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安土桃山時代その17 1600年 関ヶ原への序曲

1月 宇喜多家のお家騒動
「上杉家が怪しい・・・」by家康
5月 上杉家臣 直江兼続の直江状  
5月 5月 直江兼続の「直江状」とは?
家康 会津出陣を決める
武功派 「三成が心配なんだよね」
6月16日 家康 会津出陣じゃー!
7月2日 家康江戸に到着
7月7日 石田三成 画策スタート 大谷吉継へ!
7月11日 吉継ついに折れる 
三成らの作戦!大阪せき止め戦略
7月16日 西軍総大将 毛利輝元 大阪城へ
三成ら 弾劾文をばらまく
島津義弘激怒!「薩摩隼人をバカにしやがって!」
島津義久 真っ青・・・
島津義弘 「三成殿の味方をしましょうぞ」
西軍 軍議を開く
西軍 人質を取りまくる
7月17日 細川ガラシャ 夫のために死す!
7月19日 家康に三成挙兵情報が届く
7月19日 西軍 鳥居元忠の伏見城を包囲
伏見城包囲の総大将は? 揺れる秀秋
7月19日 細川幽斎ギリギリセーフ
7月21日 家康江戸城を出発
7月22日 真田昌幸 西軍へ入る
7月24日 家康びっくり!まさかあいつらが!?
福島正則 「これは天下の大乱となる・・・」
7月25日 家康の大演技 小山評定 
7月25日 伊達政宗 白石城を攻略
景勝 怒る!甘糟清正は切腹じゃー!
ノリノリ政宗
7月26日 家康の大旋回
上杉はどう動く!?



安土桃山時代 その18 1600年 関ヶ原の合戦
1月 宇喜多家のお家騒動
この頃、宇喜多家の中で不穏な動きが

豪姫が連れてきた前田家の家臣が、宇喜田家内でハバをきかせるようになってきていたのです

もともと直家の代から優秀なのが揃ってた宇喜多家臣は、だんだん我慢できなくなってきて宇喜田家は2つの派閥に分かれていきました

このお家分裂を解決したのが家康。

直家の代からいる優秀な家臣をこぞって徳川家に仕えるよう勧めちゃったのでした。

若い秀家はどうすることもできず、忠臣 明石全登を中心にお家建て直しに全力を注ぐことに。

お家騒動を解決できなかった秀家も悪いんですが、優秀な家臣をこぞって家康に持っていかれたことに秀家はムッとすることになるのです。
「上杉家が怪しい・・・」by家康
諸大名は、家康に目をつけられたら困るので、なるべく静かに過ごしていました。

家康は早く次のターゲットを見つけ、「大義名分」において徳川家の勢力を確実なものにしたかった。

そのため、どんな些細なことも見逃さないぞ!状態でした。

そんな家康にグットニュースが!

東北の上杉家がなにやら怪しい動きをしている・・・というものだったのです。
1600年5月 上杉家臣 直江兼続の直江状  

上杉景勝は去年秀吉により91万石から120万石に国替えされ、領国経営に力を入れまくってました。

国内の街道や橋の改修、そして浪人を集めたりなど積極的に国造りを行ってました。

これが問題となってしまうわけです。

さらに上杉家と仲の悪い越後の堀秀政が「上杉に謀反の動きがある!」と家康に言っちゃったのです。

景勝からしてみれば、まったくそんな気はない.。

ですが家康は、前田利家亡き今、ライバルは他の大老に向いていたので、景勝を追討する大義名分を得たわけです。

家康は毛利輝元・宇喜多秀家に会津攻めるか?と相談。

が、他の大老たちは「景勝に一度上洛を促してからにした方がいいよ」と意見。

家康は、仕方なく書状を送りました。

5月 直江兼続の「直江状」とは?
家康の書状に対して上杉家より返事がきました。

景勝はこの手紙に頭きて、自分で返事を書かず重臣である直江兼続に書かせました。

これが有名な「直江状」です。

返事の内容はというと

「上杉に叛意ありと言った奴をまず調べろ。そうすれば上杉に叛意がないことはわかるはずだ。もしそれをしないでいい加減な奴らの言うことを信じて上杉を責めるつもりならこっちはこっちで家康との一戦をやる気でいる。」

