江戸時代その10 目次 年表 1780年〜1799年年 | |
1783年7月 | 浅間山大噴火!天明の大飢饉 |
1784年3月 | 世直し大明神 田沼の息子斬られる |
与謝蕪村 「蕪村句集」完成 | |
巨匠 池大雅(いけのたいが) | |
1785年 | 旗本藤枝外記(げき) 遊女と心中 |
1786年8月 | 将軍家治死去 毒殺説 |
1787年4月 | 11代将軍 徳川家斉 |
6月 | 松平定信 老中に就任 寛政の改革スタート! |
1789年9月 | 棄捐令が発布 |
1791年 | 洒落本の第一人者 山東京伝幕府に捕まる |
喜多川歌麿ブレイク | |
史上最強の力士 雷電為右衛門 | |
1792年 | ロシアのラスクマン 大黒屋光太夫と共に根室へ |
初めてロシアをみた日本人 大黒屋光太夫 | |
1793年 | 松平定信 失脚 |
好色は歴代NO1 オットセイ将軍 家斉 | |
賄賂OKな老中 水野忠成 | |
江戸時代 その10 1780年〜1799年 |
1783年7月 浅間山大噴火!天明の大飢饉 |
浅間山とは長野・群馬の境にある標高2560メートルの活火山です。1108年にも噴火がありました。 4月8日に小さな噴火があり、5月6月と地震や小さな噴火がありましたが、とうとう7月6日に大爆発となったのです。 溶岩と火砕流が猛スピードで流れだし、鎌原村に直撃しました。 鎌原村は当時人口597人93世帯が住んでいました。小さな噴火があった時も「いつ大爆発になるか!?」とおびえていましたが、浅間山火口から10キロほど離れているので大丈夫だろうという油断もあったのです。 火砕流が流れ出すと村人達は大慌てで小高い丘にある鎌原観音堂を目指しました。が、逃げ遅れた人も多く、597人中466人が死んでしまったのです。中には鎌原観音堂まであと少しで助かったのに!という遺体も発見されました。 その後鎌原村では生き残った131人のうち、村に残った93人で家族を作ったのです。 夫に死なれた妻や逆に妻に死なれた夫、両親が死んでしまった子供など不完全な家族を、夫を無くした妻を、妻を亡くした夫と結婚させたり、子供を養子縁組させたりと新しい家族を作りなおしたのです。 この大噴火は江戸三大飢饉の一つである天明の飢饉をもたらしました。火山灰は仙台あたりまで振り農作物が全てダメになってしまいました。また残った灰が太陽の光を遮ったため冷夏に見舞われたのです。 結果弘前藩・南部藩・八戸藩では大量の餓死者が出てしまいました。八戸藩では5万人のうち3万人が死んだそうです。仙台藩でも30万人以上が餓死してしまいました。 天明の大飢饉は意次政権にも暗い影を落としました。いつの世も国が乱れると、その時の最高権力者のせいにされてしまうものですよね。 |
1784年3月 世直し大明神 田沼の息子斬られる |
田沼意次の時代は不思議なほど天変地異が起きました。そのため世間は不安定でした。年号も「永く安かれ」という意味をこめて「安永」と改元しましたが、相変わらずでした。 士風も乱れまくりました。武士らが水練稽古をする!と船に乗りながら芸者遊びをし、酔っ払って溺死するという事件までおきたりと、武士の乱れは博打・刃傷沙汰・女郎遊びなどなど後を絶ちませんでした。 そして「こんなに世の中が乱れているのは田沼の賄賂政治のせいだ!」と憎悪の声は意次に集中してきたのです。 3月24日。江戸城にいた旗本武士である佐野善左衛門政言が、田沼意次の息子である意知を呼び止めました。 意知が振り向いた瞬間「ご免!」と突然斬りかかったのです。意知は逃げる間もなく、4月になってから死んでしまいました。佐野も切腹となったのです。 田沼家はもともと佐野家の家来筋でした。なのに佐野家はだんだんと落ち目となり、田沼家が栄華を極め始めたのが気に食わなかったのです。 そして主筋でありながら田沼家に巨額の賄賂を贈り、田沼家から「よくしてあげるから」と言われつつも、田沼家は何もしてくれなかった!という理由でした。 意次は息子の死に大ショックを受けました。そしてこれを機に田沼の権勢は斜面を滑り落ちるように転落していくのです。 佐野はというと、田沼政治に不満を抱いていた江戸庶民から「世直し大明神」と言われ、あがめられました。 |
1784年 与謝蕪村 「蕪村句集」完成 |
