幕末その3 1842年〜1852年 | |
1842年 | 柳亭種彦・為永春水らの著者が焼かれる |
1843年9月 | 水野忠邦失脚 |
9月 | 阿部正弘 老中になる |
9月 | 平田篤胤死去 国学を作った4人の男 |
1846年4月 | 会津 松平容保 会津藩主の養子になる |
将軍の子供達 | |
1847年9月 | 徳川斉昭の子 慶喜 一ツ橋家を継ぐ |
1848年11月11日 | 近藤勇 天然理心流「試衛館」に入門 |
12月 | 「南総里見八犬伝」滝沢馬琴死去 |
12月 | 山内容堂 15代土佐藩主となる |
土佐の武市半平太 江戸三大道場の士学館に入門 | |
江戸三大道場 練兵館 | |
江戸三大道場 玄武館 | |
1849年 | 島津藩 お由羅騒動 |
1850年10月 | 高野長英 江戸潜伏中に自害 |
12月 | 大親分 国定忠治(くにさだちゅうじ)処刑 |
1851年2月2日 | 島津斉彬 29代薩摩藩当主となる |
斉彬の腹心 西郷隆盛 | |
西郷ドン 誠忠組(せいちゅうぐみ)を結成 | |
5月 | 佐久間象山 江戸に砲術塾を開く |
近藤勇 土方歳三と出会う | |
1852年 | 10歳の沖田総司 試衛館に入門する |
7月 | ジョン万次郎(中浜)12年ぶりに帰ってくる |
土佐藩の身分差別制度 上士と下士(郷士) | |
この頃の長州藩は??藩主 毛利慶親 | |
この頃の佐賀藩は??藩主 鍋島閑叟(かんそう) | |
幕末その3 1842年〜1852年 |
1842年 柳亭種彦・為永春水らの著者が焼かれる |
柳亭種彦(りゅうていたねひこ)は浮世絵師歌川国貞とのコラボで草双紙の第一人者でした。 代表作は「偐紫田舎源氏」で歌舞伎などで大人気。 為永春水は人情本作家で「春色梅児誉美」が大ブレイクしていたラブストーリー作家でした。 が、この2人が天保の改革によって「風俗を乱している」ということとなったのです。 |
1843年9月 水野忠邦失脚 |
忠邦はすごい勢いで改革を進めていました。 とうとう「上知令(あげちれい)」という「江戸城及び大阪城の近くにいる諸大名・旗本の領地は全て幕府直轄にする。その代わり代替地を用意します」というのを出したとたん諸大名・旗本・領民らの猛反対を受けました。 また「人返し令」という夢見てお江戸にやってきた人々を強制的に田舎へ帰すというものを出しました。 あまりにも性急で厳しすぎた忠邦の政策は、逆に経済活動をストップさせてしまいました。 そのため忠邦は2年で人気がガタ落ちとなり失脚となったのです。 |
1843年9月 阿部正弘 老中になる |
将軍家宣は水野忠邦の後任として土井利位を首座に、そして新たに阿部正弘を老中に任命しました。 ちなみに忠邦に代わって老中首座には土井利位(どいとしつら)が任命されたけど、力不足のためまたも忠邦は復帰させられました。 ですが鳥居耀蔵らが捕まったりしたので、忠邦は病気を理由に辞職したのです。 1819年福山藩主の6男として生まれた阿部正弘。 1836年に福山藩主となり、寺社奉行を経て25歳という若さで老中に就任しました。 以後、水野忠邦が老中首座をカムバックした期間を除いて日本の総理大臣として全力を尽くすこととなります。 |
1843年9月 平田篤胤死去 国学を作った4人の男 |
