幕末の嵐 その10 1863年 |
1863年 |
1月5日 一橋慶喜京都へ入京 尊攘派さらに攻撃的に |
![]() 慶喜の入京がさらに京都の尊攘派の行動を先鋭にさせたのです。 1月10日には、慶喜を支持している宇和島の伊達宗城(むねなり)の宿所に「お前の考えを改めなければ、攘夷の名のもと血祭りにあげてやる」という脅迫状が舞い込みました。 |
新撰組の始まり・・・清河八郎の野望 |
庄内藩出身の清河八郎は、幼少の頃から神童と言われるほどの秀才でした。 18歳で江戸へ出て学び、剣は千葉周作のもとで大目録皆伝をもらうほど。 文武両道の天才でした。 薩摩藩主である島津久光の上洛を利用し、兵を挙げようと考えたものの寺田屋騒動にて失敗。 そのため幕府から目をつけられることに。 そんなある日、酔っ払っていた八郎は町人とぶつかり、その町人を斬ってしまったのです。 町人の首はすっ飛んで、転がったそうです。 このために、八郎はお尋ね者となり、幕府は堂々と八郎を逮捕できると大喜び。 八郎は「こりゃやばいことになった」と、すぐさま逃げたのです。 居場所が無くなった八郎は、江戸に戻ってある陰謀を計画しました。 そして知り合いの松平忠敬を通して松平春嶽(慶永)に提出したのが「浪士募集」だったのです。 |
1月7日 幕府 浪士組を募集する |
清河八郎は「幕府が浪士を集め、一括で管理できるようにしてはどうですか?」と持ちかけました。 そしてその中にはちゃっかりと「この浪士隊に参加する浪士の過去の罪はナシにする」という箇所も入れちゃいました。 幕府はこの策をすんなりとOKしたのです。 というのも、幕府としても当時江戸に溢れている浪士をどうにかしたかった。危険だと思っていたのです。 そのため14代将軍徳川家茂が京都に行く際の警護として、浪士を使ってもいいかな・・・と思ったのでした。 こうして幕府と清河八郎の思惑は一致。 松平忠敬が浪人取扱役となり、山岡鉄舟(てっしゅう)らが補佐役となり、浪士の募集を開始したのです。 |
近藤勇 浪士募集に応募する |
この頃、近藤勇はイライラしていました。 というのも、旗本達に武術を教えるという先生に採用されていたのですが、取り消されてしまうというショッキングな事件があったのです。 先生には「身分や家柄は全く関係なく、優秀な者を採用する」とあったのに、結局有名な道場から選ばれてしまったのでした。 勇の試衛館は、三流くらいの道場だったからね。 この採用取消に落ち込んだ勇は、稽古もサボるようになっていたのです。 そこへ、知り合いの永倉新八が「おいおい、なんか江戸で浪士を募集してるらしいぞ」と伝えてきました。 勇は以前から「京都にて天然理心流を広められたらいいな。それにオレは徳川幕府の幕臣になりたいし!」と密かに思っていました。 むしゃくしゃしていた勇は、血の気の多い試衛館の門下生達と浪士募集に応募することをきめたのです。 |
1月15日 坂本龍馬 脱藩を許され人脈を広げる |
![]() 身軽に動くためには「土佐を脱藩した罪」を許してもらうことが必要でした。 この日、勝海舟は土佐藩の山内容堂を訪ね、龍馬をはじめとした土佐浪士の脱藩を許してもらうようお願いしたのです。 交渉の結果、7日の謹慎処分ということで、脱藩罪を許してもらうことが出来ました。 松平春嶽の口添えもあったそうです。 龍馬は晴れて海舟の本当の弟子となり、人脈を広げていくのです。 そして海軍設立のために航海術を一緒に学ぶ同志を集めることに。 望月亀弥太(かめやた)など土佐出身者に声をかけまくりました。 |
岡田以蔵 勝海舟に注意される |
龍馬は、土佐藩出身の岡田以蔵を海舟のボディガードとして加わらせました。 ある日、海舟・龍馬・以蔵が歩いていると、前から怪しいヤツラが歩いてきたのです。 以蔵は殺気を感じました。 そして相手はすれ違いざま刀を抜いたのです。 以蔵はすぐに反応し、刺客を斬りました。 すると海舟が「以蔵よ、そんなにむやみに人を斬るな」と注意したのです。 以蔵は「わたしが斬らなければ、先生は斬られていました」と言い返しました。 海舟は「そうかもな・・・」とポツリとつぶやいたそうです。 |
1月22日 池内大学 天誅事件 「ミ・ミミがぁー」 |
池内大学は京都の商家出身の儒者でした。 中川宮などの講師も勤め、公卿に弟子を多く持っていたのです。 梁川星巌・頼三樹三郎・梅田雲浜とともに「悪謀の四天王」と呼ばれていました。 安政の大獄が起きると、中川宮に助けてもらって伊勢に逃げましたが自ら自首し、江戸に護送されました。 が、罰がめちゃくちゃ軽かった上に、和宮結婚の大赦で罪を許され大坂で暮らすように。 これが尊攘派から「この大獄でみんな殺されているのに、なぜアイツは平気なんだ?もしかしたら幕府から賄賂を貰ってるんじゃないか?裏切り者なんではないか?」と思われてしまうのです。 そして池内大学の口から秘密が漏れるのを恐れた浪士達に暗殺されてしまったのです。 下手人は岡田以蔵と言われています。 そして池内大学の遺体から切り落とされた耳は三条実愛(さねなる)の家へ。 もう一つの耳は中山忠能の家へ脅迫状つきで投げ込まれたのです。 この耳と脅迫状に恐ろしくなった中山・三条の2人は隠居してしまいました。 そのため朝廷の政務に支障をきたしてしまったのです。 |
さらに天誅は続く! |
池内大学の後、今度は千種家の賀川肇が斬られました。 加賀の左腕は岩倉具視の家へ。そして右腕は千種家へ。 首は一橋慶喜の宿所である東本願寺の前へ置かれたのです。 そして「朝廷の言うことを聞き、速やかに攘夷を決行しなければ、おまえらもこのような姿になるぞ」という脅迫状付きでした。 さらに千種家へ出入りしている百姓惣助も殺されてしまい、その首は土佐藩邸の塀へ。 藩主山内容堂は「今朝、門の所に首が置いてあった。酒の肴にもならぬ。無益の殺生 憐れむべし」と言いました。 |
慶喜怒る!浪士を逮捕しろーーー! |
![]() そして「京都中の浪士を一斉に逮捕しろ!厳重に処罰せよ!」と命じたのです。 が、容保は「浪士たちがこのような事をするのには訳があるのです。きっと、自分達の意見を聞いてもらえないからです。彼らの意見を上に届くようにしてあげましょう」と慎重意見でした。 容保は浪士の心情と行動を理解してあげようと必死になっていたのです。 |
