安土桃山時代 その20 1600年 関ヶ原の合戦 |
東軍武将を紹介 |
東軍 徳川四天王 本田忠勝 |
![]() 本能寺ショックの時も、家康を伊賀ルートから逃げる手配をし、その後もガンガン出世し、関ヶ原へ向かうのであります。 |
東軍 徳川四天王 井伊直政 |
![]() 「井伊の赤備え」は、戦国の世で恐れられていきます。 関が原では、家康四男である松平忠吉を補佐。 直政の娘は忠吉と結婚してます。 ちなみに井伊家では末代まで直政の名誉を称えて、新しく奉公する者には必ず赤い鎧を用意させたと伝えられています。 |
東軍 徳川四天王 榊原康政 |
![]() 家康と秀吉の仲が険悪になっていくと康政は秀吉に文句ブーブーの手紙を書きまくった。 怒った秀吉は康政の首に懸賞金を賭けたりしました。 のちに秀吉は「あの手紙を見てお前の首を取ろうと思ったが、それも徳川家への忠誠の証とわかり、今は感服しているぞ」と言いました。 1592年に家康三男である秀忠の付き人となり、康政の娘は秀忠の養女となりました。 家康からの信頼されていましたが、むしろ家康よりも秀忠の信頼を得まくりました。 そして関ヶ原は秀忠とともに行動するのであります。 |
東軍 秀吉子飼いの将 加藤清正 |
![]() 「関ヶ原のきっかけ」を作った1人でもあります。 朝鮮では多くの活躍をし、武名をあげたものの、大事な家臣たちが何人も死にました。 家臣の中でも戦功をたてたものが多くいるのに、朝鮮での論考賞はない。(失敗したので) そのため、家臣たちに褒美をあげることもできない。 家臣たちに申し訳ないという思いに加え、父と思っている秀吉は三成ばかり可愛がる・・・。 この怒りの矛先は、石田三成しかいなかったのです。 |
東軍 秀吉子飼いの将 福島正則 |
![]() 小山評定では、迷うことなく「家康殿に加担する!」と叫びました。 正則が家康についたのは、憎き三成もありますが、母親がわりである北政所(ねね)の影響も大きかったことでしょう。 さらに不安なことは、この頃の豊臣家は「近江チーム(淀君を中心としたメンバー)」によって動いていました。 ここに自分の入る隙はない・・・・ということも、感じていたことでしょう。 |
東軍 笹の才蔵 可児才蔵 |
可児才蔵は見事なほど主君を変えています。 斉藤龍興→柴田勝家→明智光秀→織田信孝→羽柴秀次→前田利家→福島正則と名だたる武将に仕えました。 秀次に仕えてたときは大喧嘩。 というのも、小牧・長久手で百戦錬磨の勘から「今日の敵は強いので一旦退いたほうがよかろう。無理に攻めれば大敗するだろう」と、前線から撤退しようとしたため秀次に超怒られたのです。 そして才蔵は秀次にやめたほうがいい何度も言ったんだけど、秀次は無理に進軍。 才蔵はあまりの無能さに呆れ、さっさと自分の兵を引き連れ帰ってしまいました。 で、秀次はボロ負け。 帰り道で才蔵にばったり会って「馬を貸してくれ」とお願いするも、才蔵断っちゃいました。 そして関ヶ原で福島正則のもとで参戦するのです。 |
東軍 家康次男 結城秀康 |
秀吉との小牧・長久手の戦いの時、講和の人質として11歳の秀康は秀吉の養子に行かされました。 14歳で九州討伐に。 この時、前線で蒲生氏郷が大奮闘。 秀康は氏郷の活躍に比べ自分が不甲斐ないのを悔やみまくり。 すると佐々成政が「おぬしはまだ若いので気落ちするな」と慰めました。 秀康は「今日のことは今日限りだ!」と怒るとそれを聞いた成政が「さすが家康の息子」と褒めると、秀吉が「いやいや秀康はワシの養子だから、わしに似てるんじゃ」と言ったそうです。 秀康は実の父である家康より、秀吉の方が好きだったみたいです。 秀康25歳の時に、秀吉の甥・秀次が後継者に決まると、下総の結城家へと送られ結城家の家督を継がされました。 家康の律儀な性格を受け継いでおり、家臣から人気もありました。 また福島正則と仲が良かったそうです。 |
