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江戸時代その2 目次 年表 1614年〜1615年
大坂の陣の全て
  
参加武将 真田幸村
後藤又兵衛(基次)
長宗我部盛親
明石全登(あかしてるずみ)
毛利勝永(もりかつなが)
塙団右衛門(ばんだんえもん)
大谷吉治
豊臣家臣 大野治長
豊臣家臣 大野治房
豊臣家臣 木村重成
家康に従う武将達
1614年10月 家康 駿府を出陣
10月14日 「真田?親の方か子の方かっ!?」
11月 大阪冬の陣始まる
幸村 作戦却下される
幸村 真田丸を作る
11月19日 両軍衝突が始まる 木津川口の戦い
11月26日 鴫野(しぎの)・今福の戦い
12月3日 真田丸の攻防 前日
12月4日 真田丸の攻防  幸村の挑発
12月4日 真田丸の攻防
12月16日 淀君 大砲にびびる!
12月17日 夜討の塙団右衛門
12月19日 和議成立
和議の条件は!?
家康 幸村引き抜き作戦!
12月23日 約束が違う!豊臣家怒る
真田丸は?
1615年4月22日 徳川・豊臣決裂!大阪夏の陣始まる! 
4月 豊臣方仲間うちでモメる 
4月29日 塙団右衛門(ばんだんえもん)死す!
5月5日 家康動く!豊臣方 訣別の盃を酌み交わす
5月6日 後藤又兵衛死す!
幸村が到着するも・・・
木村重成VS井伊直孝
長宗我部盛親VS藤堂高虎
豊臣軍大阪城へ退却
5月6日 夜 真っ暗闇の豊臣方
5月7日 決戦 天王寺の戦い 決死の毛利勝永
真田幸村は!?
松平忠直VS真田幸村
真田日本一の兵
真田幸村死す
毛利勝永撤退!明石全登大慌て
豊臣軍 敗戦決定 
大野治長 最後の望み 助命嘆願する
5月8日 豊臣家滅亡
5月15日 長宗我部盛親斬首
5月21日 秀頼の子 国松斬首 
結城秀康の息子 松平忠直
バカのふりする三代目 バカ殿 前田利常
酒封じの神に 本多忠朝
千姫 その後・・・
真田十勇士




江戸時代 その2 1614年〜1615年 大坂の陣の全て
大阪の陣 豊臣方 参加武将
真田幸村
関ヶ原で父・昌幸とともに西軍につき、二代目将軍秀忠を上田城にて翻弄しまくった真田父子。

結局西軍は負けてしまい、秀忠をさんざん翻弄しまくり関ヶ原遅参という汚名までかぶせてしまったため、処刑されても仕方ないところを、東軍に参加した長男信之の助命により九度山へ幽閉されました。

幽閉生活は信之からの仕送りでまかないました。

が、元大名だっため、ある程度の生活レベルを送っていたため何かとお金がかかり、借金生活をしまくっていました。

幽閉生活だというのに、妾も囲ってました。

そんな生活の中、父昌幸は無念のまま病気になり死去。

そんな時、幸村のもとに豊臣家から味方にならんか?というお誘いがやってきたのです。

49歳になっていた幸村。

「このままここで死ぬのはイヤだ。父から教わった兵法もある。真田家の名をもう一度世に知らしめたい」と、その誘いを受けたのです。

そして九度山を脱出して、息子大助とともに大阪城へ向かったのです。

幸村は大野治長の屋敷へ行きました。

取次ぎの者は幸村のことを山伏と思い、そこに待たしていました。

すると何人かの若い侍達が刀の話しで盛り上がりだしました。

1人の若侍が「そこの山伏も刀を持ってるぞ!山伏の分際でどんな刀を持ってるのか見せてみろ!」と言い出しました。

幸村は笑いながら「山伏の持つ刀など、お目にかけるものではござらんが、まぁ、慰め程度に」と、刀を見せました。

その刀はすごくいい刀で、侍達はびっくり。

「こいつ何物だ・・?」と怪しみ始めたところへ、大野治長がやってきたのです。

治長は幸村を見ると、驚いて手をつき喜びました。

若侍達はさらにビックリ!

すると幸村が「どうかな?少しは目が肥えたかな?」と笑い、若侍達は顔を赤らめたそうです。

大阪城内において、実戦経験の多い幸村は他の武将らと格が違いました。

が、大阪城内の空気は悪かった。

大坂方は幸村ら新規召抱えの浪人を軽くみる傾向があり、真田イジメが始まってしまうのです。

後藤又兵衛(基次)
父は別所家の家臣でした。

別所家が滅んだため黒田如水の家臣となります。

幼い頃から利口だった又兵衛は、すぐさま如水のお気に入りに。

如水の息子 黒田長政と一緒に又兵衛を育てました。

あまりにも如水が又兵衛を可愛がるので、長政は又兵衛に対し嫉妬心をメラメラと燃やしまくるのです。

朝鮮出兵の際、黒田長政が敵将 李応九と取っ組み合いとなりそのまま河へ落ちていきました。

小西行長の家来が慌てて又兵衛に告げにきました。

すると又兵衛は河の近くに行き、日の丸の扇を片手に見物し始めたのです。

周りの家臣は又兵衛が慌てて助けに行くと思ってたので、驚いて見ていました。

ようやく敵を沈め、岸に上がってきた長政。

すると又兵衛はみんなに向かって「我らの主君は武勇に優れ、相手に引けを取るような方ではおらぬだろ?だから手出ししなかったのじゃ」と言いました。長政は苦々しい思いで又兵衛のことを生涯遺恨するようになるのです。

関ヶ原にて長政が出世し、又兵衛も1600石を預るように。

だけど、合戦の時黒田の家臣とは名乗らず、「後藤又兵衛」の名で戦った。

そして又兵衛の次男である佐門が長政の小姓となることになりました。

すると能楽を楽しんでいた長政が、佐門に小鼓の囃を命じました。

佐門は「私は武士であります。能楽師の引き立て役にはなれません」と辞退すると、長政は「主人の命令に従えぬのか!」激怒し佐門は屈辱を感じました。

が、主命に逆らえず言うとおりにしたのです。

これを聞いた又兵衛「なんだと!武士の心を知らぬ奴め!」と激怒し、黒田家を出て行ってしまうのです。

出て行った後の又兵衛は、武勇で有名だったため他家からスカウトがガンガンやってきました。

細川忠興は5千石出す!福島正則は3万石!さらに前田利家・結城秀康からも声がかかりました。黒田長政の下では1600石だったので、破格のスカウト料。

が、全て黒田長政の執拗な横槍にて邪魔されてしまうのです。

細川忠興においては、幕府が調停に乗り出すまでの大騒ぎとなりました。

又兵衛は仕方がなく軍学を教えるなどして生活費を稼ぎ、一時は乞食にまでなってしまうのです。

そんな状況の中、大阪城のニュースを聞き、大阪へ。

有名だったため、人望を集めまくり一気に豊臣軍のスターに。

秀頼や大野治長らもこんな強い人が来てくれるなんて!と大喜びしたのです。
長宗我部盛親
関ヶ原では東軍につくはずだったのに、行きがかりで西軍に入ってしまい、吉川広家の後ろにいたため兵を動かすことができぬまま敗戦。

