幕末その11 1864年 | |
2月16日 | 慶喜「薩摩の奸計 大愚物」発言 |
2月28日 | 西郷隆盛 島流しから帰ってくる |
3月 | 坂本龍馬 お龍と出会う |
3月 | 水戸の藤田小四郎動く |
3月27日 | 天狗党の旗を挙げる。 |
4月24日 | 京都見廻組結成 |
5月 | 海舟 神戸海軍操練所 開設 |
5月5日 | 天才画家 冷泉為恭暗殺 |
5月 | 長州藩に怪しい動きが! |
新撰組 計画を知る | |
6月5日 | 池田屋事件 |
逃げの小五郎 | |
池田屋事件の犠牲者 | |
新撰組 局長 近藤勇 | |
新撰組 副長 土方歳三 | |
新撰組 沖田総司 | |
新撰組 井上源三郎 | |
新撰組 斎藤一 | |
新撰組 山南敬助 | |
新撰組 原田左之助 | |
新撰組 永倉新八 | |
新撰組 藤堂平助 | |
新撰組 島田魁(かい) | |
新撰組 松原忠司 | |
新撰組 谷三十郎・万次郎・昌武ブラザーズ | |
新撰組 大石鍬二郎 | |
新撰組 武田観柳斎 | |
長州藩激怒!「憎っくき幕府の犬め!」 | |
7月11日 | 佐久間象山暗殺 人斬り彦斎「身の毛がよだった」 |
7月16日 | 佐久間象山の息子恪次郎(かくじろう)新撰組へ入隊 |
7月19日 | 禁門の変(蛤御門の変) |
8月5日 | 四国艦隊下関を攻撃! 下関戦争 |
8月9日 | 長州藩大敗!「大魔王」出現 |
長州藩とイギリスはどうなった? | |
9月11日 | 勝海舟 西郷隆盛と会う |
龍馬 西郷に会う「西郷は不思議な男じゃ」 | |
9月 | 新撰組 近藤勇江戸へ!隊士募集する |
10月 | 新撰組 伊東甲子太郎ら入隊 |
長州やっつけに行くぞ!「・・・・・シーン・・・・」 | |
長州藩大パニック「マジで??」 | |
10月25日 | 第一次長州征討 |
12月22日 | 天狗党の武田耕雲斎 加賀藩に降伏 |
その後天狗党はどうなった? | |
幕末の嵐 その11 1864年 | ||||||
1864年 | ||||||
2月16日 慶喜「薩摩の奸計 大愚物」発言 | ||||||
![]() やっとこさ安政の大獄の嵐は過ぎ去り、自分達がプッシュしていた慶喜と接する機会も多くなっていました。 彼らは、自分達の夢を慶喜という英明高き貴公子に賭けていたのです。 ですが、彼らと慶喜の考え方には多少の温度差がありました。 慶喜は彼らが考えているより、もっと「開明的」だったのです。 また、自分達の足場を固めようということばかり考えている「賢候」らに苛立ちはじめ、とうとう慶喜は「薩摩の久光は愚か者じゃ」発言をしてしまいました。 それからは、そんな慶喜に久光らは距離を置くようになっていくのです。 |
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2月28日 西郷隆盛 島流しから帰ってくる | ||||||
![]() やっと許されてこの日鹿児島に帰ってきました。 長い間の座敷牢生活のため足腰は弱り、歩くのもやっとでした。 ですが、ゆっくりしているヒマはなく、3月1日には伏見の寺田屋で大久保利通と会い、京都の藩邸に入ったのです。 そして軍賊兼諸藩応接掛という職に就きました。 |
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3月 坂本龍馬 お龍と出会う | ||||||
![]() 楢崎は梅田雲浜・頼三樹三郎・梁川星厳と親交があり、安政の大獄で捕まり死んでしまったのです。 それまで裕福な暮らしをしていた家族は、バラバラとなり奉公にでることとなったのです。 この時、長女のお龍は23歳でした。 が、お龍の16歳の妹はなかなかの美人だったので、悪党に騙されて奉公ではなく大坂の女郎として売られてしまったのです。 それを知ったお龍は、自分の着物を売りお金を持って大坂へ。 悪党に会うと、突然胸ぐらを掴み殴りかかったのです。 そして「よくも妹を騙したな。返さないとこうだぞ!」と刀に手をかけたのです。 悪党は「なんじゃこの小娘が!殺すぞオラァ!」と脅しました。 が、お龍は「それは面白い!殺せや!殺してみろや!」と悪党に向かってタンカを切ったのです。 悪党はビックリして、妹を返しました。 当時女性でこんな勇敢なことをする人は珍しかったのです。 そんなお龍を気に入った龍馬。 小柄で細面のうりざね顔。典型的な京美人のお龍に、龍馬はベタ惚れとなったのです。 |
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3月 水戸の藤田小四郎動く | ||||||
水戸藩では、将軍継嗣問題で一橋慶喜が破れ、安政の大獄で尊攘派が弾圧され、その鬱憤は桜田門外の変で爆発したりなど、何かと黒いイメージがありました。 幕末その1で書きましたが、もともと水戸藩では徳川光圀(水戸黄門)が作った「大日本史」の方針を巡って対立がありました。 対立に敗れ、新藩主となった徳川斉昭に追い出された一派は、長い間沈黙していたのです。 ところが、安政の大地震で徳川斉昭派のボスである藤田東湖が圧死。 さらに安政の大獄で徳川斉昭が蟄居となりました。 勢力を盛り返したのが今まで沈黙を余儀なくされていた反・斉彬派。 それをヤバイと感じ取ったのが、藤田東湖の息子である藤田小四郎だったのです。 藤田小四郎は東湖の第4子で、血気盛んな男でした。 そして筑波山にて「斉昭の遺志を継ぎ攘夷を貫く!」と挙兵したのです。 途中、総大将となったのは武田耕雲斎でした。 耕雲斎は、この挙兵には参加しないつもりでいたんだけど、藩内で追い出されてしまい仕方なく藤田と合流し、総大将となったのです。 |