大阪で生まれた蕪村は20歳で江戸に出て俳句の世界へ。「蕪村句集」の他に「新花摘」などもあります。絵にも感心を抱いており池大雅と共に国宝「十便十宜図」を描きました。 代表的な俳句は ・菜の花や 月は東に 日は西に |
巨匠 池大雅(いけのたいが) |
京都で生まれた池大雅は早くから父を亡くし、15歳で扇屋を構え母を養いました。20歳後半ごろに各地を旅しながら絵を学びました。 40歳ころに独自の画風だえる「大雅様式」を確立。 筆も達者でした。49歳の時に与謝蕪村と合作しました。 |
1785年 旗本藤枝外記(げき) 遊女と心中 |
藤枝外記は25歳で4500石の大旗本でした。貧乏旗本とは違い、江戸城でも大名並みの扱いを受けていました。 美しい妻「みつ」と結婚し、藤枝家の婿養子となり3男1女がいました。 ところが、外記に魔が差してしまったのです。 ある日先輩に誘われて吉原に足を踏み入れた外記は吉原遊女で妻のみつと同い年の「綾衣」にヒトメボレしちゃったのです。 妻のみつは武家の女性として厳しく育てられ行儀作法にもうるさかった。ところが綾衣はみつにない心配りがあり、立ち振る舞いも遊女らしく艶めいていました。 外記は綾衣にのめりこんでしまい、仕事を休んで吉原に通いまくった。が、いくら4500石の大旗本とはいえ吉原に通い続けるのは大変でした。 外記は借金しまくり、友人らは外記に注意するも、綾衣に夢中な外記は聞く耳持ちませんでした。 とうとう外記の遊郭遊びが幕府にばれてしまい、甲府に飛ばされることに。 「甲府に飛ばされたら綾衣に会えなくなる!それならいっそ・・・」と綾衣を吉原から連れ出して郊外の農家で綾衣を刺し、外記も自刃したのです。 2人の死体は埋葬を許されず、さらし者になりました。 処罰について幕府は悩みました。なんといっても外記は「旗本」。そのへんの男とはわけが違うのです。 最終的に幕府は厳しい処分を下しました。藤枝家は改易となり、妻みつとその母は親戚の家へ預けられ「押込(おしこめ)」という処分に。一室のみ与えられ外出禁止の処分です。 そしてこの心中は江戸庶民に広がり「君と寝やるか 五千石取ろか なんの五千石 君と寝よ」と唄われました。 五千石を捨ててまで遊女との愛を貫いたとしてその後も語り継がれますが、外記より「みつ」・・・可哀相だろ・・・。 |
1786年8月 将軍家治死去 毒殺説 |
政治を意次におまかせっきりになってしまった吉宗期待の家治ですが、春頃から具合が悪くなり8月に悪化し、あっという間に死んでしまいました。 一説によると、いつもは奥医師の八木伝庵が治療していたんだけど、具合がいっこうによくならないので田沼意次が推挙した蘭方医の若林啓順(けいじゅん)が診察したところ、翌日に危篤状態になってしまったらしい。 そのため意次が毒殺したという噂が立ちまくったのです。 が、これはライバル松平定信が故意に流した噂とも言われています。だって、家治がいないと意次は失脚するのが目に見えているんだから、何もわざわざ毒殺する必要がないからです。 また徳川治斉は、家治が病気になった!と知ると、意次を裏切り松平定信に急接近。そして定信の味方をしだしたのです。 |
1787年4月 11代将軍 徳川家斉 |
家治の養子に入っていた家斉。家治が死去したために15歳で新将軍となりました。 将軍就任後、家斉は幕政を牛耳っていたボス田沼意次をクビにし、代わって松平定信をトップ老中としました。 田沼政治によって腐敗しまくった江戸をどうにかしようと「寛政の改革」をすすめることになるのです。 定信は田沼全盛期の頃「田沼を見るたび殺したくなった」というほど意次が嫌いでした。そんな定信でも田沼に賄賂を届けたことがあるのです。 というのも定信には冠位がなく、吉宗の孫であるから江戸城に登城した時に、ある程度の冠位がないとバカにされる!というので、意次にお願いするしかなかったのです。この頃将軍にお願いできるのは意次くらいしかいなかったから。 将軍の孫でありながら、足軽出身の田沼に賄賂を贈って頭を下げてまで冠位を貰わねばならない屈辱。 定信はそれもあり、田沼を見るたび殺したくなるほどだったのです。 |
1787年6月 松平定信 老中に就任 寛政の改革スタート! |