2月4日幕府ビックリ!こんなに応募が!? |
この日、浪士募集を聞いた浪士達が小石川の伝通院(でんつういん)に集まりました。 その人数300人。 これには取扱役の松平忠敬はビックリ! 予算的に50人しか予定していなかったのです。 「こんな沢山浪士を雇っちゃったら、給料払えないよ」と幕府に交渉しましたが、幕府は「そんな予算ないよ」と却下。 松平はイヤになっちゃって、辞職しちゃいました。 後任は鵜殿長鋭(うどのながとし)。鵜殿は、翌日浪士たちを集めると「悪いが、こんなにいたら給料が出せない。だけど、諸君に志があれば残って欲しいんだが?」と言ったのです。 みんな「志」があれば・・・なんて言われちゃったら「金くれないなら辞める!」とはカッコ悪くて言えない状況に。 結局残った浪士240人を各組30人と7組に分けて、各組には伍長を3人づつ選び、京都に向かうことになったのです。 この時、近藤勇らは伍長になれませんでした。 三流道場だったため、全く評価されていなかったのです。 |
2月10日 新撰組 近藤VS芹沢 道路で焚き火事件 |
浪士隊の一行は江戸を出発し、中山道を通って京都へ向かっていました。 そして3日目、本庄の宿にて事件が起きてしまったのです。 近藤らは本隊より一足先に宿に入って、他の人たちの宿の手配をするように言われていました。 が、この時うっかり芹沢鴨らの宿を取り忘れてしまったのです。 これに芹沢大激怒! 芹沢は意地になり「野宿する!」と言い出し、宿場町のど真ん中で薪を積み上げ火をかけたのです。 宿場町は大騒ぎとなり、慌てて役人が駆けつけてきました。 が、芹沢はその役人を殴り飛ばしてしまったのです。 近藤はめちゃくちゃ謝りまくって、なんとか芹沢をなだめましたが、この事件がのちに近藤派VS芹沢派の対立の一因となるのです。 |
わがまま大将 芹沢鴨 |
![]() 神道無念流を学び、免許皆伝の腕前に。 その後水戸の武田耕雲斎に学んで、天狗党に加わりました。 が、そこで部下と大喧嘩をしてしまったのです。 性格が傍若無人・短気・わがまま・自分勝手・豪快な芹沢は、怒って3人の部下を殺してしまったのです。 その後鹿島神宮にお参りに行った時に、「ここの太鼓は大きすぎて邪魔だ!」と、突然鉄扇でその太鼓を壊してしまったのです。 悪事ばかりの芹沢は、とうとう江戸の評定所で「死罪」の判決が下りてしまいました。 観念した芹沢は絶食して死のうとしたんですが、ちょうどこの時に清河八郎の「浪士募集」を聞いたのです。 「過去の罪はナシにする」というのを知った芹沢は、天狗党仲間の新見錦・平間重助・平山五郎とともに浪士隊に加わったのでした。 |
2月11日 慶喜 朝廷に攘夷することを約束する!「期限は4月中旬じゃ」 |
将軍後見人慶喜は、ほとほと困り果てていることがありました。 決して孝明天皇を嫌いではなかった慶喜ですが、孝明天皇の「夷人嫌い」には困っていたのです。 前にも書きましたが、孝明天皇の「夷人嫌い」はなんの根拠もないもの。 「夷人は人間の肉を喰い、生娘の生き血を飲んでいる野蛮な生き物」(ちなみにステーキとワインのこと)というレベルでしか外国人のことを見ておらず、「ヤツラなど、神国ニッポンからいなくなってしまぇぇぇぇ」というものだったのです。 つまり、世界の情勢がまるでわかっていなかった孝明天皇。 慶喜は「本気で攘夷(外国を退けること)など出来ると思っているのか?もし外国と戦争になったら日本はどうなると思ってんだ!このバカ!」と思っていたのです。 で、そんな天皇が「攘夷しろ」というだけで、それは勅命(天皇の命令)となってしまうから困りモノ。 「天皇ほどの賢い方が、何故わかってないのだ?」と慶喜を困らせまくっていたのです。 そしてとうとう、公卿の三条実美が天皇の勅命を持って「攘夷の期日を決定しろ!」と言って来たのです。 「できるわけねーだろ!」と言いたいところをグッと我慢の慶喜&春嶽。 苦し紛れに「将軍が上洛を終え、江戸に戻った頃に・・・。4月くらいかな?」と返事したのです。 |
将軍家茂の上洛が決定 |
慶喜が将軍後見人になった時から、「家茂上洛」は決まっていましたが、これまで「京都は危険」ということで、延期されていました。 が、松平容保が「一日でも早く上洛した方がいい」と催促したのです。 というのも、容保が上洛した時に長州と仲のいい公家達は、幕府の親藩が守護職になったのを嫌がっており、何とか容保を落とそうとしていたのでした。 容保は「この際将軍が上洛し、公武合体を確実なものとし、京都の騒ぎを沈静させた方がいい」という考えだったのです。 ということで、将軍家茂上洛が決定したのでした。 |
2月22日 尊攘チーム 足利三代将軍の首を晒す「木像梟首事件」 |
将軍上洛のニュースを掴んだ浪士たちは、等持院に押し入り、足利尊氏・義詮・義満と3代将軍の木像の首をはねて、三条大橋に晒したのです。 晒されたのは「征夷大将軍」の首。 そして「鎌倉幕府以来、征夷大将軍は朝廷を軽く見すぎている。今すぐ昔に戻し、罪を問うべきである」という内容の文章もありました。 将軍家茂に対する脅迫だったのです。 しかも、これまでとは違い「攘夷」の文字がありませんでした。 もはや幕府そのものを糾弾していたのです。 今まで浪士たちを理解してあげたいと思っていた松平容保も、さすがに怒りました。 容保は犯人を逮捕するべく立ち上がったのです。 実は容保はスパイを放っており、この事件の犯人はすぐに割れました。 ところが与力の平塚瓢斎が「木像梟首の一味は、500人くらいいるそうです。こんな人数を逮捕するとなったら、いくら会津藩の兵力でも敵わないかもしれません」と言ったのです。 これを聞いた奉行たちは怖気づいてしまいました。 ですが容保は「バカなこと言うな!浪士が何人いようとわが会津藩の兵力をもってすれば恐れることはない!」と強気発言。 その一味の逮捕を町奉行に命じたのです。 梟首の一味の考えは「容保は寛大だから、逮捕に踏み切ることはないぜー♪」と楽観していました。 そこへ容保が動いたというニュースにビックリ! 慶喜は「さすが会津候じゃ!」とニンマリ。 ですが、この逮捕劇により松平容保は過激派公卿&浪士らの憎悪のターゲットとなってしまうのです。 |