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3月27日 天狗党の旗を挙げる。 | ||||||
総勢170名の天狗党はどんどん進軍していきました。 天狗党は幼子にまで頭を下げさせてりして奢り高ぶっていたので、次第に批判が出てくるように。 また道中、軍用金や食料を強制的に徴収。そのやり方が悪かったため嫌われてしまうのです。 天狗党に便乗して「偽天狗」も現れました。 また、反斉昭派に幕府が味方してしまったのです。 そのため幕府の命令を受け、天狗党は道中攻撃されまくりでした。 天狗党は幕府に逆らう気などまるでなかったので、「こうなったら京都にいる慶喜殿に会って、我々の心をわかってもらおう!」と全員で京都へ出発することとなったのです。 この頃になると総勢800名となっていました。 彼らは先祖代々の鎧を身につけ、大砲を引っ張りながら北関東から京都まで、攻撃を受けながら歩いていったのです。 |
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4月24日 京都見廻組結成 | ||||||
新撰組と並んで、京都市内を常時見廻りするよう命じられたのが佐々木只三郎でした。 清河八郎を暗殺したことにより出世した人です。 新撰組と見廻組の下っ端はよくケンカをしていましたが、近藤・土方・佐々木は仲が良く、一緒に遊びに行っていたそうです。 |
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5月 海舟 神戸海軍操練所 開設 | ||||||
![]() 龍馬は資金集めのために松平春嶽のモトへ行き、5000両借りることに成功。海舟を驚かせました。 龍馬は塾頭となり、さらなる人脈を増やしていくのです。 海軍塾のメンバーは塾頭龍馬を筆頭に、近藤長次郎、千屋寅之助、望月亀弥太、岡田以蔵 、沢村惣之丞、高松太郎などの土佐藩に加え、紀州の 陸奥宗光や、伊藤祐亨(すけゆき・のちの海軍大将)などもいました。 西洋に劣らぬような海軍を建設するため、龍馬らは「日本の未来」に向けて頑張ることとなるのです。 人数は200名以上となり血気盛んな若者達が集まりました。 みんなで夜遅くまで盛り上がりまくったりしていたので、近所から「うるさい!静かにしろ!」とかなりの量の苦情がきたそうです。 |
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5月5日 天才画家 冷泉為恭暗殺 | ||||||
冷泉為恭は朝廷の天才画家でした。 京都所司代である酒井忠義の邸宅にある絵巻物にめちゃくちゃ興味があり、再三観に行っていました。 さらに尊攘派公卿の三条実美とも仲が良く、幕府側・朝廷側とも親しくしていたのです。 これが思わぬ誤解を受けることに。 両方と仲がいいので、「あいつはスパイだ」という噂が立つのです。 実際はただ絵が好きだっただけで、もしスパイなら白昼堂々酒井家の門を通ることはなかったはず。 で、とうとう待ち伏せしていた刺客に首を斬られてしまったのです。 その死体はちょど植村藩と藤堂藩の境にあったため、お互い責任を避けようとし、為恭の死体はずっと野ざらしにされていました。 犯人は長州藩の大楽源太郎の一味だそうです。 噂では大楽は為恭の妻にヒトメボレし、失恋してしまいました。その恨みもあったと言われています。 |
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5月 長州藩に怪しい動きが! | ||||||
8・18の政変により過激尊攘派は京都から姿を消しました。 が、長州では「また京都へ!」という思いが盛んになり、京都市内も潜伏している過激尊攘派の志士達がうごめきまくっていました。 幕府は京都見廻組を設置したり、新撰組に見回りをさせたりしていました。 そんな頃、新撰組のもとに「怪しいヤツラが旅宿池田屋と四国屋に集まり密談をしている」という情報が入ってきたのです。 近藤は隊士の山崎烝にスパイ活動するように命じました。 山崎は大坂に行き、薬売りの商人に化けました。 そして大坂の船宿で池田屋を紹介してもらい、池田屋に泊り込んで密偵を続けたのです。 山崎のスパイ活動の結果、古道具屋の桝屋喜右衛門が怪しい・・・ということになったのです。 |
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新撰組 計画を知る | ||||||
桝屋喜右衛門が怪しいというニュースをキャッチした新撰組。 6月5日早朝に桝屋喜右衛門のところに踏み込みました。 すると多数の武器や弾薬、そして秘密文書が出てきたのです。 桝屋喜右衛門は壬生の屯所に連行されました。 そして土方歳三らに凄まじい拷問を受けたのです。 桝屋喜右衛門はその拷問に耐えられず、計画をばらしたのです。 その計画とは、祇園祭の夜に市内に火をつけ、松平容保と中川宮を襲い、その騒ぎに乗じて孝明天皇を長州に移すというものでした。 計画を聞いた新撰組は、早速松平容保に報告し、市内の警備を始めたのです。 そして桝屋喜右衛門が新撰組の手に落ちたことを知った尊攘派の志士達は、急いで池田屋に集合したのです。 |
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6月5日 池田屋事件 | ||||||