老中となった定信は「祖父吉宗を手本とするぞ!」と反田沼派の家臣らとともに改革するべく立ち上がりました。 定信は朱子学が正しい学問だ!として推奨し、朱子学以外の学問を異学として廃止しました。 出版物も厳しくチェック!洒落本や人の心を惑わすとされる本を書く作家は全て処罰されました。 今まで江戸の銭湯は混浴だったんですが、混浴禁止令も出しました。(いい大人が混浴ってのもすごいよね・・・) そしてガンガン厳しく江戸庶民らを締め付けたのです。そのため庶民らに反感を買い、経済も停滞してしまいました。 初めの頃は「田や沼や 濁れる御世をあらためて 清く澄ませや 白河の水」と、江戸庶民に狂歌をよまれ、田沼の汚れた政治を清めてくれ!といわれていた定信でしたが、最後のほうは 「世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶぶんぶ(文武)と夜もねむれず」 「白河の(定信は白河藩主)清きに魚すみかねて もとの濁りの田沼こいしき」 「孫の手の痒きところへ届きすぎ 足の裏までかきさがすなり」定信は吉宗の孫だってのを掛詞にしたもの などなど、あまりの定信の厳しさに、田沼意次の政治が恋しくなった江戸庶民でありました。 |
1789年9月 棄捐令が発布 |
この頃、旗本・御家人らは超ビンボーで、お金に困りまくりでした。 |
1791年 洒落本の第一人者 山東京伝幕府に捕まる |
松平定信の寛政の改革によって弾圧されちゃったのがこの人。 洒落本という遊郭の男女の生活を描いた「江戸生艶気樺焼(えどうまれのうわきのかばやき)」などなどがが出版停止となってしまったのです。 ちなみにこの人が書く本の主人公「艶二郎(えんじろう)」は団子鼻のブ男なんだけど、何とかして江戸で浮名を流したいという金持ち坊ちゃんのお話。 この本は大人気となり「自称色男」や「中途半端な男」は「艶二郎」と呼ばれるように。 山東京伝はというと、町中みんなが知ってるくらいの色男だったそうです。 名前の意味は「江戸城の紅葉山の東に住む京屋の伝蔵」という意味だそうです。よくわかんないよね。 30歳の時に吉原の花魁「菊園」と結婚したんですが、新婚早々この洒落本が弾圧され「手鎖50日」という刑になっちゃったのです。 菊園は3年後病死してしまい、お次のお相手は吉原遊女で16歳年下の百合。百合は山東京伝が死んでしまうと狂死してしまいました。 |
喜多川歌麿ブレイク |
物の怪にとりつかれたように「おきた」の絵を描き続けたといわれる歌麿。 お仙に始まる「看板娘」はこの頃になると、お客さんにお茶を入れずにただ店に座ってニコニコしているだけの正真正銘の「看板娘」となっていました。 一番人気は難波屋の「おきた」。 ニコニコと愛想のいいおきたのお店では茶代が10文のところが300文にもなったらしい。 そして薬研掘(やげんぼり)高島の「おひさ」と芝明神前・菊本の「おはん」が歌麿によって「江戸三大美人」として描かれ、寛政三大美人と言われました。 |
史上最強の力士 雷電為右衛門 |
神事として始まった相撲が職業力士となったのが江戸時代です。 そして最強の力士と言われたのが身長197センチ体重170キロの雷電為右衛門(らでんためえもん)でした。 雷電は信濃の農村に生まれ、17歳の時に相撲部屋に入門しました。デビュー早々横綱である小野川を投げ飛ばし優勝をかっさらったのを皮切りに、21年間で254勝10敗。勝率9割6分2厘という圧倒的な強さ。 ですがとうとう横綱になることはできなかったのです。なぜか?というと、当時力士は大名のお抱え力士でした。雷電は松江藩松平家でした。横綱に任命する権利を持っていたのは吉田司家で、外様大名である熊本藩細川家の家臣でした。 松平家は何かと張り合っていた細川家の家臣である吉田司家に、横綱にしてくれなどお願いするなんてプライドが許さなかったのです。 大名同士の意地のために雷電はとうとう横綱になれなかったという不幸な力士でありました。 |
1792年 ロシアのラスクマン 大黒屋光太夫と共に根室へ |