とりあえず土佐に逃げ、仲の良かった井伊直政に頼み家康に謝罪したけど許してもらえませんでした。

なんとか、死罪は免れたけど土佐22万石全て没収となってしまいました。

家康により京都に送られ謹慎生活。

生活に困り寺子屋の師匠となるのです。

22万石の大名から寺子屋の師匠という屈辱的な生活を送っていた盛親。

入ってくるニュースは、旧領の土佐に山内一豊が入り長宗我部の家臣を虐げまくってるという噂ばかり。

この山内VS長宗我部の確執は幕末まで続きます。

幕末で詳しく説明しますが、長宗我部の子孫・家臣らは「郷士」と呼ばれ、山内家から入り込んできたのが「上士」。「郷士」はめちゃくちゃ差別され、上士は郷士を人間扱いしていなかった。雨でも傘をさしちゃダメとか、郷士に無礼討ちはOKとかね。ちなみに坂本竜馬らは郷士です。

話は戻って・・・。そんな中大阪からお誘いがきて、14年間の寺子屋生活ともおさらばし長宗我部再興のため二つ返事でOKするのでした。

実は「今度は徳川について戦功を挙げる!」と言ってたんだけど、徳川を欺き大阪へ入ったのでした。

大阪五人衆の中で身分が一番高いのが盛親でした。「土佐の一領具足」と言われ戦上手として有名だった長宗我部への西軍の期待はとても大きかった。

ちなみにこの時代に珍しく、身長180センチ。
明石全登(あかしてるずみ)
宇喜田秀家の家臣だった全登。関ヶ原では前線で福島正則隊と激戦したものの西軍敗戦。

宇喜田秀家の「小早川秀秋と刺し違えてでも殺してやる!!」ってのを必死になって止めたのが全登です。

全登はキリシタンだったため、同じキリシタンだった黒田如水のもとへ逃げ込みます。ちなみに親族でもあります。

が、いつまでもここに置いてもらうわけには行かない・・・と、遠慮したのか黒田家を出て、各地を転々とするのです。

そこへ大阪のニュースを聞く。

全登はやっと立ち上がるチャンスだと、大阪城へ。

目的は八丈島に流された主君 宇喜田秀家の解放とキリシタン弾圧の辞めさせ、信仰の自由を求めることでした。
毛利勝永(もりかつなが)
最初は信長の家臣だったんだけど、後に秀吉の家臣となります。

元は「森」という姓だったんだけど、毛利家に頼んで毛利の姓を貰いました。

関ヶ原では伏見城を攻め、活躍したものの西軍敗戦のため所領没収。

加藤清正のとこに逃げ込むが、仲良しの山内一豊が身柄を引き受けてくれるってことになり、土佐へ行きます。

山内一豊の元で、結構幸せに暮らしていたんだけど、自分の元領地だった小倉の商人がやってきて秀頼ピンチ!大阪城に助けに来てくれ!と言ってますヨ。というのを聞きました。

勝永は悩みに悩んで奥さんに相談

すると奥さんが「豊臣家のために戦いなさいよ!私も武士の妻よ!死ぬことを恐れなさんな!」

こうして勝永は恩のある豊臣家を助けるため大阪城へ向かうのでした。
塙団右衛門(ばんだんえもん)
加藤嘉明に仕えていました。

関ヶ原では加藤勢の鉄砲隊の大将を命じられました。

が、この頃鉄砲隊は女性がやるものといわれており、鉄砲隊大将に選ばれたことが屈辱的だった団右衛門。

なんと命令をそむき、鉄砲隊をほったらかしにし、敵中へ突っ込んだのです。

これに嘉明は「お前は一軍の将になる器ではない!」と激怒

むかついた団右衛門は加藤家を出て行ってしまう。

その後、小早川秀秋→松平忠吉に仕えるも、二人とも急死。

福島正則にも仕えますが、加藤嘉明が横槍を入れたため、仕方なく浪人生活を送るのです。

そして大阪のニュースを聞き、城へ入るのでした。
大谷吉治
関ヶ原で死んだ大谷吉継の息子。

父の死後、転々とし続け大阪城へ入りました。

真田幸村の妻が大谷吉継の娘だったため義兄である幸村と大阪城で10年ぶりくらいに会いました。

そして幸村の前衛として戦いに挑むのです。
豊臣家臣 大野治長
淀君にずっと仕えてきたのが大野治長。

秀頼は治長の子じゃないのか?という説もあるほど、淀君と秀頼を擁護し続けていました。

母は方広寺の時に出てきた大蔵卿局。

関ヶ原以後、豊臣家から重臣がいなくなると、発言力を増すようになっていました。

豊臣家臣 大野治房
上で紹介した大野治長の弟です。

お兄ちゃんの治長はマジメ系でしたが、弟はかなりの主戦派でした。
豊臣家臣 木村重成
秀頼の小姓。幼馴染でもあり、唯一の友達でもありました。

出自は不明ですが、父は殺生関白秀次の家臣だったらしく、秀吉によって処刑されたと言われています。

別の説では紀州の地侍の息子だったとも。

この時が初陣で、20歳になったばかり。

とても美少年で、大阪城のアイドルでした。

「丈高く、色あくまで白く、眉黒々と際だち、細い眼の眦(読み:まなじり)が凛と上がった美丈夫で、たぐい稀なる気品を備えていた」、と言われています。

後藤又兵衛が大阪城へ入ってくると、又兵衛の意見をよく聞き尊敬するように。

家康に従う武将達
関ヶ原の勝利チームはみんな家康チームに入りました。

が、家康は一抹の不安が

というのも「秀頼から味方になってくれって言われて、みんな断ったらしいけど、いざ合戦になったら裏切るヤツが出るかもしれんな」というもの

家康は少しでも豊臣方につきそうな可能性がある武将は江戸でお留守番させることに。

福島正則・黒田長政・加藤嘉明ら秀吉の元・家臣たちです。

さらに島津も要チェックでした。

また、他の外様大名も心の中は「前の関ヶ原の時は、負けた大名の所領をたくさんもらえたけど、今度は秀頼だろ。たった60万石くらいだもんなぁー。頑張っても恩賞ほとんどナシだよなぁ。だけど、やることやっとかないと家康殿の機嫌を損ねちゃうしなぁ」といった感じ

実際、伊達政宗なんかは建前上長男を連れてきたけど、肝心の合戦になると「大坂方は後がないから死にもの狂いで向かってくる。そんな危ないトコに後継ぎである長男を出せるか!万が一死んだら大変じゃねーか!」と、とりあえず連れて来たけど、表舞台には出さないように配慮してたのでした。

1614年10月 家康 駿府を出陣
家康にとって豊臣家滅亡の舞台は整いました。

大坂方挙兵を聞いた家康。

この時ちょうど風邪を引いていましたが、それを聞くなりガバっと起き上がり「この刀で秀頼の首を刎ねてやる!」と元気になったそうです。

10月11日 家康は駿府を出て途中で鷹狩を楽しみながら、23日に京都二条城へ入るのです。

一方秀忠は23日に江戸を出発し、11月10日に伏見城へ到着。

秀忠は関ヶ原遅参ということもあり、この時めちゃくちゃ兵を急がせたため到着した時兵はヘトヘト。

軍備もまともに整っていない有様。

今回は早く着いたので家康に褒めてもらえる♪と思ってた秀忠ですが逆にめちゃくちゃ怒られたのでした。

その他、伊達政宗・藤堂高虎も先発軍としてやってきていて徳川は20万軍。

対する豊臣は10万軍でした。

10月14日 「真田?親の方か子の方かっ!?」
家康は進軍中、「大坂方に真田が入った」というニュースを聞くと、思わず座り込んでしまいました。

そして「その籠城した真田は、親か?それとも子の方か?」と訪ねたのです。

使者は「親の真田昌幸殿は去年の夏に病死いたしました。大坂方に入ったのは息子の幸村です」と答えました。

家康はホッと一安心したのでした。
1614年11月 大阪冬の陣始まる
こうして、大阪冬の陣が始まるわけです。

豊臣秀頼はこの時22歳。

ですが実戦経験がなく、貴族的な生活をしていたため10万の軍を率いる総大将としては任務が重過ぎました。

淀君もしゃしゃり出て、自ら武装して城内を回ったり軍議に口を出したり。

実質的な大阪城内の総帥は大野治長でした。

が、治長も合戦経験があまりなく、結局豊臣方にはこれといった中心人物がいませんでした。

幸村らが軍事に口を出しても、治長らは口出しするな!という始末。

軍事指揮権を大阪方が握りっぱなしなのでした。
幸村 作戦却下される
徳川軍が動きだしたという情報をキャッチした大阪城では軍議が開かれました。

そこで幸村は出撃論を唱えるのです。

徳川がやってくる前に、秀頼自らが天王寺に旗を立て大阪城を打って出る。秀頼が前面に立てば豊臣恩顧の大名はやりずらい。そこへ後藤又兵衛が伏見城を攻め、その後合流し徳川軍を迎え撃つ!という作戦でした。

