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幕末その6 1858年〜1859年

老中 堀田正陸(まさよし)失脚
1858年4月 井伊直弼 大老となる
一橋派VS紀州派はどうなってる?
6月 日米修好通商条約締結
水戸の斉昭ら文句を言いに行く
6月25日 将軍後継に家茂が決定する
7月5日 井伊直弼 安政の大獄がスタート
7月6日 14代将軍 徳川家茂
未亡人となった天璋院篤子(てんしょういん)
不穏な空気が出まくる
井伊直弼のブレーン 長野主膳
9月4日 死(詩)に上手 梁川星厳(せいがん)
9月7日 安政の大獄!梅田雲浜(うんぴん)逮捕!
11月 安政の大獄!頼三樹三郎 捕らえられる
安政の大獄!若き天才 橋本佐内
12月 安政の大獄!吉田松陰投獄
1859年6月 横浜・長崎・函館(箱館)が開港
日本は外国と貿易して豊かになったのか?
斉彬の弟 島津久光
7月16日 島津斉彬死去
7月20日 最初の夷人斬り!
10月27日 吉田松陰死刑
西郷隆盛 自殺を図る
クールな男 大久保利通
大獄で捕らえられた女性 村岡局(むらおかのつぼね)
安政の大獄の処分と処刑



幕末その6 幕末の嵐 1858年〜1859年
老中 堀田正陸(まさよし)失脚
ハリスは幕府に「貿易を早く開始しろ!」と要求してきていました。

阿部正弘の次の老中である堀田正陸は何とか断ろうとしていたんだけど、ハリスの勢いに押されまくっていました。

諸大名らにも意見を求めていましたが、徳川斉昭らが断固反対!と攘夷を訴えてたため、なかなか前に進みませんでした。

困った堀田は「こうなったら天皇の勅許(許可ね)を貰って、反対派を黙らせるしかないな」と、天皇のもとに。

堀田は「勅許ってのは、形式的な手続きだし、朝廷が反対するわけないし」と軽い気持ちで行ったんですが、大の外人嫌いだった孝明天皇は「そんなの嫌でおじゃる!」と反対し、勅許を許さなかったのです。

そして堀田正陸は勅許を得られなかったことにより、失脚となったのです
1858年4月 井伊直弼 大老となる
彦根藩の14男として生まれた井伊直弼。

14男のため冷や飯食いで厄介者として育っていました。自らの住居を「埋木舎(うもれぎのや)」と名づけたほど自分の暗い人生をわかていたのです。

それが長男が死に、その息子も死んだことによって運命が変わってきたのです。

次男以下は全員他家を継いでいたため、井伊直弼が36歳にして彦根藩を継ぐこととなったのです。

そして幕府老中となり、43歳にして「大老」という職になったのでした。

大老とは将軍の名のもとに幕政を行える職でした。

直弼は「近親を除いて英明を選ぶのは外国の風習である!わが国は血統が第一であり、血脈の近い方を迎えるという美風があるのだ!」という持論をもったタイプであったため、紀州派にとってこれほど心強い味方はありませんでした。
1858年 一橋派VS紀州派はどうなってる?
一橋慶喜を押す一橋派と慶福を押す紀州派はいまだ熾烈な争いをしていました。

一橋派は「こんなご時世、いくら血が近いといえども子供の将軍などダメだ!英明・人望のある者こそ将軍にするべきだ!」の声を出し続け、松平慶永は腹心である橋本佐内を京都に行かせ公家連中を説得に行かせたり、同じく島津斉彬も西郷隆盛を京都に派遣し公家連中らを説得させ、「将軍は人望・年長・英明のある者を将軍にすべきだ」と朝廷から幕府に言わせるように動きまくっていました。

200年以上も軽視されまくっていた朝廷から将軍問題について口を出させるなど前例のないことでした。

この異例の手段を成功させるための重大な任務に、松平慶永は橋本佐内を選んだのです。

対する南紀派も負けてはいませんでした。

井伊直弼の腹心である長野主膳は、関白である九条尚忠(ひさただ)の家臣である島田左近と手を組み、巻き返しを図り、「年長・英明・人望」の文字を消すよう努力したのです。