さらに前田利長の事件のことは

「前田利長殿をあのようにさせるとは、さっすが家康殿ですな。家康殿の威光も素晴らしいもんですな。だけど上杉は前田とは違いますぞ?」と嫌味たっぷり。

街道や橋の改修については

「道を作るのは交通の便を良くするために決まってるだろ?うちだけじゃなく、伊達や最上もやってるぜ?それを恐れてケチつけるなど、どうしたんですかい?」と、小ばかにしまくり。

武器や浪人を集めていることについては

「そっちの武士は茶道具とかを集めているそうですが、うちは田舎なので武骨者が多くてね」と笑い飛ばしました。

そして〆は、「これだけ書いたけど、景勝が間違ってる?それともアンタ?それは天下の公論によって決しようではないか!名門上杉家は潔い覚悟を持って上洛を拒否する」という内容でした。

何者にも媚びずに、義のために戦い続けた謙信のモトで育った景勝と直続は、家康ごときに屈するのは耐え難かったのです。

景勝はこの時、家臣達に対して

「謙信公以来、上杉家は他者の脅しに乗ったことなどない。家康と戦うことになるかもしれんが、屈するより戦って滅亡するほうがはるかに名誉である!」と言い、上杉家は「毘」の文字のもと、家康と戦う決意をしたのでした。

家康 会津出陣を決める
直江状を読んだ家康。

怒りで、手がわなわなと震えました。

今や天下様と呼ばれるようになった家康。

このような無礼な手紙はなかなか見ることができない。

家康はこの時、怒りながらもこの手紙を書いた直江兼続を「なかなかの男だ・・・・」と感心したのです。

そして5月3日に会津出陣を決定したのです。

これに対して長束正家・前田玄以・増田長盛らは反対状を送ったけど、家康の心の中はすでに「会津出陣」は確定。

無駄骨に終わりました。

秀吉により死闘は禁止されていたけど、この頃最大の実力者である家康に「上杉は豊臣政権を崩そうとしている」と言われてしまえば、誰も文句はいえない。

天下取りの野望に燃えまくってる家康にとって、自分に反発するヤツらは元気なうちに潰しておきたいのでした。

家康は諸大名に上杉討伐を号令したのです。

武功派 「三成が心配なんだよね」
加藤清正ら武功派は、家康が会津出陣を決めたと知ると反対しまくりました。

「家康殿が自ら行くなどと!景勝征伐は我らだけでいいのでは?」と言ってきたのです。

武功派からしてみれば「家康殿が大坂を出れば、必ずや三成が動くであろう!」という気持ちでした。

が、家康は「心配してくれてありがとうな。だがワシは今まで生きてきてあれほど無礼な手紙を貰ったのは初めてなのじゃ。三成のことも心配だが、あいつの器量じゃそれほど兵は集まらんだろう。むしろ挙兵するのであれば、どれだけ兵を集められるか見ものじゃ。それにワシにはそなた達のような心強い味方がたくさんいるでな」と言ったのです。
6月16日 家康 会津出陣じゃー!
家康自らが総大将となり6月16日大阪を出発しました。

一緒についてきたのは細川忠興・福島正則・池田輝政・黒田長政・浅野幸長ら55000人

会津出陣は家康にとって危険な賭けでした。

大阪を離れるということは、反家康派である三成らが挙兵する可能性も充分にあったのです。

家康は三成は挙兵するだろうな・・・とは予測していました。

予測はしていましたが、三成ごときが兵を集められるはずもない。

奴の器量じゃたいしたことないだろう。

むしろ、挙兵してくれて一気に叩き潰した方が楽だ・・・くらいの考えでした。

そして、鳥居元忠のいる伏見城に少しの兵を残しておいたのです。

7月2日 家康江戸に到着
家康は江戸城の留守役をまかせていた秀忠の迎えを受けて江戸に入りました。

そして江戸城に7月21日までいるわけです。

この間家康は各地の諸将らに手紙を書きまくりました。

また家康は、上杉先発隊として伊達政宗・最上義光・佐竹義宣・前田利長らを命じたのです。

7月7日 石田三成 画策スタート 大谷吉継へ!
家康がいない大阪。

奉行職を解かれ、身軽になっていた三成はチャンスは今しかないと打倒家康へ動き出すことに。

家康の命令により会津遠征へ行こうとしていた親友の大谷吉継の元に使者がやってきました。

「会津に行く前に、ぜひ三成殿の城へお寄りください」

吉継は「なんだ?」といった感じで三成のもとへ。

そこで三成が「家康をやっつけたい」と相談したのです。

吉継はめちゃくちゃ驚きました。

「家康の勢力に勝てるものなど一人もいない。ましてお前は武功派連中に恨みを買いまくっている。家康は確かに勝手なことばっかしてるけど、別に秀頼を廃立しようとしてるわけじゃなし。絶対にやめた方がいい!」と強く諭したのです。

