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幕末その16 慶応4年 9月まで

4月12日 榎本武揚脱走!!
大鳥圭介 旧江戸幕府軍を連れて去る
海舟焦る!そして走る!
爆発寸前の彰義隊
彰義隊 内部分裂!
江戸は大混乱
松平容保はどうしてる??
会津家臣 西郷頼母(さいごうたのも)ビックリ!!
仙台藩 「なんか、会津藩が気の毒にじゃない?」
奥羽の諸藩 嘆願書を調印
奥羽の嫌われ者 世良修蔵
4月19日 世良修蔵 「奥羽皆敵」
世良暗殺!
奥羽全面戦争へ!!!
会津藩と庄内藩
近藤勇 捕らえられる
4月25日 近藤勇処刑
大村益次郎江戸へ到着
長岡藩・河井継之助
5月2日 小千谷会談(おじやかいだん)
河井継之助 急展開
5月3日 奥羽列藩同盟結成
5月10日 北越戦争 榎峠(えのき)の戦い
江戸っ子の意地とプライド
大村益次郎の作戦
戦は白昼堂々と行う!
5月15日 上野戦争
彰義隊 天野八郎
5月18日 長岡城陥落
河井継之助粘る!!
会津の鬼官兵衛
5月19日 慶喜の処分が決まる
遊撃隊の動き
5月26日 箱根戦争
5月27日 人見、涙する
5月30日 沖田総司病死
会津戦争
7月29日 二本松の戦い
8月16日 河井継之助 死す
8月19日 榎本武明 江戸湾を去る
榎本武揚 北上する
会津藩 苦境に立たされる
新政府軍 十六橋突破
白虎隊と会津の女
白虎隊動く
女子とて立ち上がってみせまする
娘子隊結成
8月22日 白虎隊二番隊散り散りに
8月23日 新政府軍 会津城下へ!!
白虎隊 新政府軍と戦う
白虎隊 飯盛山へ
お城が燃えている・・・・
生き残った白虎隊士 飯沼貞吉
西郷頼母一族 自決
城下では、次々と自刃
8月25日 中野竹子戦死
無差別砲撃は続く
愚直な鬼官兵衛
9月22日 午前10時  会津落城


※ここでは、官軍(薩長など)を、「新政府軍」で統一します


幕末の嵐その16 慶応4年9月まで
4月12日 榎本武揚脱走!!
江戸城の受け渡しも無事終わり、慶喜の時代は終わりを告げました

が、幕臣たちは「徳川の時代」が終わったことが信じられなかったのです

その一人が、榎本武揚でした

軍艦の引渡しを「絶対いや!」と拒み続けていた榎本武揚が、開陽丸他八隻の軍艦を率いて品川沖から脱走してしまったのです

さすがの勝海舟も仰天しました

江戸無血開城の条件の一つに「軍艦を全て引き渡すこと」という条件があったからです

その軍艦全てを、榎本武揚が連れて行ってしまったのです!!!
大鳥圭介 旧江戸幕府軍を連れて去る
さらに別のところでも動きが!!

大鳥圭介が脱走したのです

大鳥圭介は幕府で洋学教授&兵隊頭取でしたが、自らが教えた伝習隊500人ばかりを率いて江戸を脱走してしまったのです

というのも、ホントは江戸の様子を伺って、新政府軍の隙を突いて江戸に突入しようと思っていました

が、それはムリだな・・・と感じると、新撰組の土方歳三・会津藩の秋月登之助・桑名藩の巽勘三郎らと合流し、北へと向かっていったのでした


海舟焦る!そして走る!

次から次へと起きる問題に、海舟はてんやわんや

とりあえず榎本武揚らが千葉の館山にいるという情報をキャッチすると、すぐさま馬を飛ばして館山へ

榎本にとって勝海舟は長崎海軍伝習所の時の先輩なので、勝海舟が単独でやってきて必死に説得すると、しぶしぶ品川まで引き返しました

軍艦は半分新政府軍にすぐ引き渡されましたが、残りはいまだ榎本武揚が管理することに

新政府軍が慶喜を殺害したりしないよう、江戸湾でにらみをきかせることとなるのです

軍艦は何とかなりましたが、彰義隊はもはや勝海舟の手には負えなかった

最初は少人数だったのに、いつの間にか巨大な組織に膨れ上がっていたのです

「小さいうちに潰すべきだった・・・」と、後悔してももう遅かったのです

爆発寸前の彰義隊

勝海舟や大久保一翁は、これ以上彰義隊を上野の山にとどめておくのはヤバイ!!と思っていました

何度も解散命令をだしたんだけど、全然効果なし

江戸城が明け渡されてからも、続々と彰義隊は増え続け、武装集団と化していたのです

さらに当時上野山の有名人・覚王院義観(かくおういんぎかん)までもが彰義隊の味方に

義観は、山岡鉄舟のように慶喜を助けてくださいと駿府にいた西郷隆盛にお願いしに行ったことがありました

が、その時西郷隆盛は義観をかなり軽くあしらったようで、それ以来「東叡山寛永寺のプライドを傷つけられた!!」と、西郷らに対してすごい恨みを持っていたのです

義観のもとに「彰義隊を解散させろ」と説得しにいっても「お前のような軟弱にして恩知らずは徳川家の賊臣じゃ!臆病者めが!!」と怒鳴り返される始末

もうどーにもなりませんでした

そんなお偉いさんである義観までもが彰義隊のパトロンになっちゃったもんだから、彰義隊はまさに巨大化し、爆発寸前だったのです

ということで、新政府も「彰義隊をこのままにしておくわけにはいかない」ということに

そしてついに、5月15日に彰義隊を討伐することを決めたのです

彰義隊 内部分裂

彰義隊の内部では、実は二つの派閥ができていました

一つは慶喜のいない江戸にいてもしょうがないという渋沢成一郎を中心とした一派

そしてもう一つは断固として江戸にとどまり、新政府軍と戦ってやる!という天野八郎を中心とした一派

この二つはどちらとも譲らず、結局渋沢らは隊をぬけていったのです

そして天野八郎らは江戸にとどまり、新政府軍の兵隊をみるなりケンカをふっかけるように

さて、そんな天野八郎のもとに、旧幕臣竹中重固(しげかた)率いる「純忠隊(じゅんちゅうたい)」や、関宿藩を脱走した「万字隊(まんじたい)」・高田藩を脱走した「神木隊(しんぼくたい)」なども加わり、旧幕臣の意地をみせようと気勢をあげることとなりました

で、徳川家に対する処分は、恭順の姿勢をみせてから決定するということになっていたので、彰義隊らが上野にたてこもっているということは、勝海舟にとってはとーーーっても困ったことだったのです

江戸は大混乱

とにかく色んな人が彰義隊に集まりまくりでした

さらに「江戸は危ない」ってことで、旗本たちは自分の領地に引きこもっちゃっていたので、強盗が出まくり

略奪の嵐で、女性はすごい大変でした・・・・

彰義隊は「彰」の提灯を持って市中見回りをしていたんだけど、新政府軍を見るたびに挑発しまくっていたんで、市内は大混乱

新政府軍はというと、江戸市民の怒りを買うのを恐れていたため「江戸でケンカをした場合は罰する」というお触れが出ていたので、じっとガマン・・・

かなり怒りが溜まっていたと思われます

が!!!それら全てが5月15日の官軍総攻撃によって精算されることとなるのでした


松平容保はどうしてる??

