幕末その2 幕末の嵐 1853年〜1859年
幕末ニッポン!志士達の時代
欧米やロシアの干渉が相次いだ幕末の日本。徳川幕府はもとより薩摩・長州・土佐・肥後などの外様大名らの各藩も自分達の未来に向かって大揺れに揺れました。それが幕末です。

今までは各藩のエリートのみが携わっていた支配体制に、不満を抱いた中流以下の藩士らが動き出したのです。

志の高い藩士らは自分の主張と違うとわかると、脱藩し浪士となって同じ志を抱く各藩の若者達と将来を語り合いました。

そして若い志士達は徳川幕府に反旗を翻したり、また徳川幕府を守るべく戦うのです。

若者達のリーダーとなった人物は、薩摩は西郷隆盛・大久保利通・中村半次郎ら。土佐からは坂本竜馬・中岡慎太郎・武市半平太。長州からは桂小五郎・伊藤博文・高杉晋作。そして幕府は勝海舟・山岡鉄舟。そして幕府の犬と呼ばれる新撰組ら。

志高き「怒れる若者達」が立ち上がり時代を動かしていく。それが幕末日本なのです。
1853年6月 ペリーが黒船に乗って浦賀にやってきた 
1852年10月 アメリカの東インド艦隊司令官であるマシュー・カルブレース・ペリーがバージニア州ノーフォーク軍港を出港しました。行き先は日本であります。目的は

@日本に貿易港を開かせる
Aアメリカ人漂流民の保護
Bアメリカの捕鯨船の食料や燃料の調達 

ペリーは遠征を前にして日本の情報を集めまくっていました。欧米の学者の中には日本行きに参加したい人が何人かおり、その中に国外追放されたシーボルトもいましたが、日本人の感情を害するってことで却下されました。

そしてペリー率いるサスケハナ号・ミシシッピ号・サラトガ号・プリマス号の四隻が浦賀へやってきたのです。

サスケハナ・ミシシッピの二隻は煙突から黒い煙をモクモクと出す蒸気船で、プリマス・サラトガは帆船でしたが黒く塗装された大きな船でした。当時の日本人が見たこともない船で、みんなめちゃくちゃビックリしました。

日本側は警備船を出しペリーのいる船へ向かいましたが「日本政府の高官以外は会わん!」と断られ、仕方なく浦賀奉行組の与力である中島三郎助が「日本は外国との交渉は全て長崎で行うので長崎へ行ってくれ」と言ったんだけど拒否されちゃいました。

幕府は驚いて緊急会議を開きましたが名案が浮かばず、そうこうしているうちに江戸中大騒ぎ!

また黒船から大砲をドカンドカンと撃っちゃったもんだから大パニックに!結局ペリーは来年の春に回答を聞きにやってくると言い、国書を浦賀奉行の戸田氏栄(うじよし)に渡して浦賀を去っていきました。

江戸庶民は黒船見物にわんさかと押し寄せ狂歌が詠まれました。

・太平の 眠りを覚ます 上喜撰(じょうきせん) たった四杯で 夜も眠れず

1853年6月 パニックの中 将軍家慶死去
ペリーがやってきた!という情報に幕府はてんやわんや。この頃家慶は病気で、何の対応もできなかった。

謹慎中の水戸藩主である徳川斉昭を江戸城に呼んだり、老中阿部正弘が奮闘したりと何とか対策にあたっていました。そしてようやく騒ぎが終わったと思ったら発病!そのまま息を引き取ったのです。

ペリーは来るわ将軍は死ぬわ・・・幕府は混乱しまくりでした。
1853年7月 老中 阿部正弘大パニック どうすりゃいいの?
困りまくってたのは時の老中 阿部正弘。とりあえず諸大名に意見を聞きまくった。

譜代大名ならともかく、幕府が外様大名にまで意見を聞くなんて前代未聞のこと。それほどまでに幕府は困っていたのでした。

さらには一般市民にまで「何かいい良い意見があれば遠慮なく申し出よ」と空前絶後のコトをしでかしたのです。

庶民にまでご意見を拝聴したってのに、阿部正弘のもとに送られてくる意見書のほとんどが「特に意見はない」というものでした。

笑えるのが吉原遊女屋の主人の意見「決死隊をつのって、漁師のフリをして黒船に近づいて、外国人の好きそうな茶碗とか絵とかをプレゼントして仲良くなるってのはどう?」というもの。幕府は意見を聞かないほうが良かったのかも(^^;)

ちなみにこの時「海防意見書」を提出し、阿部正弘に「こいつ使えるかも」とチェックされたのが勝海舟です。

ジョン万次郎はアメリカにいた時、日本が外国船打ち払い令をやってるなどの鎖国状態を聞いており、ここで開国すべきだと幕府に開国の思いを説きましたが、保守的な幕府の人間は耳を貸さず、しまいには「アメリカのスパイ」と言われてしまうのです。

とまぁ、幕府はこれにより自らの弱体化をさらけ出すこととなり、尊皇攘夷派や尊皇倒幕派といった勢力を生み出すきっかけを作ってしまったのです。
孝明天皇 「ワシは外人キライでおじゃる」
1846年に16歳で121代目の天皇となった孝明天皇。ちなみに大好物は「おから」

阿部正弘はペリーから受けた国書を朝廷に渡しました。以後たびたび孝明天皇の「夷人(外人)嫌い」は幕府を苦しめます。

孝明天皇は一度も外国人に会ったことはありません。だから「外人嫌い」も空想の中で培われたもの。側近が「赤毛人(こうもうじん)の図」ってのを見せたくらい。

この時天皇が「夷人とは何を食べてるのでおじゃるか?」と聞くと、何も知らない側近が「ヤツラは生娘の生き血を飲み、その肉を食べてるのです」と言ったそうです。本当は赤ワインにステーキなんだけどね。

この頃の天皇は生まれた時から「雲の上の人」で世間とはまったく関わっていなかった。そのため社会的視野ははっきりってまるでなし。

「夷人によって神の国である日本が穢されるのはイヤじゃ」くらいの気持ちで、外国人を禽獣のようなものだとしか思っていなかったのです。

これが一般的なそのへんの人が思ってるだけならまだしも、天皇だけあってタチが悪い。

「夷人など日本からパッと消えてしまえばいいのじゃ」くらいの感覚で、その願望を述べただけで「勅旨」という重々しいものとなってしまうのです。

そして天皇が「勅旨」した瞬間から、誰も彼もがその意見に逆らうことは「逆賊」とみなされてしまうので、非常にタチが悪かったのです。

その天皇の夷人嫌いをうまーーーく利用することになるのが、長州藩だったのです。
ヤバイ日本の国際感覚
実はアメリカのペリーがやってくるという情報を幕府はキャッチしていました。

というのもペリーがやってくる前年にオランダ政府がこの情報をキャッチし、わざわざ長崎奉行所へ教えていたのです。

長崎奉行は一応阿部正弘に連絡しました。

ですが長崎奉行は「オランダはさ、日本との貿易の利益を独占したいから、きっとアメリカに日本に来るなー!って言うと思うよ」と言い、さらに「オランダは日本の物産をアメリカに売りつけて儲けるつもりもあるんじゃないの?」と、せっかくオランダ政府が忠告してくれたのに、オランダ政府に対してめちゃくちゃ失礼な思いを抱いていたのです。

つまり長崎奉行の国際感覚はこの程度だったのです。

そして幕府のお偉いさんは詳しく調べもせずに、長崎奉行の言葉を鵜呑みにし、以後オランダ政府から何を言って来ても無視しようぜ!と決めちゃったのでした。

一応阿部正弘は近くの島津斉彬辺りにはヒトコト言っておくかーって感じだったんですが、浦賀奉行にはヒトコトも言いませんでした。

浦賀奉行の戸田氏栄はペリーが去った後「なんで事前にわかってたのに言ってくれなかったんじゃい!我々にも情報を流してくれてればあんなみっともないコトにはならなかったのに!」と激怒したそうです。
ペリーショック!この時 坂本龍馬は?
坂本龍馬は1835年土佐郷士の次男として生まれました。

坂本家は豪商であり裕福な家で、階級的には「郷士」だったんですが、暮らしは「上士」よりもランク上のいい生活ぶりでした。

経済的に恵まれたお坊ちゃまだったため超過保護に育てられ、泣き虫でオネショばかり。ハナタレで10歳になっても一人で洋服を着ることができないほど。

勉強もからっきしで、簡単に言うと「落ちこぼれ」でした。それでも頑張って塾に通っていたんだけど、そこでもいじめられっ子だったのです。

が、12歳の時に母が死に、姉の乙女(おとめ)が母親代わりに。

この乙女が身長174センチもあり体重も110キロ。ピストル大好きでなぎなた・馬術も大得意。「坂本の仁王(におう)様」と呼ばれるほどの男勝りの勝気な女性でした。

そんな乙女に尻を叩かれ、龍馬は泣く泣く近所の道場に行かされるのです。が、こっから龍馬がメキメキと頭角を現し始めたのです。

「オレって強いじゃん!」と自信満々になりはじめた頃、大ショックを受ける人物と出会います。

剣客 大石進でした。土佐へ遊びにきた大石が、土佐藩でも強いと言われている者達をバッタバッタと倒していったのです。龍馬は大ショック!