が、三成は「家康の正体はもうわかってる!あいつはメチャクチャうそつきだ。誓約をことごとくやぶり、秀頼殿にとってかわろうとしている!」と、意見を曲げることはしなかったのです。

7月11日 吉継ついに折れる 
三成の打倒家康の気持ちは変わる事はありませんでした。

吉継は3日間、この地に留まり、何度もやめた方がいいと言いました。

が、三成は自分の信念を曲げることはなく「頼む!おぬしの命わしにくれ!一緒に死んでくれ!」とお願い。

吉継はだんだん心を動かされました。

「病気のワシをここまで望んでくれるとは・・・。もしかしたらワシの死に際は今かもしれん。親友にここまで望まれ、それを断るなど、もうできない」

吉継は、とうとう親友三成のために加担することを決めたのです。

その際三成に

「お前ははっきりいって嫌われまくっている。お前の言い方はめちゃくちゃ横暴なので、敵を作るだけだ。なのでお前は表に出るな。家康の横暴さを責めるという名目で五大老の毛利輝元を総大将にして、宇喜田秀家を副将としろ。またお前は智の部分ではピカイチだけど勇気に欠けるところがある。」と忠告しました。

そして、「わが命、そなたに預ける」と言ったのです。

三成は涙を流して感謝しました。

さっそく吉継の言うとおり大将を輝元・副将に秀家を立てるよう画策するのです。

そして翌日吉継は、安国寺恵瓊・増田長盛らに同調することを求め、毛利輝元を大将にという件を相談。

が、増田長盛がこれを家康に密告してしまうのです。

安国寺恵瓊は毛利輝元に会いに行きました。

が、吉川広家が輝元の上洛を阻止するべく、家康家臣の榊原康政に連絡をとるのです・・・。

三成らの作戦!大阪せき止め戦略
諸大名らは家康に会津攻略を命じられており、西国の武将らは会津に向かうため軍を進めていました。

そこに目をつけた三成。

大阪で軍勢をせきとめ、女房・子供らを人質にとろう!という作戦に出たのです。

事実、諸大名らの中には家康の専領をおもしろく思ってなかった者も多数いました。

誰か有力な人が諸大名を取りまとめてくれれば、反家康派も巨大な勢力となる。

そのために担ぎ出されたのが毛利輝元なのでした。

毛利輝元は三成らにうまく担ぎ出され、7月15日に大阪に向け広島を出発しました。

7月16日 西軍総大将 毛利輝元 大阪城へ
西軍総大将として依頼を受けた輝元は、この日大阪城へ入城しました。

安国寺恵瓊の謀略は大成功だったのです。

一族の吉川広家・毛利秀元らは、三成の要請を受けて大阪城に入った輝元の軽率さを超激怒!

「このことが家康に知れたらどうする!?」と意見しまくり。

毛利家の意見は2つに分かれまくってました。

が、結局三成と三人の奉行、そして五大老の一人宇喜田秀家らと相談し、総大将になることをはっきりと決めたのでした。

そして大阪城の西の丸にいた家康の留守番衆を追い出したのです。

三成ら 弾劾文をばらまく
前田玄以・増田長盛・長束正家ら3奉行と、毛利輝元・宇喜田秀家の2大老の名前で、家康が秀吉の命令に背いたという家康弾劾文をばらまきました。