そして朝廷は南紀派の意見を取り、沙汰書には「年長・英明・人望」の文字は消えていました。西郷・橋本らの運動は失敗に終わったのです。
1858年6月 日米修好通商条約締結
井伊直弼は大老職に就くと、すぐさま果敢な行動に出ました。

直弼は「今アメリカと戦ってもまず勝ち目はない・・・。仕方ない!全責任は私が持つ。アメリカと条約を結ぼう」と、決めたのです。

ハリスは「このままだったらイギリスやフランスに侵略されて、中国の清のようになってしまいますよ?その前に日本と友好的なアメリカとの間でアヘンの輸入禁止をうたった通商条約を結んだほうがいいですよ?」と説得し、井伊直弼は、天皇の許可を貰わずに独断で条約締結に踏み切ったのです。

はっきりいってこの頃の天皇なんて、こういった社会情勢をまるでわかってなかったというただの「外人嫌い」だったので、言っても仕方ない・・・という感じだったのです。

直弼の家臣は「勝手に条約締結しちゃったら非難ゴウゴウですよ!やめたほうがいいですよ!」と進言しましたが、直弼は「もし調印を拒否して戦いになったら絶対にわが国は負けるぞ?さすれば長い間この国は国辱を浴びることとなる。この罪は直弼が一身にして受ける!」と言ったのです。

ポーハタン艦上で行われた条約締結の内容は

・神奈川・長崎・函館・新潟・兵庫を開港する
・自由貿易
・関税は両国で協議する
・アメリカ人が悪いことしたら、アメリカの法で裁く

といったもので、日本にとってはめちゃくちゃ不平等なものでした。

そして幕府は7月から9月にかけてオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同じような不平等条約を結んだのです。この不平等条約の改定のために、日本はこれからのちずーっと苦労するのです。
水戸の斉昭ら文句を言いに行く
直弼が勝手に条約締結したというのを聞いて激怒したのは徳川斉昭&慶篤(よしあつ)父子・越前藩主松平慶永らでした。

早速定例の登城日でもないのに江戸城に押しかけたのです。この時直弼は6時間も彼らを待たせました。

さらに定例日で登城していた一橋慶喜を加えた5名は「勝手に調印するなど朝廷をないがしろにした行為だ!」とブーブー文句を言ったんだけど、直弼は少しも動揺せず「ではどうしろというのだ!?文句があるのか!!」と強気で全くたじろがなかったのです。

斉昭は「わが息子慶喜を将軍家定の継嗣に決定してくれるならば、この件については大人しくしてもいいぞ」という腹があったため、直弼に対し一種の取引を持ちかけようとしていましたが、直弼は強気の姿勢を全く崩さず「文句があるなら来い!!何を言おうとお前らなど眼中ないわい」と態度をずーっと崩さなかったのです。
1858年6月25日 将軍後継に家茂が決定する
斉昭らがブーブー文句を言いにきた次の日、直弼は突然「紀州慶福を将軍継嗣とする」と発表したのです。

これには一橋派はビックリ!直弼を甘く見すぎたっ!と焦る反面、正式に発表されちゃったからもはや慶喜の出る幕はなくなってしまったのです。

もー斉昭は超激怒。こうなったら「勝手に条約締結した罪」で攻撃してやるっ!と決めたのです。
1858年7月5日 井伊直弼 安政の大獄がスタート
直弼は一橋派の攻撃にびくともしませんでした。びくともどころか反撃にあってしまったのです。

7月5日安政の大獄第一号とも言うべき攻撃がかけられました。

徳川斉昭・慶勝・慶永に「登城日でもないのに勝手に江戸城にやってきた罰」として謹慎が言い渡されたのです。

さらに斉昭は蟄居となり、慶勝と慶永は藩主の地位を奪われ隠居させられてしまい、慶篤と慶喜は登城禁止処分となったのです。

水戸藩家老の安島帯刀(あじまたてわき)は切腹となりました。

こうして政敵である一橋家の中心人物はことごとく一掃されてしまったのです。

特に水戸家への断罪は厳しいものとなりました。水戸藩は直弼に恨みを持つようになるのです。

直弼は幕府独裁体制を守り続けるということを貫き通そうとしていました。

国外・国内ともに巻き起こる問題の中で、崩壊しかけている幕政を死守し立て直そうとしていたのです。

「世の中が騒然とし、国論が沸騰するのは朝廷・大名・藩士らがガタガタと政治に口を挟むからじゃ!政治は今までどおり幕府に任せておけばいいのじゃ!」という考えだったのです。

