幕末その9 1862年 

1862年1月15日 坂下門外の変
流行語大賞はどっちだ?上半期NO1「尊皇攘夷」&下半期NO1「天誅」
2月11日 将軍家茂と皇女和宮結婚
嫁と姑 和宮VS天璋院
和宮と家茂 愛情が芽生える
その後大奥内のバトルはどうなったか?
3月24日 坂本龍馬 脱藩!
西郷隆盛 「久光はバカだ!」
3月16日 久光 「中央に乗り出すぞー」
隆盛ションボリ 「利通に怒られちゃったヨ」
4月8日 吉田東洋暗殺
4月23日 寺田屋騒動
誠忠組のパトロン 薩摩の豪商 森山新蔵(しんぞう)と息子 新五左衛門
4月 高杉晋作 長崎を出航して上海へ
長州藩 高杉晋作
7月 長州藩の長井雅楽失脚!
長州藩 久坂玄瑞
7月6日 一橋慶喜 将軍後見人に
四奸ニ嬪(よんかんにひん)狙われる 尊攘熱ヒートアップ
7月20日 島田左近暗殺 「天誅」第一弾!
8月 アーネスト・サトウが日本へやってくる
8月21日 生麦事件
まじかよ!殺されたのかよ! 横浜在住外国人激怒!
脱帽して助かったアメリカ人と斬った男 久木村利休
で、生麦事件は結局どうなった?
荒れ狂う尊攘派のテロ「天誅」
寡黙な暗殺者 人斬り以蔵
人斬りのスター 田中新兵衛
尊皇攘夷の風速マックス
会津藩 松平容保 京都守護職に任命され真っ青!
松平容保京都守護職に!決めゼリフは「保科正之」
10月 坂本龍馬 勝海舟に出会う
龍馬 勝海舟に弟子入り「先生に惚れました」
11月 長野主膳の妾 村山可寿江生きざらしに
12月 松平容保 京都へ入京
とある会津藩士のつぶやき・・・「ふん。偉そうに」
12月 久坂玄瑞・品川弥二郎 イギリス公使館襲撃!
長州藩 伊藤博文
長州藩 井上馨




幕末その9
1862年
1862年1月15日 坂下門外の変
公武合体佐策の一つである「和宮降嫁」が成功しつつある幕府。

が、婚儀の1ヶ月前にこの結婚の仕掛け人である老中安藤信正が襲われたのです。

この頃、安藤ら幕府チームが強引に和宮を降嫁させ、孝明天皇を辞めさせようとしている!という噂が流れました。

それに激怒した志士らは、安藤の登城日を狙い、安藤を殺そうとしたのです。

井伊直弼の桜田門外の変と同様、直訴を装いましたが、人数が少なすぎた・・・。

6名しか参加しなかったため、計画は未遂に終わり、6名全員討死となったのです。

安藤は背中に傷を負いましたが、幕府は「またも襲われるとは・・・幕府の面目丸つぶれじゃ!」ということで、3ヵ月後の4月11日にクビになってしまいました。

1862年 流行語大賞はどっちだ?上半期NO1「尊皇攘夷」&下半期NO1「天誅」
尊王とは天皇・朝廷を尊んで崇拝するというものです。

ペリーがやってきたことによって幕府支配体制に不安を抱き始めた人々が多くなり「尊王」思想が強まってきました。

一方では欧米などの「外圧」を排除するという動きが出始めました。これが「攘夷」です。

ところが、井伊直弼が天皇の許可を得ないまま条約に調印してしまったため天皇&攘夷志士達を怒らせてしまいました。

また開国した結果外国人が日本を横行するようになり、日常生活は貿易が招いた物価高のため苦しくなってきたのです。

こうした幕府のやり方に人々が危機感を抱き始めて、志士達が各地で立ち上がり始めたのです。

そして孝明天皇は「外人嫌い」なので、尊王攘夷の志士達は京都に集まりだしたのです。

ちなみに「志士」というのは「志のある人」の事で、幕末・維新の時だけに使われる言葉です。

2月11日 将軍家茂と皇女和宮結婚
泣く泣く嫁いだ和宮でしたが、迎えてくれた17歳の将軍家茂は物静かで清純な若者で、和宮の心境をとてもよく理解してくれました。

家茂もまだ若いというのに、無理やり井伊直弼によって将軍にされてしまい、力量不足と言われながらも、一生懸命政務に取り組んでいたのです。

和宮も自分と同様に大人の政治に利用され、嫁ぎたくもない自分の元へやってきたというのが痛いほどわかっていたのでした。

こうして17歳同士のの結婚生活がスタートしたのです。

ちなみに和宮は身長140センチ体重30キロくらいだったそうです。
嫁と姑 和宮VS天璋院
大奥へ入った17歳の和宮。

当時江戸と京都では文化・風習・話し方などなど全く違うものでした。

江戸に入ったばかりの和宮は、慣れ親しんだ京都を懐かしみまくったのです。

「御台所」と呼ばれるのをかたくなに拒み、大奥においては禁裏(きんり)そのままの慣例に従った生活を崩そうとしませんでした。

大奥の花園という老女が「以後江戸風にして生活していただきたい」と言うと、和宮お付の女官が「もともとはそちらがお願いしてきたから降嫁したのであります。日常生活も京風にという約束もしたはずであろう!」と突っぱねました。