会津藩主の松平容保は、慶喜に江戸を追い出された後、謹慎生活を送っていました

慶喜と同じく、自分には朝廷と戦う気がないというところをみせておりました

が、会津といえば新撰組などを使い、倒幕派の志士たちをさんざん苦しめました

その会津がいまさら謝ってきたところで、新政府としては許すわけにはいきませんでした

そこで新政府は、新たに「奥羽鎮撫総督府」を作り、総督に九条道孝(くじょうみちたか)参謀に世良修蔵(せらしゅうぞう・長州藩)と大山挌之助(薩摩藩)の3名を任命し、奥羽に派遣したのです


会津家臣 西郷頼母(さいごうたのも)ビックリ!!

さて、慶喜に「江戸から出てけ」といわれた松平容保の会津藩についてちょっと説明しましょう

会津藩主の松平容保は、京都守護職を任命され京都へ向かうことになりましたが、これに大反対したのは家臣の西郷頼母

「絶対そんな損な役職を引き受けてはいけません!!」と説得したものの、将軍のお願いは断れず容保は京都へ

絶望した頼母は引退してしまいました

以後、会津藩は京都で活躍をしますが、慶喜がいきなり戦うのを放棄してしまった

そして容保を大阪城から無理やり江戸に連れて帰ってきちゃった

京都や大阪で必死に戦っていた会津藩士は見捨てられてしまい、慶喜の行動によって内部はボロボロに

さらに慶喜は「あとは知らないから。勝手にして」とばかりに、江戸から容保を追い出してしまったのです

困ったのは会津藩

慶喜に頼まれたからここまで危ないことをしてきたというのに、一番危険な時に「勝手にして」と捨てられてしまった

頼母の言うとおり、会津藩のやったことは全て報われなかったのでした

ここで引退した頼母がもう一度出てきた

ここまできたらもう朝廷にひたすら謝り、会津藩が戦う気がないということをアピールしまくった

が、長州藩は会津藩をかーーなーーり恨んでた

慶喜は仕方ないから許した。ケド、会津藩だけはどーしてもぶっ潰したかったのです

仙台藩 「なんか、会津藩が気の毒にじゃない?」

新政府は巧妙な手を使ってきました

それは同じ東北の仙台藩に会津藩を討たせようとしたのです

総督府は仙台藩へ入り、仙台藩と米沢藩に会津を討つよう命令しました

が、二つの藩はご近所のよしみもあり、どっちかというと会津藩に同情的

「あんなに会津も謝っているんだし、許してあげればいいのでは・・・」という気持ちだったのです

仙台藩は会津に家老を派遣して、嘆願書を作成させました

仙台藩から連絡をもらった松平容保は、家老の西郷頼母に嘆願書を作成させ、仙台藩・米沢藩を通して、その嘆願書を総督府に届けさせることにしたのでした

奥羽の諸藩 嘆願書を調印

会津からの嘆願書を受け取った仙台・米沢は、奥羽の諸藩に対して、会津を助けるための会議を白石城で開きましょうと連絡

この呼びかけに対し、盛岡藩・山形藩・三春藩・一関藩など続々と白石城へ集まってきました

そして奥羽の諸藩が、会津に対して寛大な処置を求める嘆願書に調印したのです

この嘆願書は奥羽鎮撫総督の九条道孝に提出されました

が、参謀の世良修蔵が大反対し、この嘆願書は握りつぶされたのです・・・・

奥羽の嫌われ者 世良修蔵

世良修蔵は長州藩士で、最初は奇兵隊の書記をしておりました

そして今回奥羽鎮撫総督府の参謀として派遣されたのです

が、この33歳の男、ちょっとばかし性格が悪かった

完璧に奥羽の人たちを田舎モノと馬鹿にしており、態度がやったらデカかった

で、仙台藩らに「会津を討て!!」と命令するも、仙台藩らは「かわいそうだから」と、嘆願書を書いてきた

これに世良は激怒!!!

ふざけるな!!と、会津藩が謝罪するならこうしてもらう!と条件をだしてきた

その条件とは

・会津藩主・松平容保の斬首

・嗣子若狭(わかさ)は監禁

・会津城開城

と、徳川家に対する処分よりもひどいものだったのです

これにはさすがに仙台藩らもムッとしました

会津藩が気の毒なのと同時に、この偉そうな男に対して憎しみを持つようになってきたのです


4月19日 世良修蔵 「奥羽皆敵」

偉そうな世良にムっとしていた奥羽諸藩

が、この日事件が起きました

世良は福島の旅籠「金沢屋」に宿をとっておりましたが、自分たちの仕事が仙台藩らによって邪魔され少しも成果が出ず、奥羽の諸藩らもいつまでもぐずぐずしているのに腹を立てており、新庄にいるもう一人の参謀・大山挌之助に手紙を書きました

その内容は「奥羽はまだ方針が決まんないんだよ。弱小二藩(仙台藩・米沢藩のこと)は全然たいしたことないけど、会津がここに加わると厄介だよな。会津藩の嘆願書の内容をOKしたら、1・2年のうちに奥羽の諸藩は朝廷にとってためにならない存在になる。
はっきりいって奥羽は全部敵だ」

こう書いた手紙を福島藩士に渡し、「これを届けてくれ。あ、この手紙は絶対に仙台のヤツラに漏らすなよ」と言ったのです

この言葉が福島藩士に疑惑を持たせることになりました

藩士は、この手紙を仙台藩士の瀬上主膳(せのうえしゅぜん)に密かに渡したのです


4月19日 世良暗殺!!

世良の手紙を開封した仙台藩は激怒しました

たいしたことないというのは自分たちの藩なのです

世良に対する恨み爆発し、「もう許すわけにはいかない!!!」と、仙台・米沢藩士による暗殺団を作りました

そして宿にて飯盛女を抱き、素っ裸で寝ている世良に向かって襲い掛かったのです

従者が一人もいない状況だった世良は、すぐさまピストルを向けましたが不発

血だらけのまま二階から飛び降りましたが捕らえられました

河原へ引きずられた世良は、うずくまって震えており、命だけは助けてくれと懇願

が、暗殺者たちは弁解の余地も与えず、その場で首を刎ねたのです

ちなみに・・・・世良の首は福島市内に埋葬されました

明治二年に長州藩士らによって、墓碑が立てられ、「○月○日賊によって殺される」と書いてあったんですが、この「賊によって」の箇所が石で削られたそうです

世良に対する土地の人の反感がそうさせたんでしょう

東北ではめっちゃ嫌われた世良ですが、地元では評価は悪くない人だったそうです


奥羽全面戦争へ!!!