そのため「近藤隊」は池田屋へ。土方隊は「四国屋」へ行くことにしたのです。 その他にも会津藩・桑名藩の藩兵が来る予定だったんですが、午後10時になっても来ないので、「逃げられたら困る」と新撰組だけで乗り込んだのです。 どうやら会津藩では事の重大さに慌てふためいていたそうです。 で、近藤・沖田・原田・永倉・藤堂ら10名が池田屋へ向かいました。 近藤は正面玄関から堂々と入り、「御用改めである」と大声を出しました。 旅館主の池田屋惣兵衛は、すぐさま危険を察知し階段の下から2階に向かって「皆様、旅客調べでございますぞ」と叫んだのです。 近藤は惣兵衛を殴り倒し、二階へ駆け上がりました。 惣兵衛の声を「同志が来たのか?」と勘違いした北添佶麿(きたぞえきつま)が部屋を出たところを近藤は斬りかかったのです。 「新撰組だ!」と北添が大声を張り上げました。 その声を聞いた志士達は大パニックに。 リーダー格の宮部鼎蔵(みやべていぞう)が「逃げろ!」と叫び、中庭に飛び降りましたがそこには沖田と原田が待ち受けていたのです。 池田屋は壮絶な斬りあいとなりました。 午後11時ごろ、四国屋に向かっていた土方隊が戻ってきてさらに大乱闘に。 夜中の12時を過ぎる頃に会津藩・桑名藩の兵が駆けつけ、一帯に包囲網をしいたのです。 この激闘の中、沖田総司の肺結核が悪化し倒れ、藤堂も眉間に傷を負いました。永倉は指を切り落とされています。 この騒ぎは一晩中続き、朝8時に新撰組が引き上げた時には野次馬がわんさか出たそうです。 みな返り血を浴びまくり血だらけで、ますます「壬生の狼」と恐れられることとなったのです。 |
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逃げの小五郎 | ||||||
![]() が、時間が早すぎてまだ誰もきていなかったので一旦池田屋を出て近くの対馬藩邸に行ったのです。 その間に新撰組がやってきたのです。 また別の人の証言によると、「桂小五郎は池田屋にいた。屋根をつたって対馬藩邸へ逃げ込んだ」とあります。 そのため「逃げの小五郎」というあだ名がついてしまいました。 ちなみに長州藩の杉山松助は、最初長州藩邸にいたんだけど、桂小五郎の事を心配して池田屋に向かったところを斬られてしまいました。お気の毒。 |
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池田屋事件の犠牲者 | ||||||
新撰組は怪我人は多数でたものの、死亡したのは奥沢英助ら3名でした。 長州藩の犠牲者は凄まじいものでした。 宮部鼎蔵・北添佶麿・吉田稔麿(としまろ)・望月亀弥太・松田重助など有力な志士らが斬られまくったのです。 死者は20名以上となりました。 正体不明の死体が4体ほどあり、 中には全く関係ない人まで巻き添えをくったそうです。 中には大沢逸平のように、騒ぎを聞き風呂釜に隠れ、隙をみて長州藩邸へ逃げこんだ者もいました。 この事件により「維新が1年遅れた」と言われています。 そして新撰組は尊皇攘夷派から憎悪されていくのです。 |
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新撰組 局長 近藤勇 | ||||||
![]() めちゃくちゃ女好きで、正妻で江戸にいる「ツネ」さんの他に、妾が何人もいました。 京都にて「新撰組」が有名になってからというもの、ツネさんはほったらかし状態に。 一番のお気に入りは美雪太夫。ほっそりとした美人だったそうです。 美雪太夫が病気で死んだ後は、その妹お幸を妾にしました。 愛刀は「虎徹」 池田屋騒動の時の有名なセリフは(言ったかどうかは謎) 「今宵の虎徹はよく斬れる」 |
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新撰組 副長 土方歳三 | ||||||
![]() そのため隊内では「嫌われ役」に。 優しいだけでは新撰組は成り立たない。近藤に変わって隊士に厳しくあたったのです。 また、女性にはモテモテ。 少年時代松坂屋に奉公していた時も、女性問題もあって辞めたのですが、京都に来る前は許婚がいたそうです。 江戸でも吉原の薫太夫が馴染みだったりしてました。 で、京都に着てからは近藤や、見廻組の佐々木の3人で遊びまくりでした。 お気に入りの君菊という芸者との間には女の子が生まれたそうです。 が、その娘は早死にしたそうです。 |
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新撰組 沖田総司 | ||||||
![]() 隊内では明るく陽気で、いつも冗談ばかり言ってみんなを笑わせていました。 愛嬌があり、壬生狼(みぶろ)と嫌われていた新撰組のイメージアップにかなり役立っていたそうです。 ところが、剣を持ったら別人に。 近藤でさえ敵わないのでは?といわれるほどの達人だったのです。 女性関係では、噂しか残っていませんが京都にいる頃「医者の娘」と仲良くなったとか。 だけど近藤が無理やり2人の仲を裂き、総司は涙を流して悲しんだとか。 そんな総司も勝てない敵がいました。 持病の肺結核が悪化し、池田屋騒動の時は斬り合いの最中に血を吐いたのです。 以後、病状が進行していくこととなるのです。 |
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新撰組 井上源三郎 | ||||||
