幕末その1 1800年〜1852年
・・・幕末序曲・・・
鎖国を続けていた日本。ですが世の中は急速に動いていました。

イギリスでは急速に産業が発展し「産業革命」が起こり、その後フランス・アメリカ・ドイツに広がっていった。

1789年にはフランスで「フランス革命」が起こり、産業革命とフランス革命によって欧米は急速に近代化していったのです。

そのため安い原料の確保や商品を売る市場を求めて、欧米諸国はアジアやアフリカの植民地獲得に向かっていくこととなるのです。

こうして欧米諸国は「列強」という世界の強国の道を歩み始めるのです。

日本はというと、戦国時代を終え、徳川幕府となってから平和な世の中が続いていました。

太平の世」だったため軍事に関しては全くといっていいほど軍事力を蓄えていなかったのです。

その間、欧米諸国ではひたすら軍事力の強化を務めていました。

イギリス・フランスは植民地争奪戦をインド・カナダで繰り広げていました。が、ついに東アジアに手を出し始めたのです。

1805年2月 め組の喧嘩
芝明神の境内で相撲が行われていました。相撲の興行の前には火消しがご祝儀を持っていくというしきたりがありました。

そして芝明神の縄張りは「め組」。

め組の辰五郎は町内の遊び仲間長次郎とともに、他の町内の富士松を連れてやってきました。

そして相撲を見ようと木戸をくぐろうとすると、木戸番が「おめぇさんらはいいが、そっちの男は他の町のやつだろ?だからダメだ」と断られたのです。

辰五郎らは「いいじゃねぇか。おれの仲間だぜ?」と言い合っていると、そこへ柏戸部屋の関取である九竜山が出てきて、辰五郎らは追い払われてしまいました。

仕方なく辰五郎らだけ木戸をくぐり入っていくと、九竜山が入ってきました。

辰五郎らは聞こえよがしに九竜山の悪口を言うと、怒った九竜山はたまたま側にいた火消したちを殴り飛ばしたのです。

怒ったのはとばっちりを受けた火消しら。場は殺気だったものの、相撲の年寄りが仲介して何とかその場は静まりました。

ところが一部始終を見ていた九竜山の同僚である四ツ車大八が「おいおい九竜よ、ここですっこんだら男が泣くぜ!」とけしかけたのです。

それを聞いた火消しの方もジャンジャンと早鐘を鳴らしたもんだから、め組の連中がわんさかと集まってきて、双方入り乱れての大喧嘩となったのです。

ここまできちゃったらいっくら柏戸親方や火消しの頭が止めても無駄。

富士松は死んでしまい、九竜山は江戸追放。辰五郎と長次郎は江戸中追放となったのです。

この喧嘩は芝居となり「め組の喧嘩」として大人気となりました。

1805年10月 華岡青州 世界初の外科手術に成功
この年、紀伊国の平山村にて世界初の外科手術が成功しました。

手術したのは華岡青洲(はなおかせいしゅう)。全身麻酔による乳がん摘出手術でした。

この頃は麻酔というものがなく、患者は手術の際激しい苦痛に耐えなければなりませんでした。

そのため手術中にショックで死ぬことも多く、青洲は「麻酔」を作成し、眠らせている間に手術をしようと考えたのです。

青洲は26歳の時に医者としての看板をあげ、麻酔の研究に打ち込みました。

動物実験を繰り返し出来上がったのが朝鮮アサガオを主成分とした麻酔でした。

ですが人間には一度も使ったことはありません。

すると母のお継(おつぎ)と妻の加恵(かえ)が人体実験の協力を申し出たのです。青洲は医学の進歩のためこの2人に麻酔を使いました。

そして母は死に加恵は失明してしまったのです。

青洲は悲しみましたが、それを乗り越えて「通千散(つうせんさん)」という麻酔を完成させました。

そしてこの年に初の全身麻酔による乳がんの摘出に成功したのです。

青洲はこの技術を教えようと私塾である「春林軒(しゅんりんけん)」を開きました。

噂を聞いた若者たちが集まり塾生は千人を超えたのです。

紀伊藩はそれを聞き青洲をスカウト。

青洲は弟子に教える時間も減るし、手術をする時間がなくなると断るんだけど度重なるスカウトにとうとう折れ、54歳にして紀伊藩に出仕し、以後出世しまくるのです。

妻の加恵は20年以上失明というハンデを負い、不自由な生活をし68歳で亡くなりましたが、青洲はヒマさえあれば加恵のもとへ行き話し相手をしたそうです。

1808年8月 フェートン号事件
この年、イギリスの軍艦フェートン号が長崎に不法にやってきました。

船には偽物のオランダの国旗が掲げてあったので、手続きのためにオランダ商館員2名がフェートン号に向かったところ、なんと人質とされてしまったのです。要求は水と食料でした。

実はオランダはナポレオン戦争によってフランスの属国(家来みたいなもん)になっていて、イギリスとは敵対関係でした。

イギリスは長崎の出島を奪おうという思惑もありましたが、この時は素直に水と食料を与えると、人質を解放して退去していったのです。

この事件によって長崎奉行所の松平泰英は責任をとって切腹。

長崎の警護担当をしていた鍋島家も処分を受けました。

その後もたびたびイギリス船は長崎に現れるようになり「異国船打払令」を出すきっかけとなるのです。

1815年 家斉の娘 溶姫(やすひめ)前田家へ嫁ぐ
家斉がもっとも寵愛していた側室 お美代の方との間に生まれた娘が溶姫です。それだけにワガママ放題で育ちました。

加賀百万石の前田斉泰のもとへ嫁ぎましたが夫の斉泰のことも「加賀!」と呼び捨てにし、溶姫の家臣までもが偉そうにする始末。

前田家の方も、もし失礼なことをしちゃって溶姫様のご機嫌を悪くしちゃったらお家の一大事になるかもしれないと、気を使いまくりでした

溶姫は歌舞伎が大好き♪家にいる時にしょっちゅう歌舞伎を呼び寄せていました。大名家でも奥は男子禁制なので、呼び寄せるのは女歌舞伎でした。

ところが、警護を務めているお庭番が妙な事に気がつきました。溶姫が呼び寄せた女歌舞伎がキレイな顔して庭で立小便していたのです。

お庭番はびっくりして上役に伝えたところ、なんと女歌舞伎は「陰間」と呼ばれる男性だったのです。

ですが溶姫はお咎めなし。ですが陰間とも知らず家にあげた家来などがクビになったりと、ワガママ姫のおかげでとんだとばっちりを受けてしまったのでした。
1821年7月 伊能忠敬「日本沿海輿地全図」を完成させる
伊能忠敬(いのうただたか)は16歳の時に伊能家の婿養子となり働きまくって3万両の財産を築きました。

50歳になった忠敬は夢だった地球の南北を結ぶ子午線を測り、地球の大きさを割り出すゾー!ということにチャレンジするため江戸へやってきました。

当時としてはかなりの変人でした。

そして歩数を数えながらテクテクと歩く忠敬に、人々は奇妙な姿をしたヤツがいると噂しあうのでした。

そんな中幕府がロシアの脅威を感じているってので、蝦夷地の地図を欲しがっているという話を聞きました。

これはチャンスと周りの反対を押し切り150日にわたる測量の旅に出発したのです。

そして蝦夷地で測量を始めました。この時間宮林蔵にも手助けしてもらいます。

そして出来上がった蝦夷地の地図を見て幕府はビックリ!こんな正確な地図は初めてじゃ!他のトコも作ってくれ!ということになりました。

が、途中で伊能忠敬は死んでしまい、弟子がその後を継いで「日本沿海輿地全図」を作成したのです。

1822年8月 コレラ大流行
この年、日本で初めてコレラが大流行しました。

長崎から入ったコレラはたちまち大阪まで広がりました。

また1858年にもコレラが大流行しました。

この時は江戸で4万人以上が死んだらしい。朝まで元気だったのに、夕方突然コロっと死んでしまうので「コロリ」と呼ばれ人々に恐れられました。
幕末を彩る人々 続々誕生
1800年代に突入すると、激動の幕末を動かす人々が続々と誕生します。

