安土桃山時代その20 関ヶ原の合戦序曲 | |
7月29日 | 三成 伏見に到着 |
西軍 伏見城 攻略 | |
7月30日 | 長束正家の謀略 甲賀衆を内応させる |
8月1日 | 伏見城落城 鳥居元忠自刃 |
小早川秀秋「ボク、仕方なくやったんだヨ!」 | |
8月5日 | 家康 江戸城へ戻る |
8月9日 | 三成 美濃垂井へ出陣 |
8月14日 | 東軍先鋒が清州に出陣 |
この頃の上杉VS伊達・最上は?? | |
8月22日 | 東軍先鋒 岐阜城を攻略 |
8月24日 | 秀忠 関ヶ原へ向かう |
9月1日 | 家康江戸を出陣 |
9月3日 | 秀忠 上田城に使者を出す |
9月4日 | 上田城の真田昌幸に激怒! |
9月5日 | 幸村「兄上とは戦いたくない」 |
9月6日 | 秀忠 真田親子に翻弄されまくる |
9月7日 | 西軍主力が南宮山に布陣 |
9月8日 | 秀忠 悔しいけど上田攻めを諦める |
9月13日 | 家康 岐阜へ着陣する |
9月14日 | 家康 美濃岡山に着陣 合戦前夜 |
安土桃山時代 その21 1600年 関ヶ原の合戦 |
7月29日 三成 伏見に到着 |
![]() 猛攻撃を仕掛けました。 |
西軍 伏見城 攻略 |
西軍の伏見城攻略は続いていました。 7月19日に三成からの使者を殺し遺体を送り返すとすぐさま4万の大軍がやってきました。 その顔ぶれはというと 島津義弘・宇喜田秀家・小早川秀秋・立花宗茂・鍋島勝茂・毛利秀元らです。 城を守ってるのはわずか1800人でした。 この日元忠は1800人の兵にむかって「当家は主君より預った城を明け渡す方法など知らぬということを世に知らしめようぞ!」と酒盛りをし、士気を高めました。 攻撃は20日より始まりました。 1800人は22倍の兵に攻められながらも、実によく戦いました。 29日には三成が陣中見舞いにやってきて西軍も士気が高まりました。 なんとか伏見城を死守していた元忠ですが、とうとう西軍の突破口が見つかったのです。 |
7月30日 長束正家の謀略 甲賀衆を内応させる |
最後までどっちにつこうか考えていた長束正家でしたが、まわりはみんな西軍。 迷いに迷った挙句、とうとう西軍につくことを決め、伏見城攻略の手伝いをするべく優秀な頭脳をフル回転させはじめたのです。 長束正家は、自分の所領である甲賀(滋賀県)の旗が伏見城内にあるのを見つけました。 すると、甲賀の兵らに「城内の甲賀者に告げる!おぬしらの甲賀にいる妻子は捕らえた!このまま抵抗すれば妻子を磔にするぞ!しかし、わが軍にくだり、伏見城内に放火をすれば、妻子の命を助けるばかりか、多くの褒美を与えよう」と脅したのです。 甲賀の人々は正直喜びました。 はっきりいって落城するのは時間の問題だったし、このまま殺されるしかないと思っていたのです。 それが放火すれば自分の命が助かるどころか、妻子の命も助けてもらえて、その上褒美までもらえる。 山口宗助(そうすけ)ら甲賀衆は内応することを決意。 夜になると、火を放ち、城内に長束隊を招きいれたのです。 これに城内は大パニック。 元忠は兵を叱咤激励し戦いましたが、長束隊に続き小早川秀秋隊が乱入してきました。 |
8月1日 伏見城落城 鳥居元忠自刃 |
この時、小早川秀秋は元忠のもとに使者を出しました。 「降伏した方がいい!ボクが何とか話すから!」 が、元忠の返事は「わしは命ある限り家康殿のために戦う!遠慮せずかかってこい!」というものでした。 そして言葉どおり、凄まじい戦いぶりを見せたのです。 寄せ手を3度も撃退し、自ら傷をつけまくりました。 が、兵の大半を失い、とうとう元忠は本丸へ逃げ込んだのです。 本丸へ逃げ込んだ時は、わずか10名ほどでした。 とうとう家康譜代の忠実な家臣・内藤家長が戦いの末戦死。 元忠はそれを見て、涙を浮かべながら次へとやってくる敵兵の中へ突っ込みました。 最後の最後まで戦い続けました。 そしてギリギリまで戦い、もはやこれまでと悟ると自ら首を突いて自害したのであります。 覚悟の討死とはいえ、凄まじいものでした。 元忠61歳 最後まで忠義を貫いた男でした。 ちなみに元忠の孫娘のそのまた孫が大石内蔵助であります。 また滝廉太郎が作曲した「箱根の山は天下の天♪」という「箱根八里」を作詞をしたのは元忠の子孫であります。 |