同じく後藤又兵衛も「それがしと真田に2万ほど人数を預け下され。」と幸村の出撃論に同意しました。

どう考えても大阪城側は人数的に不利。

とにかく秀頼さえ表に出せば、豊臣恩顧の大名らは強く攻撃できないだろうという考えだったのです。

が、この意見は大阪方に却下されてしまうのです。

「大阪城は難攻不落の名城である!籠城されても落ちることはない!」「秀頼殿に何かあったらどうするのじゃ!?」「家康は城攻めは得意ではない。」ということでした。

また大野治長にとって、大金をばらまいて浪人武将を大阪に召抱えたものの、外に出ちゃったらもしかしたら逃げるかもしれんし・・・という考えもあったのです。

幸村らは大野治長らの籠城論に真っ向から大反対しました。

ですが、秀頼・淀君が新規召抱えの浪人武将の意見より豊臣譜代の意見の方が大事じゃ!と、籠城戦を取るのでした。

そして徳川軍が迫ってきて大阪城を包囲するのです。
幸村 真田丸を作る
軍議で籠城と決まったからには、幸村も従わざるを得ない。

そんな幸村が目をつけたのは、大阪城の南側でした。

幸村は「大坂城は堅城だが、ただ唯一の弱点は大阪城の南」と思ったのです。

ここはわずかだけどなだらかな丘になっており、狙われるのはここしかないと幸村と後藤又兵衛はここに出城を造りました。

が、今度はどっちがこの場を担当するかでひと揉め。

2人ともここは大事なとこなので譲れん!と言い、険悪な雰囲気に。

すると城内で「幸村があの場所にこだわるのは、兄の信之と連絡を取り、城に敵兵を入れるためだ」という噂が・・・。

それを聞いた又兵衛は「命を賭けて重要な場を守ろうとしているのに何事か!そのような事を言うヤツラがいるから、城内での幸村の立場がどんどん悪くなるのだ!幸村は必死な思いで出城にて戦いを挑もうとしているのじゃ!」と激怒。

