安土桃山時代その22 関ヶ原の合戦その後 | |
9月17日 | 東軍 佐和山城へ攻撃開始 |
9月18日 | 島津義弘 無事逃げる |
9月19日 | 小西行長 捕らえられる |
三成の逃亡 | |
家康 大規模な山狩りを命令! | |
9月21日 | 石田三成 捕らえられる |
9月23日 | 毛利輝元 大阪城を退去 |
9月23日 | 安国寺恵瓊 捕らえられる |
10月1日 | 三成ら六条河原にて処刑 |
ハガクレの関ヶ原合戦の感想 | |
西軍戦後処理 | |
毛利輝元 | |
吉川広家 | |
宇喜田秀家 | |
小早川秀秋 | |
長宗我部盛親 | |
島津義弘 | |
上杉景勝 | |
直江兼続 | |
真田昌幸 | |
脇坂安治 | |
前田玄以 | |
立花宗茂 | |
大谷吉継の息子たち | |
竹中重治 | |
豊臣秀頼 | |
織田秀信 | |
東軍戦後処理 | |
徳川秀忠 | |
松平忠吉 | |
榊原康政 | |
黒田如水 | |
加藤清正 | |
福島正則 | |
可児才蔵 | |
佐竹義宣 | |
池田輝政 | |
細川忠興 | |
藤堂高虎 | |
山内一豊 | |
最上義光 | |
伊達政宗 | |
九鬼守隆 | |
安土桃山時代 その23 1600年 関ヶ原の合戦その後 |
9月17日 東軍 佐和山城へ攻撃開始 |
西軍寝返り組は、自分の保身のため佐和山城を攻めました。 兵が一気に攻め上がり、城内は混乱し三成の父・兄ら一族全て自害したのであります。 この時、太閤秀吉の寵臣としてさぞかし城の中は豪華絢爛でお宝が沢山あるだろうと、攻め込む兵はワクワクしていました。 が、城は板張りや荒壁で、あまりの質素さにみな驚きました。 三成は、主君から頂いた者を自分の私利私欲のために使わず秀吉のために使うのだ。と常日頃言っていたのであります。 |
9月18日 島津義弘 無事逃げる |
なんとか逃げ切った島津義弘。 1500人の兵もわずか80名。 無事に逃げ延びましたが、ここにきてとんでもない出来事にあってしまいました。 西軍にいた立花宗茂と、島津義弘が途中で出会ってしまったのです。 立花宗茂の父である高橋紹運は、島津義弘に敗れ殺されたのでした。 へとへとになって歩いている島津隊を見つけた立花家臣は「いまこそ仇を討つ絶好のチャンスです!」と言いました。 ですが宗茂は「窮地に陥っている者を狙うなど、武士のすることではない。ましてや同じ西軍にいた同志ではないか」と家臣を叱り、島津義弘に使者を出したのです。 「ワシは遺恨はもうない。お互い助け合いながら無事に帰国しようではないか」 心身ともに疲れきっていた義弘はこの申し出に感謝し、「もし東軍によって籠城を余儀なくされたときはこの島津義弘、必ず援軍をお出しします」と約束したのでした。 |
9月19日 小西行長 捕らえられる |
伊吹山へ逃げた小西行長は、カトリック信者のため自殺ができませんでした。 9月19日糟賀部村の寺の僧と林蔵主という関ヶ原の住人に自ら名前を告げ、進んで捕らえられました。 林蔵主(りんぞうす)は褒美に黄金10枚もらいました。 21日には福島正則によって、居城宇土城を包囲されました。 |
三成の逃亡 |
