仲を仲裁してよ」とお願いされてしまいました。

忠興は利家に「家康殿と利家殿が争うのは秀頼様にとってもあまりいいことではありません。是非家康殿と一度会って、話し合ってみて下さい。」と言いました。

そして家康と利家は会見。

家康は「ワシは秀頼のことを大事に思っておる」というのをアピール。

とりあえず和解となったのです。
1599年3月3日 前田利家死去
三成や家康の周りを刺客がウロウロしだしました。

世の中の情勢は不安定で、政治機能はほとんど麻痺しまくり。

が、とうとう恐れていたことが起きてしまったのです。

五大老の中で一番力がある家康。

その対抗馬が前田利家。

その利家がとうとう病気で寝込んでしまいました。

今ここで利家に死なれることは、反・家康派にとっては大打撃。

「頼むから持ちこたえてくれー」と、みんな願っていたのです。

ですが、とうとう利家は死んでしまったのです。

利家62歳でした。

利家は死ぬ10日前息子の利長に「秀頼のことを頼む!」とお願いし、遺言を残しました。

@秀頼に対し謀反をする者があった場合を考慮し、大阪城に8000人の兵を用意しとくこと

A合戦は敵地でやれ。自国でやるな

B文武ニ道を行え

というもの。

こうして、利家の死により家康の独走態勢が整ったのです。
1599年3月3日 石田三成襲撃事件
利家が死んだその日、待ってましたとばかり、三成のことを大嫌いな加藤清正・福島正則・黒田長政・浅野幸長・細川忠興・藤堂高虎・蜂須賀家政ら7人が動き出しました。

三成も密かに武功派による身の危険を感じていたので、ずっと療養中利家の屋敷にいて保全してました。

この情報をキャッチした桑島治右衛門が、三成に「襲撃の企てあり」と連絡。

三成もある程度予想はしていましたが、7将相手だとちょっとヤバイなと感じました。

そして向かったのは佐竹義宣(よしのぶ)の家だったのです。

義宣は三成を支持している一人で、とても仲良しでした。

そして三成は無事に義宣の家にたどり着きましたが、すぐさま加藤清正らがやってきたのです。

「佐竹殿!三成を引き渡せ!さもなくば屋敷に踏み込むぞ!」と脅してきました。

これに困った義宣は「三成はおらんぞ!」と、すっとぼけましたが、内心「うわぁ。どうしよう」とドッキドキ。

三成は「これ以上義宣に迷惑はかけられぬ」と、裏門から出て、なんと敵である家康のもとへ向かったのです。

家康ビックリ!よくワシのとこに来れたな
三成は家康の屋敷へ向かいました。

そして自分のことを保護してくれるようお願いしたのです。

家康は超ビックリ!

まさか敵である自分のところに、保護してくれるようお願いに来るとは思ってもみなかったのです。

家康は側近の本多正信と相談。

「三成、ここで殺しちゃう?」と、ヒソヒソ話。

結果、まだ早いだろということになったのです。

加藤清正ら7将は家康の屋敷にやってきました。

「三成は我々が朝鮮で死ぬ思いをして戦っている間に、秀吉殿のご機嫌を取りまくっていた!我々は莫大な戦費と人の命を無駄にしたっていうのに、あいつは1人だけ肥えて、しかも朝鮮から帰ってきたら主人づらしている!あいつは豊臣家にとって害をなすものだ!」と、言ってきたのです。

すると家康は「確かにそなた達の言うことももっともである。が、ここで三成を殺せば秀吉殿の遺志をないがしろにすることになるぞ?私怨のためにこのようなことをしてはならぬ!それが秀頼殿のためでもありまずぞ?」と説教したのです。

7将は、家康に言われては逆らうこともできず、しぶしぶと諦めました。

三成は「勝手なことをやったあの七人を罰してくれ!」と頼みました。

が、家康は三成が嫌いなので「恨まれるお前が悪い」といった感じでかわしました。

七将は「三成が謹慎すれば攻撃をやめる」と言ってきました。

家康は三成を呼び、三成に佐和山城蟄居を命じ、奉行職を辞めさせられてしまったのです。

そして三成は、結城秀康に守られながら佐和山城へ向かいました。

ちなみに襲撃した七人はお咎めなし・・・。

三成嫌いの諸将は大喜び!