1800年 徳川斉昭
1801年 川路聖謨(かわじとしあきら)
1803年 武田耕雲斎(こううんさい)
1804年 高野長英 ハリス
1809年 島津斉彬(なりあきら) 横井小楠(しょうなん)
1810年 緒方洪庵(こうあん)
1811年 佐久間象山(しょうざん)
1814年 鍋島閑叟(かんそう)
1815年 井伊直弼 長野主膳(しゅぜん) 梅田雲浜(うんぴん)
1816年 吉田東洋
1817年 島津久光 伊達宗城(むねなり)
1819年 阿部正弘 安藤信正
1821年 森山新蔵(しんぞう)
1823年 勝海舟
1824年 大村益次郎
1825年 頼三樹三郎(らいみきさぶろう) 有馬新七(しんしち) 岩倉具視
1827年 山内容堂(ようどう) 小栗忠順(ただまさ) 西郷隆盛  河井継之助(つぐのすけ) 中浜万次郎
1828年 松平春嶽(しゅんがく) 副島種臣
1829年 武市半平太
1830年 吉田松陰 清河八郎 天野八郎 西郷頼母(たのも) 大久保利通
1831年 佐川官兵衛 孝明天皇
1832年 大鳥圭介
1833年 桂小五郎(木戸孝允)
1834年 橋本佐内(さない) 河上彦斎(げんさい) 近藤勇 岩崎弥太郎 江藤新平
1835年 松平容保 坂本竜馬 井上馨(かおる) 福沢諭吉 土方歳三 小松帯刀(たてわき)
1836年 山岡鉄舟(てっしゅう) 篠原国許(くにもと) 榎本武揚
1837年 三条実美(さねとみ) 徳川慶喜 板垣退助 有馬藤太(とうた) 浜田彦蔵(ひこぞう)
1838年 岡田以蔵 有村次左衛門(じざえもん) 中岡慎太郎 後藤象二郎 桐野利秋(中村半次郎) 山県有朋(ありとも) 大隈重信
1839年 高杉晋作 
1840年 久坂玄瑞(くさかげんずい) 渋沢栄一 黒田清隆
1841年 田中新兵衛 伊藤博文 福地桜痴(ふくちおうち)
1842年 沖田総司
1843年 アーネストサトウ
1844年 陸奥宗光(むつむねみつ)
1825年2月 異国船打払令
フェートン号事件やロシアのたびたびの略奪行為に怒った幕府は、とうとう「異国船打払令」を出しました。

これは日本の沿岸に近づいた外国船をためらわずに打払え!というもので「無二念打払令」とも呼ばれています。

そしてオランダ・清以外の船は近づいたたけで大砲でドカンドカンやられるようになるのでした。

1827年11月 エロじーさん小林一茶死去
一茶は農家の長男として生まれました。3歳で母が死んでしまい継母が来るのですが、ここで継母にイジメられ15歳で家を飛び出しました。

一茶が39歳の時に父親が死亡。そのため遺産相続問題が起きてしまい、13年間親兄弟とバトル!やっとこさ遺産をもらえたのが52歳の時でした。

52歳の一茶、ここで28歳のお菊さんと初結婚となるのです。こっからがスゴイ!

一茶は筆まめでエッチした日と回数を日記に書いちゃってました。「○月○日 晴 夕方 雨 菊女帰 夜五交合」などなど、毎日きちんとメモってます。一日に5回とか・・・。

で、お菊さんとは三男一女をもうけますが、子供は全て死んでしまい、お菊さんも結婚9年後の37歳で死んでしまったのです。多分子供産みすぎて疲れちゃったんでしょう・・・。

ところが61歳の一茶!今度は38歳のユキさんと結婚。が、ユキさん・・・あまりの一茶の性欲のすごさ(?)に実家に帰ってしまいました。

64歳の一茶、今度はやをさん32歳と結婚。年齢差は32歳!すごいデス・・・・でもやをさんとの間には子供もできました。

代表的な俳句に

・痩せ蛙 負けるな一茶 ここにあり  って、なんだか頑張っちゃってる一茶が彷彿してきます。

・めでたさも ちう位也 おらが春   よかったネ。

1828年 シーボルト事件
シーボルトは名門貴族の出であるドイツ人医師です。

軍医としたジャワ島(ジャカルタ)にいたシーボルトは日本に興味がありオランダ人として日本のオランダ商館へやってきました。

オランダは焦っていました。今は日本との貿易を独占していますが「列強」であるイギリス・フランス・ロシア・アメリカも日本を狙っていたからです。

そのためオランダとしては日本に歓迎される腕のいい医師を派遣してシーボルトにスパイをさせようとしたのでした。

この時シーボルトは27歳。

最初は出島で医師として働いていましたが、患者が増えてきたため出島の外の道路で治療を始めました。当時、外国人は日本の家の中には入っちゃダメでした。

ですが患者らが「道路で治療ではなくちゃんとした家でやってほしい」と言ったので、長崎の鳴滝という所に診療所を建て、そこで患者を治療することとなったのです。

シーボルトは「鳴滝塾」を開設し、西洋医療・西洋文化などを教えました。

蛮者の獄で捕まる高野長英も熱心な門弟でした。

さらにシーボルトはタキと結婚。長女「イネ」をもうけました。

ちなみに「イネ」は初の日本人女性医師となります。

この年の9月シーボルトが帰国する予定だった船が座礁してしまう。

この時に幕府の役人である高橋景保(かげやす)からもらった日本の地図を、オランダに持ち帰ろうとしたことが発見されてしまったのです。

国の地図は大変な国家機密でした。そしてシーボルトは国外追放となり、高橋景保は投獄。投獄中に病死しました。

高橋景保の子供達は遠島に。門弟達は50人近くが厳しく罰せられたのです。

ちなみに高野長英は要領よく逃亡しました。

この事件の原因を作ったのは間宮林蔵でした。

長崎のシーボルトから江戸にいる高橋景保あての荷物が届いた時、中に間宮林蔵宛の手紙と更紗が入っていたので景保はこれを林蔵に渡しました。

林蔵はわざわざこれを上司である勘定奉行に届けたのです。

この一件で幕府は高橋景保とシーボルトが仲がいいことを知り、2人をマークしたのです。

そして船が座礁したのを機会に無断で積荷を調べたのでした。

ちなみにシーボルトは外人だったので日本の法律は適用されませんでした。

滞在6年で日本を追放されたシーボルトはドイツ貴族の娘と結婚して三男二女をもうけました。

この時シーボルト49歳。新妻は25歳。

自分も貴族となり仕事も順調。新しい家庭を築いて幸せだというのに、再び日本に行く夢を抱き続けました。ペリーに日本の情報を教えたりしています。

追放から30年たった1858年にシーボルト追放令が解かれ、12歳の息子アレクサンダーと再び日本へ!この時、元妻だった「タキ」に冷たくされてしまいショックを受ける。

シーボルトは諸外国と幕府の交渉役を務めますが、あまりにも日本びいきだったため諸外国から非難され、通訳となった長男アレクサンダーを残してオランダに帰りました。

帰る時は将軍家茂らから記念品を沢山貰いました♪その後70歳で死去。

シーボルトが日本から持ち帰ったアジサイは大人気だったそうです。

日本発の探検家 間宮林蔵
林蔵は幼い頃から「神童」と言われるほど利発な子供でした。

ある日、川をせき止める工事をしている役人達が四苦八苦しているのを見た林蔵は、「こうしたほうがいいんじゃないの?」とアドバイスをしたところ、工事が大成功。その才能を認められ測量の勉強にハマるようになるのです。

19歳の時、蝦夷地に測量に行きました。そこで伊能忠敬と出会い本格的な測量技術を学んだのです。

28歳の時に蝦夷地の探検を認められ、幕府より樺太探検を命じられました。

この探検で林蔵は「樺太」と「サハリン」が同じ島であることを知り、シベリア大陸との間に「間宮海峡」を発見したのです。

「間宮海峡」はシーボルトによって世界に紹介されました。そして「間宮海峡」と名づけられ、世界地図の中で一つしかない日本人の名がついた地名となったのです。

そんな林蔵をシーボルトは同じ志を持った仲間だと思っていましたが、間宮はあくまでも「幕府の人間」だったため、シーボルト事件のきっかけとなる密告をしてしまうのです。

その後の林蔵は隠密(密告者のようなもの)となったり水戸藩に仕えたり。

川路聖謨にも近づいたりしました。

1844年65歳で死去。

日本発の冒険家であった林蔵も晩年はあまりにも幕府に忠実な犬として動き回ったため変人扱いされ、みんなに嫌われて過ごしたそうです。

1829年 徳川斉昭 9代水戸藩主となる
水戸藩では水戸光圀以来の家名の名をかけた伝統がありました。

大日本史」の編纂事業であります。編集は「彰考館(しょうこうかん)」で行っていました。ここの総裁はめちゃくちゃ権威がありました。

以前総裁であった立原翠軒(たちはらすいけん)が、門人筆頭である藤田幽谷(ゆうこく)と大喧嘩をしたことから水戸藩の悲劇がスタートするのです。

幽谷の子である藤田東湖の代になってから彰考館の中で権利を巡る抗争に発展したのです。

そして二つの派閥ができ、藤田東湖は徳川斉昭を。そして将軍家斉の子である清水恒之丞をプッシュする重臣派が対立することとなりました。

斉昭は水戸8代藩主だから、斉昭の方が血統的には候補NO1なんだけど、恒之丞は将軍の息子!家斉が子供作りまくって大名に押し付けまくってたうちの1人です。

そしてこの二つの派閥が騒動を起こしまくって、すったもんだした挙句やっとこさ斉昭が9代藩主となったのです。この時30歳でした。

で、斉昭は恒之丞側についた重臣らをガンガンと追い出しにかかり、藤田東湖や戸田銀次郎らを登用して、藩の建て直しに力を注いでいくことに。

が、藩内で寺社改革を行ったところ、僧侶らの反発を呼ぶことに。

また異常な女好きのため、息子の徳川慶喜は後々迷惑をこうむることになっちゃいます・・・。

「天下の副将軍」(という呼び名はないが・・・)と言われる水戸藩ははっきりいってめちゃくちゃ貧乏でした。

御三家の一つだというのに石高も少なく、また太平洋の北風をまともに受けるため冷害が多く農民は貧乏。そしてもちろん武士も貧乏でした。

名前だけは徳川で、学問の権威もあるが実際は貧乏で明日の食べ物にも困るほど。

藤田東湖の妾の子である小四郎でさえ「子供の頃は大根をもらうのさえ大変で辛かった」と言うほどでした。

そんな水戸藩なので、斉昭に追い出されてしまった重臣ら一派は過酷な生活をしなければならなくなり、長い間沈黙を続けることとなりますが、ある事件をきっかけに幕末の表舞台に出てくることとなるのです。