日野出身。 試衛館の道場に出入りしており、近藤とは仲が良かった。 京都上洛の時に一緒に行った結成メンバーの1人です。 その後、新撰組では副長助勤を務めました。 池田屋では土方隊へ属していました。 人柄が良く、人気のあった人で、特に沖田総司は井上が大好きだったそうです。 |
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新撰組 斎藤一 | ||||||
幕臣である山口家に生まれ、剣の達人でしたが19歳の時に江戸で人を斬ってしまい、京都へ逃げました。 その後、上洛してきた浪士隊と会い、浪士隊に参加しました。 近藤とは以前から知り合いだったと言われています。 結成後は剣の腕を買われて三番隊組長に。 池田屋では土方隊に参加。到着後は池田屋に飛び込み、活躍したそうです。 新撰組の中で、一番波乱万丈の人生を歩んだと言われています。それはまた後ほど。 |
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新撰組 山南敬助 | ||||||
仙台藩出身。脱藩し、千葉道場で剣を学んでいた時に近藤に出会いました。 近藤と手合わせしたところ、山南は負けてしまい、以後近藤に天然理心流を学びました。 近藤らと共に上洛し、近藤一派として土方とともに活躍。 芹沢鴨暗殺の時も参加し、平山五郎を斬りました。 結成メンバーの1人として、新撰組の中心にいましたが、池田屋騒動前から病気がちに。 池田屋の時も参加できませんでした。 |
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新撰組 原田左之助 | ||||||
伊予松山藩出身。 足軽時代に武士と大喧嘩し、その武士に「切腹の作法も知らない男」とバカにされ、その場で切腹をしかけたため、おなかには刀傷が残っていたそうです。 その後は脱藩し、槍の腕に磨きをかけました。 江戸に出た時に近藤と知り合い、上洛した結成メンバーの1人です。 その後は新撰組七番組長となります。 池田屋では土方隊と共に四国屋へ。 池田屋に遅れて到着したものの、遅れを挽回するぜ!と大活躍しました。 原田はすごい美男だったそうですが、暴れん坊ぶりの方が有名になってしまいました。 女性関係はというと、新撰組では殆どが女性を囲うことが多かったんだけど、原田はマジメに堅気の女性と正式に結婚。 一男一女をもうけました。 仲良しは永倉新八です。 |
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新撰組 永倉新八 | ||||||
![]() 近藤と共に京都までやってきた最初からいる初期メンバーの1人です。 原田左之助と仲が良く、2人でつるんでいました。 土方のあまりの厳しさに、原田と2人で文句を言ったこともあります。(すぐに和解) 新撰組内では二番隊組長となりました。 池田屋騒動では大活躍。 沖田が血を吐いて倒れたため、最後まで戦ったのが新八と近藤になります。 沖田・永倉・斎藤の3人が新撰組の中で強かったため、剣術指南役として若い隊士に指導していました。 |
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新撰組 藤堂平助 | ||||||
府内の浪人・津藩藩主のご落胤とも言われており、出生は不明。 千葉周作の玄武館で剣を学び、その後試衛館に出入りするようになり近藤らと親しくなりました。 近藤らと一緒に上洛した結成メンバーの1人です。 新撰組内では副長助勤として活躍。 常に先陣をきることから「魁(さきがけ)先生」というニックネームがつきました。 池田屋騒動の時は真っ先に突入し、眉間を斬られました。 |
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新撰組 島田魁(かい) | ||||||
美濃出身。 身長182センチ 体重150キロという超巨大な男でした。 29歳の時に江戸に出て剣術修行。この時に永倉新八と出会いました。 1861年に脱藩し、浪士組に参加。この時36歳だったので、近藤よりも年上でした。 池田屋でも大活躍しました。 |
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新撰組 松原忠司 | ||||||
播州小野出身。 ニックネームは「今弁慶」 坊主頭に鉄入りのハチマキをしていたことから、こう呼ばれました。 腕っ節も強く、池田屋騒動にも参加。 |
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新撰組 谷三十郎・万次郎・昌武ブラザーズ | ||||||
三人兄弟で新撰組に入ってきた異色ブラザーズ。 松山藩出身で、長男の三十郎が大坂に出て槍の道場を始めました。 そこに新撰組が隊士募集というニュースが。 三人は揃って応募し、三十郎の腕前を買われ入隊となりました。 三男の昌武はなぜか近藤に気に入られ、近藤の養子となり「近藤周平」と名前を変えました。 池田屋では3人とも参加。が、あまり目立った功績はなかったそうです。 |
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新撰組 大石鍬二郎 | ||||||
武州の生まれで、新撰組結成時2年目から参加。 人斬りが多い新撰組の中でも、際立っており「人斬り鍬二郎」と呼ばれていました。 血なまぐさい事件の時には、いつもそこにいたそうです。 |