直弼にとって、雄藩の藩主とその家臣達が幕府を改革しようとチョロチョロと動き回ることは不愉快以外の何物でもなく、老中政治を信仰する直弼にとって彼らの行為は許せない暴挙と映ったのです。

その直弼の考えが安政の大獄の幕開けとなったのです。
1858年7月6日 14代将軍 徳川家茂
この日、将軍家定が死去しました。そして慶福が家茂と改名し、14代将軍となったのです。南紀派が勝ち取った将軍の座でした。

継嗣問題が解決したのと同時に家茂が死ぬというタイミングの良さから、家定の死は毒殺ではないかと噂されました。35歳でした。

14代将軍となった家茂はまだ13歳でした。
未亡人となった天璋院篤子(てんしょういん)
薩摩の地から出てきて御台所となり2年で早くも未亡人となってしまった23歳の篤姫。

養父である島津斉彬も死んでしまい、もはや帰るところはどこにもなかった。

篤姫は天璋院と名乗り、以後江戸城大奥にを取り仕切ることとなるのです。
不穏な空気が出まくる
勝手に条約調印・勝手に将軍擁立という2つの問題を独断で決めてしまった直弼。

孝明天皇は怒って「退位するでおじゃるー」と言い出すし、梁川星厳・梅田梅浜・西郷隆盛らは「反・幕府勢力」を形成しちゃったり。

さすがに直弼もこの動きを放っておくのは危険かもな・・・と水戸藩のみでなく志士達にも処罰してやると思い出したのです。
井伊直弼のブレーン 長野主膳
主膳の出自は不明ですが、25歳頃から歴史上に登場してきます。

伊勢にて本井宣長の国学を学んでおり、27歳の時に32歳の「たき」と結婚しました。

その後主膳は尾張や美濃などを歩き国学や和歌を教える生活に。この時に出会った近江の医師である三浦北庵が、「埋木舎」でうずまっていた直弼に主膳の著者をプレゼントしたのです。

この本を読んだ直弼は超感動して「是非遊びに来させてくれ!」と主膳を彦根に呼び寄せたのです。

主膳は直弼に頼まれて和歌を教えたりして仲良くなっていきました。出世の見込みのない14男の直弼と三流学者の友情がここで芽生えたのです。

ところが、歴史は思っても見ない方向に動いたのでした。

お先真っ暗と思っていた直弼が大老に彦根藩主となり、主膳は直弼に呼ばれ国学の師となり正式な彦根藩の家臣に。

そして直弼が幕府大老職に抜擢されたのです。

主膳は直弼のブレーンとして動き、朝廷工作にあたりました。諸国を放浪している時に二条家などにも出入りしており面識があったからです。

そして安政の大獄においても直弼の右腕となり「京都の大老」と言われるほどの権勢を持つこととなるのです。
1858年9月4日 死(詩)に上手 梁川星厳(せいがん)
美濃え農業を営んでいた裕福な家に生まれた星厳。33歳の時にイトコの紅蘭と結婚し、夫婦揃って旅に出ました。

2人とも詩が大好きで星厳は「幕末最大の詩人」と言われます。

そして京都に移り、その家で牡丹を愛でたり、詩を作ったりと優雅な生活を送りました。

が、これは表向きのことで、星厳の家は政治結社のアジトだったのです。その家に集まっていたのは吉田松陰・西郷隆盛・横井小楠・頼三樹三郎・梅田雲浜などでした。

が、8月になると星厳はコレラになってしまったのです。

死ぬ時に「男子、婦女の手に死なず」と言い、最愛の妻である紅蘭を別室に行かせ、頼三木樹三郎に見送られ布団の上に正座しながら死んだのです。70歳でした。

が、その直後に安政の大獄が始まったため「星厳は死(詩)に上手だ」と言われるようになりました。

星厳の代わりに捕まってしまった55歳の紅蘭は半年間獄中に入れられました。

出入りした人物の名を執拗に尋問されましたが「知らない」の一点張り。さらに精神異常のフリをして出獄を許されたのです。
1858年9月7日 安政の大獄!梅田雲浜(うんぴん)逮捕!
雲浜は若狭の藩士でした。湖南塾という私塾を開いていましたが生活は超貧乏。ですが師である上原立斎(りっさい)は雲浜をとても気に入り、自分の娘である「しん」を娶らせたのです。