世良の血祭りをきっかけに、奥羽は新政府軍に対し全面戦争をすることになりました

世良の暗殺によって、今まで迷っていた奥羽の諸藩の藩論もまとまったということになります

とにかく、新政府への徹底抗戦をする!!というものに決まったのでした

会津藩と庄内藩

ちなみに、会津藩は一応軍備強化をしておりました

もちろん、ぜーったいに追討軍がやってくるだろうと読んでいたからです

武器商人から武器を購入し、今までの兵法を廃止し、洋式化にしておりました

ここで年齢による編成が整えられました

白虎隊・・・16歳〜17歳
朱雀隊・・・18歳〜35歳
青龍隊・・・36歳〜49歳
玄武隊・・・50歳以上

このほかに、敢死隊(かんしたい)250人など、色んな隊を編成

会津藩が軍備を整えている間に、なんと庄内藩も新政府軍へ反抗姿勢を示しておりました

新政府軍は会津藩の次に庄内藩をやっつけようとしており、これに伴い会津藩と庄内藩では協力関係ができており、4月10日に会庄同盟が結ばれておりました

そこへ今回の奥羽諸藩の新政府軍への宣戦布告となったのです


近藤勇 捕らえられる

近藤勇と土方歳三は千葉の流山にいました

ここで再起をはかるために隊士を募集しておりましたが、新政府軍が近くまで来ているというニュースが流れており、ほとんど集まりません

近藤は、「のう土方、われらは最後の武士として士道を全うせねばのう」と言っていました

この頃から二人の間には「死」が心の中に芽生えておりました

そしてとうとう、「流山に賊軍がいる」という情報をキャッチした新政府軍の香川敬三隊らが、近藤たちがいた味噌屋を包囲

近藤はここで切腹をしようとしました

が、土方が「まだ早い!!ここは運を天にまかせよう!!総督府へ出頭し、我らは鎮撫隊であって、官軍へ刃向かう気はないと説得すればいい!!死ぬのはいつでもできる!!やるだけやろう」

こうして近藤は、大久保大和と名乗り出頭したのでした・・・


4月25日 近藤勇処刑

が、新政府軍の中に新撰組時代の近藤の顔を知っている人がいた

高台寺党の生き残りとして薩摩藩邸に身を隠し、新政府軍の一員となっていた人がいたのです

そして、「こいつは大久保大和ではない。新撰組の近藤勇だ」と、正体を見破ったのです

見破られたことを知った土方は、流山を脱出し勝海舟に面会を求め近藤を助けてもらえるようお願いしにいきました

が、勝海舟らは江戸開城の混乱で大忙しで、とても近藤一人を助けている場合ではなかったのです

土方らが必死で勝海舟に面会を求めている間、近藤勇は板橋にて斬首されてしまったのでした・・・・

近藤は武士として「切腹」も許してもらえず、斬首という屈辱的な最期となったのです

35歳でした


4月 大村益次郎江戸へ到着

大村益次郎は長州の村医者の息子です

蘭学を学び、緒方洪庵の適塾で勉強後、宇和島の藩主伊達宗城(だてむねなり)にその才能を買われ、招かれておりました

おでこがめちゃくちゃ広く、無愛想だったため医者としては人気なかったようです

そんな益次郎が宗城の参勤交代に従い江戸へ行った時、桂小五郎らが益次郎の優秀な頭脳に気がつき、長州藩士として呼び戻したのでした

長州討伐の時も活躍し、軍略家としての才能も認められていました

その大村益次郎が、彰義隊を倒すために江戸へ呼ばれたのです

さてさて、送り込まれてきた大村益次郎は

「私にお申し付けになったうえは、誰にも口出しさせません。もし外からあれこれ言われるようなら、お受けしません」と、きっぱり言っておりました

長岡藩・河井継之助

ここに、独特の考えをもった男がいました

それが長岡藩の河井継之助です

継之助は慶喜が大阪城から江戸へ逃げたあと、すぐさま動乱の時代をどう生き抜けばいいか・・・と、考えました

そして考えた結果が、強力な武器で中立をつらぬく「長岡藩独立国」という第三の道を考えたのです

すぐさま長岡に戻り、米相場に目をつけ、とにかく色んな手段で軍資金を調達

そしてこの時期、まだ日本に三台しかないガトリング機関砲を二台買いました

ちなみにガトリング機関砲というのは、一分間で200発の弾丸が発射できる最新兵器

が、河井はこの兵器を戦争に積極的に使うつもりはなかった

河井の考えは「今回の戦いは旧幕府軍と、新政府軍の私闘にすぎない。それに巻き込まれては迷惑だ。だからどっちにも着かず、中立の立場をとる。もちろん中立なんぞ、新政府軍は許さないだろう。が、近代兵器で強化した軍隊を楯にすれば、新政府軍も簡単には手出しできないであろう」というものだったのです

そして河井は、あくまでも恭順の姿勢を示している会津藩に同情もしていました

なんとかこの戦いを中止させたいと思っていたのです


5月2日 小千谷会談(おじやかいだん)

中立を取る!!という長岡藩の態度に危険を感じた新政府は、北陸鎮撫総督軍を編成

黒田了介(薩摩藩)と山県有朋(やまがたありとも・薩摩藩)を参謀とし、北陸方面に派遣しました

これに対して河井は、長岡藩の中立を認めさせるため、そしてこの戦いを中止させるため、新政府軍に会談を申し込んだのです

そしてこの日、会談が行われました

新政府軍の代表は岩村精一郎(土佐藩)

河井は「わが藩は、新政府に反抗するつもりはない。が、藩論はまだ決まっていない。藩論を統一し、かつ会津や米沢の諸藩にこれ以上抵抗しないように説得するつもりだ。だからもう少し時間をいただきたい」と言いました

長岡藩が間に入って、内乱を回避しようとしたのです

が、相手が悪かった

新政府軍の代表である岩村はまだ22歳

生意気盛りの岩村からみれば、たった七万ちょっとの小さな藩の家老が何ができる!と言った感じ

河井の話しをまったく聞かず、とにかくお前の藩は、新政府軍に従うのか従わないのか?どっちなんだ!?ということだけを聞き、時間稼ぎもいい加減にしとけ!!といった感じだったのです

後に岩村は「本当の河井を知っていたら、彼を信じて談判のしようもあったかもしれない」と後悔しましたが、この時は、ただ単に「ちっぽけな藩の家老が馬鹿なこといいやがって」くらいにしか思わなかったのです