@会津に行くというが、上杉景勝にはなんの罪もないこと

A伏見城を占拠したこと

B前田利長の母を人質にとったこと

C政務を1人で勝手にやっていること

D西の丸に居住していること

などなどでした。

吉川広家は「うわぁー。とうとう毛利の名前でやっちゃったよ・・・。ここまでやっちゃったら仕方ないな。表面上は西軍に入っとかなければ」という考えに。

ですが、広家は毛利本家を守るために、家康にちゃんと話しつけとかなければ!と、動くのでした。

他にも「とりあえず西軍に入ったけど、状況が変われば東軍にいくぞ」という人も沢山いました。

島津義弘激怒!「薩摩隼人をバカにしやがって!」
島津義弘は、家康に「近く合戦が始まるので、その時は伏見城を助けてくだされ」とお願いされ、OKしていました。

そして兄の義久に「近々戦いがありそうです。兵力の増強と兵糧をお願いします」と使者を出しました。

が、島津家は朝鮮出兵と伊集院の乱で超貧乏。

とてもそんなお金はなく、しかも「たかだか上杉をやっつけにいくくらいで、そんな兵糧とか兵力はいらないだろ」と、情報分析を誤ったのです。

義弘はわずか300の兵しかいませんでした。

それでも「家康殿と約束したし、伏見城はそろそろ危ないし。助けに行くか!」と、律儀に伏見城へ向かったのです。

が、伏見城の鳥居元忠は「島津?そんなの家康殿から聞いておらん!」と、入城を拒否。

義弘は「いや、家康殿から直々に頼まれたのじゃ。助けに来たので入れてくれ」としつこくお願い。

城内では「島津が応援にくるなど、家康殿から聞いてない。もしかしたら三成の回し者なのでは!?」ということになり、あろうことか応援に駆けつけた島津勢に鉄砲を撃ってきたのです。

これには義弘大激怒!!

「応援に来たのに撃たれるとは何たること!そもそも家康殿は鳥居殿に話しを通していなかったのか!この島津を軽く扱いおって!わしが田舎者だから、粗末に扱ったのか!!くっそー!家康め!この義弘を軽視しおって!」と、プライドがずたずたになってしまったのです。
島津義久 真っ青・・・           
その頃、島津義久のもとに「家康弾劾文」が届きました。

それを読んだ義久は「うっわぁー!やべー!これめちゃくちゃヤバイ!日本が真っ二つになる大乱じゃねーか!義弘がしきりに兵力をよこせって言ってたのに、全然軽く見てた!義弘大丈夫か・・・?」と、改めてコトの大きさがわかったのです。

「義弘が少人数で立ち往生している」という情報は、瞬く間に流れました。

すると「わしが行く!」「いや!わしも!」と、義弘救援に向かう人がわれ先に出始めたのです。

「大乱の真っ只中にいる義弘殿をどうして見捨てることができようか!島津家がお金を出さないのであれば、我々は自分のお金で行く!」と、士気が高まりまくったのです。

こうした人たちが「大坂にいる島津関係者は、ただちに義弘のもとへ行け!」と連絡したもんだから、島津義弘のもとには何とか1500人くらいが集結したのでした。
島津義弘 「三成殿の味方をしましょうぞ」
そんな中、義弘のもとに石田三成からの使者がやってきました。

「秀頼様を守っていただきたい!今こそ、家康の非業を攻め立てようぞ!それが亡き太閤殿の恩に報いることです!」というものでした。

義弘はちょっと複雑な気持ちに。

はっきりいって秀吉は島津を攻めたりと、どっちかというと敵に近かった。

さらに三成と家康を比べても、家康の方に親しみを感じていたからです。

が、その家康から納得いかない仕打ちを受けたのも事実。

家康は義弘を軽視している。

もし重要視していたら、絶対に伏見城に連絡をしているはず。

そのことは、義弘のしいては島津家のプライドが許さなかったのです。

「そっちがその気なら、いかに島津が勇猛かを知らしめてやろうぞ!」という気持ちになり、とうとう三成へ加勢することを決めたのでした。
西軍 軍議を開く
島津の猛将として名高い義弘が西軍に入ったことにより、みんな大喜び!

人数がめちゃくちゃ少ないのに、軍議の席に招きました。

この時のメンバーは

石田三成・大谷吉継・安国寺恵瓊・毛利輝元・毛利秀元(輝元の養子)・吉川広家・増田長盛・宇喜田秀家・長束正家・鍋島勝茂・長宗我部盛親・小西行長・生駒親正(いこまちかまさ)・島津義弘

が、島津義弘はここでカチンとくることが。

自分は今まで不敗の義弘として武名をあげてきた。

だけど軍議の席で、合戦したことのない石田三成が「参謀」としてアレコレ指図しているのがムカついたのです。

「このワシに向かって偉そうに指図するとは片腹痛いわ!」と言いたいとこでしたが、兵力も全く持っていない義弘はデカイ顔できなかったのです。

こうして義弘は三成に対し、ムッとした感情を抱くのでした。

この軍議で決まったのは、明日からさっそく東軍諸大名の妻子を人質に取ること・東軍の拠点である伏見城を攻撃することでした。

家康のいない間に、家康に従軍している諸大名の大坂にいる妻子を人質にとっておこう。

とりあえず妻子を人質に押さえておけば、諸大名も簡単に家康に同調しないだろうと読んだのでした。
西軍 人質を取りまくる
さっそく、大阪城の外側に屋敷を持っている諸大名の家に家臣を行かせて「諸将の妻子は即刻大阪城へ入城せよ!」と命令しました。

