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安土桃山時代その7 1582年6月5日〜6月16日


6月5日 光秀 安土城に入る
どう出る?摂津衆・中川清秀
信雄ビビる 「弔い合戦??オレが?」
信雄 全然関係ないとこを攻める
光秀 無駄な時間を過ごす
6月8日 秀吉 姫路へ到着
6月9日 光秀大ショック!細川父子の裏切り
6月9日 本能寺の変 その時滝川一益は?
6月9日 日和見順慶
6月10日 光秀絶望
6月10日 秀吉尼崎へ到着
6月13日 午前 山崎の戦い
6月13日 午前 秀吉 織田信孝を待つ
6月13日 PM16:00 天王山争奪戦
山崎の合戦始まる!!
6月13日夜 光秀 勝龍寺城へ!
6月13日 明智光秀死去!!
光秀弟・明智秀満自刃
明智光秀の妻 煕子
光秀の娘 細川ガラシャ
6月14日 「家康、もう帰っていいから」by秀吉
6月16日 名城・安土城炎上!!秀吉ビックリ




安土桃山時代 その7 
6月5日 光秀 安土城に入る
光秀は、この日無血で安土城に入りました。

城に入ると、財宝を家臣たちに惜しみなく分け与えました。

まず手始めに近江を平定。

丹羽長秀と、秀吉の城を家臣らに攻め込ませました。

留守役しかいない城は、簡単に落ちました。

お次は光秀、美濃に狙いを定めました。

さらに光秀は「信長の弔い合戦として、来るとしたら柴田勝家ら北国軍だろう。ヤツラが一番勢力を持っている。北国軍に備えなければ!」と、ターゲットを柴田勝家に絞りました。

秀吉のことなど、ほとんど考えていなかったのです。

そのため、織田信澄が殺されたことも黙認していました。

京都より西に対し、なんの手も打っていなかったのです。
どう出る?摂津衆・中川清秀
秀吉も光秀も、どうにかして味方に加えたい人たちがいました。

それが池田恒興・中川清秀・高山右近ら「摂津衆」です。

摂津衆は荒木村重の傘下にありましたが、村重が謀反を起こしたため摂津衆は大打撃を受けていました。

そして荒木村重の家族・家臣は、信長によって大量虐殺・・・。

それを見ていた村重傘下の中川清秀は「とてもじゃないが、あんな酷い男に心から敬服などしたくない」と思っていたのです。

秀吉はそんな中川清秀に「味方になれ」と手紙を送りました。

同じ頃、光秀も手紙を送っていたのです。

中川清秀は悩みました。

どっちにつくかによって、今後「中川家」の存続がかかっているのです。

そして清秀が選んだのは「秀吉」だったのです。

もちろん池田恒興は信長と乳兄弟だったので、秀吉側につきました。

すると高山右近も秀吉軍に入ることに。

摂津衆が秀吉についたことは光秀ショックでした。

ですが、ここまでは仕方ない・・・と諦めることができたのです。
信雄ビビる 「弔い合戦??オレが?」
日野城に入った蒲生賢秀らは、一番近くにいる信雄に使者を出しました。