東軍 家康三男 徳川秀忠 |
家康の三男。 12歳の時に秀吉から一字もらって秀忠となります。 秀忠の生まれた年に、長男信康は信長により自刃させられます。 幼名は長松。が、次男秀康が養子に行かされたことから、6歳の長松は「竹千代」と改名。 以後、徳川家では家督を継ぐ者の幼名は「竹千代」となります。 17歳の時にお市の方の三女 お江と結婚しました。 長男信康は死に、次男秀康は養子に行っていることから実質的な嫡男として育ちました。 そして家康が関東へ行かされます。 家康は領国経営をやる一方、豊臣政権下で最大の大名のため秀吉の側にいることが多く、関東を留守にすることが多かった。 江戸で留守を守っていたのが秀忠であり、徳川家の後継ぎとし認知されるのです。 そして家康VS三成の関ヶ原が始まります。 家康は会津討伐に行きますが、途中小山にて三成挙兵を聞き兵を戻しました。 そこに秀忠を上杉の押さえとしてとりあえず置いておき、その後秀忠は中仙道を通り関ヶ原へ向かおうとするのでした。 |
東軍 五奉行筆頭 浅野長政 |
秀吉の数少ない縁故関係にあった長政。 秀吉政権下では、五奉行筆頭として政務をこなします。 が、自分が五奉行の筆頭なのに、年々発言力を増してくる三成とも仲が悪くなっていくのです。 秀吉死後は一人別行動を取るようになりました。 そして家康VS三成。 息子幸長が三成襲撃事件に加わり、長政は迷わず息子幸長とともに東軍へ入るのでした。 |
東軍 最上義光 |
義光は1546年に最上家当主の義守の嫡男として生まれました。 が、父が自分よりも、弟の義時ばかり可愛がったため家督争いが始まります。 25歳の時に義守を隠居させ、弟の義時を滅ぼして家督をもぎとりました。 ちょうどこの頃、信長が姉川の戦いをやっていました。 中央の激戦もさることながら、東北では最上・伊達・上杉や中小豪族と領地争いに明け暮れていました。 そして伊達家に妹義姫を嫁がせ、政宗暗殺を企むなどしました。 そんな義光も秀吉により小田原参陣を命令されます。 が、義光はそれに遅れてしまいました。 秀吉は激怒したけど、以前から親交のあった家康のとりなしによってなんとかセーフ。 論功行賞の場で、諸大名が次々と所領を没収されるのを目の当たりに見て、秀吉を恐れるとともに、家康に感謝するように。 それからは秀吉のご機嫌をとるようになりました。 奥州征伐に来た秀吉の甥 秀次が義光の12歳の娘 駒姫を気に入りました。 義光は、駒姫を側室として差し出しました。 これで最上は安泰か!と思いきや、秀次が秀吉に殺されてしまう。 もちろん駒姫も処刑。 そして関が原では恩のある家康につくのでした。 |
東軍 主君をコロコロ変えて大成功!?藤堂高虎 |
![]() いままで、リストラ・倒産などなど、波乱万丈だった高虎。 無銭飲食をやらかし、盗みの汚名まで着せられていましたが、やっとこさ家康のもとで落ち着きます。 身長190センチ・体重115キロの超巨漢でした。 最初は浅井長政に仕えようとしたんですが、姉川の合戦で破れたため、お次は浅井の猛将である磯野員昌を頼りましたがイマイチ。 そしてお次は秀吉の弟である秀長に仕えることに。 ここで高虎は、秀長にとても可愛がられ出世していきますが、その秀長が死んでしまいます。 高虎は秀長に養子である13歳の秀保(ひでやす・関白秀次の実の弟)の後見役を頼まれますが、秀保は「うるさいオヤジが死んだぜ!」と羽を伸ばしまくり。 お酒ばかり飲む毎日で、とうとう死んでしまいました。 ここで高虎は出家しようとしましたが、高虎のウワサを聞いた秀吉が、高虎の器量を買い、自分のモトへスカウトするのです。 その秀吉が死に、朝鮮出兵していた兵を撤退させることに。 撤退させるべく重要な実務の役割を、家康は「そんな重大なことをやらせられるのは、藤堂高虎しかおるまい!」と言ったのです。 ここで高虎は「自分のことを高く買ってくれている」と、家康に好意を持ちました。 事実、この2人はすごく気があったそうです。 関が原での高虎は、西軍の一挙一動を逐一家康に報告し、西軍についた武将らを東軍に来させるよう諜報活動をしていました。 また高虎は優れた建築家としても有名となっていきます。 |