増田長盛は京極高次の屋敷へ向かい人質を差し出すよう命令。

もちろん高次は断りました。

すると今度は「淀君」の名前で命令書を持ってきたのです。

高次の妻は淀君の妹・おはつ。

「淀君なら、生命は助けてくれるだろう・・・」と、長男を人質に差し出したのです。

お次は伊達政宗の屋敷へ。

家臣はすぐさま長男秀宗を差し出し、秀宗は宇喜田秀家の屋敷へ行かされたのです。
7月17日 細川ガラシャ 夫のために死す!
大阪玉造にある細川家に1回目の使者がやってきました。

細川忠興は家康に従って出陣中だったため、妻のガラシャは大阪城内に行くことを拒みました。

2度目の使者がやってきたがガラシャは拒絶

とうとう3度めには、使者だけでなく軍を送り込み、細川家を包囲したのです。

そして腕ずくでも大阪城に収容する!という勢いでした。

ガラシャは夫 忠興と三成が以前から仲がよくないのを知っており、夫の足をひっぱるような事はしたくない!と考えたのです。

こうなったら人質になる前に死んでやる!と考えましたが、ガラシャはキリシタンなので自殺ができない。

仕方なく侍女に「私を殺しておくれ」と頼みました。

が、主人であるガラシャに誰も刃を向けることはできなかった。

すると細川家老の小笠原少斎が屋敷に残っていたので「私を殺せ!」と頼み、他人の手を借りて自殺したのです。

このガラシャの行動は三成にとって予想外でした。

ガラシャ死後、細川家は炎に包まれ大騒ぎとなり「ガラシャが三成の命により大阪城に入ることを拒んで自殺した」というニュースは東軍武将の耳に入るのです。

三成はこれにより強引な人質収容はあきらめざるを得なくなったのです。

ガラシャの自殺は東軍武将を余計奮い立たせることになったのでした。

ちなみに忠興はこの時生きていた者を許さず、皆殺しにしました。

7月19日 家康に三成挙兵情報が届く
家康のもとに増田長盛からの「三成謀反!」密書が届きました。

これは家康の予想通りでした。

この時はまだ三成を過小評価していたのです。

そして21日に江戸を出発。

会津に向かうのです。
7月19日 西軍 鳥居元忠の伏見城を包囲
三成らは家康の西の拠点になっていた伏見城攻略に取りかかりました。

この城に残されていたのは鳥居元忠であります。

元忠の父は徳川家に仕えており、元忠は13歳の時に今川家で人質になっていた家康(当時10歳)のもとに仕えました。

一緒に人質生活を送っており、家臣というより友達のような感覚で育っていました。

家康は肉親より元忠を信頼するようになるほどだったのです。

三方ヶ原・長篠・小牧長久手と全ての合戦に家康の側近として参加。

本能寺の変の後、北条とバトル。

その時、武田家臣・馬場信房の娘が近くにいるという情報をキャッチ。

家康はその娘を捜すように命じましたが、元忠がなかなか連れてこない。

元忠はその娘にヒトメボレしちゃったのでした。

家康はそれを知り、「抜け目ないやつめ」と笑ったそうです。

本来なら主君の命令に背くなんて大変なことなのに、親友だからこそ笑って許してもらえたのでした。

家康はその後秀吉に臣従しますが、秀吉が元忠に官位を授けようとしました。

すると元忠は「三河譜代の田舎者なのでわしは粗忽者であります。秀吉どのにそのようなものを頂くのは恐れ多い。また、わしは二君に仕えるほどの器量はござらん」ときっぱりと断りました。

今度は家康が、元忠に感状を与えようとすると「感状とは軍功の証明書。他家へ使えるときの履歴書代わりになるべきもの。わしは他家に仕える気は全くないので、ご無用でござる」と断った。

