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幕末その3 1860年〜1862年
1860年 万延1年
1860年1月 日本初の遣米使節
アメリカ軍艦ポータハン号の上で調印された日米修好通商条約

このポータハン号に乗ってワシントンで書類の交換をするために、日本人で最初の遣米使節である77人がアメリカに向かいました。

正使は外国奉行の新見正興(しんみまさおき)。副使は同じく外国奉行の村垣範正(むらがきのりまさ)そして監察として目付けの小栗忠順(おぐりただまさ)が選ばれました。

77人が半年以上外国で暮らすため、荷物は膨大に。米や味噌・醤油・餅など50トンの重さとなり、ポータハン号は6万両のお金も積み込まれました。

旅はまずハワイに立ち寄り、一行はカメハメハ国王にご挨拶。そして3月9日にはサンフランシスコへ到着しました。

ちなみに「日付変更線」の意味が全く理解できず、アメリカ人が2月23日に「明日はもう一度23日だ」というのが、何のことだかサッパリわからなかったそうです。で、村垣は日本に帰った後、初めて1日のずれがあることを知って「一日得した!これは一生の得なり!」と言ったそうです。
みんなで仲良くアメリカ見学へ
サンフランシスコに到着した一行は歓迎を受け、お次はパナマへ。

ここで初めて汽車に乗り、驚きまくりました。

そこからワシントンへ。ホワイトハウスに行き、大統領に会いました。

そしてニューヨークへ。

ここでの歓迎はすごいもので一行を乗せた馬車と6500人の兵士でブロードウェイをパレードしたのです。

一行はその後9月2日に日本へ到着しました。
日本は黄金の国だー!小判が日本から大放出
話しは少し戻りますが、ペリーがやってきて日米和親条約が締結された時に通貨問題が出てきました。

この頃幕府に通貨交換といった経済観念はまるでなく、とりあえず1ドル=銀貨1枚と一分銀「天保銀」1枚の交換ということになったのです。

ですがペリーに代わってやってきたハリスによって1ドル=一分銀3枚、銀貨1枚ということになりました。

この結果、日本の小判(金)が世界に大量放出することとなったのです。

というのも、この頃の日本では小判(金)と銀貨(銀)の差があまりなく、欧米に比べ5倍近く小判(金)の価値が低かったからです。

そのため世界各国から自分の国の銀を持ってきて、日本の小判(金)と交換するということになりました。

幕府は「何?世界において金の価値ってそんなに高かったの?」とびっくりして、慌てて金銀を国際レベルに落とすべく「天保小判」から「安政小判」へ貨幣の改鋳を行いました。

つまり、小判に含まれる金の量を減らしたのです。

ところが、ハリスは「これは重大な背信行為であるぞ!」と激怒し、イギリスのオールコックと2人で幕府に文句を言いまくったのです。

欧米諸国の大反対を受け、外交オンチの幕府は怖気づきました。

「安政小判」計画はパァになってしまったのです。

そんな中、1人の若い幕臣がいました。それが今回ポータハン号に乗ってやってきた34歳の小栗忠順(ただまさ)だったのです。
財政官僚 小栗忠順 「誠忠無比の徳川武士」by勝海舟
忠順は1827年にもともと徳川家と祖先が同じという由緒正しき名門旗本の小栗家に生まれました。

7歳の頃から勉学に励み、13歳くらいからキセルでタバコを吸いながら大人に混じって話しをし、堂々としたものだったそうです。

そしてポータハン号に乗り込み、通貨の交換レートを決めるという経済交渉を行うことになったのです。

忠順は「通貨交換の中心になるものは銀ではなく金の方が適切であろう」と延べると、アメリカ側がこれを「そうです」と応えた。

次に忠順は「ではこれまでのように目方で行うのではなく、金の含有量によって交換していただこう」と提案。

アメリカ側は「それはもっともだ・・・」と、日米両者立会いのもと、金貨と小判を比べると、小判の方が金の含有量が多かったのです。

さらに忠順は「ちなみに小判にも金貨にも、金以外の金属は含まれていますな?日本では銀をかなり利用しておるが、ドル金貨の方はどうなのじゃ?金以外の金属(とくに銀の含有量)が正確にわからないことには正しい通貨の交換レートは決められないであろう」と主張したのです。

アメリカ側は「それを調べるのには時間がかかるし、技術的にも難しいから拒否する!」と言ってきました。

小栗以外の日本の使節達も「おいおい、なんだかアメリカ側が怒ってるぞ・・・。何もそこまでやんなくてもいいじゃねーか」と忠順をなだめにかかりました。

ですが忠順はなおも食い下がり
「わが国はハリスによって一方的に定められた交換レートのままここまでやってきた。確かに簡単に受け入れてしまったこちらにも落ち度はある。が、しかし、今わが国はこの交換レートの不合理によって膨大な損害をこうむっている!幸い、ここでは日米合同実験において、その交換レートを正確に定める場があるのだから、日米修好通商条約を末永く続けるためにも、大変だとは思うが正確なる交換レートを確定させるためにもご協力願いたい!」と堂々と強気で主張したのです。

さすがにここまで言われてしまっては、アメリカ側も受けざるを得ない。

その結果、日本の小判はアメリカの金貨に比べるとめちゃくちゃ良質だということが判明したのです。

これによって日本の使節団の評価はものすごく高いものとなりました。特に小栗忠順の評価は素晴らしいものに。

アメリカの経済学者らからも、その頭脳を称えられ、大統領お付の大佐も忠順を「日本の法務官庁」と呼び最大限の敬意を表したのです。

そして小栗忠順の活躍によって、日本からの小判大量放出をストップさせることができたのです。

小栗忠順は以後も幕府内で活躍をしますが、由緒正しい家柄だったゆえにプライドが高く、立身出世した者をバカにするところがありました。

最高に優秀で勝海舟に「誰よりも優れており、その計略は世界に通じるほど。しかも誠忠無比の徳川武士である」と評されるほど。

ですが、プライド高すぎたため度量の狭さが悲劇を生むこととなるのです。それはまた後ほど・・・。
1月  勝海舟 咸臨丸でアメリカへ
ポータハン号に乗っていた一行とは別に、幕府はもう一隻の日本の軍艦を派遣して護衛と航海術の実地訓練をさせることに。

咸臨丸に乗り込みアメリカに向かう一行は96名で、提督には軍艦奉行の木村喜毅 (よしたけ)艦長には勝海舟が任命されました。

ちなみに海舟は盛んに自分を売り込んで無理やり艦長のポストに座ったそうです。

通訳としてジョン万次郎が行き、提督木村の従者として福沢諭吉が乗り込みました。

この時福沢諭吉は27歳。向学心に燃えまくっていてどーーーーしてもアメリカに行ってみたい!と木村にお願いしまくったのです。

この頃外国に行くのを自ら進んでお願いしてくる者など滅多にいなかったので、木村は「変わったヤツだ」と思ったそうです。

はじめは日本人だけで行く予定だったんですが、木村が「航海に慣れているアメリカ人も連れて行こう」ということっとなり、ブルック大尉ら10名のアメリカ水夫も一緒に行くこととなりました。

ちょーど彼らは船が壊れちゃってお迎えの船を待ってるトコだったので、ラッキーとすぐさま一緒に行くことをOKしたのです。

ですが勝海舟が大反対!「あれくらいのことなら自分でもできる!」と最後までブルック大尉の乗船を嫌がりました。

が、木村提督の命令により、海舟はしぶしぶOKしたのです。
自分勝手な艦長 勝海舟
航海は38日間に及びました。

が、そのうち34日は悪天候のため咸臨丸が無事に太平洋を横断できたのはブルック大尉らのおかげでした。

あんなにブルック大尉のことを嫌がった勝海舟はというと、船酔いのため自室にこもりっきり

しまいには太平洋のど真ん中で「おれを下ろせ!」と命令して乗員らを慌てさせました。

ジョン万次郎は、めちゃくちゃ呆れたそうです。

さて、いよいよサンフランシスコに到着!という時に、なんと海舟は自分の家紋をあしらった軍旗を取り出して咸臨丸の艦旗として上げようとしたのです。

これを見たアメリカ兵はビックリ!すぐさまブルック大尉に報告し、ブルック大尉は木村提督に「ちょっとダメだよ!個人の旗なんて!日本国の国旗を上げるのが国際法上で当たり前のことだよ!」と注意しました。

この頃になると乗務員達は海舟のわがままさに呆れ果ててたので、海舟の軍旗が下ろされると大喜びして、旗を焼いちゃったそうです。

福沢諭吉は「海舟は艦長という職にありながら、船に弱く自室にこもりっぱなし。それがサンフランシスコに着くとオレは艦長だ!とえばり始め、何かと指示を出すようになった・・・」とかなり呆れ気味だった。