又兵衛は出城を幸村に譲りました。

この出城は幸村が担当することになったため「真田丸」と呼ばれるように。

それでも大野治長は「本当に幸村は徳川軍と内通してないだろうな?」と又兵衛に相談。

又兵衛は「そのような事はありえない。」と否定しました。

だけど治長は信用できず、真田丸の近くにある篠山という丘に幸村が寝返った時のために1万の兵を置くのです。

この時、幸村の目付け役となったのが伊木七郎右衛門。

もと秀吉の黄母衣(きほろ)衆だったため、大野治長も納得したのです。

そして幸村は、息子大助を率いて真田丸へ入るのでした。

この出城を見た家康は「真田の小せがれめ。嫌なところに出城をたておって」と、吐き捨てるように言ったのです。

11月19日 両軍衝突が始まる 木津川口の戦い
11月10日に家康は伏見城に到着し、15日に伏見城を出ました。

豊臣軍は大阪城周辺に砦を築き備えました。

11月18日に徳川軍の蜂須賀至鎮(よししげ)が、木津川口の砦から飯を炊く時の煙が少ないのでここを攻めたいと家康に進言。

家康は念を入れて浅野長晟と協力して攻撃しろと言いました。

が、蜂須賀至鎮は長晟と協力しあうのが嫌で、本多正信に相談。

すると本多正信が好きにしろといったため、蜂須賀軍は翌日6時に出撃と決まっていたのを抜け駆けして3時に攻め込みに行くのです。

浅野軍は約束どおり6時に向かいました。

が、すでに蜂須賀軍が抜け駆けしていたのです。

浅野軍は「抜け駆けしやがって!」と、急いで川を渡って向かったため溺死者が出まくってしまいました。

木津川口は明石全登がいましたが、ちょうど会議のため不在でした。

そこへ蜂須賀軍の襲撃に大混乱。

あっというまに奪取されてしまうのでした。

26日 鴫野(しぎの)・今福の戦い
大阪城の東である鴫野方面に向かっていた上杉景勝。

長旅を終えて休む暇もなく鴫野に行かされ、家康から「明日佐竹義宣と一緒に豊臣軍を攻撃しろ!」と命令されました。

同じ日佐竹義宣は大阪城北東の今福にいました。

そして明日上杉軍と合流し、豊臣を攻撃しろ!と家康から言われるのです。

上杉軍はというと、鴫野を軽く占拠。鉄砲隊を配備しました。

この時、丹羽長重が「一緒に協力して戦いましょう!」と景勝に言いましたが「他の家と共に戦うことは家法で禁じられている」と却下。

戦い後、家康は景勝に「疲れただろうから堀尾軍と交代しろ」と命じましたが「戦って手に入れた地を他人に譲ることはできん」と却下したのでした。

今福にいる佐竹義宣も頑張っていました。

豊臣家をことごとく打ち破りまくったのです。

この佐竹の快進撃を城内で聞いた木村重成。

速攻で佐竹軍のいる場所へ向かいました。

家臣たちは急いで次から次へと重成の後を追い佐竹軍のもとへ。

豊臣軍の数が増えていくのをみた佐竹軍。

慌てて上杉軍に援護を要請。

上杉軍は豊臣軍に向かって射撃をしまくったのです。

大阪側も負けてはいない。

後藤又兵衛が兵を率いてやってくると一気に兵の士気があがりました。

そして木村軍の兵士が上杉軍の射撃を恐れて伏せているのを見ると、自ら前に立ち「戦いとはこうするものぞ!」と上杉軍に射撃したのです。

これに兵らは勇気付けられ、木村軍の兵は一斉に上杉軍を打ちまくった。

そして又兵衛は木村重成と交代しようとすると、重成が
「交代すれば足並みが乱れる!私は初陣だが、このままやらせて欲しい」と又兵衛に言いました。

又兵衛は秀頼から「重成だけはなんとしてでも守れ」と言われていました。

が、重成の気持ちに答え、そのまま前線に置いておいたのです。

そこへ大阪城から大野治長らが鴫野方面へやってきて上杉軍に猛攻撃。

後藤又兵衛により豊臣の士気は高まりまくっていた上、新たな兵に攻め込まれ、激戦となりました。

一進一退の攻防が繰り広げられましたが、上杉が体勢を立て直し一斉射撃すると、豊臣軍は大阪城へ逃げて行きました。。

これにて鴫野方面の戦いは終了するのです。

その後上杉軍は苦戦している佐竹軍のもとへ行きました。

佐竹軍は前線を崩され、やばいことになっていましたが、上杉の援軍により体勢を整えました。

豊臣軍はこれはもう無理だとあきらめ、大阪城へ撤退したのです。
12月3日 真田丸の攻防 前日
12月3日 徳川秀忠は前田利常に対し、「篠山を奪取せよ」と命令。

これを受け、前田利常は本田政重隊を篠山に向かわせました。

後藤又兵衛もこの日、「徳川軍の動きが活発になっている。遊軍らは総攻撃に対処すべく出向くべき」と進言。

木村重成らが近くに陣を構え、来るべき攻撃に備えました。

家康はというと、藤堂高虎に命じて豊臣軍の南条忠成に内応を約束させました。

ですがこの内応は豊臣軍にバレてしまい忠成は処刑。

徳川軍の動きが筒抜けになるのです。
12月4日 真田丸の攻防  幸村の挑発
前田利常に命令され、篠山に向かった本多隊。

激戦を予想していたが到着すると、そこは誰もいませんでした。

本多隊の動きを見て、抜け駆けさせんぞ!と、同じ前田隊の横山長知隊と山崎長徳隊も篠山に向かいました。

横山・山崎隊が到着すると、本多隊が築山を占領終了。

両隊は功を焦り、このまま真田丸を攻撃してやる!と夜中に真田丸へと向かうのです。

焦った本多隊も慌てて追いかけました。

道に迷いながらなんとか真田丸に到着。

が、真田丸からは一行に攻撃がない。

真田軍はすぐさま攻撃したいと幸村に願い出ましたが、幸村は「まだ待て。眠っているフリをしろ」というのです。

そして少し時が経った時、幸村は城壁から
「これはこれは前田家の方々、篠山に行ったようですが何のために行ったのですか?鷹狩をにでも行ったのですかな?鳥はそなたらのバカみたいな発砲で逃げてしまったようですぞ?この出丸を守るは真田昌幸次男 幸村という浪人ですが、もしお暇なら我らがお相手いたしましょうか?」と挑発したのです。

そして真田の兵がどっと笑ったのです。

12月4日 真田丸の攻防 
これを聞いた本多隊の奥村栄顕は大激怒!

ここまでバカにされたもんだから、奥村は部下とともに壁を登ろうとしました。

すると、今まで静かだった真田丸が一気に猛射したのです。

前田勢は死者が続出。

奥村までもが大怪我を負いました。

本多隊に続けとばかり、横山・山崎隊も突撃。

ですが真田丸を攻撃する予定はなかったので、皆武器をあまり用意してなかったのです。

それにより死者が続出し、真田丸の猛射を受けまくり。

この真田丸の戦闘を聞いた井伊直孝と松平忠直は「我々も行かねば!」と軍を進め、真田丸の城壁を囲みました。

そこへ豊臣軍の兵が火薬箱を落としてしまうという事故が発生し、大爆発しました。

これを徳川軍は、前日内応の約束をさせた南条元忠の裏切りの合図と勘違いしてしまったから大変なことに!

(南条は、前日裏切りがバレ処刑されていた)

裏切りの手はずを整えていた藤堂高虎軍らが攻撃を開始し、徳川勢が殺到して総攻撃をしかけてきたのです。

対する豊臣方は後藤又兵衛が、近々総攻撃があると読んでおり、兵をきっちり移動させていたので、守りは完璧だった。

完璧なところに徳川軍がやってきたのです。

木村重成は井伊・松平軍を打ちまくり、さらに井伊・松平軍は真田丸からも狙い撃ちされ、とうとう撤退。

さらに幸村の息子 大助も大阪城から出撃し、松倉重政・寺沢広高軍を打ち破ったのです。

そこに松平忠直軍が助けにやってこようと進軍しましたが、城内から猛射撃を受けボロボロに。

城内からは後藤又兵衛・長宗我部盛親・明石全登が四方八方ガンガンと猛射撃。

徳川軍は死者続出となりました。

これを聞いた前田利常は、命令を無視して真田丸を攻撃したことを大激怒!

すぐさま撤退を命じるのです。

また家康も徳川軍に何度も撤退しろ!と使者が送りました。

ですが、みんな理性を失っており、兵らは周りの軍に負けまいと手柄を立てようと頑張るから、どうにもならない状態になっていたのでした。

午後3時になって井伊・松平軍が、これではどうにもならんと撤退をすることに。

そこでやっと他の軍も撤退するのでした。

まさに時の運を全て味方につけたかのような真田丸の攻防戦。

豊臣家の圧勝でした。

そして幸村の武名は天下にとどろいたのです。

家康は松平忠直の武将らを呼び、厳しく叱りました。

秀忠も井伊直孝の武将らを激怒しました。

家康は「真田の小倅め!」と、またしても苦々しい思いに。

秀忠は上田城攻防戦において真田に翻弄されまくった結果、関ヶ原遅参・・・を思い出し、歯がゆい思いをしたのでした。



12月16日 淀君 大砲にびびる!
家康は大阪城を力攻めにするには、真田丸が邪魔で仕方なかった。

大阪城に向けてトンネルを掘って、トンネル内で爆発を起こさせたり、精神的に苦痛を与えるため大砲をガンスカ撃ちまくった。

淀君は、はじめは甲冑を着て兵の見回りなんかをやってたけど、次第に大砲の轟音に悩まされていきました。

そこへ淀君らから追い出された片桐且元が、淀君のいる場所を家康に教えたのです。

そしてその大砲の弾がみごと淀君の居住に命中。

侍女7・8人が死亡してしまったのです。

これに淀君びっくりしちゃって、大野治長に和議しなさい!と言ってしまうのでした。
12月17日 夜討の塙団右衛門
この頃塙団右衛門は「敵に城を囲ませているだけじゃつまらん。蜂須賀至鎮に一泡吹かせてやろうぜ!」と、夜襲をすることに。

大野治房(治長の弟)が150人を選抜し、夜襲すべく城を抜け出しました。

そして蜂須賀の家臣 中村重勝隊を攻略目標としました。

そして夜襲隊は一気に攻め込み、あっという間に壊滅。

この時、団右衛門は用意しておいた木札を敵陣に撒き散らした。

それには「夜討の大将 塙団右衛門直之」と書いてあり、話題をかっさらったのです。
12月19日 和議成立
大砲に恐れおののいた淀君、精神的に参ってしまいました。

対する家康も、戦況はずっと膠着状態だし、なんせ寒いし、兵の士気もさがりまくっていました。また豊臣軍も兵糧などが少なくなってきていて、籠城するのがきつくなってきました。

大阪城内に精神的苦痛を与えるために、昼夜問わず大砲を撃ちまくり、その音は京都にまで聞こえるほどでした。そんな中で、家康は和議を持ちかけたのです。

城内では軍議が開かれました。

織田有楽・大野治長は和議派でしたが、浪人武将らは大反対!