それに対し国学とは外国からやってきた学問ではなく、日本の古典を研究して日本民族の精神である古道を復活させようとしてできたものです。 国学を作った4人の男と言われるのが荷田春満(かだのあずままろ)。 春満は「万葉集」「古事記」「日本書記」を研究し、その弟子である賀茂真淵(かものまぶち)が「万葉集」を。 そして馬渕の弟子である本居宣長(もとおりのりなが)。 そして本居の精神を引き継いだのが平田篤胤(ひらたあつたね)でした。 「国学」をはっきりと体系づけたのは本居宣長。 宣長は30年以上かけて「古事記伝」を44巻作成し、源氏物語を研究したのです。 本居の考えは伴信友(ばんのぶとも)にも引き継がれましたが、平田篤胤は「復古神道」の部分に多く影響を受け、正統派と言われる伴信友らには嫌われましたが、篤胤の考えは国学の主流となっていきました。 篤胤は自ら本居の門人と言っていますが、生前の本居には会ったことはなかったそうです。 で、篤胤はひたすら勉強の毎日。「古今にもめずらしい貧乏ぶり」と言われるほどでした。 本居は数々の著者を仕上げ、越前藩の松平慶永は「平田ほど博学の知識の持ち主はいない」とまでいうほど。 そして4人が形成していった国学は、のちに大きな政治思想を産むことに。 次第に天皇を尊ぶ思想である尊王論が生まれ、尊王論は幕末になるにつれ、外国人を排除する攘夷論や、幕府を倒そうとする倒幕論へと結びついていくのです。 |
1846年4月 会津 松平容保 会津藩主の養子になる |
![]() そして1852年の2月に容敬が病死し、容保は18歳で9代会津藩主に就任することになるのです。 |
将軍の子供達 |
そうせえ様こと家慶の正室は京都の有栖川家の娘の他に7人の側室がいました。 子供のほとんどが早死にしてしまい、育った男児は2人だけ。四男家定と一橋家を継いだ慶昌。ですが慶昌は13歳で病死してしまったため、家定が後継ぎになることに。 が、家定は知的障害者でした。お料理が大好きで特にカステラ造りはお手の物♪マメを煮るのも得意でした。 30過ぎても庭のガチョウを追い回して遊んだり、刀を持って近習を追い回したり・・・。 また幼い頃疱瘡を患ったため顔は醜く、祖父である家斉譲りの癇癪もちも手伝って「癇癪公方」というニックネームがつく始末・・・。 徳川の不幸はこの家定が将軍に着くことによって始まったのです。 |
1847年9月 徳川斉昭の子 慶喜 一ツ橋家を継ぐ |
将軍家慶の子であり、一橋家を継いでいた慶昌が13歳で死去したため、家慶はかねてから英明・利発と聞こえの高かった慶喜を一橋家の養子に行くよう命令したのです。 家慶の父である家斉は一ツ橋家出身であり、家慶で将軍家は二代にわたって一橋家。 そんな一橋家に養子に行くということは、頼りない家定の将軍後継者候補ということになるのです。 この話が来た時に斉昭は「まさかうちの慶喜が将軍に・・・??」と瞳を輝かせました。 が、肝心の慶喜は「ボクは将軍になんて疲れるからやりたくない」と言っていましたが、斉昭はソワソワしっぱなしとなるのです。 |
1848年11月11日 近藤勇 天然理心流「試衛館」に入門 |
![]() 村の実力者であった父にとても可愛がられ、小さい頃から「三国志」などを読み聞かされて育ちました。 一途なまでの徳川幕府への思いはこの頃に培われたと思われます。 15歳の時、父の指示で江戸牛込にある近藤周作の道場に入門しました。 勇はそこでたちまち頭角を現し、入門8ヶ月にして「天然理心流」の目録をゲット。 その才能を見込まれて近藤周作の養子となり、1860年には天然理心流四代目となるのです。 ちなみに四代目襲名披露の野試合に参加したのが、土方歳三・沖田総司・山南敬助・井上源三郎など。のちの「新撰組」メンバーとなるわけです。 |
1848年12月 「南総里見八犬伝」滝沢馬琴死去 |
馬琴の父は江戸の旗本に仕えていました。馬琴もその家に仕えるんだけど、主人が癇癪もちでヒステリックだったため15歳の時に家を出て行ってプータロー生活に突入したのです。 24歳の時に山東京伝の弟子にしてもらい、ここで蔦谷重三郎という写楽や歌麿をデビューさせた版元と出会いました。 山東京伝と蔦谷重三郎に勧められ黄表紙本を書き始めました。 そして山東京伝から独立し結婚。 この頃から今までのグータラ生活からおさらばし、妻子のために頑張ろうと思い始まるように。 そして「南総里見八犬伝」を書きましたが、これが大人気に!その後28年かけて180回98巻の大長編小説を書いたのです。 最後の方になってくると馬琴は目が見えなくなり、息子のお嫁さんに口述筆記をさせて書き続けました。そのため妻が嫉妬して姑VS嫁のイジメ騒動もあったそうです。 |