三成は、「万一負けたときは大阪城に戻り、もう一度家康と戦う」という計画をたてていました。 大谷吉継が死んだ情報は知っていましたが、小西行長・宇喜田秀家の情報は全く知りませんでした。 三成に従って逃げたのは20名ほどでした。 9月16日 三成ら落人一行は雨でびしょぬれの中、なんとか大坂城へたどり着くべく歩き続けました。 ちなみに、伊吹山は三成の所領です。 ですがここにきて三成は雨で濡れた寒さと、過度な神経の使いすぎ・不眠などから、下痢となってしまったのです。 三成は家臣に背負われて歩きました・・・。 翌日三成は家臣らに「みな、悪かった。もうここまでで充分じゃ。あとはワシ1人で大丈夫なので、みんな逃げてくれ」と言いました。 家臣らは「何を言うのです!我らはどこまでもお供いたします!」と、言いましたが、三成は「この人数で歩いていれば見つかるのも時間の問題じゃ。ここはワシの領地だから大丈夫じゃ」といい、彼らに残っている小判を与えました。 それでも側近の3人(塩野清介・渡辺勘平・磯野平三郎)らは「なんと言われようと付いていく!」と、言い張り、4人で落人行を続けました。 が、三成の下痢はひどくなる一方。 一行は高時村に到着し、そこの岩窟に隠れることに。 そしてこの村の農民らに食事を運んでくれるようお願いしました。 三成は良い政治をしていたので、農民らは三成を匿うことにしたのです。 |
家康 大規模な山狩りを命令! |
家康は、逃げて行った西軍首謀者を捕まえることを厳命していました。 伊吹山を中心に大掛かりや山狩りをしたのです。 家康が出した触れの内容は「石田三成・宇喜田秀家・島津義弘を捕らえた者は年貢を永久に免除する。また、殺した場合は褒美として金子(きんす)100枚を与える。が、隠したヤツラは本人以外にも親戚・その村の住人全員に厳しい罰を与える」 このお触れにビックリしたのが三成を匿っている村の人々でした。 「三成殿を匿っていることがバレたら、村の一大事だ!三成殿を差し出そう!」ということになってしまったのです。 この話しを聞いた三成は「迷惑をかけるわけにはいかない。ワシを差し出せ」と言い、田中吉政のもとへ訴えるように言ったのです。 ちなみに、三成を差し出したこの村にはこんな言い伝えがあります。 ・種まきは午前中にしない(三成が捕らえられたのが午前中なので、午前中に種まきをすると、育たない) ・下痢にならないように、韮のオジヤを夏に食べる(田中吉政が与えたので) ・この村の味噌汁は沈殿する(三成が最後に口にしたのが味噌汁。その悲しみのため) |
9月21日 石田三成 捕らえられる |
![]() 捕らえた方の田中吉正は、かつて三成のおかげで秀吉に取り立てられた人でした。 下痢で動けない三成に、ニラ雑炊を与えて手厚く看護しました。 三成も捕らえられた身でありながら、以前のように「田兵(たひょう)」と呼び、捕らえられた期間を過ごしたのです。 |
9月23日 毛利輝元 大阪城を退去 |
大阪城にいた輝元は、関ヶ原の西軍敗戦のニュースを聞きビックリ! |
9月23日 安国寺恵瓊 捕らえられる |
伊吹山の落ち武者狩りをすりぬけて、京都に潜伏してたい安国寺恵瓊ですが、とうとう捕まってしまいました。 宇喜田秀家・長宗我部盛親・島津義弘は逃がしてしまったものの、首謀者格の3人を捕らえたことで、家康は大満足しました。 三成らは諸将の前につれてこられました。 そこで小早川秀秋の姿を見つけた三成は「国中にお前ほどの卑怯者があろうか!」と散々罵り、秀秋は恐れおののき口も聞けませんでした。 |
10月1日 三成ら六条河原にて処刑 |
![]() 馬上から福島正則が三成を侮辱しました。 すると三成は「貴様を討てなかったとは、ワシも天運に見放されたもんだわい」と応酬しました。 黒田長政は馬から下りて、自分の着ていて羽織を脱ぎ、三成に着せ姿を消しました。 3人は汚れた服だったので、家康が新しい服を渡した。 小西行長と安国寺恵瓊は、家康の好意に感謝しました。 三成が「誰からの品か?」と聞くと、二人は「上様(家康)からです」と答えた。 すると三成、「上様は家康ではなく秀頼だ!」と怒り、お礼も言わずにいたのです。 