こうして両者は険悪なムードなまま、30分で交渉決裂したのでした

河井継之助 急展開

交渉決裂と同時に河井はすぐさま動きました

この会談が、長岡藩の運命を決定させたのです

もはや新政府軍は敵だ!!と、見極めた河井はすぐさま奥羽の諸藩に「われわれ長岡藩も奥羽同盟に入る」と、伝えたのです

戦うと決めてからの河井の行動には躊躇というものが全くありませんでした

最新兵器を持った長岡藩は、新政府軍にとって大変な敵となるのでした

5月3日 奥羽列藩同盟結成

世良による「奥羽皆敵」の手紙により、意思がまとまった奥羽諸藩

総督府に対し、「会津を討つことを拒否する!!」と伝えました

そして奥羽31藩の家老が仙台城に集まり、同盟が結ばれたのです

石高の多い藩だけちょっと書きますね

仙台藩・伊達慶邦(だてよしくに)62万石5千石

秋田藩・佐竹義堯(さたけよしたか)20万5千石

盛岡藩・南部信民(なんぶのぶたみ)20万石

米沢藩・上杉斉慶(うえすぎなりのり)15万石

弘前藩・津軽承昭(つがるつぐあきら)10万石

新発田藩・溝口直正(みぞぐちなおまさ)10万石

二本松藩・丹羽長国(にわながくに)10万石

長岡藩・牧野忠訓(まきのただくに)7万4千石



などなど、陸奥・出羽・越後らの藩が団結して、新政府と戦うことを決意したのです

そして諸藩は盟約書と新政府に対する建白書に調印

内容は「われわれ奥羽は、朝廷には忠誠を尽くすが、薩長政府には協力しない。鎮撫総督には従わない」という宣戦布告内容

ここに会津藩と庄内藩が加わり、東北の合計260万石の諸藩が新政府軍に牙を向けたのです

奥羽鎮撫総督府の九条道孝は孤立し、慌てて逃げていきました



5月10日 北越戦争 榎峠(えのき)の戦い

長岡藩の河井継之助は、新政府軍に占拠されている拠点を奪回しようと計画

まず長岡の南方にある榎峠を狙うことに

近くで新政府軍と戦っていた会津藩と桑名藩と協力して、榎峠を包囲し、新政府軍を追い払ったのです

山県有朋はこれを聞き、すぐさま駆けつけました

そこで岩村精一郎(河井と決裂した人ね)が、のんきにご飯を食べてるのをみてビックリ

こりゃこいつに任せておけないと、自ら指揮をとり、家臣に榎峠に連なる朝日山を攻撃し奪取するよう命令

が、ここでも長岡・桑名連合軍に撃退されてしまったのでした


江戸っ子の意地とプライド 

彰義隊に参加していた人たちは、「この世の名残に遊んでおこうぜ」という隊士も多く、花柳界隈は彰義隊士だらけに

死ぬ覚悟で遊びまくる人たちばかりなので、お金に執着する人がおらず、綺麗にそして派手に遊びまくった

遊女達に大人気にでした

そんな中、お風呂屋さんでも粋な江戸っ子がおり、「戦だろうが火事だろうが、江戸っ子が朝湯をやめるわけにゃいかねぇぜ」と、無料で銭湯に入らせたりしました

江戸っ子気質バリバリの人たちですね〜

大村益次郎の作戦

明日はとうとう上野を攻撃

大村益次郎は自分が決めた戦闘配置を発表しました

それをみて驚いたのが西郷隆盛

大村の作戦は、激戦が予想される正面の黒門口に薩摩兵ばかりを配置していたのです

西郷隆盛は「これは薩摩の兵を皆殺しにするおつもりですか!!」と、大村を睨みつけました

この西郷の怒りに有栖川宮(総大将ね)はたじたじ

すると大村が「西郷さん、薩摩の兵を皆殺しにするばかりか、貴方の命も戴くつもりであります。さようご承知ください」

大村にしてみれば、強い薩摩兵を激戦区に配置するのは当然のこと

戦いに勝つ為には私情ははさまない

きっぱりと西郷の意見をはねつけた大村に対し、西郷は「はっ。さようでございますか。恐れ入りました」と、引き下がったのです

これにムッとしたのが、今まで西郷とともに作戦を練っていた海江田信義(有村俊斎)

今まで頑張って戦ってきたのに、いきなり大村益次郎なる人物が派遣され、いいようにされる

どっちかというと、「できる人間」には従うタイプの西郷隆盛とは違うタイプで、古参の志士として働いてきた海江田にとって大村の存在はめっちゃ腹ただしかった

この二人は連日激論をしてましたが、とうとう全部の権利を大村がゲット

コレが後の事件につながるわけです

このあたりはまた後ほど・・・・

戦は白昼堂々と行う!!

大村益次郎は、彰義隊を白昼堂々と討伐すると決めました

朝命による戦いは、夜襲よりも白昼に行った方がいいと判断

さらに彰義隊は規律で動く兵ではなく、義で動く兵である。夜襲はかえって戦線を拡大させ江戸を混乱に陥れてしまう

そうなったら江戸は炎に包まれてしまう。それだけは避けなければいけないというものでした

これに夜襲を主張していた海江田らは猛反発

が、結局大村の作戦通り行われることになったのでした

5月15日 上野戦争 

この日の朝六時ごろははげしい雨が降っていました

そんな中、上野の山を取り囲んだ新政府軍の砲声がとどろいたのです

神田あたりに住んでいた江戸っ子は、始まった!とばかりに、見物しようと走っていきました

が、まわりを新政府軍が見張っていて、追い払われてしまいました

大村は正面の黒門口・団子坂・本郷台に兵を配置し、三方向から包囲

東の三河島だけは逃げ口として開けておきました

戦いが始まると、黒門口は予想通りの激戦となりました

彰義隊も主力を投入しており、新手の兵を送り出して必死の防戦

ちなみにこの時、団子坂から攻撃するはずだった長州藩兵は、スナイドル銃の使い方がわからず大慌てという失態をしておりました

さて、この戦いにアームストロング砲を使用した新政府軍

最初の頃は命中率が悪く、不忍池にばかりバカンバカンと着弾しておりましたが、次第にちゃんと当るようになってきた

するとだんだん彰義隊の勢いが弱まってきたのです

お昼頃になると、勝敗は決まったも同然に

そして黒門口がとうとう破られてしまうと、彰義隊は逃亡者が続出

新政府軍は一気になだれ込んだのです

彰義隊は三河島方面へ逃げ込み、江戸は最小限の被害ですみました

全て大村の作戦通りに終了

何人死んだかははっきりしていませんが、500人ほどと言われています

生き残った彰義隊のメンバーの中には、榎本武揚の元へ行く者も何人かいました

こうして上野戦争は一日で幕を閉じたのです

彰義隊の「彰義」とは、正義を明らかにするという意味でしたが、心意気だけでは勝てなかったのでした・・・

彰義隊 天野八郎

隊長の天野八郎は、昼頃に「黒門口が危ない!」と聞いて、決死の突撃をしようとしました

が、誰も後についてきてくれなかったのです

こうなってしまうと、もう逃げるしかない

とにかく生き残り、再起にかけるしかない・・・・と、本所にある炭屋に逃げ込みました

が、炭屋に潜んでいることが見つかってしまい、とうとう捕らえられてしまったのです

その後、牢獄に入っていましたが、風邪を引いてしまい、そのまま息を引き取ったのでした

余談ですが、のちに天野八郎が芝居になり、天野が金魚屋の手代になっているという設定で作られたところ、彰義隊の生き残りが「天野はビクビクして町人に姿をかえるようなことはしない!!」と文句を言われたそうです