1848年12月 山内容堂 15代土佐藩主となる |
容堂は妾の子として生まれました。 頭脳明晰・剣の達人で、容姿もオットコ前だったので、めちゃくちゃ自信家でした。 妾の子なので藩主になる可能性はまったくなかったのに、13代・14代と立て続けに藩主が死んでしまい、幕府に領国を返さなければいけないという危機に局面。 焦った山内家では、急遽容堂に本家を継がせ、土佐藩主にしたのです。容堂22歳でした。 この時、島津斉彬や伊達宗城・幕府側の阿部正弘が協力してくれたってことで、容堂は恩義を感じ、ますます徳川幕府を信頼していくのでした。 |
1850年 土佐の武市半平太 江戸三大道場の士学館に入門 |
土佐の武市半平太は剣術が達者だったため郷士から上士階級となりました。 半平太は背が高く剣術・習字・日本画などに才能を発揮。 そして藩の命令によって江戸に出て桃井春蔵の「士学館」に入門しました。 士学館とは四代目桃井春蔵の道場で、「鏡新明智流」の剣術道場です。 春蔵は書や詩もたしなむ人で、剣風は格調高く重厚で「品格」を最も大事にしていました。 桃井春蔵は沼津藩士の出身で、士学館に入門しました。 春蔵は天才的な剣筋を見込まれ17歳で桃井家の跡を継いだのです。のちに幕府の講武所教授となります。 土佐藩邸の近くにあったため土佐藩士が多く通ってきました。 武市半平太は、そんな春蔵の士学館の一番の使い手となっていくのです。 他には田中光顕(みつあき)人斬り以蔵こと岡田以蔵らがいました。 |
江戸三大道場 練兵館 |
1852年に19歳の桂小五郎が入門したのが斉藤弥九郎の道場である「練兵館(れんぺいかん)」。 15歳で江戸に出てきて神道無念流の剣客岡田十松(じゅうまつ)に剣を学んだ斉藤弥九郎が独立して開いた道場です。 神道無念流では「剣とは凶器であり、一生使わなければ幸いである」という義の剣を教え、精神の鍛錬を重視している流派です。 弥九郎は師である岡田門下で一緒に学んだ江川太郎左衛門・藤田東湖・渡辺華山とも仲が良く、時代の流れを見る目を養っていきました。また岡田門下には芹沢鴨もいました。 練兵館は長州藩邸に近かったので長州藩士が多く、塾頭を務める桂小五郎をはじめ高杉晋作、品川弥二郎らがいました。 また弥九郎の人柄を慕って、他藩からの志士も多く入門してきました。 |
江戸三大道場 玄武館 |
1853年には19歳の坂本竜馬が江戸にやってきます。 三大道場の一つである「玄武館(げんぶかん)」の師範は千葉周作。 周作は幼少の頃から「北辰夢想流」を学び、浅利義信に師事し免許皆伝となりましたが、剣の道において保守的だった浅利と意見が合わず養子にまでなったというのに絶縁とされてしまったのです。 その後1822年ごろに「北辰一刀流」を創始し、「玄武館」を開きました。 周作の教授法は具体的に教え、また合理的な剣だったため、剣の上達がすごい早いと人気となり、3000人以上の門弟を集めました。 玄武館は後に新撰組に参加する山南敬助・藤堂平助・伊藤甲子太郎の他、有村治左衛門・清河八郎・海保帆平(かいほはんぺい)・安積五郎などがいます。 のちに周作は水戸藩の師範役を務めてました。 竜馬は千葉周作の弟である定吉の道場に入門してます。 |
1849年 島津藩 お由羅騒動 |
