安土桃山時代その8 1582年6月〜1582年12月


1582年6月27日 清洲会議 信長の後継ぎは?
7月1日 勝家ムカッ!なんだあいつ!
太閤検地スタート
織田家臣 柴田勝家
織田家臣 丹羽長秀
清洲会議参加者 池田恒興
織田家重臣 滝川一益
11月 勝家「ワシ、秀吉嫌いじゃ!」
勝家VS秀吉 工作スタート
この時 毛利輝元は?
この時 徳川家康は?
この時 長宗我部元親は?
12月9日 秀吉動く!
12月20日 信孝を攻撃!




安土桃山時代 その8 
1582年6月27日 清洲会議 信長の後継ぎは?
清洲城では、天下取り半ばの信長の後継者を選ぶ会議が開かれることになりました。

参加資格を得たものは、羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興・柴田勝家の4人。

滝川一益は重臣でありながら、北条に大敗を喫したため参加資格がなかったのです。

また、信雄・信孝らも参加させてもらえませんでした。

流れ的に「信孝」が後継者となるであろうという空気がありました。

秀吉は「信雄・信孝を参加させると、公正な議論ができない」と、2人の参加を却下したのです。

清洲会議は勝家の発案でした。

秀吉は「ココで勝家に主導権を握られてはマズイ・・・・」と、さまざまな裏工作をしてたのです。

清洲会議当日。

ここで柴田勝家は、山崎の合戦に参加した三男の信孝を後継者としてプッシュ。

対する秀吉は、京都で討たれた信忠の嫡男である三法師をプッシュしたのです。

秀吉はこの時、丹羽長秀を味方につけました。

丹羽長秀は「嫡孫を後継ぎにするのが筋である!」と主張し、この清洲会議で後継者は三法師に決定したのです。

さらに「信孝が後継者になれば、次男の信雄が黙っておらんだろう?2人のうちどちらかを決めるのは混乱を招く」とまで付けたし。

勝家はこう言われてしまっては、信孝をこれ以上強く押せなくなってしまったのです。

機転と根回しをきっちりとやる秀吉の前に、まっすぐにしか突き進めない勝家が負けたのでありました。

結果はそれだけではありませんでした。

信長の遺領配分において秀吉は播磨・山城・河内・丹羽を取ったのに対し、勝家は秀吉の旧領である近江の長浜のみ。

滝川一益は遺領配分さえもなかった。

三男信孝は自分も秀吉とともに弔い合戦に参加したので、後継者は自分だと思い込んでいたので結果を聞いてガクゼンとしたのです。

こうして秀吉は、後継ぎである三法師の後見人となったのです。
1582年7月1日 勝家ムカッ!なんだあいつ!
秀吉は、三法死の後見人となると、さっそく三法師におもちゃを与えてなつかせました。