ですが、秀頼・淀君が和議の意志を固めていたため結局和議が成立することになるのです。

和議の条件は!?
和議の条件はというと

1 大阪城の二の丸・三の丸を壊す
2 織田有楽・大野治長の息子を人質を出す
3 大阪城内の人々の罪は問わない

ということでした。もちろん真田丸も壊されることとなり、大阪城は本丸のみの丸裸になることに。

なぜ大阪城側がこの条件を飲んだかというと、二の丸・三の丸の堀は、豊臣方で埋めるというものだったからです。

ゆっくり年月をかけて埋めれば、そのうち家康が死ぬだろうと考えたのでした。

ちなみに福島正則はこの和睦を聞くと「あぁ・・・とうとうやられたか・・・豊臣はこれで終わりじゃ」と呟きました。

家康 幸村引き抜き作戦!
家康は、側近の本多正純に「真田の小せがれを寝返らせろ」と命令しました。

正純は幸村に「もし家康に属せば、信州10万石を与える」と言いました。

が、幸村は「ワシは今まで乞食同然の暮らしをしておりました。それを今回秀頼殿に召しだされ、真田丸の大将をおおせつかりました。それを名誉と思っております。家康殿に仕える気はございません」と返事したのです。

それでも諦めきれない正純は別の日に
「信州だけではなく、信濃一国を与える」と言いました。

幸村は「そのような身に余る光栄、ありがたく存じます。ですが一度約束した以上、利によって心を替えるのは武士として恥じるべきこと。今回この幸村は最初から勝てるとは思っておりません。討死覚悟でございます。もう二度と、こないでくだされ」と言ったのです。

家康はこの幸村の返事に、「一国を与えると言っても心を変えぬとは・・・。まこと忠義の武士じゃ」と感心しました。
12月23日 約束が違う!豊臣家怒る
和議成立後、家康は速攻で堀の埋め立て工事に取り掛かりました。

それは豊臣家にとってはびっくりする光景でした。

徳川方は約束を破って、二の丸・三の丸も埋め立て始めたのです。

埋め立て担当は本田正純。

豊臣方は抗議するも、「ぐずぐずしてるからお手伝いしてやんとんじゃ!おまえらが疲れてるだろうから、やってあげとんじゃ!」と豊臣方の意見を無視。

信じられないようなスピードで二の丸・三の丸を埋め立て勿論真田丸も壊され、とうとう翌年の1月19日 大阪城は本丸だけを残して丸裸になってしまったのです。

真田丸は?
家康が真っ先に壊したのが「真田丸」でした。

そして秀忠は「真田丸の古い材木で、ワシらの本陣の兵たちの暖を取らせようぜ!」と、考えました。

が、幸村は
「我々を守ってくれた材木が燃やされるのはしのびないな。」と言って、自分のとこに運んでこさせたのです。

憎い真田の出城の木材であったまろうと思っていた秀忠は、またもや「度重なる無礼な男め!」と、さらに腹を立てたそうです。
 


2月に駿府に戻った家康は、武器を大量発注。

そして3月になると、「豊臣方が埋め立てた堀を直している」「また浪人が大阪城に集まり始めている」という噂が・・・。

家康は「このまま浪人を大阪城に置いておいたらますます悪い噂が立ちますぜ?浪人を解雇したほうがいいんじゃないか?」と提案。

さらに家康は「浪人を辞めさせて、秀頼を国替えしろ」と言いました。

もちろん豊臣方は、国替えだなんてとんでもない!と断ると、またも両者に不穏な空気が漂うのです。

そしてとうとう、家康は豊臣家へ!

1615年 4月 豊臣方仲間うちでモメる 
丸裸となった大阪城内では、徳川は必ずやってくるだろう・・・ということで軍議が開かれていました。

幸村は「城はもはや丸裸である。今度こそ秀頼殿に立ち上がってもらわねば!徳川を迎え撃つ準備をしよう!」と、提案しました。

これには後藤又兵衛・長宗我部盛親も賛成。

が、またもや大野治長が大反対。

「豊臣が負けたらどうなる?豊臣の名を残すために、浪人を追放する!」と言ってきたのです。

これに後藤又兵衛も賛成しました。

怒ったのは大野治房(治長の弟)長宗我部盛親・毛利勝永らでした。

「兄貴(治長)のヤツ!名を残すなどかっこつけて言ってるけど、小大名に落ちぶれたとしても自分だけは家老として残れると思ってやがる!」

他の浪人武将達は「又兵衛は家康に嫌われてないもんな。もともと黒田家の家臣だし、ここで治長にヘコヘコしたら自分だけは助かると思ってんじゃねーの?その点、俺らは関ヶ原敗戦組みだぜ?殺されるっつーの!」と、いうものでした。

が、もはや家康は進軍してきている。

幸村は「今更ガタガタと言っても仕方がない!総攻撃をしかけるしかないであろう!」と、皆を一蹴。

いくら恭順しようが何だろうが、家康はもう近くまでやってきている。

こうして大阪夏の陣の火蓋が切って落とされることとなるのです。
4月29日 塙団右衛門(ばんだんえもん)死す!
豊臣方がまず狙ったのは、大阪城のすぐ近くにいる浅野家でした。

大野治長の弟である治房を大将とし、塙団右衛門ら3000の兵で出発。

浅野軍は佐野というとこで待ち伏せしましたが、兵がやってくると聞き大混乱。

ですが、豊臣方も塙団右衛門と岡部則綱が先鋒争いを始め暴走しまくってしまうのです。

樫井についた頃には、豊臣軍は疲労しまくり。

統制が全く取れていない豊臣軍は、みな勝手に攻撃しまくってしまい塙団右衛門は死去してしまうのでした。

塙団右衛門の死を聞き、豊臣軍は気落ちしてしまいます。
5月5日 家康動く!豊臣方 訣別の盃を酌み交わす
この日、家康が動き出しました。

大阪城をすっかり丸裸にした家康は「今回はすぐ終わるから兵糧は3日分でいいぞ」と言いました。

対する豊臣方は軍議が開かれていました。

後藤又兵衛は「堀を埋め立てられては籠城は無理だ。敵は大和路からやってくるだろうから、ワシは国分で敵を叩く。狭い道なので、ここを利用すれば勝てるかもしれん」と意見。

こうして先鋒である後藤又兵衛らが出発。

続いて幸村・毛利勝永・明石全登らが出発しました。

5月5日の夜 幸村と毛利勝永の2人は、後藤又兵衛の陣を訪ね「3人が死ぬか、家康・秀忠の首を取るか、どちらかになるまで戦おう」と訣別の盃を酌み交わし別れたのです。

徳川軍はというと、水野勝成を総大将とする3800人が5月5日に国分へ到着。

その後、伊達政宗10000人 本多忠政5000 松平忠明3800が続々と到着しました。
5月6日 後藤又兵衛死す!
午前0時。後藤隊が待ち合わせ場所である藤井寺に到着。