2月22日 清川八郎の浪士組 壬生村へ到着「えっ!?そんなの聞いてないよ!」 |
浪士隊はトラブル続きのまま何とか京都の壬生村に到着しました。 そして翌日の23日、清河八郎は新徳寺に浪士隊を集め、自らが書いた建白書を読み上げました。 浪士達はその内容を聞いて飛び上がらんばかりにビックリしました。 内容は「幕府の名前を借りて集めた浪士隊であるが、実は君達は尊皇攘夷派として天皇を守り、朝廷に採用してもらう」というものだったのです。 みんな「は?だって幕府の為に働くんじゃなかったの?」と唖然。 これは全て清河八郎のシナリオでした。 幕臣であった山岡鉄舟も鵜殿基左衛門も呆然・・・。 何か文句を言ったら、刀を出している清河八郎やその仲間達に殺されそうな勢いでした。 そして清河八郎は早速朝廷に「俺ら天皇のために働きます」という建白書を出したのです。 もちろんそれを知った幕府は大激怒! 将軍後見人である慶喜は、松平春嶽と松平容保に「浪士隊を江戸へ帰らせろ!」と命令したのです。 春嶽は朝廷に行き「これは何かの間違いです。浪士隊には江戸に戻らせ異国からの敵を警戒させます」と言い、なんとか勅命を下ろさせることに成功したのです。 さすがに天皇の勅命には清河八郎は逆らえませんでした。 仕方なく江戸に戻ることにしたのです。 |
3月4日 将軍家茂 入京する 晋作「ヨッ!征夷大将軍」 |
この日、将軍家茂が初めて京都へ。二条城に入りました。 この時、見物人の中に長州藩の高杉晋作がいました。 そして目の前に家茂が通った時に「イヨッ!征夷大将軍!」とヤジを飛ばし、スタコラ逃げていったのです。 世が世なら、見る事さえもできなかった将軍。 徳川家康以来、天下の将軍に直接ヤジを飛ばすなど前代未聞のことでした。 |
3月11日 幕府派の会議は決裂 |
公武合体派である島津久光も「将軍が来るならオレも!」ってことで上洛してきました。 早速慶喜は山内容堂・松平春嶽・伊達宗城らと会議を始めました。 が、慶喜はどうも島津久光と気があわず、せっかくの会議もうやむやになっちゃったのです。 とうとう「徒労であったな」と島津久光は帰ってしまいました。 すると伊達・山内も「俺らも帰るわ」と、国へ帰ってしまったのです。 |
3月13日 「壬生村浪士隊(新撰組)」結成! |
![]() が、芹沢鴨と近藤勇の一派は江戸に戻ることを拒否したのです。 彼らは松平容保と交渉し、24名が会津藩預かりとして江戸に残ることになったのです。 この時残ったのが 近藤派・・・近藤勇・土方歳三・沖田総司・永倉新八・原田左之助・山南敬助・藤堂平助・井上源三郎 芹沢派・・・芹沢鴨・新見錦・野口健司・平間重助・平山五郎 残りの11名は後に記録から消えちゃってます。 残った24名の浪士らは3月13日に八木・前川邸を屯所とした「壬生村浪士隊」を結成したのです。 そしてここで浪士募集をし、第一次編成を行いました。 この時の局長は近藤・芹沢・新見の3人でした。 副長は山南敬助・土方歳三の2人です。 |
壬生村浪士隊「お金、全然ないです・・・」 |
壬生村浪士隊として幕府のために働くことになった皆の悩みは「お金がないこと」 もともと貧乏浪士の集まりに加え、会津藩は資金援助をしなかったのです。 そこで芹沢鴨は大坂の豪商である鴻池善右衛門の店に「金を出せ」と交渉しに行ったのです。 鴻池は「何じゃこいつ。こんな浪士に金など出せるか」と追い返そうとしたところ、芹沢がいつものように大暴れしたのです。 番頭(店の店員)が、慌てて町奉行に駆け込むと、そこで「浪士隊は会津藩お抱えだから・・・」と言ったのです。 鴻池は慌てて芹沢に200両渡しました。 このお金であの制服を注文したそうです。 で、会津藩は自分のお抱え浪士隊が金出せ!と脅しに行ったというのを聞いて慌てて芹沢に200両を渡して、奪ったお金を鴻池に返させました。 会津藩もうっかり手当てを渡すのを忘れいていたということで、この件はあまり大事にならずにすんだのです。 そして怪我の功名というやつで、のち鴻池は新撰組を援助するようになります。 |
4月13日 清河八郎暗殺 |
江戸に戻った清河八郎は「攘夷」をモットーに、横浜の外国人の家を焼き払おうとか、幕府の城である甲府城を占拠しようなどと計画をたて始めました。 が、浪士組の一件により幕府から目をつけられており、刺客を放たれていたのです。 清河のほうも、自分の身が危ないこともわかっており、外出する時は常に5・6人を警護させていました。 が、刺客にチャンスが訪れたのです。 この日、速見又四郎が麻布一ノ橋に差し掛かったところで「清河先生ではないですか?」と、声をかけ頭を下げました。 清河もつられてお辞儀しようとしたところを、後ろから斬られてしまったのです。 八郎34歳でした。 そしてこの時の刺客チームのボスが佐々木唯三郎で、清河八郎暗殺により出世し、のち「京都見廻組」の局長になるのです。 |
4月11日 孝明天皇石清水八幡へ祈願。家茂&慶喜ドタキャン |
家茂らは天皇と一緒に攘夷を祈願するために石清水八幡に行くことになりました。 が、「過激派公卿の中山忠光が浪士隊を率いて将軍家茂と慶喜を殺そうとしている」という噂が流れたのです。 慶喜は「こりゃ危ないな」と、家茂のところへ行き「石清水へ行くのは辞めましょう」と言ったのです。 が、19歳の将軍は「そりゃまずいよ。オレ行くよ」と言ってきました。 慶喜は何とかそれをなだめ、「将軍は風邪をひいたので、今回は辞退します」ということにしました。 慌てたのは守護職松平容保でした。 「ダメダメ!何言ってんですか!?将軍というのは武家の棟梁ですよ!?それが巷の噂に恐れをなして辞退したりしたらますますヤツラを調子に乗らせます!この容保が命に代えてもお守りするので中止などしちゃダメです!」 が、慶喜は「途中は容保らがいれば大丈夫だろうが、万が一節刀を賜るという場合になったらどうする?おぬしはその時は側にいられないんだぞ」と、譲ることはしませんでした。 家茂が辞退したという情報をキャッチした過激派。 こうなったら、代役でやってくる慶喜を殺そうぜ!ということになりました。 が、慶喜は「腹が痛い!」と突然言い出し、帰ってしまったのです。 過激派の策謀は失敗に終わりました。 |