そして清洲会議から4日目・・・

織田家の諸将が登城してきました。

みんなが居並ぶ大広間に、秀吉が三法師を抱いて現れたのです。

勝家らは平伏しました。

その姿が、あたかも三法師を抱いた秀吉に対して頭を下げ、平伏しているように見えたのです。

勝家は怒りに震えました。

「草履取りだった奴に、ワシが平伏した形になるとは!!」

こうして、勝家と秀吉は織田家臣NO1の座を巡って激しく対立することとなるのです。

勝家は「自分が織田のNO1。ワシは筆頭家老である!」という気持ちがありました。

それがいつの間にか、秀吉に取られていたのです。
1582年 太閤検地スタート
秀吉は新しく支配地を広めるたびに検地を行いました。

それまでは領主達にその面積を申告させ税を決めていましたが、ごまかす者がいないようちゃんと測る事に。

土地の広さを測った後、田を上・中・下・下下に分け等級を決め等級にあった税を納めさせました。

秀吉は検地を厳しく行い、これに反抗するものは誰であろうとも一人残らず殺せと命令。

これで昔から続いた「荘園制度」は完璧に消滅となります。

この検地を行ったのは石田三成を中心とした文治派でした。

織田家臣 柴田勝家
勝家は、浅井・朝倉攻めや越前一向一揆など軍功を重ね、居城を北ノ庄城に定め城下町を北陸一とまで言わせました。

北上していった勝家ですが、ここで最大の武将上杉謙信に手取川で奇襲を受け大敗。

が、謙信が病気で死んだことを聞くと、北陸攻めが楽になり加賀一向一揆を制圧しました。

残ってるのは上杉景勝。

そして景勝と戦っている時に本能寺の変を聞いたのです。

強敵上杉と戦ってる最中だったので、動くことができず秀吉に弔い合戦をされてしまい、完全に出し抜かれてしまう。

これによって重臣としての権限が薄れていくのです。

いったん決めたらとことん型で、まっしぐらに突き進んでいく純粋な性格だった勝家は、実戦より謀略を得意とする秀吉とは対照的でした。

自分の名前である「柴」をあやかった秀吉が主君の仇を討ったことで、いつの間にか主導権を握っているのに焦りと憤りを感じたのでした。

織田家臣 丹羽長秀
清須会議の際、重臣の中で秀吉の味方をした長秀。

織田家命の長秀は、織田の命運を秀吉に賭けたのです。

47歳の時に、三男の信孝を総大将として四国平定に出陣。

その準備の最中に信長の悲報を聞きました。

その時、すぐさま光秀討伐に動かずにいた慎重さが裏目に。

秀吉の中国大返しを聞き、その大軍に合流するという消極的な行動となってしまったのです。

山崎の合戦では秀吉中心の戦いとなってしまいました。

それでも長秀は秀吉のことを嫌いではなかったらしく、「秀吉ならば、織田のために色々やってくれるだろう」と、秀吉の味方をすることとなったのです。

清洲会議参加者 池田恒興
清洲会議参加者の中で、一番ランクの低い恒興。

そもそも、会議自体に参加できるほどの身分ではありませんでした。

実は水面下で、秀吉がかなり激しい工作をしていたのです。

そして「恒興は、山崎の合戦において活躍しまくった!ぜひ参加させたい」と強く押したのです。

参加できるほどの身分じゃないのに、ベスト4に選ばれることとなった恒興。

恒興は秀吉にすごく感謝し、秀吉を応援しまくったのです。

結果、清洲会議は勝家VS秀吉・長秀・恒興となってしまいました。

いくら「筆頭家老じゃ!」と言い張る勝家でも、1対3では敵わなかったのでした。
織田家重臣 滝川一益
長篠の戦で素晴らしい活躍をした一益は、勝家や佐久間盛政ら譜代の重臣と同じ位置まで偉くなりました。

1578年には信長主催の茶会が開かれ重臣12人が選ばれました。

そこに名を連ね、一益は大喜こび

石山本願寺の時も、九鬼嘉隆とともに無敵であった村上水軍を撃破。

武田攻めでも織田信忠とともに武田騎馬隊を相手に奮闘。

多くの軍功をあげ信長から褒美をたくさんもらったのです。

戦上手として名を馳せた一益は東国攻めの総大将を任され、拠点として上野厩橋城を居城とすることを命令される。

そして信長の期待にこたえるべく一生懸命やっていたのでした。

そこへ本能寺の変。

一益は急いで京都に行こうとするが、そこへ北条氏が大軍を率いて滝川軍を追撃。

滝川軍より10倍以上ある大軍でやってきたもんだから士気が下がりまくり壊滅。

なんとか逃げ切り戻ってきた一益。

が、今まで草履持ちとバカにしていた秀吉が天下への駒をゲットしていた。

これに焦った一益は、勝家・信孝と組むことになったのです。
1582年11月 勝家「ワシ、秀吉嫌いじゃ!」
勝家は秀吉のことをめちゃくちゃムカついてました。

調子が良く、信長に気に入られていた秀吉。

対する秀吉も、勝家は目の上のたんこぶ。

それに大好きなお市の方を奪った(?)憎い奴。

こうして織田家の主導権を握るバトルが始まっていくのです。

が、勝家の居城は「北ノ庄城」

冬は雪が沢山降るので、簡単に兵を出すことは出来ない。

勝家は、信頼を寄せている前田利家に「とりあえず、今は秀吉と戦うのは不利なんだよね」と、秀吉とある程度仲良くしときたいという内容のことをお願い。

前田利家は勝家とともに「北国軍」として、すごく仲が良かった。

ですが、秀吉とも貧乏時代お隣同士で、親友だったのです。

大好きな2人が、仲たがいしていくのを、利家は嫌だなぁーと思っていたのでした。
勝家VS秀吉 工作スタート
冬の間動けない勝家は、利家に頼んで「とりあえず和議」をしました。