「明智光秀謀反!ただちに光秀征圧の軍を出したいので、総大将として出馬願います!」というものでした。

嫡男信忠が死んでしまったので、総大将となるべきだったのは信雄でした。

この頃、日野城にいる蒲生賢秀のもとには明智勢からの使者が来まくっていました。

もちろん「明智勢の味方になれ」というお誘いです。

それを氏郷らは何とか引き伸ばしている最中でした。

前田利長は「何で使者を切り捨てて、明智光秀を討ちに行かないんだ!」と、ブーブー文句。

利長はまだ19歳で、血気盛んだったので、賢秀や氏郷の態度にムカムカしていたのです。

氏郷らは、「まったく、この軍勢で立ち向かったところで、勝てると思ってるのか?」と、なだめていましたが、埒があかないので、信雄のもとへ使者を出したのです。

が、信雄は恐怖におののいていました。

「オレ?オレが総大将?」と、ビビってしまい、出陣を何日も先延ばししていたのです。

そして、やっと出陣したのは9日。

が、何を間違ったか余計なことをしてしまいます。

その頃に、秀吉がやってくることとなったのでした。
信雄 全然関係ないとこを攻める
信雄と丹羽長秀は、ここで「織田信澄」のことを思い出しました。

信澄は、以前信長に謀反を起こした弟・信行の子供。

そして、明智光秀の妻を娶っていたのでした。

ちょうど大阪城にいたので、信雄らは「明智光秀の味方になったら困る!」と、大阪城の信澄をやっつけに行ったのです。

信澄は、突然の攻撃に何の準備もしていなかったので、あっという間に攻められ自刃しました。

光秀の味方になるかどうかもわからないうちに、信雄は無駄な血を流させたのです。
光秀 無駄な時間を過ごす
光秀は、貴重な時間を費やしてしまいました。

それは「朝廷に対して」です。

信長は朝廷などハナから相手にしておらず、太政大臣でさえも「お前呼ばわり」

ですが、光秀は違った。

律儀な性格だったし、信長と将軍とのパイプ役もやっていたこともあり、京都のお偉いさんたちをおざなりにできなかったのです。

今が一番大事な時だというのに、ここでお偉いさんたちに気を使い、酒宴などをやって過ごしてしまったのです。

そして、その間に秀吉が「中国大返し」をしているのでした。
6月8日 秀吉 姫路へ到着
毛利家と和議し、尋常じゃない速さで戻ってきた秀吉。

秀吉は馬上で寝て落ちてしまうほど疲労しきっていました。

姫路城に到着すると、「中国攻めの軍資金を全て残らず兵に配れ」と言ったのです。

破格の恩賞でした。

6月9日 光秀大ショック!細川父子の裏切り
光秀にとって「摂津衆は仕方ないな・・・」と、思っていましたが、味方と信じて疑わなかった細川幽斎・忠興父子がなんと光秀を裏切ったのです。

細川幽斎と光秀は、将軍足利義昭を擁した頃からの親友でした。

将軍のもとで苦楽をともにした2人は、以後信長の家臣となり、ずっと仲良くやってきたのです。

光秀は、娘の「玉」(細川ガラシャ)を、幽斎の息子である忠興と結婚させ、両家は非常にうまくやっていたのです。

ですが、細川父子は「光秀謀反!」を知ると、すぐさまガラシャと離婚し、ガラシャを幽閉してしまいました。

さらに幽斎は剃髪して、(この時、藤考から幽斎になりました)、家督を忠興に譲ってしまったのです。

さらに忠興も髪を切り、信長への忠誠を誓ったのです。

もう光秀は大ショック!

最も頼りにしていた親友に裏切られたのです。

光秀は諦めきれず、何度も手紙を出しました。

最後には「お願いだから、来てくれ!所領も沢山あげるから!頼む!」と、涙を流しながら手紙を書きましたが、細川父子は全く動こうとはしなかったのです。
6月9日 本能寺の変 その時滝川一益は?
関東の北条氏政とバトル中の滝川一益。

なんと「本能寺の変」の情報が入ったのは6月9日。

これは甲賀出身であった滝川一益が、甲賀攻めを信長に進言したことから、甲賀忍者に「裏切り者め!」と憎まれていたから。

そのため、甲賀忍者は「滝川一益に、この訃報を知らせるのを遅らせてやろう!」と、邪魔をしまくったのです。

敵である北条氏政の方が、先にこの情報をキャッチしました。

そしてチャンス到来♪と、一益に攻めかかってきたのです。

一益は、さっさと引き揚げればよかったのに「正々堂々戦ってやる!」と、北条氏政とバトル!

が、こてんぱんに負けてしまい、命からがら逃げ出したのです。

この負けはかなり最悪で、清州会議の参加もさせてもらえないほどとなってしまったのです。
6月9日 日和見順慶
ここで光秀、さらなるショックが!