和宮をはじめ、お付の一派はあくまでも京都風を貫こうとしたのです。もちろん旧大奥勢力はおもしろくありません。

和宮一派に対し、すべて江戸風にするよう厳しく取り締まったのです。

この頃大奥は13代将軍家定の正妻である天璋院が取り仕切っていました。

最初のご対面の時に、天璋院は上座にて座布団の上に座っていました。和宮はその下座に座布団ナシだたのです。

和宮は大ショック!今まで最高の立場にいた自分が、下座に座るなんて!と屈辱を感じまくったのです。

そして和宮は京都から持ってきたお土産の目録に「天璋院へ」と呼び捨てにして書いたのです。

これには天璋院も腹を立てました。

和宮からしてみれば、自分は「天皇の妹」であり、実際は天璋院より自分の方が身分は全然格上でしょ?という思いがあったのです。

こうして嫁VS姑のバトルが大奥全体を巻き込んで始まっていくのでした。
 
ちなみに勝海舟は「あの2人の仲が悪いのは、お付の女達のせいだ」と言っています。

和宮と家茂 愛情が芽生える
最初から天璋院に嫌われた和宮は、大奥において反感を買っていました。

そんな和宮を慰めたのが夫である家茂。

家茂はゆっくりと誠意を持って和宮の心を開いていくのです。

最初は「将軍とはいえども、武士であろう?武士とは野蛮な生き物で、江戸は未開の野蛮な者どもが住んでいる地であろう」と思っていた和宮。

ですが家茂は優しい心の持ち主で、深い愛情を持って和宮に接したのです。

しだいに和宮は本当に家茂に愛情を抱いていくのでした。

策士である岩倉具視は「もし和宮が泣き言いっても見て見ぬフリを決め込もう」と言っていました。ですが、そのような悲劇は起こらず、2人は仲むつまじい若夫婦として生活を送ることになるのです。

だいぶ後の話になりますが、和宮は子供が授からず、家茂は側室を作るよう周りに勧められましたが家茂は全て断りました。

いつしかこの2人には深い絆が出てきたのです。
その後大奥内のバトルはどうなったか?
和宮は大奥での女の戦いにムカつき、「騙された!」と嘆きましたが、朝廷にいた女官である中川績子が「嫁となったからには、ある程度は徳川家の和を崩さぬよういたしませ」と手紙に書いたことにより、和宮も次第に「確かに意地になりすぎたかも・・・」と思うように。

ある日、天璋院と和宮が江戸城の庭園で一緒に風景を楽しむというイベントがありました。

2人は庭にある靴を脱ぐための石に降りようとして、ふと見ると和宮の履物だけが石の上に乗っていて、天璋院の履物が地面に置いてありました。

それに気がついた和宮が、裸足のまま地面に降りて自分の履物を下に置き、天璋院の履物を石の上において一礼したのです。

和宮一派の女官は「なんてお痛わしい!皇女という尊い身分でありながら、下々の者(天璋院のこと)にあのようなコトをするとは!」と嘆いたのです。

が、これは天璋院の心をほぐすのに充分でした。

「和宮はようやく徳川の嫁としての立場がわかってきたのですね」ということとなり、両派のバトルは和みムードが漂うようになるのでした。

3月24日 坂本龍馬 脱藩!
3月7日に仲間の吉村寅太郎が脱藩しました。

その後、龍馬も土佐を脱藩したのです。

当時「脱藩」とは、藩主に対する裏切り行為であり、家禄没収やお家断絶、ひどくなると切腹させられる場合もありました。

龍馬の様子がおかしいことに気がついた兄の権平は、知人らに「龍馬の様子がおかしいんだよナー。もし龍馬が金貸してくれと言っても絶対貸さないでくれ」と言って廻りました。

そのため龍馬は金策にヘトヘトに。それを助けたのが姉の乙女だったのです。

乙女は脱藩する龍馬に「肥前忠広」という名刀を与えたそうです。

そして龍馬は九州へ。

佐久間象山に教わった「薩摩藩の反射炉」に興味津々で、実物を見に行ったんですが薩摩藩に入れさせてもらえませんでした。

諦めた龍馬は大坂に入り、京都へ向かったのです。

龍馬の脱藩を知った土佐勤王党のメンバーは「龍馬が裏切った!」と怒りました。

が、武市半平太が「まぁまぁ。龍馬は土佐に収まりきらないヤツだから」とかばったそうです。

ですが半平太は、龍馬といい、吉村寅太郎といい仲間が次々と去っていき、かなり落ち込んでいました。
西郷隆盛 「久光はバカだ!」
薩摩藩は、島津斉彬の死後、弟久光の長男である忠義が藩主となっていましたが、実権は久光が握っていました。

久光の部下となった大久保利通は、島流しにあっている隆盛を戻してくれるよう久光にお願い。

久光は仕方なく隆盛を戻したのです。

そして利通は、久光が斉彬の遺志を継ごうとしていることを戻ってきた隆盛に伝えました。

隆盛は「あのバカが斉彬様と同じようにできるわけないだろ!」と文句タラタラ。

大久保利通もコレには困ってしまいました。

久光は戻ってきた隆盛に「これからはオレの命令を聞け!独断でなんでもかんでもやるな!」と厳しく命令したのです。
3月16日 久光 「中央に乗り出すぞー」
久光は中央政界に乗り出そうとしていました。