これにより家康は三成以外の諸将にかなりの好印象を与えることになりました。

みんな「さすがは家康殿」と言うようになってきたのです。

そして三成は、ますます家康を憎く思うことになっていくのでした。
1599年3月 島津家 お家騒動 伊集院の乱
島津家は、朝鮮出兵でお金を使いまくっていました。

さらに家老の伊集院忠棟(ただむね)が権力を握りつつあり、当主である義久の息子・家久とめちゃくちゃ仲が悪くなっていました。

伊集院忠棟は、ある時石田光成に「いずれ家康殿は秀頼殿に刃をむけますな。その時、家久殿は家康の味方をするであろうな」と愚痴ったのです。

これが家久にバレたもんだから大変なことに!

家久は相談したいことがあると言い、伊集院忠棟を茶室に誘って斬り殺してしまったのです。

これに怒ったのが、忠棟の子である忠真(ただざね)

こうして島津家内でバトルがスタートとなったのです。

この戦いは島津家が勝ちました。

この時、色々と島津家の応援をしてくれたのが家康だったのです。

お家騒動が終わると、義久は弟の義弘を家康のもとへ挨拶に行かせました。

家康は「いやいや、気にしないでくれ。ところで、近々上杉征伐に行くことになりそうなんじゃ。そうすると、伏見城が孤立してしまうので、その時はぜひ島津家に守っていただきたい」と言いました。

義弘は「もちろん。いいですよ」と、快くOKしたのです。
この頃 秀吉正妻「ねね」は?
ねねは秀吉の死後、尼になり「高台院(こうだいいん)」と称していました。

秀頼が大阪城に移ってきたので、ねねは本丸を秀頼に譲って、自分は西の丸に行くことにしたのです。

ねねは「秀頼という後継者が大坂城に入るんだから、自分が西の丸に行くのは筋目ですからね」という考えでした。

ところが、秀頼とともにやってきた淀殿が、いつまでたっても挨拶にやってこないのです。

城内の侍女たちは「せっかくねね様が本丸を譲ったというのに、挨拶に来ないなんて失礼じゃないの?」というムードに。

それをねねは「まぁまぁ。いいじゃないのそんなこと。それより私が秀頼殿にご挨拶に行くわ」というあっけらかんぶり。

そもそも秀頼はねねのことを「まんまかかさま」と言い、ねねも秀吉の後継者となる秀頼をとても可愛がっていました。

こうしてねねは、久しぶりに会う秀頼に挨拶に行くことにしたのです。

秀頼はねねを見てにっこりと笑いました。

ねねは久々に会う秀頼が大きくなったので、とても喜びました。

そして淀殿に「よくぞここまで秀頼殿を立派に育てましたなぁ。これで豊臣家も安泰ですね」と言ったのです。

それにカチンときた淀殿。

「なんだってこのアタシが、あんたみたいな子供も産むことのできない女にそんな偉そうに言われなきゃなんないのよ?」と思ったのです。

そもそも正室ってだけで、身分の低い女がいまや官位は従一位。

どうやっても側室のアタシじゃ敵わない地位を、この女はゲットしている。

こうなったら、秀頼は絶対渡さないわよ!秀頼がアタシのとこにいる限り、アタシの勝ちよ!といった態度になってきたのです。
さらに続く 女のバトル ねねVS淀殿
淀殿は秀頼をあまりねねに会わせないようにすることに。