5月18日 長岡城陥落

山県有朋は、何とか今の状況を打破するべく考えてました

そして、三好軍太郎に長岡城を攻撃させることに

三好は霧が深いこの日、兵を2000人率いて長岡城へ突入したのです

これを聞いた河井継之助は、すぐさまガトリング砲を二門もって戦場へ駆けつけました

みずからガトリング砲を操作し戦いましたが、左肩に銃弾を受け一度城へ退きました

が、長岡城は平城のうえ、藩の精鋭部隊は榎峠に行かせてしまっている

長岡城に残っているのは15歳以下と50歳以上の兵だけ

これでは籠城して戦うことはできないと判断し、藩主の牧野忠訓を城から脱出させた後、本丸に火を放ったのです


河井継之助粘る!!

以後の河井は各地に散らばった藩兵を集合させ、歩兵・騎兵・砲兵を上手く訓練しました

本来なら長岡城が陥落した時点で、勝敗が決まるはずだったのに、河井は粘り強かった

その後も拠点となる町を奪回し、長岡に迫る勢い

新政府軍ではこれが大問題となりました

さらに、河井は奇襲作戦により長岡を奪回したのです

長岡の町は歓喜に包まれました

後に明治の陸軍を背負う山県有朋が何度も苦汁をのまされることとなったのです

この頃江戸では、西郷隆盛が薩摩に新兵募集までするほどでした

横浜にいた外国人たちも「おいおい、もしかしたら新政府軍は負けるかもしれないぞ」と噂するほどだったのです

会津の鬼官兵衛

河井継之助とともに新政府軍と戦っている男がいました

それが会津の佐川官兵衛です

官兵衛はものすごく豪傑な男

江戸詰めの時に、火消しとケンカするほどの問題児(江戸の火消しといえば、ツワモノ揃いですからね)

官兵衛はとても律儀で、会津のために頑張りますがちょっとガンコすぎるとこもありました

そんな官兵衛はあまりにも卑劣なやり方で会津を陥れた薩長や岩倉具視なんかが許せなかった

鳥羽伏見の戦いでは、ものすごい奮闘をするも肝心の慶喜が大阪城から逃げてしまった

官兵衛は最後まで大阪城に残り、ぎりぎりまで兵たちの負傷手当をしたりしていました

そして会津へ戻ってきた官兵衛は、河井継之助とともに戦うのであります

その戦いぶりはすさまじく「鬼官兵衛」と異名をとるほどでした


5月19日 慶喜の処分が決まる

この日、慶喜に最終的な処分が下されました

徳川家は駿府七十万石の一大名となり、慶喜に代わり田安家の徳川家達(いえさと)が本家をつぐこと

そして慶喜は水戸から駿府へ謹慎生活となったのです

水戸から駿府へ慶喜を警護していたのが榎本武揚

さらに新しい徳川当主の駿府入りも見届けました

遊撃隊の動き

江戸開城に反対していた幕臣たちの中に、三十名ほどの「遊撃隊」がありました

遊撃隊は、十四代将軍家茂の親衛隊だった人たちで、剣や槍の達人でした

その人たちが、「遊撃隊」となったのです

慶喜が水戸に隠居する時、ほとんどの遊撃隊が水戸へついていきましたが、一部の人たちが新政府に屈服する事に不満を抱き、隊を脱走しました

その中心となっていのたが、伊庭八郎(いばはちろう)と人見勝太郎(ひとみかつたろう)の二人でした

伊庭は25歳
道場を開いていた幕臣の長男で、「伊庭の麒麟児」と言われていたほどの剣の腕前

人見も剣の達人で、26歳

ともに徳川に対する忠誠心が厚く、新政府軍に屈服することが耐えられなかったのです

こうして二人は、三十名余りを率いて、榎本武揚と同盟を結び、一緒に館山まで軍艦に乗っていきました

そこへ勝海舟が「お願いだから江戸へ戻ってくれ」とやってきて、榎本は戻ることに

この榎本の弱腰に怒った二人は、別行動を取ったのです

榎本と決別した遊撃隊は、木更津の藩主・林忠祟(はやしただたか)に協力を求めました

この藩主、まだ20歳で、新政府に対して反感を持っていました

伊庭と人見の二人を一目で気に入っちゃいました

林は「伊庭は義勇の人。人見は智勇の人。二人とも立派だ」と、同盟を結んだのです

こうして協力を得た遊撃隊は200名にふくらみ、小田原藩や韮山にいる江川太郎左衛門らと手を結び、新政府軍をやっつけよう!!と、作戦をたてたのでした


5月26日 箱根戦争

遊撃隊は江戸へ向かってくる新政府軍に対して対抗策を練っていましたが、小田原藩には断られ江川太郎左衛門にも断られてしまいました

人見は、「もう一度榎本武揚と話してくる!」と江戸に向かっていきました

が、新政府軍の到着が予想以上に早く、この日、箱根で新政府軍と遊撃隊が激突してしまったのです

伊庭は奮戦しましたが、とうとう左腕に怪我を負ってしまいました

すると伊庭は麻酔もせず、左腕を切断するというものすごいことをしちゃいました

伊庭の戦いぶりは壮絶で、すぐさま残る右手でやってくる相手を斬り倒しまくりました

が、新政府軍には勝てず、伊庭らは敗走していったのです

5月27日 人見、涙する

翌日、江戸から戻ってきた人見はビックリ!!