3月16日 久光は大軍を率いて京都に向かうべく出発したのです。

目的は「安政の大獄で動くことのできない松平春獄(慶永)や一橋慶喜に幕政をゆだね、朝廷にもご挨拶。公武合体派だってことを印象付けて、いい顔してこよっと」って感じでした。

これを志士達は勘違いしてしまったのです。「島津久光殿が討幕軍を挙げて京都に向かっている!我々も続け!」と全国の志士達がいっせいに京都・大坂に集結しだしてしまったのです。

ちなみに久光は全くそんな気はなかった。

むしろそういった志士達が大嫌い。出発する時も「薩摩藩士たるものは、浪士などという不貞な輩と交流することは許さん!もし、私の命令に逆らって親交を深めていた場合は、厳重に処罰するからな!」と言っていたほどだったのです。
隆盛ションボリ 「利通に怒られちゃったヨ」
隆盛は久光のお供としてその大軍の中にいましたが、全国の志士達が京都に集まっているというのを聞いてドッキドキ。

「うわぁー、みんなヤバイよー。久光殿は討幕のトの字もないってのに・・・。このままじゃ、大騒動になっちゃうよなぁ」と心配になってきちゃいました。

隆盛は久光に「少し先に行って情勢を調べてきたい」とお願い。

久光は疑わしそうに隆盛を見つめましたが「まぁいいだろう。ただし下関より先には行くな。そこで私のことを必ず待て!万が一そこで待っていなかったら容赦しないからな!」と言ったのです。

隆盛は「必ず下関でお待ちしています」と約束し、下関へ向かいました。

が、下関に着いた隆盛はビックリ!「久光が総大将となり幕府を倒す!全国の志士達は京都に向かえ!」というニュースが完璧なものになっていたのです。

これはとんでもないことになった!すぐさま止めなければ!と、隆盛は1人で京都に向かってしまったのです。

で、久光が下関に着いた時、待っているはずの隆盛はいませんでした。

もー久光超激怒!大久保利通を呼び、すぐ西郷を呼び戻して来い!と言ったのです。

利通は「まったくアイツはなぁにやってんだ!せっかく人がお願いして島流しから戻してやったのに、次から次へと問題ばっか起こしやがって!」と呆れ気味。

すぐさま隆盛の所へ行き、志士達をなだめている隆盛に「お前、オレと一緒に死ぬか?」と言いました。

さすがに隆盛もションボリ。そんな隆盛を見て、久光はさすがに「切腹しろや!」とは言えなくなり、隆盛はまたも島流しとなってしまったのです。

隆盛の弟である吉次郎らもとばっちりを受け、家財没収や謹慎処分となりました。

4月8日 吉田東洋暗殺
武市半平太は焦っていました。

江戸において長州の桂小五郎・久坂玄瑞、薩摩の山下万平などと「尊王倒幕!」を実行するぞーと決めたのですが、肝心の土佐藩はゴリゴリの佐幕主義。

半平太は土佐勤王党代表として、吉田東洋に会いに行ったんですが、東洋にバカにされまくって決裂。

こうなったら、藩政首脳のボスである吉田東洋を暗殺するしかない!と決意したのです。

4月8日の夜、東洋は幼い藩主である山内豊範(とよのり)と、藩士たちに「日本外史」の本能寺の変のくだりを講義していました。

そして講義が終わるとお酒を飲み、午後10時ごろ城を出たのです。

ここで3人の刺客が東洋を襲いました。那須信吾・大石団蔵・安岡喜助です。

雨の中やってきた東洋を見つけた3人。

那須が東洋の後ろから打ち込んだところ、傘で交わされてしまいました。

「何をいたすかっ!」と怒鳴った東洋。すご腕の剣の使い手だったので、よく戦いましたが、3人に押されとうとう斬られてしまいました。。47才でした。

土佐勤王党は、上士らが反撃してくるだろう!と、戦いの構えを見せましたが、容堂は動こうとはしませんでした。

容堂が動かなかったことにより、半平太ら土佐勤王党は勢いづきました。

そして安政の大獄の関係者や協力者を見つけ出しては暗殺するという「天誅」を行うこととなるのです。
4月23日 寺田屋騒動
久光が幕府を倒そうとしている!と勘違いしていた全国の志士達は続々と集まっていました。

真木和泉・久坂玄瑞・清河八郎・吉村寅太郎・平野国臣・品川弥二郎らメジャー(全国区)メンバーに加え、薩摩誠忠組の有馬新七・柴山愛次郎らです。

が、4月16日に京都に到着した久光は、「はぁ?オレが討幕の総大将!?なんじゃそりゃー!!」とビックリ。

こりゃヤバイ。朝廷から浪士達を大人しくさせるように言われてんのに!とパニックに。

薩摩藩の有馬・柴山ら十数名を大坂の薩摩藩邸に軟禁しました。

が、有馬らは藩邸を脱出し、「まったく何なんだ!?うちの藩主は!?こうなったら関白の九条尚忠と所司代の酒井忠義を襲撃しよう!そして幽閉されている朝彦親王を救出し、参内させて討幕の詔勅をもらおうぜ!」と計画したのです。