淀殿の侍女である「大蔵卿(おおくらきょう・大野治長の母)」は、それを忠実に守りました。

秀頼も幼い心に「ねねと仲良くすると、お母さんが怒る」というムードを察知してきたのです。

ねねはあからさまに避けられるようになってきました。

「そんなことしなくてもいいじゃないの!あたしはちゃんと秀頼を秀吉の後継者と認めてるというのに!誰も秀頼を奪おうなどと思わないわよ!本丸だって明け渡したんだし、淀殿に感謝されるべきなんじゃないの?」という気持ちになってきたのです。

さらに石田三成・大野治長ら近江出身の官僚連中は、旧浅井家の領地出身。

浅井家の血筋を引く淀君に自然に集まっていました。

そんな官僚連中が大嫌いなのが、秀吉子飼いの将であり、ねねを「母」と慕っていた福島正則・加藤清正ら武功派。

加藤清正らは自分達の「母」であるねねが、大坂城内において淀殿派にあからさまに無視され、肩身の狭い思いをしているのを知ると、三成らに対する怒りはますますヒートアップ!

こうして、いつの間にかねね派VS淀殿派ができあがっていたのです。
家康 ねねに近づく・・・
ねねVS淀殿の派閥は、ますます熾烈になってきました。

そんな中「秀頼殿は淀殿と大野治長の間に出来た子供だ」という噂が流れ出したのです。

確かに、秀吉は20人以上もの側室がいながら、誰一人妊娠していない。

子供を産んだのは「淀殿」だけだったのです。

さらに淀殿のわがままもヒートアップ。

ねねは、大阪城にいるのが辛くなってきました。

そこをソツなくなぐさめたのが家康だったのです。

三成らが「あいつらは肉体関係がある!」とまで騒いだほど家康はねねに近づき、上手にねねの心を懐柔したのです。

ねねも、ここまであからさまに無視されまくったら、だんだん「アタシと秀吉が2人で築きあげた豊臣家を、あんな嫌な女に譲るのもだんだん癪に障るわね。だったら全然関係ない家康の方がいいかも」と思うように。

家康からしてみれば、ねねはただの女じゃない。

秀吉子飼いの大名に対して大きな影響力を持ってる。

ねねの機嫌をとっといて損はない!と睨んでいました。

三成はここでねねのご機嫌をキチンととりゃよかったのに全く何もしなかった。

「ねねは正室なんだから、豊臣家のためにならない動きはするはずない!」と決め付けていたのでした。

もう少し女心をわかってりゃ良かったのにね。

そしてねねは子飼いの将らに「何かあったら家康につきなさい」とアドバイスをしちゃうのでした。

1599年9月 ねね(北政所)大阪城を出て行く
秀吉死後の不安定な時期、ねねは大阪城を出ることにしました。

これには子飼いの将である福島正則・加藤清正らは激怒。

「母」であるねねが、淀殿らのイジメによって大阪城を追い出されたという雰囲気になっていったのです。

そこへうまく入りこんだのが家康だったのです。

「わしはねね派じゃ」というのをアピールしまくり、秀吉子飼いの将を手なずけたのでした。
1599年9月27日 家康 大坂城へ入る
前田利家亡き後、五大老には息子の前田利長が任命されました。

そして、家康以外の四大老は続々と国元へ帰っていったのです。

この間に、するするっと大坂城へ入った家康。

これにより、秀頼の後見人の座は「前田家」から「徳川家」に移ったことを人々に知らしめたのです。

家康は今まで秀吉の下で12年間我慢していた鬱憤を晴らすべく、手厳しい政治をスタートさせることになったのです。
1599年11月 前田利長大ピンチ!
前田利家死後、すぐに前田家はピンチに陥りました。

原因は増田長盛の諫言でした。

長盛は五奉行の1人で、三成にもいい顔をしていた人でした。

家康は長盛を抱きかかえようと企んだのです。

そして家康は「おぬしは五奉行なんだから、何かいい情報はないのか?」と訪ねました。

情報提供を依頼された長盛は、忠誠の証を表そうと、何か良い情報がないかと考えまくり。

そして証拠もないのに「前田利長に謀反の気配があります」と言ったのです。

家康が何度も情報提供を依頼したので、何か喜ばせようと思って伝えた確実性のない情報でした。

家康はすぐに飛びつきました。

情報の確実性はどーでもいいのです。

ただ、討つきっかけ、つまりは「大義名分」が必要だっただけなのです。

前田家は大パニックに陥りました。

利長は「あの狸ジジィ!ふざけるなや!秀吉殿の遺言をことごとく破ってるのはあいつじゃねーか!こうなったら、前田VS徳川の全面戦争じゃ!」と、超激怒!

