幕末その7 |
1860年 |
1860年1月 日本初の遣米使節 |
アメリカ軍艦ポータハン号の上で調印された日米修好通商条約。 このポータハン号に乗ってワシントンで書類の交換をするために、日本人で最初の遣米使節である77人がアメリカに向かいました。 正使は外国奉行の新見正興(しんみまさおき)。副使は同じく外国奉行の村垣範正(むらがきのりまさ)そして監察として目付けの小栗忠順(おぐりただまさ)が選ばれました。 77人が半年以上外国で暮らすため、荷物は膨大に。米や味噌・醤油・餅など50トンの重さとなり、ポータハン号は6万両のお金も積み込まれました。 旅はまずハワイに立ち寄り、一行はカメハメハ国王にご挨拶。そして3月9日にはサンフランシスコへ到着しました。 ちなみに「日付変更線」の意味が全く理解できず、アメリカ人が2月23日に「明日はもう一度23日だ」というのが、何のことだかサッパリわからなかったそうです。で、村垣は日本に帰った後、初めて1日のずれがあることを知って「一日得した!これは一生の得なり!」と言ったそうです。 |
みんなで仲良くアメリカ見学へ |
サンフランシスコに到着した一行は歓迎を受け、お次はパナマへ。 ここで初めて汽車に乗り、驚きまくりました。 そこからワシントンへ。ホワイトハウスに行き、大統領に会いました。 そしてニューヨークへ。 ここでの歓迎はすごいもので一行を乗せた馬車と6500人の兵士でブロードウェイをパレードしたのです。 一行はその後9月2日に日本へ到着しました。 |
日本は黄金の国だー!小判が日本から大放出 |
話しは少し戻りますが、ペリーがやってきて日米和親条約が締結された時に通貨問題が出てきました。 この頃幕府に通貨交換といった経済観念はまるでなく、とりあえず1ドル=銀貨1枚と一分銀「天保銀」1枚の交換ということになったのです。 ですがペリーに代わってやってきたハリスによって1ドル=一分銀3枚、銀貨1枚ということになりました。 この結果、日本の小判(金)が世界に大量放出することとなったのです。 というのも、この頃の日本では小判(金)と銀貨(銀)の差があまりなく、欧米に比べ5倍近く小判(金)の価値が低かったからです。 そのため世界各国から自分の国の銀を持ってきて、日本の小判(金)と交換するということになりました。 幕府は「何?世界において金の価値ってそんなに高かったの?」とびっくりして、慌てて金銀を国際レベルに落とすべく「天保小判」から「安政小判」へ貨幣の改鋳を行いました。 つまり、小判に含まれる金の量を減らしたのです。 ところが、ハリスは「これは重大な背信行為であるぞ!」と激怒し、イギリスのオールコックと2人で幕府に文句を言いまくったのです。 欧米諸国の大反対を受け、外交オンチの幕府は怖気づきました。 「安政小判」計画はパァになってしまったのです。 そんな中、1人の若い幕臣がいました。それが今回ポータハン号に乗ってやってきた34歳の小栗忠順(ただまさ)だったのです。 |
財政官僚 小栗忠順 「誠忠無比の徳川武士」by勝海舟 |
![]() 7歳の頃から勉学に励み、13歳くらいからキセルでタバコを吸いながら大人に混じって話しをし、堂々としたものだったそうです。 そしてポータハン号に乗り込み、通貨の交換レートを決めるという経済交渉を行うことになったのです。 忠順は「通貨交換の中心になるものは銀ではなく金の方が適切であろう」と延べると、アメリカ側がこれを「そうです」と応えた。 次に忠順は「ではこれまでのように目方で行うのではなく、金の含有量によって交換していただこう」と提案。 アメリカ側は「それはもっともだ・・・」と、日米両者立会いのもと、金貨と小判を比べると、小判の方が金の含有量が多かったのです。 