その襲撃計画は23日、伏見の寺田屋で話し合いが行われることに。

その情報をキャッチした久光は「大変じゃ!こうなったら・・・」と奈良原繁・道島五郎兵衛ら9名に命令し、ヤツラを大人しくさせろ!聞き入れない場合は討ってもいい!と命令したのです。

奈良原らは寺田屋へ向かいました。

到着してすぐに口論となり、仕方ない・・・と道島が刀を出して田中謙助を斬ったのです。

田中は眉間を斬りつけられ眼球が飛び出て倒れてしまいました。

こっからは大乱闘!薩摩藩士同士の凄まじい斬り合いとなったのです。

この斬り合いで久光側の道島が死に、寺田屋にいた有馬ら6名が死亡。

有馬新七は道島と組打ちとなった時、「俺ごと刺せ!!」と橋口に命令し、橋口は2人を串刺しにして殺したのでした。

この薩摩藩士同士討ちによって、薩摩の急進派は壊滅状態になったのです。

そして生き残った田中謙助と森山新五左衛門(↓の森山新蔵の息子)は切腹を命じられたのです。

誠忠組のパトロン 薩摩の豪商 森山新蔵(しんぞう)と息子 新五左衛門
薩摩の豪商 森山新蔵は、沖縄・奄美大島と密貿易を行っており、巨額の利益をあげていました。

「成り上がり者」とバカにされていましたが、まったく気にしませんでした。

下関の豪商・白石正一郎とも仲が良く、ともに貧乏志士達のスポンサーとなっていました。

新蔵は39歳の時に、誠忠組に参加。

そして藩主の久光が京へ行く際に、勝手に行動していた西郷隆盛を激怒!

隆盛と一緒にいた新蔵は、隆盛とともに薩摩に強制送還されたのです。

そして船に乗り薩摩へ帰る途中、寺田屋騒動にて自分の息子である森山新五左衛門が切腹となったことを知ったのです。

息子の新五左衛門は、寺田屋にて奈良原と有馬らが斬り合いになった時おトイレに入っていました。

トイレから出ると、大変なことになっちゃっててビックリ!

脇差しか持ってなかったのですが、逃げて卑怯者と言われるのが嫌で、脇差で乱闘に参加。十箇所以上斬られて倒れましたが、致命傷ではありませんでした。

そして生き残った田中謙助と新五左衛門は久光により「藩主の使者に抵抗した罰」として切腹を命じられたのです。

田中謙助は重傷で命は助からないだろうという傷を負っていましたが、新五左衛門は手当てをすれば充分助かりました。

が、久光の側近らは自分の保身のために助命嘆願も何もしなかったのです。

新五左衛門はとても美男子でした。その切腹は見事だったそうです。

そして、息子の死を知った新蔵は「志を貫いて死んだのです。わが子ながらあっぱれです」と涙も流さず西郷隆盛らに話しました。

が、数日後隆盛が船を離れた短い時間の間に、新蔵は腹を斬って死んだのです。

最愛の息子を失った悲しみに耐えられなかったのでした。
1862年4月 高杉晋作 長崎を出航して上海へ
高杉晋作は長州藩の代表として上海に行きました。

ここでアヘン戦争以来、欧米の言うがままになっている清国を見て大ショックを受けたのです。

そして欧米の強さや文化・文明の発達を見てカルチャーショックを受けたのです。

普通なら「うわ・・・。こんなに西洋文明はすごいのか。これじゃあ攘夷なんて無理だな」と思うところを、突然「よしっ!徹底的に攘夷で行こうぜ!」と決心したのです。

帰国した晋作は、ますますパワーアップして戦闘的になりました。
長州藩 高杉晋作
高杉晋作の家は長州藩の中でもお金持ちの方でした。

晋作はそんな家庭の1人息子だったので、かなりのお坊ちゃま。

さらに生まれつき虚弱体質で、10歳の時に天然痘にかかり死にそうに。

それからは、いっそう大事にされてしまいお坊ちゃま度に磨きがかかりました。

吉田松陰の松下村塾に入門し、久坂玄瑞と並ぶ秀才ぶりを発揮。

が、2人の性格は正反対でした。

久坂は熱血漢で、盛んに熱弁を振るうタイプでしたが、晋作はのほほんとしており、物事をちょっと変わった方向から見ていたそうです。
1862年7月 長州藩の長井雅楽失脚!
長州藩は、藩論を「開国」と「鎖国」どちらにするか揺れ動いていました。

藩主の毛利敬親は、長州藩トップの長井雅楽に相談。

長井は「航海遠略策(こうかいえんりゃくさく)」という論文を提出したのです。

内容は「鎖国というのは、日本古来のやり方ではない。三代将軍家光の時に島原の乱が起こり鎖国にしただけである。だからこの機会に開国し、公武一体となって国力を強めれば良い」というものでした。

これに真っ向から対抗したのが久坂玄瑞でした。

「日本は輸出する物産がない!手持ちの金か領土くらいしかないではないか!それにもし開国して貿易がうまくいったとしても、得するのは徳川だけではないか!」と、掴みかかったのです。

これにより長井は藩内の尊攘派から非難されまくり。

久坂は長井暗殺計画を企むも失敗。謹慎処分となりました。

長井がいるとヤバイと思った長州藩は、とうとう失脚させてしまったのです。

翌年1863年に失意の中、自刃してしまいました。
長州藩 久坂玄瑞
玄瑞は長州藩医の子として生まれました。

藩の学校では並ぶほどがいないほどの秀才と言われました。

ですが、保守的な藩校になじむことができず、吉田松陰に手紙を送ったのです。

そして松下村塾へ入門しました。

そこで高杉晋作・入江九一とともに「三高弟」と言われるようになり、松陰も「わが塾一番の秀才」と評価し、妹を嫁がせました。

1858年に江戸を遊学しました。

そして先生である松陰が殺されてしまうという事件が!