が、貧乏どん底生活はそのまんまでした。

1850年に海防策の意見書を藩に提出したところ、幕府を悲批判している!と怒られ藩士の身分を剥奪されてしまいました。

貧乏暮らしに嫌気がさした雲浜はブローカーに変身。

長州藩へ行き、塩や紙を輸出したり、また上方からは材木・薬・小間物などを輸入させる話をまとめました。また、ちょうど妻の「しん」が亡くなり、新しい奥さんの実家がお金持ちだったため資金援助をしてくれたのでした。

そのためだんだん暮らしはらくになり、京都烏丸に家を構え訪問客をおもてなししまくり。二畳間で親子3人が暮らしていた時とは大違いの贅沢三昧の生活となりました。

ペリー来航の時は「攘夷」に傾いており、将軍継嗣問題では慶喜派として動き回りました。

上方の輸入をしていたことから公家連中と仲良くなり、京都では梁川星厳に次ぐ志士達の指導者となったのです。

梁川星厳・頼三樹三郎・池内大学とともに「悪謀四天王」と呼ばれ、志士達を指導しまくりました。

が、これが長野主膳に知られてしまったのです。

そのため安政の大獄が始まると雲浜は一番最初に逮捕されてしまったのです。

そして江戸に送られ、激しい拷問を受けることに・・・。ですが「攘夷の大儀を知るのみ」とだけしか言わず9月27日ついに獄中で病にかかり死んでしまいました。45歳でした。
1858年11月 安政の大獄!頼三樹三郎 捕らえられる
三樹三郎は有名な学者であった頼山陽(らいさんよう)の第三子として生まれました。

15歳の時に大坂へ出て勉強していた時に、大坂滞在していた幕府のおエライさんである羽倉蘭堂と出会い、一緒に江戸に出て羽倉が保証人となり昌平黌に入学しました。この時18歳でした。

が、幕府の考えに疑問を抱き始めるのです。

幕府があまりにも朝廷をナメきってるのに腹を立て、「幕府が朝廷より立派な寺を建てるなどもってのほかじゃぁ!」と上野寛永寺の葵の紋(徳川の紋だよ)のついた石燈を蹴り倒したため、昌平黌を辞めさせられてしまったのです。ちなみにかなり酒癖が悪かったそうです。