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新撰組 武田観柳斎 | ||||||
出雲出身で、モト医者。 甲州流兵法を学んだ兵学者でもありました。 1863年に新撰組に参加。兵学の知識があったため五番隊長を務めるほどに。 学のない者が多い新撰組では、武田のような知識者はめちゃくちゃ貴重だったため、大事にされました。「軍師」のような存在だったそうです。 喋りもうまく、近藤に取り入るタイプだっため、内心では武田を嫌ってる人が多かったそうです。 また「男色家」の噂も絶えませんでした。 池田屋では近藤隊とともに行動していました。 が、伊東甲子太郎の出現により、だんだんやばい立場となってくるのです。これはまた後ほど。 |
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長州藩激怒!「憎っくき幕府の犬め!」 | ||||||
長州藩は8.18の政変により都落ちしていました。 三条実美ら七卿や真木和泉・久坂玄瑞らは「もう一度京都に攻め込もうぜ!」と主張していましたが、高杉晋作や桂小五郎が「まだ時期ではない」とストップかけていました。 高杉や桂は、この頃から「攘夷」ではなく「富国強兵(国の軍事力を強め、国を富ませること)」の道を考え始めていたのです。 そのため藩内でも意見が対立しまくっていました。 そんな時に「池田屋で同志が討たれた」というニュースが入ってきたのです。 もー長州藩尊攘派は逆上しまくりました。 復讐の念に燃え、兵を出すこととなたのです。 |
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7月11日 佐久間象山暗殺 人斬り彦斎「身の毛がよだった」 | ||||||
![]() が、諸藩では「軍備拡張の必要性のために、なんとか象山先生をお招きしたい」と思っていたのです。 土佐からは中岡慎太郎が行き、長州からは久坂玄瑞がスカウトしに行きましたが、象山は断りました。 1862年12月に蟄居の処分から開放されると、朝廷と幕府から「とにかく京都にきなさい」と命令されたのです。 象山のような著名な人が「開国論」を唱えまくったら大変なことになる!!!と、尊攘派は焦りました。 そして佐久間象山の暗殺をすることにしたのです。 選ばれたのは幕末の三大人斬り(岡田以蔵・田中新兵衛)の1人である河上彦斎でした。 彦斎は頭が良く、他の2人と違い単純な暗殺者ではありませんでした。 「人を斬るのは木偶を斬るようなものだ」という冷酷な男でもありました。 この日象山は白馬に乗り家に帰ろうとしていました。 そこへ3人の刺客が象山に斬りかかったのです。 象山は逃げようとしましたが、取り囲まれ斬られてしまいました。54歳でした。 象山の死体にある傷は、全て横と後ろだったため、立ち向かわずに逃げたとみなされ、家名断絶となってしまったのです。 彦斎は、象山暗殺をきっかけに人斬りをやめました。 殺した後「今回ばかりは象山のあまりの人物の大きさに身の毛がよだった。象山は豪傑であった。こちらも斬られるかと恐怖した」と言いました。 そして暗殺者としての自分に終わりを告げたのです。 余談ですが、彦斎は名前を改め旅に出ました。 途中松代藩に寄った時に宴を開いてくれた人がいました。 その人が「当藩には佐久間象山という最高の人物がいたんだけど、そなたと同じ藩の河上彦斎という者に殺されてしまったのじゃ。今は象山の息子が仇討ちのために国を出ているのだ」と語りました。 彦斎は「オレのことじゃん」と思いましたが、顔色も変えず「河上という者のことは知っています。なかなかの男ではありましたが、息子さんの仇討ちを遂げさしてあげたいものです」と言ったそうです。 |
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7月16日 佐久間象山の息子恪次郎(かくじろう)新撰組へ入隊 | ||||||
佐久間象山はめちゃくちゃ自信家で、自分の子孫も絶対優秀じゃなきゃダメだ!と考えていました。 妻であるお順(勝海舟の妹)であれば、優れた子供を産んでくれるだろうと思ってたのに、子供が出来ませんでした。 象山は妾に「優秀な子供を産める様な女を紹介しろ!」と体格や性格など、細かく書いた手紙を渡したりしていました。 何人も妾を持ちましたが、一人前に育ったのが恪次郎だけだったのです。 父・象山が殺された時は17歳でした。 象山がいなくなった佐久間家は家名断絶となり超貧乏に! 恪次郎は父の仇を討つために新撰組に入隊したのです。 が、恪次郎は父とは違いあまり出来が良くなかったのです。 新撰組に入ってから、仇を討つどころか、人を殺してしまい脱走してしまったのです。 新撰組の局中法度では「脱走は死罪」となっており、新撰組に狙われることに。 ですが、勝海舟のおかげで薩摩藩に世話してもらえることに。 その後も色々とちょろちょろし、1870年に西郷隆盛の口添えで「佐久間家」は復興できました。 その後も勝海舟に世話してもらい、海軍に入ったりと、「象山ブランド」を常に引っさげていましたが、そこでもトラブルを起こしてしまったのです。 酒を飲んで酔っ払っていた恪次郎は大喧嘩した挙句、警察官を殴り飛ばしてしまったのです。 そのため左遷となり、最後はうなぎを食べて食中毒になって死んでしまいました。 |
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7月19日 禁門の変(蛤御門の変) | ||||||