玄瑞ら松下村塾のメンバーは、松陰の遺著を読み、尊王攘夷思想をより確立していこうと誓ったのです。

1862年に長州藩を脱藩し、朝廷に働きかけることとなるのです。
1862年7月6日 一橋慶喜 将軍後見人に
幕府はというと、井伊直弼が桜田門外の変で殺されてパニックになっておりました。

そこで脚光を浴びてきたのが、英明高い一橋慶喜だったのです。

そして朝廷から新しい役職「将軍後見人」として慶喜を、政治総裁職として松平慶永こと春嶽が任命されたのです。

幕府の人事を朝廷が行うなど、徳川幕府において例のないことでした。

この2人が台等してきたということは、今まで幕府政治の主力だった井伊派が失脚したということになります。

2人は幕閣に登場すると、「大獄を行ったのは井伊直弼の独断によるものだった!」として、井伊家を10万石削減とし、大獄で幽閉された者や桜田門外の変・坂下門外の変の関係浪士に「和宮降嫁の祝い」として一斉に大赦とするという、井伊直弼政治と正反対のことをしでかしました。

そしてこの2人が密かに話し合った結果によって、1人の青年・1つの藩が血を流す運命となっていくのです。

四奸ニ嬪(よんかんにひん)狙われる 尊攘熱ヒートアップ
↑でも書きましたが、和宮降嫁を勧めた岩倉具視らは「四奸ニ嬪(よんかんにひん)」と言われ、真っ先に尊攘派の槍玉に上がりました。

岩倉具視・千種有文(ちぐさありふみ)・久我建通・富小路敬直が「四奸」で、岩倉具視の妹の堀河紀子・女官の今城重子(いましろ)が「ニ嬪」です。

結局6人は京都から逃げていきましたが、尊攘派の志士達は京都に集まり、京都は異様な高まりをみせました。

そしてこの尊攘熱は「天誅」というテロによってますます煽られていくのです。
1862年7月20日 島田左近暗殺 「天誅」第一弾!
島田左近は九条家の家臣で、安政の大獄の時に井伊直弼の腹心だった長野主膳と仲が良く、協力していました。

が、井伊直弼が殺されたことによって左近の雲行きが怪しくなってきました。

身の危険を感じていた左近ですが、この日薩摩藩士の田中新兵衛に襲われたのです。

左近は必死に逃げましたが、加茂川の河原で力尽き、とうとう首を斬られたのです。

首のない死体が川に浮かび、首は四条が原に晒されましたのです。
1862年8月 アーネスト・サトウが日本へやってくる
ロンドン出身のアーネスト・サトウは、イギリス外務省で働いていました。

日本に憧れを抱いており、この年「駐日英国公使館付通訳生」として日本にやってきたのです。

のちに「一外交官の見た明治維新」という本を出版しますが、これはずーっと日本国内で出版されずにいました。

明治維新でヒーローになった人々が、外国人の「本当の目」で書かれており、当時のお偉いさんにとって、めちゃくちゃマズイ内容だったからです。
1862年8月21日 生麦事件
時代はいまいちビジョンのはっきりしていない島津久光を休ませることはありませんでした。

久光は孝明天皇の家臣である大原重徳(しげとみ)を江戸まで護衛し、京都に帰るところでした。

久光の行列400名が、神奈川県の生麦に差しかかった頃に、イギリス商人リチャードソンと、その妻ボロデール夫人、横浜の商人クラークとマーシャルの4人が横浜方面から川崎に向けて馬に乗って進んでいました。

この4人は今日上海に行く予定が中止となったため、川崎太師見物に行こうとしていたのです。

この頃は外国人殺傷事件が相次いでいたので、友人らは「危険だからどこにも行かない方がいいよ!」と忠告していましたが、リチャードソンは「いやぁ、俺は上海にいたから東洋人の扱いには慣れてるんだぜ?大丈夫さ!」と出かけてしまったのです。

そして4人が馬に乗っていると、久光の一行が道の全幅を使ってやってきました。

そこは狭い道でした。

久光一行の先頭が「脇に寄れ」と言いましたが、道幅が狭くなっていたので行列を避けようとしてもぶつかってしまいます。

リチャードソンは「これはヤバイな」と、危険であることを悟り引きかえそうとしましたが、馬の馬首を返す時に行列の中に割り込んでしまったのです。

久光一行の先頭は激怒!奈良原喜左衛門(きざえもん)が、「無礼者め!」と、リチャードソンに斬りかかったのです。

左肩鎖骨から肋骨まで斬られたリチャードソンは慌てて逃げました。すると久木村治休(くきむらはるやす)が、さらに脇腹を斬ったのです。

クラークとマーシャルも背中や肩を切られ、ボロデール夫人は帽子と髪の毛を斬られ、慌てて逃げました。

リチャードソンは1キロほど馬を走らせ逃げましたが、内臓がはみ出てしまいとうとう落馬。

まだ死んでなかったんですが、追いかけてきた薩摩藩士によってとどめを刺されたのです。
まじかよ!殺されたのかよ! 横浜在住外国人激怒!
「生麦村でリチャードソンが斬られた!」というニュースを聞いた横浜の外国人達は大激怒!