その大石が「江戸は恐ろしいところです。強いヤツが次々とやってくる。剣をやるなら江戸に出なければなりません」と言ったのです。

それを聞いた龍馬は「オレは江戸へ行く!」と乙女に言うと、乙女も大賛成。

そして18歳の時に江戸へ行き、京橋桶町にある北辰一刀流千葉定吉の門弟に入りました。

ペリー来航の時はまだまだ世の中のコトが何もわかっておらず、この頃の手紙には「異国船がやってきた!近々戦が起こるだろう。その時は異人の首を討ち取るぞー!」と楽天的なことを言っていました。

ちなみに武市半平太とは親戚です。といっても血のつながりはありません。

龍馬がちょくちょく半平太の家に遊びに来ていて、たびたび庭先で放尿しちゃってるので、半平太の妻が注意しようとすると、半平太は「それくらいのことで悪くいうな。あいつはなかなかの傑物だからな」と笑っていたそうです。

龍馬の姉 はちきん乙女
乙女は龍馬より3歳年上の姉です。「はちきん」とはおてんば娘という意味です。

母が亡くなった後、龍馬を育てました。龍馬もかなりのお姉ちゃんっ子でした。

23歳の時に藩医である岡上樹庵(じゅあん)と結婚し子供ももうけましたが、樹庵が女中と浮気をしたので33歳の時に離婚。

自分の娘には女の子らしい遊びは一切させず、武術をたたきこみまくったそうです。
龍馬 恋しちゃいました
江戸で剣術修行をしていた龍馬。

ある日白い稽古着をつけた小柄な剣士と対戦。が、その小柄な剣士から一本も取ることができませんでした。

そしてその相手が面を外したら龍馬ビックリ!可愛らしい美少女だったのです。これが定吉の長女である17歳の佐那(さな)でした。

龍馬はその後も佐那と勝負しましたが、まったく勝てなかった。

悔しくなった龍馬は、足払いをかけて佐那を馬乗りになって押さえつけたのです。

佐那は恥ずかしさのあまり、逃げちゃいました。それ以来佐那は龍馬に勝てなくなっちゃったそうです。

その後2人はラブラブ(死後!?)に。婚約までしちゃいました。

龍馬が姉の乙女に出した手紙には「佐那は乗馬もうまいし、剣も強い。そのへんの男より全然強い。さらに琴もひけちゃう。顔は元カノの平井加尾よりも全然美人さ!」と自慢してました。

佐那は龍馬が死んだ後も生涯独身を通しました。龍馬の婚約者だったことをずっと語っていたそうです。

龍馬は他の彼女ができちゃったのに、なんだか可哀相だよね。
ペリーショック!この時 桂小五郎は?
1833年に長州藩の侍医和田昌景の子として生まれた小五郎。

和田家は裕福な家庭で、小五郎は不自由なく育ちました。お坊ちゃまで過保護に育てられたため、無口でおとなしい少年でした。

が、17歳の時に吉田松陰と出会ってから、小五郎の人生が大きく変わることに。

3歳年上の松陰の魅力に取り付かれた松陰は、学問・剣術に励みまくりました。

1852年に江戸へ出て、斎藤弥九郎の練兵館に入門。

剣の腕はイマイチでしたが、なんとか神道無念流の免許皆伝となり、塾頭を務めるほどになりました。

性格は寛大で誠実。

高杉晋作や久坂玄瑞のいい相談相手となりました。

また時勢をクールに見つめていたため、松陰から「桂は事を成す天才であるが、冷めすぎている」と非難されてしまうのです。

勝海舟も「桂は使える男ではあるが、用心しすぎるため大きな仕事では使えない」と言っています。


1853年 13代将軍 家定
家慶が死んだため新たに将軍となった29才の家定。

が、知的障害者であり、かぼちゃやさつまいもを煮ることに熱中。

なんとしても子供だけは作らせなければ!老中阿部正弘は頭が痛かった。なんとしても将軍の後釜だけは決めておきたかったのです。

そんな家定も実は結婚してました。

最初の御台所である夫人は関白鷹司家の養女任子(ただこ)・2人目も関白の娘である明宮

。が、明宮は背がめちゃくちゃ小さかったらしい。この2人は相次いで死んでしまいました。そして新たな御台所を迎えるべく運動が開始されたのです。

ちなみに一応家定は大奥内にお気に入りの「おしが」という女性もいましたが、妊娠することもなく、家定に肉体的欠陥があったのです。

はっきり言って徳川の悲劇は血統にこだわり続け知的障害者を将軍としたことから始まっていくのです。
ドロドロの将軍継嗣問題スタート!紀州派VS一橋派
家定に肉体的欠陥があり後継ぎができないため浮上してきた継嗣問題。

適当な候補者は家定のイトコである紀州和歌山藩主の徳川慶福と、一ツ橋家の慶喜でした。

血統からみれば紀州慶福の方がはるかに近かったんですが、まだまだチビッコ。こんなご時世だから血統よりも今すぐ病弱な将軍の代わりに政務を代行できる人の方がいい!という声も上がってきたのです。

そのグループがいわゆる「一橋派」で、慶喜の父である水戸の斉昭をはじめ、老中トップの阿部正弘・薩摩の島津斉彬・越前の松平慶永(春獄)・宇和島の伊達宗城らでした。

彼らは「ペリーによって国は乱れまくっている!かねてから英明の聞こえも高い一橋慶喜を将軍家定の後釜に迎えるべきである!」と立ち上がったのです。

この一橋派に対し激しく反発したのが家定の生母本寿院(ほんじゅいん)でした。

「もし慶喜が継嗣になったら私は絶対に自殺する!」とまで言い出したのです。

さらに大奥総年寄の滝川も「血統的には慶福であろう」と慶福を推しまくりました。そして紀州の慶福を擁するべく「紀州派」が出来上がったのです。

この2つの派閥により激しい対立抗争がスタートするのです。
越前藩主 松平慶永(春獄)
御三卿の一つである田安家に生まれた慶永は越前松平家の養子となり、16代越前藩主となっていました。

幼い頃から秀才の誉れが高く、越前に入国する時も慶永の憧れの人である水戸の斉昭のところへ行き、藩主としての心得を聞いたりとお利巧さんぶりを発揮していました。

慶永は斉昭の影響下にいました。ですが、阿部正弘と島津斉彬と知り合っていくうちに考え方がだんだんと変わっていくのです。

そんな慶永が大事にしたのは「橋本佐内」と重臣である「中根雪江」でした。
超嫌われ者 水戸の徳川斉昭
斉昭は大奥にメチャクチャ嫌われていました。将軍だけしか入れない大奥に乱入し、スケベじじぃと嫌われまくり。

また水戸家の慶篤(よしあつ)の妻だったいと姫が、幼子を残して自殺するという事件が起きました。

これが「斉昭がいと姫を無理やり犯したため」という噂が大奥に広まったのです。

真偽はわかりませんが「あの男ならやりかねない!」というイメージがあったらしく、多くの女たちは斉昭に反感を募りまくり「あのスケベじじぃの息子である慶喜はろくなヤツじゃない」というようになってしまったのです。
島津斉彬 敬子を御台所にしよう計画始める
阿部正弘は外交問題と将軍継嗣問題を中心とした難局を、雄藩勢力で一番力を持っている島津斉彬を手を結んでなんとか乗り切ろうとしました。

2人はお由良騒動からの仲です。島津斉彬は薩摩藩主の中でも飛びぬけた名君と言われていた人です。

斉彬も大奥全体が紀州慶福を応援していたため、よほどの奇策を考え付かない限り慶喜が将軍になるのは無理だろうな・・・と考えました。

そして思いついたのは自分の娘(といっても養女)を空席のままになっている将軍家定の御台所にし、家定の意思を動かして大奥を懐柔させよう!と考えたのです。

そして選ばれたのが島津一族で1万1千石を領する島津忠剛(ただとき)の娘 敬子(すみこ)でした。

敬子は美人で頭が良く、その辺の男には負けないくらい勝気な性格。

斉彬は「この娘なら立派に任務を果たすだろう!」と一ツ橋派の阿部正弘や伊達宗城に連絡。みんな「さすがは薩摩候!」と大喜び。

敬子が御台所におさまった暁には斉彬は将軍の御台所の養父として発言力が増すし、斉昭も御台所敬子が頑張ってくれて慶喜が将軍になれれば、将軍実父として立場が強くなる。ここに島津家・水戸家の利害が一致したのです。

かくして本来なら小さな諸大名のもとに嫁ぎ、何人かの家臣にかしづかれ静に幸せに暮らすはずであった敬子は、激動の幕末に身を投じることとなったのです。
1854年1月 またもペリーやってきた 日米和親条約 鎖国が終わる
再びやってくるってのを約束して去っていたペリーは予定よりも早くやってきました。今回は七隻でやってきて威圧しまくりました。

慌てた幕府は横浜で交渉を行うことに。2月10日から10日間の間に4回の交渉を行われ、とうとう3月3日に日米和親条約が締結されたのです。

十二か条からなっており、主な内容は下田・函館の開港。アメリカ船の食料・燃料の供給・外交官を下田に駐在させるなどなど。

そして二百年以上にわたる鎖国は終わることとなったのです。
日米交流に驚きまくり!機関車・相撲レスラーetc
アメリカはとても友好的で、さまざまな物を見せてくれました。それらは全て先進文明の品々で、日本側はビックリしたのです。