長州藩は池田屋騒動によって藩の志士を殺されたことに激怒し、進軍を開始しました。 6月23日ごろ、長州藩家老である福原越後率いる軍隊が伏見に布陣。 国司信濃や来島又兵衛は天竜寺へ布陣。 そして真木和泉と久坂玄瑞らの軍隊は天王山へ入ったのです。 7月19日 福原越後の部隊が彦根藩兵と遭遇。 火蓋が切られたのです。 ちなみにこの時の京都の人口は50万人。 そこに幕府軍や各藩の兵が8万人と長州兵3千人が集まったため、京都は大変な騒ぎとなりました。 福原隊は懸命に戦いましたが、福原が不詳したため敗退。 天竜寺チームは御所の中立売御門(なかだちうりごもん)と蛤御門(はまぐりごもん)に攻め入り、天王寺チームは堺町御門に攻め入りました。 御所内は大パニックに! 戦いのど真ん中にいる公卿らは「長州を許してやれ!今すぐ和睦するでおじゃるー!」とわめき散らしました。 それを慶喜が「いまや長州は朝廷に攻め込んできた朝敵でございますぞ!和睦せよとは何事かっ!」と怒鳴りました。 しかし、いかに長州藩が奮闘しようとも人数の差が違いました。 蛤御門での戦いが一番凄まじかったため「禁門の変」もしくは「蛤御門の変」と呼ばれるようになります。 結局蛤御門を攻めた長州の来島が戦死してしまいました。 久坂らも負傷して鷹司邸に逃げ込みました。 が、鷹司邸に会津藩・桑名藩や新撰組(永倉・井上など)が攻め込み、久坂はもはやこれまでと自刃したのです。25歳でした。 入江九一も久坂と最後の別れを惜しんだ後、外へ出たところを槍で突かれ死にました。28歳でした。 真木和泉も天王山の山頂で自刃したのです。 戦いは1日で終わりましたが、京都の火災は3日間続き、2万軒以上が焼けてしまいました。 そして長州藩はこの戦いで228人の戦死者を出し、有能な志士を多数亡くしてしまい、ますます窮地に陥ることとなったのです。 戦争処理として、新撰組は長州藩邸を焼き長州藩の残敵をくまなく探しました。 このため新撰組はますます長州藩をはじめとする尊皇攘夷派に憎まれていくのです。 |
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8月5日 四国艦隊下関を攻撃! 下関戦争 | ||||||
昨年長州藩は「攘夷だー!」と言って外国船に砲撃をしました。 そのため米・蘭・仏・英から報復攻撃をされ、あまりの戦力の差に呆然としたままでした。 が、高杉晋作が「奇兵隊」を結成し、その他に「遊撃隊」「集義隊」など諸隊を結成させていました。 「攘夷運動」には無縁だっと思っていた長州の農民らも、自分達の居場所がドカドカと砲撃されちゃうもんだから「他人事」ではなくなってきており、「長州藩の危機」と受け止め、砲台を築いたりしていました。 そして下関海峡に外国船が通れないようにしていたのです。 外国船にとって下関海峡を通れないということは、めちゃくちゃ遠回りとなり面倒臭いことでした。 米・蘭・仏・英の4カ国は「これは幕府と締結した条約に違反している!それにこのまま長州の思うようにさせているってのは我ら外国の威信に響く!いかに攘夷が無謀かということを知らしめてやろうではないか!」と立ち上がったのです。 そしてイギリスを主力とした四カ国は、この日の午後4時10分に一斉に攻撃を開始したのです。 長州藩は禁門の変で大打撃を受けたばかり。 もう勝負は目に見えていました。 最初の1時間で長州の主要な42の砲台は木っ端微塵となりました。 はじめは抵抗していた長州も「戦力の差」に呆然。 開始3日目には殆ど抵抗する手段がなくなり、戦いは終了したのです。 |
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8月9日 長州藩大敗!「大魔王」出現 | ||||||
![]() が、外国と渡り合って交渉するような人がおらず長州藩は大慌て「どうする?誰を交渉役にする?」といった感じでした。 そして白羽の矢が立ったのが、中国に行った事のある23歳の高杉晋作だったのです。 といっても晋作は英語が喋れないので、カタコト話せる伊藤博文が通訳として付き添いました。 交渉相手はイギリスのオールコックと、通訳にアーネスト・サトウがやってきました。 イギリス側は賠償として「彦島」を貰おうとしていたのです。 当日、交渉する場で待っていたオールコックらはビックリ! 重たそうな甲冑姿の晋作がガシャコンガシャコンとやってきたのです。 そして「我こそは長州藩家老の宍戸刑馬であーる」と言い出しました。 さらに「わが国はそもそも高天が原よりイザナギ・イザナミの命の神があらわれ給い・・・」とワケのわかんないことを放し始めたのです。 イギリス側は負けた国の代表だというのに、全く悪びれた様子もなく言いたい放題のことをベラベラ喋り始めた晋作に呆然。 彦島の賠償の件もうやむやになってしまったのです。 アーネスト・サトウは「魔王かと思った・・・」 伊藤博文は「晋作の気が狂ったのかと思った・・・」と当時のことを話しています。 さらに伊藤博文は、明治時代になってから「下関海峡を通るたびに高杉さんを思い出します。あの時は気違いになってしまったかと思いました。だけど、高杉さんがいなければ、いまごろこの彦島は外国の支配下になっていたことでしょう」と言っていました。 |
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長州藩とイギリスはどうなった? | ||||||