多分この時、利家は秀吉と会い「ワシの味方をしろ」と頼まれたのでしょう。

また、勝家にとって丹羽長秀・池田恒興が秀吉側についたことは誤算でした。

「こうなったら、他のヤツラを秀吉側につかせるわけにはいかん!」と、工作しだしたのです。

秀吉も負けてはいません。

こうして他の織田家・同僚家臣の奪い合いがスタートしたのです。

が、これは秀吉が有利でした。

というのも、秀吉についたのは丹羽長秀&池田恒興。

勝家には滝川一益。

他の家臣たちは「どっちについたかによって、我が家の命運が決まる。強い方を選ばなければ」と、吟味しまくり。

現在のところ3対2で秀吉の勝ち。

さらに秀吉は「主君を討った明智光秀」をやっつけたのです。

さらにさらに!清洲会議において、秀吉の押した三法師が後継ぎに。

織田家臣らは「これは秀吉に分があるんじゃないか・・・」と、秀吉側につきはじめたのです。

この動きを察知した勝家。

「クソ!こうなったら織田家以外の者を味方にするしかない!」と、考え始めたのです。
この時 毛利輝元は?
勝家は「このままじゃワシの方が劣勢だな」と、感じていました。

そこで織田以外の人を味方につけようと考え、真っ先に浮かんだのが、本能寺の変直前まで秀吉と戦っていた「毛利輝元」でした。

いきなり毛利に使者を送っても、無理だろうなと考えた勝家。

元・将軍の足利義昭にお願いしたのです。

義昭は毛利家にいたので、さっそくお願い。

すると早速「毛利家は勝家の味方をしましょう」という返事が来たのです。

勝家&一益はそれを聞いて大喜び♪

が、毛利家は「勝家かぁー。どうする?秀吉はなかなかやり手だからなぁ。一応勝家にはOKしたけど、秀吉が勝っちゃったら困るしなぁ。とりあえず両天秤かけとくかー」みたいな状況でした。

そんな毛利の考えは知らず、勝家は「毛利が味方になったぞ!」と信じて疑わなかったのです。
この時 徳川家康は?
お次に勝家が期待を寄せたのは徳川家康。

信長がもっとも信頼していた同盟者だったし、家康も秀吉の急速な台等を嫌がっているはず・・・。

勝家は何とか家康を味方につけたかったのです。

が、家康は正直「信雄」派でした。

「普通三男の信孝じゃなく、次男信雄だろ?」という保守的な面があったため、信孝を押す勝家にいまいち賛同できなかったのです。

家康は「まぁ、とりあえずは様子みとくか」という感じでした。

勝家は家康を味方につけることは出来なかったのです。
この時 長宗我部元親は?
勝家は長宗我部元親にも味方になってくれるようお願いしました。

長宗我部元親が味方になってくれれば、背後から秀吉をつついてくれるからです。

この外交の使者となったのは信孝でした。

これは大成功となりました!

長宗我部元親は早速、兵を集めて動き出したのです。

秀吉はそれを察知し、仙石秀久を阿波方面に派遣し、長宗我部元親の牽制役に任命したのです。
1582年12月9日 秀吉動く!
前田利家を通して、いちおう和議をした秀吉と勝家。

ですが、水面下ではガンガン工作しまくっていました。

秀吉としては勝家が冬の間動けないというチャンスを見逃すわけには行かなかった。

12月9日 秀吉は、勝家の養子である柴田勝豊に攻撃開始をしたのです。

勝豊は「いくらがんばっても、勝家は応援にこれない・・・」と、とうとう勝豊は秀吉に降伏したのです。

1582年12月20日 信孝を攻撃!
秀吉が次にターゲットに選んだのは岐阜城にいる信孝でした。

が、岐阜城はなかなか落ちそうにない。

秀吉はいきなり岐阜城を攻めるのではなく、周りから・・・と考え始めたのです。

まず氏家直通(うじいえなおみち)を、秀吉側に寝返らせました。

お次は稲葉一鉄。

秀吉は岐阜内にいる大物家臣2人を寝返らせたのです。

大物家臣が寝返ったことに動揺しまくったのは他の家臣たち。

「もしかしたら秀吉殿のほうが有利なのでは!?」と思い始め、次々と秀吉に降伏していったのです。

さらに森長可も秀吉側に寝返りました。

こうしてまわりを寝返らせてから、岐阜城にいる信孝を攻撃したのです。

ちなみにこの時、秀吉が信孝攻めの総大将に選んだのは信長次男の「信雄」

信雄は信孝が大嫌いだし、信雄を前面にたてておけば、何かとうるさいヤツラを黙らせることが出来るからです。

信孝は柴田勝家に何度も連絡しましたが、勝家は雪のため兵を動かせなかった。

さらに秀吉は信孝の老臣である岡本良勝を寝返らせることに成功。

岡本良勝は「ここは降伏したほうがいいですよ」と信孝を説得。

信孝は降伏することとなり、自分の母や娘を人質として差し出さなければならない羽目になったのです。

自分の一族や同盟者が、次々と秀吉に降伏していくのを、北の国で聞いていた勝家。

もういてもたっても居られない状況に。

「雪がなくなったら、絶対秀吉ぶっ殺す!」と、イライラしまくるのでした。