小早川秀秋「ボク、仕方なくやったんだヨ!」 |
![]() 「ほんとは攻撃したくなかったんだ!だけど仕方なかったんだ!」という内容の手紙を、黒田長政を通して家康に渡しました。 が、家康からの返事がなかなか来ない。 秀秋は「うわ・・・。怒ってるのかな・・・。どうしよう!!」と、イライラ・アセアセしまくり。 そのため「ボク、病気になった。だから当分戦えない」と、三成らに伝え、鷹狩などをして気を紛らわせていたのです。 |
8月5日 家康 江戸城へ戻る |
7月26日に小山の陣を引き払った家康。 諸将を会津に向かわせ、江戸城に戻ってきました。 その途中でせっせと手紙を書きまくっていました。 5日に江戸に着き、その後26日間もの長い間江戸にとどまるのであります。 |
8月9日 三成 美濃垂井へ出陣 |
![]() 垂井で大垣城主の伊藤盛正を説き伏せ、城を明け渡してもらうことに。 この頃、西軍の間では関が原付近が東軍との決戦場になるであろうと考えていました。 |
8月14日 東軍先鋒が清州に出陣 |
東軍の先鋒として家康に言われたのが浅野幸長・加藤嘉明・一柳直盛・福島正則・池田輝政・黒田長政田中吉政・山内一豊・有馬豊・井伊直政・本多忠勝らでした。 この時の東軍の拠点は福島正則のいる清州城。 諸将らは清州城に入り、家康の出馬を待ち受けていました。 が、なかなか家康が出馬したという情報が入ってこない。 19日に家康の使者がやってきた。 諸将らは「なぜ家康殿は出馬しないのか!?」と詰め寄りました。 すると使者は「家康殿は先鋒の諸将らが美濃に進軍し、家康に対する忠誠をみた上で江戸を出発しようとしているのであります」と言いました。 この使者の言葉にみんなビックリ。 家康の出馬があるまで自重してたのに、かえって家康から戦う気がほんとにあるのかどうか疑われていたのです。 家康からしてみれば、豊臣恩顧の大名である福島正則らが本当に自分のために戦う気があるのかどうか試したのでした。 これにはみんな発奮することになるのです。 |
この頃の上杉VS伊達・最上は?? |
最上義光は「上杉は手ごわい・・・。自分のとこに来られたら困るな」と、景勝の矛先を伊達に向けさせようとしました。 そして「ワシは上杉に対抗する気ないから」と言ってきたのです。 上杉は「ふん。身の保全をはかるためにご苦労なことだな。本心じゃなくせに」と、せせら笑いました。 同じく伊達政宗も、最初はやる気まんまんでしたが、家康が小山から去ったとあれば、景勝の軍事力は侮れない。 なんと景勝に講和を申し込んできたのです。 景勝はとりあえず戦術的講和をのむことに。 そしてその間に、続々と兵力を集結させたのです。 |
22日 東軍先鋒 岐阜城を攻略 |
東軍先鋒隊は美濃へ進軍しました。 そして狙いを定めたのが信長の孫である秀信(三法師)のいる岐阜城でした。 軍議を開き、22日に岐阜城へ。 翌日には総攻撃を仕掛けあっというまに秀信は降伏。 捕らえれられた秀信は「今日の憂き目はオレが不甲斐ないからだ・・・」と、涙しながら自刃しようとしました。 それを福島正則らに止められ、剃髪し高野山へ行かされちゃいました。 この頃、三成は大垣城にいました。 が、東軍が岐阜城を落とした後、大垣城に来ないで関ヶ原に放火したので「もしかしたら自分の城である佐和山城へ行くのでは?」と思いはじめました。 そして、26日に急遽佐和山城に戻りました。 同時に大阪城にいる毛利輝元へ出馬を促す使者を出し、大谷吉継には脇坂安治らの隊を率いて関ヶ原付近に来るようにと連絡を取ったのです。 |
8月24日 秀忠 関ヶ原へ向かう |
家康三男秀忠は、宇都宮から中仙道を通り関ヶ原へ向かうことになりました。 この日、兄の結城秀康に見送られ、本田正信・榊原康政・酒井家次・牧野康成・大久保忠隣・真田信之(昌幸の長男)ら38000の大軍を率いて出陣しました。 23歳の秀忠にとって、気になっているのが上田城に立て籠もっている真田親子。 合戦経験の少ない秀忠でも、昌幸の謀略武略は聞いており、不気味な存在だったのです。 |
9月1日 家康江戸を出陣 |