東軍 妻のおかげで大名に 山内一豊 |
![]() その後は目立った戦功はなく過ごしていました。 が、小山評定の時、一豊のもとへ手紙が2通届きました。 その手紙は三成から「西軍につくように」というものと、もう一通は大阪にいる千代からで「あたしのことはご心配なく♪家康にきちんと忠誠を尽くすように」というものでした。 さらに千代は同じ内容のものを開封せず用意し、これを家康に渡すようにいったのです。 そして開封していない手紙を家康に渡した一豊。 家康は一豊の忠誠をしっかりと受け止めたのでした。 |
東軍 妻ガラシャのために!細川忠興 |
![]() が、三成はガラシャを人質にしようとしました、 そしてガラシャは死んでしまうのです。 忠興は大ショック!! 憎い三成を倒すため関ヶ原へ向かうのであります。 幽斎・忠興父子は秀吉のもとで文化行事に大活躍。 関ヶ原の時、父である幽斎の古今伝授(古今和歌集の語句の伝授)が絶えるのを心配した後陽成天皇らが三成に和議を勧告するほど。 それほどまでに幽斎の文芸・芸能・故実の知識は必要だったのです。 家康も幽斎の知識を非常に重宝し、依頼されて「室町家式」という本を書いたりしました。 |
東軍 父を超えるぞ!黒田長政 |
![]() 命の危険を感じた官兵衛は、名前を「如水」と改め嫡男である長政に家督を譲りました。 後を継いだ長政は、頭脳プレイの如水と違い、勇猛な武将。 家臣からは「ちょっと軽率すぎんじゃない?」と言われていました。 でも当の長政は「オレが死んでも父ちゃんさえいれば黒田家は安泰さ」と言っていました。 ですが、如水に言われたのか朝鮮攻めが終わった頃から家康に急接近。 ちょっとづつ知謀を発揮していきます。 秀吉死後は家康の味方に。 なぜか?というと、秀吉は父の如水があれだけ頑張ったのに頑張ったなりのご褒美をくれなかったから。 また長政は朝鮮の時、前線で頑張ったのに後方支援している三成が嫌いだったのです。 そして武断派の三成襲撃事件に長政は参加し、そのまま関ヶ原へ突入! 長政は、あの「小山評定」の時に福島正則を説得するなど、かなり重要な任務を成功させた一人なのです。 |
東軍 軍師はどう動く?黒田如水 |
![]() 度重なる戦功を評価せず、他の豊臣家臣から「もう少し恩賞をあげたほうがいいのでは?」とまで言われるほど。 ですが秀吉は「奴に力を蓄えさせると、どうなるかわからん」と言い、正等な評価をしようとしませんでした。 秀吉の天下統一に果たした如水の役割は多かったのですが、優秀すぎるがために秀吉に疎まれるのです。 が、秀吉に疎まれるような野心を持っていたのも事実でした。 こうして如水は「秀吉を天下統一させた功労者」でありながら、豊臣政権下では、その立場を三成らに奪われていくのです。 如水はその才能・手腕を生かす活躍の場も与えられないようになってきました。 関ヶ原が始まる頃、如水は九州をまかされていました。 この頃の九州は、九州制圧をした秀吉はよく知ってるけど、家康って?といった感じでした。 一応家康に命令され、出来る限りの軍を率いて中央へ向かっていましたが、戦いの本筋をイマイチわかってない人が多かったのです。 ただ1人、黒田如水を除いては・・・・。 そして如水はこの戦いは長引くと予想し、55歳の自分が天下を取るべく野望に燃えるのです。 つまり「この戦いは長引くので、ワシは今のウチに九州を統一する!そして、中央が戦い続けている頃、九州を統一したワシが中央へ乗り込む」というものでした。 如水は惜しげなく金銀をばらまき、九州中の浪人を集めたのです。 |