今まで斬られたのは軍人や外交官で、一般の商人が斬られたのは初めてのこと。

そして「保土ヶ谷に宿泊している薩摩の行列を包囲して、島津久光を捕らえよう」という議論が起きました。

この時、公使であるオールコックは休暇中で、代行として二ールが公使をしていました。

二ールは「それはちょっと危険だよなぁ。日本と全面戦争に発展したらやばいよなぁ。危険な手段はやめて、話し合いにした方がいいだろ」ということに。

薩摩の方はというと「ヤツラは絶対襲撃してくるぜ!その前にこっちから外国人居留地を焼き払おうぜ!」という意見も出てましたが、大久保利通が必死でそれを止めさせました。

幕府もこのニュースを聞き「事件解決まで江戸にいろ!」と命令しましたが、久光は無視しちゃいました。

さらに「やったのは岡野新助という者で、現在逃亡して行方不明である」と架空の人物まで捏造したのです。
脱帽して助かったアメリカ人と斬った男 久木村治休
久光の行列と出会って助かったのはアメリカ人のリードという人。

リードは日本人が久光一行に出会って土下座したのをみてビックリ。土下座は外国人にとってめちゃくちゃ屈辱的な行為に映りました。

「だけど、なんかやんなきゃヤバイよなぁ・・」ってことで、馬から下りて、脱帽してお辞儀をしていたのです。

リードはこの機転によって、難を逃れてました。

実際、みんな外国人を斬りたくて仕方なかったのです。

リチャードソンを斬った久木村治休は

「はっきりいって、みんな外国人を斬りたくてしょーがなかったぜ。だけど、むやみに斬るわけにもいかんしさ。そしたら後方で音がしたんだよ。あ、これは誰かがやったな!と思って、俺はすぐ刀に手をかけたサ。そしたら外国人が片腹を抑えながら走ってくるじゃねーか。ご馳走がやってきたと思ったサ」と延べています

で、生麦事件は結局どうなった?
交渉は幕府とニールの間で行われました。

翌年の1863年2月に、ニールは「昼間だというのに、歩くことを許されている場所で何もしていない外国人が殺害され、それを放置したままで犯人逮捕に努力をしなかった!」と、10万ポンド(40万ドル・アメリカのヒュースケンは1万ドル)の賠償金を要求しました

さらにイギリス側は大砲を積んだ多くの軍艦を集結させ、答えによっては軍事行動を取ると通告

横浜は大混乱となり、日本人に避難勧告が出されました

幕府は要求をのむ以外に対策がなく、40万ドルという大金を払うことに

朝廷や攘夷とうるさい連中にバカにされるのがかっこ悪いってことで、「この支払いは老中格である小笠原長行の独断です」ということにしちゃいました

イギリスと幕府の交渉はこれにてやっと終わりましたが、次にイギリスは薩摩藩と交渉をすることになるのです
荒れ狂う尊攘派のテロ「天誅」
島田左近の暗殺を皮切りに、今度は長野主膳の手先だった「目明しの文吉」が岡田以蔵に殺害されました

この時以蔵は「刀が汚れる・・・」ということで、綱で絞め殺してます

お次は清川八郎や真木和泉らと仲の良かった本間精一郎が以蔵らに斬られ、四条ヶ原にさらされました

また京都奉行所の4人が岡田以蔵・田中新兵衛・久坂玄瑞らに切り殺され、10月には万理小路家の家臣も殺害されたのです。
寡黙な暗殺者 人斬り以蔵
岡田以蔵は土佐で生まれました。「足軽町」と呼ばれる貧民街出身で、身分は郷士です。