孝明天皇「攘夷期限は5月10日じゃー」宣言 |
何とか石清水行幸をドタキャンできた慶喜。 すると今度は三条実美が「将軍が京都にいるのはあと10日ですよ」という勅命を持ってやってきたのです。 2月11日に三条が「攘夷決行しろ!」と言って来た時に、慶喜は「将軍が江戸に帰ってから決めるよ!」と言いました。 三条らの考えは「あと10日京都にいたら江戸に帰り、攘夷の決行の日時を早く決めろよ」というものだったのです。 でもこの頃の慶喜は、江戸に帰れと言われたことはある意味ラッキー♪ というのも、去年の生麦事件の後始末が大変だったからです。 生麦事件の後、イギリスがガーガー文句を言ってきており「返答次第によっては攻撃してやるからな!」と脅していたのです。 京都にいる慶喜らの所に入ってくるニュースは「江戸が大変なことになってる」というものばかりでした。 賠償問題も解決していないのに、天皇から攘夷令が出ちゃうし、江戸は大パニックとなっていたのです。 これを聞いた容保は「えー!江戸に帰る!?せっかく将軍が京都にきてこれから公武合体を強めていくっていうのに!今帰ったら何しに来たのかわかんないじゃん!」と文句ブーブーでした。 が、この日の夜中、そんな容保に「至急二条城へ来い」という慶喜からの命令が。 慌てて容保がやってくると、「また勅命が出たよ・・・。今度はやっぱり江戸に戻るなだってよ」と呆れ顔の慶喜。 すでに先発隊は京都を出発してしまった後でした。 慶喜と容保は「ここで先発隊を引き止めなければ、勅命を破ったということで違勅(命令を破ること)の罪だー!なんだー!かんだー!で、過激派公卿にイチャモンつける口実を与えてしまう。急いでヤツラを呼び戻さねば!」ということに。 慶喜は「ほんっとに京都の公卿連中はイヤなヤツらばかりだな」と1人呟いたのでした。 その後、孝明天皇は家茂に「なんかこないだ勅命が出たらしいけど、わし、そんなの出した覚えないでおじゃるぞ。ところで、攘夷決行はいつじゃ?」と詰め寄りました。 家茂は仕方なく「5月10日」と返答してしまったのです。 |
4月 長州藩 世界に宣戦布告!ドカンドカン砲撃しちゃった |
ここでノリノリになっていたのが長州藩。 長州藩は長井雅楽の「開国論」を退け、藩論は「攘夷」に決定していました。 朝廷が攘夷を正式に決定し、幕府が「5月10日にしますヨ」と受け入れたことで、各藩は「どーやってやるのか?」「どんな風になるのか?」と乱れまくっていました。 夷人嫌いの孝明天皇をうまく利用し、過激派公卿を味方に引き込み、世の中を「尊皇攘夷」と熱狂的にさせるのに成功した長州藩。 朝廷が幕府に「攘夷」を命令したのも全て長州藩が裏で動いていたからでした。 ですが幕府は本気で攘夷が出来るとは考えていませんでした。 どー考えてもペリーが乗ってきた黒船レベルの船に日本の船が太刀打ちできるわけがない。 関ヶ原の合戦以降(大坂の陣と島原の乱はありましたが)戦いもしたことなく、天下泰平の時代を過ごして来た日本の武力が勝てるわけがない。 幕府にとって「攘夷」を受けたのは、時間稼ぎのためで、幕府も諸藩も「攘夷なんて出来るわけないじゃん」という考えだったのです。 ところが!朝廷を動かして有頂天になっていた長州藩は、本気モードでした。 下関にいる米仏蘭の艦船にドカンドカンと砲撃しちゃったのです! 最初はアメリカの商船。お次はフランス軍艦。そしてオランダ軍艦に砲撃しちゃいました。 37万石の日本の一つの藩が、世界相手に勝負を挑んだのです。 慶喜はこの事件を聞いて「ヤツラはバカだ。よほど痛い目にあわないとわからんらしいな」と呟きました。 |
5月 伊藤博文・井上馨 内緒でイギリスへ |
この頃、伊藤博文・井上馨ら長州藩5名が、イギリスのロンドンに行きました。 目的は「世界を見るため」です。 そして市民運動が活発で、(この頃ちょうどパリ・コミューンの時期だった)市民らが意見をガンガン言っている姿を見て驚いたのです。 5人はロンドンにてカルチャーショックを受けていました。 日本はやっとこさ天皇を中心とした政治を!ってとこなのに、すでにイギリスでは市民が権利を勝ち得ようとしていたのです。 そしてロンドンの新聞で衝撃的なニュースを目にすることに。 これはまた後ほど |
5月20日 姉小路公知 暗殺 |
姉小路公知(あねがこうじきんとも)は、朝廷内では三条実美(さねとみ)とともに、過激派公卿のリーダーとして活躍していました。 和宮降嫁を協力した岩倉具視を弾劾したりなど、「尊皇攘夷」をモットーに、幕府に対して圧力をかけていました。 公知は眼光鋭く、畳の上では死ねないであろうと言われていました。 この年の春、家茂が大阪湾の警備視察に行くということで、朝廷代表として公知が一緒について行きました。 ここで、勝海舟と出会ったのです。 海舟は公知に外国の状況・近代の戦術・外国の武器などの説明をしました。 そして「みなさん口を揃えて攘夷!攘夷!と言ってますが、外国はこれだけの武力や兵器を持ってるんですよ」と説明。 公知は「オレ、何も知らなかった・・・」と、ショックを受けたのです。 京都に戻ってきた公知の心は「攘夷」ではなく「開国」へと向けられたのです。 これを「裏切り」とみたのが尊皇攘夷派でした。 この日、公知は夜8時ごろ朝廷を出て自宅に帰ろうとしたところ、3人の刺客に襲われて斬られてしまったのです。 まだ25歳でした。 |
5月 人斬り田中新兵衛 自害する |
姉小路公知が斬られたというニュースを聞いた朝廷は衝撃を受けました。 そして公知が斬られた場所に落ちていた刀の鞘は「薩摩」のものだったのです。 朝廷はすぐに姉小路を殺した犯人を捜せ!と命令。 すると「この刀の鞘は薩摩藩の田中新兵衛のものです」と申し出た者がいたのです。 以前から岡田以蔵とともに「人斬り」として有名だった新兵衛。 すぐさま捕まり、尋問スタートとなりました。 が、田中は「オレじゃない。オレは知らない」の一点張り。 これでもシラを切るのか!と、刀の鞘を見せると、新兵衛は突然自分が持っていた脇差で腹を斬り自害したのです。 姉小路公知の暗殺犯人はわからないまま終わってしまいました。 ちなみに、新兵衛が何故腹を斬ったかというと「2.3日前に、ある料亭で自分の鞘が何物かにすりかえられていた。武士たるものが刀を盗まれるなど恥である」と士道を重んじた自害だと言われています。 |