一度、味方になると言っていた筒井順慶が、怪しい動きをしだしたのです。

順慶は光秀とともに、河内へ討ち入ることになっていたのに、9日なってから、籠城の支度をし始めたのです。

筒井順慶は信長の家臣として大和(奈良県)一国を与えられていました。

大和を与えられたのは、光秀が信長にプッシュしてくれたおかげなのでした。

以後も光秀は順慶を可愛がり、何かと面倒をみてあげました。

順慶が今この立場があるのは、全て光秀のおかげだったのです。

そのため光秀は、本能寺の変後は順慶は必ず自分についてくれると思っていたのです。

が、動く気配がない。

光秀は順慶に何度も使者を出し、一刻も早く自分のもとに来るように言いました。

が、いっこうに順慶が来る気配はなかったのです。

諦めきれない光秀は、洞ヶ峠まで行き、10日まで順慶がくるのを待ちました。

順慶は光秀と秀吉 有利な方につこうと考えていたのでした。

そして光秀に加担するものが殆どおらず、戦況は秀吉にありと見極めると、秀吉に使者を出し「オレはそっちにつく」と言ったのです。

そのため「日和見順慶」というニックネームがついてしまったのでした。

洞ヶ峠で待っていた光秀でしたが、秀吉が早くも尼崎までやってきたというニュースを聞き、慌てて戻ったのです。
6月10日 光秀絶望
信じて疑わなかった細川父子・筒井順慶の裏切り。

光秀は「いったい誰が、来てくれるのだろうか・・・」と、ものすごく憂鬱になりました。

さらに光秀にとって一番の誤算。

秀吉が1日で100キロ走ったのかと思われるようなスピードで戻ってきたのであります。

光秀は、こんな状況に陥ってしまったコトを考えると情けない思いに。

ですが、そんなことも言ってられない。

「主君の仇!」と、大義名分をひっさげた秀吉が、怒涛の勢いで迫ってきているのです。

洞ヶ峠を引き揚げた光秀は、下鳥羽に本陣を置きました。

当初予想していた布陣とは、まったく違うものとなりました。

味方する軍勢がまったくいないからです。

また、強力部隊である娘婿・明智秀満率いる兵を、対勝家用に安土城守備に置いてしまっていたのです。

こうして、秀吉とやりあうのは、光秀の一軍だけとなってしまったのです。
6月10日 秀吉尼崎へ到着
秀吉は尼崎へ到着しました。

尼崎で池田恒興・中川清秀・高山右近らの摂津衆と合流。

秀吉軍は3万人に膨れ上がりました。

こうして秀吉が想定した合戦の場は「山崎」

対する光秀も「桂川と天王山に挟まれた山崎で迎え撃つしかない」と決めたのです。

1582年6月13日 午前 山崎の戦い
秀吉は作戦会議を開いた後、高山右近に山崎の町を占領させました。

そして中山清秀・黒田考高に天王山を占拠させ、戦場の要所を押さえた。

光秀軍は13000人。

明智光秀の中央には重臣・斎藤利三の3000。阿閉貞征の2000や、旧足利の幕臣らが陣を置きました。

対する秀吉軍は、中央に高山右近の2000。中川清秀の2500。

右翼は池田恒興の5000。

左翼に羽柴秀長らが陣を置きました。

6月13日 午前 秀吉 織田信孝を待つ
秀吉は信長三男・織田信孝が来るのを今か今かと待っていました。

信孝は信長の子であります。

信孝がそこにいるだけで、「名分」がたつのです。

秀吉だけが勝手に弔い合戦を始めたら、織田の重臣達が何を文句言って来るかわからない。

ですが、信孝がいれば、「息子がいたから」という理由になるのです。

そして、織田信孝を連れて丹羽長秀らがやってきました。

秀吉は、合流した織田信孝・丹羽長秀を最後尾に配置したのです。

これは光秀討伐の際、手柄をたてさせないためです。

「主君信長の弔い合戦」を行う総大将は、あくまでも秀吉でなければならなかったのです。

それが秀吉が天下へ近づく最低限の条件だったのです。
6月13日 PM4:00 天王山争奪戦
山崎の戦いは、別名「天王山の戦い」とも言います。

この天王山の戦いが、すべての戦局を左右したからです。

午前中はずっと睨み合いが続いていました。

午後4時頃。

天王山に陣を張っていた中川清秀隊と黒田考高隊。

ここに光秀軍の松田隊・並河隊が攻撃をしかけ、激しい戦闘が繰り広げられたのです。

これが合図となり、ぶつかり合いが全軍に広がったのです。
6月13日 午後4時 山崎の合戦!!
天王山では、めちゃくちゃ激しいバトルが繰り広げられていました。

が、とうとう中川・黒田隊は松田・並河隊を撃破!