1831年8月 十返舎一九 花火ぶちかまして死去
一九は下級武士として暮らしていました。

16歳で江戸に出て23歳で大阪へ移り大阪町奉行に仕えました。

で、材木商の家へ婿に入ったんだけどここで一九は遊んでばかり。遊郭に通いまくってしまい離縁されてしまいます。

がっかりした一九は出版社に住みこんで働きました。このあたりから浄瑠璃や黄表紙本を書きはじめました。

それからまた江戸へ。また婿入り結婚しましたがまたも離縁されてしまう。コレに懲りた一九はお次はお嫁さんを貰いました。

今まで黄表紙本を書いていた一句ですが、結婚を機に「滑稽本」を書くことに。江戸と大阪を行ったりきたりしていた経験をもとに「東海道中膝栗毛」というヤジさんキタさんを主人公とした本を書きました。

これが大人気となり、当初はヤジさんキタさんは箱根あたりで終わりにしようとしていたのに、続編を書いてくれ!とお願いされ、とうとう京都まで行っちゃいました。

さらに四国や宮島まで行き20年以上にわたるロングセラーとなったのです。

主人公の弥次郎兵衛(やじろべえ)と喜多八(きたはち)はお人よしでカラ威張り、そして冗談が大好きな典型的な江戸っ子でした。

一九も愉快な人だったのか??というと、実は結構ロクデナシ。

お酒大スキで、お金があったらすぐに遊郭に行っちゃう。原稿料を貰ったらすぐ豪遊。家は何にもなくなり、仕方なくタンスとかの絵を描いて飾ってたらしい。

そんな変人一九もとうとう死去。「オレが死んだらこのまま棺桶に入れて焼いてくれ」と遺言していたので、みんなはそのまんま火葬場へ。

すると突然死体から花火がバンバンと上がったのです。一九は自分の体に花火を何十本も巻きつけていたのでした。

1832年 鼠小僧捕まる!
盗んだお金を貧乏人にバラまいて「義賊」と呼ばれた大泥棒の鼠小僧次郎吉。

とうとうこの年に捕まってしまいました。

鼠小僧はもともと中村座という歌舞伎の建具職人でしたが、バクチ大好きだったため借金しまくり。

とうとう借金取りに追われてしまい中村座を飛び出したのです。

それから武家屋敷に泥棒にはいるようになりました。

なぜ武家屋敷か?というと、武家屋敷の「奥」は女性だらけで泥棒に入りやすかったというのと、プライド高い武家屋敷は「盗賊に入られたなど恥ずかしくって届出できん!」といった感じで、なかなかバレずにいたのです。

一度捕まって刺青の刑を受けたんですが、被害届けが出ていなかったため死罪にはなりませんでした。

貧乏人を狙わずお金持ちばかりから盗みを働いてたたため、いつの間にか庶民のヒーローとなっていくのです。

どっかの貧乏子供が「鼠のおじちゃんから貰った」とウソをついたため、ますます鼠小僧の人気はヒートアップ

盗んだ金を貧乏人にバラまくってのはこのあたりから出始めました。実際は盗んだお金は全て自分の遊ぶお金で使っていました。

が、現行犯で捕まり、2度めだったため許されず、引き回しの上鈴が森刑場で打ち首獄門となったのです。

鼠小僧のお墓の墓石は「ギャンブルが強くなる」という噂が流れ、削り取られまくったそうです。
1833年 天保の大飢饉
この年から5年間、気候が悪く慢性的な凶作が続きました。そのため全国的な大飢饉となったのです。

さらに翌年には出羽で大洪水。関東でも暴風雨となり作物は大凶作。異常気象が重なりまくっておびただしい死者が出たのです。

そのため一揆や打ちこわしがはじまってしまいました。そしてこの飢饉は大塩平八郎の乱を招くのです。

1834年 水野忠邦老中となる
唐津藩主水野忠光の息子で唐津藩主となったんだけど、自ら願い出て25万石の唐津から15万石の浜松に行きました。

なぜか?というと、唐津藩は長崎警備の役目を任務としていたので、老中になれないからです。忠邦は出世したかったため、唐津藩の家来達の反対意見を押し切って浜松藩へ行ったのでした。

その後は順調に出世し、将軍家慶の信任を得て老中首座となったのです。
1837年2月19日 大塩平八郎の乱
天保の大飢饉によって多くの人々が餓死し、各地で騒動が起きたんだけど幕府は何の手も打たず、役人は自分達のコトばかり考えていました。

そんな中、苦しんでいる民衆らを救済しようと立ち上がったのが元大阪東町奉行与力の大塩平八郎でした。

筆頭与力まで務め(今だと大阪府警のトップくらいのレベル)38歳で隠居してしまいました。

隠居した後は陽明学を教える「洗心洞(せんしんどう)」という塾を開いていました。

「良いと思うことは実行してこそ価値がある。それを知行合一(ちこうごういつ)と言う。私は今の世の中の乱れを黙って何もせずに見ているわけにはいかない」と言っていました。

平八郎は幕府に抗議の手紙を出しました。「米が値上がり天下の台所である大阪でも餓死者が出ております。どうか大阪の貧しい人々に米を分け与えてください」と何度も手紙を書いたんだけど全て却下されました。

こうなったら・・・と大塩平八郎は塾の門下生らとともに、私利私欲を貪り続けている役人や金持ちを襲い、奪った米を貧しい人々に配ろう!という計画をたてたのです。

平八郎は自分の蔵書5万巻を売却し、反乱のための費用にしました。今のお金にするとおよそ5000万円。

そして「施行札」を一万枚刷らせました。その札を門下生を使って村人に配り「札を持ってきた者に金一朱を与える」それと同時に「天満に火事があれば必ず大塩先生のもとに駆けつけるように」と言わせたのです。

が、準備を始めている時に裏切り者が出てしまいました。そして町奉行にチクリを入れていたのです。

「大塩平八郎を捕らえろ!」ということとなり、平八郎は仕方なく予定を早めて反乱を決行したのです。

2月19日。朝8時に平八郎は自宅に火をつけました。天満から火が上がったらただちに駆けつけろ!ってことで、近隣の農民が100人ほど集まりだしました。

救民」の旗を掲げ、大砲を撃ったりと天満一帯は火の海に。さらに民らが300人ほど加わり豪商らを襲撃。

が、ここで平八郎の誤算が出てしまったのです。

平八郎は「きっかけさえ与えてやれば、民らは蜂起するであろう」と思っていました。

が、民らの蜂起はここで終わってしまい、民らが集まってこなかったのです。

そして事前から情報を得ていた奉行らがやってきて、夕方には平八郎の乱は鎮圧されてしまったのです。同志らは次々と捕まったり自害したりしました。

平八郎は息子と一緒にその後40日間隠れていましたが、とうとう隠れ家が見つかってしまい家は包囲されてしまいました。

平八郎は用意していた爆薬に火をつけ息子とともに自害したのです。

平八郎の乱は天下の台所である大阪で、モトお役人が世直しのために立ち上がろうとした!とたちまち全国に伝わりました。

幕府にとっても幕臣であった者が公然と幕政を批判したということは大きなショックでした。

その後、各地で百姓一揆が起きました。

その時の一揆軍ののぼりには「大塩平八郎門弟」と書いてあったのです。

平八郎の死は無駄ではなかったのです。そしてこの乱も「開国」に向けての大きな一歩となったのです。

1837年2月 アメリカ モリソン号事件
この年、アメリカのモリソン号が日本人の漂流民7名を送り届けるため、浦賀にやってきました。

が、幕府は異国船打払令によってモリソン号を追い返してしまったのです。

「通商を求め、日本の漂流民を送ってきてくれたモリソン号を、打払いによって送り返してしまうとは・・・幕府はいったい何を考えとんじゃ?このままでは日本は外国に取り残されてしまうぞ!」と、これをきっかけに鎖国に反対する人々が出始めてたのです。