が、いくらまっても真田隊がやってこない。

ちょうど濃い霧が出たため、遅くなってしまったのでした。

これでは戦機を逃してしまうかもしれないと感じた又兵衛は、幸村を待たずにさっさと出発してしまったのです。

すると前方から徳川軍が進軍しているのに気がつき午前4時、攻撃を開始したのでした。

攻撃したのは徳川軍の奥田忠次。

忠次は戦死しましたが、続いて松倉重政がやってきました。

後藤隊は後がないため必死。

松倉隊を壊滅寸前まで追い込みましたが、水野勝成隊が駆けつけたためなんとかセーフ。

すると今度は伊達政宗隊がやってきたのです。

援軍が続々とやってきた徳川軍は猛攻撃を開始。

とうとう後藤隊の先鋒は壊滅。

もはや勝ち目がないと悟った又兵衛は「死にたくない者は今すぐ去れ!」と怒鳴りつけました。

が、殆どの兵が又兵衛の元に残ったのです。

誰も逃げず死を覚悟して突撃してくる兵らに徳川軍は驚きまくったそうです。

又兵衛は徳川軍に死ぬ思いで攻撃するも、数には勝てず、とうとう伊達軍の鉄砲隊に撃たれてしまうのです。

近くにいた兵は、負傷した又兵衛を担ぎ逃げようとしました。

ですが又兵衛は逃げる気はまるでなく、兵に「首を刎ねろ!」と命じたのです。

兵は又兵衛の首を刎ね、土に埋めました。

又兵衛が死んだことにより、後藤隊は続々と敗走。

徳川軍は追撃をするのでした。
幸村が到着するも・・・
明石全登らが道明寺に到着すると、後藤又兵衛の兵らが敗走してきました。

それと同時に追撃してきた徳川軍と激突。

その数に不利と見た豊臣軍は明石隊は撤退しました。

その頃、やっと毛利勝永隊が、最初の待ち合わせ場所であった藤井寺へ到着。

単独で戦闘するのはヤバイと判断した毛利勝永は、幸村の到着を待っていました。

霧のために遅れた幸村がやっと到着。

その頃「又兵衛討死」を聞いたのです。

幸村は大ショックで「ワシが霧のせいで遅れてしまったばっかりに・・・」と、涙を流したのです。

そこへ伊達政宗がやってきたのです。

伊達12000人 真田3000の大激戦が始まりました。

真田隊の勢いは凄まじく、とうとう伊達勢は撤退していったのです。

木村重成VS井伊直孝
同じ日、長宗我部盛親・木村重成らは、南下してきた徳川軍本隊を襲撃するために進軍しました。

その頃、徳川軍では藤堂高虎が進軍していました。

そして道明寺の方から銃声が聞こえたので、援軍に向かおうとしましたが、別方面からも豊臣軍がやってくるとい情報をキャッチしたのです。

豊臣軍はすぐ目の前。

藤堂高虎は家康に報告しているヒマなないと、兵を2つに分け、木村重成・長宗我部盛親へ向かわせました。

そして藤堂隊は木村隊とはち会い、戦いが始まるのです。

後のない木村隊は猛攻撃を開始。

藤堂隊は壊滅しました。

重成は追撃をストップさせ体力を温存することに。

この時、家臣が重成に「我軍は軍功を納めたので、一度城へ帰りましょう」と言いましたが、重成は「まだ家康・秀忠の両将軍の首を取っていない!こんな小さな勝利など意味がないのだ!」と一蹴したのです。

その頃、藤堂隊の後ろにいた井伊直孝軍が、前方に藤堂隊と戦い終わった後の木村隊を発見したのです。

そして先鋒隊が勝手に突撃してしまい、大乱戦が始まりました。

最初は互角に戦っていた木村隊ですが、兵も少ない上に疲れまくっていて、とうとう木村重成が首を取られてしまったのです。

大将のいない木村隊は、敗走者が続出。

井伊隊はこちらを追撃せず、標的を長宗我部盛親に変えたのでした。

ちなみに家康は、一度木村重成に会っており、その時の堂々とした礼儀正しい振る舞いに非常に感嘆していました。

そして重成の首が家康の所に届けられた時、重成の髪から高級な香の匂いが漂っており「まこと惜しき若者を失った」と涙を流したそうです。

涙を流したといえば、大阪城のアイドルだった重成が死んだというニュースを聞いた城内の女性も泣きまくったそうです。

長宗我部盛親VS藤堂高虎
兵を二つに分け、進軍してきた藤堂高虎。

盛親は、前方から藤堂隊がやってきたのを知ると「イヤな奴とはち会ってしまった・・・」と、愕然としました。

藤堂家と長宗我部家は、秀吉政権の頃、とても仲がよかったのです。

関ヶ原において長宗我部家が改易になってしまった時も浪人になってしまうのは気の毒だ・・・と、高虎は多くの長宗我部家臣を引き取ってくれたのでした。

当然、藤堂軍には盛親にとって旧家臣がたくさんいたのです。

中には、寺子屋の師匠になってからも仕送りをし続けてくれた旧家臣もいました。

気後れした盛親。

が、戦闘開始は時間の問題。

いつまでも昔の自分でいてはいけない。

土佐一国を自分の物とし旧家臣らを受け入れるためにも、自分が頑張らなければならない。

そこへ藤堂隊が攻撃を仕掛けてきました。

長宗我部隊の先鋒は、鉄砲を装備していなかったためすぐに先鋒は壊滅してしまいました。

勢いに乗った藤堂隊は長宗我部本隊に向かってきました。

盛親は藤堂隊を迎え撃つため、長瀬川に陣を置き、「オレが命令するまで、絶対に立つな!勝手に立った奴は殺すぞ!」と言い、兵を潜ませた。

そして藤堂軍が近づいてきた時に、盛親「立て!!」と号令。

一斉に長宗我部隊が立ち上がり攻撃。

その勢いは凄まじいもので、あっという間に藤堂隊先鋒を壊滅。

さらにどんどん前に突撃!

藤堂軍は大混乱で、次々と討ち取られました。

藤堂高虎までもが、必死になって逃げ回り壊滅寸前に。

するとそこへ長宗我部先鋒を破った藤堂隊が駆けつけ、なんとか高虎は立て直すことができたのです。

が、その後も長宗我部隊の勢いは素晴らしく、藤堂軍は敗走した方がいいかも・・と思った時に、木村重成隊を破った井伊直孝軍が援軍として現れたのです!

盛親は、このままだと我が隊は孤立してしまう!と撤退を決め引き返したのでした。

藤堂隊の被害はすごいことになってしまい、翌日大阪城攻めの先鋒を辞退しなければならなかいくらいでした。

豊臣軍大阪城へ退却

道明寺では真田隊をはじめ、両軍入り乱れての大激戦が繰り広げられていました。

真田幸村の息子・大助が負傷したもののなんとか頑張り続けていました。

そこへ午後2時ごろ大阪城からの使者がやってきました。

「長宗我部隊と木村隊が敗北してしまったので、急いで城に戻れ」という伝令が伝わってきたのです。

幸村らは仕方なく、4時頃撤退を決め、大阪城へ退却し始めました。

それを見た徳川軍の松平忠輝や本多忠政は追撃しようとしましたが、伊達政宗が「わしの隊は朝から戦いっぱなしで疲れまくってるので、追撃は無理だ」と追撃を拒否。

この日の戦いにおいて、豊臣軍は勇猛な武将を失いまくり、ダメージは徳川軍と比べ物になりませんでした。

6日夜 真っ暗闇の豊臣方
大坂城内の雰囲気は真っ暗でした。

後藤又兵衛・木村重成・塙団右衛門など多数の勇将を失い、長宗我部盛親も疲れまくっていて、前線に立てる力は残っていなかったのです。

盛親は自分の家臣に「オレは必ず生き延び長宗我部家再興のチャンスを待つから、お前らは逃げろ」と言うほど。

主戦力として戦えるのは真田幸村と毛利勝永・明石全登くらいでした。

幸村は大野治長の陣を訪れました。

「こうなった以上秀頼殿を出陣させ兵の士気を上げなければ、豊臣家は終わりです。明日は全軍を茶臼山から岡山口に並べ敵を撃破する。その間に秀頼殿が出陣し、家康本陣を目指して頂きたい。そして後ろから明石全登が回り込み、家康の背後を攻めてほしい」という作戦でした。