麻田勘吉の剣の門下生となり、「おぬしの剣は隼のようだ」と言われるほどに。

剣の天才でしたが郷士出身のため、麻田門下では蔑まれ、いじめられまくりでした。

嫌になった以蔵は、今度は武市半平太の門人に。

半平太は以蔵の剣の才能に驚き、1860年に中国地方に巡遊に行く時は、以蔵をボディガードにつけました。

この頃から以蔵は半平太を尊敬するように。

1863年になると、以蔵は半平太をお追っかけ、半平太が塾頭を務めた桃井春蔵の道場に入門し、剣の腕にますます磨きをかけたのです。

そして半平太が「土佐勤王党」を結成。以蔵も参加しました。

暗殺者としての最初の仕事は、吉田東洋を暗殺したヤツを探していた井上・広田という2人を絞め殺したことです。

以後、半平太の右腕として暗殺のプロとなっていくのですが、半平太に指示される前に人を斬ることが好きだった。

もともと性格的に異常なところがあったと言われています。
人斬りのスター 田中新兵衛
新兵衛は鹿児島で生まれました。船頭の子、もしくは薬商人の子と言われています。

幼少時から剣が大好きでした。青年になった頃には、剣の腕前は有名に。

1862年に京都へ。

人斬りデビューは島左近暗殺。

その1ヶ月後の8月に武市半平太と出会いました。

この時に半平太と義兄弟の契りを結び、半平太に「本間精一郎(越後の浪人)が危険なんだよな」と言われ、岡田以蔵とともに本間を襲ったのです。

新兵衛は当時まだ19歳。

人を斬るたびに暗殺剣は凄みを帯びていきました。

以蔵とともに、志士仲間から「暗殺者」としてスター扱いされていくのです。
1862年 尊皇攘夷の風速マックス
この頃の京都は無政府地帯となっていました。

桜田門外の変・坂下門外の変と幕府の権威は下がりまくっており、諸国を飛び出した尊皇攘夷派の志士達が競って京都に行き、長州藩等の庇護のもと洛中をのさばり、佐幕派(幕府派)や開国論者達を「天誅」という名目のもと殺戮し、喜ぶという状態でした。

天誅とは「天に代わって逆賊を討つ」という意味なんですが、この頃になると国事に関わる人たちだけでなく、自称・尊皇攘夷の志士達が「尊皇攘夷のための軍資金を調達する」と称して、京都の商家などに押し込み、掠奪したりしていました。

その掠奪したお金で祇園や島原などの色街で遊んだりする始末。

つまり、志のない連中までもが「俺は尊皇攘夷の志士だぜ!」と言って、強奪・掠奪をしまくって、たいしてわかっていないのに「幕府はダメだ!」とか言いまくっていたのです。

そんなヤツラを取り締まるはずの京都所司代や町奉行達は、ヤツラの勢いにただボーっとするばかり。

幕府もこのような京都の異様な情勢を知りながら、まったく鎮圧しないでいたのです。

大老井伊直弼の安政の大獄からすれば、信じられないほどの寛大さでした。

7月 会津藩 松平容保 京都守護職に任命され真っ青!
こんな京都の様子をやばいと感じていた将軍後見人・一橋慶喜と政治総裁職・松平春嶽は、1人の人物に白羽の矢をたてました。

会津藩 松平容保です。ちなみに28歳。

7月のある日、松平容保のもとに使者がやってきて「至急登城せよ」との命令を持ってきました。

容保は夏風邪を引いており、家老の横山常徳(つねのり)が慌てて江戸城へ。

ところが、その横山がさらに慌てて帰ってきたのです。

横山が大慌てした内容は「松平容保を京都守護職に任命する」というものでした。

さらに「京都守護職とは将軍家直属の職で、一橋慶喜の将軍後見人という職や松平春嶽と一緒に幕閣の体制を固め、この時勢を乗り切ろうという意向から新たに設けられた役職である。」というものでした。

容保は真っ青に!

「何を言ってんだよ!絶対いやだよ!そんなのになっちゃったら京都で浪士達の反感を一身に買うじゃないか!それに一橋慶喜も松平春嶽も時勢が変わってきて、ヤバイってことになったら井伊直弼のようにオレも幕府から見捨てられちゃうし!会津松平家の存続だって危なくなるじゃないか!ダメダメ!絶対やらない!」

ということで、家老の横山は容保に命じられて再度登城し、容保の意思を伝えました。

が、「すでに命令が下された以上、受けるべきであろう」と、横山の困った顔を無視しちゃいました。

さらに「そなたから申し聞かせよ」と慶喜に言われてしまったのです。

8月 松平容保京都守護職に!決めゼリフは「保科正之」
京都守護職に任命された松平容保は頑張って断っていました。

が!ここで松平春嶽の決めゼリフが飛び出ちゃったのです。

「いったん守護職を引き受けてくれさえすれば、後のことは自分がいいように取り計らうから。な?それにな、保科正之殿以来の会津松平家のお家柄を考えれば、ここは徳川のために引き受けるべきであろう?」

そうです。会津藩の祖 保科正之は3代将軍徳川家光の弟でした。

二代将軍秀忠が浮気してできちゃったのが保科正之で、妻のお江がコワかった秀忠は保科正之を見ることなく死んでしまったのです。

で、秀忠が死んだ後、家光は自分に弟がいるってのを知り、保科正之がまたいい子だったので特別扱いし、会津藩を授けたのでした。

そのため保科正之は家光に感謝しており「会津藩は、徳川には絶対逆らってはならん!何があっても味方するのだ」という家訓を残したのです。(詳しくは江戸時代その2を見てね★)

ここまで言われた容保は「もう断りきれぬ・・・」と守護職を受けたのです。そしてこの瞬間から、会津藩は血の涙を流す運命となっていくのです。

1862年10月 坂本龍馬 勝海舟に出会う
土佐を脱藩した龍馬は、江戸の千葉道場に世話になっていました。

そこで千葉重太郎とともに「幕府の大奸者、勝海舟に会おう」ということとなったのです。

この時海舟は40歳。

勝海舟が本当のバカであれば、2人はあいつを斬ってしまおうと考えていました。

海舟の前に通された2人。

海舟は「おぬしらはワシを斬りに来たのか?だが、ワシの話しを聞いてからにしてくれ」と、地球儀をクルクルと回しながら言ったのです。

そして海舟は「はっきりいって、今は国内で争っている場合ではない。西洋に負けない強力な日本にするためには、積極的に貿易を行い国の力をつけるべきである。今必要なのは、対抗する軍艦と操縦する船員を養成することである」と述べたのです。