6月1日 米・蘭・仏・英の報復攻撃がスタート |
長州藩は始めのうちは商船や、武装があまりされていない艦船に砲撃していたため勢いづいていましたが、本格的な艦船でやってきたフランスいたちまち付近の村を焼かれてしまいました。 あわてて藩の兵隊が1000人駆けつけましたが、海上にいるフランス艦船からドカドカと大砲を撃たれてしまいメチャクチャにされてしまったのです。 |
6月6日 高杉晋作「奇兵隊」を結成 |
![]() 奇兵隊とは藩の「正兵」に反する意味で、今までの戦術にとらわれず、ゲリラ的にしよう!という意味で命名されました。 武士・足軽・百姓など身分関係なく、有志を募ってできたチームでした。 藩主の毛利敬親は「長州がフランス艦隊にやられている」というニュースを聞いて、「俺は怒ったぞ!高杉に何か対策するように言っとけ!」と命じたのが始まりです。 高杉は豪商白石正一郎の協力を得て、身分の差別関係なく実力本位の軍隊を作ることにしたのです。 高杉は「志のある者は誰でも歓迎する!」と呼びかけ、続々と入隊希望者が現れました。 ですが、2ヶ月後奇兵隊は乱闘騒ぎを起します。 というのも、正規の藩兵が「たかが百姓&町人の集まりのくせに」とバカにしたのです。 それを聞いた奇兵隊が「我々は高杉晋作殿が藩主の命令を受け、結成したのだぞ!バカにするなや!」と怒り、死傷者を出す乱闘となったのです。 この責任問題を問われ、高杉晋作は奇兵隊初代総督をクビになってしまいました。 |
6月27日 生麦事件の賠償金払えや!イギリス艦隊鹿児島へ |
生麦事件において、イギリスと幕府は10万ポンドを払うということで決着しました。 お次は薩摩と交渉することになったのです。 代理公使のニールは、薩摩に「リチャードソンの親族と他の被害者に25000ポンド賠償金を払うこと。そして犯人を処刑すること」と言って来たのです。 そしてキューパー提督率いるイギリス艦隊が6月27日に鹿児島湾にやってきたのです。 薩摩川の返事は「殺した犯人はまだ捕まってないよ。賠償金の問題は犯人が逮捕されてからにしてくれない?」というものでした。 交渉は決裂したのです。 |
6月29日 龍馬 「日本を今一度せんたくいたし申候」 |
![]() 出だしは「この手紙はすごく大事なので、決してべちゃくちゃ喋ったり、ホホヲホホヲいややのと人に見せたりしないように」と前置きがしてありました。 そして手紙の内容は 「オレもだいぶ出世して、多少のお金を用意できるような身分になりました。ですが、嘆くべきことに長州にて戦が始まり、攘夷すると言っていた幕府も、壊れた外国の船を修理したりと呆れることばかり。然るにオレは日本を今一度せんたくいたし申候」と書いてありました。 また「土佐の芋掘り(田舎者)と言われようが、天下国家を論じるのは自分の天命と思っております」とありました。 |
7月2日 薩摩藩VSイギリス 薩英戦争勃発! |
この日、台風がきており風も強く大雨となりました。 イギリス側は攻撃する前に、もう一度薩摩と交渉しようとしていたんだけど、なんと薩摩が一斉に砲撃開始したのです。 この砲撃で、イギリスのユーリアラス号の艦長が死んでしまい、レースホース号は座礁してしまいました。 もー、イギリス大激怒!ドッカンドッカンと大砲を撃ちまくったのです。 この砲撃で鹿児島の町は1割が焼け野原に。 3時間半の交戦となり、イギリス艦隊はとりあえず引き上げました。 勝敗は微妙でしたが、受けた損害は薩摩の方がはるかに大きく、「再度の交戦はやめて和睦しましょう」という空気が流れたのです。 「薩摩が態度を改めなければまた攻撃してやるぜ!」という勢いだったイギリスですが、薩摩は和睦を求めてきました。 そして和睦交渉が江戸で行われることとなったのです。 薩摩はイギリスの要求通り25000ポンド支払いことにし、犯人を処刑しますと約束。 薩摩藩には賠償金25000ポンドもないので、このお金を幕府から借りることに。 ちなみに、このお金は踏み倒します。 そして薩摩はイギリスから艦隊を購入する約束もしました。 この薩英戦争により、薩摩藩はイギリスと急速に接近していくこととなるのです。 |
京都はまだまだ「天誅」の嵐 |
長州の攘夷決行によって、三条実美ら過激派公卿の士気は高まりまくっていました。 7月19日には右大臣二条斉敬の屋敷が焼かれたり、翌日には松平春嶽の宿舎に予定されていた東山の高台寺が焼かれたり・・・。 過激派の「天誅」というテロは、投書・張り紙などの脅迫もあり、京都の町は滅多なことを言ったら斬られる状況に。 長州藩が完全に京都を掌握していたのです。 福沢論吉も「今はめちゃくちゃ物騒な時代だ。外国の話しをしただけでワケわかんないヤツが刀持って追っかけてくる。」と言ってます。 とにかく「外国人」と関わりのある「貿易商」や「商人」「通訳」なんかは狙われ率100%でした。 |
7月24日 「壬生狼(みぶろ)」京都の人々に嫌われる |
![]() というのも、芹沢は相変わらず自分勝手で商屋などから金品を奪い取り、そのお金で飲んで暴れるという生活をしていたからです。 マジメな近藤らは、そんな芹沢を苦々しく思っていました。 7月24日、天誅組が外国と貿易をして儲けているという理由で、油商の八幡屋卯兵衛を「天誅」と称して斬り殺し、首を晒したのです。 これにビックリしたのが大和屋庄兵衛でした。 大和屋も以前から外国と貿易しており、天誅組にチェックされていたので、慌てて天誅組に1万両もの大金を渡したのです。 これを知った芹沢。 8月13日に自分も大和屋に乗り込み「壬生村浪士隊にも献金しろ!」と脅したのです。 主人が外出していた大和屋はおろおろしていると「天誅組に献金できても、我らに献金できないとは何事じゃあ!」と、大暴れ! 土蔵に火をつけ、「生糸を買い占める大和屋に天誅じゃあ!」と、なんと大砲まで発砲してしまったのです。 さらに日頃から大和屋の羽振りの良さを妬んでいた人々たちが、この騒ぎに便乗して大和屋を打ち壊したりの大騒ぎとなったのです。 駆けつけた町奉行書も「会津藩お預かりの浪士だから手は出せない」と何もできなかったのです。 後日、この1件を聞いた松平容保は超激怒! 近藤勇らを呼び寄せ「芹沢を処分しろ」と命令したのでした。 |