親友の伊庭が左手を失い、遊撃隊も敗戦をしていたからです

伊庭は「君がいない間に、新政府軍が小田原藩を先鋒としてやってきた。苦戦したが、ダメだった。多くの同志を失ってしまい、本当に申し訳ない」と涙しました

人見は「まだ大丈夫だ!その前に君の傷を治さなくては!傷が治るまで待って、共に戦おう」と、涙したのです

そして敗走した遊撃隊は、このあと北上して新政府軍と戦うこととなるのでした
5月30日 沖田総司病死

大阪城内で病気となり、鳥羽伏見の戦いに参加せず江戸に戻っていた沖田総司

松本良順のもとで治療を受けておりました

この日、庭に現れた黒い猫をみて「イヤな顔をしている」と言い、その黒猫を斬ろうとしました

が、猫はひょいと逃げてしまったのです

「ばぁさん、俺、猫が斬れないよ・・」とつぶやき、とうとう死んでしまったのでした


会津戦争

新政府軍はというと、薩摩兵を中心とした大部隊が茨城県へやってきて、白河城にいた軍と合流し、このあたりの戦況が活発になってきました

棚倉城を守っていた会津藩と仙台藩の同盟軍は、危機に

会津藩は兵力を長岡・白河・二本松方面とに分けて、国境を守らなければならなくなってきました

会津藩の中心となる朱雀・青竜の本隊は各方面へ散らばり、会津の本城である鶴ヶ城を守っているのは、少年と老人で作られた白虎隊・玄武隊といった留守番部隊ばかりとなっていたのでした

7月29日 二本松の戦い

新政府軍はじりじりと北上してきました

7月16日には三春藩が奥羽越列藩同盟を抜けました

さらに三春藩は、新政府に会津藩の攻略法(攻めやすい場所)なんかも教えてしまうというおまけつきの裏切り

そしてこの日、新政府軍は二本松城を攻撃

城にはわずかな兵しか残っておらず、若者に見せる為に白い髪の毛を黒く染めた老人と、12歳から17歳の藩士の子供たちのみ

彼らは赤い陣羽織を目印にしており、決死の思いで新政府軍に立ち向かいました

が、落城・・・・

赤い陣羽織をつけた少年と白髪を黒く染めた老人が全て討死となったのです

彼らはのちに「二本松少年隊」と呼ばれることとなります

藩主の丹羽長国は米沢へ逃走していったのでした

こうして、奥羽越列藩同盟の藩は次々と敗北・降伏をしていったのです

8月16日 河井継之助 死す

長岡を奪いかえした河井継之助でしたが、優勢は長くは続きませんでした

新政府軍は圧倒的な数の武器を調達し、反撃開始してきたのです

この激戦の中、河井は腰に銃撃を受けてしまったのです

これがかなりの重症で、もはや陣頭にたって指揮をとることが出来なくなってしまいました

河井を失った軍は、総崩れとなってしまったのです

さらに同盟国の新発田藩が寝返り、長岡城は再び新政府軍の手に落ちてしまったのです

重症の河井は戸板に乗せられ会津へ向かいました

そこで再起を図ろうとしましたが傷は悪化し、八十里峠というところを越えた会津塩沢で無念の死となったのです

さて、河井継之助ですが、とても評価が分かれております

この戦いで、長岡城下は壊滅状態となり、藩士の三分の二が死傷

そのため河井を恨んでいる人もかなり多いといいます

ちなみに、河井に協力して戦い戦死した人に山本帯刀という家老がおりました

この山本家の養子となったのが、後の山本五十六であります


8月19日 榎本武明 江戸湾を去る

榎本武揚は何をしてたか??というと、ダダをこねて残した開陽丸他四隻の艦隊に乗り込み、じーっと江戸湾で沈黙しておりました

東北では河井継之助らが必死の戦いをしており、会津からも「来てくれ!!」と、お願いされまくり

確かに榎本率いる艦隊がやってきて大砲で睨みをきかせれば、新政府軍もビビって簡単に手出しはできない

奥羽の諸藩は何度も何度も榎本に応援要請をお願いしていた

が、榎本はいっこうに動かずにいたのです

それはなぜか?