治長は「承知しました・・・・。」と弱々しげ。

毛利勝永は「最初から幸村殿の意見を聞いておけば、このようなことにはならなかったのじゃ!」と、罵りました。

そして今度こそ、秀頼が出陣することになったのです。

5月7日  決戦 天王寺の戦い 決死の毛利勝永
真田を筆頭に、毛利勝永・明石全登・大野治長・大野治房が布陣しました。

午前11時

戦闘の火蓋を切ったのは徳川軍の本多忠朝でした。

忠朝に対抗したのが毛利勝永隊。

この時勝永は幸村陣営にいました。

自分がいない間に戦闘が始まってしまったのを聞き、「作戦がめちゃくちゃになる!」と大慌て。

幸村とともに中止させようとしましたが、一度始まった戦いは激しさを増すばかり。

仕方なく勝永は、息子の勝家とともに忠朝隊を射撃しまくるのです。

毛利隊の勢いは凄まじく、本多忠朝隊は壊滅寸前。

とうとう大将の忠朝が討ち取られたのでした。

続いて毛利隊は小笠原秀政隊を突撃。

毛利隊の勢いは凄まじく、小笠原隊は大将を討ち取られ撤退。

次は保科隊に狙いを変え突撃。

後のない毛利隊は保科隊をも撃破。

さらに仙石忠政・榊原康勝らに突撃。あまりの毛利隊の勢いにすぐ敗走。

毛利隊は撃破しまくるのです。

そして後ろに控えていた酒井家次・松平忠良らに攻撃を開始。

こちらも決死の毛利隊にひるみまくり、敗走しだすのです。

そして毛利隊は家康本陣へ突入するのです。

真田幸村は!?
幸村はというと、毛利隊と本多隊の戦いを止めることはできず計画通りに事が運ばず困りまくり。

さらに困ったのはいまだに秀頼が家康からの講和の使者と会ったりしてしいつまでも出馬しない。

毛利勝永は戦闘を始めちゃったし、作戦はめちゃくちゃ。

もうオレはここで死ぬな。だったら華々しく討死しようと心に決めるのです。

それでもしばらく様子を見ていた幸村。

ですが勝永がすごい勢いで突っ込みまくってるのをみて、3500人の兵を率いて松平忠直15000人に突撃しました。

続いて大谷吉治らも突撃開始。

大激戦となるのです。

幸村は、14歳の息子の大助を城に戻し、秀頼に出陣するよう伝令役を言い渡しました。

この時、大助は「イヤです!わたしは父上と一緒に戦いたい!どうせ秀頼殿は出馬などしませぬ!行っても無駄でございます!それならばワタシは最後まで父上と一緒に討死したい!」と泣きながら言いました。

が、幸村はそれを許さなかった。

「それはならぬ。わしら真田一族は徳川に仕えておる。(幸村の兄が真田の正統な一族。兄の一族は関ヶ原で家康側につき、今回も家康側にいる)そのためわしらは秀頼殿に疑われておる!おまえが秀頼のもとへ行き、生死をともにすれば、われら真田の疑いも晴れるであろう!頼む大助!」と言ったのです。

真田丸の時に目付け役となった伊木七郎右衛門は、この様子を見て「哀れ大助よ・・・」と涙ぐみました。

こうして大助は父の願いを汲み、大坂城へ向かったのです。

が、大助の思いは虚しく終わりました。

必死な思いで大阪城に行き、秀頼に出馬を要請するも、側近の速水守久や淀君が「そんな大混乱しているところに秀頼を出せるか!」と出馬要請を却下したのです。
松平忠直VS真田幸村
3500人の兵で15000人の忠直軍へ突撃した幸村。

忠直は家康次男の結城秀康の息子で、前日の戦いの時藤堂・井伊の苦戦を見ていたにもかかわらず兵を動かさなかったため、家康にめちゃくちゃ怒られたのでした。

そして今日、その汚名を払拭しようと意気込んで戦いに挑んでいました。

が、戦術において幸村にかなうわけもなく忠直軍は押され始めました。

幸村隊と毛利隊の一部が攻撃しまくり、忠直隊を突破する勢いでした。

そこへ忠直の後方にいた徳川軍の浅野長晟が別の場所に移動したのを「浅野が寝返った!」という情報となって松平軍のもとに届いたから大混乱。

動揺しまくった兵たちは、忠直や家康の周りになだれ込んできたのです。

その大混乱に乗じて、幸村隊が忠直隊を突破し家康本陣へやってきたのです!
真田日本一の兵
真田隊は忠直軍を蹴散らし、家康の金扇の馬印めがけて突撃してきました。。

家康もこっちは15万人もいるから、まさか本陣までやってくるとは思っていませんでした。

本陣近くにいた旗本らも同様、戦う気構えができていませんでした。

そこへ真田隊がやってきたのです。

寝返りニュースによって大混乱な上に、幸村隊が本陣に突撃してきたため大混乱となり、みんな戦うどころかわれ先に逃げまくったのです。

幸村は「総大将である家康の首さえ討てば、大阪城は有利になる」と、ものすごい勢いで本陣へ。

その姿は家康の近くにいた島津家久が国許へ出した手紙に「真田の猛攻は、いにしえの物語でも聞いたことがないほどである。家康にむかい何度も挑み、敵を蹴散らし、皆逃げまくった。真田日本一の兵である」と書いたほど強烈でした。