機関車・電信機・写真機・望遠鏡・ウィスキーなどなど。

それに大して日本側のお礼の品はというと、漆器や刀・硯箱などなど、文明の香りまるでナシ。

幕府はこれじゃあ見劣りしまくりだよ!と米二百俵や鶏三百羽を追加でプレゼントしたらしい。

交渉の過程で、もう嫌になっちゃうほど劣等感を持たされた幕府。せめて少しでも劣等感を拭いたい!と考えた幕府は、米を運ぶ者に超でっかい力士を選んだのです。日本にはすごいヤツラがいるんだぞー!というのをアピールするためのものでした。

この姑息な幕府の企ては成功。ペリーの日本遠征記に「すごいでっかい男が荷物を運んでてビックリした。筋肉もすごすぎて、むしろ不気味・・・」

アメリカ人の水兵は是非相撲レスラーにチャレンジしたい!と、3人がかりで大関の小柳に向かっていった。この3人は、1人はボクサーで2人はレスラー。が、勝負は一瞬にして小柳の勝利となったのです。

ペリーは「なぜこんなに強いんだ?」と聞くと「日本の上等な米を食べ、日本の上等な酒を飲んでるからです」と答えた小柳。毎日のようにペリーに威圧されまくっていた幕府連中は涙を流して喜んだそうです。

また機関車に驚いた武士らは、是非乗ってみたい!とチャレンジ。こちらも「アメリカでは子供が大喜びするミニチュア機関車に、大の大人が喜んで乗っていた」とあります。
ペリーにチューした男 松崎満太郎
ペリーはポータハン号の中で、盛大な祝宴を催しました。コック長は材料を惜しまず腕にヨリをかけご馳走を作りました。

日本の武士達は生まれて初めて見る料理に目の色を変えて貪りまくったのです。その食欲にアメリカ人もビックリ!

そんな中、お酒を飲みまくって酔っ払っちゃったのが松崎満太郎でした。ペリーに向かって「アメリカも日本も心は同じさ!うわははは!おーけー?」とべろんべろんに。そしてペリーの抱きつき酒臭い息でキスしちゃったのです。

周りの人は「大丈夫ですか?」とペリーに聞くと、ペリーは「条約に調印してくれるならキスくらいさせてやってもいいさ」と笑ったそうです。

ちなみにペリーが残した松崎評は「消化不良っぽい顔で、ひょろ長く痩せた体。立派そうには見えない男」だそうです。

また、ただ一人悠々と全ての料理に舌鼓を打ち、ワインを飲み堂々としていたのは林復齋(ふくさい)でした。
龍馬びっくり!これが黒船かい・・・
最初に黒船がやってきた時は、龍馬は話しだけを聞いていて実際見てはいませんでした。

2度目にやってきた時は、ちょうど土佐藩は海の方で砲台を築いていました。その中に龍馬もいたのです。

黒い巨大な船がやってきたのを見て、龍馬は衝撃を受けました。

そして今まで「攘夷だ!」だの「夷人なんぞやっつけたる!」と言っていた考えを改め、「攘夷などまず無理だ」と思うようになり、アメリカのことをもっと知りたい!と思うようになったのです。

ちなみに、ペリーがやってくる1ヶ月前に龍馬は佐久間象山に入門を許されました。

が、象山に西洋砲術を習ったのはわずか4ヶ月ほどでした。象山が松陰に密航を示唆したって罪で捕まっちゃったからです。
ペリーショック!この時 佐久間象山は?
この頃象山の門人である松陰が密航の決意をしました。

象山は「無能な幕府の連中どもは鎖国という古臭い法をかたくなに守り、結局はアメリカの大砲に脅されて開国をした。このままでは日本は欧米列強の餌食となる。今、日本にとって急がなければならないのは優れた人材が異国に渡り、その技術と事情を探ることである!密航をすることはやむを得ないことである」と松陰に言いました。

松陰は「日本の国のため、私がメリケンに行きます!」と象山に言ったのです。

また2度目にペリーがやってきた時、象山の前を通りました。

ペリーは何を思ったのか、象山の前を通る時軽く挨拶したのです。

ペリーは他の人の前では挨拶したことなかったので、象山は鼻高々。それだけ象山の風貌に威厳があったのでしょう。

また、ペリーと一緒にやってきたアメリカ人象山の容貌を「サムライ!」と大喜び。写真を一緒に撮ってくれだのなんだの騒ぎまくった。象山は「ヤツラにそんなことを言われるとは屈辱的じゃ」と腹を立ててたそうです。
吉田松陰 密航に失敗!ペリーに断られちゃった
条約を結んだペリーは開港の決まった下田を調査しようと下田に向かいました。

この時、闇に紛れて小舟をこいでやってきた2人の日本人がいました。長州藩の吉田松陰と金子重輔(じゅうすけ)です。

2人はミシシッピ号の周りを小舟でぐるぐると廻っていましたが、船員がポーハタン号の方に行けと言われ、中国語通訳のウィリアムスと会談をすることに。

ですが「君達の意気込みは評価するけど、やっと正式は国交の約束をしたばっかりなので、私的な密航は受けることはできない」とあっさりと断られてしまいました。

そして2人はボートで岸に戻され、逮捕されてしまうのです。松陰の師である佐久間象山も連座して罰せられました。

佐久間象山は蟄居となり、松陰と重輔は萩に送られて獄につながれることとなるのです。
1854年6月 龍馬覚醒!土佐へ戻り河田小龍に会う
龍馬は江戸から土佐に戻りました。

が、江戸での生活や西洋の脅威に揺れまくっていることを知ってしまった龍馬は、土佐での生活に満足できませんでした。

またこの頃、21歳年上の兄である権平は、後継ぎがいないってことで龍馬に坂本家を継いで欲しいと考えていたのです。

龍馬の心は坂本家をとるか、それとも国家の一大事に身を投じるかで悩んでいました。

そんな頃、龍馬は河田小龍という人物に会いに行くことに。

小龍は土佐城下で一番の知識人と言われていました。

本来は絵師なんだけど、京都や大坂で遊学した経験を持っており、またジョン万次郎がアメリカから戻ってきた時に取り調べをした人でした。

龍馬は「アメリカのことを聞くなら小龍がいいかも」と考えたのです。この時龍馬20歳・小龍は31歳でした。

龍馬はいきなり小龍を訪ねて「今の世界の情勢を教えてくれ」とお願い。

小龍は心の中で「こんな無作法な坂本のバカ息子に話すことはなにもない」と思い、「私は隠居した身なので、いまさら話すことはない」とお断り。

が、龍馬はしつこく食い下がり、根負けした小龍は「はっきりいって攘夷などできる訳がない。だがすぐに開国するのも難しい。開国するには軍備が必要であろう?まずは商業を始めてお金を作る。そして外国船を買い入れて同志を募り、旅客や荷物を運搬するのだ。さすればお金を儲けながら航海術も身につくであろう。そして儲けたお金でこの国を立て直すのだ」と意見したのです。

龍馬は目からウコロがでた思いでした。この言葉が海援隊を作るきっかけとなったのです。

そして「ではあなたは同志を育ててください!私はその船を手に入れてみせる!」と言って、小龍のもとを立ち去ったのでした。
1855年7月  長崎海軍伝習所を開設する
阿部正弘はこのままじゃヤバイ!いい人材をガンガン登用したほうがいいな・・・と、ガンガンと抜擢し始めました。

川路聖謨を勘定奉行に抜擢し、江川太郎左衛門に韮山反射炉の築造を命じたり。

そして近代的な海軍にすべく長崎に海軍伝習所を開設したのです。この時オランダから軍艦スンビン号をプレゼントされ、ペルスライケンらオランダ人教官に指導してもらい実地訓練の他に造船や測量などを教わりました。

伝習生は幕臣以外にも諸藩からもOKで、薩摩・長州・佐賀とかからも参加しました。幕臣の伝習生には勝海舟や中島三郎助らがおり、翌年には榎本武揚もやってきました。

勝海舟は伝修生を統率する伝習生監に任命され、二期生のために訓練後も長崎に残ることに。

そして8月には幕府がオランダに建造を頼んでいた軍艦ヤパン号が出来上がりました。これがのちの咸臨丸(かいりんまる)です。

勝海舟は咸臨丸に乗って航海訓練に励み、次第に航海技術もあがってきました。そして皆、勝海舟に信頼を寄せていくのです。

また1858年に海舟は薩摩に立ち寄った時、藩主島津斉彬が駆けつけ、海舟の案内で咸臨丸を見学しました。この時海舟は初めて会った斉彬の知識の豊かさに敬服したそうです。

1859年2月に井伊直弼によって長崎海軍伝習所はわずか3年で閉鎖されてしまいますが、日本の近代海軍技術に大いに役立ちました。
幕臣 勝海舟
海舟は1823年江戸・本所亀沢町で勝小吉の長男として生まれました。

小吉の祖父は越後の農民でしたが、生まれつき目が見えない人でした。

江戸に出てきて金を貸すなどして3万両を貯め込み貧乏旗本・男谷家の株を買って、自分の末っ子である平蔵に男谷家を継がせました。小吉はその平蔵の三男でした。

小吉はなかなかのやり手で、ヤクザと関わって古道具屋をやったりしました。また子供大好きな人で、海舟が9歳の時に野犬に睾丸を食いちぎられて重態に陥ったときに昼も夜も海舟のことをずーーーっと抱いて寝たそうです。