そして渡辺華山が「慎機論(しんきろん)」高野長英が「戊戌(ぼじゅつ)夢物語」という本を書き、鎖国の愚かさを説いてしまったため、幕府に要チェックされちゃうのです。

1837年 家斉「大御所」となる
将軍在位50年という最長記録を作ったオットセイ将軍家斉。

とうとう息子に将軍を譲り、西の丸に入ることにしました。

それからも「大御所」として実権を握りまくるのです。

長年にわたる家斉の女にだらしない贅沢な暮らしは、幕府はもちろん江戸庶民にもにいい影響を与えることはありませんでした。

1837年8月 12代将軍徳川家慶
45歳で新将軍となった家慶。父である家斉が大御所として政務を手放さないため名ばかりの将軍でした。

老中らから相談されても実権がないため「そうせえ」としか言えないため「そうせえ様」というあだ名がついてしまいました。

家斉の周りには養女3人を側室に差し出した中野清茂や水野忠篤・美濃部茂育(もちなる)などの寵臣がガッチリと固めており、家慶の出る幕はなかったのです。

1837年9月29日 徳川慶喜 誕生
この日、江戸小石川の水戸藩邸において水戸藩主である裂公斉昭の7男として七郎麿(慶喜)が誕生しました。

生母は有栖川宮織仁親王の息女吉子。

吉子は12代将軍家慶の正室と姉妹であり、さらに家慶の妹は斉昭の兄である8代水戸藩主斉脩の正室であるといったように、この頃の将軍家と水戸家はバッチリつながっていました。

斉昭は37人の子供をもうけていましたが、賢い慶喜を気に入り国許である水戸で教育しました。

嫡男である鶴千代麿の控えとして手元に置いておいたのです。

そして慶喜は幼い頃から「英明抜群の御仁である」と噂されるようになっていくのでした。
1838年4月 中山みき 天理教を開く
みきは普通の農家で生まれました。

両親とも熱心な浄土宗の信者だったので、その影響で「尼になりたい」と言っていました。

そんなみきも13歳の時に結婚しますが、嫁ぎ先で5年間子供が生まれなかったためツライ思いをします。

それでも一生懸命嫁ぎ先で働き続け、やっと息子が生まれましたが、その息子が足が悪く祈願をすることに。

そこでみきはますます神を信じることに。

そして40歳でみきに神が降りてきたのです。

こっからはみきと家族は苦難の生活へ。

貧しい人たちに施しをはじめ、家財を全て投げ出してしまいました。

みきは神の心を聞いて満足でしたが、家族達は迷惑でした。

狐つき」と罵られ、貧乏ど真ん中の生活に。ですがみきは貧しい人たちのために施しをすることをやめませんでした。

そしてみきは「親神様」のために布教を始め「天理教」を開くのです。
1839年5月 蛮社の獄
アメリカのモリソン号を追い払ったことにより「鎖国」の危機感を抱いていたのは渡辺華山(かざん)・高野長英・小関三英・川路聖洋学者。

彼らは江戸で新知識の交換や対外問題を話し合う「尚歯会(しょうしかい)」というサークルのような物を作っていました。

洋学者の集まりってことで蛮社とも呼ばれていました。

サークルメンバーに江川太郎左衛門という幕府に勤務している者がいたんだけど、これが幕府内であの鳥居耀蔵と海防策をめぐって対立しちゃってたもんだから、尚歯会は鳥居耀蔵に反感を買うこととなったのです。

そして鳥居耀蔵は「尚歯会のメンバーが小笠原への密航を企てている!外国人と交流を持とうとしている!」と、老中の水野忠邦に告げたため、5月に華山らは捕らえられてしまったのです。

これが蛮社の獄。

華山は永久蟄居となりました。

家は貧乏になってしまいお金を稼ごうと画会を催したんだけど、幕府によって「蟄居だっつーのに不謹慎じゃ!」と言われてしまい、藩主に迷惑がかかってしまうことを恐れて自害したのです。遺書には「世の中が変われば悲しんでくれる人もあろうか」と書いてありました。

高野長英は小伝馬町の牢屋に入れられることとなります。

1839年 アヘン戦争が起きる
ヨーロッパでは紅茶が大ブーム

イギリスも中国の清からお茶を輸入していました。

が、イギリスからは茶葉を買い取る代わりとなる見返りの輸出品がなかったため、メキシコやスペインから買い入れた銀で茶葉を購入していました。

そのため清では次第に銀がだぶついてきたのです。

やがてとんでもない品が中国市場に現れてきました。麻薬であるアヘンです。

イギリスはインドを植民地にしていたので、インド人にアヘンを作らせてこれを銀の代わりにしたのです。

イギリス国内ではアヘンの輸入を許していないくせに清に売りつけ、さらにインド支配の財政基盤もできるし!ってことで、一挙両得の政策に出ちゃいました。

当時、清のオエライさんも腐敗していたため、得に対抗策が出ずアヘンの価格が高くなり茶葉が足りなくなってきてしまった。

清は茶葉+余ってた銀をイギリスへ。イギリスはアヘンを清へ売りつけたのです。これでは清は超貧乏になってしまいます。

ということで、清はアヘンを禁止し、イギリスから輸入したアヘンを全て捨ててしまいました。

怒ったイギリスは「自由貿易」を口実に清に向かって発砲。これがアヘン戦争となったのです。

戦争は2年続き、圧倒的な強さを持つイギリス海軍が勝ちました。

清は屈辱的な「南京条約」を調印せざるをえなくなりました。そのため香港はイギリスのものとなったのです。

香港を占領したイギリス軍は、中国大陸へ進出する足がかりを得たのです。

そしてこの情報は「オランダ風説書」を通して日本にもたらされ、幕府を驚かせました。

1840年3月2日 遠山の金さん 江戸北町奉行に
吉宗時代の大岡越前と並び称される名奉行・遠山左衛門尉景元(遠山の金さん)が江戸北町奉行に任命されました。

ちなみに南町奉行は鳥居耀蔵です。

2人はめちゃくちゃ仲が悪く、鳥居が天保の改革によって風俗をビシビシ取り締まったのを、それじゃあ、あまりにもひどいよと、金さんは江戸庶民に多少の娯楽を残すよう頑張ったので、江戸庶民から大人気でした。

この2人は対立しまくっていましたが、鳥居によって金さんは左遷されてしまいます。

ですが、のちに鳥居が南町奉行所を辞めさせられた時に、金さんは鳥居の後任として南町奉行になることができました。

よくテレビで金さんの刺青は「桜吹雪」となっていますが、一説には「女の生首」だったと言われています。

1841年1月30日 大御所家斉死去
人一倍健康に気を使っていた家斉。

お酒は毎日三盃だけだし、バターや牛乳を使った食事を食べたりと健康志向でした。50年にわたって将軍職につき、隠居後も大御所として政治を行っていましたが、とうとう腹痛を訴え危篤状態に。

危篤状態になったまま美濃部一派が病床をがっちり固めたまま死去していきました。69歳でした。
1841年 お美代の方 遺命偽造事件
お美代の方は祈祷僧日哲の娘で、江戸大奥へ奉公に上がった時に家斉に気に入られ寵愛を受けまくりました。

溶姫・仲姫・末姫と三女を出産し、溶姫は加賀前田家へ、末姫を広島浅野家へ嫁がせました。

そして家斉の寵愛を受けまくっていたため大奥でも絶大な権力を持つのです。

父の日哲も怪しげな祈祷僧だったのが寺を建ててもらい「将軍お声ががりのある祈祷寺」として、御三家や御三卿、諸大名までもが参詣するほど。

そしてこの寺では大奥女中と寺僧のラブホがわりとなっていき、お美代の方とその一族は栄華を誇っていくのでした。

家斉が隠居し「大御所」となって権力を握り続けていたものの、将軍家慶は常日頃から大奥の乱れが気に入らなくって老中の水野忠邦に大奥腐敗の原因を調べさせました。

すると日哲の寺が大奥の風紀を乱しているということになったのです。

お美代は焦り、家斉にすがろうとしたんだけど、運悪く家斉が病気になってしまいそのまま死んでしまったのです。

困ったお美代は「わが娘溶姫が前田家に嫁いで産んだ犬千代を、将軍家定の養子とし14代将軍にさせる!」という策に出たのです。

家慶は29人の子供がいたけど残ってるのは男児2人のみ。後継ぎは四男の家定だけど、知的障害者っぽいので将軍職に耐えられるかどうか疑問だった。

そうした状況の中、家斉が犬千代を次期将軍に指名さえすれば、お美代は将軍の母としていつまでも権力を握れる!そう思ったのです。

コトをうまく運ぶには家斉のお墨付きが必要となる。

お美代は家斉の家臣であった美濃部茂家育(みのべしげなる)に命令し遺言状を偽造したのです。

そしてお美代は「恐れながら死んだ大御所様が、いまわの際に私にこれをくださいました」と、その遺言状を提出。

そこには「元将軍家慶の世子家定を13代将軍とする。同時に前田犬千代を家定の養子とし、将来14代将軍とする」と書いてありました。

これを見た広大院(こうだいいん・家斉の正室)は激怒!

