幕末その1 1800年〜1825年

・・・幕末序曲・・・
1805年2月 め組の喧嘩
10月 華岡青州 世界初の外科手術に成功
1808年8月 フェートン号事件
1815年 家斉の娘 溶姫(やすひめ)前田家へ嫁ぐ
1821年7月 伊能忠敬「日本沿海輿地全図」を完成させる
1822年8月 コレラ大流行
幕末を彩る人々 続々誕生
1825年2月 異国船打払令



幕末その1 1800年〜1852年
・・・幕末序曲・・・
鎖国を続けていた日本。ですが世の中は急速に動いていました。

イギリスでは急速に産業が発展し「産業革命」が起こり、その後フランス・アメリカ・ドイツに広がっていった。

1789年にはフランスで「フランス革命」が起こり、産業革命とフランス革命によって欧米は急速に近代化していったのです。

そのため安い原料の確保や商品を売る市場を求めて、欧米諸国はアジアやアフリカの植民地獲得に向かっていくこととなるのです。

こうして欧米諸国は「列強」という世界の強国の道を歩み始めるのです。

日本はというと、戦国時代を終え、徳川幕府となってから平和な世の中が続いていました。

「太平の世」だったため軍事に関しては全くといっていいほど軍事力を蓄えていなかったのです。

その間、欧米諸国ではひたすら軍事力の強化を務めていました。

イギリス・フランスは植民地争奪戦をインド・カナダで繰り広げていました。が、ついに東アジアに手を出し始めたのです。

1805年2月 め組の喧嘩
芝明神の境内で相撲が行われていました。相撲の興行の前には火消しがご祝儀を持っていくというしきたりがありました。

そして芝明神の縄張りは「め組」。

め組の辰五郎は町内の遊び仲間長次郎とともに、他の町内の富士松を連れてやってきました。

そして相撲を見ようと木戸をくぐろうとすると、木戸番が「おめぇさんらはいいが、そっちの男は他の町のやつだろ?だからダメだ」と断られたのです。

辰五郎らは「いいじゃねぇか。おれの仲間だぜ?」と言い合っていると、そこへ柏戸部屋の関取である九竜山が出てきて、辰五郎らは追い払われてしまいました。

仕方なく辰五郎らだけ木戸をくぐり入っていくと、九竜山が入ってきました。

辰五郎らは聞こえよがしに九竜山の悪口を言うと、怒った九竜山はたまたま側にいた火消したちを殴り飛ばしたのです。

怒ったのはとばっちりを受けた火消しら。場は殺気だったものの、相撲の年寄りが仲介して何とかその場は静まりました。

ところが一部始終を見ていた九竜山の同僚である四ツ車大八が「おいおい九竜よ、ここですっこんだら男が泣くぜ!」とけしかけたのです。

それを聞いた火消しの方もジャンジャンと早鐘を鳴らしたもんだから、め組の連中がわんさかと集まってきて、双方入り乱れての大喧嘩となったのです。

ここまできちゃったらいっくら柏戸親方や火消しの頭が止めても無駄。

富士松は死んでしまい、九竜山は江戸追放。辰五郎と長次郎は江戸中追放となったのです。

この喧嘩は芝居となり「め組の喧嘩」として大人気となりました。
1805年10月 華岡青州 世界初の外科手術に成功
この年、紀伊国の平山村にて世界初の外科手術が成功しました。

手術したのは華岡青洲(はなおかせいしゅう)。全身麻酔による乳がん摘出手術でした。

この頃は麻酔というものがなく、患者は手術の際激しい苦痛に耐えなければなりませんでした。

そのため手術中にショックで死ぬことも多く、青洲は「麻酔」を作成し、眠らせている間に手術をしようと考えたのです。

青洲は26歳の時に医者としての看板をあげ、麻酔の研究に打ち込みました。

動物実験を繰り返し出来上がったのが朝鮮アサガオを主成分とした麻酔でした。

ですが人間には一度も使ったことはありません。

すると母のお継(おつぎ)と妻の加恵(かえ)が人体実験の協力を申し出たのです。青洲は医学の進歩のためこの2人に麻酔を使いました。

そして母は死に加恵は失明してしまったのです。

青洲は悲しみましたが、それを乗り越えて「通千散(つうせんさん)」という麻酔を完成させました。

そしてこの年に初の全身麻酔による乳がんの摘出に成功したのです。

青洲はこの技術を教えようと私塾である「春林軒(しゅんりんけん)」を開きました。

噂を聞いた若者たちが集まり塾生は千人を超えたのです。

紀伊藩はそれを聞き青洲をスカウト。

青洲は弟子に教える時間も減るし、手術をする時間がなくなると断るんだけど度重なるスカウトにとうとう折れ、54歳にして紀伊藩に出仕し、以後出世しまくるのです。

妻の加恵は20年以上失明というハンデを負い、不自由な生活をし68歳で亡くなりましたが、青洲はヒマさえあれば加恵のもとへ行き話し相手をしたそうです。
1808年8月 フェートン号事件
この年、イギリスの軍艦フェートン号が長崎に不法にやってきました。

船には偽物のオランダの国旗が掲げてあったので、手続きのためにオランダ商館員2名がフェートン号に向かったところ、なんと人質とされてしまったのです。要求は水と食料でした。