さらに忠順は「ちなみに小判にも金貨にも、金以外の金属は含まれていますな?日本では銀をかなり利用しておるが、ドル金貨の方はどうなのじゃ?金以外の金属(とくに銀の含有量)が正確にわからないことには正しい通貨の交換レートは決められないであろう」と主張したのです。 アメリカ側は「それを調べるのには時間がかかるし、技術的にも難しいから拒否する!」と言ってきました。 小栗以外の日本の使節達も「おいおい、なんだかアメリカ側が怒ってるぞ・・・。何もそこまでやんなくてもいいじゃねーか」と忠順をなだめにかかりました。 ですが忠順はなおも食い下がり 「わが国はハリスによって一方的に定められた交換レートのままここまでやってきた。確かに簡単に受け入れてしまったこちらにも落ち度はある。が、しかし、今わが国はこの交換レートの不合理によって膨大な損害をこうむっている!幸い、ここでは日米合同実験において、その交換レートを正確に定める場があるのだから、日米修好通商条約を末永く続けるためにも、大変だとは思うが正確なる交換レートを確定させるためにもご協力願いたい!」と堂々と強気で主張したのです。 さすがにここまで言われてしまっては、アメリカ側も受けざるを得ない。 その結果、日本の小判はアメリカの金貨に比べるとめちゃくちゃ良質だということが判明したのです。 これによって日本の使節団の評価はものすごく高いものとなりました。特に小栗忠順の評価は素晴らしいものに。 アメリカの経済学者らからも、その頭脳を称えられ、大統領お付の大佐も忠順を「日本の法務官庁」と呼び最大限の敬意を表したのです。 そして小栗忠順の活躍によって、日本からの小判大量放出をストップさせることができたのです。 小栗忠順は以後も幕府内で活躍をしますが、由緒正しい家柄だったゆえにプライドが高く、立身出世した者をバカにするところがありました。 最高に優秀で勝海舟に「誰よりも優れており、その計略は世界に通じるほど。しかも誠忠無比の徳川武士である」と評されるほど。 ですが、プライド高すぎたため度量の狭さが悲劇を生むこととなるのです。それはまた後ほど・・・。 |
1月 勝海舟 咸臨丸でアメリカへ |
![]() 咸臨丸に乗り込みアメリカに向かう一行は96名で、提督には軍艦奉行の木村喜毅 (よしたけ)艦長には勝海舟が任命されました。 ちなみに海舟は盛んに自分を売り込んで無理やり艦長のポストに座ったそうです。 通訳としてジョン万次郎が行き、提督木村の従者として福沢諭吉が乗り込みました。 この時福沢諭吉は27歳。向学心に燃えまくっていてどーーーーしてもアメリカに行ってみたい!と木村にお願いしまくったのです。 この頃外国に行くのを自ら進んでお願いしてくる者など滅多にいなかったので、木村は「変わったヤツだ」と思ったそうです。 はじめは日本人だけで行く予定だったんですが、木村が「航海に慣れているアメリカ人も連れて行こう」ということっとなり、ブルック大尉ら10名のアメリカ水夫も一緒に行くこととなりました。 ちょーど彼らは船が壊れちゃってお迎えの船を待ってるトコだったので、ラッキーとすぐさま一緒に行くことをOKしたのです。 ですが勝海舟が大反対!「あれくらいのことなら自分でもできる!」と最後までブルック大尉の乗船を嫌がりました。 が、木村提督の命令により、海舟はしぶしぶOKしたのです。 |
自分勝手な艦長 勝海舟 |