そして3人は洛中を引き回された後、六条河原で処刑。 最後に三成は「喉が渇いた」と白湯を所望しましたたが、警護の兵が「白湯はない干し柿で我慢しろ」と干し柿を与えました。 すると三成「干し柿は痰の毒なのでいらん」と言うと、兵らは「今から死ぬ奴が何をいう」と大笑い。 「ばか者どもめ。大義を思う者は死の直前まで命を大事にするのだ!」と言ったといいます。 小西行長の死はローマ法王にまで伝わりました。 行長は家族宛に遺書を書いており「今回不意の事件に遭遇し、苦しみは書面には書きつくせない。今後、お前たちは神に仕えるように心がけてくれ」妻のドンナ・ジェスタは、家康から許され生かされたといわれています。 そして六条河原には処刑を見ようと、群衆が集まり、ここで3人は首をはねられ、その首は三条大橋にさらされたのであります。 これにて戦後処理を残し、関ヶ原の戦いが幕を閉じたのです・・・・。 |
ハガクレの関ヶ原合戦の感想 |
くぅーーー!悔しいです! 三成ファンのハガクレは、西軍に勝って欲しかったです。(別に家康が嫌いってワケじゃないんだけどね) 「なんで伊吹山に逃げた後、下痢になっちゃうのよー!丈夫でさえあったら、無事に大阪城にたどり着いて毛利輝元と話し合って再度家康に挑戦できたのに!」 「秀頼を守る!そのためには正々堂々と家康を真正面からやっつけなければならない!なんて思わなくていいんだよー!三成は戦い方面はイマイチなんだから、戦い屋の島津義弘とか島左近の言うことをもうちょっと聞けばよかったのにぃー!」 「ドイツ人のメッケル少佐(プロシア参謀総長の愛弟子・明治時代に日本の陸軍を近代化するため呼ばれた人)が、関ヶ原の布陣を見ただけで戦術上で西軍の勝利であると言い切ったくらい、布陣は完璧だったのに!なんでもっと、各武将たちと心を通わせとかなかったのヨー!」 「なんで秀頼を前に出さなかったのさ!秀頼さえ出してれば、豊臣恩顧の福島正則とか加藤清正は悩んだのにさぁー!大坂の陣の時もそうだけど、淀君ヤバイよー!」 「なんで前田利家、もうちょっと家康に釘ささなかったかなぁ?あんたくらいしか家康に対等に渡り合えるのいなかったんだからさぁー!利長じゃまだ無理なのわかってんじゃん!」 「吉川広家・・・。あんたのせいでみんなボロボロだよ・・・」 「さらに小早川秀秋・・・。仮にもモト秀吉の養子なんだからさぁ。頼むよ金吾ちゃん」 「宇喜田秀家!あんたサイコー!」 「大谷吉継!男の友情に涙させてもらいました!」 |
西軍 戦後処理 |
毛利輝元 |
大阪城に入った家康は、態度豹変させました。 「総大将となった責任は免れられんだろぉ?お咎めなしってのはムシが良すぎるんじゃないのー?」と、毛利家の所領8カ国を没収しました。 毛利家に残ったのは周防・長門の2カ国だけとなってしまいました。 さらに隠居を命じられ、剃髪し、その後73歳で死去。 なんとか毛利家を存続できたものの、巨大な領国はわずか36万石となってしまったのです。 この後始まる大阪の陣の時はすでに隠居生活。 かつての総大将はどのような思いでいたのでしょう。 |
吉川広家 |
輝元・秀元に内緒で内通し、なんとか毛利の所領を守ることができました。 が、最初の約束との違いに広家は自分のツメの甘さに愕然。 「所領安堵」のお墨付きは家康直筆のものではなく、井伊直正・本多忠勝の名だったため、家康は「ワシが書いたわけじゃないし。8カ国没収じゃあ」と言って来たのです。 広家はめちゃくちゃ焦って、抗議しまくりました。 が、すっとぼけられまくって、なんとか周防・長門の2カ国だけは安堵となったのです。 この結果に、輝元の養子である秀元はずっと広家を恨むことに。 「オレは戦う気だったのに!広家が前を陣取ってオレらを動かさないようにしたから何もできなかったじゃねーか!卑怯者めが!」と、広家に対し超激怒! そして吉川家は毛利本家から徹底的に冷遇され、その冷遇は幕末まで続くのでした。 |