全て徳川慶喜のためだったのです

新政府軍が慶喜殺害を企まないよう、江戸湾で睨みをきかせていたのでした

そして慶喜の処分が決まり、水戸から駿府へ送り、初めて榎本武揚は自分の意思で動くようになったのです

榎本武揚 北上する

こうして榎本武揚率いる艦隊は、仙台へと北上することに

が、時はすでに遅すぎた

もはや奥羽の諸藩はほとんどが新政府軍の手に落ちていたのです

この頃になると、長岡藩は負けており、戦況不利と判断して奥羽列藩同盟から抜ける藩も現れていたのです

もう少し早く動いていれば、歴史は変わっていたかも知れませんね


会津藩 苦境に立たされる

会津藩というのはもともと徳川三代将軍家光の弟・保科正之が祖であります

保科正之というのは、忠義ある人で(詳しくは歴史の流れの江戸時代をチェック)、会津藩は「絶対に徳川本家を助け続ける」というのをモットーにしておりました

また、会津藩は家老クラスでも一人千石ほど

他の藩の家老は、1万石以上は軽く貰っているのに、会津藩は一番貰ってる人でも二千八百石

これは、保科正之が「一人に多くあげるのではなく、より多くの家臣に少しでも多く与えたいから」というもの

こういった配慮が会津藩士の結束に強く影響しておりました

そんな会津藩ですが、もはや戦況は完全に不利

次第に孤立する会津藩ですが、藩士たちは「会津は正義なり」と、会津魂を持ち続けておりました

そしてとうとう、新政府軍の勢いは会津までやってきたのです

新政府軍 十六橋突破

会津藩の防衛拠点は何箇所かありましたが、このうち一番北側にある峠は険しい山なので、敵は来ないと思っていました

500人ほどの農民兵が守っておりましたが、ここに官軍が3000人襲い掛かってきたのです

この急報を受けた鶴ヶ城では早速会議が

そして苦労して作り上げた十六橋を壊し、進入を防ぐしかないと決断したのです

早速残り少ない兵たちが十六橋へ向かいました

が、頑丈に作りすぎていたため橋を壊すのに一苦労

そこへ新政府軍がやってきたのです

武器を何も持っていない会津藩士たちは、なすすべもなく、十六橋は占領されてしまいました

峠を越えられ、橋を占拠されてしまい、こうなっては会津若松までの防衛線は何もない

「敵が十六橋を占領したぞ!!」という、急を知らせる使者が鶴ヶ城へ戻ってきた時、会津の人々の顔は悲痛で歪みました

このとき、鶴ヶ城に残っているのは50歳以上の玄武隊200人と白虎隊200人ほどしかいなかったのです・・・


白虎隊と会津の女

新政府軍の勢いはすさまじく、戦力として会津に残っていたのは玄武隊と白虎隊のみ

もともと白虎隊は少年だということで、戦闘から除外していました

主君の護衛と伝令などをする隊であり、会津士道からいっても少年や女性を戦争に駆り出すなど許されないことでした

玄武隊も老人であり、非戦闘部員として集められていた

が、新政府軍の思わぬ進軍の速さに、戦闘の中心となるべくはずだった朱雀隊・青龍隊は別の場所にいたのです

そして会津の家々に「白虎隊出陣」という出陣を知らせる回し文がやってきました

ほとんどの家が、父や兄は戦に駆り出されているので、出陣の準備をしてくれたのは母親

少年たちにとって、出陣するというのは自分が大人になった気がしました

母親は、息子に励ましの言葉を贈り、そっと涙を流したのです

そして会津の女たちは、夫・息子を戦場に送り出し、もはやこの後は、家を守って自害すると覚悟を決めていたのでした


白虎隊動く

いまや会津で唯一の精鋭部隊となった白虎隊

一番隊は城にいる若殿・松平慶徳(よしのり)の守り

二番隊は滝沢村の前線本営へと出陣する主君・松平容保に従うことに

残る二隊は戸ノ口方面の最前線へと出発していきました

二番隊の少年37人は、普段なら見ることのできない主君・松平容保の親衛隊となったことでかなり緊張

そして近習十数名と、白虎隊に守られて出陣していく容保

この姿をみた会津の領民は、お殿様のあまりの情けない姿に涙しました

容保も、これが奥州の会津藩主の出陣の姿なのか・・・・と、さすがにわびしく思ったのでしょう

かなりうなだれた様子だったそうです

女子とて立ち上がってみせまする

さて、ここである一人の女性が出てきます

それが中野竹子

竹子は江戸生まれで、慶喜に追い出された容保とともに家族と共に会津へ戻ってきておりました

才色兼備の女性で、この時22歳 そして妹の優子は16歳でした

戻ってきてからすぐさま戦いが始まり、父は玄武隊へ。弟は朱雀隊へ

竹子は親しい友人の神保雪子らと「女子の私どもでも何かできることはないか」と考えておりました

城下が戦となれば、皆城内へ逃げる

そうすれば、食料や飲料水を使うことになってしまう

婦女子が城にこもれば、籠城決戦の時に足手まといになる・・・・

こう考えた会津の女性は多く、皆自決をする覚悟でいました

そんな中で竹子たちは「女ながらも卑劣な薩長勢に一矢報いなければ死にきれない」と思っていたのです

娘子隊結成

竹子たちは家老の官野権兵衛のもとへ行きました

そして、私たちも戦いたいと願い出たのです

もちろん返事はNO

「会津藩では苦し紛れに女子供も戦場に出したと笑いものにされよう。会津武士が笑われるようなことな許可できぬ!!」

「女子ながらも、敵が国へ侵入したものを迎え撃つのに何の士道の穢れがございましょうか?どうかお許しを」

が、いくら言っても返事はNO

すると竹子は
「どうしても参陣はかないませぬか。では、役に立たぬ身であれば、もはや生きていても仕方がありませぬ。この場で自害いたします」
と、脇差に手をかけたのです

さすがの権兵衛も「ま・・・まて!!そこまで決心されたのか・・・」

と、とうとう折れ、竹子らの参陣を許可したのでした

8月22日 白虎隊二番隊散り散りに

十六橋を渡ったあたりを戸ノ口といいました

会津藩はここに寄せ集めの兵を150人ほど投入

が、攻めてきた新政府軍は三千人以上

すぐさま押し切られそうでしたが、この日は暴風雨となり、新政府軍は一度引き上げていきました


白虎隊二番隊の37人もこの暴風雨でめちゃくちゃに

二番隊隊長の日向内記(ひなたないき)が城へ連絡を取りにいくこととなり、残った白虎隊士たちは、食料もないまま一夜を明かしたのでした

8月23日 新政府軍 会津城下へ!!

この日、二本松からやってきた新政府軍が一気になだれ込んできました

滝沢の本陣にいた松平容保は急いで退却し、途中で弟の松平定敬を米沢へ逃がしました

そして近習・老人・子供・女性たち100人ほどで城にたてこもったのです

城下は大変なことになっていました

早く城内に入るよう早鐘が打たれましたが、籠城の足手まといになってはと、自刃する人たちが続出したのです

そして新政府軍は、城を孤立させようと会津藩士の家や民家に火を放ち、略奪などを行ったのです


8月23日 白虎隊 新政府軍と戦う

夜が明けました

連絡に出かけていった日向隊長が道に迷ってしまったのか、いくら待っても戻ってこない

そのうち、大砲の音が響き始めました

白虎隊らは驚きました

「この音は戸ノ口のほうだ!」
「こんなところにいて、もし敵が城へ攻め込んだらどうする!?」
「そうだ!僕たちは戦いにきたんだ!見物にきたんじゃない!」

こうして、話し合いの結果、銃声が向かう方へ進むことになったのです

小高い丘から戸ノ口方面をみると、新政府軍が列を作って進んできていました

彼らは覚えたての銃を使い、狙いを定めて射撃しました

新政府軍はビックリして応戦しました

やはり圧倒的に新政府軍が強く、白虎隊のもとへ四方八方から銃弾が飛んできました

何人もの仲間が叫び声をあげ、倒れていきました

一番年長の篠田少年は、ここはいったん退こう!と、傷ついた者を背負い城へ向かうことにしたのです

白虎隊 飯盛山へ

白虎隊の少年たちは、湿地帯を通り抜け、崖をよじ登り、谷を渡ってとにかく歩きました

そして、新堀の洞門へたどり着きました

ここをくぐりぬけると、飯盛山があります

昨日から何も食べておらず、体は疲れ切っていました

びしょぬれの衣服が体にまとわりつき、少年たちは心身ともに衰弱していたのです

それでも、早く城に戻って主君と生死を共にすべく急ぎ足で進んでいきました

お城が燃えている・・・・

少年たちは、飯盛山のふもとに出て南方をみました

すると城下町が燃えており、鶴ヶ城が黒煙に包まれているのです!!