8月13日 孝明天皇「そこまでしなくてもいいんだけど・・・」 |
京都ではまだ嵐が吹き荒れていました。 尊攘派の真木和泉は相変わらず志士達と「攘夷!」「倒幕!」とテーマに動きまくっているし、長州藩の人たちも騒ぎまくってるし・・・といった状況でした。 そしてとうとう三条実美らの無理押しで「大和行幸」の勅命を出したのです。 が、当の孝明天皇ははっきりいって幕府を倒そうとは思っていなかったのです。 「確かに外国人は嫌いじゃ。攘夷はおおいにやってもらいたい。が、あくまでも朝廷と幕府が協力しあって公武合体で行いたいのでおじゃる。みんな倒幕だのなんだの言ってるが、ワシは幕府が嫌いではない。それに妹の和宮が江戸城にいるんじゃぞ?慶喜や容保は軍備が整ったら攘夷すると言ってるじゃないか。」 といった考えでした。 ですが、大和行幸の期日は迫ってきていました。 倒幕などこれっぽっちも思っていない孝明天皇は、困って中川宮に相談しました。 中川宮は「今大塔宮」と呼ばれており、伏見親王の第四皇子です。 安政の大獄の時に「攘夷」を唱えていたため、蟄居させられていました。 以後は公武合体派となり孝明天皇に信頼されるように。 中川宮は三条実美ら過激尊皇攘夷派の活動を苦々しく思っていたのです。 そして中川宮は公武合体派である公卿仲間とこっそりとクーデター計画を進め、会津藩と薩摩藩を味方につけようとしたのです。 |
8月13日夜 おいおいホントのホントかよ!「会薩同盟」 |
この日会津藩公用方である秋月悌次郎(ていじろう)のもとに、思いもよらぬ訪問客がやってきました。 薩摩藩の高崎佐太郎が訪ねてきたのです。 薩摩藩と会津藩は思想が全く違うので仲があまりよくありませんでした。 そんな高崎が「実は、藩命でやってきました」と重々しく口を開いたのです。 「最近、三条実美など長州藩の息のかかった公卿たちが、天皇の意思に関係なく「勅命」を出しています。でも、ほとんどが違勅です。こうなったらわが薩摩藩と会津藩が同盟を組み、君側の奸を清めようではありませんか。是非協力していただきたい」 秋月はビックリ! でもこの日も「勅命」があり、「大和行幸・攘夷親征」といって「諸大名は10万両出せ」というものが出たのです。 秋月も「また偽の勅命かよ」と思ったけど、口に出したら最後「勅命に異を唱えるとは!朝敵じゃ!」ということになってしまうので、黙って支払うしかなかったのです。 会津藩主の容保も「攘夷親征なんてされちゃったら幕府はやばいよー」と、ホトホト困り果てていたのです。 そんなところに薩摩藩という思ってもみないトコから「一緒に長州藩やっつけようぜ」と持ちかけられてきたのです。 秋月は早速容保にこのことを報告。 容保も偽の勅命には困りまくっていたので大賛成。 さっそく中川宮に「会薩同盟結びました」と報告。 中川宮はそれを聞くと「ほ、ほんとかっ!?」と目が輝きまくりました。 「会津藩と薩摩藩、この両藩が協力してくれれば成功する!」と超ウキウキとなったのです。 |
8月18日 無血クーデター8.18の政変 |
真夜中の1時。中川宮は皇居に入りました。 続いて近衛忠熙父子ら、松平容保・稲葉正邦(まさくに・淀藩主)参内。 そして会津藩・薩摩藩・淀藩の兵らに皇居を守るよう命令したのです。 兵らは完全武装して皇居の9つの門を厳重に閉ざしました。 さらに京都にいる土佐藩・備前藩・米沢藩らの多くの藩に、急いでくるよう命じたのです。 午前4時。警護体制が整ったところで、合図である大砲を一発打ちました。 中川宮が「天皇の言葉である」と言った上で「このところ、朝廷の国事を担当する者たちは天皇の言葉だと言い、偽の勅命を出している。大和行幸の件についても天皇はまだその時期ではないと言っているにも関わらず、勝手に決めてしまい天皇はかなり怒っておる!長州藩は天皇まで引き込もうとしている不忠の輩である!長州とともに動いている三条実朝も取り調べる。他に真木和泉・桂小五郎・久坂玄瑞・宮部鼎蔵(ていぞう)らも取り調べる次第である!」と発表しました。 早朝から皇居の異様な雰囲気を察知した三条ら公卿達が、何事か?と皇居へやってきました。 が、門か固く閉ざされ入ることができない。 異変に気がついた長州藩も急いで駆けつけましたが、薩摩藩が前に立ちはだかりました。 薩摩藩は大砲を出してきており、長州藩に対し「ここから立ち去るように。これは勅命である!」と言ったのです。 驚いた長州藩や尊攘過激派公卿・尊攘の志士達は2600人集まって洛北の妙法院に集結。 が、集会を開いているというニュースを聞いた朝廷は「集会を行うなど、勅命に背くものである!」と命令。 結果、ひとまず長州に戻って、再挙を図ろう!ということになったのです。 そして彼らは「この政変は中川宮・会津藩・薩摩藩が天皇をそそのかしたのだ」と思い、憎悪するのです。 1夜で失脚した尊攘派。 一滴の血も流さずにすんだ「無血クーデター」となったのです。 |
過激派公卿 長州へ「七卿落ち」 |
このクーデターによって、尊攘過激派公卿である三条実美・三条西季知(すえとも)・錦小路頼徳(にしきのこうじよりのり)・東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)・沢宣嘉(さわのぶよし)・壬生基修(みぶもとおさ)・四条隆謌(しじょうたかうた)ら、7人の公卿が長州藩や尊攘浪士に守られながら、京を落ち、降りしきる雨の中、長州へ向かったのです。 これが「七卿落ち」と言います。 この時の詩を久坂玄瑞が詠んでおり、時代が違えばその詩の才能は開花したであろうと言われています。 |
尊攘過激派公卿のボス 三条実美 |
実美は三条実万(さねつむ)の第四子として生まれました。 父の実万は穏やかな人で、また、孝明天皇と同い年だったため、孝明天皇から信頼されていました。 そのため実万はコテコテの「尊王派」で、孝明天皇と心同じの公武合体派でもありました。 が、安政の大獄の時に「水戸藩と仲良くしている」ってことで隠居させられてしまったのです。 後を継いだ実美は、家臣である富田織部から尊皇攘夷の影響を受けまくっていました。 そして家茂上洛となり、「攘夷」をするようガンガン攻めまくったのです。 政界は三条実美をボスとして「尊攘派」が牛耳っていくこととなるのです。 ですが「8.18の政変」により、実美は京を落ちることに。 そして官位を剥奪されてしまいました。 孝明天皇は「不埒な国賊である」と実美をなじりました。 父の代からずっと可愛がっていた実美だけに、余計腹が立ったのでしょう。 |