宇喜田秀家 |
なんとか逃げ切った秀家は、17000人の兵を連れていたにも関わらず最後にはわずか3名。 秀家は島津を頼り、身を寄せましたが、島津と徳川が和解したため、「迷惑はかけれない」と、家康の元へ出頭しました。 秀家の正室は前田利家の娘だったことから、前田・島津が助命嘆願しまくり。 首謀者でありながら、19歳と9歳の息子・そして11名の従者とともに1606年八丈島へ流されたのです。 そして八丈島で84歳 徳川三代将軍家光の時代まで長生きしたのです。 ある時、加藤清正の船が八丈島へ流れ着きました。 すると一人の老人が、荷物の中にある酒を欲しがったそうです。 船員が「やめて下さいヨー」と止めると、「この荷は誰のじゃ?」と聞きました。 船員らが「加藤清正殿でございます」と言うと、老人は目を細め「それなら少々もらってもよかろう」と、1本ではなく一樽持っていき、そして戻っていく船を寂しそうに見送ったそうです。 船は清正の元へ戻りました。 そして酒が一樽足りないことに気づいた清正。 船員は怒られるとビクビク。 八丈島にいた老人に持って行かれたと聞くと、清正は「その者の名前は?」聞きました。 船員が「たしか宇喜田秀家・・」と答えると、「そなたたちアッパレじゃ!よく一本でなく一樽渡してくれた!」と船員達にご褒美をあげたそうです。 息子らは島の娘と結婚。 島ではそれなりに特別扱いを受けて過ごしました。 一年ごとに前田家から米俵が送られる生活に。 ちなみに許されたのは明治時代になってから。 そして土地をもらって、やっと本土に戻ってくることができたのです。 |
小早川秀秋 |
勝敗を決める寝返りをしたことから、家康は約束どおり2カ国を与えました。 が、罪の意識にさいなまれて精神に異常をきたしてしまいました。 眠ると大谷吉継の霊が出てくると言い出したのです。 家臣にも恵まれていない秀秋は、頼れる人が全然おらず、ノイローゼ状態に。 世間からは裏切り者呼ばわりされ、周りは誰も助けてくれない・・・。 1602年 とうとう狂ったまま死亡。 21歳でした。そして小早川家はは断絶してしまうのでした。 |
長宗我部盛親 |
毛利家の近くに布陣していた盛親。 「毛利と同じように動けば間違いないだろう」と、関ヶ原で行われている激戦より、毛利の動きばかりを見てました。 吉川広家が裏切っているとも知らず、動かない毛利家にならって、傍観を決めこんでしまったのです。 そのため、敗色が濃くなってくると総崩れとなって逃げてしまいました。 慌てた盛親は、井伊直正に「家康殿へゴメンネの取次ぎをして!」とお願い。 うまくいきかけていたというのに、交渉中になんと兄を殺してしまったのです。 どうやら兄の津野親忠(つのちかただ)が、この機に城を乗っ取るという企てをしたという噂を聞いたらしい。 この津野親忠と仲が良かったのが、藤堂高虎だったため、すぐさま「兄殺し」が家康の耳に入っちゃいました。 家康は「元親の子とは思えぬ不義者じゃ!」と激怒。 なんと盛親は土佐を没収されてしまったのです。 関ヶ原では一度も戦っていない男の哀れな結果でした。 盛親は京都で隠居生活を送り、お金に困って「大岩裕夢(たいがんゆうむ)」という名前で寺子屋の師匠をする始末。 ずっと心の中で「こんなバカなことがあっていいのか?なんとしてでも長宗我部家を再興させなければ」という日々を送り、大坂の陣に突入していくのです。 |
島津義弘 |