そのため福沢諭吉と勝海舟は、死ぬまでずーーと仲が悪かったそうです。

その後、ポータハン号一行と会って、お互い無事に着いたことを祝いました。そしてこの時ジョン万次郎と福沢諭吉は「ウェブスター辞書」を購入。

これが後に英学の発展に大きな役割を果たします。

1ヶ月の滞在後、咸臨丸は浦賀に向けて帰路の旅へ出ました。
慶応義塾の祖 福沢諭吉
福沢諭吉は、下級武士の子として生まれました。

父が死んでしまったため、諭吉は中津へ帰り、塾で漢学を学びました。

20歳の時に長崎に行き蘭学を学び、21歳で大坂へ行き緒方洪庵の適塾に入って強い影響を受けることに。

1858年に藩から江戸に行くように命令されました。

その時に中津藩の築地の江戸屋敷内に「一小家塾」を設立。これが慶應義塾になります。

翌年、開港するとアメリカ人がわんさかやってきた横浜を見て「これからは英語が必要だ!」と思い始めました。

その後、咸臨丸に乗ってアメリカを見ることとなったのです。
水戸藩 井伊直弼を恨む
直弼は安政の大獄により、色んな人々からめちゃくちゃ恨みを買っていました。

薩摩では精忠組(せいちゅうぐみ)という青年志士らが脱藩して井伊直弼を襲撃しようと計画していましたが計画がばれてしまい、島津久光らから中止するように言われてしまい未遂。

水戸藩では過激派と鎮圧派が対立しまくっていました。

過激派の志士たちは「井伊直弼を襲撃しよう」と密かに暗殺計画を勧め、江戸に集まって計画を決行する日を狙っていました。

水戸藩と密かに連絡を取っていた薩摩藩では精忠組が途中で計画を中止したことを知り、江戸在中していた薩摩藩の有村次佐衛門だけが水戸藩の計画に加わることとなったのです。

現場指揮者の関鉄之助ら17人の水戸浪士と、薩摩藩士の有村次佐衛門ら合計18人は襲撃の日を3月3日、井伊が登城する日と決定しました。

3月3日の節句では諸大名が登城するのが習慣となっていました。本来ならば水戸藩邸も大忙しの日。

ですが水戸藩はことごとく安政の大獄によって処罰されており、ひっそりとしていました。

唯一江戸城へ行くのは「御城付」という御三家のみにある役職の者だけで、御城付の白井平次兵衛のみが江戸城へ向かいました。
3月3日 桜田門外の変
この日は珍しく大雪が降り、水戸浪士達は大名の登城を見物する田舎武士のフリをして桜田門へ向かいました。

午前9時ごろ、総勢60名の直弼の行列がやってきました。

行列が桜田門に差し掛かったとき、浪士の1人が訴状を持って直訴するフリをして行列に駆け寄ったのです。

その瞬間、供侍に斬りかかったのです。びっくりした供侍が逃げようとすると、一発の銃声がとどろきました。

この銃声が合図となり、待ち構えていた浪士らが井伊直弼の乗った駕籠に殺到したのです。

供侍らは大雪だったため刀に柄袋をかけてあり、また雨合羽を着ていたため動きが取れにくくとっさの応戦に出遅れてしまったのです。

駕籠を持っていた者が逃げてしまい、浪士らは井伊直弼を駕籠から引きずり出して首をとったのです。

あっという間の戦闘で、彦根藩士は死者8名。負傷者10名以上となり、浪士側は死者6名。その後自刃した者が4名となりました。

白昼堂々の大老暗殺計画は成功したのです。直弼46歳。大老職わずか2年たらずでした。

攘夷論に対して「安政の大獄」で応えた幕府最高権力者の死は、急激に幕末の激動へと向かっていくこととなるのです。

そしてただ1人の薩摩藩有村次佐衛門は井伊直弼の首を持って帰ろうとしたが、途中で死んでしまいました。
井伊家大パニック!
大老の首を持った有村次佐衛門は重傷によって途中で倒れ、その首は近くにいた遠藤家へ。

井伊家は「大老の首がない!」と必死になって首を探していました。

仕方なく「大老急病」と発表し、首はどこだぁ!?と必死。やっとこさ首は遠藤家にあるとわかり、首を引き取って藩医の手で首と体を縫い合わせたのです。
水戸藩 命がけのふざけたお見舞い
水戸藩邸が水戸藩内の過激派が大老を暗殺した!という事件を知ったのは、御城付の白井が慌てて帰ってきたからでした。

この時はすでに彦根藩から「大老急病」の連絡が来ていたし、さらに彦根藩士が報復として水戸藩邸を襲撃するという噂が立っちゃっていました。

そして困ったことに「大老・老中・若年寄が病気になった場合、紀伊・尾張・水戸の御三家は必ず使者を出しお見舞いに行くこと」という慣わしがありました。

「大老急病」という発表があったからには、ウソとわかっていてもお見舞いにいかなければならないのです。

つまり水戸藩は、今朝自分の藩の人間が大老を殺したというのに、それをわかっていながら「病気見舞い」に行くという危険極まりないお見舞いに行かざるをえないのです。

困った水戸藩はあれやこれやと必死に策を練って、北辰一刀流の腕を持った身分関係のない屈強な男を選び、総勢18名(これ以上で行ってはいけないという人数)と、襲撃に備え人数をギリギリまで増やし、全員礼装の下には鎖帷子を着込み午後6時に水戸藩邸を出たのです。

井伊家に着いた一行は、井伊家家老らがずらりと並んだ部屋に通され、見舞いの儀式を行いました。

水戸家正史は「ご病気と承り、使者をもってお見舞い申し上げます」と見舞いの品を送り、井伊家の家老が「ありがたき仕合せに存じます。おかげさまで病状は心配するほどのものではござらん」と答えました。

その間、刺すような視線を浴び続けた水戸藩の使者。

問題は帰り道でした。真っ暗な夜道、雪が泥のようになっていました。

使者らは全神経を尖らせ、桜田門外から日比谷までの最も危険な数丁の道を歩いたのです。

そして安全な道へ出て、午後9時に小石川にある水戸藩邸にたどり着いた時、使者らはヘナヘナと倒れたそうです。

井伊家も水戸家もそれぞれ自分の家を守ろう必死に知恵を絞った結果、この夜は何事もなく過ぎることとなったのでした。

井伊直弼は狙われている事を知っていた!?
一説によると、井伊直弼は前々から命を狙われていることを知っていました。

水戸藩主の徳川慶篤などから「危ないから護衛を増やすように」と忠告されていましたが「格式や石高によって護衛の数は決められています。大老である私がそれを破るわけにはいきません」と護衛の数を増やさなかったのです。

そして「殺されるのも天命である」と考えていたそうです。
長野主膳大ショック!
井伊直弼が殺されたコトを知った主膳は大ショック!ですが、なんとか彦根藩と結んで立ち回りこの時は助かりました。

ですが1862年8月に藩内の派閥抗争に巻き込まれ、首を斬られてしまったのです。主膳48歳でした。
3月 近藤勇 ツネと結婚
近藤勇は26歳になっていました。

そろそろ結婚を・・・ということになり、3人のお嫁さん候補が現れました。そして3人の中で一番ブスな24歳の「ツネ」を選んだのです。

ツネを選んだ理由は「美人はそれを鼻にかけたりするし、試衛館には男ばっかだから、彼らの目を惑わすような女性だと困る」というものです。

ツネは26歳で子供を産みました。子が生まれた翌年に勇は京都に行ってしまうこととなち、ツネはほったらかし状態となってしまうのです。

つーか、勇も選べるほどいい男か?って感じですけどねぇー(^^;)
7月 イギリス公使オールコック 外人で初めて富士山に登る
イギリスの医師であるオールコックは、中国上海で総領事を経て、1859年5月江戸に初代駐日総領事として江戸へやってきました。

そして外国人として初めて富士山へ登ったのです。

幕府に対しては偉そうな態度を取っていて、米国の総領事であるハリスとはあまり仲がよくありませんでした。

幕府の権威を回復するぞ!公武合体論
桜田門外の変は「真昼間に幕府の大老が殺された」と、幕府の権威がむちゃくちゃ下がる事件となりました。

そのため後を引き継いだ老中の安藤信正と九世広周(くぜひろちか)は、「公武合体」を考え始めたのです。

公武合体とは、朝廷と幕府が結びつき、外からの敵からの攻撃を一緒に処理しようというもの。

というのも、生前に井伊直弼は「孝明天皇の妹である和宮親子内親王(かずのみやちかこ)を将軍家茂に嫁がせ、朝廷の権威を利用して尊皇攘夷派を抑えよう」と言っていました。