![]() が、美濃では東軍先鋒の岐阜城攻撃など、事態が緊迫してきたため9月1日にあらためて決定しました。 32000人の兵を連れ江戸を出発。 その晩神奈川に到着し、2日藤沢 3日小田原 4日三島・・・そして11日に清州に到着するのです。 |
9月3日 秀忠 上田城に使者を出す |
この日、秀忠軍は「9月1日に家康が出陣した」というニュースを聞きました。 そうと決まれば、早いトコ家康のもとへ向かいたい秀忠。 上田城にいる真田昌幸に使者を出すことに。 使者に選ばれたのは、昌幸の息子である信之と、信之のお嫁さんの兄である本多忠政でした。 秀忠は「息子と息子の嫁の兄に頼まれたら、諦めるだろ。なんてったって、こっちは10倍以上もの大軍だし」というものでした。 苦しい立場になったのは信之。 「まいったなぁ。こんな役目やりたくもないよ」と思ってましたが、とりあえず忠政と一緒に昌幸に会うことに。 すると昌幸は「ワシだってはっきりと西軍に入ったわけじゃないさ。秀忠殿に従うよ。明日、城を明け渡すからさ」と言いました。 信之は「あの父があんなアッサリ明け渡すわけないよなぁ」と思いつつも、秀忠にはそんなコト言えないので、ありのままを延べました。 秀忠はそれを聞くと「やっぱりオレの人選がよかったんだな!」と満足したのです。 |
9月4日 上田城の真田昌幸に激怒! |
![]() すると昌幸側から「考えたんだけど、やっぱりワシラは秀吉殿の恩が忘れらんないや。悪いが城は明け渡さん。どうか今すぐこの城を攻めてくださいな。こんな小さい城に手間ヒマもかかんないだろ?」とコバカにした感じで言って来たのです。 これに秀忠は神経を逆撫でされました! 「汚いぞ昌幸め!」と、激怒したのです。 「三成の策に乗せられ籠城しているが、もうすでに岐阜城は落ちたし、家康は東海道を、おれは中山道へ軍を進めてる。もはや三成が負けるのは時間の問題なので、さっさと降伏しろ!」と使者を出すと 昌幸は「一旦決めたことは、たとえ味方が負けそうでも義を捨てることはできん!秀頼殿のために戦うまで!この返答でお怒りならまずワシの城から攻め込め!」と返事を出したのであります。 さらに秀忠は「おぬしのは義ではない。秀頼はまだ幼いので、これは秀頼をタテに天下を操ろうとしている者の策略である。だからこそ秀吉恩顧の大名が徳川についているのではないか!」 すると昌幸「秀吉恩顧の大名が徳川についたのは、下心があるからじゃ!わしは秀吉に恩があるので、なんと言われようとも主君のために戦う。文句あるなら勝手に攻めろや!さっさとかかってこいや!」という返事を出しました。 秀忠はこの返事に激怒! みごと昌幸の挑発にひっかかったのです。 昌幸は中央に秀忠率いる大軍を行かせないために、わざと挑発したのでした。 38000人もの大軍を素通りさせるわけには行かなかったのです。 若い秀忠はプライドを傷つけられ、軍議を開き、やんなくていい上田城を攻めることにしちゃったのです。 |
9月5日 幸村「兄上とは戦いたくない」 |
秀忠は、まず最初に信之に伊勢山城攻略を命じました。 この城にいたのは弟の真田幸村。 軍旗を見た瞬間「こりゃまいったなぁ。兄上が来たのかぁ。オレ、兄弟合戦したくないんだよね」と、さっさと上田城に戻っていったのです。 幸村は父の昌幸に「兄弟合戦だけはするな」と言われていたのでした。 こうして秀忠は信之に伊勢山城を守らせ、上田城を狙うことに。 |
9月6日 秀忠 真田親子に翻弄されまくる |
榊原康政は「真田は老練な奴なので、用心した方がいい」と秀忠に忠告していました。 秀忠もわかってるよ!と、攻撃命令を出すチャンスをうかがっていました。 昌幸からしてみれば、一気に秀忠軍が来てくれたほうが作戦上有利でした。 ということで、昌幸父子が50騎ばかりで様子を見にくるフリをして、挑発しにやってきたのです。 秀忠は昌幸らがやってくるのを見て、何か企んでるな・・・と思っていました。 が、あまりにも近くにやってきたのでカチンときてしまったのです。 秀忠は家臣に命じて「追い払え!」鉄砲を撃ちましたが、そ知らぬ顔で昌幸は引き返したのです。 逃げていく昌幸を見て、牧野忠政は若いせいもありじっとしていられなかった。 軍旗違反とわかっていつつも、追撃してしまったのです。 案の定、伏兵が現れ、一斉に牧野隊に襲い掛かってきたのです。 牧野隊は壊滅寸前になってしまいました。 