「お由羅騒動」とは島津藩のお家騒動です。 28代藩主の島津斉興(なりおき)は、自分の跡目を長男である斉彬にするか、寵愛している側室のお由羅の子である久光にするかで悩んでいました。 斉彬は英明と聞こえが高かったのですが、父の斉興がいつまでも悩んでいたため、1849年には40歳を過ぎているというのに、斉興は家督を譲らずにいました。 斉彬は1809年に、斉興の正妻から生まれた子供で、江戸の薩摩藩邸にて生まれました。 渡辺華山や高野長英ら蘭学者と仲が良く、外国文化に興味津々でした。この頃の日本人にしては珍しく、西洋から侵略されるんじゃないかと本気で心配していたそうです。 斉彬は工業にも先見の目を持っており、反射炉は溶鉱炉なども造りました。 また下級武士であっても能力があれば抜擢しました。西郷隆盛などがそうです。 伝統工芸となっている薩摩切子も斉彬の代で開発しました。 そんな斉彬の最大の敵が父である斉興の側室であるお由羅だったのです。 お由羅は斉興の寵愛を一身に受け、自分の息子である久光を次期当主に!と画策するのです。藩内は斉彬派とお由羅派で真っ二つに分かれてしまいました。 兄である斉彬は洋学好きの先進的タイプであったのに対し、弟の久光は質素で堅実タイプと全く正反対の2人でした。 斉興は悩んでいました。 そこへ当時藩内の財政建て直しを成功させたお由羅派の家老である調所広郷(ずしょひろさと)の一派も、久光を勧めたため斉興は次第に久光を後釜へ・・・と思うようになるのです。 ちなみに調所広郷は前年に密貿易をした責任を取って自刃してます。 が、斉彬の子供である5男2女のうち、長男以外が相次いで変死してしまいました。 斉彬派はこれを「お由羅一派の呪詛によるものだ!」と憤激しだしたのです。そしてお由羅派の暗殺計画をたてたのです。 でもコレがお由羅派にバレてしまい、斉彬一派の40人以上が処刑されまくるという大疑獄事件に発展したのです。 ここで斉彬派が幕府に申し立てをし、幕府は山積みとなっている外交問題や内政問題のためにも、英明名高い斉彬を次期当主にするように斉興に隠居を勧めたのです。 この時に幕府で斉彬の味方をしたのが老中である阿部正弘でした。そのため2人はとても仲が良くなるのです。 幕府から隠居を勧められた斉興は仕方なく隠居し、斉彬を次期当主としたのでした。 お由羅派の野望は消えたのです。 |
1850年10月 高野長英 江戸潜伏中に自害 |
蛮者の獄で高野長英は小伝馬町の牢屋に入れられました。3年入った頃には牢名主になるほどの人望を集めました。 入獄6年たった頃火事が起こった時に脱出。額を焼いて人相を変え、逃亡生活を続けました。 そんな中、宇和島藩主である伊達宗城(むねなり)が、長英の書いた本「戊戌夢物語」を読み「長英という人物、一度会ってみたい」と思うように。 側用人が江戸に隠れて逃亡生活を送っている長英を知っていたので、長英をスカウトし、宇和島へ連れて行き伊達家へ仕えました。 そこで砲台の図面を書いて暮らしましたが、3年たつと江戸にいる妻子に会いたくなり、江戸に戻ったのです。 伊達家を辞める時、宗城は短刀をプレゼントしました。 そして江戸へ戻り青山に隠れていました。 そんな中、薩摩藩からオランダ語で書いてある兵書の翻訳を頼まれ、すらすらと訳しちゃいました。 長英が翻訳した本を藩主が人々に見せたところ「こんな難しいオランダ書を訳せるだけの者は長英以外いない!」ということから、長英が潜伏していることがバレてしまったのです。 長英の隠れ家に幕府の役人がやってきました。 長英は伊達宗城から貰った短刀で役人に斬りつけ、自らもその刀で喉を突いたのです。長英47歳でした。 長英が逃亡生活の中で書いた本は、勝海舟・佐久間象山・橋本佐内らに多大な思想影響を与えることとなります。 |
1850年12月 大親分 国定忠治(くにさだちゅうじ)処刑 |