井伊直弼が殺され、幕府はどーにもなんなくなってきたので、この案を具体化させるべく動き始めたのです。

皇女和宮ってどんな人?
皇女和宮は孝明天皇とは異母兄妹になります。

和宮らの父である仁考天皇は7人の奥さんがいて、合計15人の子供を生んだんだけど、育ったのは孝明天皇と和宮と桂宮淑子の3人のみでした。

和宮は孝明天皇の16歳年下の妹で、和宮が生まれる直前に仁考天皇が死んだため、孝明天皇が名付け親になりました。

そのため孝明天皇は和宮を娘のように可愛がったのです。

和宮は6歳の時に有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)と婚約しました。ちなみに熾仁親王はこの時17歳。

6歳の婚約者を迎えたんだけど、品行方正な青年でこの縁談に快くOKしました。

そして和宮は物心がついた時から「いつかこの方のお嫁さんになるのね」と、熾仁親王に憧れの心を抱きまくっていたのです。

和宮も14歳となり、さーてそろそろ熾仁親王と結婚の準備に取り掛かるか・・・って時に、なんと降嫁の話が舞い込んできたのでした。

孝明天皇ビックリ「絶対嫁にはやらんゾー!」
和宮を家茂のお嫁さんに・・・という話を聞いて孝明天皇はビックリ仰天

「和宮は婚約者がいるんだぞ!もうすぐ大好きな熾仁親王と結婚して幸せになるってのに、何を言ってるんじゃい!一度も京都を出たことのない可愛い妹を、なんであんな危ないトコに嫁がせなならんのじゃ!」と大反対しました。

勿論和宮も「絶対イヤ!」とこの青天の霹靂とも思わざるを得ない話に驚くばかりでした。

ですが何度も何度も安藤&久世は要請をしました。

孝明天皇は仕方なく「では和宮の代わりに、生まれたばかりのわが娘 寿万宮を江戸へ行かせます」と言ったのです。

それを知った和宮は「寿万宮はまだ乳飲み子・・・私がいつまでも拒んでいたら、寿万宮が犠牲になってしまうのね・・・」

そして和宮は、小さな頃から大好きだった熾仁親王との結婚を諦め、将軍家へ嫁ぐことを決心したのです。

ちなみに、将軍家へ行く和宮が詠んだ歌は

「落ちて行く 身と知りながら 紅葉ばの 人なつかしく こがれこそすれ」

「おしなじな 君と民との ためならば 身は武蔵野の 露と消えても」 
出てきた!貧乏公家の岩倉具視(加山雄三のご先祖様)
孝明天皇がシブる「公武合体論」を強く推し進め、説得したのが公家である岩倉具視でした。

具視は1825年に堀河康親の次男として生まれました。

12歳の時に妹の紀子が生まれ、14歳で岩倉家へ養子に出されました。

岩倉家は公家といっても貧乏、自宅を賭博場に貸して生計を立てるほどでした。

ペリーがやってきた時に、孝明天皇の摂政だった鷹司正通の和歌教室の生徒になりました。この時具視は29歳。

鷹司正通は開国論者でしたが、具視は「外国との交渉は朝廷が主導権を持つべきである!」と意見。鷹司正通は具視の口上に感心して、天皇の侍従に推薦したのでした。

ちょうどこの頃、妹の紀子は孝明天皇の女官として朝廷へ。そして孝明天皇に気に入られちゃって2人の皇女を産んだのです。

その後、安政の大獄が始まりました。

この時に大勢の公家が犠牲となり、朝廷は人材不足となっていたのです。

新参である岩倉具視に活動のチャンスが与えられたのです。

そして公武合体論が浮上してきました。具視は「和宮を降嫁させたら、外国との交渉において幕府より朝廷がリードできるかもしれない・・・」と考えるように。

孝明天皇がめちゃくちゃ外人嫌いであったためそこを利用し「降嫁させる条件として幕府に対して攘夷を決行するように約束させればいいのでは?」と意見したのです。

孝明天皇は考えた。時代は開国へと進んでいたんだけど「神聖な日本を外国人に汚されたくない」という思いは誰よりも強かったのです。

そして孝明天皇は公武合体を許可しました。

この時に具視は「和宮降嫁と引き換えに日米修好通商条約を破棄する」という約束を取り付け、また「天皇の気持ちに背かない」という家茂直筆の誓約書も書かせたのでした。

ちなみに加山雄三は具視の子孫です。

岩倉具視&堀河紀子 ヒットマンに狙われる
公武合体を成功させた具視。

ところが!これが尊皇攘夷派を激怒させてしまったのです。

特に紀子は「孝明天皇の寵愛をもらってることを利用し、天皇をそそのかした悪女」として大ブーイングを受けることに。

「京都から出て行かなければ、首を斬り、家族も皆殺しにする」と脅迫されまくり、とうとう1863年、和宮が結婚した翌年に京都から脱出することとなったのです。

過激尊攘派の手から逃れるために各地を転々としましたが、どこへ行っても迷惑がられ、とうとう先祖ゆかりの地である岩倉村にたどりつきました。

具視はここで今後の天皇政権のために色々な案を練ることとなるのです。

以後5年間 1867年まで、具視は岩倉村に潜むこととなりますが、次第に倒幕派である桂小五郎・西郷隆盛・大久保利通・坂本龍馬らが具視の元へ訪れることに。

そして小さな村で日本のこれからについての策略を話し、具視の考えである「天皇制国家論」が広まっていくのでした。

12月 ハリスの右腕 ヒュースケンが殺される
1859年7月に起きた初の夷人斬りを皮切りに、同年10月にはフランス公使館に雇われていた中国人が殺害され、この年の1月にはイギリス公使館で通訳をやっていた日本人青年・伝吉が殺害され、他にも外国人が襲撃を受けた事件が続きました。

そしてこの月、ハリスの片腕であるヒュースケンが、幕府の護衛の武士とともに公使館へ向かう途中に襲われたのです。

犯人は水戸浪士ではないかと噂されましたが、薩摩藩の伊牟田尚平(いむたしょうへい)らでした。

これにはハリスをはじめ、諸外国が猛烈に幕府に抗議。

イギリス・フランスの公使は「江戸はもうイヤだ」と、横浜に移っていきました。

で、幕府はヒュースケンの母親に1万ドルの見舞金を贈ったのです。
1861年 文久一年
3月4日 土佐 上士VS郷士 井口村事件
この夜、上士の山田広衛はめちゃくちゃ酔っ払っていて、帰り道に前から歩いてきた下士の中平忠次郎と宇賀喜久馬にぶつかってしまいました。

山田が酒の勢いも手伝ってブースカ文句を言うと、さすがに中平が「あんたが酔っ払ってぶつかってきたんじゃないか!」と応えました。

「なにぃ!上士に向かって口答えするとは何事かぁーーー!」と。突然中平を斬ったのです。

一緒にいた宇賀喜久馬はまだ少年で、急いで逃げて中平の兄である池田虎之進に報告しました。

池田は大激怒!すぐさま飛んで行き、「弟の仇じゃ!」と酔っ払った池田に斬りかかり、さらにたまたまそこにいた仲間の益永をも斬り捨てたのです。

これを知った上士連中も大激怒!さらに郷士連中も池田が危ない!と続々池田の家へ向かいました。

「これを機会に積年の恨みを晴らそう!」と熱くなる郷士達。

が、ここに坂本龍馬がこれはまずい・・・と、なんと池田虎之進と宇賀喜久馬に切腹するよう言ったのです。

2人が切腹したことによって、上士VS郷士の戦いは免れましたが、これによって郷士連中はますます結束を固めて大きな勢力となっていくのです。

5月28日 第一次東禅寺事件 
イギリス公使オールコックは、長崎から国内各地を旅行して、高輪の東禅寺にあるイギリス仮公使館に戻ってきました。

が、水戸浪士有賀半弥(ありがはんや)らは「神の国である日本が汚された!」と激怒したのです。

有賀ら14名は東禅寺を襲撃。

館員2名が怪我をし、幕府側の警備員が20名ほど死傷するという事件となりました。
1861年8月 武市半平太「土佐勤王党」を結成
江戸の桃井春蔵の門に入り、塾頭っとなっていた半平太。