何とか助かった海舟は16歳で家督を継ぎ、剣を学び21歳の時には免許皆伝となりました。

1844年 22歳の海舟は佐久間象山を訪ねました。

そこで象山に刺激を受け教えを乞い、1846年には自分の妹が象山と結婚するのです。自分は幕臣の岡野孫一郎の養女である「たみ」と結婚しました。

ちなみに海舟はのちに象山のことを「象山は知識抜群なんだけど、ほら吹きで困るよー」と語ってます。

これは象山が江川太郎左衛門に教えて貰って大砲を設計したんだけど、全然ダメ大砲で、象山がオレが悪いんじゃない!作ったやつが悪いんだぁ!とブースカ文句を言ったからです。

また、勝家は超貧乏。この頃蘭学に興味を持っていた海舟は「ヅーフ・ハルマ」という辞書が読みたかった。

だけどとてもじゃないけど手が出せない値段で、とある蘭医が持っているという噂を聞くと、その辞書を借りて2部書き写したのです。そしてそのうちの1部を売却して、ちょこっとお金儲けしちゃいました。

1850年には蘭学塾を開くことに。

ペリーがやってきた時、海舟は自分の上司にああした方がいい!こうした方がいい!と自分の海防の案を申告した。これが異国応接担当の大久保忠寛の目に止まり、「異国応接掛・手付蘭書翻訳御用」という今でいう外務省の翻訳担当者のようなものに抜擢されたのです。

これが33歳の海舟の公的なデビューとなりました。

そして海舟はこの後もずーっと海軍充実!という論を持ち続け長崎海軍伝習所へ入ったのです。
1855年10月2日 安政の大地震
この日の夜10時ごろ、江戸では突然大地が揺れ始め夜が明けるまでに30回以上の激しい揺れに見舞われました。

マグニチュード6.9くらいです。ちなみに阪神大震災は7.3.

真っ暗闇の中、地震の影響で発生した火事が起きてしまい、人々は逃げまくり大惨事となったのです。壊れた家は15000軒で、死者は1万人以上と言われています。

ただでさえいろんな問題を抱えてパニくってる幕府にとって、この地震は大打撃となりました。

この地震のおかげで、江戸市民の中にあった世直し願望にも火がついちゃって、幕末の動乱に大きな影響を与えることとなったのです。
安政の大地震で藤田東湖死す!
この地震で、水戸藩の斉昭派のボス藤田東湖が死んでしまいました。

これにより、斉昭・東湖らによって追い出されてしまった水戸藩の一派が不穏な動きをしだすのです。
1856年7月21日 ハリス 米国総領事に入る
下田に突然アメリカ総領事のハリスが到着しました。ハリスの突然の来訪にビックリした下田奉行は滞在を拒否させるべく向かいました。

日米和親条約において、日本側は両国が駐在の必要を認めたときのみ初めて外交官がやってくると思っていたのに、英文では両国のどちらか一国が必要とした時は駐在を認めると書いてあったのです。

これは英語がイマイチわかっていなかった日本側のミスでした。オランダ語がわかる人は何人かいたんだけどね。

ハリスは下田駐在を認めなければ、乗ってきた軍艦で江戸に乗り込むぞ!と脅したため、下田奉行は仕方なく駐在を認めることとなったのです。

ハリスは東洋貿易を行っていた商人でした。

中国にも行ったりしてたんだけど、もっともっと色んなことやりたい!ってことで、日本駐在総領事職をゲットしたのです。

ハリスのお供には25歳の青年通訳ヒュースケンがいました。

ヒュースケンはオランダ人ですが、ニューヨークに移住していました。オランダ語と英語がわかるってことで、通訳の募集に応募して採用されたのです。

12月 薩摩の篤姫 将軍家定と結婚
島津斉彬は敬子を養女にし、名前を大名の娘らしく篤姫(あつひめ)と改名。

そして建前上、外様大名の娘が将軍御台所になるのはヤバイってことで、京都の近衛家へ敬子を養女に出しました。

そして家定の御台所となったのです。近衛家の娘なら文句がでないだろ?という政略結婚でした。

篤姫の結婚が決まった時、一ツ橋派は祝杯を上げました。

ちなみに篤姫が近衛家に養女に行く際の交渉役は、島津斉彬に抜擢された西郷隆盛です。

篤姫21歳。子供を産むためでなく、一橋慶喜を将軍にするためだけに御台所となったのです。

篤姫はこのことを養父斉彬から諭されると「命に代えましても果たしてみせます」と誓いました。

入輿の日、渋谷にある薩摩藩から江戸城へ出発した行列は延々と続き、斉彬はこの結婚に財力を惜しみなく使ったのです。

が、一ツ橋派の思い通りにはいきませんでした。

御台所となった篤姫が手も足も出ないほど大奥は本寿院をはじめとした紀州派で凝り固まっていたのです。

また大奥総年寄である滝川もあらゆる手を尽くして篤姫を感化し、だんだん篤姫は「慶喜ってそんなにヤバイの?」と思い始めるように。

またいくら篤姫が頑張っても将軍や御台所は一人になる機会がない。

寝所にいる時も必ず何人かが近くにいるので、斉彬の言うとおりのことを家定に言ったもんなら、たちまち本寿院のもとに報告が言ってしまう。

斉彬は御台所篤姫を通しての一ツ橋慶喜将軍継嗣は実現不可能と知ると落胆しまくった。この頃になると一ツ橋派も同調するものが多くなっていただけに、斉彬は悔しくて仕方ありませんでした。
日本女性が外人が大嫌い!
この頃頻繁に外国人が日本にやってきました。そしてもちろん「遊郭」へも外人は足を運んだのです。

ですがこの頃の日本人女性は外人が大嫌い!そのため遊郭でも「日本人向け」「外国人向け」に分かれており、外国人向けの遊女はどの店でも最低ランクの女郎があてがわれていました。

ある時一人の外国人が横浜の「岩亀楼」に遊びにやってきました。そこで「亀遊(かめゆう)」という遊女にヒトメボレしちゃったのです。

だけど亀遊は「日本人向け」の遊女で、主人は絶対相手にさせない!と言い張ったのです。

すると怒った外国人が「それなら身請けすれば文句ないだろ!」と600両もの大金を出して亀遊を身請けすることにしたのです。

驚いたのは亀遊。とうとう身請けの日に部屋で自殺してしまったのです。

亀遊は「攘夷女郎」と称えられ、世間の同情と涙を誘いました。それほどまでに当時の日本人女性は外人と同衾することを毛嫌いしており、外国人と肌を合わせるなんて死に勝る屈辱だったのです。
1857年5月22日 「唐人お吉」ハリスの妾となる
お吉の本名は「斎藤きち」1841年12月に伊豆下田で生まれました。父の市兵衛は舟大工でしたが、酒癖が悪くケンカ沙汰の耐えない人でした。

この市兵衛が早死にしてしまったため、母のおきわは2人の娘を実家に預け苦労しまくったのです。

お吉が7歳の時に、河津城主である向井将監(しょうげん)の愛妾・村山せんという女性の養女となりました。そして琴や三味線を習いました。

お吉はとても美人に育ち、14歳の時に芸者となったのです。ちなみにお吉は父親に似てお酒大好き。生涯にわたってお酒の匂いがしてたそうです。

当時下田は外国船の行き来が激しく、繁盛しまくっていました。そんな中下田の芸者となったお吉は美貌と男勝りの勝気な性格で下田一の売れっ子芸者となっていったのです。

前年にはハリスが初代米国領事という肩書きを引っさげ下田に入港。この時ハリスは53歳。日本との外交を行っていましたが、慣れない異国暮らしに体調を崩してしまったのです。

ハリスと一緒にやってきたヒュースケンは困ってしまい「病気のハリスの世話をしてくれる看護婦をよこしてくれ!」とお願いしました。ところが、日本側は「看護婦」とはナンダ??という感じでした。まだ日本に看護婦という職業の知識がなかったのです。

そのため「ふむ・・・。妾を用意しろということなのだな」と勘違いしてしまったのです。

そしてその役割として白羽の矢が立ったのが、下田一の芸者・お吉だったのです。その時役人が提出した給料は年間125両・支度金25両という破格の金額で、いかに当時の幕府が米国との交渉を重要視していたかがわかります。

が、お吉はこの申し出をお断り。幼馴染の許婚がいたし、外国人に対して偏見を持ちまくっていたからです。が、役人らから「日本の国のためにこらえてくれ!ぜひ妾になってくれ!」とめちゃくちゃお願いされ、とうとうOKしたのです。

そして5月22日 17歳のお吉はハリスの妾として出仕しました。下田の人々はお吉にを哀れみの目で見送りました・・・。

ところが!だんだんとお吉の身なりが豪華になってくると、世間の人々は一転して「なによあのコ!外人なんかとさぁ・・・」と、妬みと侮蔑の目を露骨に出すようになってきたのです。