とち狂ったかのような撤退作戦は、勇猛果敢な薩摩軍という印象を残し、日本中に広まりました。 薩摩に戻ってきた義弘を見た兄の義久は、残った兵の少なさと、変わり果てた兵達の姿を見て驚きまくり。 そして義弘に対し「家康殿につけと言ったのに、三成の西軍に加わるとは何事じゃ!このバカ者!!!」と激怒したのです。 義弘は責任を取らされ隠居し、忠恒が家督を継ぎました。 さっそく隣国である加藤清正がやってくることに備えて国境を固めました。 そして義弘は、忠恒に命じて最後まで戦った井伊直政に嘆願書を送ったのです。 島津に頼られたことで、気分を良くした井伊直政。 そして家康に対しても、家康の恩義は大事にしており、西軍へ加担せざるを得なかったことを説明し、島津に非はない!という強硬路線を変えることはありませんでした。 家康は「ムムム。生意気なヤツラめ!だけど、ワシが島津をやっつけに行ったら、その隙に何があるかわからんしな。あいつらは遠いから金もかかるしなぁー。戦うとなったら、ヤツラはどうせ徹底抗戦するだろう。そうなると少々めんどっちぃからな・・」 この頃、立花宗茂は徹底抗戦の構えを見せており、加藤・黒田の軍を打ち返し、さらに加藤・黒田から「お前を死なすのはもったいないから降伏してくれぇー」とお願いされ、軍事の才能をみせまくっていました。 家康から何度も「来い」と言われているのに無視しまくりの島津。 入ってくるニュースは「長宗我部家領地没収!」「上杉家領地没収!」などイヤなニュースばかり。 とうとう家康から最後通牒が来たと頃には、家康は根負けし、島津の所領を全て安堵したのです。 家康の考えは「くぅーー!粘っこいヤツラめ!さっさと上洛してこないから、所領没収の時期を逸してしまったではないか!今ここで島津の所領を没収したら、ヤツラは絶対反撃してくる。今日本最南端のトコまで戦いにいくことは、あまりにも危険じゃ!中央を手薄にすると、いつどこで三成みたいなヤツが出てくるかわからん。もうこの際、島津の所領は安堵してやろう」というものだったのです。 島津の粘り勝ちでした。 その後義弘は85歳まで生きました。 老いた義弘は食事を食べることも忘れるほどボケてきちゃいましたが、側近が戦場での鬨(とき)の声を「ワーッ」とあげると、すぐその声に反応したらしい。 ボケても戦国武将らしい義弘でした。 |
上杉景勝 |
西軍敗戦を聞き、もー景勝はビックリ! まさか1日で勝敗が決定するとは思ってもみなかったのです。 「なんなんだよ!ワシの苦労はどうなるんじゃーーー!」と、腹をたてましたが、負けてしまったものは仕方ない。 ここで自分だけが家康に反抗しても、もはや無理。 関東管領の家柄というプライドをかなぐり捨て、ソッコーで重臣の本庄繁長(ほんじょうしげなが)に謝りに行かせました。 家康はコレにかなり気分をよくしました。 それに家康にとっても景勝は「三成をやっつける絶好のチャンスを作ってくれた人」 こうして景勝は、家康に臣従することを誓うことになったのです。 所領は会津・米沢120万石から米沢30万石へ。 これには家臣団から大ブーイング! 城明け渡しを拒否する家臣もチラホラいました。 こうして一気に四分の一の所領となった上杉家は財政難に! 家臣に与える領土もなくなってきましたが、家臣は誰一人上杉家を離れようとしませんでした。 景勝はその家臣団の気持ちに感激し、自分の領地も家臣に分配しました。 そのため景勝の居城は他の大名と比べ、かなり質素だったそうです。 そして上杉家は江戸時代の「貧乏大名」の代名詞となっていくのです。 |
直江兼続 |