ただでさえ家斉は正室であった自分を差し置き、お美代の方ばっか寵愛してたのが気に入らないっつーのに、なんで家斉には他の子供がまだいるのに、その子供を飛び越えて前田犬千代を指名しなきゃなんないの?と将軍家慶に「陰謀の匂いあり!」ってことでこのお墨付きを提出しちゃったのです。

こうしてお美代の方の陰謀は発覚し、一族や陰謀に関わったものは江戸城から姿を消しました。

お美代の方は、娘溶姫の願い出によって前田家へ。その後転々とし、哀れな晩年を過ごしたのです。

1841年5月 老中水野忠邦 天保の改革スタート
1834年に水野忠成の後任として老中となった忠邦。

大御所家斉が元気なうちはコレといった政策を打ち出すことはありませんでした。

ところが、家斉が死去したとたん思い切った改革を始めることとなったのです。

将軍家慶も、家斉の死は待ちに待った瞬間でした。

水野忠邦とともに家斉の愛妾お美代の方チームを一掃し、天保の改革のスタートとなったのです。

水野忠邦は家斉によってだらけきった世の中を猛スピードで改革しだしました。

鳥居耀蔵・渋川六蔵・後藤三右衛門という「水野の三羽鳥」を重く用いて峻烈を極めました。

ぜいたく品は全てNG!女性の髪結いなんかもダメ!歌舞伎役者が編み笠をかぶんないで外にでちゃダメ!などなどうるさいうるさい。

結果、家慶の食卓から芽生姜が姿を消しました。

芽生姜も贅沢品として栽培禁止となったのです。それを知った家慶は「このような物まで禁止したとは・・・」と呟きました。

松平定信の時に男女混浴が禁止されましたが、この時も出されました。

今までのお風呂やさんは番台でお金払った後、着替える部屋は1つだけ。脱衣所も洗い場も1つだけ。いや、ホントすごいよね・・・(^^;)

で、混浴禁止令を出したんだけど、結果真ん中に板を突っ立てただけだったのであんまり意味はなかったそうです。

ちなみにペリーは混浴のお風呂を見て超ビックリ!

「日本人は節度のある頭のいい民族だけど、こればっかりは考えられない。淫蕩な民族である」と言ったそうです。

ハリスも「日本人は賢いけど、どうしてこのような品のないことをするのか理解に苦しむ」と言いました。

水野忠邦側近 妖怪 鳥居耀蔵(とりいようぞう)
蛮者の獄の時に先頭にたって尚歯会を取り締まった耀蔵。「妖蔵」とあだ名され、江戸中にスパイを放ち密告をさせました。

その取り締まりは徹底しており容赦なく投獄される人が相次いだのです。特に厳しく弾圧したのが「風俗」。

鳥居耀蔵は江戸中から恐怖され、そして恨まれていったのです。

耀蔵は完璧なまでの国学者で蘭学・西洋学を毛嫌いしていました。

そのため無実の人々が耀蔵によって牢獄や死刑となっていったのです。

1842年 柳亭種彦・為永春水らの著者が焼かれる
柳亭種彦(りゅうていたねひこ)は浮世絵師歌川国貞とのコラボで草双紙の第一人者でした。

代表作は「偐紫田舎源氏」で歌舞伎などで大人気。

為永春水は人情本作家で「春色梅児誉美」が大ブレイクしていたラブストーリー作家でした。

が、この2人が天保の改革によって「風俗を乱している」ということとなったのです。

1843年9月 水野忠邦失脚
忠邦はすごい勢いで改革を進めていました。

とうとう「上知令(あげちれい)」という「江戸城及び大阪城の近くにいる諸大名・旗本の領地は全て幕府直轄にする。その代わり代替地を用意します」というのを出したとたん諸大名・旗本・領民らの猛反対を受けました。

また「人返し令」という夢見てお江戸にやってきた人々を強制的に田舎へ帰すというものを出しました。

あまりにも性急で厳しすぎた忠邦の政策は、逆に経済活動をストップさせてしまいました。

そのため忠邦は2年で人気がガタ落ちとなり失脚となったのです。

1843年9月 阿部正弘 老中になる
将軍家宣は水野忠邦の後任として土井利位を首座に、そして新たに阿部正弘を老中に任命しました。

ちなみに忠邦に代わって老中首座には土井利位(どいとしつら)が任命されたけど、力不足のためまたも忠邦は復帰させられました。

ですが鳥居耀蔵らが捕まったりしたので、忠邦は病気を理由に辞職したのです。

1819年福山藩主の6男として生まれた阿部正弘。

1836年に福山藩主となり、寺社奉行を経て25歳という若さで老中に就任しました。

以後、水野忠邦が老中首座をカムバックした期間を除いて日本の総理大臣として全力を尽くすこととなります。
1843年9月 平田篤胤死去 国学を作った4人の男
江戸時代の学問の主流は儒学でした。

それに対し国学とは外国からやってきた学問ではなく、日本の古典を研究して日本民族の精神である古道を復活させようとしてできたものです。

国学を作った4人の男と言われるのが荷田春満(かだのあずままろ)。

春満は「万葉集」「古事記」「日本書記」を研究し、その弟子である賀茂真淵(かものまぶち)が「万葉集」を。

そして馬渕の弟子である本居宣長(もとおりのりなが)。

そして本居の精神を引き継いだのが平田篤胤(ひらたあつたね)でした。

「国学」をはっきりと体系づけたのは本居宣長。

宣長は30年以上かけて「古事記伝」を44巻作成し、源氏物語を研究したのです。

本居の考えは伴信友(ばんのぶとも)にも引き継がれましたが、平田篤胤は「復古神道」の部分に多く影響を受け、正統派と言われる伴信友らには嫌われましたが、篤胤の考えは国学の主流となっていきました。

篤胤は自ら本居の門人と言っていますが、生前の本居には会ったことはなかったそうです。

で、篤胤はひたすら勉強の毎日。「古今にもめずらしい貧乏ぶり」と言われるほどでした。

本居は数々の著者を仕上げ、越前藩の松平慶永は「平田ほど博学の知識の持ち主はいない」とまでいうほど。

そして4人が形成していった国学は、のちに大きな政治思想を産むことに。

次第に天皇を尊ぶ思想である尊王論が生まれ、尊王論は幕末になるにつれ、外国人を排除する攘夷論や、幕府を倒そうとする倒幕論へと結びついていくのです。

1846年4月 会津 松平容保 会津藩主の養子になる
この年12歳の松平容保(かたもり)が会津8代藩主松平容敬(かたたか)の養子となりました。

そして1852年の2月に容敬が病死し、容保は18歳で9代会津藩主に就任することになるのです。
将軍の子供達
そうせえ様こと家慶の正室は京都の有栖川家の娘の他に7人の側室がいました。

子供のほとんどが早死にしてしまい、育った男児は2人だけ。四男家定と一橋家を継いだ慶昌。ですが慶昌は13歳で病死してしまったため、家定が後継ぎになることに。

が、家定は知的障害者でした。お料理が大好きで特にカステラ造りはお手の物♪マメを煮るのも得意でした。

30過ぎても庭のガチョウを追い回して遊んだり、刀を持って近習を追い回したり・・・。

また幼い頃疱瘡を患ったため顔は醜く、祖父である家斉譲りの癇癪もちも手伝って「癇癪公方」というニックネームがつく始末・・・。

徳川の不幸はこの家定が将軍に着くことによって始まったのです。
1847年9月 徳川斉昭の子 慶喜 一ツ橋家を継ぐ
将軍家慶の子であり、一橋家を継いでいた慶昌が13歳で死去したため、家慶はかねてから英明・利発と聞こえの高かった慶喜を一橋家の養子に行くよう命令したのです。