お吉は「あたしは許婚と別れてまで国のために犠牲になったのに!それなのにひどい!」とますますお酒に溺れていったのです。

ところで、お吉とハリスに性的関係はあったのかというと・・・。実はなかったようです。

お吉は衰弱していたハリスを懸命に看病したことは確かのようで、ハリスはというと敬虔なクリスチャンで、本当に病気だったのでお吉のことを「看護婦」としか見ていなかったようです。

そして3ヶ月後の8月 お吉は解雇されました。どうやらハリスの病気が治ったらしいです。

が、世間の人々はお吉に冷たかった・・・

ハリスのもとを去ったお吉は生活費を稼ぐために芸者に戻ったんだけど、みんなに「唐人お吉」と蔑みまれ、冷たい視線を浴び続けるのです。

お吉が普通の顔だったらこれほど騒がれなかったのかもしれないけど、美人だったためにその噂はずーーっとお吉についてまわり、とうとうお吉は芸者を辞めました。

その後はというと、28歳で横浜へ行き幼馴染で元婚約者の鶴丸と同棲をはじめました。

31歳の時に「3年も離れていれば下田に戻っても世間の目は変わっているわよね・・・」と下田に戻りましたが、まだ「唐人お吉」のままでした・・・。

お吉はまたも酒に救いを求め、お酒が原因で鶴丸との仲に亀裂が入り始めたのです。

とうとう36歳の時に鶴丸と別れ、またも芸者となりました。

42歳の時に、お吉の人生を気の毒に思った船主・亀吉が小料理屋を開き、お吉を女将に迎えてくれたのです。

ですがお吉の体は長年の酒浸り生活のためボロボロになっていました。

また酒癖も悪く、気に入らない客にケンカをふっかけたり・・・。一日中お酒の匂いをプンプンさせた女将の店など誰も行かず、とうとう2年でお店は潰れてしまったのです。

その後はぷっつりと姿を消したお吉。そして40代後半になった頃、物乞いの中にお吉がいました

かつて下田一の売れっ子芸者だった美貌のお吉は、ハリスとたった3ヶ月関わってしまったために物乞い生活となってしまったのです・・・・。

明治24年2月25日 お吉は稲生沢川で身投げをしました・・・・。

ですが土地の人々は死後のお吉にも冷たく、斉藤家の菩提寺は埋葬を拒否したのです。哀れに思った宝福寺の住職が、お吉に法名を与え、お吉はやっと眠ることができたのです。51歳の哀しい生涯でした。
1857年6月 阿部正弘が死去
御台所篤姫の計画が失敗とわかりショックを受けまくった島津斉彬。

ところが水戸の斉昭は「それくらいの失敗がなんじゃい!」とひるまなかった。

「こうなったら何が何でも慶喜を将軍にしたるぞぅ!」と京都の公家さんに働きかけまくった。

するとこの京都への工作は幕府にバレ、幕閣や大奥の警戒を余計募らせたのです。

この頃になると、斉昭が「慶喜を将軍に!」と言えば言うほど継嗣の座は遠のいていく結果となっていったのです。そして斉昭は孤立しまくった。

さすがの島津斉彬も「今、慶喜擁立を口にするのはヤバイな・・・」と松平慶永に忠告するように。

だけど松平慶永も諦めきれず、老中阿部正弘を中心とし、みんなで力をあわせて頑張ろう!と希望を捨てずにいました。

ところが!状況不利な一橋派に大事件が

なんと暑い午後のこと、37歳という若さで阿部正弘が急死してしまったのです。これには一ツ橋派大ショック!大きな打撃となるのでした。
1857年10月 ハリスびっくり!将軍ってやばくない?
総領事館となったハリスは、まず下田奉行との間で和親条約の改定を行いました。

ですが肝心の通商条約の締結には難航していました。ハリスはたびたび老中に書簡を送ったりしました。

将軍と謁見させろ!とうるさかったハリス。ついに江戸城にて将軍家定と謁見を実現させました。

が、会ってみてビックリ・・・。ハリスはこの時の印象をこう語っています。

「短い沈黙のうち将軍は自分の頭をその左肩をこえて後方へぐいっとそらし始めた。同時に左足をふみ鳴らし、これを3・4回繰り返していた」

知的障害者が日本の将軍・・・ハリスはこりゃやっばいなぁーと思ったことでしょう。

だけどその後が好意的で「だけど将軍家定は、よく聞こえるしっかりした声で・・・遠方からわざわざ来てくれたことに満足している。両国の交流は永久に続けましょう・・・と言いました」

と、奇癖を出しながらも一生懸命言葉を伝えようとした将軍家茂に対して、多少の好意を感じたそうです。
1857年11月 吉田松陰松下村塾を発足
吉田松陰はペリーに密航をお願いするも失敗。江戸伝馬町の牢から萩の野山獄(のやまのごく)に移されました。

ここで同室となった人々を感化し、門人としてしまったのです。

そして病気療養という理由で出獄し、実家へお預けという形で帰りますが、そこで近所の師弟たちを集めて兵学の講師を始めたところ、評判を呼んで続々と受講希望者が集まりだしたのです。

あまりにも多くの人がやってくるので、松陰は藩の許可を得て廃屋を改造し「松下村塾」を開きました。この名前は叔父から譲り受けたものです。

最初は8畳しかなかったんですが、門人が増えたためさらに10畳追加されるほどの盛況ぶり。ちなみに塾生は300人ほどいましたが、熱心に通いつめたのは30人ほどだったそうです。

松陰の教育のやり方は「マンツーマン」方式でした。与える知識もその人に見合った知識で、一人一人の長所を伸ばしていくやり方だったのです。

主な門弟は、高杉晋作・久坂玄瑞・吉田稔麿・伊藤博文・山県有朋・品川弥二郎(やじろう)・入江九一(くいち)・前原一誠(いっせい)松浦松洞(しょうどう)がおり、桂小五郎も塾を発足する前に教えを受けたことがありました。
老中 堀田正陸(まさよし)失脚
ハリスは幕府に「貿易を早く開始しろ!」と要求してきていました。

阿部正弘の次の老中である堀田正陸は何とか断ろうとしていたんだけど、ハリスの勢いに押されまくっていました。

諸大名らにも意見を求めていましたが、徳川斉昭らが断固反対!と攘夷を訴えてたため、なかなか前に進みませんでした。

困った堀田は「こうなったら天皇の勅許(許可ね)を貰って、反対派を黙らせるしかないな」と、天皇のもとに。

堀田は「勅許ってのは、形式的な手続きだし、朝廷が反対するわけないし」と軽い気持ちで行ったんですが、大の外人嫌いだった孝明天皇は「そんなの嫌でおじゃる!」と反対し、勅許を許さなかったのです。

そして堀田正陸は勅許を得られなかったことにより、失脚となったのです。
1858年4月 井伊直弼 大老となる
彦根藩の14男として生まれた井伊直弼。

14男のため冷や飯食いで厄介者として育っていました。自らの住居を「埋木舎(うもれぎのや)」と名づけたほど自分の暗い人生をわかていたのです。

それが長男が死に、その息子も死んだことによって運命が変わってきたのです。

次男以下は全員他家を継いでいたため、井伊直弼が36歳にして彦根藩を継ぐこととなったのです。

そして幕府老中となり、43歳にして「大老」という職になったのでした。

大老とは将軍の名のもとに幕政を行える職でした。

直弼は「近親を除いて英明を選ぶのは外国の風習である!わが国は血統が第一であり、血脈の近い方を迎えるという美風があるのだ!」という持論をもったタイプであったため、紀州派にとってこれほど心強い味方はありませんでした。
1858年 一橋派VS紀州派はどうなってる?
一橋慶喜を押す一橋派と慶福を押す紀州派はいまだ熾烈な争いをしていました。

一橋派は「こんなご時世、いくら血が近いといえども子供の将軍などダメだ!英明・人望のある者こそ将軍にするべきだ!」の声を出し続け、松平慶永は腹心である橋本佐内を京都に行かせ公家連中を説得に行かせたり、同じく島津斉彬も西郷隆盛を京都に派遣し公家連中らを説得させ、「将軍は人望・年長・英明のある者を将軍にすべきだ」と朝廷から幕府に言わせるように動きまくっていました。

200年以上も軽視されまくっていた朝廷から将軍問題について口を出させるなど前例のないことでした。

この異例の手段を成功させるための重大な任務に、松平慶永は橋本佐内を選んだのです。

対する南紀派も負けてはいませんでした。

井伊直弼の腹心である長野主膳は、関白である九条尚忠(ひさただ)の家臣である島田左近と手を組み、巻き返しを図り、「年長・英明・人望」の文字を消すよう努力したのです。

そして朝廷は南紀派の意見を取り、沙汰書には「年長・英明・人望」の文字は消えていました。西郷・橋本らの運動は失敗に終わったのです。
1858年6月 日米修好通商条約締結
井伊直弼は大老職に就くと、すぐさま果敢な行動に出ました。

直弼は「今アメリカと戦ってもまず勝ち目はない・・・。仕方ない!全責任は私が持つ。アメリカと条約を結ぼう」と、決めたのです。

ハリスは「このままだったらイギリスやフランスに侵略されて、中国の清のようになってしまいますよ?その前に日本と友好的なアメリカとの間でアヘンの輸入禁止をうたった通商条約を結んだほうがいいですよ?」と説得し、井伊直弼は、天皇の許可を貰わずに独断で条約締結に踏み切ったのです。