忠治は1810年上州佐位郡(群馬県)国定村の農家の長男として生まれました。 家は裕福な方だったんですが17歳の時に人を殺してしまい極道の道へ。 縄張りのために手段を選ばす子分を集めてはケンカの毎日をすごしていました。25歳の時に子分のケンカに巻き込まれまたも殺人。手配を受ける身となってしまいました。 33歳の時に賭博をオープン。 が、子分で甥でもある坂割浅太郎がやってこない。 不思議に思いながら賭博を続けていると、なんと役人の手が入り忠治はやっとこさ逃げることができた。 忠治は役人に密告したのは浅太郎の叔父である中島勘助に違いないと、浅太郎を呼び「もしお前がチクったのでないというなら勘助の首をとってこい!」と命令しました。 浅太郎は身の潔白のために寝ていた勘助と4歳の子供まで殺害し、首を持ってきたのです。が、この事件がきっかけとなり忠治の追求が一段と厳しくなってしまいました。 困った忠治は赤城山の隠れ家を出るが、途中関所で役人を脅して逃げている。そして本妻のおつると妾のまち・おとくの元を転々とし、役人の目を逃れる生活に。 忠治がこれほど役人の目をうまくかいくぐっていたのにはワケがあります。忠治は地域住民に好かれていたのでした。天保の大飢饉の時に賭博で得た財産で貧しい人々に施しをしたりしていたのでした。 が、41歳の時に妾のまちとエッチの最中に脳内出血で倒れちゃったのです。それが原因で半身不随となりました。 忠治は一番可愛がっていた「まち」と余生を過ごそうとするが、まちは「お断り」されてしまい、正妻のおつるに引き取りにきてよね!と連絡。 が、おつるも「妾と寝ていて倒れた亭主を誰が引き取るか!」と拒否。仕方なくもう一人の妾であるおとくに連絡するが、おとくも拒否しちゃったのです。 さらに可哀相なことに子分の誰一人として引き取り手がおらず、しかたなく山中に小屋を建てて入れておくか・・・ということに。 が、役人に見つけてくれと言ってるようなものなので困ってしまいました。 すると西野目宇右衛門というのが「俺んちにかくまう」と言ってきました。 これは善意ではなく、自分の忠治と一緒に賭博で稼ぎまくっていたので、忠治が捕まったったら自分も危ないかも・・・と思ってのことでした。 忠治は宇右衛門の家の薄暗い土蔵の中に押し込まれた。自分の糞尿にまみれながらミジメな生活に。ここで薄情な家族や子分を恨んだことでしょう。 やがて忠治が匿われているという噂が広がり、とうとう役人に捕まってしまい江戸へ護送されるのです。 あまりにも罪が多いため「磔」となり処刑されてしまったのです。 |
1851年2月2日 島津斉彬 29代薩摩藩当主となる |
お由羅騒動を経て、やっとこさ当主となった斉彬。すでに43歳になっていました。 藩主となってからの斉彬の動きは目まぐるしく、船を造ったり大工場群を造ったり。 また老中阿部正弘と相談して「日本の船にも目印となる国印を掲げたほうがいい」と持ちかけ、日の本の国にふさわしい「日の丸」にしてはどうか?と提案。 斉彬と仲の良い水戸藩の徳川斉昭も「それはいいアィデアだ!」と大賛成し、幕府は日本の国印を「日の丸」としたのです。 正式に日本の国旗として寸法などが決められるのは明治3年(1870年)になります。 斉彬の目はすでに「世界」に向いており、西郷隆盛などは斉彬に抜擢され、斉彬を尊敬し動き回ることとなるのです。 |
斉彬の腹心 西郷隆盛 |
![]() 貧しい下級武士で長男である隆盛の下には6人の弟妹がいました。7人兄弟で数枚の布団に重なって寝ていたという貧乏ぶりでした。 茶碗の数も足りなくって、先に食べた人の茶碗を使って次の人が食べるというビンボー大家族でした。 この貧乏大家族と仲が良かったのが下級武士仲間の大久保利通や大山巌ら。面倒見のいい隆盛はビンボーなのに仲間を呼んで食事したりしていました。 隆盛は子供の頃にケンカした時、右ひじを怪我してしまい腕が完全に曲げられなくなりました。 そのハンデを覆すために勉学に精を出しました。そこを薩摩藩主(この頃はまだ藩主じゃないよ)である島津斉彬に見出され「御庭方」に抜擢されたのです。 この時、隆盛は藩政の腐敗・堕落ぶりを島津斉彬に直接手紙に書いたのです。 これを読んだ斉彬は隆盛を城に呼び出しました。 そして「お前の言いたいことはよくわかるが、お前の手紙は怒りだけをぶちまけているだけだ。