江戸にいる間に他藩の人間と接触を持ちました。桂小五郎・久坂玄瑞・高杉晋作らです。

特に水戸藩の住谷寅之助と仲良くなり、水戸藩の影響を多く受けました。

土佐藩の藩論を「尊皇攘夷」に固めよう!として、この年に「土佐勤王党」を結成したのです。

メンバーは坂本龍馬・中岡慎太郎・吉村寅太郎・望月亀弥太・大石弥太郎ら200人ほど集まりましたが、全員郷士でした。

盟約を考えたのは大石弥太郎。弥太郎は勝海舟の門に入り洋学などを学んでいた人です。

「神聖であるわが国は、異国の侮辱を受けており、大和魂も消えてなくなってきたと天皇は悲しんでいる。・・・中略・・・ここで我々が一致団結して大和魂を奮い立たせ国家の復興に尽くそう!」といった内容。

郷士の集まりだったため、藩論を左右できるような身分の者は誰一人いません。

土佐藩のトップは山内容堂でしたが、藩政を動かせるような立場の人たちは佐幕主義者(幕府の味方)ばかりだったのです。

その容堂が「先生」と尊敬しまくっていたのが、吉田東洋だったのです。
「郷士なんぞ人間じゃない」by吉田東洋
吉田東洋は土佐で生まれました。

父は200石の土佐藩の馬廻格でした。

東洋は江戸に出て、藤田東湖らと仲良くなりましたが、父が死に、兄も死んだため家督を継ぎ、東洋は26歳で船奉行に抜擢されたのです。

1848年には土佐では山内容堂が藩主となりました。

そのときに破格の抜擢によって大目付→仕置家老と出世しまくるのです。

東洋はめちゃくちゃ頭が良く、また態度も横柄でした。感情がすぐ出るタイプで、人と争うのが大好き。そして派手好みという、剛毅なタイプでした。

そんな東洋が、容堂の親戚である旗本と酒の席で大喧嘩!容堂の前だというのに、その旗本をメッタメタに殴ったため、容堂は激怒し、東洋を謹慎処分にしたのです。

1855年に東洋は私塾を開きました。

3年間しか開きませんでしたが、甥である後藤象二郎・岩崎弥太郎・板垣退助・谷干城(たにたてき)らが東洋に教わりました。

そして安政の大獄・・・。

容堂もこの大獄にひっかかりました。そのときに、東洋がかなり容堂の力となったため、一気に藩内にて東洋人気が高まったのです。

そして東洋にチャンスが廻ってきました。頭のいい東洋は次々と藩政改革を行い、容堂は東洋を信頼しまくり。

剣の腕も神影流の達人。学問でも藩内で右に出る者はおらず、容堂は「先生」と呼び、家来扱いしないほどの信頼関係を築きました。

そんな土佐藩内において出てきたのが「郷士」である武市半平太を中心とするグループ。

東洋はそんな郷士グループが大嫌いでした。

「郷士が何をバカなコトを言っておるんじゃ」と郷士のことなどバカにしくさっていたのでした。

10月20日 皇女和宮 江戸へ向かう
この日の朝早く、皇女和宮の行列は京都から江戸へと進みました。

行列の中に御輿が4つあり、3人の娘が影武者となったのです。というのも、公武合体反対派の襲撃に備えてでした。

準備に関わった人間や道路整備、幕府の人間も合わせると、総勢20万人が和宮降嫁に関わりました。

行列の長さは50キロにも及び、一つの宿を通過するのに4日もかかることに。総費用は150億円にもなりました。

島崎藤村の「夜明け前」にも、この時のことが書かれています。
1862年 文久二年
1862年1月15日 坂下門外の変
公武合体佐策の一つである「和宮降嫁」が成功しつつある幕府。

が、婚儀の1ヶ月前にこの結婚の仕掛け人である老中安藤信正が襲われたのです。

この頃、安藤ら幕府チームが強引に和宮を降嫁させ、孝明天皇を辞めさせようとしている!という噂が流れました。

それに激怒した志士らは、安藤の登城日を狙い、安藤を殺そうとしたのです。

井伊直弼の桜田門外の変と同様、直訴を装いましたが、人数が少なすぎた・・・。

6名しか参加しなかったため、計画は未遂に終わり、6名全員討死となったのです。

安藤は背中に傷を負いましたが、幕府は「またも襲われるとは・・・幕府の面目丸つぶれじゃ!」ということで、3ヵ月後の4月11日にクビになってしまいました。

1862年 流行語大賞はどっちだ?上半期NO1「尊皇攘夷」&下半期NO1「天誅」
尊王とは天皇・朝廷を尊んで崇拝するというものです。

ペリーがやってきたことによって幕府支配体制に不安を抱き始めた人々が多くなり「尊王」思想が強まってきました。

一方では欧米などの「外圧」を排除するという動きが出始めました。これが「攘夷」です。

ところが、井伊直弼が天皇の許可を得ないまま条約に調印してしまったため天皇&攘夷志士達を怒らせてしまいました。

また開国した結果外国人が日本を横行するようになり、日常生活は貿易が招いた物価高のため苦しくなってきたのです。

こうした幕府のやり方に人々が危機感を抱き始めて、志士達が各地で立ち上がり始めたのです。

そして孝明天皇は「外人嫌い」なので、尊王攘夷の志士達は京都に集まりだしたのです。

ちなみに「志士」というのは「志のある人」の事で、幕末・維新の時だけに使われる言葉です。

2月11日 将軍家茂と皇女和宮結婚
泣く泣く嫁いだ和宮でしたが、迎えてくれた17歳の将軍家茂は物静かで清純な若者で、和宮の心境をとてもよく理解してくれました。

家茂もまだ若いというのに、無理やり井伊直弼によって将軍にされてしまい、力量不足と言われながらも、一生懸命政務に取り組んでいたのです。

和宮も自分と同様に大人の政治に利用され、嫁ぎたくもない自分の元へやってきたというのが痛いほどわかっていたのでした。

こうして17歳同士のの結婚生活がスタートしたのです。

ちなみに和宮は身長140センチ体重30キロくらいだったそうです。
嫁と姑 和宮VS天璋院
大奥へ入った17歳の和宮。

当時江戸と京都では文化・風習・話し方などなど全く違うものでした。

江戸に入ったばかりの和宮は、慣れ親しんだ京都を懐かしみまくったのです。

御台所」と呼ばれるのをかたくなに拒み、大奥においては禁裏(きんり)そのままの慣例に従った生活を崩そうとしませんでした。

大奥の花園という老女が「以後江戸風にして生活していただきたい」と言うと、和宮お付の女官が「もともとはそちらがお願いしてきたから降嫁したのであります。日常生活も京風にという約束もしたはずであろう!」と突っぱねました。

和宮をはじめ、お付の一派はあくまでも京都風を貫こうとしたのです。もちろん旧大奥勢力はおもしろくありません。

和宮一派に対し、すべて江戸風にするよう厳しく取り締まったのです。

この頃大奥は13代将軍家定の正妻である天璋院が取り仕切っていました。

最初のご対面の時に、天璋院は上座にて座布団の上に座っていました。和宮はその下座に座布団ナシだたのです。

和宮は大ショック!今まで最高の立場にいた自分が、下座に座るなんて!と屈辱を感じまくったのです。

そして和宮は京都から持ってきたお土産の目録に「天璋院へ」と呼び捨てにして書いたのです。

これには天璋院も腹を立てました。

和宮からしてみれば、自分は「天皇の妹」であり、実際は天璋院より自分の方が身分は全然格上でしょ?という思いがあったのです。

こうして嫁VS姑のバトルが大奥全体を巻き込んで始まっていくのでした。
 
ちなみに勝海舟は「あの2人の仲が悪いのは、お付の女達のせいだ」と言っています。

和宮と家茂 愛情が芽生える
最初から天璋院に嫌われた和宮は、大奥において反感を買っていました。

そんな和宮を慰めたのが夫である家茂。

家茂はゆっくりと誠意を持って和宮の心を開いていくのです。

最初は「将軍とはいえども、武士であろう?武士とは野蛮な生き物で、江戸は未開の野蛮な者どもが住んでいる地であろう」と思っていた和宮。

ですが家茂は優しい心の持ち主で、深い愛情を持って和宮に接したのです。

しだいに和宮は本当に家茂に愛情を抱いていくのでした。

策士である岩倉具視は「もし和宮が泣き言いっても見て見ぬフリを決め込もう」と言っていました。ですが、そのような悲劇は起こらず、2人は仲むつまじい若夫婦として生活を送ることになるのです。