三樹三郎の反幕府への思いはだんだん強くなり「尊皇攘夷思想」を掲げ、学者として大きな影響力を持つこととなるのです。

また父の友人である梁川星厳や梅田雲浜とともに将軍継嗣問題について一橋派と組み、激しく幕府を攻撃しました。

井伊直弼はこのように尊王攘夷論を持ち、政敵である徳川斉昭を援護しまくっている三樹三郎を邪魔に思い、とうとう安政の大獄の時に捕らえたのです。

そして11月に京都にて捕まり、江戸へ送られました。

そして取り調べしまくられましたが、その間も一貫して幕府を批判し尊皇攘夷を主張しました。そのため1589年10月7日に処刑となったのです。35歳でした。

安政の大獄!若き天才 橋本佐内
左内は幼少の頃から早熟で、15歳の時に「啓発録」を書きました。

啓発録とは「交友を選ぶ」「志をたてる」など、じじくさいコトをもっともらしく書いたものです。

父は医師で、16歳の時には緒方洪庵に弟子入り。大坂では梅田雲浜や横井小楠らと交友を重ねていました。

緒方洪庵が開いていた適適斎塾(てきてきさいじゅく)では蘭学を学びました。

この塾はもっとも優れた秀才らが入る塾で、その中でも佐内はNO1の秀才ぶり、洪庵も「わが塾の名声を上げるのは、左内であろう」と認めるほど。

1853年には江戸に行き蘭学を学ぶため塾へ。こちらでも秀才ぶりを発揮し、先輩の半井仲庵は「驚くほどの天才だ」とビックリするほどでした。

佐内の興味は蘭学から兵学へ移っていき、水戸藩士である菊池為三郎を通じて藤田東湖や西郷隆盛と知り合い、だんだん政治問題にのめり込んでいったのです。

1855年の3月。越前半では城内に明道館を創立し、人材を養成しようとしていました。

統率者を探すよう藩主松平慶永に頼まれた重臣の中根雪江は、かねてから秀才と名高い左内を推薦したのです。

そして佐内は江戸から越前へ。23歳で明道館の学監となったのです。

左内の思想は「開国論」でした。「交易こそが富国強兵の道である!」と考えており、藩主松平慶永は佐内に影響されまくるのです。そして慶永の思想も開国論へと傾斜していくことに。

1858年には日米修好通商条約問題と将軍継嗣問題が。慶永は「一橋派」だったため、左内の明晰な頭脳と卓抜な弁舌を利用しようと考えました。慶永はそれほどまでに佐内を高く評価していたのです。

命令を受けた佐内は「慶喜擁立運動」を開始しました。が、慶永は佐内を重要な任務につけたにも関わらず、費用を全く払ってあげませんでした。

左内は目的を達するために賄賂も多少送りたかった。が、軍資金をまるで貰えなかったため、武器となるのは自分の口のうまさだけでした。

なんとか頑張り、慶喜を指名した内勅まで出すってとこまで漕ぎつけたんだけど、長野主膳の働きにより、土壇場で年長・人望・英明の三箇所を削り取られてしまったのです。

そして安政の大獄が始まりました。

慶永は隠居させられ、「自分の力が足りなかったからだ」と中根雪江とともに切腹しようとしましたが、慶永に「勝手なことをするな。死んだらワシを見捨てたと思うからな」と言われ、切腹をとどまったのです。

左内は、まさか自分のところにまで安政の大獄の影響が来るとは思っていませんでした。が、10月22日に佐内の家に捜査が入ったのです。

それから1年近くに渡り、左内は評定所に呼び出され取調べをされました。ですが、主人の命令に従っただけで何もやましいことはしていない!と堂々としており、どうせ大した罪にはならないだろうと思っていました。

が、翌年の10月2日最後の詰問をされ、そのまま小伝馬町の牢に入れられ、死罪という判決が出たのです。ちなみに、奉行は「流罪」と判決を出したのですが、井伊直弼が「死罪」としたのです。

左内は「主命でやったことである!」と主張しましたが、主張すればするほど「自分がやったことを主人のせいにするとは!不届き者め!」と歪んだ捉え方をされてしまい、もう何を言っても無駄でした。

そして10月7日。小塚原にて処刑となったのです。わずか1年ちょっとの政治活動のために、25歳という若さで死んでしまった橋本佐内でした。
1858年12月 安政の大獄!吉田松陰投獄
松下村塾で教えていた松陰。

実は安政の大獄で京都で志士達を弾圧しまくっている老中間鍋詮勝(あきかつ)を暗殺しようとしていました。そして長州藩政を担当している周布政之助(すふまさのすけ)に暗殺計画を打ち明けました。

が、周布はこれに反対し、暴挙を抑えるために松陰を再び野山獄に入れたのです。

松陰は長州藩を尊王倒幕の先駆けにしようとしており、間部を暗殺すれば毛利家の名前は世を轟かせるだろうと考えていたのに、逆に獄に入れられてしまい大ショック!「藩を相手にしたことは一生の誤りだ!」と憤慨したのです。

ここで、野山獄に入れられている松陰に悪いニュースが。なんと幕府から松陰を江戸に送るよう指示があったのです。

江戸に送られ、またも伝馬町の獄に入れられた松陰。嫌疑は梅田雲浜とはどういう関係か?というものでした。

ちなみに松陰は梅田雲浜のことが嫌いでした。そのため雲浜と一緒に何かを企てたりはしないと言ったのです。

ここで松陰はしてはいけない勘違いを犯してしまったのです。

「幕府がこんなことでわざわざオレを呼ぶわけがない。いつまでもぐだぐだしてたら間部暗殺計画のコトも探知されるかもしれないな。だったらいっそはっきり言ってしまった方が心証も良いだろう」と早合点してしまったのです。