実はオランダはナポレオン戦争によってフランスの属国(家来みたいなもん)になっていて、イギリスとは敵対関係でした。

イギリスは長崎の出島を奪おうという思惑もありましたが、この時は素直に水と食料を与えると、人質を解放して退去していったのです。

この事件によって長崎奉行所の松平泰英は責任をとって切腹。

長崎の警護担当をしていた鍋島家も処分を受けました。

その後もたびたびイギリス船は長崎に現れるようになり「異国船打払令」を出すきっかけとなるのです。

1815年 家斉の娘 溶姫(やすひめ)前田家へ嫁ぐ
家斉がもっとも寵愛していた側室 お美代の方との間に生まれた娘が溶姫です。それだけにワガママ放題で育ちました。

加賀百万石の前田斉泰のもとへ嫁ぎましたが夫の斉泰のことも「加賀!」と呼び捨てにし、溶姫の家臣までもが偉そうにする始末。

前田家の方も、もし失礼なことをしちゃって溶姫様のご機嫌を悪くしちゃったらお家の一大事になるかもしれないと、気を使いまくりでした。

溶姫は歌舞伎が大好き♪家にいる時にしょっちゅう歌舞伎を呼び寄せていました。大名家でも奥は男子禁制なので、呼び寄せるのは女歌舞伎でした。

ところが、警護を務めているお庭番が妙な事に気がつきました。溶姫が呼び寄せた女歌舞伎がキレイな顔して庭で立小便していたのです。

お庭番はびっくりして上役に伝えたところ、なんと女歌舞伎は「陰間」と呼ばれる男性だったのです。

ですが溶姫はお咎めなし。ですが陰間とも知らず家にあげた家来などがクビになったりと、ワガママ姫のおかげでとんだとばっちりを受けてしまったのでした。
1821年7月 伊能忠敬「日本沿海輿地全図」を完成させる
伊能忠敬(いのうただたか)は16歳の時に伊能家の婿養子となり働きまくって3万両の財産を築きました。

50歳になった忠敬は夢だった地球の南北を結ぶ子午線を測り、地球の大きさを割り出すゾー!ということにチャレンジするため江戸へやってきました。

当時としてはかなりの変人でした。

そして歩数を数えながらテクテクと歩く忠敬に、人々は奇妙な姿をしたヤツがいると噂しあうのでした。

そんな中幕府がロシアの脅威を感じているってので、蝦夷地の地図を欲しがっているという話を聞きました。

これはチャンスと周りの反対を押し切り150日にわたる測量の旅に出発したのです。

そして蝦夷地で測量を始めました。この時間宮林蔵にも手助けしてもらいます。

そして出来上がった蝦夷地の地図を見て幕府はビックリ!こんな正確な地図は初めてじゃ!他のトコも作ってくれ!ということになりました。

が、途中で伊能忠敬は死んでしまい、弟子がその後を継いで「日本沿海輿地全図」を作成したのです。

1822年8月 コレラ大流行
この年、日本で初めてコレラが大流行しました。

長崎から入ったコレラはたちまち大阪まで広がりました。

また1858年にもコレラが大流行しました。

この時は江戸で4万人以上が死んだらしい。朝まで元気だったのに、夕方突然コロっと死んでしまうので「コロリ」と呼ばれ人々に恐れられました。
幕末を彩る人々 続々誕生
1800年代に突入すると、激動の幕末を動かす人々が続々と誕生します。

1800年 徳川斉昭
1801年 川路聖謨(かわじとしあきら)
1803年 武田耕雲斎(こううんさい)
1804年 高野長英 ハリス
1809年 島津斉彬(なりあきら) 横井小楠(しょうなん)
1810年 緒方洪庵(こうあん)
1811年 佐久間象山(しょうざん)
1814年 鍋島閑叟(かんそう)
1815年 井伊直弼 長野主膳(しゅぜん) 梅田雲浜(うんぴん)
1816年 吉田東洋
1817年 島津久光 伊達宗城(むねなり)
1819年 阿部正弘 安藤信正
1821年 森山新蔵(しんぞう)
1823年 勝海舟
1824年 大村益次郎
1825年 頼三樹三郎(らいみきさぶろう) 有馬新七(しんしち) 岩倉具視
1827年 山内容堂(ようどう) 小栗忠順(ただまさ) 西郷隆盛  河井継之助(つぐのすけ) 中浜万次郎
1828年 松平春嶽(しゅんがく) 副島種臣
1829年 武市半平太
1830年 吉田松陰 清河八郎 天野八郎 西郷頼母(たのも) 大久保利通
1831年 佐川官兵衛 孝明天皇
1832年 大鳥圭介
1833年 桂小五郎(木戸孝允)
1834年 橋本佐内(さない) 河上彦斎(げんさい) 近藤勇 岩崎弥太郎 江藤新平
1835年 松平容保 坂本竜馬 井上馨(かおる) 福沢諭吉 土方歳三 小松帯刀(たてわき)
1836年 山岡鉄舟(てっしゅう) 篠原国許(くにもと) 榎本武揚
1837年 三条実美(さねとみ) 徳川慶喜 板垣退助 有馬藤太(とうた) 浜田彦蔵(ひこぞう)
1838年 岡田以蔵 有村次左衛門(じざえもん) 中岡慎太郎 後藤象二郎 桐野利秋(中村半次郎) 山県有朋(ありとも) 大隈重信
1839年 高杉晋作 
1840年 久坂玄瑞(くさかげんずい) 渋沢栄一 黒田清隆
1841年 田中新兵衛 伊藤博文 福地桜痴(ふくちおうち)
1842年 沖田総司
1843年 アーネストサトウ
1844年 陸奥宗光(むつむねみつ)
1825年2月 異国船打払令
フェートン号事件やロシアのたびたびの略奪行為に怒った幕府は、とうとう「異国船打払令」を出しました。

これは日本の沿岸に近づいた外国船をためらわずに打払え!というもので「無二念打払令」とも呼ばれています。

そしてオランダ・清以外の船は近づいたたけで大砲でドカンドカンやられるようになるのでした。