航海は38日間に及びました。 が、そのうち34日は悪天候のため咸臨丸が無事に太平洋を横断できたのはブルック大尉らのおかげでした。 あんなにブルック大尉のことを嫌がった勝海舟はというと、船酔いのため自室にこもりっきり。 しまいには太平洋のど真ん中で「おれを下ろせ!」と命令して乗員らを慌てさせました。 ジョン万次郎は、めちゃくちゃ呆れたそうです。 さて、いよいよサンフランシスコに到着!という時に、なんと海舟は自分の家紋をあしらった軍旗を取り出して咸臨丸の艦旗として上げようとしたのです。 これを見たアメリカ兵はビックリ!すぐさまブルック大尉に報告し、ブルック大尉は木村提督に「ちょっとダメだよ!個人の旗なんて!日本国の国旗を上げるのが国際法上で当たり前のことだよ!」と注意しました。 この頃になると乗務員達は海舟のわがままさに呆れ果ててたので、海舟の軍旗が下ろされると大喜びして、旗を焼いちゃったそうです。 福沢諭吉は「海舟は艦長という職にありながら、船に弱く自室にこもりっぱなし。それがサンフランシスコに着くとオレは艦長だ!とえばり始め、何かと指示を出すようになった・・・」とかなり呆れ気味だった。 そのため福沢諭吉と勝海舟は、死ぬまでずーーと仲が悪かったそうです。 その後、ポータハン号一行と会って、お互い無事に着いたことを祝いました。そしてこの時ジョン万次郎と福沢諭吉は「ウェブスター辞書」を購入。 これが後に英学の発展に大きな役割を果たします。 1ヶ月の滞在後、咸臨丸は浦賀に向けて帰路の旅へ出ました。 |
慶応義塾の祖 福沢諭吉 |
![]() 父が死んでしまったため、諭吉は中津へ帰り、塾で漢学を学びました。 20歳の時に長崎に行き蘭学を学び、21歳で大坂へ行き緒方洪庵の適塾に入って強い影響を受けることに。 1858年に藩から江戸に行くように命令されました。 その時に中津藩の築地の江戸屋敷内に「一小家塾」を設立。これが慶應義塾になります。 翌年、開港するとアメリカ人がわんさかやってきた横浜を見て「これからは英語が必要だ!」と思い始めました。 その後、咸臨丸に乗ってアメリカを見ることとなったのです。 |
水戸藩 井伊直弼を恨む |
直弼は安政の大獄により、色んな人々からめちゃくちゃ恨みを買っていました。 薩摩では精忠組(せいちゅうぐみ)という青年志士らが脱藩して井伊直弼を襲撃しようと計画していましたが計画がばれてしまい、島津久光らから中止するように言われてしまい未遂。 水戸藩では過激派と鎮圧派が対立しまくっていました。 過激派の志士たちは「井伊直弼を襲撃しよう」と密かに暗殺計画を勧め、江戸に集まって計画を決行する日を狙っていました。 水戸藩と密かに連絡を取っていた薩摩藩では精忠組が途中で計画を中止したことを知り、江戸在中していた薩摩藩の有村次佐衛門だけが水戸藩の計画に加わることとなったのです。 現場指揮者の関鉄之助ら17人の水戸浪士と、薩摩藩士の有村次佐衛門ら合計18人は襲撃の日を3月3日、井伊が登城する日と決定しました。 3月3日の節句では諸大名が登城するのが習慣となっていました。本来ならば水戸藩邸も大忙しの日。 ですが水戸藩はことごとく安政の大獄によって処罰されており、ひっそりとしていました。 唯一江戸城へ行くのは「御城付」という御三家のみにある役職の者だけで、御城付の白井平次兵衛のみが江戸城へ向かいました。 |
3月3日 桜田門外の変 |