だいぶ後の話になりますが、和宮は子供が授からず、家茂は側室を作るよう周りに勧められましたが家茂は全て断りました。

いつしかこの2人には深い絆が出てきたのです。
その後大奥内のバトルはどうなったか?
和宮は大奥での女の戦いにムカつき、「騙された!」と嘆きましたが、朝廷にいた女官である中川績子が「嫁となったからには、ある程度は徳川家の和を崩さぬよういたしませ」と手紙に書いたことにより、和宮も次第に「確かに意地になりすぎたかも・・・」と思うように。

ある日、天璋院と和宮が江戸城の庭園で一緒に風景を楽しむというイベントがありました。

2人は庭にある靴を脱ぐための石に降りようとして、ふと見ると和宮の履物だけが石の上に乗っていて、天璋院の履物が地面に置いてありました。

それに気がついた和宮が、裸足のまま地面に降りて自分の履物を下に置き、天璋院の履物を石の上において一礼したのです。

和宮一派の女官は「なんてお痛わしい!皇女という尊い身分でありながら、下々の者(天璋院のこと)にあのようなコトをするとは!」と嘆いたのです。

が、これは天璋院の心をほぐすのに充分でした。

「和宮はようやく徳川の嫁としての立場がわかってきたのですね」ということとなり、両派のバトルは和みムードが漂うようになるのでした。

3月24日 坂本龍馬 脱藩!
3月7日に仲間の吉村寅太郎が脱藩しました。

その後、龍馬も土佐を脱藩したのです。

当時「脱藩」とは、藩主に対する裏切り行為であり、家禄没収やお家断絶、ひどくなると切腹させられる場合もありました。

龍馬の様子がおかしいことに気がついた兄の権平は、知人らに「龍馬の様子がおかしいんだよナー。もし龍馬が金貸してくれと言っても絶対貸さないでくれ」と言って廻りました。

そのため龍馬は金策にヘトヘトに。それを助けたのが姉の乙女だったのです。

乙女は脱藩する龍馬に「肥前忠広」という名刀を与えたそうです。

そして龍馬は九州へ。

佐久間象山に教わった「薩摩藩の反射炉」に興味津々で、実物を見に行ったんですが薩摩藩に入れさせてもらえませんでした。

諦めた龍馬は大坂に入り、京都へ向かったのです。

龍馬の脱藩を知った土佐勤王党のメンバーは「龍馬が裏切った!」と怒りました。

が、武市半平太が「まぁまぁ。龍馬は土佐に収まりきらないヤツだから」とかばったそうです。

ですが半平太は、龍馬といい、吉村寅太郎といい仲間が次々と去っていき、かなり落ち込んでいました。
西郷隆盛 「久光はバカだ!」
薩摩藩は、島津斉彬の死後、弟久光の長男である忠義が藩主となっていましたが、実権は久光が握っていました。

久光の部下となった大久保利通は、島流しにあっている隆盛を戻してくれるよう久光にお願い。

久光は仕方なく隆盛を戻したのです。

そして利通は、久光が斉彬の遺志を継ごうとしていることを戻ってきた隆盛に伝えました。

隆盛は「あのバカが斉彬様と同じようにできるわけないだろ!」と文句タラタラ。

大久保利通もコレには困ってしまいました。

久光は戻ってきた隆盛に「これからはオレの命令を聞け!独断でなんでもかんでもやるな!」と厳しく命令したのです。
3月16日 久光 「中央に乗り出すぞー」
久光は中央政界に乗り出そうとしていました。

3月16日 久光は大軍を率いて京都に向かうべく出発したのです。

目的は「安政の大獄で動くことのできない松平春獄(慶永)や一橋慶喜に幕政をゆだね、朝廷にもご挨拶。公武合体派だってことを印象付けて、いい顔してこよっと」って感じでした。

これを志士達は勘違いしてしまったのです。「島津久光殿が討幕軍を挙げて京都に向かっている!我々も続け!」と全国の志士達がいっせいに京都・大坂に集結しだしてしまったのです。

ちなみに久光は全くそんな気はなかった。

むしろそういった志士達が大嫌い。出発する時も「薩摩藩士たるものは、浪士などという不貞な輩と交流することは許さん!もし、私の命令に逆らって親交を深めていた場合は、厳重に処罰するからな!」と言っていたほどだったのです。
隆盛ションボリ 「利通に怒られちゃったヨ」
隆盛は久光のお供としてその大軍の中にいましたが、全国の志士達が京都に集まっているというのを聞いてドッキドキ。

「うわぁー、みんなヤバイよー。久光殿は討幕のトの字もないってのに・・・。このままじゃ、大騒動になっちゃうよなぁ」と心配になってきちゃいました。

隆盛は久光に「少し先に行って情勢を調べてきたい」とお願い。

久光は疑わしそうに隆盛を見つめましたが「まぁいいだろう。ただし下関より先には行くな。そこで私のことを必ず待て!万が一そこで待っていなかったら容赦しないからな!」と言ったのです。

隆盛は「必ず下関でお待ちしています」と約束し、下関へ向かいました。

が、下関に着いた隆盛はビックリ!「久光が総大将となり幕府を倒す!全国の志士達は京都に向かえ!」というニュースが完璧なものになっていたのです。

これはとんでもないことになった!すぐさま止めなければ!と、隆盛は1人で京都に向かってしまったのです。

で、久光が下関に着いた時、待っているはずの隆盛はいませんでした。

もー久光超激怒!大久保利通を呼び、すぐ西郷を呼び戻して来い!と言ったのです。

利通は「まったくアイツはなぁにやってんだ!せっかく人がお願いして島流しから戻してやったのに、次から次へと問題ばっか起こしやがって!」と呆れ気味。

すぐさま隆盛の所へ行き、志士達をなだめている隆盛に「お前、オレと一緒に死ぬか?」と言いました。

さすがに隆盛もションボリ。そんな隆盛を見て、久光はさすがに「切腹しろや!」とは言えなくなり、隆盛はまたも島流しとなってしまったのです。

隆盛の弟である吉次郎らもとばっちりを受け、家財没収や謹慎処分となりました。

4月8日 吉田東洋暗殺
武市半平太は焦っていました。

江戸において長州の桂小五郎・久坂玄瑞、薩摩の山下万平などと「尊王倒幕!」を実行するぞーと決めたのですが、肝心の土佐藩はゴリゴリの佐幕主義。

半平太は土佐勤王党代表として、吉田東洋に会いに行ったんですが、東洋にバカにされまくって決裂。

こうなったら、藩政首脳のボスである吉田東洋を暗殺するしかない!と決意したのです。

4月8日の夜、東洋は幼い藩主である山内豊範(とよのり)と、藩士たちに「日本外史」の本能寺の変のくだりを講義していました。

そして講義が終わるとお酒を飲み、午後10時ごろ城を出たのです。

ここで3人の刺客が東洋を襲いました。那須信吾・大石団蔵・安岡喜助です。

雨の中やってきた東洋を見つけた3人。

那須が東洋の後ろから打ち込んだところ、傘で交わされてしまいました。

「何をいたすかっ!」と怒鳴った東洋。すご腕の剣の使い手だったので、よく戦いましたが、3人に押されとうとう斬られてしまいました。。47才でした。

土佐勤王党は、上士らが反撃してくるだろう!と、戦いの構えを見せましたが、容堂は動こうとはしませんでした。

容堂が動かなかったことにより、半平太ら土佐勤王党は勢いづきました

そして安政の大獄の関係者や協力者を見つけ出しては暗殺するという「天誅」を行うこととなるのです。
4月23日 寺田屋騒動
久光が幕府を倒そうとしている!と勘違いしていた全国の志士達は続々と集まっていました。

真木和泉・久坂玄瑞・清河八郎・吉村寅太郎・平野国臣・品川弥二郎らメジャー(全国区)メンバーに加え、薩摩誠忠組の有馬新七・柴山愛次郎らです。

が、4月16日に京都に到着した久光は、「はぁ?オレが討幕の総大将!?なんじゃそりゃー!!」とビックリ。

こりゃヤバイ。朝廷から浪士達を大人しくさせるように言われてんのに!とパニックに。

薩摩藩の有馬・柴山ら十数名を大坂の薩摩藩邸に軟禁しました。

が、有馬らは藩邸を脱出し、「まったく何なんだ!?うちの藩主は!?こうなったら関白の九条尚忠と所司代の酒井忠義を襲撃しよう!そして幽閉されている朝彦親王を救出し、参内させて討幕の詔勅をもらおうぜ!」と計画したのです。

その襲撃計画は23日、伏見の寺田屋で話し合いが行われることに。

その情報をキャッチした久光は「大変じゃ!こうなったら・・・」と奈良原繁・道島五郎兵衛ら9名に命令し、ヤツラを大人しくさせろ!聞き入れない場合は討ってもいい!と命令したのです。