松陰からしてみれば「これはあくまでも計画の段階だから、せいぜい他家預かりくらいの罪だろう」と思っていました。

間部暗殺計画を打ち明けられた幕府はビックリ!徹底的に松陰を洗うこととなったのです。

松陰もビックリ!これはやばいことになった・・・と思ったときはすでに遅かった。

幕府は松陰が言っていないことまでも調書に書き、無理やり松陰を間部暗殺計画の指導者に仕立て上げたのです。

松陰は愕然としました。自分の読みが浅かったことを悔やみましたが、これはもう何を言っても無駄だ・・・と諦め、罪を負う覚悟を決めました。

この時点で奉行の判決は「流罪」となりましたが、井伊直弼は「流」の字を自ら「死」と直してしまったのです。
1859年6月 横浜・長崎・函館(箱館)が開港
横浜は何もない寒村でした。

イギリスのオールコックは「こんな何にもないところを開港するなんて!」とブースカ文句を言っていましたが、幕府は三井に出店を作らせたりして何とか開港できるまでの形を作りました。

開港直後に英一番館と言われるジャーディン・マジソン商会が開業し、他の外国貿易商も次第に増えて行きました。

が、開港地が発展するにつれて、不平等条約の効果が現れてくることに。

日本の商人は直接輸出することができず、外国商人を通さないとダメと決まっていたため、海運は全て外国人のものとなってしまい、、情報も教えてもらえず主導権を外国商人に全て握られてしまったのです。

そのため外国人は莫大な利益を上げることに。

さらにその不正利益が発覚したとしても、外国人には日本の法を適用できないという条約を結んでしまったため、日本側は外国人の不正を追及することもできなかったのです。

外国人は何をやっても罰せられないもんだから、外国人の方も悪さをしまくりました。

日本人の不満が貯まるのはあたりまえ。外国人によって日本国はメチャクチャにされてしまう!外国人を排除しなければという「攘夷」思想はますます強くなっていくのです。

そしてこんな不平等な条約を締結した幕府も悪い!と思うようになってくるのです。
日本は外国と貿易して豊かになったのか?
アメリカに続いてイギリス・ロシア・オランダ・フランス(安政の五カ国条約)とも条約を結んだ日本。

実は最大の貿易相手はアメリカではなくイギリスでした。

アメリカはちょうど「南北戦争」が始まっちゃって、貿易どころじゃなくなっちゃったのです。

ちなみに日本の輸出品の80%は生糸でした。当時ヨーロッパの蚕は病気で壊滅状態だったので、日本の品質のいい生糸を買いまくったのです。

このため日本の製糸業や養蚕業は急速に発展していきました。

ですが、日本国内で生糸が品不足になってきました。特にダメージをうけたのは京都の西陣。

西陣織の原料である生糸が極端になくなってしまったのです。これは生糸商が次々と横浜へ送り、イギリスへ輸出されてしまったからでした。

さらに大量の安い繊維物が輸入されてきたため、国内の綿織物は全く売れなくなってしまったのです。

京都の人々はもともと尊皇心(天皇はずっと京都にいたから)が強いのに、幕府のせいでこんな大変なことになってしまったため、「尊皇攘夷派」に好意をしめすようになり、幕府の家臣や新撰組などを嫌うようになっていくのです。
斉彬の弟 島津久光
斉彬が急死し、遺言によって久光の長男である茂久が薩摩藩主となりました。

別の家に養子となっていた久光は、長男の茂久が藩主になると薩摩へ戻り、後見人として藩政を取り仕切るようになったのです。

久光はどんな子だったかというと、先進的な斉彬とは正反対のカチコチの真面目人間でした。革命的なものは好まず、バリバリの封建主義者でした。

その一方で斉彬を尊敬していました。

ただ、西郷隆盛とはめちゃくちゃウマが合わず、前に二度島流しにあったと書きましたが、二度とも久光の手によってです。
1859年7月16日 島津斉彬死去
この安政の大獄に激怒したのが島津斉彬。