誰でも欲しがる感状を断るほどの男だったのです。

そんな元忠もこの時61歳。

家康は竹馬の友である元忠を留守役にすることはすごくつらいことでした。

留守役とはいっても、三成が挙兵するのは目に見えている。

そんなところに元忠を置いておくということは、危険極まりないこと。

死ぬのが目に見えていたからです。

上杉討伐に行く前日。

家康は元忠に会いに行きました。

家康は「少人数で城を守るのは苦労なことだのぅ」と言うと、元忠は「なぁに、家康殿は一騎でも多く率いて会津に行かれよ。」と答えました。

2人が夜遅くまで語り合っているうちに、家康はとうとう涙を流してしまったのです。

すると元忠「年をとって涙もろくなったようじゃの?わしら500や1000が命を落とすことをなぜ悲しむ?」と大声で励ました。

元忠は家康のために死ぬ覚悟ができていたのです。

そして7月17日三成の使いがやってきて開城を求めました。

すると元忠「100万の兵で攻められたとしても明け渡さん!」と言い、使者を殺して遺体を送り返したのであります!

伏見城包囲の総大将は? 揺れる秀秋
伏見城攻撃が始まると、進んで総大将になったのが宇喜田秀家でした。

秀家は半年前に家康にこぞって家臣を持っていかれたことをムカついていたし、秀吉の恩に報いるため勇んで出陣したのです。

秀家とともに参加したのは、島津義弘と小早川秀秋でした。

秀秋ははっきりいってこの戦いには参加したくなかった。

家康の大事な家臣である鳥居元忠を攻めるなんて、家康にバレたらどうなるんだろうとビクビク。

家康には恩もある。

かといって、毛利本家が西軍につくのに、自分だけが東軍につくわけにはいかない。

(秀秋のことは下に詳しく書いてます)

そんな優柔不断な態度の秀秋を、三成は「こいつ裏切んねーだろうな・・・」注意して見ていました。

秀秋に「もし西軍が勝利した場合は、秀秋を関白に推薦しますよ。」と甘い餌をまいておきました。

秀秋は「えっ!ほんと!ふーん・・・関白かぁー。それもいいよなぁー。なんたってボクは秀吉の養子だもんな!それくらいの資格はあるもんなー」とまんざらでもなさそうでした。

だけど家康からも「こっちに寝返りなさい」というお誘いが。

「関白もおいしいよなぁ。けど、家康には助けてもらってたしなぁ・・・」と、悩みまくるのでした。
7月19日 細川幽斎ギリギリセーフ
幽斎は本能寺の変後、学問に熱中。

蹴鞠・能楽・歌と全てたしなみ、かなりの文化人になっていました。

幽斎は文化大好き!な天皇家とも超仲良し。

そのため秀吉・家康に天皇家とのパイプ役として重宝されていたのです。

そしてこの頃、幽斎は古今集伝授の第一人者でした。

天皇の皇子である智仁親王は幽斎から「古今集」のお勉強を教えてもらっていました。

そんな頃に三成からの呼びかけに応じなかったため、幽斎は居城である丹後(京都)の田辺城を15000人の兵に包囲されてしまったのです。

対する幽斎側は500人。

困った幽斎は、智仁親王に「まだ伝授してない古今集の書類を渡したい」という手紙を書いたのです。

これを師に危険が迫っていると思った智仁親王は、天皇らに働きかけ、幽斎はなんとかギリギリセーフとなったのです。
7月21日 家康江戸城を出発
7月2日に江戸に入っていた家康は、8日に榊原康政を先鋒として会津へ出陣させ、自分は西軍の動きを伺っていました。

そして「三成謀反」の連絡を受けたにもかかわらず会津征伐へ出発したのです。

まだこの頃は三成が謀反を起こすというのはあくまでも噂であって、三成挙兵は確実なものというニュースではなかったのです。

しかし22日・23日と会津に進軍するにつれて三成挙兵のニュースが確実な情報となってきており、ついに7月23日に会津征伐の中止を決めました。

24日家康は下野小山に着陣するのです。

7月22日 真田昌幸 西軍へ入る
真田昌幸は徳川の命令に従って、上杉景勝征伐に向かおうとしていました。

そこへ石田三成の使者がやってきたのです。

真田家は複雑な気持ちになりました。

というのも、昌幸と石田三成とは、宇田頼忠の娘を妻としたことから義兄弟。

嫡男・信之は家康に仕えており、その妻は家康の養女(本多忠勝の娘)でありました。

さらに次男・幸村の妻は大谷吉継の娘。

ということで、昌幸・幸村は西軍へ。信幸は東軍という、どっちが負けても真田家は存続するという策をとったのです。

昌幸は「この戦い徳川が有利であろう。だがワシは、以前徳川に手痛い目を受けている。ワシも小信玄と言われた男。もう一度あやつと戦ってみたいのだ」という気持ちもあったのでした。