さらに光秀軍に近づいていったのです。

中央では、光秀軍の斎藤利三VS池田恒興らが戦っていました。

斎藤隊は果敢に戦いました。

また、足利旧幕臣の御牧兼頼の活躍はめざましいものがありました。

ですが、とうとう斎藤利三が池田隊に討たれてしまったのです!

斎藤隊は崩れていきました。

御牧は「戦況は不利でございます!自分はこれから最後の突撃をし、討死いたす!その間に光秀殿は退却されよ!」と伝令。

光秀はそれを聞き「御牧を見殺しにするわけにはいかぬ!」と、兵を率いて救援に向かおうとしました。

が、他の家臣らは「今行っても無駄でございます!もはや退却するしかありません!」と必死で止めたのです。

午後6時 光秀軍の敗走が始まった。

もはや誰の目から見ても、光秀の敗北は決定的となったのです。

6月13日 夜 光秀 勝龍寺城へ!
光秀は勝龍寺城に逃げていきました。

そしてこの城に籠もって戦おうとしていたのです。

ですが、すごい勢いで秀吉軍は勝龍寺城へも迫ってきました。

城からは脱走者が相次ぎ、はや籠もって戦うどころじゃなくなってしまったのです。

明智軍の敗兵は必死に逃げてきました。

が、逃げる明智軍を秀吉軍が追撃。

みんな捕らえられ斬られていったのです。

「ここにいても落とされるのは時間の問題だ。娘婿・秀満を安土城に分散しなければ良かった!」

光秀は悔やみました。

ですが、今はもう逃げるしかない。

ここにいても殺される。

とにかく逃げなければ!

光秀は、最後までついてきてくれる覚悟のあるお供を数名つれて、勝龍寺城を脱出したのです。

6月13日 明智光秀死去!!
明智光秀一行は、少人数で近江へ向かいました。

雨が降り、道はぬかるみんでいました。

あちこちに「かがり火」が見える。

これは秀吉兵が、「残党狩り」をしていたのです。

見つからないように、必死に逃げました。

光秀一行は、桂川を渡り小栗栖(おぐるす)の竹やぶに差し掛かりました。

その時、竹やぶに隠れていた「落ち武者狩り」をしている農民達が現れたのです。

彼らは、疲労しまくっていた光秀一行に襲い掛かりました。

そして光秀は竹槍で突き刺されてしまったのです。

もはやこれまでと悟った光秀は、介錯で命を落としたのでした。

光秀の死体は何日もほったらかしであったため、腐敗しており本人かどうかの区別がつかなかった。

そのため光秀生存説が出て家康時代に活躍する「天海」は光秀である!という説が出てきたのです。
光秀弟・明智秀満自刃
秀満は、「山崎の合戦 大敗」を聞くと、ただちに安土城を出ました。