はっきりいってこの頃の天皇なんて、こういった社会情勢をまるでわかってなかったというただの「外人嫌い」だったので、言っても仕方ない・・・という感じだったのです。

直弼の家臣は「勝手に条約締結しちゃったら非難ゴウゴウですよ!やめたほうがいいですよ!」と進言しましたが、直弼は「もし調印を拒否して戦いになったら絶対にわが国は負けるぞ?さすれば長い間この国は国辱を浴びることとなる。この罪は直弼が一身にして受ける!」と言ったのです。

ポーハタン艦上で行われた条約締結の内容は

・神奈川・長崎・函館・新潟・兵庫を開港する
・自由貿易
・関税は両国で協議する
・アメリカ人が悪いことしたら、アメリカの法で裁く

といったもので、日本にとってはめちゃくちゃ不平等なものでした。

そして幕府は7月から9月にかけてオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同じような不平等条約を結んだのです。この不平等条約の改定のために、日本はこれからのちずーっと苦労するのです。
水戸の斉昭ら文句を言いに行く
直弼が勝手に条約締結したというのを聞いて激怒したのは徳川斉昭&慶篤(よしあつ)父子・越前藩主松平慶永らでした。

早速定例の登城日でもないのに江戸城に押しかけたのです。この時直弼は6時間も彼らを待たせました。

さらに定例日で登城していた一橋慶喜を加えた5名は「勝手に調印するなど朝廷をないがしろにした行為だ!」とブーブー文句を言ったんだけど、直弼は少しも動揺せず「ではどうしろというのだ!?文句があるのか!!」と強気で全くたじろがなかったのです。

斉昭は「わが息子慶喜を将軍家定の継嗣に決定してくれるならば、この件については大人しくしてもいいぞ」という腹があったため、直弼に対し一種の取引を持ちかけようとしていましたが、直弼は強気の姿勢を全く崩さず「文句があるなら来い!!何を言おうとお前らなど眼中ないわい」と態度をずーっと崩さなかったのです。
1858年6月25日 将軍後継に家茂が決定する
斉昭らがブーブー文句を言いにきた次の日、直弼は突然「紀州慶福を将軍継嗣とする」と発表したのです。

これには一橋派はビックリ!直弼を甘く見すぎたっ!と焦る反面、正式に発表されちゃったからもはや慶喜の出る幕はなくなってしまったのです。

もー斉昭は超激怒。こうなったら「勝手に条約締結した罪」で攻撃してやるっ!と決めたのです。
1858年7月5日 井伊直弼 安政の大獄がスタート
直弼は一橋派の攻撃にびくともしませんでした。びくともどころか反撃にあってしまったのです。

7月5日安政の大獄第一号とも言うべき攻撃がかけられました。

徳川斉昭・慶勝・慶永に「登城日でもないのに勝手に江戸城にやってきた罰」として謹慎が言い渡されたのです。

さらに斉昭は蟄居となり、慶勝と慶永は藩主の地位を奪われ隠居させられてしまい、慶篤と慶喜は登城禁止処分となったのです。

水戸藩家老の安島帯刀(あじまたてわき)は切腹となりました。

こうして政敵である一橋家の中心人物はことごとく一掃されてしまったのです。

特に水戸家への断罪は厳しいものとなりました。水戸藩は直弼に恨みを持つようになるのです。

直弼は幕府独裁体制を守り続けるということを貫き通そうとしていました。

国外・国内ともに巻き起こる問題の中で、崩壊しかけている幕政を死守し立て直そうとしていたのです。

「世の中が騒然とし、国論が沸騰するのは朝廷・大名・藩士らがガタガタと政治に口を挟むからじゃ!政治は今までどおり幕府に任せておけばいいのじゃ!」という考えだったのです。

直弼にとって、雄藩の藩主とその家臣達が幕府を改革しようとチョロチョロと動き回ることは不愉快以外の何物でもなく、老中政治を信仰する直弼にとって彼らの行為は許せない暴挙と映ったのです。

その直弼の考えが安政の大獄の幕開けとなったのです。
1858年7月6日 14代将軍 徳川家茂
この日、将軍家定が死去しました。そして慶福が家茂と改名し、14代将軍となったのです。南紀派が勝ち取った将軍の座でした。

継嗣問題が解決したのと同時に家茂が死ぬというタイミングの良さから、家定の死は毒殺ではないかと噂されました。35歳でした。

14代将軍となった家茂はまだ13歳でした。
未亡人となった天璋院篤子(てんしょういん)
薩摩の地から出てきて御台所となり2年で早くも未亡人となってしまった23歳の篤姫。

養父である島津斉彬も死んでしまい、もはや帰るところはどこにもなかった。

篤姫は天璋院と名乗り、以後江戸城大奥にを取り仕切ることとなるのです。
不穏な空気が出まくる
勝手に条約調印・勝手に将軍擁立という2つの問題を独断で決めてしまった直弼。

孝明天皇は怒って「退位するでおじゃるー」と言い出すし、梁川星厳・梅田梅浜・西郷隆盛らは「反・幕府勢力」を形成しちゃったり。

さすがに直弼もこの動きを放っておくのは危険かもな・・・と水戸藩のみでなく志士達にも処罰してやると思い出したのです。
井伊直弼のブレーン 長野主膳
主膳の出自は不明ですが、25歳頃から歴史上に登場してきます。

伊勢にて本井宣長の国学を学んでおり、27歳の時に32歳の「たき」と結婚しました。

その後主膳は尾張や美濃などを歩き国学や和歌を教える生活に。この時に出会った近江の医師である三浦北庵が、「埋木舎」でうずまっていた直弼に主膳の著者をプレゼントしたのです。

この本を読んだ直弼は超感動して「是非遊びに来させてくれ!」と主膳を彦根に呼び寄せたのです。

主膳は直弼に頼まれて和歌を教えたりして仲良くなっていきました。出世の見込みのない14男の直弼と三流学者の友情がここで芽生えたのです。

ところが、歴史は思っても見ない方向に動いたのでした。

お先真っ暗と思っていた直弼が大老に彦根藩主となり、主膳は直弼に呼ばれ国学の師となり正式な彦根藩の家臣に。

そして直弼が幕府大老職に抜擢されたのです。

主膳は直弼のブレーンとして動き、朝廷工作にあたりました。諸国を放浪している時に二条家などにも出入りしており面識があったからです。

そして安政の大獄においても直弼の右腕となり「京都の大老」と言われるほどの権勢を持つこととなるのです。
1858年9月4日 死(詩)に上手 梁川星厳(せいがん)
美濃え農業を営んでいた裕福な家に生まれた星厳。33歳の時にイトコの紅蘭と結婚し、夫婦揃って旅に出ました。

2人とも詩が大好きで星厳は「幕末最大の詩人」と言われます。

そして京都に移り、その家で牡丹を愛でたり、詩を作ったりと優雅な生活を送りました。

が、これは表向きのことで、星厳の家は政治結社のアジトだったのです。その家に集まっていたのは吉田松陰・西郷隆盛・横井小楠・頼三樹三郎・梅田雲浜などでした。

が、8月になると星厳はコレラになってしまったのです。

死ぬ時に「男子、婦女の手に死なず」と言い、最愛の妻である紅蘭を別室に行かせ、頼三木樹三郎に見送られ布団の上に正座しながら死んだのです。70歳でした。

が、その直後に安政の大獄が始まったため「星厳は死(詩)に上手だ」と言われるようになりました。

星厳の代わりに捕まってしまった55歳の紅蘭は半年間獄中に入れられました。

出入りした人物の名を執拗に尋問されましたが「知らない」の一点張り。さらに精神異常のフリをして出獄を許されたのです。
1858年9月7日 安政の大獄!梅田雲浜(うんぴん)逮捕!
雲浜は若狭の藩士でした。湖南塾という私塾を開いていましたが生活は超貧乏。ですが師である上原立斎(りっさい)は雲浜をとても気に入り、自分の娘である「しん」を娶らせたのです。

が、貧乏どん底生活はそのまんまでした。

1850年に海防策の意見書を藩に提出したところ、幕府を悲批判している!と怒られ藩士の身分を剥奪されてしまいました。

貧乏暮らしに嫌気がさした雲浜はブローカーに変身。

長州藩へ行き、塩や紙を輸出したり、また上方からは材木・薬・小間物などを輸入させる話をまとめました。また、ちょうど妻の「しん」が亡くなり、新しい奥さんの実家がお金持ちだったため資金援助をしてくれたのでした。

そのためだんだん暮らしはらくになり、京都烏丸に家を構え訪問客をおもてなししまくり。二畳間で親子3人が暮らしていた時とは大違いの贅沢三昧の生活となりました。

ペリー来航の時は「攘夷」に傾いており、将軍継嗣問題では慶喜派として動き回りました。

上方の輸入をしていたことから公家連中と仲良くなり、京都では梁川星厳に次ぐ志士達の指導者となったのです。

梁川星厳・頼三樹三郎・池内大学とともに「悪謀四天王」と呼ばれ、志士達を指導しまくりました。

が、これが長野主膳に知られてしまったのです。

そのため安政の大獄が始まると雲浜は一番最初に逮捕されてしまったのです。

そして江戸に送られ、激しい拷問を受けることに・・・。ですが「攘夷の大儀を知るのみ」とだけしか言わず9月27日ついに獄中で病にかかり死んでしまいました。45歳でした。
1858年11月 安政の大獄!頼三樹三郎 捕らえられる
三樹三郎は有名な学者であった頼山陽(らいさんよう)の第三子として生まれました。