こうして昌幸・幸村は陣を払い、上田城へ戻ったのです。

途中、「死ぬかもしれないから、最後にもう一度信之のいる沼田城に寄って、孫の顔が見たいな・・・」と思った昌幸。

戻りがてら沼田城へ寄りました。

が、長男信之の妻は、本多忠勝の娘なので、昌幸・幸村が西軍に寝返ったことを知ると、城門を閉ざし城に入れなかったのです。

こうして56歳の昌幸は、最後に一つ花を咲かすべく上田城へ戻りました。

ちなみに昌幸は石田光成に「なんでこんな大事なことを、今までこのワシ言わなかったんじゃ!」と、怒りの手紙を書き、三成はめちゃくちゃ謝ったそうです。
7月24日 家康びっくり!まさかあいつらが!?
家康は最初「自分がいなくなれば、必ず三成は挙兵するだろう。そうすれば遠慮なく三成をやっつけることができる。わっはっはー」という気持ちでした。

挙兵する危険を承知の上で会津出陣に行ったんだけど、入ってくるニュースに驚きまくりました。

家康からしてみたら「たかが奉行であった三成に賛同するのは、仲良しの大谷吉継と小西行長くらいだろ?」となめきってました。

そこへ毛利輝元が総大将で宇喜田秀家が副将となり家康に対抗してきたってのには家康大慌て。

特に輝元と秀家は間違いなく家康につくだろうと思ってたのでした。
福島正則 「これは天下の大乱となる・・・」
毛利と宇喜田が西軍についたということは、家康にとってめちゃくちゃピンチでした。

さらに西軍は「秀頼のため!」と言っている。

「まずいなぁ。秀吉恩顧の諸将たちは動揺するかもしれないな・・・」と焦り始めました。

実際、家康が一番気を使っていたのが福島正則・加藤清正らだったのです。

ここで家康は、黒田長政に正則の本当の気持ちを聞いてみてくれと命令したのです。

長政は黒田如水の息子で、正則とともに朝鮮出兵し、三成嫌いに関しては共通の気持ちを持っていました。

こうして長政と正則は酒を酌み交わしながら話し合いをしたのです。

正直、福島正則は動揺していました。

三成は憎いが、秀頼は主君だし、毛利輝元も宇喜田秀家も、秀吉政権下で権力を持っていた家々。

上杉景勝だって侮れない敵だというのに、毛利・宇喜田が敵となると、これは天下の大乱となる。

が!その前に、家康側についたとして、もし勝利をおさめたら秀頼殿はどうなるのか?

故・秀吉殿の恩義に反することなのではないか・・・・。

すると長政が「秀頼殿のことは心配いらぬ。家康殿は秀頼殿を決して粗略に扱わないと言っている。なにより、秀頼殿が幼少なのをいいことに、権力を我が物にしようとしている三成が危ないのだ!」

正則は「そうなのだ!三成めが危険なのだ!」と、言いつつも、秀頼のことが心配でたまらないのでした。
7月25日 家康の大演技 小山評定 
家康は小山にいる諸将らと軍議を開きました。

そしてこの事実をありのままに述べたのです。

「諸将の妻子は大阪城にて人質に取られている。心中お察しいたす。妻子の無事が気になるものはすぐこの場から去ってもかまわぬ。ワシの味方をするのも三成につくのも自由である!恨みには思わぬ」と言いました。

そして家康は「ワシは故・秀吉殿から秀頼殿を頼むと何度もお願いされた。ワシは絶対に秀頼殿を粗略に扱わぬ!」と言ったのです。

みんな「どうする・・・・?」といった感じで静まり返りました。

すると、福島正則が「わしは家康殿とともに、三成を討つ!その証しとして、息子の正之を家康殿に預けまする!」と叫んだのです。

この正則の発言をきっかけに、諸将は我も我も状態となり、その場で「いや俺は西軍に・・・」とは言いにくい状況になったのでした。

この場で「どうしよう・・・」と悩んでいた人たちも、豊臣政権の中での有力者・福島正則がこういったもんだからみんな一安心。

そして山内一豊が「東海道を攻めるなら城と兵糧が必要でしょう。それがしの城を家康殿に献上しましょう」といったもんだから、こっちも我も我も状態に・・・。

ちなみに、「城を家康殿に献上する」というアィデアは隣の浜松城にいた堀尾忠氏のものだったんですが、一豊がそれを盗んで先に言っちゃったのでした。

さらに細川ガラシャの死!