斉彬は「今のご時世、血筋で将軍を決めてはダメだ。聡明でなければ多事多難な政局を乗り切ることはできない!」と一橋慶喜を推している一橋派でした。

そのため大奥に養女とした篤姫を送り込んだり、西郷隆盛に朝廷工作をやらせたりと頑張っていましたが、結局それは徒労に終わってしまったのです。

井伊直弼によって「開国」はどんどん遠ざかり、13歳の家茂が将軍になるわ、一橋派はばんばんリストラされるわで、島津斉彬は憤りを感じまくり、とうとう兵を率いて上洛することを決心したのです。

紀州派は焦りました。事態は容易でない方向へ進んでいくこととなったのです。

斉彬は7月8日に鹿児島にて部隊の大演習をしましたが、なんと翌日に病気になってしまったのです。そしてそのまま16日に死去してしまったのです。

藩主となって7年半でした。

コレラとも言われましたが、あまりにもタイミングが良すぎたため毒殺説が流れました。

そして、斉彬の遺志は西郷隆盛へ引き継がれることとなるのです。
1859年7月20日 最初の夷人斬り!
ロシア使節であるムラビヨフの水夫ら3人が、横浜に食料を買いに上陸したところ、武装した日本人にいきなり斬りつけられるという事件がおきました。

夕方、人通りのある路上での出来事でした。1人は近くの店に飛び込み、なんとか助かりましたが、残りの2人はめった斬りにされ惨殺されたのです。

これが最初の「夷人斬り」となります。

幕府は謝りまくって葬儀&お墓を建てましたが、犯人は見つかりませんでした。

つい先日、開港したばかりで、尊攘派の志士たちの間では攘夷熱がすごいスピードで高揚していました。

また開港したおかげで物価が上昇しまくったもんだから、不満もめちゃくちゃあったのです。

この事件以後、外国人殺傷事件が相次いで起こる様になってしまうのです
1859年10月27日 吉田松陰死刑
安政の大獄において捕らえられた松陰は、死刑の判決となりました。

獄中で松陰は「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」という歌を書いた「留魂録」を書き残しました。

処刑の日、刑場に引かれていく松陰はまったく騒がす、平常のままでした。

そして首を斬られる前に鼻をかみ、27日午前10時に、首斬り浅右衛門の手によって斬首されたのです。

29日には桂小五郎・伊藤博文らが桶に入れられた松陰の死体と対面しました。顔が笑っていたと言われています。

高杉晋作・久坂玄瑞は涙を流し「先生の死を無駄にはしない!」と決意を固めたのです。とはいっても、まだこの頃は「倒幕」の考えはありませんでした。

そして松下村塾から育った門弟達は幕末の嵐の真っ只中へ向かうのです。
西郷隆盛 自殺を図る
京都清水寺の住職である月照(げっしょう)とともに朝廷工作をしていた西郷隆盛も、月照を助けようと京都を脱出させ、薩摩で匿おうとしました。

が、斉彬が死んでしまい、久光は隆盛が大嫌いだったため、薩摩藩の態度はむちゃくちゃ冷たく「月照を保護したら薩摩藩は幕府に睨まれるだろ!」と保護を拒絶したのです。

失望した西郷隆盛は月照とともに海で自殺しようとしました。

が、途中で助けられてしまい、隆盛だけが生き残ってしまったのです。

一命を取り留めた隆盛ですが、薩摩藩は「隆盛は死んだ」と死亡届を出してしまい、奄美大島へ島流ししたのです。

この後西郷は名前を変えて奄美大島で3年間おとなしくしてるのであります。

隆盛は斉彬が死んでも、斉彬を褒め続けました。

多くの家臣が久光にゴマスリをしてるというのに、隆盛だけは「私の主人は斉彬様だけです」と突っぱねたため、久光は隆盛が大嫌いだったのです。

クールな男 大久保利通
久光大嫌いじゃー!の隆盛と違い、うまく立ち回ったのが大久保利通。

利通は「権力のあるヤツに抵抗するのは無駄なエネルギーの消耗だ。文句言ったら睨まれるだけで損だよな。俺は久光に接近して信頼を得て久光をその気にさせたほうがいいや」と考えていました。