向かったのは坂本城です。

光秀がもし生きていたのであれば、坂本城に戻ってくるであろう。

そうしたら、坂本城で籠城するべきだと考えたのです。

が、坂本城に入った秀満に入ったニュースは「光秀死亡」

もはや坂本城で籠城する意味はなくなってしまいました。

秀満は家臣らを呼びました。

「ここまで付いて来てくれたことに礼を言う。だが、もはや明智は終わった。そなたらは、今すぐ逃げよ」そう延べたのです。

そして、秀満は天守閣へ。

そこで光秀の妻子と、自分の妻を刺し殺し、城を火にかけました。

それを見届けると、自らも腹を切って自刃したのです。
明智光秀の妻 煕子
煕子は美濃の土岐家の家臣である妻木載煕の娘として生まれました。

光秀が信長に仕える前に結婚したのです。

結婚を間近に控えた頃、煕子は疱瘡(天然痘)になってしまい顔があばた顔になってしまいました。

心配した父は「これでは嫁いでもすぐに帰らされてしまいショックを受けてしまうだろう・・・」と、煕子の妹を光秀のもとに嫁がせたのです。

ですが光秀は、すぐに妹を別人と見破り、妹を帰らせ煕子を嫁に欲しいと言ったのです。

煕子はそんな光秀に感謝し、2人は仲良く暮らしました。

ある時「汁事(しるごと)」を光秀の家でやることになりました。

汁事とは仲間の武士同士で順番に家を訪れ食事をしながら話をするというもの。

光秀の順番が廻ってきた時、貧乏だったため人数分の食事が用意できそうになくって光秀は悩みまくっていました。

すると煕子が「ご心配なく」と言い、仲間のどの家よりも立派な食事を用意したのです。

面目を保った光秀は「どうしてあんな立派な料理が用意できたのか?」と聞くと、煕子は頭のかぶり物を取り「髪を売りました」と言ったのです。

キレイな黒髪を売ってまで自分のために尽くしてくれた煕子に光秀は感謝し、さらに愛しく思いました。

その後信長のもとで出世してからも、他の武将達のように側室を誰一人置かず、一生煕子だけを愛し続けたのです。

江戸時代、松尾芭蕉は奥の細道の旅に出て越前にてこの話を聞き、感動して歌を詠んでいます。

「月さびよ 明智が妻の はなしせん」 というものです。

坂本城にいた煕子は光秀が山崎の合戦で死んだのを聞くと、家臣らに金銀と食料を分け与え城を出させた。

そして娘婿である秀満に自分を斬らせ夫のもとへ旅立ったのであります。
光秀の娘 細川ガラシャ
細川家は管領細川家の流れを汲む家柄でした。

信長に仕え、かしこかったのですぐお気に入りに。

信長の紹介で明智光秀の三女ガラシャと結婚。

忠興とガラシャは父同士も仲が良く幼馴染でした。

この可愛らしい2人の結婚を信長はとても喜んだそうです。

が、本能寺の変で光秀が信長を討っちゃった。

光秀は細川家にも「助けてくれ!」とお願いするも、細川父子はそれを拒否。

光秀は大ショックを受けるのです。

そして忠興は秀吉への忠誠を見せるために、光秀の娘ガラシャと離婚。

といっても忠興はガラシャを捨てきれずに、2年間隠し通して再婚するのです。

ですが、この2年の間に忠興は他の女性と浮気をし、子供を産ませました。

妻であるガラシャは幽閉されたり、浮気されたりと忠興の仕打ちにショックを受け、キリスト教にはまっちゃうのでした。

ですが、忠興はガラシャが大好き。

どうやっても捨てきれなかったのです。

6月14日 「家康、もう帰っていいから」by秀吉
必死の伊賀越えで、何とか三河に帰ることができた家康

早速「光秀征圧!」の軍を出しました。

が、秀吉から急使がやってきたのです。

「もう戦いは終わった。帰っていいですよ」というものでした。

家康は「してやられた・・・」と悔しがりました。

信長が死に、長男信忠も死んだとあれば、光秀を討った者こそが「天下」に一歩近づく。

それを秀吉にやられてしまったのです。

家康は秀吉のことを気にしたことはありませんでした。

「信長の一家臣」としか思っておらず、何の義理もない。

そんな男にしてやれた家康は、爪をかみながら悔しがったのでした。
6月16日 名城・安土城炎上!!秀吉ビックリ
この日秀吉は安土へ入りました。

が、信長お気に入りだった当代きっての名城・安土城はすでに燃え落ちていたのです。

というのも、光秀の娘婿・秀満は、安土城を出て坂本城に向かいました。

その翌日15日に、安土城へ入った織田信雄が、安土城に火をかけたのです。

敵である秀満さえ火をかけなかった、名城安土城。

それを息子・信雄が「明智勢が引き返してくるかもしれない!」と恐れ、灰にしてしまったのでした。

てっきり明智勢が火をかけたと思っていた秀吉。

信雄がやったと知ると、めちゃくちゃ呆れまくったのです。