そうして家康方である東軍の士気は高まりまくったのです。

7月25日 伊達政宗 白石城を攻略
伊達政宗は「いまこそ、旧領を取り返す絶好のチャンスなのではないか?」と考えるように。

狙いをつけたのは、上杉景勝の出城である白石城でした。

白石城の城主は甘糟清正で、上杉謙信・景勝と二代にわたって仕えていました。

川中島の戦いでは、武田の勇将馬場信房・山県昌景と2時間渡り合い、一歩も退かず、謙信をはじめ信玄も「敵でありながらあっぱれじゃ」と、褒め称えていました。

そんな清正でしたが、この大事な時に、景勝の許可なく城を出てしまったのです。

というのも、清正の妻が会津で病死してしまったのです。

清正はその報を聞くと、すぐさま会津に帰り、葬儀を行いました。

これを政宗に内通した者がいたのです。

政宗は白石城を包囲し、留守役の登坂式部に「3万石やるから降伏しろ」と伝えました。

登坂はいとも簡単に降伏したのです。

清正が白石城に戻ると、城は伊達の旗印が翻っていました。

「あぁ・・・ワシはなんてコトをしてしまったのだ・・・」と、絶望しまくったのです。
景勝 怒る!甘糟清正は切腹じゃー!
白石城があっけなく落ちたことを知った景勝。

めちゃくちゃ激怒し「清正は切腹じゃ!」と命じました。

が、直江兼続が「確かに清正が100%悪い。が、清正は謙信時代からの忠節な家臣であります。なにとぞ切腹だけは・・・」と、お願い。

景勝は仕方なく切腹は許しましたが、一生清正を恨むことになります。

のちに清正は所領を減らされまくりました。

すると家康が清正を自分の家臣にしたく、使者を送ったのです。

清正は涙を流して「ありがたきお言葉。が、白石城を奪われたのはワシの非であります。景勝様からどのような仕打ちを受けても仕方のないことなのです。ワシは謙信様の代からずっと上杉家に仕えております。二君にまみえることなどできませぬ」と断りました。

景勝から冷たくされても、上杉家への忠誠は変わることがなかったのです。

家康は「ああいう男だからこそ、ワシは自分の家臣にしたかったのじゃ・・・」と、つぶやいたそうです。
ノリノリ政宗 
政宗は白石城をゲットし、やる気マンマンでした。

家康に「最上義光とともに、景勝を挟み撃ちしたい!」と進言しました。

が、家康は小山評定を終えた後だったので、「いやいや、今はむやみに兵を動かすな。その代わりおぬしには景勝の所領を全て渡そうと思っておるからな」というお墨付きをもらいました。

政宗は大喜び!

さっそく対上杉に備えて、白石城を改修しだしたのです。
7月26日 家康の大旋回
家康は小山評定で、諸将の気持ちを一つにまとめました。

そして「上杉を叩きのめすのは後じゃ!まず、三成めを討とうぞ!」ということになったのです。

こうして家康は江戸城に戻るために小山の陣を撤収することに。

が、心配なのが上杉景勝の追撃でした。

攻めるのと引くのでは、引くほうが難しい。

ここに誰を残すか・・・・家康は思い悩みました。

そして「結城秀康」を残すことを決めたのです。

秀康は家康の次男で、秀吉の養子となり、のち結城家の養子となりました。

家康はこの危険な大役に身内を選びました。

場合によっては見殺しにする覚悟であるこの大役に「身内」を選ぶことによって、忠誠示してくれている諸将に暗にアピールをしたのです。

こうして秀康は追撃阻止の命令を受けたのでした。
上杉はどう動く!?
家康は小山から引き返したことを知った景勝。

さっそく軍議を開きました。

直江兼続は「いまこそ追撃のチャンスである!」と、意見。

が、他の家臣らは「追撃するとしたら、上杉全軍をもって攻め込まねばならぬ。その間に伊達・最上に攻め込まれたらどうする?」と弱腰。

結局、追撃せずにまずは最上を攻略することとなったのです。

兼続は「今しかチャンスがないのに!」と大反論しましたが、却下されてしまいました。

景勝は「この戦いは長期にわたる。焦って兵力を消耗させるわけにはいかない」という考えだったのでした。