8月18日 命名!新撰組 |
![]() 会津藩・薩摩藩が同盟を組み、会津藩松平容保は壬生村浪士組を活用することに。 壬生村浪士組は容保に命じられ指定された御門へ向かいました。 その御門は会津藩兵が守っていました。 ですが、会津藩も壬生村浪士組もお互い顔を知らなかったので、危うく同士討ちしちゃいそうになったのです。 そして、8・18の政変の夜、「新撰組」という名称が与えられました。 新撰組は「京都市中を常時見廻りせよ」と命じられることとなったのです。 ちなみに「新撰組」は「新選組」でも間違いではないそうです。 |
8月 天誅組挙兵! |
三条実美ら過激派公卿や、尊攘過激派浪士らが画策し「大和行幸」が決定したというのを聞いて、土佐の吉村寅太郎・三河の松本奎堂(けいどう)・備中の藤本鉄石(てっせき)の3人は、この機会に乗じて倒幕の火付け役になろうぜ!と計画していました。 3人は過激派公卿の中山忠光(ただみつ)をボスとし、京都から大坂へ向かいました。 中山忠光は大納言中山忠能(ただよし)の第七子で、当時19歳。 めちゃくちゃ熱い男で、武市半平太さえもてあますほどの熱血漢でした。 「天誅組」のシンボルとしてはうってつけの人物だったのです。 天誅組は京都→大坂→河内→大和へと入りました。 大和では代官である鈴木源内(げんない)らの首を斬り、「この土地を幕府直轄ではなく、朝廷直轄にする!」と発表しちゃいました。 ちょうどこの頃、京都で8.18の政変が起きてしまったのです。 |
新撰組 芹沢一派追い落としにかかる |
「新撰組」という名称をもらった近藤らはとても喜びました。 が、ここに問題が。 松平容保から「どうにかしろよ!」と言われていた「芹沢鴨」のことでした。 芹沢は乱暴で傍若無人だといっても、「局長」だったので「隊の顔」ではあるし、そんな芹沢を慕っている部下も多くいる。 近藤らは「とりあえず芹沢一派の力を弱めるために、片腕の新見錦をどうにかしちゃおうぜ」という考えにまとまりました。 新見錦は芹沢と似てるとこがあり、こちらも横暴な性格だったのです。 近藤らは新見が祇園の芸者と遊んでいたところに押しかけました。 そして「新見殿は局中法度である士道に背くなということと、勝手に金を使うなというのに反している!」と無理やり切腹を命じたのです。 芹沢は抗議しましたが、「局長である芹沢殿は、局中法度に背いている者を切腹するというのを忘れたのか!」と反対に言いくるめられ、芹沢も大きな声で反論できなかったのです。 そして新見は切腹となりました。 さらに近藤は新見の介錯人(切腹を見届ける人)に、同じ芹沢派である平山五郎を立てたのです。 この事件はいかに局長クラスの者であろうとも、隊内の規律を乱すものはこうなるんだぞという見せしめとなり、新撰組隊内は一気に引き締まったのです。 |
9月16日 新撰組 芹沢鴨殺される |
![]() ですが芹沢は相変わらず傍若無人ぶりを発揮していました。 近藤らはいよいよ「芹沢暗殺」に取りかかったのです。 この日、芹沢・平間重助・平山五郎・野口健司はしたたかに酔っていました。 そして愛妾のお梅とともに高いびきをかきながら寝たのです。 そこに近藤・土方・沖田が襲撃! 最初に芹沢を斬ったのは沖田でした。 いきなり寝込みを襲われた芹沢は隣室に転がり込みました。 そこへ原田左之助が刀を振りましたが、鴨居があったため助かり、芹沢は廊下に逃げ込んだのです。 芹沢を待ち受けていたのは土方歳三でした。 廊下で芹沢は、土方に斬られ死んだのです。 一緒にいた平山五郎・野口健司は山南敬助・原田左之助に斬られました。 平間重助は何とか逃げ切り、以後行方不明になったのです。 近藤は「芹沢の家に賊が入って、芹沢らが殺された」と提出しましたが、近藤らの犯行であるということはバレバレでした。 この事件により、芹沢派は一掃され、近藤派の天下となったのです。 |
9月21日 土佐勤王党の獄 武市半平太投獄 |
武市ら土佐勤王党は、安政の大獄の下手人を岡田以蔵・田中新兵衛ら「人斬り」に次々と暗殺させ、絶好調でした。 が、8.18の政変が起こり京都の過激尊攘派の勢力が一気に弱まってきたのです。 ここで今までガマンしていた藩主の山内容堂が「待ってました!」とばかりに、土佐勤王党弾圧にかかったのです。 この弾圧は血統的(上士・下士の争いだからね)に因縁もたんまりあり、徹底的に行われました。 次々と捕まり、武市以外の者はものすごい拷問にあいました。 ちなみに坂本龍馬は、4月ごろまだノリノリだった武市から一緒に帰ろうと誘われていました。 ですが勝海舟のもとで海軍設立に奔走していたので断ったのです。 龍馬はお龍に「あの時勝先生のもとを離れ、武市について行っていたら命はなかった」と言っていたそうです。 |
武市は月形半平太のモデル |
映画や芝居にある「月形半平太」のモデルは武市半平太です。 半平太は21歳の時に富子と結婚しました。 以来死ぬまでずっと富子だけを愛し続けたのです。 2人には子供が生まれませんでした。 半平太の友人である吉村寅太郎は、富子を実家に帰らせ、若くてきれいな女性を半平太の身の回りの世話係として置いたのです。 半平太は「オレの近くにいると富子が危険だから、寅太郎は富子を実家に戻したんだろうな」と思っていたので、寅太郎の意図に全く気がつきませんでした。 で、世話係の女性に一切手を出さなかったので、寅太郎は「好みじゃないのかな?」と別の女性を差し向けたのです。 ここにきて寅太郎の意図に気がついた半平太は「余計なことするなヨ!子供が出来ないのは天命なんだよ!こういった事は今後しないでくれよ!」と怒ったのです。 のちに半平太は江戸や京都へ行きますが、この時も他の志士達とは違い、芸者などと遊ぶことはなく、現地妻を求めることもありませんでした。 富子とずっと文通を続けていたのです。 妻だけを愛し続け、自分の思想を曲げずに生きた半平太が「月形半平太」のモデルとなったのです。 ちなみに「月形」という姓は、福岡藩の月形洗蔵(せんぞう)からとりました。 こちらも半平太同様、女性関係では半平太と似たようなタイプだったそうです。 |