どうすればいいかという解決策を何も書いていない。それではだめだ。お前のその目を世界に向けろ」と言い、「私は近く江戸に行く。そのときお前もついてこい。御庭方に任命する」と言ったのです。 隆盛は突然の抜擢にビックリ! 御庭方というのは斉彬の私用の秘書のようなもの。そしてこの時に優れた開明君主であった斉彬に大きな感化を受けたのです。 また斉彬も賢い隆盛をとても気に入り、水戸の藤田東湖や戸田蓮軒などの一流の人物に接すよう計らったのです。 特に隆盛は藤田東湖に対しては「世の中にこんな人物がいたのか!」と驚くほど。 藤田東湖は隆盛の怒りをどこに向ければいいのかを教えてくれたのです。 橋本佐内はそんな隆盛を見て「あいつは単細胞だな。すぐに感心する」と隆盛のことを感激バカと笑っていました。 が、隆盛はそんな橋本佐内のコトも尊敬していたのです。 ちなみに24歳の時に初めて結婚。が、どうやら隆盛の3人の妹達と気が合わず2年で離縁。 当時は斉彬と弟の久光の間で後継ぎ問題が長い間続いていました。隆盛はそのとばっちりを受け2度も島流しになってます。 ですがそういったトラブルを乗り越え、斉彬の意思を受け継ぐ重要な人物となっていくのです。 ちなみに身長が180センチで体重が110キロあったらしい。写真が大嫌いで、今残っている隆盛の絵のモデルは弟という説があります。 |
西郷ドン 誠忠組(せいちゅうぐみ)を結成 |
また、西郷隆盛はこの頃「誠忠組」という若手勤王グループを結成していました。 リーダー格として西郷どん。他に、大久保利通など同じ加治屋町の若者が参加。 |
1851年5月 佐久間象山 江戸に砲術塾を開く |
![]() 象山の父は松代藩に務めている下級武士でした。 14歳の時に松代藩主である真田幸貴が佐久間家を訪ねた時、当時14歳だった象山を見てその才能を見抜き江戸に行かせ学問を学ばせたのです。 象山は江戸で梁川星厳(せいがん)藤田東湖(とうこ)佐藤一斎・渡辺華山らと交わり学問に磨きをかけたのです。 1839年には神田お玉ヶ池に私塾である「象山書院」を開いて、多くの門人を集めました。この時象山29歳でした。 1842年には藩主の真田幸貫が海防掛老中に抜擢されると、象山は海防問題を研究して「海防八策」を提出。 勝海舟も名高い佐久間象山に是非会ってみたいと訪れています。そして象山は勝海舟の妹・お順と結婚しました。 この年に松代藩邸に私塾を開き砲術を教えることに。 入門者は120人となり、その門人には吉田松陰・勝海舟・河合継之助・坂本竜馬もいました。特に吉田松陰は佐久間象山に多大な影響を受けることになります。 吉田松陰は「すこぶる豪傑卓異の人だ」と激褒め。 西郷隆盛は大久保利通へ出した手紙に「学問と見識においては、象山は抜群であった」と書いたほど。 象山は身長188センチもあり、一見西洋人に見える風貌。ヒゲも威厳をみなぎらせまくりでした。 非常に傲慢な態度だったので、嫌われることも多かった。 まためちゃくちゃ清潔好きで1日に2回下着を変えてたらしい。 ちなみに鳥居耀蔵とめちゃくちゃ仲の悪い江川太郎左衛門に砲術を学んで、みずから大砲を設計したんだけど、これが大失敗!それを「作った奴が下手だったんだぁ!オレの設計に間違いはなぁい!」と激怒。勝海舟は「象山ほど物知りは見たことないけど、なんせホラ吹きで困るよ・・・」と後に語っていました。 |
1851年 近藤勇 土方歳三と出会う |