西軍敗戦後、君主景勝を支えまくりました。 ほんとは死んでお詫びしなきゃいけないとこでしたが、生きて責任を果たすことを選んだのです。 家臣に与える所領がないため景勝同様、兼続も自分の領地を分配しました。 その後極度の財政苦にもめげず、領土経営に励みました。 その甲斐あってで30万石でありながら、実収入は50万石以上と言われるようになったのです。 後に伊達政宗と江戸城ですれ違った時、政宗が「60万石のワシに挨拶しないとは無礼な!」と咎めました。 すると兼続は「長年戦場でお目にかかってはいましたが、いつも後ろ姿ばかり(逃げる時)だったので、気がつきませんでした。正面から見るのは今日が始めててありますなぁ」と少しもひるまずに皮肉ったそうです。 |
真田昌幸 |
秀忠を翻弄しまくった昌幸。 こちらも1日で勝敗が決まってしまったことに驚きました。 秀忠は「昌幸を殺せ!あいつはオレ様を関ヶ原に遅参させた原因だぞぉー!」と言いました。 本来なら死罪のところを。東軍にいた昌幸の長男信之の懇願で幸村とともに流罪になったのです。 自分の仕事はきちんとやった昌幸。 勝ったはずなのに、西軍は負け。 「またいつの日か、采配をしたい・・・」と思う日々を過ごしました。 そして昌幸は軍才を、次男である息子の幸村に伝えていくのです・・・。 |
脇坂安治 |
寝返り組の中で、成功したのはこの人だけ。 赤座・朽木・小川らに加増はなく、脇坂のみうまくやって5万石ゲット。 その後、大阪の陣も頑張っちゃって、七本槍の中で最後まで幕末まで大名として残りました。 |
前田玄以 |
東軍に属していながら、三成挙兵を家康に知らせるなどして保身をはかったおかげで、所領安堵となりました。 合戦直前に中風が悪化し、危篤状態になったため合戦には参加しませんでした。 そして1602年 幕府が開かれる前に63歳で死去。 |
立花宗茂 |
関ヶ原では前哨戦ともいえる大津城攻撃をしていたため。不参加。 西軍の負けを聞くと、すぐさま大阪城へ向かい毛利輝元に徹底抗戦を説きましたが、輝元は煮えきらず、諦めて九州へ戻ることに。 戻ってからは、東軍に追撃され、居城柳川城は東軍に包囲されました。 が、追撃軍が朝鮮出兵でともに戦った加藤清正だったため、清正は無益な争いを避けたかった。 さらに同じく、追撃軍の黒田如水も武勇を惜しみ、攻撃せず降伏を勧めたのです。 清正は宗茂に「宗茂殿と家臣の命を助けるから降伏してくれ!」と、お願い。 宗茂も領内の民に大きな苦労をかけたくなく、降伏したのです。 城を明け渡す日、柳川の領民はこぞって駆けつけ、殿様のためなら命を惜しまない!と言い、城を明け渡すのを留まるよう泣き叫びました。 が、「気持ちは嬉しい。だがワシはそなたたちを巻き込みたくないために城を出るのだ」と言いました。 その後18人の従者を引き連れ、京都近辺で流浪生活を送ります。 その日の食べるものにも困るようになりましたが、従者は誰も宗茂の元を去ろうとしませんでした。 そんな宗茂の人柄の良さに密かに感服していた家康。 息子秀忠の相談相手になってくれ!とスカウトするのであります。 そして1620年 二代目将軍となった秀忠から旧領 柳川城主に命じられ、奇跡的なカムバックをしたのであります。 関ヶ原の敗戦武将でありながら返り咲いた宗茂は、1642年74歳のときに江戸で死去。 穏やかな死に顔だったそうです。 |
大谷吉継の息子たち |
三成のために壮絶な死を遂げた吉継ですが、息子はやばかった。 長男・吉次は父と一緒に合戦当日戦場まで行きながら、やばくなると思うと逃げ帰ってしまったのです。 そして次男・頼継も同様、さっさかと逃げ帰ったのです。 父である吉継の戦死と2人の息子のコントラストがあまりにも大きくて、哀れさが余計増してしまいます。 その後、吉次は大阪の陣へ向かいます。 |
竹中重治 |