「お城が燃えている・・・・」

少年たちは呆然として、その様子を眺めました

あの火の中に、自分たちの家族や親戚がいる。そして主君もいる・・・・


「きっと主君は城と運命を共にしたのであろう」
「みんな、この上は切腹して、主君のお供をしよう」
「そうじゃ。敵に捕らえられては恥の上塗りだ」

彼らは、敵に捕まることより死を選んだのです

家族も火の中にいる

もはや、国のために戦い、国が負けた以上、あとは死あるのみ

実はこの時、まだ城は落城してはいませんでした

新政府が藩士の家や民家に火をつけたために出た煙で、城はまだ無事だったのです

が、少年たちは落城したと早合点してしまった

そして、落城してから生きて恥をさらすより、主君と運命を共にしたいと思ったのです

石田和助(16歳)が、最初にお腹に刀を突き刺しました

そして次々と割腹、あるいは刺し違えて、20名の少年たちが死んでいったのです

ちなみに・・・・同じ白虎隊で、同じく戦いながら逃げてきた二人の少年がいました
彼らも飯盛山の近くの愛宕山から城下をみて、もはやこれまでだと、切腹を決意

そこへたまたま神官が通りかかり、「君たち!まだ早い!まだ鐘の音が聞こえていないから城は落ちていない!」と教えてくれたのです

そして彼らは再び城内に戻っていったのです

飯盛山で自害した白虎隊は、あまりにも一途であまりにも純粋だった

会津戦争において、彼らの悲劇は本当に涙なくしては語れません

生き残った白虎隊士 飯沼貞吉

飯盛山で自害した白虎隊の中に、飯沼貞吉という少年がいました

貞吉は、急所を外してしまい、苦しんでいたところを通りかかった藩士の妻に発見され、一命をとりとめたのです

彼の生きていたことにより、白虎隊自決の事実が世に伝えられることとなったのです

が、貞吉は自分だけが生き延びてしまったことを武士の恥として、生涯負い目を追い続けました

自ら「生死を共にせんと誓った仲間は死に、自分だけがおめおめと生き残ってしまった・・・」と


8月23日 西郷頼母一族 自決

西郷頼母は、容保が京都守護職になることを大反対したため、家老をクビとなっておりました

が、慶喜から追い出された容保が戻ってきた時、すぐさま家老に復帰し、会津藩のために色んな事をしておりました

そしてこの日、西郷頼母不在の時に、怒涛のように新政府軍が流れ込んできたのです

城下では、夫や兄弟の足手まといになるのは恥として、何人もの人たちが自決をしておりました

そして西郷家でも頼母の妻(34歳)母(58歳)など、一族が集まり自決を覚悟したのです

妻の千恵子は、自分の子供である8歳と4歳の娘を刺しました

そして全員が自ら剣で胸を刺し、自刃したのです

が、頼母の長女細布子(たえこ・16歳)は急所を外してしまい、脈を残して苦しんでいました

そこへと土佐藩の兵がやってきたのです

それがのちに衆議院初代議長となる中島信行です

当時を回想した文章があるので、ちょっと紹介しましょう

「私たちは会津城を攻め落とすというので、城門へやってきた。そこに大きな屋敷があったので、鉄砲を打ち込んだが人がいる気配がない
中に入ってみると、奥座敷に婦女子たちが見事に自殺をしていた
そのうち、十六・七歳くらいのあでやかな女子が、いまだ死に切れないでいた
もう目が見えなくなっていたらしく、「敵か?味方か?」と私に聞いてきた
私はわざと「味方だ」と答えた
するとその女子は身をかきさぐって剣を出し「それではこれで命をとめてくだされ」と言った
私は見るに見かね、涙をふき、首を斬って外へ出た・・・・」

城下では、次々と自刃

城下に屋敷を持つ藩士たちの家族たちは、敵に捕らえられて生き恥をさらすことはできぬ!!と、次々と自刃していきました

若い女性などが生き残ってしまったら、さんざん辱めを受け殺されるので敵の手にかかりたくないと思うのは当然のことかもしれません

母がわが子を自らの手で殺し、家に火をつけ、自らは喉をついて死ぬ

いたるところで、このような惨状が繰り広げられたのです

その数はおよそ三百人

戦いで死んだ会津藩士は三千人ほどなので、一割ほどが自決によるものでした

そして夕方には新政府軍によって城は包囲され、籠城戦に入ることとなったのです

8月25日 中野竹子戦死

竹子ら娘子隊は、長い髪の毛を切り、男装して涙橋前に布陣している新政府軍のもとへ向かいました

そして薙刀を持ち、新政府軍のもとへ突進したのです

女性が薙刀をふるってやってきたことに、新政府軍はビックリ

そして次の瞬間、一斉にライフル銃を捨てたのです

なぜだかわかりますか??相手が女性なので、生け捕りにして陵辱するためです

「相手はおなごじゃ!!殺すな!!生け捕りにせよ!」と、大手を広げて新政府軍は娘子隊に襲い掛かってきたのです

竹子らは薙刀を思いっきりふりかぶり、次々と兵を斬っていきました

女とみてあなどった兵たちは斬られまくり、とうとうライフルを構え始めたのです

そして竹子はお腹を銃弾で打たれてしまいました

妹の優子が駆け寄ると、「もう私はだめです。介錯を!!!」と、声をだしました

なんとか助けようとする優子でしたが、竹子は「お願い・・・介錯を・・・」と悲痛な叫び

母の孝子が「わかりました。わたくしも後からすぐに参ります」と、竹子の首筋へ脇差をおろしたのです

こうして、竹子は死んでしまいました

ごろりと転がった竹子の首を妹の優子が手に持ち、退いていきました

神保雪子もこのとき、討死したといわれております

ひたすらに国を思いつづけ最期を遂げた会津の女性たちでした

ちなみに優子は最後まで鶴ヶ城で籠城し生き残ることができ、無事に明治を生き抜くことができました


無差別砲撃は続く

この日、城の東南にある小田山を占領した新政府軍

備前藩のアームストロング砲などを山上に置き、城めがけて砲撃を始めました

この無差別砲撃は何日も続き、女性や子供・老人などの死傷者が続出

城内は死者を葬る場所がなくなるほどでした

愚直な鬼官兵衛 

城下では次々と自刃をし、もはや会津藩は降伏の決断を迫られつつあった

そんな中でも官兵衛だけは、敵に打撃を与え続け「鬼官兵衛」の名は響き渡ってました

が、城内はもはや逃げ込んできた多くの婦女子や老人の悲痛な苦しみと哀訴がみなぎっており、もはや容保は降伏するしかない状況になってきたのです

容保はなおも抗戦を繰り広げている官兵衛に「城に戻って来い」と使者を出しましたが、官兵衛はムシ

とうとう容保は「降伏する」という使者を出したのです

戻ってきた官兵衛は容保をみるなりこう言いました

「奥羽の三十一藩が同盟を組んで戦ったのは、天皇を擁護し思いのままに操ろうとしている君側の奸を除くためであろう!なのになぜ会津が降伏をするのか!!
新政府軍のやったことを見たであろう!
会津の民の財産を奪い、罪のない民を殺し、婦女を犯し、残虐極まりない。これが官軍といえるのか!?」

これには容保も「さても愚直な鬼官兵衛よ・・・」と、つぶやくしかなかった

が、もはや城内には戦える者もおらず、容保はとうとう開城することにしたのでした

9月22日 午前10時  会津落城

9月4日には米沢藩が降伏

9月18日にはとうとう仙台藩が降伏

会津藩は完全に孤立してしまいました

そしてとうとう、会津藩はこの日の午前10時、大手門に白旗を立てたのです

一ヶ月間の籠城戦が終わりました

午後、裃を着用した松平容保と、父の喜徳は、新政府軍の軍監・中村半次郎(後の桐野利秋)と対面し、降伏状を提出しました

そして24日に城が明け渡されることとなったのです・・・・

二日後、同盟を結んでいた庄内藩も降伏し、戊辰戦争がとうとう終わったのでした

会津藩は結局負けてしまいましたが、彼らの潔い武士道は、ずっと私たちの心に残ることでしょう