奈良原らは寺田屋へ向かいました。

到着してすぐに口論となり、仕方ない・・・と道島が刀を出して田中謙助を斬ったのです。

田中は眉間を斬りつけられ眼球が飛び出て倒れてしまいました。

こっからは大乱闘!薩摩藩士同士の凄まじい斬り合いとなったのです。

この斬り合いで久光側の道島が死に、寺田屋にいた有馬ら6名が死亡。

有馬新七は道島と組打ちとなった時、「俺ごと刺せ!!」と橋口に命令し、橋口は2人を串刺しにして殺したのでした。

この薩摩藩士同士討ちによって、薩摩の急進派は壊滅状態になったのです。

そして生き残った田中謙助と森山新五左衛門(↓の森山新蔵の息子)は切腹を命じられたのです。

誠忠組のパトロン 薩摩の豪商 森山新蔵(しんぞう)と息子 新五左衛門
薩摩の豪商 森山新蔵は、沖縄・奄美大島と密貿易を行っており、巨額の利益をあげていました。

成り上がり者」とバカにされていましたが、まったく気にしませんでした。

下関の豪商・白石正一郎とも仲が良く、ともに貧乏志士達のスポンサーとなっていました。

新蔵は39歳の時に、誠忠組に参加。

そして藩主の久光が京へ行く際に、勝手に行動していた西郷隆盛を激怒!

隆盛と一緒にいた新蔵は、隆盛とともに薩摩に強制送還されたのです。

そして船に乗り薩摩へ帰る途中、寺田屋騒動にて自分の息子である森山新五左衛門が切腹となったことを知ったのです。

息子の新五左衛門は、寺田屋にて奈良原と有馬らが斬り合いになった時おトイレに入っていました。

トイレから出ると、大変なことになっちゃっててビックリ!

脇差しか持ってなかったのですが、逃げて卑怯者と言われるのが嫌で、脇差で乱闘に参加。十箇所以上斬られて倒れましたが、致命傷ではありませんでした。

そして生き残った田中謙助と新五左衛門は久光により「藩主の使者に抵抗した罰」として切腹を命じられたのです。

田中謙助は重傷で命は助からないだろうという傷を負っていましたが、新五左衛門は手当てをすれば充分助かりました。

が、久光の側近らは自分の保身のために助命嘆願も何もしなかったのです。

新五左衛門はとても美男子でした。その切腹は見事だったそうです。

そして、息子の死を知った新蔵は「志を貫いて死んだのです。わが子ながらあっぱれです」と涙も流さず西郷隆盛らに話しました。

が、数日後隆盛が船を離れた短い時間の間に、新蔵は腹を斬って死んだのです。

最愛の息子を失った悲しみに耐えられなかったのでした。
1862年4月 高杉晋作 長崎を出航して上海へ
高杉晋作は長州藩の代表として上海に行きました。

ここでアヘン戦争以来、欧米の言うがままになっている清国を見て大ショックを受けたのです。

そして欧米の強さや文化・文明の発達を見てカルチャーショックを受けたのです。

普通なら「うわ・・・。こんなに西洋文明はすごいのか。これじゃあ攘夷なんて無理だな」と思うところを、突然「よしっ!徹底的に攘夷で行こうぜ!」と決心したのです。

帰国した晋作は、ますますパワーアップして戦闘的になりました。
長州藩 高杉晋作
高杉晋作の家は長州藩の中でもお金持ちの方でした。

晋作はそんな家庭の1人息子だったので、かなりのお坊ちゃま

さらに生まれつき虚弱体質で、10歳の時に天然痘にかかり死にそうに。

それからは、いっそう大事にされてしまいお坊ちゃま度に磨きがかかりました。

吉田松陰の松下村塾に入門し、久坂玄瑞と並ぶ秀才ぶりを発揮。

が、2人の性格は正反対でした。

久坂は熱血漢で、盛んに熱弁を振るうタイプでしたが、晋作はのほほんとしており、物事をちょっと変わった方向から見ていたそうです。
1862年7月 長州藩の長井雅楽失脚!
長州藩は、藩論を「開国」と「鎖国」どちらにするか揺れ動いていました。

藩主の毛利敬親は、長州藩トップの長井雅楽に相談。

長井は「航海遠略策(こうかいえんりゃくさく)」という論文を提出したのです。

内容は「鎖国というのは、日本古来のやり方ではない。三代将軍家光の時に島原の乱が起こり鎖国にしただけである。だからこの機会に開国し、公武一体となって国力を強めれば良い」というものでした。

これに真っ向から対抗したのが久坂玄瑞でした。

「日本は輸出する物産がない!手持ちの金か領土くらいしかないではないか!それにもし開国して貿易がうまくいったとしても、得するのは徳川だけではないか!」と、掴みかかったのです。

これにより長井は藩内の尊攘派から非難されまくり。

久坂は長井暗殺計画を企むも失敗。謹慎処分となりました。

長井がいるとヤバイと思った長州藩は、とうとう失脚させてしまったのです。

翌年1863年に失意の中、自刃してしまいました。
長州藩 久坂玄瑞
玄瑞は長州藩医の子として生まれました。

藩の学校では並ぶほどがいないほどの秀才と言われました。

ですが、保守的な藩校になじむことができず、吉田松陰に手紙を送ったのです。

そして松下村塾へ入門しました。

そこで高杉晋作・入江九一とともに「三高弟」と言われるようになり、松陰も「わが塾一番の秀才」と評価し、妹を嫁がせました。

1858年に江戸を遊学しました。

そして先生である松陰が殺されてしまうという事件が!

玄瑞ら松下村塾のメンバーは、松陰の遺著を読み、尊王攘夷思想をより確立していこうと誓ったのです。

1862年に長州藩を脱藩し、朝廷に働きかけることとなるのです。
1862年7月6日 一橋慶喜 将軍後見人に
幕府はというと、井伊直弼が桜田門外の変で殺されてパニックになっておりました。

そこで脚光を浴びてきたのが、英明高い一橋慶喜だったのです。

そして朝廷から新しい役職「将軍後見人」として慶喜を、政治総裁職として松平慶永こと春嶽が任命されたのです。

幕府の人事を朝廷が行うなど、徳川幕府において例のないことでした。

この2人が台等してきたということは、今まで幕府政治の主力だった井伊派が失脚したということになります。

2人は幕閣に登場すると、「大獄を行ったのは井伊直弼の独断によるものだった!」として、井伊家を10万石削減とし、大獄で幽閉された者や桜田門外の変・坂下門外の変の関係浪士に「和宮降嫁の祝い」として一斉に大赦とするという、井伊直弼政治と正反対のことをしでかしました。

そしてこの2人が密かに話し合った結果によって、1人の青年・1つの藩が血を流す運命となっていくのです。

四奸ニ嬪(よんかんにひん)狙われる 尊攘熱ヒートアップ
↑でも書きましたが、和宮降嫁を勧めた岩倉具視らは「四奸嬪(よんかんにひん)」と言われ、真っ先に尊攘派の槍玉に上がりました。

岩倉具視・千種有文(ちぐさありふみ)・久我建通・富小路敬直が「四奸」で、岩倉具視の妹の堀河紀子・女官の今城重子(いましろ)が「ニ嬪」です。

結局6人は京都から逃げていきましたが、尊攘派の志士達は京都に集まり、京都は異様な高まりをみせました。

そしてこの尊攘熱は「天誅」というテロによってますます煽られていくのです。
1862年7月20日 島田左近暗殺 「天誅」第一弾!
島田左近は九条家の家臣で、安政の大獄の時に井伊直弼の腹心だった長野主膳と仲が良く、協力していました。

が、井伊直弼が殺されたことによって左近の雲行きが怪しくなってきました。

身の危険を感じていた左近ですが、この日薩摩藩士の田中新兵衛に襲われたのです。

左近は必死に逃げましたが、加茂川の河原で力尽き、とうとう首を斬られたのです。

首のない死体が川に浮かび、首は四条が原に晒されましたのです。
1862年8月 アーネスト・サトウが日本へやってくる
ロンドン出身のアーネスト・サトウは、イギリス外務省で働いていました。

日本に憧れを抱いており、この年「駐日英国公使館付通訳生」として日本にやってきたのです。

のちに「一外交官の見た明治維新」という本を出版しますが、これはずーっと日本国内で出版されずにいました。

明治維新でヒーローになった人々が、外国人の「本当の目」で書かれており、当時のお偉いさんにとって、めちゃくちゃマズイ内容だったからです。
1862年8月21日 生麦事件
時代はいまいちビジョンのはっきりしていない島津久光を休ませることはありませんでした。