![]() 午前9時ごろ、総勢60名の直弼の行列がやってきました。 行列が桜田門に差し掛かったとき、浪士の1人が訴状を持って直訴するフリをして行列に駆け寄ったのです。 その瞬間、供侍に斬りかかったのです。びっくりした供侍が逃げようとすると、一発の銃声がとどろきました。 この銃声が合図となり、待ち構えていた浪士らが井伊直弼の乗った駕籠に殺到したのです。 供侍らは大雪だったため刀に柄袋をかけてあり、また雨合羽を着ていたため動きが取れにくくとっさの応戦に出遅れてしまったのです。 駕籠を持っていた者が逃げてしまい、浪士らは井伊直弼を駕籠から引きずり出して首をとったのです。 あっという間の戦闘で、彦根藩士は死者8名。負傷者10名以上となり、浪士側は死者6名。その後自刃した者が4名となりました。 白昼堂々の大老暗殺計画は成功したのです。直弼46歳。大老職わずか2年たらずでした。 攘夷論に対して「安政の大獄」で応えた幕府最高権力者の死は、急激に幕末の激動へと向かっていくこととなるのです。 そしてただ1人の薩摩藩有村次佐衛門は井伊直弼の首を持って帰ろうとしたが、途中で死んでしまいました。 |
井伊家大パニック! |
大老の首を持った有村次佐衛門は重傷によって途中で倒れ、その首は近くにいた遠藤家へ。 井伊家は「大老の首がない!」と必死になって首を探していました。 仕方なく「大老急病」と発表し、首はどこだぁ!?と必死。やっとこさ首は遠藤家にあるとわかり、首を引き取って藩医の手で首と体を縫い合わせたのです。 |
水戸藩 命がけのふざけたお見舞い |
水戸藩邸が水戸藩内の過激派が大老を暗殺した!という事件を知ったのは、御城付の白井が慌てて帰ってきたからでした。 この時はすでに彦根藩から「大老急病」の連絡が来ていたし、さらに彦根藩士が報復として水戸藩邸を襲撃するという噂が立っちゃっていました。 そして困ったことに「大老・老中・若年寄が病気になった場合、紀伊・尾張・水戸の御三家は必ず使者を出しお見舞いに行くこと」という慣わしがありました。 「大老急病」という発表があったからには、ウソとわかっていてもお見舞いにいかなければならないのです。 つまり水戸藩は、今朝自分の藩の人間が大老を殺したというのに、それをわかっていながら「病気見舞い」に行くという危険極まりないお見舞いに行かざるをえないのです。 困った水戸藩はあれやこれやと必死に策を練って、北辰一刀流の腕を持った身分関係のない屈強な男を選び、総勢18名(これ以上で行ってはいけないという人数)と、襲撃に備え人数をギリギリまで増やし、全員礼装の下には鎖帷子を着込み午後6時に水戸藩邸を出たのです。 井伊家に着いた一行は、井伊家家老らがずらりと並んだ部屋に通され、見舞いの儀式を行いました。 水戸家正史は「ご病気と承り、使者をもってお見舞い申し上げます」と見舞いの品を送り、井伊家の家老が「ありがたき仕合せに存じます。おかげさまで病状は心配するほどのものではござらん」と答えました。 その間、刺すような視線を浴び続けた水戸藩の使者。 問題は帰り道でした。真っ暗な夜道、雪が泥のようになっていました。 使者らは全神経を尖らせ、桜田門外から日比谷までの最も危険な数丁の道を歩いたのです。 そして安全な道へ出て、午後9時に小石川にある水戸藩邸にたどり着いた時、使者らはヘナヘナと倒れたそうです。 井伊家も水戸家もそれぞれ自分の家を守ろう必死に知恵を絞った結果、この夜は何事もなく過ぎることとなったのでした。 |
井伊直弼は狙われている事を知っていた!? |
![]() 水戸藩主の徳川慶篤などから「危ないから護衛を増やすように」と忠告されていましたが「格式や石高によって護衛の数は決められています。大老である私がそれを破るわけにはいきません」と護衛の数を増やさなかったのです。 そして「殺されるのも天命である」と考えていたそうです。 |
長野主膳大ショック! |
井伊直弼が殺されたコトを知った主膳は大ショック!ですが、なんとか彦根藩と結んで立ち回りこの時は助かりました。 ですが1862年8月に藩内の派閥抗争に巻き込まれ、首を斬られてしまったのです。主膳48歳でした。 |
3月 近藤勇 ツネと結婚 |