![]() 母が妊娠中に父を亡くし、歳三が5歳の時にその母も死んでしまい、年の離れた兄夫婦に育てられました。 10歳の頃に上野の呉服屋である松坂屋に奉公に出されました。 当時松坂屋に奉公に行けるなんてなかなかできることではありませんでしたが、商人向きではなかったらしく長く続きませんでした。 歳三はその顔の良さから、そこにいるだけで女性が寄ってきたため、それがイヤで辞めたそうです。 20歳を過ぎた頃から家に伝わっている「石田散薬」を売り歩きながら剣の道を志ざすことになりました。 天然理心流の出稽古先である佐藤彦五郎の道場で剣を習い始めた歳三は、遊びに来た近藤勇と出あったのです。 勇より一つ年下の歳三と勇はとても気が合い、兄弟のように仲良くなりました。 ですがこの頃の歳三はまだ家業を手伝っており、試衛館に入門するのは8年後となります。 また「石田散薬」は打ち身や捻挫に効く薬で、お酒と一緒に服用。のちに新撰組の常備薬となります。 |
1852年 10歳の沖田総司 試衛館に入門する |
奥州白河藩の武士である父・沖田勝次郎の長男として生まれました。姉に光ときんがいます。 総司が生まれた頃の勝太郎の身分は武士でありながら最下層でした。ちなみに、父は1845年に死去。 総司は姉の光に養われ、この年試衛館の内弟子となったのです。 ここで初めて近藤・土方と出会ったのです。 総司は住み込みで入門しました。 当時は三大道場と言われる玄武館・練兵館・士学館が大人気でした。天然理心流はマイナーで、経営状態はあまり良くありませんでした。 総司の剣の才能は素晴らしく、19歳で免許皆伝となり、近藤勇・土方歳三を唸らせるほどの天才ぶりでした。そして塾頭になるまでの腕前となったのです。 その天才ぶりは、玄武館で学んでいた藤堂平助や山南敬助も子ども扱いされるほどでした。 |
1852年7月 ジョン万次郎(中浜)12年ぶりに帰ってくる |
日本人で初めて北米大陸に足を踏み入れたのが中浜万次郎。 1841年に15歳の万次郎は漁師仲間4人とと小舟で土佐中浜から漁に出ました。 ところがシケに遭遇。船は黒潮に乗り東へと流されてしまったのです。 万次郎らは10日間小舟で漂流し、八丈島よりも遠い「鳥島」に漂着しました。 島で5人は海草や鳥を食べ飢えをしのぎ、なんと143日も過ごしたのです。 そこへ運のいいことにアメリカの捕鯨船が通りました。万次郎らは救助されたのですが、日本は鎖国中だったためアメリカの船が入港できなかったのです。 そこでその船の船長であるホイットフィールド船長は5人をハワイのホノルルに下ろしました。 ところが!一番年少である万次郎は「この船の残りたい!」とホイットフィールド船長にお願いしたのです。船長はOK♪と快諾してマサチューセッツ州まで連れて行きました。 ホイットフィールド船長は万次郎のことをとても可愛がり、英語・数学・造船・測量・航海などの技術を受けさせたのです。学校にも行かせてくれました。 今まで何の教育も受けていなかった万次郎の知識吸収力はめちゃくちゃすごく、19歳にして航海者のバイブルである「新アメリカ航海士」を読破しちゃいました。そして万次郎は捕鯨船の航海士となり世界の海を巡りました。 1850年万次郎24歳の時、一緒に漂流した仲間とホノルルで再会しました。仲間達は日本に戻りたい・・・ということで、2人の仲間を伴って日本へ帰ることにしたのです。 万次郎らは琉球(沖縄)に到着しました。 琉球は薩摩の統治下だったため薩摩へ連れて行かれました。 藩主島津斉彬は万次郎の博学ぶりや持っていた英語の航海書を見逃さず、47日間に渡って万次郎から知識を得ました。 その知識は西郷隆盛らに伝えれることになります。 さらに島津斉彬は万次郎に船を作らせたり、船大工たちに技術を教えるよう万次郎に命じたのです。 万次郎はというと、自分の置かれている政治的立場が全くわかっていなかったので、請われるままに誠実に自分の知識を教え込みました。 そして万次郎から学ぶものがもうなくなると、長崎へと移され9ヶ月もの牢屋生活を送らされたのです。そして長い間の取調べを受けたあとやっとこさ土佐に戻ることができたのです。 この時万次郎26歳でした。 土佐藩主山内容堂も、万次郎の知識を吉田東洋ら土佐の藩士に70日に渡って教えるように言いました。 そして万次郎を最下級の士分に取り立て、高知城下の教授館の職員となったのです。 この時万次郎が教えた生徒には岩崎弥太郎(三菱の創設者)や後藤象二郎がいます。 14歳だった後藤象二郎は熱心に万次郎の話しを聞き、万次郎から「万国地図」をプレゼントされ大喜びしました。 そしてペリーがやってきたことにより、新しい時代へ動き出そうとしていた日本にとって万次郎のような人間は最も必要となっていくのです。そして幕府に呼ばれ江戸に入ることとなるのです。 ちょっと前にロシアのラスクマンに連れられて来た大黒屋もこの頃だったら少しは報われたかもしれないのにね。 |