東軍 三成に恩のある悩める男 佐竹義宣 |
![]() 常陸(茨城)の佐竹義宣であります。 当時、領地を54万石持っている大大名でしたが、それは全て三成が秀吉に後押ししてくれたおかげなのでした。 そして義宣は三成に感謝し、恩義を感じるのでした。 三成襲撃事件の時、義宣は三成を家に匿いました。 そのため家康から「こいつは三成派だな」と印象づけられてしまうのです。 関ヶ原の時、家康は義宣に使者を送りました。 が、義宣は上杉景勝とも密かに呼応していたのです。 上杉討伐に動いた家康の出動要請にも動かずにいました。 恩義のある三成に弓を引くことはできなかったのです。 が、頭のいい義宣は次の天下は家康が取るだろうとも予測していた。 西軍が敗れた際に訪れるであろう佐竹家の悲劇を考え悩みに悩んだ決断は、上田城を攻める徳川秀忠にわずか300の兵を送り込んだだけだったのです。 |
東軍 池田輝政 |
![]() 母はもと信長の弟 信行の妻だった人です。 初陣は16歳で荒木村重攻め。 父とともに活躍し、10万石を賜りました。 本能寺の後は秀吉に仕え、父 恒興は娘を秀次に嫁がせ秀吉は輝政を養子にする約束をしました。 そして小牧・長久手。 この戦いで輝政は父と兄を失うのです。 父の戦死を聞いた輝政は「父と兄だけを死なすわけにはいかぬ!」と敵陣へ突入しようとしました。 が、家臣の藤右衛門が「父上は無事でござる!早くこの場から逃げたほうがいい!」と言われ言うとおりに逃げます。 ですが、後で嘘と知り右衛門を憎むように。 輝政にとって父と兄を見捨てたことが生涯忘れられない心の傷に。 その後、輝政は家臣を大事にしまくりましたが、右衛門のことだけは一度も褒めず、また一度の加増もしなかったといいます。 朝鮮出兵には加わらず、秀吉の甥の秀次を補佐しました。 そして秀吉は徳川家との関係強化のため、家康の娘 督姫と輝政を結婚させようとするのです。 督姫は元々北条氏直の妻、そして輝政にも正妻がいました。 また家康といえば、父と兄を殺した敵。 ですが、天下人秀吉の言うことを聞かないわけにはいかなかったのです。 初めて徳川家に行った輝政は、父・恒興を討った永井直勝と対面しました。 直勝の石高が千石しかないと聞くと「わが父の首を討ったのはたかが千石の小侍か!」と怒ったため、家康は慌てて直勝を加増したそうです。 そして殺生関白秀次が失脚。 |
東軍 尻蛍大名 京極高次 |
![]() 8歳であった高次は信長のもとに人質として送られました。 そして浅井家滅亡後、旧臣を集め信長に仕えたため五千石を与えられました。 本能寺の変では明智光秀に協力。 秀吉の所領であった長浜城を攻撃し、京極家の再興をはかりましたたが、頼みの綱である光秀がヤラれちゃったので慌てて柴田勝家のトコへ逃げ込みました。 が、勝家が秀吉にやられてしまい、お次は妹のダンナである武田元明のとこへ。 が、元明も秀吉に倒されてしまい、高次は自分の保身のために美貌の妹・龍子を秀吉の側室として差し出したのです。 これが淀君と側室筆頭を争った松の丸であります。 美人でお嬢様が好みの秀吉は龍子をとっても気に入り、高次は許されました。 そして高次は秀吉から6万石をもらい京極家再興の夢がかなったのです。 でも、全て妹のおかげなので高次は周りからバカにされ「尻蛍大名」というあだ名をつけられてしまいました。 高次の妻が浅井長政の次女(淀君の妹・おはつ)で、家康の3男だる秀忠の妻が浅井長政の三女お江であることから、秀吉の死後は家康に急接近。 そうして家康の東軍に参加することになるのでした。 |