結局高杉晋作のおかげで交渉はうやむやとなり、イギリスは幕府に賠償金を請求することになりました。 その額は300万ドルという法外な額でした。 ですが長州藩は、下関を通交させるということと、新しい砲台を造らないということは承認せざるを得ませんでした。 こんなに頑張った高杉ですが、藩内では「攘夷を捨てた男」と言われてしまうこととなるのです。 通訳のアーネスト・サトウは「じつは私達は長州の人間が好きになりはじめていました。幕府の家臣は弱いし、やることに裏表がありすぎる。はっきりいって嫌悪感を抱き始めています。だけど長州の人は堂々としており、尊敬さえできる。」と言ったそうです。 そして「攘夷」は無理だと感じた長州藩は、以後イギリスと密接な関係を築いていくこととなるのです。 |
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9月11日 勝海舟 西郷隆盛と会う | ||||||
![]() ![]() 今年2月に長かった島流しから帰ってきたばかりの隆盛。 勝海舟との対談で、時差ぼけがすっきりと解消することとなったのです。 この頃の勝海舟は神戸海軍操練所のボスでした。つまり「幕府の人間」です。 が、海舟は幕府の人間でありながら西郷にこう言ったのです。 「はっきりいって今の幕府はダメだ。役人らも世間知らずで時代遅れなんだよな。こないだの禁門の変ではたまたま勝てたけど、運が良かっただけなのに、有頂天になっちゃってるし。だけど、なんかトラブルがあったらその責任逃れに必死サ。諸藩が協力して幕府改革をしようと思っても、そんな意見はおえらいさんには通じないのサ。全部却下されちゃうからね。ヤツラの考えはもう古いんだよ。」 これを聞いた西郷隆盛はビックリ! まさか幕府のお偉いさんである勝海舟から、こんなことを聞くとは夢にも思っていなかったのです。 この頃の西郷は「おいどんが島流しから帰ってきたら、いつの間にか大嫌いな長州藩が孤立してたよ。わっはっは。だけど、幕府もいまいち信用ならねーんだよな」といった考えでした。 明確な自分の進むべき方向がわかっていなかったのです。 そんな所に勝海舟の「幕府はもうダメダメ!」発言に目が覚めたのです。 後日、西郷は大久保利通に「ひどく惚れ申し候」と書きました。 海舟も「意見や議論はオレの方が勝るけどぉー、でも、天下の大事を行うのは西郷のような男ではないかと思ったヨ」と延べたそうです。 |
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龍馬 西郷に会う「西郷は不思議な男じゃ」 | ||||||
![]() 龍馬は海舟に紹介状をもらって、西郷に会いに行ったのです。 龍馬は「西郷という男はわからぬ男じゃ。少しくたたけば少しく響き、大きくたたけば大きく響く。もしバカなら大きなバカで、利口なら大きな利口だ」と延べました。 海舟は「坂本もなかなか人を見る目があるヤツじゃの」と、龍馬の人を見る目を褒めたそうです。 ちなみに、アーネスト・サトウは西郷の眼を「黒いダイヤ」と言いました。 |
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9月 新撰組 近藤勇江戸へ!隊士募集する | ||||||
この頃新撰組は「長州征圧」の話題で盛り上がっていました。 が、肝心の将軍家茂が上洛を嫌がっていました。 松平容保は「いつまでもグズグズと江戸に居られては幕府の威信に関わる。さっさと上洛するように使者を送ろう」ということとなり、その使者の中に新撰組の近藤・永倉・武田も加わったのです。 近藤らは江戸に着くと、精力的に幕府の重臣達に長州征圧と将軍上洛の必要性を説きまくりました。 また、久しぶりに試衛館に行き、妻のツネと会いました。 江戸を出た時からは想像できないほど出世した近藤にツネさんは大喜び。 さらに近藤は、人数が足りない「新撰組」の隊士募集もしたのです。 京都で募集したらスパイが入り込んでくるかもしれないってことで、関東の武士を募集したのでした。 |
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10月 新撰組 伊東甲子太郎ら入隊 | ||||||
![]() 江戸に出てからは北辰一刀流を学び、師である伊東誠一郎の娘と結婚。 後を継いで道場主となりました。 この道場に藤堂平助がおり、伊東に剣を教えてもらっていたのです。 ここで藤堂平助は伊東に惚れ込みました。 そして江戸で隊士募集を行った際に、藤堂は伊東に是非来てもらいたい!と誘いに行ったのです。 藤堂は熱心に伊東を誘い、また藤堂の紹介で伊東に会った近藤も伊東をすごく気に入り、熱心に勧誘しました。 伊東はとうとう心を動かされ、弟の三木三郎や同士7人とともに、新撰組に入隊したのです。 ちなみに、翌年の編成で伊東は土方に継ぐ「参謀」となりました。新撰組NO3となったのです。 伊東はとても高く評価されていたのです。 ちなみにこの時、新たに新撰組に入ったのは24人。佐久間象山の息子もこの時に入隊しました。 |
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長州やっつけに行くぞ!「・・・・・シーン・・・・」 | ||||||