![]() そろそろ結婚を・・・ということになり、3人のお嫁さん候補が現れました。そして3人の中で一番ブスな24歳の「ツネ」を選んだのです。 ツネを選んだ理由は「美人はそれを鼻にかけたりするし、試衛館には男ばっかだから、彼らの目を惑わすような女性だと困る」というものです。 ツネは26歳で子供を産みました。子が生まれた翌年に勇は京都に行ってしまうこととなち、ツネはほったらかし状態となってしまうのです。 つーか、勇も選べるほどいい男か?って感じですけどねぇー(^^;) |
7月 イギリス公使オールコック 外人で初めて富士山に登る |
イギリスの医師であるオールコックは、中国上海で総領事を経て、1859年5月江戸に初代駐日総領事として江戸へやってきました。 そして外国人として初めて富士山へ登ったのです。 幕府に対しては偉そうな態度を取っていて、米国の総領事であるハリスとはあまり仲がよくありませんでした。 |
幕府の権威を回復するぞ!公武合体論 |
桜田門外の変は「真昼間に幕府の大老が殺された」と、幕府の権威がむちゃくちゃ下がる事件となりました。 そのため後を引き継いだ老中の安藤信正と九世広周(くぜひろちか)は、「公武合体」を考え始めたのです。 公武合体とは、朝廷と幕府が結びつき、外からの敵からの攻撃を一緒に処理しようというもの。 というのも、生前に井伊直弼は「孝明天皇の妹である和宮親子内親王(かずのみやちかこ)を将軍家茂に嫁がせ、朝廷の権威を利用して尊皇攘夷派を抑えよう」と言っていました。 井伊直弼が殺され、幕府はどーにもなんなくなってきたので、この案を具体化させるべく動き始めたのです。 |
皇女和宮ってどんな人? |
皇女和宮は孝明天皇とは異母兄妹になります。 和宮らの父である仁考天皇は7人の奥さんがいて、合計15人の子供を生んだんだけど、育ったのは孝明天皇と和宮と桂宮淑子の3人のみでした。 和宮は孝明天皇の16歳年下の妹で、和宮が生まれる直前に仁考天皇が死んだため、孝明天皇が名付け親になりました。 そのため孝明天皇は和宮を娘のように可愛がったのです。 和宮は6歳の時に有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)と婚約しました。ちなみに熾仁親王はこの時17歳。 6歳の婚約者を迎えたんだけど、品行方正な青年でこの縁談に快くOKしました。 そして和宮は物心がついた時から「いつかこの方のお嫁さんになるのね」と、熾仁親王に憧れの心を抱きまくっていたのです。 和宮も14歳となり、さーてそろそろ熾仁親王と結婚の準備に取り掛かるか・・・って時に、なんと降嫁の話が舞い込んできたのでした。 |
孝明天皇ビックリ「絶対嫁にはやらんゾー!」 |
和宮を家茂のお嫁さんに・・・という話を聞いて孝明天皇はビックリ仰天! 「和宮は婚約者がいるんだぞ!もうすぐ大好きな熾仁親王と結婚して幸せになるってのに、何を言ってるんじゃい!一度も京都を出たことのない可愛い妹を、なんであんな危ないトコに嫁がせなならんのじゃ!」と大反対しました。 勿論和宮も「絶対イヤ!」とこの青天の霹靂とも思わざるを得ない話に驚くばかりでした。 ですが何度も何度も安藤&久世は要請をしました。 孝明天皇は仕方なく「では和宮の代わりに、生まれたばかりのわが娘 寿万宮を江戸へ行かせます」と言ったのです。 それを知った和宮は「寿万宮はまだ乳飲み子・・・私がいつまでも拒んでいたら、寿万宮が犠牲になってしまうのね・・・」 そして和宮は、小さな頃から大好きだった熾仁親王との結婚を諦め、将軍家へ嫁ぐことを決心したのです。 ちなみに、将軍家へ行く和宮が詠んだ歌は 「落ちて行く 身と知りながら 紅葉ばの 人なつかしく こがれこそすれ」 「おしなじな 君と民との ためならば 身は武蔵野の 露と消えても」 |