すると家老の横山長知(ながちか)が、「いやいや、その前に一度ワシが話しをしてきます」と言い、戦う前にまず話し合いをすることになったのです。

長知は、家康側近である本多正信と会見しました。

すると本多正信は「いや、実は家康殿もほんとはこんなコトしたくないんだよね。だけど、まわりが色々うるさくてなぁ。じゃあ、この疑念を晴らすためにも、芳春院(ほうしゅんいん・利家の妻まつ)を江戸に人質にしてはどうか?あと、家康の三男・秀忠の娘を、利常殿と結婚させましょう!」と言って来たのです。

それを聞いた利長「なぁにぃぃー!母を人質に寄こせだとぉぉー!」と、超超激怒!

「今すぐ合戦じゃぁ!」の勢いとなったのです。

まつ 江戸へ行く
これを知って心が痛んだのが芳春院こと、「まつ」でした。

「私が行けば全て丸く収まる。もしかしたら利長も死ぬかもしれない。私は息子の血をみたくない。私が犠牲になれば、前田家は安泰じゃ。」と言って来たのです。

が、利長がそんなこと納得できるはずがない。

まつは「バカ!頭を冷やして考えなさい!利家殿が死んだとなっては、今は前田家にとって一番大事な時ですよ?」と、とにかく「前田家のために」と、説得しまくったのです。

また、まつにとって「ねね」が大坂城を出たのも考える所がありました。

「あれほど秀吉殿とともに、力を尽くしてきたねね殿が大坂城を出るということは、豊臣家を見限ったとも言える。ねね殿でさえ見限った豊臣家に、いつまでも前田家が義理立てをする必要はない」

利長はとうとう折れました。

こうして利家の妻 まつを人質として江戸に送ることになったのです。

前田家を潰すチャンスを狙ってた家康でしたが、本当にまつが江戸に来るとなってビックリ。

さらに細川忠興が一生懸命前田家の弁護をしたのです。

家康は加賀討伐を断念せざるを得ませんでした。

利長は武将としての意地で滅亡の道を進むより、家名存続を選んだこととなったのです。
利家の妻 まつ
まつは4歳の時に、叔母のダンナである尾張の荒子城主前田利昌に引き取られました。

12歳の時にイトコである22歳の前田利家と結婚。

利家は5人の側室を持ち、7人の子を産ませました。

ちなみに、まつは4人産んだよ。

合計11人の子供の大所帯を切り盛りしてました。

信長の家臣となり、お隣さんのねねと大の仲良しに。

子供がいないねねにお願いされ、娘のお豪(おごう)を養女に出すほど。

以後利家は秀吉に信頼され続けたのでした。

そして利家が死に、前田家の大ピンチが訪れます。

この時まつは息子利長にむかって「お前は家を守ることが第一である。母を案じて前田家を潰すことのないように」と言い、家康のいる江戸へ人質となったのでした。

江戸での生活は14年続きました。

そして利長が死んでから68歳にしてやっと金沢に戻ることができたのです。
家康 確実に権力を掴み始める
こうして前田家は徳川家に屈しました。

これには反・家康派は焦りまくり

「あの前田家が戦わずして屈したぞ!このままだと家康の思い通りになってしまう」と、三成をはじめとする反・家康派は動揺しまくったのです。

そして家康は、他の有力勢力を潰すべく口実を探し出すことに。

が、前田家の事件のこともあり、みんな慎重になり出しました。