家慶の父である家斉は一ツ橋家出身であり、家慶で将軍家は二代にわたって一橋家。

そんな一橋家に養子に行くということは、頼りない家定の将軍後継者候補ということになるのです。

この話が来た時に斉昭は「まさかうちの慶喜が将軍に・・・??」と瞳を輝かせました。

が、肝心の慶喜は「ボクは将軍になんて疲れるからやりたくない」と言っていましたが、斉昭はソワソワしっぱなしとなるのです。

1848年11月11日 近藤勇 天然理心流「試衛館」に入門
本名は宮川勝五郎。武蔵野国の豪農の末っ子として生まれました。

村の実力者であった父にとても可愛がられ、小さい頃から「三国志」などを読み聞かされて育ちました。

一途なまでの徳川幕府への思いはこの頃に培われたと思われます。

15歳の時、父の指示で江戸牛込にある近藤周作の道場に入門しました。

勇はそこでたちまち頭角を現し、入門8ヶ月にして「天然理心流」の目録をゲット。

その才能を見込まれて近藤周作の養子となり、1860年には天然理心流四代目となるのです。

ちなみに四代目襲名披露の野試合に参加したのが、土方歳三・沖田総司・山南敬助・井上源三郎など。のちの「新撰組」メンバーとなるわけです。
1848年12月 「南総里見八犬伝」滝沢馬琴死去
馬琴の父は江戸の旗本に仕えていました。馬琴もその家に仕えるんだけど、主人が癇癪もちでヒステリックだったため15歳の時に家を出て行ってプータロー生活に突入したのです。

24歳の時に山東京伝の弟子にしてもらい、ここで蔦谷重三郎という写楽や歌麿をデビューさせた版元と出会いました。

山東京伝と蔦谷重三郎に勧められ黄表紙本を書き始めました。

そして山東京伝から独立し結婚。

この頃から今までのグータラ生活からおさらばし、妻子のために頑張ろうと思い始まるように。

そして「南総里見八犬伝」を書きましたが、これが大人気に!その後28年かけて180回98巻の大長編小説を書いたのです。

最後の方になってくると馬琴は目が見えなくなり、息子のお嫁さんに口述筆記をさせて書き続けました。そのため妻が嫉妬して姑VS嫁のイジメ騒動もあったそうです。

1848年12月 山内容堂 15代土佐藩主となる
容堂は妾の子として生まれました。

頭脳明晰・剣の達人で、容姿もオットコ前だったので、めちゃくちゃ自信家でした。

妾の子なので藩主になる可能性はまったくなかったのに、13代・14代と立て続けに藩主が死んでしまい、幕府に領国を返さなければいけないという危機に局面。

焦った山内家では、急遽容堂に本家を継がせ、土佐藩主にしたのです。容堂22歳でした。

この時、島津斉彬や伊達宗城・幕府側の阿部正弘が協力してくれたってことで、容堂は恩義を感じ、ますます徳川幕府を信頼していくのでした。

1850年 土佐の武市半平太 江戸三大道場の士学館に入門
土佐の武市半平太は剣術が達者だったため郷士から上士階級となりました。

半平太は背が高く剣術・習字・日本画などに才能を発揮。

そして藩の命令によって江戸に出て桃井春蔵の「士学館」に入門しました。

士学館とは四代目桃井春蔵の道場で、「鏡新明智流」の剣術道場です。

春蔵は書や詩もたしなむ人で、剣風は格調高く重厚で「品格」を最も大事にしていました。

桃井春蔵は沼津藩士の出身で、士学館に入門しました。

春蔵は天才的な剣筋を見込まれ17歳で桃井家の跡を継いだのです。のちに幕府の講武所教授となります。

土佐藩邸の近くにあったため土佐藩士が多く通ってきました。

武市半平太は、そんな春蔵の士学館の一番の使い手となっていくのです。

他には田中光顕(みつあき)人斬り以蔵こと岡田以蔵らがいました。
江戸三大道場 練兵館
1852年に19歳の桂小五郎が入門したのが斉藤弥九郎の道場である「練兵館(れんぺいかん)」。

15歳で江戸に出てきて神道無念流の剣客岡田十松(じゅうまつ)に剣を学んだ斉藤弥九郎が独立して開いた道場です。

神道無念流では「剣とは凶器であり、一生使わなければ幸いである」という義の剣を教え、精神の鍛錬を重視している流派です。

弥九郎は師である岡田門下で一緒に学んだ江川太郎左衛門・藤田東湖・渡辺華山とも仲が良く、時代の流れを見る目を養っていきました。また岡田門下には芹沢鴨もいました。

練兵館は長州藩邸に近かったので長州藩士が多く、塾頭を務める桂小五郎をはじめ高杉晋作、品川弥二郎らがいました。

また弥九郎の人柄を慕って、他藩からの志士も多く入門してきました。

江戸三大道場 玄武館
1853年には19歳の坂本竜馬が江戸にやってきます。

三大道場の一つである「玄武館(げんぶかん)」の師範は千葉周作。

周作は幼少の頃から「北辰夢想流」を学び、浅利義信に師事し免許皆伝となりましたが、剣の道において保守的だった浅利と意見が合わず養子にまでなったというのに絶縁とされてしまったのです。

その後1822年ごろに「北辰一刀流」を創始し、「玄武館」を開きました。

周作の教授法は具体的に教え、また合理的な剣だったため、剣の上達がすごい早いと人気となり、3000人以上の門弟を集めました。

玄武館は後に新撰組に参加する山南敬助・藤堂平助・伊藤甲子太郎の他、有村治左衛門・清河八郎・海保帆平(かいほはんぺい)・安積五郎などがいます。

のちに周作は水戸藩の師範役を務めてました。

竜馬は千葉周作の弟である定吉の道場に入門してます。

1849年 島津藩 お由羅騒動 
「お由羅騒動」とは島津藩のお家騒動です。

28代藩主の島津斉興(なりおき)は、自分の跡目を長男である斉彬にするか、寵愛している側室のお由羅の子である久光にするかで悩んでいました。

斉彬は英明と聞こえが高かったのですが、父の斉興がいつまでも悩んでいたため、1849年には40歳を過ぎているというのに、斉興は家督を譲らずにいました。

斉彬は1809年に、斉興の正妻から生まれた子供で、江戸の薩摩藩邸にて生まれました。

渡辺華山や高野長英ら蘭学者と仲が良く、外国文化に興味津々でした。この頃の日本人にしては珍しく、西洋から侵略されるんじゃないかと本気で心配していたそうです。

斉彬は工業にも先見の目を持っており、反射炉は溶鉱炉なども造りました。

また下級武士であっても能力があれば抜擢しました。西郷隆盛などがそうです。

伝統工芸となっている薩摩切子も斉彬の代で開発しました。

そんな斉彬の最大の敵が父である斉興の側室であるお由羅だったのです。

お由羅は斉興の寵愛を一身に受け、自分の息子である久光を次期当主に!と画策するのです。藩内は斉彬派とお由羅派で真っ二つに分かれてしまいました。

兄である斉彬は洋学好きの先進的タイプであったのに対し、弟の久光は質素で堅実タイプと全く正反対の2人でした。

斉興は悩んでいました。

そこへ当時藩内の財政建て直しを成功させたお由羅派の家老である調所広郷(ずしょひろさと)の一派も、久光を勧めたため斉興は次第に久光を後釜へ・・・と思うようになるのです。

ちなみに調所広郷は前年に密貿易をした責任を取って自刃してます。

が、斉彬の子供である5男2女のうち、長男以外が相次いで変死してしまいました。

斉彬派はこれを「お由羅一派の呪詛によるものだ!」と憤激しだしたのです。そしてお由羅派の暗殺計画をたてたのです。

でもコレがお由羅派にバレてしまい、斉彬一派の40人以上が処刑されまくるという大疑獄事件に発展したのです。

ここで斉彬派が幕府に申し立てをし、幕府は山積みとなっている外交問題や内政問題のためにも、英明名高い斉彬を次期当主にするように斉興に隠居を勧めたのです。

この時に幕府で斉彬の味方をしたのが老中である阿部正弘でした。そのため2人はとても仲が良くなるのです。

幕府から隠居を勧められた斉興は仕方なく隠居し、斉彬を次期当主としたのでした。

お由羅派の野望は消えたのです。
1850年10月 高野長英 江戸潜伏中に自害
蛮者の獄で高野長英は小伝馬町の牢屋に入れられました。3年入った頃には牢名主になるほどの人望を集めました。

入獄6年たった頃火事が起こった時に脱出。額を焼いて人相を変え、逃亡生活を続けました。

そんな中、宇和島藩主である伊達宗城(むねなり)が、長英の書いた本「戊戌夢物語」を読み「長英という人物、一度会ってみたい」と思うように。

側用人が江戸に隠れて逃亡生活を送っている長英を知っていたので、長英をスカウトし、宇和島へ連れて行き伊達家へ仕えました。

そこで砲台の図面を書いて暮らしましたが、3年たつと江戸にいる妻子に会いたくなり、江戸に戻ったのです。

伊達家を辞める時、宗城は短刀をプレゼントしました。

そして江戸へ戻り青山に隠れていました。

そんな中、薩摩藩からオランダ語で書いてある兵書の翻訳を頼まれ、すらすらと訳しちゃいました。

長英が翻訳した本を藩主が人々に見せたところ「こんな難しいオランダ書を訳せるだけの者は長英以外いない!」ということから、長英が潜伏していることがバレてしまったのです。