出てきた!貧乏公家の岩倉具視(加山雄三のご先祖様) |
![]() 具視は1825年に堀河康親の次男として生まれました。 12歳の時に妹の紀子が生まれ、14歳で岩倉家へ養子に出されました。 岩倉家は公家といっても貧乏、自宅を賭博場に貸して生計を立てるほどでした。 ペリーがやってきた時に、孝明天皇の摂政だった鷹司正通の和歌教室の生徒になりました。この時具視は29歳。 鷹司正通は開国論者でしたが、具視は「外国との交渉は朝廷が主導権を持つべきである!」と意見。鷹司正通は具視の口上に感心して、天皇の侍従に推薦したのでした。 ちょうどこの頃、妹の紀子は孝明天皇の女官として朝廷へ。そして孝明天皇に気に入られちゃって2人の皇女を産んだのです。 その後、安政の大獄が始まりました。 この時に大勢の公家が犠牲となり、朝廷は人材不足となっていたのです。 新参である岩倉具視に活動のチャンスが与えられたのです。 そして公武合体論が浮上してきました。具視は「和宮を降嫁させたら、外国との交渉において幕府より朝廷がリードできるかもしれない・・・」と考えるように。 孝明天皇がめちゃくちゃ外人嫌いであったためそこを利用し「降嫁させる条件として幕府に対して攘夷を決行するように約束させればいいのでは?」と意見したのです。 孝明天皇は考えた。時代は開国へと進んでいたんだけど「神聖な日本を外国人に汚されたくない」という思いは誰よりも強かったのです。 そして孝明天皇は公武合体を許可しました。 この時に具視は「和宮降嫁と引き換えに日米修好通商条約を破棄する」という約束を取り付け、また「天皇の気持ちに背かない」という家茂直筆の誓約書も書かせたのでした。 ちなみに加山雄三は具視の子孫です。 |
岩倉具視&堀河紀子 ヒットマンに狙われる |
![]() ところが!これが尊皇攘夷派を激怒させてしまったのです。 特に紀子は「孝明天皇の寵愛をもらってることを利用し、天皇をそそのかした悪女」として大ブーイングを受けることに。 「京都から出て行かなければ、首を斬り、家族も皆殺しにする」と脅迫されまくり、とうとう1863年、和宮が結婚した翌年に京都から脱出することとなったのです。 過激尊攘派の手から逃れるために各地を転々としましたが、どこへ行っても迷惑がられ、とうとう先祖ゆかりの地である岩倉村にたどりつきました。 具視はここで今後の天皇政権のために色々な案を練ることとなるのです。 以後5年間 1867年まで、具視は岩倉村に潜むこととなりますが、次第に倒幕派である桂小五郎・西郷隆盛・大久保利通・坂本龍馬らが具視の元へ訪れることに。 そして小さな村で日本のこれからについての策略を話し、具視の考えである「天皇制国家論」が広まっていくのでした。 |
12月 ハリスの右腕 ヒュースケンが殺される |
1859年7月に起きた初の夷人斬りを皮切りに、同年10月にはフランス公使館に雇われていた中国人が殺害され、この年の1月にはイギリス公使館で通訳をやっていた日本人青年・伝吉が殺害され、他にも外国人が襲撃を受けた事件が続きました。 そしてこの月、ハリスの片腕であるヒュースケンが、幕府の護衛の武士とともに公使館へ向かう途中に襲われたのです。 犯人は水戸浪士ではないかと噂されましたが、薩摩藩の伊牟田尚平(いむたしょうへい)らでした。 これにはハリスをはじめ、諸外国が猛烈に幕府に抗議。 イギリス・フランスの公使は「江戸はもうイヤだ」と、横浜に移っていきました。 で、幕府はヒュースケンの母親に1万ドルの見舞金を贈ったのです。 |