牧野隊がボロボロになってくのを見た他の家臣たちも、命令が出てないのに突撃してしまいました。 ここまでくるとじっとしていられない大久保忠隣・本多忠政も駆けつけ、戦闘が開始されたのです。 すると真田兵が慌てて逃げていく。 秀忠軍は逃がすか!と上田城まで追い詰めた瞬間、城内が突然門を開き真田幸村率いる精鋭たちが突撃してきたのであります。 秀忠勢は散々に蹴散らされ大混乱に。 真田の策にまんまとはめられたのでした。 そして昌幸は頃合を見ると、鐘を鳴らし兵を城内へ戻したのです。 さらに、秀忠軍を挑発すべく、昌幸は手鼓で歌いだしたのです。 これを見た榊原康政は激怒! 本多正信も「勝手に突撃しやがって!」と、超激怒したのです。 |
9月7日 西軍主力が南宮山に布陣 |
家康出馬のニュースは西軍にも広まりました。 3日には大谷吉継が関ヶ原の南にある山中村に到着。 この頃西軍の毛利・吉川・鍋島・龍造寺・長宗我部・長束・安国寺などは8月24日から始まっていた伊勢の安濃野城攻撃の大忙しだった。 少しづつ進軍してはいたものの、伊勢の平定がすまないうちに家康出馬のニュース。 宇喜田秀家はこのまま伊勢にいることは不利だ!と判断し9/3に兵を率いて大垣城へ入ったのです。 7日には伊勢にいた大軍も全て美濃に入り、関ヶ原近くまでやってきました。 8日には三成も佐和山城を出て大垣城へ入るのです。 こうして続々と主力が集まってきたのです。 |
9月8日 秀忠 悔しいけど上田攻めを諦める |
秀忠勢の怒りはヒートアップしていました。 が、まごまごしていたら関ヶ原に間に合わない。 一度は上田城を力攻めにしよう!と決まったんだけど、本多正信が「関ヶ原に間に合わなくなる!」と大反対しました。 しかたなく、上田城攻略をあきらめることに。 しかも本多正信は、「いつ真田勢が攻めてくるかわからないので、本道を避けていきましょう」という用心ぶり。 榊原康政は本多正信のやり方に怒り「真田なんてたいしたことない!攻めてきたら踏み潰せばいい!」と一人本道で進んでいくことに。 秀忠は悔しさをたっぷり残して上田を後にするのでした。 |
9月13日 家康 岐阜へ着陣する |
![]() が、11日の強行軍でお疲れのため体調を悪くして一休み。 秀忠がいつまでたってもやってこないのも気になってたらしい。 東軍先鋒隊は1ヶ月も先に来てるので、これ以上待たすと味方の士気も下がるかも・・・と心配し、秀忠到着を待たずに13日 岐阜へ着陣しました。 ちなみにこの頃、黒田如水が九州で大友家と戦い、3日間の激闘の末破りました。 |
9月14日 家康 美濃岡山に着陣 合戦前夜 |
いよいよ合戦前日。 家康は稲葉貞通の先導で岡山(勝山)の頂上にある陣所に入りました。 そして軍議を開くのです。 三成のいる大垣城には押さえの兵をおいておくだけにして、佐和山城を抜き大阪城を攻める!と発表しました。 この作戦は野戦の得意な家康が、三成を関が原におびき出すためにわざと流させました。 大垣城はそんなに堅城ではないけど、西軍主力が集まってるため落としにくかったのです。 なので、わざと情報を流して三成を外におびき出すという「おびき出し作戦」を決行したのでした。 ちなみにこの「おびき出し作戦」は、三方ケ原の戦いの時に信玄にやられたのと同じような作戦。 西軍も軍議を開いていました。 島津義弘は「夜襲で一気に家康の本陣を襲うべきだ!」と主張。 が、三成はその意見を却下するのです。 百戦錬磨の武将義弘は、この時三成に対してむかつきまくることに。 三成としは「正々堂々と勝ちたい」という思いだったのです。 あーだこーだ軍議している間に「家康が佐和山城を抜き、大阪城に攻撃をかける!」という情報が入ってきました。 これを聞いた三成は、大阪城に行ってしまったら秀頼殿が危ない!と、東軍を関ヶ原で食い止めなければ!と考え、急遽軍を関が原に移動させるのです。 まんまと家康の策にはまってしまったのでした。 夜の七時ごろ、三成は娘婿にわずかな兵を預け大垣城に残して4万の軍を率いて関が原へ。 この日は雨。 大垣城から関が原まで16キロの道のりを、たいまつを消し、馬の口を縛り息を潜めながら泥道を進むのでした。 この日小早川秀秋も到着しましたが、三成に会いに行かずそのまま松尾山に登ってしまいました。 |