さらに大久保忠教は自分の書いた「三河物語」では「三方ケ原にて一度だけ倒れた家康の旗は、以後倒れたことがなかったのに、幸村の攻撃において倒れた」とあります。

家康にとって、武田信玄に敗れた時以来の屈辱でした。

家康の金扇の馬印も倒されてしまい、とうとう家康は、この場から逃げ出したのです。

ちなみにこの時家康に従ったのは数名だけ。

家康はこの時死を覚悟したほででした。

大混乱の中、毛利勝永も家康本陣に到着。

が、すでに幸村によって荒らされまくった後でした。

勝永は必死に家康を探しましたが、すでに家康は逃げた後でした。

そこへ本多忠純隊がやってきましたが、毛利隊は一撃で撤退させたのです。

さらに家康本陣がやばいという情報を聞いた藤堂・井伊隊がやってきましたが、毛利隊はこの2隊をも撃破するのであります。

真田幸村死す
幸村は家康を追撃しましたが、混乱から立ち直った松平忠直が反撃してきました。

さすがに猛攻の後に次から次へとやってくる兵には勝てず、ついに真田隊は壊滅したのです。

幸村は戦いに疲れ安居神社で一休みしました。

そして疲れた兵らに薬を与えているところへ、松平忠直の兵である西尾久作に討ち取られてしまうのです。

無名の兵ともいえる西尾久作の手にかかって首を取られてしまうとは「日本一の兵」としては、あまりにもあっけない幸村49歳の最期でした。

そして大谷吉久も乱戦の中死んだのです。
毛利勝永撤退!明石全登大慌て
毛利勝永は幸村・大谷などの隊が壊滅したことを知ると、大阪城へ撤退を決めました。

そして途中で火薬箱に火をつけ、徳川軍を混乱させました。

その頃、明石全登は、総大将秀頼の出馬を待っていましたが、いつまで経ってもやってこない。

そうこうしているうちに豊臣軍が壊滅寸前。

毛利勝永が危ないという情報を聞き、急いで毛利隊の援護に向かい、松平忠直軍を撃破。

後ろにいる水野隊に襲い掛かりました。

が、すでに敗戦色は濃くなっており、これはもう無理だと判断した全登は戦場から離脱したのです。

ちなみにこれ以後全登の消息は不明。

徳川軍は敗走する豊臣軍を追撃し、大阪城へ迫りました。

一方岡山口にいる大野治長の弟 治房が秀忠の本陣へ向かっていた。

秀忠は「動くな」と家康に言われていたのでひたすら待機。

が、大野治房がやってきたのでバトルとなりました。

酒井田忠世と土井利勝が大野隊の前に出ましたが、捨て身攻撃である大野隊にあっけなく蹴散らされました。

秀忠は自ら戦おうと槍を持ちましたが、家臣らに止められました。

徳川軍は大混乱はみっともないほどで、のち秀忠らを馬鹿にした唄まで作るほど。

奮闘していた治房も、やはり多勢に無勢で撤退を決め大阪城へ逃げていくのです。

豊臣軍 敗戦決定 
午後4時になると、豊臣軍の敗戦は決定的となりました。

秀頼はというと、一応戦の用意をし門まで出たんだけど、その頃にはすでに豊臣軍総崩れとなっていたのです。

秀頼は総崩れの情報を聞き、いまさらですが「最後に華々しく戦って死ぬ」と言い出しました。

が、側近の速水守久に止められました。

そして大阪城内の台所頭が寝返って、火をつけたため徳川軍が一斉に城内へ乱入。

あちこちで火があがり、秀頼一行は山里曲輪へ逃げるのです。
大野治長 最後の望み 助命嘆願する
山里曲輪に逃げ込んだ秀頼一行。

大野治長は最後の望みを賭けて、家康の孫娘であり秀頼の妻である千姫を解放するかわりに、秀頼・淀君の助命嘆願をしたのです。

午後5時頃、千姫らを脱出させました。

千姫護衛についたのは堀内氏久。

そして堀内氏久の知り合いである坂崎出羽守のところに送り込ませ、千姫は家康の元へ送り届けられたのです。

家康は千姫のことがお気に入りだったので、可愛い孫娘が戻ってきたことに大喜び。

堀内氏久なんて敵だってのに、このお礼にってことで500石もらっちゃいました。

千姫は頼まれたとおり秀頼の助命嘆願をしました。

だけど家康はここで助命するわけにも行かず、追撃の手を緩めることはありませんでした。
5月8日 豊臣家滅亡
8日の朝、片桐且元が秀頼らの所在を発見し、秀忠に報告。

そしてその情報は家康の元に。

助命嘆願の結果を待っていた大野治長のもとに、井伊直孝がやってきて家康は助命はしないという返事をよこしたのです。

助命の道はなくなった秀頼。

そこへ勝利に酔っている徳川軍が発砲してしまいもはやこれまでと、秀頼・淀君は毛利勝永の手によって介錯。

最後までついてきた大野治長・毛利勝永・速見守久・真田大助らも秀頼の後に続いて自刃するのです。

これにより、豊臣家は滅亡。

応仁の乱から続いた戦国時代は幕を閉じたのです。

ちなみに毛利勝永の妻は捕らえられました、家康は勝永の武勇を惜しみ奥さんの命は助けたそうです
5月15日 長宗我部盛親斬首
最後の決戦である天王寺の戦いに参加せず、大阪城の守りについていた長宗我部盛親。

豊臣家敗北が決定的になると、長宗我部再起のため逃亡しました。

が、11日に京都に隠れているところを蜂須賀家の家臣に見つかり捕らえられてしまったのです。

そして見せしめのために二条城門外の柵に縛り付けられ、15日に六条河原で斬首されたのです。

子供が5人いましたが、全て捕らえられ惨殺。

秀忠は「なぜ自刀しなかった?」と問いました。

盛親は「オレは仮にも一軍の大将だ。みだりに死ねるか」と言ったらしい。

こうして土佐の長宗我部家は滅亡してしまいました。

盛親41歳でした。
月21日 秀頼の子 国松斬首 
秀頼には一男一女がいました。

千姫との間に生まれた子ではなく側室の子供です。

家康は秀頼に子供がいたことを知らなかったので大慌てで探しました。

そして娘を12日に見つけ、21日には伏見で隠されていた8歳の息子 国松を探し当てました。

家康は国松を京都中引き回し、六条河原にて斬首したのでした。

女の子の方は、千姫の助命により尼として鎌倉へ。のちに天秀尼となります。

豊臣家の血統は完全に絶えました。

徳川方武将 その後
結城秀康の息子 松平忠直
家康次男結城秀康の子。

秀康が1607年に死去したため家督を継ぎました。

2代目将軍秀忠の兄の家なので、特別扱いされまくり。秀忠の三女勝姫と結婚し、ますますVIP待遇に。

冬の陣では幸村の挑発に乗りまくりぼろぼろにされる。

夏の陣では、井伊・藤堂隊が必死になって戦っているのにお酒を飲んで寝過ごしてしまい、家康にめちゃめちゃ怒られました。

汚名返上のため最終決戦では幸村に挑む!一度は大混乱に陥ったけど、やはり人数が多いのもあり幸村隊を撃破します。

ご褒美として家康に名器「初花」をもらうんだけど、加増は一切なし。

忠直はおもしろくなく、不満がたまりまくる。

その後、家康の9男・10男が自分より格上の冠位をもらったことに大激怒。

ちょっとノイローゼ気味になってしまい、妊婦のおなかを切って胎児を見たり(殺生関白秀次と同じだね)家臣の奥さんを無理やり自分の物にしようとして、断られたら一族皆殺しにしたり・・・。

とどめは奥さんである勝姫を殺そうとしました。さすがにこれはヤバイと、家臣らは幕府に報告。

忠直は家督を嫡子光長に譲ることとなるのです。

でも、譲ったことで落ち着いたのか、余生は静かな人生をすごしました。
バカのふりする三代目 バカ殿 前田利常
前田利家の四男。

兄の利長から家督を譲られ、秀忠の娘と結婚。

13歳で前田家当主となりました。

大阪の陣では外様大名の中で一番の戦功をあげました。

でも冬の陣で真田丸にかなり翻弄されましたけどね。

前田家は外様の中で最大の領地を持っていたため徳川に警戒されまくっていました。

そのため利常は「馬鹿のフリ」をしていました。

鼻毛を伸ばしまくったり、皆の前でわざと失敗して失笑を買ったり。

そのため「前田家の今度の当主はバカなので、下手な真似はしないだろう」というイメージを持たせることに成功したのです。

前田家存続のためとはいえ、バカのフリも大変だったことでしょう。
酒封じの神に 本多忠朝
徳川四天王本多忠勝の次男。

関ヶ原では父の名に恥じぬよう活躍しました。

冬の陣では自分の担当する場所が悪かったので家康に場所を変えてくれとお願い。

すると家康「おぬしの父はいかなる場でも文句など言わなかった。父に似ずに役立たずめが!」と罵ったのです。

忠朝はこの家康の言葉に深く傷つき、夏の陣では汚名返上に燃えました。

そして翌日 忠朝は誰よりも先に攻撃を開始。

相手は毛利勝永。ですが後のない勝永も必死。

とうとう忠朝は毛利隊に首を取られてしまったのです。

忠朝の死を聞いた家康は自分の言葉が忠朝を死に追いやったとわかっており、「まっこと惜しい男をなくした」と涙しました。

ちなみに忠朝は酒癖がめちゃくちゃ悪く、飲んだ後いつも後悔してた。

死ぬ間際に「自分の墓におまいりに来る奴をみんな酒嫌いにしてやる」といったらしく、酒封じの神様として大阪の一心寺に葬られています。
千姫 その後・・・
この辺は逸話になっちゃいますが・・・

家康は大阪城炎上の際に「千姫を助けた者に千姫を娶らせる」と言い坂崎出羽守(直盛)が炎の中千姫を救出しました。

そして千姫と結婚できる♪と大喜び。

が、坂崎はこの時やけどをしてしまい、醜い姿に。

千姫は坂崎との結婚を嫌がり、さらに美男子で有名な本多忠政の息子 忠刻にヒトメボレ★

パパ秀忠は坂崎に千姫との結婚を破談にしてくれとお願いするも坂崎は納得せず、千姫を強奪しようとし失敗。殺されちゃうのです。

ちなみに坂崎は宇喜田秀家の家臣だったけど、宇喜田家臣団に派閥ができて家康が仲裁に入って、こぞって宇喜田家臣団を引き抜いちゃったって時の一人です。
真田十勇士
真田十勇士として有名な猿飛佐助・霧隠才蔵・筧十蔵ら10人。

これは作り話です。

甲賀忍者猿飛佐助がデビューしたのは明治時代に大阪で発売された「真田幸村」によって。

その後大人気となりました。