久光は孝明天皇の家臣である大原重徳(しげとみ)を江戸まで護衛し、京都に帰るところでした。

久光の行列400名が、神奈川県の生麦に差しかかった頃に、イギリス商人リチャードソンと、その妻ボロデール夫人、横浜の商人クラークとマーシャルの4人が横浜方面から川崎に向けて馬に乗って進んでいました。

この4人は今日上海に行く予定が中止となったため、川崎太師見物に行こうとしていたのです。

この頃は外国人殺傷事件が相次いでいたので、友人らは「危険だからどこにも行かない方がいいよ!」と忠告していましたが、リチャードソンは「いやぁ、俺は上海にいたから東洋人の扱いには慣れてるんだぜ?大丈夫さ!」と出かけてしまったのです。

そして4人が馬に乗っていると、久光の一行が道の全幅を使ってやってきました。

そこは狭い道でした。

久光一行の先頭が「脇に寄れ」と言いましたが、道幅が狭くなっていたので行列を避けようとしてもぶつかってしまいます。

リチャードソンは「これはヤバイな」と、危険であることを悟り引きかえそうとしましたが、馬の馬首を返す時に行列の中に割り込んでしまったのです。

久光一行の先頭は激怒!奈良原喜左衛門(きざえもん)が、「無礼者め!」と、リチャードソンに斬りかかったのです。

左肩鎖骨から肋骨まで斬られたリチャードソンは慌てて逃げました。すると久木村利休(くきむらりきゅう)が、さらに脇腹を斬ったのです。

クラークとマーシャルも背中や肩を切られ、ボロデール夫人は帽子と髪の毛を斬られ、慌てて逃げました。

リチャードソンは1キロほど馬を走らせ逃げましたが、内臓がはみ出てしまいとうとう落馬。

まだ死んでなかったんですが、追いかけてきた薩摩藩士によってとどめを刺されたのです。
まじかよ!殺されたのかよ! 横浜在住外国人激怒!
「生麦村でリチャードソンが斬られた!」というニュースを聞いた横浜の外国人達は大激怒!

今まで斬られたのは軍人や外交官で、一般の商人が斬られたのは初めてのこと。

そして「保土ヶ谷に宿泊している薩摩の行列を包囲して、島津久光を捕らえよう」という議論が起きました。

この時、公使であるオールコックは休暇中で、代行として二ールが公使をしていました。

二ールは「それはちょっと危険だよなぁ。日本と全面戦争に発展したらやばいよなぁ。危険な手段はやめて、話し合いにした方がいいだろ」ということに。

薩摩の方はというと「ヤツラは絶対襲撃してくるぜ!その前にこっちから外国人居留地を焼き払おうぜ!」という意見も出てましたが、大久保利通が必死でそれを止めさせました。

幕府もこのニュースを聞き「事件解決まで江戸にいろ!」と命令しましたが、久光は無視しちゃいました。

さらに「やったのは岡野新助という者で、現在逃亡して行方不明である」と架空の人物まで捏造したのです。
脱帽して助かったアメリカ人と斬った男 久木村利休
久光の行列と出会って助かったのはアメリカ人のリードという人。

リードは日本人が久光一行に出会って土下座したのをみてビックリ。土下座は外国人にとってめちゃくちゃ屈辱的な行為に映りました。

「だけど、なんかやんなきゃヤバイよなぁ・・」ってことで、馬から下りて、脱帽してお辞儀をしていたのです。

リードはこの機転によって、難を逃れてました。

実際、みんな外国人を斬りたくて仕方なかったのです。

リチャードソンを斬った久木村利休は「はっきりいって、みんな外国人を斬りたくてしょーがなかったぜ。だけど、むやみに斬るわけにもいかんしさ。そしたら後方で音がしたんだよ。あ、これは誰かがやったな!と思って、俺はすぐ刀に手をかけたサ。そしたら外国人が片腹を抑えながら走ってくるじゃねーか。ご馳走がやってきたと思ったサ」と延べています。
で、生麦事件は結局どうなった?
交渉は幕府とニールの間で行われました。

翌年の1863年2月に、ニールは「昼間だというのに、歩くことを許されている場所で何もしていない外国人が殺害され、それを放置したままで犯人逮捕に努力をしなかった!」と、10万ポンド(40万ドル・アメリカのヒュースケンは1万ドル)の賠償金を要求しました。

さらにイギリス側は大砲を積んだ多くの軍艦を集結させ、答えによっては軍事行動を取ると通告。

横浜は大混乱となり、日本人に避難勧告が出されました。

幕府は要求をのむ以外に対策がなく、40万ドルという大金を払うことに。

朝廷や攘夷とうるさい連中にバカにされるのがかっこ悪いってことで、「この支払いは老中格である小笠原長行の独断です」ということにしちゃいました。

イギリスと幕府の交渉はこれにてやっと終わりましたが、次にイギリスは薩摩藩と交渉をすることになるのです。
荒れ狂う尊攘派のテロ「天誅」
島田左近の暗殺を皮切りに、今度は長野主膳の手先だった「目明しの文吉」が岡田以蔵に殺害されました。

この時以蔵は「刀が汚れる・・・」ということで、綱で絞め殺してます。

お次は清川八郎や真木和泉らと仲の良かった本間精一郎が以蔵らに斬られ、四条ヶ原にさらされました。

また京都奉行所の4人が岡田以蔵・田中新兵衛・久坂玄瑞らに切り殺され、10月には万理小路家の家臣も殺害されたのです。
寡黙な暗殺者 人斬り以蔵
岡田以蔵は土佐で生まれました。「足軽町」と呼ばれる貧民街出身で、身分は郷士です。

麻田勘吉の剣の門下生となり、「おぬしの剣は隼のようだ」と言われるほどに。

剣の天才でしたが郷士出身のため、麻田門下では蔑まれ、いじめられまくりでした。

嫌になった以蔵は、今度は武市半平太の門人に。

半平太は以蔵の剣の才能に驚き、1860年に中国地方に巡遊に行く時は、以蔵をボディガードにつけました。

この頃から以蔵は半平太を尊敬するように。

1863年になると、以蔵は半平太をお追っかけ、半平太が塾頭を務めた桃井春蔵の道場に入門し、剣の腕にますます磨きをかけたのです。

そして半平太が「土佐勤王党」を結成。以蔵も参加しました。

暗殺者としての最初の仕事は、吉田東洋を暗殺したヤツを探していた井上・広田という2人を絞め殺したことです。

以後、半平太の右腕として暗殺のプロとなっていくのですが、半平太に指示される前に人を斬ることが好きだった。

もともと性格的に異常なところがあったと言われています。
人斬りのスター 田中新兵衛
新兵衛は鹿児島で生まれました。船頭の子、もしくは薬商人の子と言われています。

幼少時から剣が大好きでした。青年になった頃には、剣の腕前は有名に。

1862年に京都へ。

人斬りデビューは島左近暗殺。

その1ヶ月後の8月に武市半平太と出会いました。

この時に半平太と義兄弟の契りを結び、半平太に「本間精一郎(越後の浪人)が危険なんだよな」と言われ、岡田以蔵とともに本間を襲ったのです。

新兵衛は当時まだ19歳。

人を斬るたびに暗殺剣は凄みを帯びていきました。

以蔵とともに、志士仲間から「暗殺者」としてスター扱いされていくのです。
1862年 尊皇攘夷の風速マックス
この頃の京都は無政府地帯となっていました。

桜田門外の変・坂下門外の変と幕府の権威は下がりまくっており、諸国を飛び出した尊皇攘夷派の志士達が競って京都に行き、長州藩等の庇護のもと洛中をのさばり、佐幕派(幕府派)や開国論者達を「天誅」という名目のもと殺戮し、喜ぶという状態でした。

天誅とは「天に代わって逆賊を討つ」という意味なんですが、この頃になると国事に関わる人たちだけでなく、自称・尊皇攘夷の志士達が「尊皇攘夷のための軍資金を調達する」と称して、京都の商家などに押し込み、掠奪したりしていました。

その掠奪したお金で祇園や島原などの色街で遊んだりする始末。

つまり、志のない連中までもが「俺は尊皇攘夷の志士だぜ!」と言って、強奪・掠奪をしまくって、たいしてわかっていないのに「幕府はダメだ!」とか言いまくっていたのです。

そんなヤツラを取り締まるはずの京都所司代や町奉行達は、ヤツラの勢いにただボーっとするばかり

幕府もこのような京都の異様な情勢を知りながら、まったく鎮圧しないでいたのです。

大老井伊直弼の安政の大獄からすれば、信じられないほどの寛大さでした。

7月 会津藩 松平容保 京都守護職に任命され真っ青!
こんな京都の様子をやばいと感じていた将軍後見人・一橋慶喜と政治総裁職・松平春嶽は、1人の人物に白羽の矢をたてました。

会津藩 松平容保です。ちなみに28歳。

7月のある日、松平容保のもとに使者がやってきて「至急登城せよ」との命令を持ってきました。

容保は夏風邪を引いており、家老の横山常徳(つねのり)が慌てて江戸城へ。

ところが、その横山がさらに慌てて帰ってきたのです。

横山が大慌てした内容は「松平容保を京都守護職に任命する」というものでした。

さらに「京都守護職とは将軍家直属の職で、一橋慶喜の将軍後見人という職や松平春嶽と一緒に幕閣の体制を固め、この時勢を乗り切ろうという意向から新たに設けられた役職である。」というものでした。

容保は真っ青に!