囲碁が好きな久光に接近し名前と顔を売り込みました。

ある時久光が平田篤胤の書いた「古史伝」という本を探しているという情報をキャッチ。

利通はその本を必死になって探し当てました。そしてその本の中に、意見書を書いて挟み、久光に渡したのです。

後日、利通は久光に呼ばれ「今後、私の側にきて仕事をするように」と命じられたのです。

利通は大喜び。久光の側近として働くようになりました。

働いているうちに、親友の西郷隆盛が悪口を言いまくっている久光像とはまた違った一面を見るようになるのです。

久光は実は「兄である斉彬の遺志を継ぎたい」と思っていました。

利通は「久光殿は隆盛が思っているようなバカなやつじゃないよな」と考え始めるようになっていくのです。
大獄で捕らえられた女性 村岡局(むらおかのつぼね)
本名は津崎矩子(のりこ)

幼少の頃から尊皇思想で、13歳の時に近衛家の侍女となりました。

才能もあり、また美人だったことから人気があり、右大臣の近衛忠熙からもすごく信頼されていました。

おばあちゃんになってから村岡と名前を変えました。

梅田雲浜は村岡局のことを「陽明家の清少納言だ」と言っていたそうです。

村岡局は「朝廷に力がなく、幕府が偉そうにしているなんて!」と常に嘆いており、朝廷の権威を取り戻すために力を発揮しました。

尊皇派の志士達の話しをよく聞き、将軍継嗣問題にも近衛忠熙を動かして口出ししました。

西郷隆盛と僧の月照を会わせたのも村岡局です。

安政の大獄が始まると、村岡局は隆盛と月照を京都から逃がしたということで、幕府に捕らえられたのです。

そして73歳という老齢でありながら、駕籠に入れられて江戸へ送られたのです。

江戸の評定所では厳しい糾問を受けましたが、自分の正義を貫き通しました。

結果、30日後京都に戻ってもいいってことになりました。

ですがその後の1863年にも再び捕らえられ、またも江戸の獄につながられましたが、のちに釈放。

以後は北嵯峨で静に暮らし、維新後88歳で亡くなりました。
安政の大獄の処分と処刑
井伊直弼の安政の大獄は水戸藩の処分に始まり、志士達のトップバッターとして梅田雲浜が逮捕者第一号となりました。

多くの志士達が京都を脱出しましたが、幕府の追及は厳しく多くの人たちが捕らえられました。

死刑となったのは8名。

吉田松陰・頼三樹三郎・橋本佐内・安島帯刀(あじまたてわき・水戸藩家老)・茅根伊予之介(ちねいよのすけ・水戸藩士)・鵜飼吉左衛門(水戸藩・京都留守居役)・鵜飼幸吉(水戸藩・吉左衛門の子供)・飯泉喜内(いいずみきない・三条家家臣)

尊攘派公卿の処分としては、左大臣近衛忠熙(ただひろ)と右大臣鷹司輔熙(たかつかささねひろ)は辞職させられました。鷹司政通(前関白)三条実万(さねつむ・前内大臣)は隠居となりました。

大名では徳川慶勝(尾張藩主)・山内容堂(土佐藩主)・松平慶永(越前藩主)・一橋慶喜(一橋家当主)が隠居・謹慎を命じられました。

徳川斉昭(前水戸藩主)が国元永蟄居となり、徳川慶篤(水戸藩主)が登城停止に。水戸藩は家老の安島帯刀(あじまたてわき)が切腹となり、水戸藩はボロボロとなってしまうのです。

川路聖謨(としあきら)は免職となりました。

ちなみに梁川星厳・頼三樹三郎と親交のあった医師 楢崎将作も捕らえられ獄死。

この楢崎の娘がお龍。あの坂本龍馬の妻となる女性です。父が死んだことにより、龍馬と知り合うこととなったのでした。

逮捕者の処罰は予想を超えた過酷なものとなり、死罪は8名。逮捕者は100人以上となりました。

大老・井伊直弼が幕府の権力を誇示するために行った、ものすごい取締りとなったのです。