15歳の時に大坂へ出て勉強していた時に、大坂滞在していた幕府のおエライさんである羽倉蘭堂と出会い、一緒に江戸に出て羽倉が保証人となり昌平黌に入学しました。この時18歳でした。

が、幕府の考えに疑問を抱き始めるのです。

幕府があまりにも朝廷をナメきってるのに腹を立て、「幕府が朝廷より立派な寺を建てるなどもってのほかじゃぁ!」と上野寛永寺の葵の紋(徳川の紋だよ)のついた石燈を蹴り倒したため、昌平黌を辞めさせられてしまったのです。ちなみにかなり酒癖が悪かったそうです。

三樹三郎の反幕府への思いはだんだん強くなり「尊皇攘夷思想」を掲げ、学者として大きな影響力を持つこととなるのです。

また父の友人である梁川星厳や梅田雲浜とともに将軍継嗣問題について一橋派と組み、激しく幕府を攻撃しました。

井伊直弼はこのように尊王攘夷論を持ち、政敵である徳川斉昭を援護しまくっている三樹三郎を邪魔に思い、とうとう安政の大獄の時に捕らえたのです。

そして11月に京都にて捕まり、江戸へ送られました。

そして取り調べしまくられましたが、その間も一貫して幕府を批判し尊皇攘夷を主張しました。そのため1589年10月7日に処刑となったのです。35歳でした。

安政の大獄!若き天才 橋本佐内
左内は幼少の頃から早熟で、15歳の時に「啓発録」を書きました。

啓発録とは「交友を選ぶ」「志をたてる」など、じじくさいコトをもっともらしく書いたものです。

父は医師で、16歳の時には緒方洪庵に弟子入り。大坂では梅田雲浜や横井小楠らと交友を重ねていました。

緒方洪庵が開いていた適適斎塾(てきてきさいじゅく)では蘭学を学びました。

この塾はもっとも優れた秀才らが入る塾で、その中でも佐内はNO1の秀才ぶり、洪庵も「わが塾の名声を上げるのは、左内であろう」と認めるほど。

1853年には江戸に行き蘭学を学ぶため塾へ。こちらでも秀才ぶりを発揮し、先輩の半井仲庵は「驚くほどの天才だ」とビックリするほどでした。

佐内の興味は蘭学から兵学へ移っていき、水戸藩士である菊池為三郎を通じて藤田東湖や西郷隆盛と知り合い、だんだん政治問題にのめり込んでいったのです。

1855年の3月。越前半では城内に明道館を創立し、人材を養成しようとしていました。

統率者を探すよう藩主松平慶永に頼まれた重臣の中根雪江は、かねてから秀才と名高い左内を推薦したのです。

そして佐内は江戸から越前へ。23歳で明道館の学監となったのです。

左内の思想は「開国論」でした。「交易こそが富国強兵の道である!」と考えており、藩主松平慶永は佐内に影響されまくるのです。そして慶永の思想も開国論へと傾斜していくことに。

1858年には日米修好通商条約問題と将軍継嗣問題が。慶永は「一橋派」だったため、左内の明晰な頭脳と卓抜な弁舌を利用しようと考えました。慶永はそれほどまでに佐内を高く評価していたのです。

命令を受けた佐内は「慶喜擁立運動」を開始しました。が、慶永は佐内を重要な任務につけたにも関わらず、費用を全く払ってあげませんでした。

左内は目的を達するために賄賂も多少送りたかった。が、軍資金をまるで貰えなかったため、武器となるのは自分の口のうまさだけでした。

なんとか頑張り、慶喜を指名した内勅まで出すってとこまで漕ぎつけたんだけど、長野主膳の働きにより、土壇場で年長・人望・英明の三箇所を削り取られてしまったのです。

そして安政の大獄が始まりました。

慶永は隠居させられ、「自分の力が足りなかったからだ」と中根雪江とともに切腹しようとしましたが、慶永に「勝手なことをするな。死んだらワシを見捨てたと思うからな」と言われ、切腹をとどまったのです。

左内は、まさか自分のところにまで安政の大獄の影響が来るとは思っていませんでした。が、10月22日に佐内の家に捜査が入ったのです。

それから1年近くに渡り、左内は評定所に呼び出され取調べをされました。ですが、主人の命令に従っただけで何もやましいことはしていない!と堂々としており、どうせ大した罪にはならないだろうと思っていました。

が、翌年の10月2日最後の詰問をされ、そのまま小伝馬町の牢に入れられ、死罪という判決が出たのです。ちなみに、奉行は「流罪」と判決を出したのですが、井伊直弼が「死罪」としたのです。

左内は「主命でやったことである!」と主張しましたが、主張すればするほど「自分がやったことを主人のせいにするとは!不届き者め!」と歪んだ捉え方をされてしまい、もう何を言っても無駄でした。

そして10月7日。小塚原にて処刑となったのです。わずか1年ちょっとの政治活動のために、25歳という若さで死んでしまった橋本佐内でした。
1858年12月 安政の大獄!吉田松陰投獄
松下村塾で教えていた松陰。

実は安政の大獄で京都で志士達を弾圧しまくっている老中間鍋詮勝(あきかつ)を暗殺しようとしていました。そして長州藩政を担当している周布政之助(すふまさのすけ)に暗殺計画を打ち明けました。

が、周布はこれに反対し、暴挙を抑えるために松陰を再び野山獄に入れたのです。

松陰は長州藩を尊王倒幕の先駆けにしようとしており、間部を暗殺すれば毛利家の名前は世を轟かせるだろうと考えていたのに、逆に獄に入れられてしまい大ショック!「藩を相手にしたことは一生の誤りだ!」と憤慨したのです。

ここで、野山獄に入れられている松陰に悪いニュースが。なんと幕府から松陰を江戸に送るよう指示があったのです。

江戸に送られ、またも伝馬町の獄に入れられた松陰。嫌疑は梅田雲浜とはどういう関係か?というものでした。

ちなみに松陰は梅田雲浜のことが嫌いでした。そのため雲浜と一緒に何かを企てたりはしないと言ったのです。

ここで松陰はしてはいけない勘違いを犯してしまったのです。

「幕府がこんなことでわざわざオレを呼ぶわけがない。いつまでもぐだぐだしてたら間部暗殺計画のコトも探知されるかもしれないな。だったらいっそはっきり言ってしまった方が心証も良いだろう」と早合点してしまったのです。

松陰からしてみれば「これはあくまでも計画の段階だから、せいぜい他家預かりくらいの罪だろう」と思っていました。

間部暗殺計画を打ち明けられた幕府はビックリ!徹底的に松陰を洗うこととなったのです。

松陰もビックリ!これはやばいことになった・・・と思ったときはすでに遅かった。

幕府は松陰が言っていないことまでも調書に書き、無理やり松陰を間部暗殺計画の指導者に仕立て上げたのです。

松陰は愕然としました。自分の読みが浅かったことを悔やみましたが、これはもう何を言っても無駄だ・・・と諦め、罪を負う覚悟を決めました。

この時点で奉行の判決は「流罪」となりましたが、井伊直弼は「流」の字を自ら「死」と直してしまったのです。
1859年6月 横浜・長崎・函館(箱館)が開港
横浜は何もない寒村でした。

イギリスのオールコックは「こんな何にもないところを開港するなんて!」とブースカ文句を言っていましたが、幕府は三井に出店を作らせたりして何とか開港できるまでの形を作りました。

開港直後に英一番館と言われるジャーディン・マジソン商会が開業し、他の外国貿易商も次第に増えて行きました。

が、開港地が発展するにつれて、不平等条約の効果が現れてくることに。

日本の商人は直接輸出することができず、外国商人を通さないとダメと決まっていたため、海運は全て外国人のものとなってしまい、情報も教えてもらえず主導権を外国商人に全て握られてしまったのです。

そのため外国人は莫大な利益を上げることに。

さらにその不正利益が発覚したとしても、外国人には日本の法を適用できないという条約を結んでしまったため、日本側は外国人の不正を追及することもできなかったのです。

外国人は何をやっても罰せられないもんだから、外国人の方も悪さをしまくりました。

日本人の不満が貯まるのはあたりまえ。外国人によって日本国はメチャクチャにされてしまう!外国人を排除しなければという「攘夷」思想はますます強くなっていくのです。

そしてこんな不平等な条約を締結した幕府も悪い!と思うようになってくるのです。
日本は外国と貿易して豊かになったのか?
アメリカに続いてイギリス・ロシア・オランダ・フランス(安政の五カ国条約)とも条約を結んだ日本。