叔父さんの仇!後藤象二郎 |
この土佐勤王党弾圧にめちゃくちゃ頑張ったのが後藤象二郎でした。 象二郎は、土佐勤王党に暗殺された吉田東洋の甥でした。 幼い頃に父を失ったため、姉の夫である東洋に育てられたのです。 そのため同じく吉田東洋門下であった板垣退助とともに、土佐勤王党弾圧にはめちゃくちゃ力を入れました。 幕末、土佐藩の名前を押し出したのは武市・龍馬・中岡慎太郎らでしたが、後藤・板垣の2人がその熟した果実を全て横取りした形となっていくのです。 |
9月27日 天誅組壊滅 「残念大将」吉村寅太郎戦死 |
「大和行幸中止」「七卿落ち」を聞き、みんなビックリ! 天誅組は人も斬っちゃったし、退くに退けない状況となってしまったのです。 「こんなことが知れたら、せっかく集まってくれた兵の士気が下がる」と、内緒にし、武器調達を始めました。 一方、朝廷の中川宮はこれを聞き、すぐさま紀州藩・彦根藩・郡山藩などに「天誅組を追討しろ!」と命じたのです。 朝廷が派遣した追討軍は1万人。 天誅組は勝てるはずもありませんでした。 吉村寅太郎は怪我をし、その傷が悪化。人夫に担がれて何とか逃げましたが、人夫らが「こいつを運んでると一緒に殺されるかもしれない!」と、なんと寅太郎を置き去りにしてしまったのです。 そこを追討軍に発見され、射撃され死んでしまいました。 最後の言葉が「残念だ・・」だったため、「残念大将」と呼ばれることに。 龍馬は寅太郎と古くからの友人だったので、すごく悲しんだそうです。 松本奎堂は目が見えなくなってしまい、それでもなんとか指揮を取っていましたが流れ弾に当たり死亡。 藤本鉄石は紀州藩に発見され、刀で奮闘しましたが力及ばず斬られてしまいました。 ボスの中山忠光は、逃げることに成功しました。が、1864年11月 再挙を画策しているところを幕府の刺客に襲われ殺されたのです。 ちなみに忠光の姉はのちの明治天皇を出産しています。 |
10月12日 生野(いくの)の変 |
天誅組挙兵を聞いて「俺らも立ち上がろうぜ!」という人々が現れました。 計画を発案したのは平野国臣(くにおみ)。 七卿落ちした1人の沢宣嘉(のぶよし)をボスとなり、長州藩士(奇兵隊の人もいます)・鳥取藩士の人々が生野に向かったのです。 が、向かっている最中に「天誅組壊滅!」のニュースが入ってきました。 これにて士気が落ちまくりましたが、何人かが「死ぬのは覚悟の上じゃ!」と強行したのです。 10月12日 幕府直轄である生野の代官所を30名で襲撃しました。 ここを本拠地とし、近隣の農民に「年貢を半分にしてやるから応援に来い」と呼びかけたのです。 が、この計画はそもそもしっかりとした見通しのないものでした。 生野代官所占領のニュースはすぐさま幕府に知られ、近隣の諸藩が鎮圧に向かいました。 無謀な占領だったため、ボスの沢を始め、計画立案者平野もさっさかと逃亡したのです。 |
11月 女にモテテモ 土方歳三 ラブレターを故郷に送る |
![]() 新撰組に限らず、志士達はいつ死ぬかわからないため、よく飲み、そしてよく遊びました。 土方が「女にもてまくって困っている」という手紙を、故郷に送ったのもこの頃です。 隊士たちは毎日、剣術・槍術・柔術を行っていました。 特に剣術は木刀を使っており、骨折は日常茶飯事。 文学を教えてくれる師範もおり、文武両道を目指していました。 お休みの日は自由に過ごし、遊郭遊びをしたりしてストレスを発散していたのです。 |
志士達のお相手は? |
![]() 彼らは1日1日を悲壮な思いで過ごしており、女性に安らぎを求めたのです。 また女性のいる場所は志士達が暗殺者の目から逃れる隠れ家としても役に立ちました。 特に祇園は八坂神社の神領であるということで、幕府も手出しが出来ない場所だったため、志士達が身を潜めるのには格好の場所だったのです。 志士達の中には、遊女と逢ううちに情を交わしあい、愛し合う人たちも出てきました。 有名なのが桂小五郎と芸者 幾松(いくまつ) 高杉晋作とおうの 井上馨と君尾 などなど このへんはまた後ほど。 |
11月26日 慶喜京都へ 大好きな妾「およし」も連れてきちゃいました |
![]() その際、「今度の上洛には江戸の女を連れて行きたい」とワガママを言い出したのです。 家臣は「はぁ・・・。上洛に女を連れて行くとは。これも血筋だな(斉昭はめちゃくちゃ女好きで、大奥で総スカンくらうほどだったから)」と呆れ顔。 家臣は「急に女と言われても・・・」と困ってたところに、ある1人の女性の顔が浮かびました。 「町娘でよければ、新門辰五郎という浅草の火消しの娘がおります。なかなかの美人で利発なオナゴです」と言ったのです。 慶喜は「ふむ。その娘でいい。そちにまかせる」と言いました。 この時から、1人の町火消しが幕末動乱に身を置くこととなってしまったのです。 |
江戸火消し 新門辰五郎と娘 およし |
辰五郎はキセル職人の息子として生まれました。 何人かの職人も雇っており、なかなかのお金持ちでした。 が、1人の職人の不注意で、火事を起こしてしまったのです。 火事は近隣に広がり、父親は「世間にあわせる顔がない」と言い、炎の中へ入り自殺してしまったのです。 それから辰五郎らは超貧乏に。 辰五郎は火消しとなりました。 辰五郎はキップが良く、ケンカも強く、火消しの人気者となりました。 ですが大喧嘩ののち、死傷者が出たため江戸追放となったのです。 辰五郎は江戸追放になったというのに、毎晩江戸の妻妾のもとへ。それが奉行所にバレてしまい、再逮捕となりました。 が、「それはオレじゃない」とシラをきりまくり。 激しい拷問もされましたが、「他の男でござんしょう」と譲らなかったのです。 この時の江戸北町奉行は「遠山の金さん」。金さんはあまりの辰五郎の強情っぷりに感心し、拷問をやめ人足寄場(不浪人収容所)送りとしたのです。 が、ここで火事が起きてしまいました。 この時辰五郎が大活躍し災害をかなり食い止めたため、辰五郎は有名人に。 そんな辰五郎の娘がおよしだったのです。 |