孝明天皇は禁門の変において、長州藩に対し激怒していました。 そして「この罪は軽くないぞ!長州藩を追討するのじゃ!」と勅命をだしたのです。 幕府は大喜び。 これで長州は「朝敵」となり、ここでメタメタに長州をやっつければ、失われつつあった幕府の威信が取り戻せるのです。 すぐさま準備に取り掛かりましたが、肝心の将軍家茂がちょっとグズってました。 それでもなんとか準備完了となり、将軍家茂が長州征圧に行く!ということを発表したのです。 が、幕府の権威は、幕府が考えている以上に落ちていたのです。 将軍直々の進軍だというのに、誰も奮い立たず、「どうせまた掛け声だけだろ?」とバカにする始末。 正直、諸大名は「おいおい、やめてくれよ!はっきりいって軍を出すお金なんてないよ!それもこれも今まで幕府が参勤交代だの、いらない河川工事だの、無理やり外様にお金使わせてたからじゃないかよー。軍を出すとなったらますますオレの藩は貧乏になっちゃうじゃねーかよ!」というものでした。 さらに「それにさぁ、長州藩を征圧しちゃったら、まーた幕府が偉そうにするじゃねーか。これ以上支配体制をきつくしてもらいたくないんだよね。さんざんだらしない政治をしてたくせにさぁー」という思いもあったのです。 そのため藩によっては長州に同情している所も沢山あったのです。 因州(鳥取)・芸州(広島)にいたっては「外国と戦っている唯一の藩が長州藩であるぞ?それを助けずに攻めるなどと、日本の恥ではあらぬか?」と言うほど。 長州征圧の総督に選ばれた徳川慶勝(前の尾張藩)も、めちゃくちゃイヤがってました。 皆さん仕方なく長州征圧に行かされることとなったのです。 |
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長州藩大パニック「マジで??」 | ||||||
この頃の長州は、もうボロボロでした。 8.18の政変以後、禁門の変・四国連合艦隊からの攻撃と、立て続けに起きており、貴重な人材がことごとく失われていたのです。 はっきりいって幕府を迎え撃つ力はもうなかったのです。 長州藩内の意見は真っ二つに分かれました。 幕府に従おうという「俗論党(ぞくろんとう)」と、一応交渉はするけど、もし意見が決裂した場合はあくまでも戦う!という「正義党」に分かれたのです。 ですが、正義党の井上馨が刺客に襲われ重傷となり、リーダー格だった周布政之助(すふまさのすけ)は禁門の変の責任をとり切腹となったため、「俗論党」が指導権を握るようになったのです。 高杉晋作は身の危険を察して長州を脱出しました。そして筑前(福岡県)の野村望東尼(のむらもとに)の所へ身を寄せたのです。 |
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10月25日 第一次長州征討 | ||||||
この時の幕府軍参謀は西郷隆盛でした。 隆盛は今までなら長州に対して「ぶっつぶしたる!」という勢いだったんですが、勝海舟との対談で考え方が変わっていたのです。 すでに「戦わずして勝つ」という考えとなっていました。 隆盛は幕府のことも見限るようになっていたのです。 長州藩も戦う気はないし、幕府側の総督である徳川慶勝らも積極的に攻めたいとは思っていなかった。 西郷隆盛はそんな慶勝を説得しだしたのです。 11月、長州藩が幕府に謝罪を申し出てきました。 慶勝は異論もなく、長州藩の三家老を切腹・四参謀を斬首ということで、第一次長州征圧は終わったのです。 結局、長州藩と幕府は一戦も交えることはありませんでした。 徹底的に長州を叩き潰したかった慶喜は、慶勝を「あの野郎!西郷にたぶらかされたな!」と苦々しく思うようになったのです。 |
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12月22日 天狗党の武田耕雲斎 加賀藩に降伏 | ||||||
天狗党は水戸から京都へ歩き続けていました。 大雪の中、山中を死ぬ思いで歩き続けたのです。 越前に到着した時は豪雪もすごく、無事にたどり着いたのが信じられないくらいでした。 この困難を乗り越えて歩いてきた天狗党を待ち受けていたのは、慶喜が自分達天狗党を討伐にくるというものでした。 耕雲斎らは、慶喜にお願いしにやってきたのに、自分達が山中を歩いている間に徳川幕府に狙われているというものだったのです。 徳川幕府に対してまったく反抗する気のなかった天狗党は、慶喜の命令を受けて道を防いだ加賀藩に降伏したのです。 加賀藩は士道に殉じている!と、天狗党に「武士の情け」をかけ、手厚くもてなしました。 が、翌年慶喜から命令を受けた若年寄である田沼に身柄が拘束されると、状況は一転したのです。 田沼は天狗党らを鰊(にしん)の蔵にぶち込んだのです。 窓は板が打ち付けられ、寒く真っ暗なところに押し込められたのです。 |
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その後天狗党はどうなった? | ||||||
鰊蔵にぶち込まれた天狗党。 2ヶ月後尋問が開始されました。 そして武田耕雲斎・藤田小四郎ら400人以上は斬首となったのです。 さらに遠島・追放という厳しすぎる処分となったのです。 助かったのは15歳以下の11人だけでした。 そして実際天狗党の処刑を行ったのが彦根藩だったのです。 彦根藩は大老井伊直弼を水戸浪士に殺された恨みもあり、なんだかこの処刑には悲惨さが漂いまくりです。 御三家である水戸藩を幕府はこのように厳しい処分にしてしまったのでした。 そして水戸藩は、水戸黄門以来の「尊攘思想」の総本山でありながら、内ゲバで重要な人物が誰一人でてこなかったのです。 明治政権が出来あがった時に、これだけ幕末を騒がせた水戸藩の者は1人として要職につくことはありませんでした。 |
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