定信は林子平(はやししへい)が書いた「海国兵談」を読み激怒しました。 その本には「日本はまわりが全て海だから、外国はどっからでも日本を攻めることができる。もっと沿岸を防備しないと危険である」といった内容の本です。 定信は「こんな危険な本を書き、世の中を騒がしやがって!」とこの本を発売禁止にしました。 が、同年ロシアの船が北海道の根室にやってきたのです。 やってきたのはロシアのラスクマン一行で、貿易をしましょうということでした。幕府は前例のない外国からの訪問に大混乱! 「わが国は鎖国のため用があれば長崎に行ってくれ」と、とりあえず追い返しました。ラスクマンはこの時大黒屋光太夫を連れて来ました。 以後ロシアの船は通商しましょうとたびたび日本を訪れることとなるのです。 |
初めてロシアをみた日本人 大黒屋光太夫 |
大黒屋光太夫は31歳の時 船で江戸に向かう途中遭難し、ロシアのアリューシャン列島のアムチトカという島に漂着しました。 ここに4年間過ごした後、カムチャッカへ渡り、1年を過ごし、そして極寒の地ヤクーツクへ。 零下43度というめちゃくちゃな寒さ。ここから死を覚悟しながらイルクーツクへ向かったのです。 イルクーツクには過去にロシアに漂流していた日本人が2人いました。 彼らはロシアに骨をうずめることを決意しており、ロシアで日本語教師をしていました。ここで恩人となる学者キリル・ラスクマンと出会うのです。 最初17人いた仲間は寒さや飢えのため死んでしまい、残ったのは3人。(しかも一人は日本についたすぐに死んだ) 日本に帰りたい大黒屋はラスクマンにお願いし、女帝エカテリーナにも謁見させてもらい勲章までもらいました。 「ぜひ日本語学校の教師になってくれ」とお願いされましたが、祖国日本に帰りたいという気持ちはゆらぐことなく、とうとうこの年、ラスクマンの息子であるアダム・ラスクマンとともに日本へ帰ってきたのです。 ラスクマンは追い返されましたが、大黒屋らは幕府側に引き渡されました。 初めてロシアを見てきた最初の日本人として、将軍や松平定信は質問攻めしまくり。 が、鎖国を守り続ける幕府はそんな大黒屋を「危険人物」とみなし、江戸の薬草場へ閉じ込めてしまったのです。 大黒屋らは一生そこに閉じ込められ、せっかく帰ってきた日本では邪魔者扱いされてしまったのでした。もう少し遅い時代であったならば、ジョン万次郎のように大事にされたのにね・・・。 |
1793年 松平定信 失脚 |
寛政の改革をガンガンすすめていた定信ですが、取締りの厳しさに幕府内からもブーイングが出るようになってきました。 さらに「大御所事件」という事件が発生。それは将軍家斉が父である徳川治斉を江戸城へ入れて「大御所」と呼び、前将軍の同様の待遇を与えたいというもので、これに定信が大反対したのです。 また「尊号事件」といい、この時の天皇が実父に「太政天皇」の称号を送りたいって言ったんだけど、定信がこれを却下したのです。 そのため「定信め!エラソーにしやがって!」と批判が出始め、とつとう失脚してしまったのです。田沼意次から引き継いでからわずか6年でした。 定信に代わってトップ老中となったのは水野忠成。そして寛政の改革の遺老達は次々と退けられ、国政はまったく違うものとなっていくのです。 |
好色は歴代NO1 オットセイ将軍 家斉 |
家斉は異常なほど女好きでした。手をつけた側妾は40人に及び、男28人 女27人と合わせて55人の子供を産んだのです。 これは歴代将軍NO1の記録で、こんなにたくさんの子供を育てるお金が幕府にななく、子供達は外様大名のところへ養子に下げ渡されたりしました。というか、押し付けた。 外様大名は大迷惑。自分の息子がいるのに、将軍家から息子がきちゃったらそっちを大事にしなきゃなんないし・・・。 将軍家からお嫁さんが来た場合は、それなりの格式を整えなければならなかった。 さらに家斉は贅沢大好き。率先して遊んでばっかいたので、おのずと世間もだらけた風に染まっていくのです。 松平定信の寛政の改革が終わると同時に、世の中は乱れ、腐敗していきました。 |
賄賂OKな老中 水野忠成 |
老中となった水野忠成は家斉の絶大な信頼を得て、権力をふるいまくりました。 寛政の改革では「賄賂は禁止」とされていたんだけど、自分が老中になったら欲しくなっちゃって公然と賄賂OKとしました。 それどころか推奨までしちゃったので幕府の風紀は緩みまくり、政治は腐敗の一途をたどるのです。 寛政の改革の苦労は全て水の泡となり、幕府はまた財政難となっていくのでした。 水野の政治を江戸庶民らは「水の(水野)出て もとの田沼となりにける」と唄いました。 |