竹中半兵衛の息子です。 はじめは西軍に属してましたが、途中で黒田長政に東軍に入るよう説得されました。 父の半兵衛は黒田長政を助けた命の恩人だったため、長政は重治をどうにかして助けたいと思ったのです。 そして重治は、小西行長を捕らえたという功により竹中家は所領安堵となりました。 竹中家はその後明治維新まで存続。 そして半兵衛と官兵衛から始まった両家の仲も末永く続いたのです。 |
豊臣秀頼 |
関ヶ原の戦いに直接関係はないものの、戦後の秀頼は65万石という一大名に格下げされてしまいました。 |
織田秀信 |
秀信は高野山に行ってから、わずか26歳で死んでしまいます。 これにて織田の嫡系は断絶。 秀信は権力者の間の天下取りに利用されただけの、お気の毒な一生となりました。 信長さえ生きていれば、このような哀れな人生を送らずにすんだかもしれなかったのにね。 |
東軍 戦後処理 |
家康は西軍の大名の諸領632万石を没収。 改易されたのは88家。 減封された大名は93家。 全国石高の34%であります。 そしてこの没収地は功績のあった東軍大名へ配分されました。 ベストテンは @結城秀康 A松平忠吉 B池田輝政 C前田利長 D黒田長政 E最上義光 F福島正則 G加藤清正 H田中吉政 I浅野幸長 |
徳川秀忠 |
徳川家の後継ぎでありながら、関ヶ原に遅れてしまうという大失態をしてしまった秀忠。 家康は激怒し、秀忠に会おうともしませんでした。 が、榊原康政が「全てはワシの責任です!」と、家康に直訴し、なんとか許してもらえました。 |
松平忠吉 |
家康の四男。 秀忠が遅れたおかげで井伊直政とともに先鋒で大活躍。 初陣であったにもかかわらず島津軍を追撃し、自らも島津の重臣を討ち取るなど華々しい戦功をあげ、家康を大喜びさせました。 そして52万石を与えられるのです。 が、2年後病気で死んでしまい、尾張松平家は断絶。 代わりに入ってきたのが家康9男の義直。 尾張徳川家となるのです。 |
榊原康政 |
秀忠が関ヶ原遅参となり、家康は秀忠に会おうともしない。 秀忠が好きだった康政は、ついに意を決して家康のもとへ。 そして「遅参は全てワシの責任でございます。」と涙を流し弁明した。 そして家康はとうとう怒りを解いたのです。 秀忠は康政の行いに非常に感謝し「わが家が続く限り、子々孫々にいたるまでそなたの行動は忘れない」と書にしたため康政に送りました。 康政治は論考賞として水戸25万石を家康から与えられましたが、秀忠遅参の責任を取り辞退したのです。 |
黒田如水 |
関ヶ原が1日で終わってしまったことは如水にとって予想外でした。 長期戦になるだろうと如水は思っていたのです。 しかも、自分の息子が活躍しまくったことに激怒。 長政が誇らしげに「家康に褒められた!」と報告しに来ましたが、如水は「その時お前の手は何をしていた!」と言いました。 長政が家康を討たなかったことを痛烈に皮肉ったのでした。 4年後、如水は自分の死期を悟ると、突然凶暴な君主に変貌。 皆恐れおののき、近づかなくなりました。 如水は「自分が口うるさくなり、家臣に嫌われれば、わしが死んだ後ホッとするであろう。さすれば、みな長政のことを好くであろう」という長政への心憎い気配りでありました。 |
加藤清正 |
清正は、小西行長のキリシタン領をそっくりそのまま吸収。 54万石の大名となりました。 小西行長の領地にはキリシタン信者が10万人もいて、行長によって保護されていました。 そして新しい領主 清正はキリシタンが大嫌い。 10万にも及ぶ信者らは、清正のキリシタン弾圧を恐れ他領へ逃亡しまくったのです。 |
福島正則 |
関ヶ原では先鋒として大活躍。尾張20万石から広島49万石へ出世しました。 |