「何を言ってんだよ!絶対いやだよ!そんなのになっちゃったら京都で浪士達の反感を一身に買うじゃないか!それに一橋慶喜も松平春嶽も時勢が変わってきて、ヤバイってことになったら井伊直弼のようにオレも幕府から見捨てられちゃうし!会津松平家の存続だって危なくなるじゃないか!ダメダメ!絶対やらない!

ということで、家老の横山は容保に命じられて再度登城し、容保の意思を伝えました。

が、「すでに命令が下された以上、受けるべきであろう」と、横山の困った顔を無視しちゃいました。

さらに「そなたから申し聞かせよ」と慶喜に言われてしまったのです。

8月 松平容保京都守護職に!決めゼリフは「保科正之」
京都守護職に任命された松平容保は頑張って断っていました。

が!ここで松平春嶽の決めゼリフが飛び出ちゃったのです。

「いったん守護職を引き受けてくれさえすれば、後のことは自分がいいように取り計らうから。な?それにな、保科正之殿以来の会津松平家のお家柄を考えれば、ここは徳川のために引き受けるべきであろう?」

そうです。会津藩の祖 保科正之は3代将軍徳川家光の弟でした。

二代将軍秀忠が浮気してできちゃったのが保科正之で、妻のお江がコワかった秀忠は保科正之を見ることなく死んでしまったのです。

で、秀忠が死んだ後、家光は自分に弟がいるってのを知り、保科正之がまたいい子だったので特別扱いし、会津藩を授けたのでした。

そのため保科正之は家光に感謝しており「会津藩は、徳川には絶対逆らってはならん!何があっても味方するのだ」という家訓を残したのです。(詳しくは江戸時代その2を見てね★)

ここまで言われた容保は「もう断りきれぬ・・・」と守護職を受けたのです。そしてこの瞬間から、会津藩は血の涙を流す運命となっていくのです。

1862年10月 坂本龍馬 勝海舟に出会う
土佐を脱藩した龍馬は、江戸の千葉道場に世話になっていました。

そこで千葉重太郎とともに「幕府の大奸者、勝海舟に会おう」ということとなったのです。

この時海舟は40歳。

勝海舟が本当のバカであれば、2人はあいつを斬ってしまおうと考えていました。

海舟の前に通された2人。

海舟は「おぬしらはワシを斬りに来たのか?だが、ワシの話しを聞いてからにしてくれ」と、地球儀をクルクルと回しながら言ったのです。

そして海舟は「はっきりいって、今は国内で争っている場合ではない。西洋に負けない強力な日本にするためには、積極的に貿易を行い国の力をつけるべきである。今必要なのは、対抗する軍艦と操縦する船員を養成することである」と述べたのです。

海舟は龍馬に「開国開港」と「海軍」の必要性をとくとくと延べました。

龍馬は「攘夷」の無謀さを薄々感じていたので、この海舟の説得に感銘を受けたのです。

頭の中がすっきりし、自分の進むべき方向を見出した瞬間でした。
龍馬 勝海舟に弟子入り「先生に惚れました」
龍馬は勝海舟に惚れこみました。

そして海舟の弟子となり、以後海舟の右腕として働くこととなるのです。

龍馬の惚れこみ方はハンパではなく、姉の乙女にベタ惚れした様子の手紙を書きました。

「このたび、日本第一の人である勝先生のもとに弟子入りいたしました。めちゃくちゃ可愛がってもらっています。」と書いてありました。

1862年11月 長野主膳の妾 村山可寿江生きざらしに
容保が「京都守護職」というニュースによって、京都はさらに騒然としました。

長野主膳の妾だった村山可寿江が「安政の大獄の時に、志士達を探った」ということで、三条大橋に縛られ生きざらしとなり、その息子は晒し首となったのです。

ますます京都の治安はめちゃくちゃになり、狂気に包まれてきたのです。
1862年12月 松平容保 京都へ入京
松平容保が初めて京都の地へ入ったのは午前10時頃でした。

この日はとても寒く、普段なら人影もない時でしたが「守護職がやってくる!」という噂が流れると、たちまち見物人達がわんかさ出てきました。

見物人の中には過激派浪士らも混じり、守護職の実力はどんなもんか値踏みしていました。

はっきりいって浪士らは所司代や町奉行をバカにしていたので、今度の容保入京にはめちゃくちゃ関心を寄せていたのです。

容保は黒い戦闘集団を引き連れ、堂々と京都へ入ってきました。

今まで所司代などの幕府機関を冷笑していた連中は、さすがに強い畏怖を思わずにはいられませんでした。

容保は1000人の兵を連れ、関白近衛忠熙の家に立ち寄りちゃんとご挨拶をしたりなど、朝廷連中への挨拶もきちんと行いました。

さすがに浪士たちは「今度の守護職ってのは、今までのとはワケが違うカモ・・・」と恐怖感を感じるようになったのです。

とある会津藩士のつぶやき・・・「ふん。偉そうに」
この時の様子を会津藩の人の日記にはこう書かれています。

この頃の京都は諸藩士が集まりまくって、がやがやと時論を論議しまくっていた。

初対面の人と会うときは「わしは○○の脱藩人じゃ」とか「ワシは牢獄に入っていたことがある」などと、それがこれ以上ない栄誉のようにベラベラと喋っていた。

中には浪士と言ってるだけで、藩を追われた人も沢山いた。

そんな彼らは、わが会津藩の入京を聞いても「くわいづ藩?ナンダそれ?」とか「会津藩ってどこにあるんだ?大名は誰だ?」などと、その辺にいる人に聞いている有様。

そんなヤツラが偉そうに国事を語るんだから、その内容はたかが知れているし、行く先は思いやられる。

と、書いてありました。

1862年12月 久坂玄瑞・品川弥二郎 イギリス公使館襲撃!
尊皇攘夷派である長州藩の高杉晋作・久坂玄瑞・有吉熊二郎・伊藤俊輔(のちの博文)・井上聞多(のちの馨)らは、品川御殿山に新築されたイギリス公使館を焼き討ちにしました。

これに参加したのは13人でした。

上海から帰国した高杉晋作が、「日本があのような奴隷扱いされることは許せん!」と攘夷で行くことを決めた最初の行動でした。

土佐勤王党の田中光顕(みつあき)は、「高杉は何かをやる時、必ず見通しをつけて行うため失敗が殆どない。やることはめちゃくちゃでも、十分裏で作戦を整えいてる。この公使館焼き討ちの時も、他の人達は血気にまかせて行け!やれ!みたいな感じだったが、高杉は火をつけた後、みんなの逃げ道を確保してたりと、落ち着いていた」と言っていました。
長州藩 伊藤博文
農民の子として生まれた博文。

足軽である伊藤家の養子となったため伊藤姓を名乗りました。

その後、藩の命令で浦賀警備に行きましたが、そこで隊長に才能を見出され、松下村塾に紹介してもらい入門となりました。

松陰21番目の弟子となります。

翌年、江戸へ行きましたが松陰が処刑されてしまいました。

その後は桂小五郎とよく一緒に行動していました。

長州藩 井上馨
長州藩百石取りの次男として生まれました。

武士の家だったんですが、貧乏で農家の生活とあまり変わりがありませんでした。

幼い頃から藩校に入り、蘭学に興味津々。

そして毛利敬親の警備担当となります。

江戸に出て江川太郎左衛門に蘭学を学びました。

剣術は斉藤弥九郎に学びました。

1860年25歳の時にに藩主の毛利から「門多」の名前を貰い、長州藩のために「お金」のことで動き回るように。