長英の隠れ家に幕府の役人がやってきました。

長英は伊達宗城から貰った短刀で役人に斬りつけ、自らもその刀で喉を突いたのです。長英47歳でした。

長英が逃亡生活の中で書いた本は、勝海舟・佐久間象山・橋本佐内らに多大な思想影響を与えることとなります。
1850年12月 大親分 国定忠治(くにさだちゅうじ)処刑
忠治は1810年上州佐位郡(群馬県)国定村の農家の長男として生まれました。

家は裕福な方だったんですが17歳の時に人を殺してしまい極道の道へ

縄張りのために手段を選ばす子分を集めてはケンカの毎日をすごしていました。25歳の時に子分のケンカに巻き込まれまたも殺人。手配を受ける身となってしまいました。

33歳の時に賭博をオープン

が、子分で甥でもある坂割浅太郎がやってこない。

不思議に思いながら賭博を続けていると、なんと役人の手が入り忠治はやっとこさ逃げることができた。

忠治は役人に密告したのは浅太郎の叔父である中島勘助に違いないと、浅太郎を呼び「もしお前がチクったのでないというなら勘助の首をとってこい!」と命令しました。

浅太郎は身の潔白のために寝ていた勘助と4歳の子供まで殺害し、首を持ってきたのです。が、この事件がきっかけとなり忠治の追求が一段と厳しくなってしまいました。

困った忠治は赤城山の隠れ家を出るが、途中関所で役人を脅して逃げている。そして本妻のおつると妾のまち・おとくの元を転々とし、役人の目を逃れる生活に。

忠治がこれほど役人の目をうまくかいくぐっていたのにはワケがあります。忠治は地域住民に好かれていたのでした。天保の大飢饉の時に賭博で得た財産で貧しい人々に施しをしたりしていたのでした。

が、41歳の時に妾のまちとエッチの最中に脳内出血で倒れちゃったのです。それが原因で半身不随となりました。

忠治は一番可愛がっていた「まち」と余生を過ごそうとするが、まちは「お断り」されてしまい、正妻のおつるに引き取りにきてよね!と連絡。

が、おつるも「妾と寝ていて倒れた亭主を誰が引き取るか!」と拒否。仕方なくもう一人の妾であるおとくに連絡するが、おとくも拒否しちゃったのです。

さらに可哀相なことに子分の誰一人として引き取り手がおらず、しかたなく山中に小屋を建てて入れておくか・・・ということに。

が、役人に見つけてくれと言ってるようなものなので困ってしまいました。

すると西野目宇右衛門というのが「俺んちにかくまう」と言ってきました。

これは善意ではなく、自分の忠治と一緒に賭博で稼ぎまくっていたので、忠治が捕まったったら自分も危ないかも・・・と思ってのことでした。

忠治は宇右衛門の家の薄暗い土蔵の中に押し込まれた。自分の糞尿にまみれながらミジメな生活に。ここで薄情な家族や子分を恨んだことでしょう。

やがて忠治が匿われているという噂が広がり、とうとう役人に捕まってしまい江戸へ護送されるのです。

あまりにも罪が多いため「磔」となり処刑されてしまったのです。

1851年2月2日 島津斉彬 29代薩摩藩当主となる
お由羅騒動を経て、やっとこさ当主となった斉彬。すでに43歳になっていました。

藩主となってからの斉彬の動きは目まぐるしく、船を造ったり大工場群を造ったり。

また老中阿部正弘と相談して「日本の船にも目印となる国印を掲げたほうがいい」と持ちかけ、日の本の国にふさわしい「日の丸」にしてはどうか?と提案。

斉彬と仲の良い水戸藩の徳川斉昭も「それはいいアィデアだ!」と大賛成し、幕府は日本の国印を「日の丸」としたのです。

正式に日本の国旗として寸法などが決められるのは明治3年(1870年)になります。

斉彬の目はすでに「世界」に向いており、西郷隆盛などは斉彬に抜擢され、斉彬を尊敬し動き回ることとなるのです。

斉彬の腹心 西郷隆盛
西郷隆盛は1827年12月7日に鹿児島の加治屋町(かじやまち)で生まれました。

貧しい下級武士で長男である隆盛の下には6人の弟妹がいました。7人兄弟で数枚の布団に重なって寝ていたという貧乏ぶりでした。

茶碗の数も足りなくって、先に食べた人の茶碗を使って次の人が食べるというビンボー大家族でした。

この貧乏大家族と仲が良かったのが下級武士仲間の大久保利通大山巌ら。面倒見のいい隆盛はビンボーなのに仲間を呼んで食事したりしていました。

隆盛は子供の頃にケンカした時、右ひじを怪我してしまい腕が完全に曲げられなくなりました。

そのハンデを覆すために勉学に精を出しました。そこを薩摩藩主(この頃はまだ藩主じゃないよ)である島津斉彬に見出され「御庭方」に抜擢されたのです。

この時、隆盛は藩政の腐敗・堕落ぶりを島津斉彬に直接手紙に書いたのです。

これを読んだ斉彬は隆盛を城に呼び出しました。

そして「お前の言いたいことはよくわかるが、お前の手紙は怒りだけをぶちまけているだけだ。どうすればいいかという解決策を何も書いていない。それではだめだ。お前のその目を世界に向けろ」と言い、「私は近く江戸に行く。そのときお前もついてこい。御庭方に任命する」と言ったのです。

隆盛は突然の抜擢にビックリ!

御庭方というのは斉彬の私用の秘書のようなもの。そしてこの時に優れた開明君主であった斉彬に大きな感化を受けたのです。

また斉彬も賢い隆盛をとても気に入り、水戸の藤田東湖戸田蓮軒などの一流の人物に接すよう計らったのです。

特に隆盛は藤田東湖に対しては「世の中にこんな人物がいたのか!」と驚くほど。

藤田東湖は隆盛の怒りをどこに向ければいいのかを教えてくれたのです。

橋本佐内はそんな隆盛を見て「あいつは単細胞だな。すぐに感心する」と隆盛のことを感激バカと笑っていました。

が、隆盛はそんな橋本佐内のコトも尊敬していたのです。

ちなみに24歳の時に初めて結婚。が、どうやら隆盛の3人の妹達と気が合わず2年で離縁。

当時は斉彬と弟の久光の間で後継ぎ問題が長い間続いていました。隆盛はそのとばっちりを受け2度も島流しになってます。

ですがそういったトラブルを乗り越え、斉彬の意思を受け継ぐ重要な人物となっていくのです。

ちなみに身長が180センチで体重が110キロあったらしい。写真が大嫌いで、今残っている隆盛の絵のモデルは弟という説があります。

西郷ドン 誠忠組(せいちゅうぐみ)を結成
また、西郷隆盛はこの頃「誠忠組」という若手勤王グループを結成していました。

リーダー格として西郷どん。他に、大久保利通など同じ加治屋町の若者が参加。
1851年5月 佐久間象山 江戸に砲術塾を開く
佐久間象山は幼い頃からケンカに明け暮れ、散歩行ってくる!と言ったきり何日も家に戻らなかったり、6歳のころに四書をマスターし、近所の子に教えたりとなどひょうひょうとした子供でした。

象山の父は松代藩に務めている下級武士でした。

14歳の時に松代藩主である真田幸貴が佐久間家を訪ねた時、当時14歳だった象山を見てその才能を見抜き江戸に行かせ学問を学ばせたのです。

象山は江戸で梁川星厳(せいがん)藤田東湖(とうこ)佐藤一斎・渡辺華山らと交わり学問に磨きをかけたのです。

1839年には神田お玉ヶ池に私塾である「象山書院」を開いて、多くの門人を集めました。この時象山29歳でした。

1842年には藩主の真田幸貫が海防掛老中に抜擢されると、象山は海防問題を研究して「海防八策」を提出。

勝海舟も名高い佐久間象山に是非会ってみたいと訪れています。そして象山は勝海舟の妹・お順と結婚しました。

この年に松代藩邸に私塾を開き砲術を教えることに。

入門者は120人となり、その門人には吉田松陰・勝海舟・河合継之助・坂本竜馬もいました。特に吉田松陰は佐久間象山に多大な影響を受けることになります。

吉田松陰は「すこぶる豪傑卓異の人だ」と激褒め。

西郷隆盛は大久保利通へ出した手紙に「学問と見識においては、象山は抜群であった」と書いたほど。

象山は身長188センチもあり、一見西洋人に見える風貌。ヒゲも威厳をみなぎらせまくりでした。

非常に傲慢な態度だったので、嫌われることも多かった。

まためちゃくちゃ清潔好きで1日に2回下着を変えてたらしい。

ちなみに鳥居耀蔵とめちゃくちゃ仲の悪い江川太郎左衛門に砲術を学んで、みずから大砲を設計したんだけど、これが大失敗!それを「作った奴が下手だったんだぁ!オレの設計に間違いはなぁい!」と激怒。勝海舟は「象山ほど物知りは見たことないけど、なんせホラ吹きで困るよ・・・」と後に語っていました。