海舟は龍馬に「開国開港」と「海軍」の必要性をとくとくと延べました。

龍馬は「攘夷」の無謀さを薄々感じていたので、この海舟の説得に感銘を受けたのです。

頭の中がすっきりし、自分の進むべき方向を見出した瞬間でした。
龍馬 勝海舟に弟子入り「先生に惚れました」
龍馬は勝海舟に惚れこみました。

そして海舟の弟子となり、以後海舟の右腕として働くこととなるのです。

龍馬の惚れこみ方はハンパではなく、姉の乙女にベタ惚れした様子の手紙を書きました。

「このたび、日本第一の人である勝先生のもとに弟子入りいたしました。めちゃくちゃ可愛がってもらっています。」と書いてありました。

1862年11月 長野主膳の妾 村山可寿江生きざらしに
容保が「京都守護職」というニュースによって、京都はさらに騒然としました。

長野主膳の妾だった村山可寿江が「安政の大獄の時に、志士達を探った」ということで、三条大橋に縛られ生きざらしとなり、その息子は晒し首となったのです。

ますます京都の治安はめちゃくちゃになり、狂気に包まれてきたのです。
1862年12月 松平容保 京都へ入京
松平容保が初めて京都の地へ入ったのは午前10時頃でした。

この日はとても寒く、普段なら人影もない時でしたが「守護職がやってくる!」という噂が流れると、たちまち見物人達がわんかさ出てきました。

見物人の中には過激派浪士らも混じり、守護職の実力はどんなもんか値踏みしていました。

はっきりいって浪士らは所司代や町奉行をバカにしていたので、今度の容保入京にはめちゃくちゃ関心を寄せていたのです。

容保は黒い戦闘集団を引き連れ、堂々と京都へ入ってきました。

今まで所司代などの幕府機関を冷笑していた連中は、さすがに強い畏怖を思わずにはいられませんでした。

容保は1000人の兵を連れ、関白近衛忠熙の家に立ち寄りちゃんとご挨拶をしたりなど、朝廷連中への挨拶もきちんと行いました。

さすがに浪士たちは「今度の守護職ってのは、今までのとはワケが違うカモ・・・」と恐怖感を感じるようになったのです

とある会津藩士のつぶやき・・・「ふん。偉そうに」
この時の様子を会津藩の人の日記にはこう書かれています。

この頃の京都は諸藩士が集まりまくって、がやがやと時論を論議しまくっていた。

初対面の人と会うときは「わしは○○の脱藩人じゃ」とか「ワシは牢獄に入っていたことがある」などと、それがこれ以上ない栄誉のようにベラベラと喋っていた。

中には浪士と言ってるだけで、藩を追われた人も沢山いた。

そんな彼らは、わが会津藩の入京を聞いても「くわいづ藩?ナンダそれ?」とか「会津藩ってどこにあるんだ?大名は誰だ?」などと、その辺にいる人に聞いている有様。

そんなヤツラが偉そうに国事を語るんだから、その内容はたかが知れているし、行く先は思いやられる。

と、書いてありました。

1862年12月 久坂玄瑞・品川弥二郎 イギリス公使館襲撃!
尊皇攘夷派である長州藩の高杉晋作・久坂玄瑞・有吉熊二郎・伊藤俊輔(のちの博文)・井上聞多(のちの馨)らは、品川御殿山に新築されたイギリス公使館を焼き討ちにしました。

これに参加したのは13人でした。

上海から帰国した高杉晋作が、「日本があのような奴隷扱いされることは許せん!」と攘夷で行くことを決めた最初の行動でした。

土佐勤王党の田中光顕(みつあき)は、「高杉は何かをやる時、必ず見通しをつけて行うため失敗が殆どない。やることはめちゃくちゃでも、十分裏で作戦を整えいてる。この公使館焼き討ちの時も、他の人達は血気にまかせて行け!やれ!みたいな感じだったが、高杉は火をつけた後、みんなの逃げ道を確保してたりと、落ち着いていた」と言っていました。
長州藩 伊藤博文
農民の子として生まれた博文。

足軽である伊藤家の養子となったため伊藤姓を名乗りました。

その後、藩の命令で浦賀警備に行きましたが、そこで隊長に才能を見出され、松下村塾に紹介してもらい入門となりました。

松陰21番目の弟子となります。

翌年、江戸へ行きましたが松陰が処刑されてしまいました。

その後は桂小五郎とよく一緒に行動していました。

長州藩 井上馨
長州藩百石取りの次男として生まれました。

武士の家だったんですが、貧乏で農家の生活とあまり変わりがありませんでした。

幼い頃から藩校に入り、蘭学に興味津々。

そして毛利敬親の警備担当となります。

江戸に出て江川太郎左衛門に蘭学を学びました。

剣術は斉藤弥九郎に学びました。

1860年25歳の時にに藩主の毛利から「門多」の名前を貰い、長州藩のために「お金」のことで動き回るように。