実は最大の貿易相手はアメリカではなくイギリスでした。

アメリカはちょうど「南北戦争」が始まっちゃって、貿易どころじゃなくなっちゃったのです。

ちなみに日本の輸出品の80%は生糸でした。当時ヨーロッパの蚕は病気で壊滅状態だったので、日本の品質のいい生糸を買いまくったのです。

このため日本の製糸業や養蚕業は急速に発展していきました。

ですが、日本国内で生糸が品不足になってきました。特にダメージをうけたのは京都の西陣

西陣織の原料である生糸が極端になくなってしまったのです。これは生糸商が次々と横浜へ送り、イギリスへ輸出されてしまったからでした。

さらに大量の安い繊維物が輸入されてきたため、国内の綿織物は全く売れなくなってしまったのです。

京都の人々はもともと尊皇心(天皇はずっと京都にいたから)が強いのに、幕府のせいでこんな大変なことになってしまったため、「尊皇攘夷派」に好意をしめすようになり、幕府の家臣や新撰組などを嫌うようになっていくのです。
斉彬の弟 島津久光
斉彬が急死し、遺言によって久光の長男である茂久が薩摩藩主となりました。

別の家に養子となっていた久光は、長男の茂久が藩主になると薩摩へ戻り、後見人として藩政を取り仕切るようになったのです。

久光はどんな子だったかというと、先進的な斉彬とは正反対のカチコチの真面目人間でした。革命的なものは好まず、バリバリの封建主義者でした。

その一方で斉彬を尊敬していました。

ただ、西郷隆盛とはめちゃくちゃウマが合わず、前に二度島流しにあったと書きましたが、二度とも久光の手によってです。
1859年7月16日 島津斉彬死去
この安政の大獄に激怒したのが島津斉彬。

斉彬は「今のご時世、血筋で将軍を決めてはダメだ。聡明でなければ多事多難な政局を乗り切ることはできない!」と一橋慶喜を推している一橋派でした。

そのため大奥に養女とした篤姫を送り込んだり、西郷隆盛に朝廷工作をやらせたりと頑張っていましたが、結局それは徒労に終わってしまったのです。

井伊直弼によって「開国」はどんどん遠ざかり、13歳の家茂が将軍になるわ、一橋派はばんばんリストラされるわで、島津斉彬は憤りを感じまくり、とうとう兵を率いて上洛することを決心したのです。

紀州派は焦りました。事態は容易でない方向へ進んでいくこととなったのです。

斉彬は7月8日に鹿児島にて部隊の大演習をしましたが、なんと翌日に病気になってしまったのです。そしてそのまま16日に死去してしまったのです。

藩主となって7年半でした。

コレラとも言われましたが、あまりにもタイミングが良すぎたため毒殺説が流れました。

そして、斉彬の遺志は西郷隆盛へ引き継がれることとなるのです。
1859年7月20日 最初の夷人斬り!
ロシア使節であるムラビヨフの水夫ら3人が、横浜に食料を買いに上陸したところ、武装した日本人にいきなり斬りつけられるという事件がおきました。

夕方、人通りのある路上での出来事でした。1人は近くの店に飛び込み、なんとか助かりましたが、残りの2人はめった斬りにされ惨殺されたのです。

これが最初の「夷人斬り」となります。

幕府は謝りまくって葬儀&お墓を建てましたが、犯人は見つかりませんでした。

つい先日、開港したばかりで、尊攘派の志士たちの間では攘夷熱がすごいスピードで高揚していました。

また開港したおかげで物価が上昇しまくったもんだから、不満もめちゃくちゃあったのです。

この事件以後、外国人殺傷事件が相次いで起こる様になってしまうのです
1859年10月27日 吉田松陰死刑
安政の大獄において捕らえられた松陰は、死刑の判決となりました。

獄中で松陰は「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」という歌を書いた「留魂録」を書き残しました。

処刑の日、刑場に引かれていく松陰はまったく騒がす、平常のままでした。

そして首を斬られる前に鼻をかみ、27日午前10時に、首斬り浅右衛門の手によって斬首されたのです。

29日には桂小五郎・伊藤博文らが桶に入れられた松陰の死体と対面しました。顔が笑っていたと言われています。

高杉晋作・久坂玄瑞は涙を流し「先生の死を無駄にはしない!」と決意を固めたのです。とはいっても、まだこの頃は「倒幕」の考えはありませんでした。

そして松下村塾から育った門弟達は幕末の嵐の真っ只中へ向かうのです。
西郷隆盛 自殺を図る
京都清水寺の住職である月照(げっしょう)とともに朝廷工作をしていた西郷隆盛も、月照を助けようと京都を脱出させ、薩摩で匿おうとしました。

が、斉彬が死んでしまい、久光は隆盛が大嫌いだったため、薩摩藩の態度はむちゃくちゃ冷たく「月照を保護したら薩摩藩は幕府に睨まれるだろ!」と保護を拒絶したのです。

失望した西郷隆盛は月照とともに海で自殺しようとしました。

が、途中で助けられてしまい、隆盛だけが生き残ってしまったのです。

一命を取り留めた隆盛ですが、薩摩藩は「隆盛は死んだ」と死亡届を出してしまい、奄美大島へ島流ししたのです。

この後西郷は名前を変えて奄美大島で3年間おとなしくしてるのであります。

隆盛は斉彬が死んでも、斉彬を褒め続けました。

多くの家臣が久光にゴマスリをしてるというのに、隆盛だけは「私の主人は斉彬様だけです」と突っぱねたため、久光は隆盛が大嫌いだったのです。

クールな男 大久保利通
久光大嫌いじゃー!の隆盛と違い、うまく立ち回ったのが大久保利通。

利通は「権力のあるヤツに抵抗するのは無駄なエネルギーの消耗だ。文句言ったら睨まれるだけで損だよな。俺は久光に接近して信頼を得て久光をその気にさせたほうがいいや」と考えていました。

囲碁が好きな久光に接近し名前と顔を売り込みました。

ある時久光が平田篤胤の書いた「古史伝」という本を探しているという情報をキャッチ。

利通はその本を必死になって探し当てました。そしてその本の中に、意見書を書いて挟み、久光に渡したのです。

後日、利通は久光に呼ばれ「今後、私の側にきて仕事をするように」と命じられたのです。

利通は大喜び。久光の側近として働くようになりました。

働いているうちに、親友の西郷隆盛が悪口を言いまくっている久光像とはまた違った一面を見るようになるのです。

久光は実は「兄である斉彬の遺志を継ぎたい」と思っていました。

利通は「久光殿は隆盛が思っているようなバカなやつじゃないよな」と考え始めるようになっていくのです。
大獄で捕らえられた女性 村岡局(むらおかのつぼね)
本名は津崎矩子(のりこ)

幼少の頃から尊皇思想で、13歳の時に近衛家の侍女となりました。

才能もあり、また美人だったことから人気があり、右大臣の近衛忠熙からもすごく信頼されていました。

おばあちゃんになってから村岡と名前を変えました。

梅田雲浜は村岡局のことを「陽明家の清少納言だ」と言っていたそうです。

村岡局は「朝廷に力がなく、幕府が偉そうにしているなんて!」と常に嘆いており、朝廷の権威を取り戻すために力を発揮しました。

尊皇派の志士達の話しをよく聞き、将軍継嗣問題にも近衛忠熙を動かして口出ししました。

西郷隆盛と僧の月照を会わせたのも村岡局です。

安政の大獄が始まると、村岡局は隆盛と月照を京都から逃がしたということで、幕府に捕らえられたのです。

そして73歳という老齢でありながら、駕籠に入れられて江戸へ送られたのです。

江戸の評定所では厳しい糾問を受けましたが、自分の正義を貫き通しました。

結果、30日後京都に戻ってもいいってことになりました。

ですがその後の1863年にも再び捕らえられ、またも江戸の獄につながられましたが、のちに釈放。

以後は北嵯峨で静に暮らし、維新後88歳で亡くなりました。
安政の大獄の処分と処刑
井伊直弼の安政の大獄は水戸藩の処分に始まり、志士達のトップバッターとして梅田雲浜が逮捕者第一号となりました。

多くの志士達が京都を脱出しましたが、幕府の追及は厳しく多くの人たちが捕らえられました。

死刑となったのは8名。

吉田松陰・頼三樹三郎・橋本佐内・安島帯刀(あじまたてわき・水戸藩家老)・茅根伊予之介(ちねいよのすけ・水戸藩士)・鵜飼吉左衛門(水戸藩・京都留守居役)・鵜飼幸吉(水戸藩・吉左衛門の子供)・飯泉喜内(いいずみきない・三条家家臣)

尊攘派公卿の処分としては、左大臣近衛忠熙(ただひろ)と右大臣鷹司輔熙(たかつかささねひろ)は辞職させられました。鷹司政通(前関白)三条実万(さねつむ・前内大臣)は隠居となりました。

大名では徳川慶勝(尾張藩主)・山内容堂(土佐藩主)・松平慶永(越前藩主)・一橋慶喜(一橋家当主)が隠居・謹慎を命じられました。

徳川斉昭(前水戸藩主)が国元永蟄居となり、徳川慶篤(水戸藩主)が登城停止に。水戸藩は家老の安島帯刀(あじまたてわき)が切腹となり、水戸藩はボロボロとなってしまうのです。

川路聖謨(としあきら)は免職となりました。

ちなみに梁川星厳・頼三樹三郎と親交のあった医師 楢崎将作も捕らえられ獄死。

この楢崎の娘がお龍。あの坂本龍馬の妻となる女性です。父が死んだことにより、龍馬と知り合うこととなったのでした。

逮捕者の処罰は予想を超えた過酷なものとなり、死罪は8名。逮捕者は100人以上となりました。

大老・井伊直弼が幕府の権力を誇示するために行った、ものすごい取締りとなったのです。