1851年 近藤勇 土方歳三と出会う
歳三は現在の東京都日野市の豪農の五男坊(末っ子)として生まれました。

母が妊娠中に父を亡くし、歳三が5歳の時にその母も死んでしまい、年の離れた兄夫婦に育てられました。

10歳の頃に上野の呉服屋である松坂屋に奉公に出されました。

当時松坂屋に奉公に行けるなんてなかなかできることではありませんでしたが、商人向きではなかったらしく長く続きませんでした。

歳三はその顔の良さから、そこにいるだけで女性が寄ってきたため、それがイヤで辞めたそうです。

20歳を過ぎた頃から家に伝わっている「石田散薬」を売り歩きながら剣の道を志ざすことになりました。

天然理心流の出稽古先である佐藤彦五郎の道場で剣を習い始めた歳三は、遊びに来た近藤勇と出あったのです。

勇より一つ年下の歳三と勇はとても気が合い、兄弟のように仲良くなりました。

ですがこの頃の歳三はまだ家業を手伝っており、試衛館に入門するのは8年後となります。

また「石田散薬」は打ち身や捻挫に効く薬で、お酒と一緒に服用。のちに新撰組の常備薬となります。

1852年 10歳の沖田総司 試衛館に入門する
奥州白河藩の武士である父・沖田勝次郎の長男として生まれました。姉に光ときんがいます。

総司が生まれた頃の勝太郎の身分は武士でありながら最下層でした。ちなみに、父は1845年に死去。

総司は姉の光に養われ、この年試衛館の内弟子となったのです。

ここで初めて近藤・土方と出会ったのです。

総司は住み込みで入門しました。

当時は三大道場と言われる玄武館・練兵館・士学館が大人気でした。天然理心流はマイナーで、経営状態はあまり良くありませんでした。

総司の剣の才能は素晴らしく、19歳で免許皆伝となり、近藤勇・土方歳三を唸らせるほどの天才ぶりでした。そして塾頭になるまでの腕前となったのです。

その天才ぶりは、玄武館で学んでいた藤堂平助や山南敬助も子ども扱いされるほどでした。

1852年7月 ジョン万次郎(中浜)12年ぶりに帰ってくる
日本人で初めて北米大陸に足を踏み入れたのが中浜万次郎。

1841年に15歳の万次郎は漁師仲間4人とと小舟で土佐中浜から漁に出ました。

ところがシケに遭遇。船は黒潮に乗り東へと流されてしまったのです。

万次郎らは10日間小舟で漂流し、八丈島よりも遠い「鳥島」に漂着しました。

島で5人は海草や鳥を食べ飢えをしのぎ、なんと143日も過ごしたのです。

そこへ運のいいことにアメリカの捕鯨船が通りました。万次郎らは救助されたのですが、日本は鎖国中だったためアメリカの船が入港できなかったのです。

そこでその船の船長であるホイットフィールド船長は5人をハワイのホノルルに下ろしました。

ところが!一番年少である万次郎は「この船の残りたい!」とホイットフィールド船長にお願いしたのです。船長はOK♪と快諾してマサチューセッツ州まで連れて行きました。

ホイットフィールド船長は万次郎のことをとても可愛がり、英語・数学・造船・測量・航海などの技術を受けさせたのです。学校にも行かせてくれました。

今まで何の教育も受けていなかった万次郎の知識吸収力はめちゃくちゃすごく、19歳にして航海者のバイブルである「新アメリカ航海士」を読破しちゃいました。そして万次郎は捕鯨船の航海士となり世界の海を巡りました。

1850年万次郎24歳の時、一緒に漂流した仲間とホノルルで再会しました。仲間達は日本に戻りたい・・・ということで、2人の仲間を伴って日本へ帰ることにしたのです。

万次郎らは琉球(沖縄)に到着しました。

琉球は薩摩の統治下だったため薩摩へ連れて行かれました。

藩主島津斉彬は万次郎の博学ぶりや持っていた英語の航海書を見逃さず、47日間に渡って万次郎から知識を得ました。

その知識は西郷隆盛らに伝えれることになります。

さらに島津斉彬は万次郎に船を作らせたり、船大工たちに技術を教えるよう万次郎に命じたのです。

万次郎はというと、自分の置かれている政治的立場が全くわかっていなかったので、請われるままに誠実に自分の知識を教え込みました。

そして万次郎から学ぶものがもうなくなると、長崎へと移され9ヶ月もの牢屋生活を送らされたのです。そして長い間の取調べを受けたあとやっとこさ土佐に戻ることができたのです。

この時万次郎26歳でした。

土佐藩主山内容堂も、万次郎の知識を吉田東洋ら土佐の藩士に70日に渡って教えるように言いました。

そして万次郎を最下級の士分に取り立て、高知城下の教授館の職員となったのです。

この時万次郎が教えた生徒には岩崎弥太郎(三菱の創設者)や後藤象二郎がいます。

14歳だった後藤象二郎は熱心に万次郎の話しを聞き、万次郎から「万国地図」をプレゼントされ大喜びしました。

そしてペリーがやってきたことにより、新しい時代へ動き出そうとしていた日本にとって万次郎のような人間は最も必要となっていくのです。そして幕府に呼ばれ江戸に入ることとなるのです。

ちょっと前にロシアのラスクマンに連れられて来た大黒屋もこの頃だったら少しは報われたかもしれないのにね。

土佐藩の身分差別制度 上士と下士(郷士)
土佐藩の藩主は山内容堂(やまうちようどう)です。

山内の祖である山内一豊は妻 千代のへそくりで馬を買い、それが信長に認められ出世していった男ですが、関ヶ原では家康につき、西軍について負けた長宗我部家を追い出して土佐をゲットした男です。

そのため山内家は徳川家のお陰で掛川6万石から土佐24万石という出世をさせてもらったため、徳川家には頭が上がらず、250年以上たった容堂の代までその伝統(?)は受け継がれていました。

そのため山内容堂は「佐幕派」であり続けるのです。

ここで土佐に「上士(じょうし)」と「下士(かし)」という身分差別ができてしまうのです。

もともと土佐は長宗我部家でした。

長宗我部盛親は関ヶ原で西軍につき、所領没収となり、大阪の陣では豊臣方につき、とうとう処刑されてしまったのです。

代わりに土佐に入った山内一豊は、長宗我部家の遺臣を全てクビ(クビならマシ。殺された家臣もわんさか)にし、徹底的な身分差別制度を導入したのです。

長宗我部の遺臣には「下士(かし)」として農地開発を強制的にやらせました。

そして山内家の家臣を「上士」としました。

郷士は道で上士に出あった場合は雨だろうが何だろうが必ず土下座をするように命令し、郷士は上士を斬り捨ててもOKとしました。結婚も禁止です。

この身分制度はこの頃も続いており、郷士が藩の政治に加わることは絶望的なことでした。

正月に登城する時の服装も、上士は麻裃に絹の草履。下士は紙製の服に紙製の草履でした。

下士は上士に対して不満を持ちまくっていて、徳川に対する恩義はまるでなかったのです。

対して上士は、自分達がこのような身分でいられるのは、徳川が土佐を与えてくれたおかげってことで、徳川幕府に対して恩義を感じているのです。

「郷士」というのは「下士」のこと。下士にも「旧族郷士」とか「町人郷士」とかがあります。

藩に絶望していた郷士出身の志士達は脱藩をし、京都や大坂などに行き二度と故郷へ帰ることはなかったのです。

その郷士出身に坂本竜馬・中岡慎太郎・武市半平太がいたのです。

この頃の長州藩は??藩主 毛利慶親
藩主の毛利慶親(よしちか)は幼い頃家督を継ぎました。のんびり屋さんのため、家臣が何を言っても「そうせえ」と言うばかり。

また長州藩は朝廷と特別な関係にありました。

というのも祖である毛利元就が戦国時代に朝廷に多額の献金をしていたり、毛利元就の子孫は大江広元につながり血統が正しかったため、徳川幕府になってからも毛利家は朝廷に対し献金をするのが儀礼的なものとなっていたのです。

長州藩は比較的言論の自由があり、毛利慶親は藩主でありながらあまり藩政の中心にいることはありませんでした。

この頃の佐賀藩は??藩主 鍋島閑叟(かんそう)
藩主である鍋島閑叟は長州の毛利慶親とは正反対のタイプで、むちゃくちゃ独裁者でした。

長崎警備を担当していた藩だけあって外国事情に詳しく、近代科学技術力はこの時代ダントツでした。どこよりも早く藩の軍を洋式にさせ、小型軍艦まで作ってました。閑叟がその気にさえなれば幕府だろうが他藩であろうが佐賀藩だけでやっつけれちゃうほどの軍事力を持っていました。

ですが閑叟は藩政以外のことには徹底的に無視しちゃってたのです。

そのため佐賀藩の志士達は幕末に活躍するチャンスを逃しちゃうんですけどネ。