土佐藩の身分差別制度 上士と下士(郷士) |
土佐藩の藩主は山内容堂(やまうちようどう)です。 山内の祖である山内一豊は妻 千代のへそくりで馬を買い、それが信長に認められ出世していった男ですが、関ヶ原では家康につき、西軍について負けた長宗我部家を追い出して土佐をゲットした男です。 そのため山内家は徳川家のお陰で掛川6万石から土佐24万石という出世をさせてもらったため、徳川家には頭が上がらず、250年以上たった容堂の代までその伝統(?)は受け継がれていました。 そのため山内容堂は「佐幕派」であり続けるのです。 ここで土佐に「上士(じょうし)」と「下士(かし)」という身分差別ができてしまうのです。 もともと土佐は長宗我部家でした。 長宗我部盛親は関ヶ原で西軍につき、所領没収となり、大阪の陣では豊臣方につき、とうとう処刑されてしまったのです。 代わりに土佐に入った山内一豊は、長宗我部家の遺臣を全てクビ(クビならマシ。殺された家臣もわんさか)にし、徹底的な身分差別制度を導入したのです。 長宗我部の遺臣には「下士(かし)」として農地開発を強制的にやらせました。 そして山内家の家臣を「上士」としました。 郷士は道で上士に出あった場合は雨だろうが何だろうが必ず土下座をするように命令し、郷士は上士を斬り捨ててもOKとしました。結婚も禁止です。 この身分制度はこの頃も続いており、郷士が藩の政治に加わることは絶望的なことでした。 正月に登城する時の服装も、上士は麻裃に絹の草履。下士は紙製の服に紙製の草履でした。 下士は上士に対して不満を持ちまくっていて、徳川に対する恩義はまるでなかったのです。 対して上士は、自分達がこのような身分でいられるのは、徳川が土佐を与えてくれたおかげってことで、徳川幕府に対して恩義を感じているのです。 「郷士」というのは「下士」のこと。下士にも「旧族郷士」とか「町人郷士」とかがあります。 藩に絶望していた郷士出身の志士達は脱藩をし、京都や大坂などに行き二度と故郷へ帰ることはなかったのです。 その郷士出身に坂本竜馬・中岡慎太郎・武市半平太がいたのです。 |
この頃の長州藩は??藩主 毛利慶親 |
藩主の毛利慶親(よしちか)は幼い頃家督を継ぎました。のんびり屋さんのため、家臣が何を言っても「そうせえ」と言うばかり。 また長州藩は朝廷と特別な関係にありました。 というのも祖である毛利元就が戦国時代に朝廷に多額の献金をしていたり、毛利元就の子孫は大江広元につながり血統が正しかったため、徳川幕府になってからも毛利家は朝廷に対し献金をするのが儀礼的なものとなっていたのです。 長州藩は比較的言論の自由があり、毛利慶親は藩主でありながらあまり藩政の中心にいることはありませんでした。 |
この頃の佐賀藩は??藩主 鍋島閑叟(かんそう) |
藩主である鍋島閑叟は長州の毛利慶親とは正反対のタイプで、むちゃくちゃ独裁者でした。 長崎警備を担当していた藩だけあって外国事情に詳しく、近代科学技術力はこの時代ダントツでした。どこよりも早く藩の軍を洋式にさせ、小型軍艦まで作ってました。閑叟がその気にさえなれば幕府だろうが他藩であろうが佐賀藩だけでやっつけれちゃうほどの軍事力を持っていました。 ですが閑叟は藩政以外のことには徹底的に無視しちゃってたのです。 そのため佐賀藩の志士達は幕末に活躍するチャンスを逃しちゃうんですけどネ。 |