可児才蔵 |
実は決戦前日に、才蔵は抜け駆けして西軍の湯原源五郎を討ち取ってしまった。 福島正則は激怒しました。 首実検の時正則は「お前はたった一つの首のために法を犯したのか。愚か者め!」と怒鳴ると、才蔵は「ワシが討ち取った首は持ち帰るのが面倒なので、首の耳や口に笹の葉を差し込んでおります。それを他の若い武士らが自分の手柄として持って帰ってきたのでは?」と言ったのです。 そして取った首を調べてみると、なんと笹を詰めた首を17個あり、東軍一だったのです。 家康はこれに驚き「今日より笹の才蔵と名乗れ」と言ったそうです。 |
佐竹義宣 |
東軍にいながら、恩のある三成に弓をひけずにいた義宣。 結果、真田ともめている秀忠のもとに300騎を出しただけとなりそれを家康は許さなかった。 54万石から出羽・秋田20万石へと国替えを命じられたのです。 その後は大阪の陣にも参加。 恩義ある三成はもういない。直接対決せずにすんだ安堵感を思ったことでしょう。 62歳で死去。余生はおだやかに過ごしたそうです。 |
池田輝政 |
輝政は福島正則とともに先陣争いをしました。 大きな戦功を挙げることはできませんでしたが、播磨52万石を家康から与えられるのです。 福島正則は「輝政は家康のお婿だからな。我々は槍先で国を取ったが輝政は一物で国を取ったのだ」と皮肉りました。 輝政「いかにもワシは一物で国をとったが、もし槍先で取ったら天下までも取ってしまったかもしれんからのう」と応酬したそうです。 |
細川忠興 |
豊前39万石の大名に取り立てられました。 その後は家督を忠利に譲り、悠々とお茶の世界に。 千利休の七哲の一人となり、1645年83歳で死去。 |
藤堂高虎 |
関ヶ原では裏工作をしまくって家康に認められ8万石から22万石の大名となりました。 その後、築城が大得意な高虎は江戸城でもその能力を発揮。 1630年 75歳で死去。 死ぬ前、三代将軍・家光が見舞いに来た時 「死後も話をしたいが、宗派が違うから無理だな」と言ったとたん、その場に居合わせた僧に改宗を申し出たといいます。 |
山内一豊 |
長宗我部の領地に入る。 そして長宗我部の家臣を「相撲大会」と称して集め全て殺してしまいます。 その後、長宗我部の人々は幕末まで虐げられ、山内系がえばりまくる。 坂本竜馬も虐げられた一人であります。 |
最上義光 |
念願の庄内(山形南西部)をゲット。57万石に出世 |
伊達政宗 |
上杉景勝の押さえとして家康に命じられた政宗。 東軍勝利のニュースを聞いた後だってのに、上杉家の本庄繁長に戦いを挑み、こてんぱんにやられる。 これに家康は腹を立て、2万石しか加増しませんでした。 政宗は関ヶ原から1年しか経ってない頃「秀頼は秀吉ほどの器量がなければ2・3カ国与えて豊臣家を存続させても害はないだろうけど、このまま大阪城に居続けたら、必ず秀吉を担いで謀反を企てる者が現れるであろう」と家康に忠告しました。 |
九鬼守隆 |
守隆は家康に「私は恩賞入りませぬ。そのかわりに父 嘉隆の助命をお願いいたす!」と言い、家康はそれを許しました。 守隆は喜び、急いで志摩へ潜伏している嘉隆のもとへ使者を送りました。 が、嘉隆は助命を認めれたことを知る前に、碁を打った後自害していたのでした。 守隆はその後56000万石の中堅大名となりましたが、息子の隆季と久隆がお家騒動である家督争いを始めてしまい、幕府は隆季を丹波に、久隆を摂津に行かせた。 水軍だった九鬼家は内陸へと移って行ったのです。 それでも久隆の摂津の家には、お城の前に大きな池を作り軍船を浮かべ、水軍時代を忘れないようにしていました。 そして九鬼家は明治時代まで存続し、子爵となるのです。 |